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Archive for 2011年9月

ここで、福島第一原発周辺を「死のまち」と会見で述べたことを契機にして辞任した鉢呂吉雄経済産業大臣についてみておこう。まず、鉢呂吉雄の言動を大々的に報道して辞任のきっかけを作った大手マスコミの一つである朝日新聞が、鉢呂吉雄が経済産業大臣に就任した9月2日直後、どのように報道しているかをみておこう。

まず、次の記事をみておいこう。2011年9月3日付朝日新聞朝刊で、「新内閣、難題の山」という野田内閣の課題を紹介する記事の中で、鉢呂吉雄の原発政策が大きくとりあげられている。

 

野田氏に起用された鉢呂吉雄経済産業相は、選挙区に北海道電力泊原発を抱えている。旧社会党出身で初当選以来、原発を「過渡的エネルギー」と位置づけ、自然エネルギー普及を訴えてきた。地元の民主党総支部は5月末、「脱原発」政策への転換を求める提言書をまとめており、経産省には「原発推進には慎重な立場」(幹部)との戸惑いもある。
 しかし、鉢呂氏も原発再稼働に反対する考えはないようだ。2日夜の就任会見で「基準をより厳格にして関係自治体の理解を得る」と述べ、稼働の最終判断をどのように行うのかについて首相と関係閣僚で協議する考えを示した。
 前政権では、再稼働を巡って菅直人首相と海江田万里経済産業相が激しく対立し、相互不信が残った。鉢呂氏はこの教訓を踏まえて2日、「首相とよく相談していく」と周囲に語った。当面は再稼働に向けた環境整備を進めながら、東京電力の原発事故の賠償などについて菅政権が敷いた路線を淡々と進めることになりそうだ。
 ただ、電力会社の地域独占体制の見直しや発送電分離といった電力供給システムへの抜本改革への対応は未知数だ。鉢呂氏は会見で「良い面、悪い面があるのかもしれない。議論する場が必要だ」と述べた。

この記事は興味深い。まず、とりあげていることは、鉢呂の選挙区に泊原発があり、彼が初当選以来、将来のエネルギーとして原子力に否定的であったこと、そして地元の民主党総支部が「脱原発」を主張していることである。つまり、鉢呂は、原発問題については、彼なりによく理解していたといえる。原発地元の選挙区では、原発推進の意見が主張されることが多いが、その中でも鉢呂は前から原発に否定的であったといえる。いわば「俄脱原発」ではないのである。

しかし、このことについて、この記事では、経産省幹部の言を借りて「戸惑い」を表明している。朝日新聞がすべからく全部原発推進というわけではないが、この記事を書いた記者は「脱原発」に「戸惑って」いるのである。

他方、次の二つの段落では、「鉢呂氏も原発再稼働に反対する考えはないようだ」「「首相とよく相談していく」と周囲に語った。」と述べており、やや安心したポーズを示している。この記事を書いた記者にとっては、「当面は再稼働に向けた環境整備を進めながら、東京電力の原発事故の賠償などについて菅政権が敷いた路線を淡々と進めることになりそうだ。」ということが原発政策の課題なのだ。

しかし、鉢呂が語る将来の電力政策については、「未知数」と語っている。この記者にとって、「電力会社の地域独占体制の見直しや発送電分離といった電力供給システムへの抜本改革」を語る場を設けることは「未知数」なのである。これらのことは、すでに議論されていて、「未知数」とはいえない。ただ、実行されていないだけともいえる。つまりは、このような改革は行うべきものではないということになろう。

その意味で、この記事は、野田内閣の一員として原発事故の補償をすすめながら原発再稼働をすすめていくだろうことは評価するが、鉢呂が自身や選挙区の意見をいかしつつ、脱原発も含めた電力供給システムの抜本改革を行うに警戒感を示しているといえる。

他方、2011年9月3日付朝日新聞朝刊は、鉢呂について、このように紹介している。

「一次産業のプロ」自任

経済産業 原子力経済被害
鉢呂吉雄氏 63
衆院 北海道4区
横路グループ

 国対委員長として、「ねじれ国会」に突入した昨秋の臨時国会を陣頭指揮。野党の日程要求を次々とのむ「べた折れ路線」で臨んだが、野党の協調は得られず、年明けの通常国会を前に交代した。
 旧社会党出身。元農協職員で「一次産業のプロ」を自任。支持者に農家が多く、環太平洋経済連携協定(TPP)への対応が焦点だ。地元には北海道電力泊原発があり、原発へのゆかりも深い。エネルギー政策の見直しとも向き合わなければならない。

この紹介記事では、後半が注目できるであろう。原発だけでなく、元来農協職員であり「一次産業のプロ」を自任する鉢呂にとって、TPP問題にどう向き合うかも問題であったとされているのである。

このように、そもそも、9月3日付の朝日新聞朝刊の描く鉢呂のイメージでは「脱原発」志向、「反TPP」志向があるのではないかと懸念されているといえる。そして、野田内閣の一員として首相や関係閣僚と協議して、原発再稼働を推進するならば評価するという姿勢を示しているといえる。そして、最後の一文は、このような記事を書いている朝日新聞記者たちの姿勢を現しているといえよう。

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さて、フランスに留学している友人が、最近、二本松市の米が暫定基準をこえた話を新聞で読んだフランス人から、次のような質問をされたそうだ。

福島とその周辺は放射能強いのに、何故農業できてその産物食べれるの?

彼は、子どものような素朴な質問だけに、答えに窮したといっていた。彼に子どもはいないが、子どもに質問されたら、とてもクリアな説明はできないと思ったそうだ。

実際、なぜ、そのような地で農業ができ、そこでの生産物を食べることができているのだろう。

ごく、シンプルに答えるならば、日本政府と福島県がそのような土地での生活と農業生産を是認し、さらに、放射性物質の含有量が暫定基準(放射性セシウム含有量500Bq/kg)以下の農産物の流通を許可しているからであると答えるしかないだろう。

福島県の農民としては、強制的退避地区でもない限りは、自主避難しても、現在のところ、補助金や補償金はでない。彼らの生業の資本は、福島県の土地であって、そこから離れたら、生活するすべはない。家や地域社会を維持したいという意欲もあって、放射線管理区域以上の土地であっても、農業を続けるしかないのである。

そして、政府のつくった暫定基準以下であれば、放射性物質が含有されたとしても、出荷するのである。そのことを、福島県は後押しするのである。

それでは、このような日本政府と福島県の対策が信じられるのであろうか。実際、現在の日本の人びとの意識は二つに割れている。

一つは、政府や県の対策を信用せず、可能な限り、放射性物質が含有された食品の摂取をさけようとする人びとだ。極端な場合は、福島第一原発周辺でとれたというだけで、一切忌避することすらありうる。これが、いわゆる福島県産物の買い控えということになるのである

もう一つは、政府や県の施策を、意識的にかもしくは無意識的にか信頼して、とりあえず、市場に出回ったものに多量の放射性物質が含まれることはないと想定して、通常とあまり変わらない消費行動をする人びとだ。

政府や県、さらに大手のマスコミは、暫定基準以下ならば健康に「直ちに」支障がないと喧伝し、放射性物質を含んだ食品をさけて福島県産物の買い控えしていることを「風評被害」とレッテルばりしている。「風評被害」を起こしていると考えられる人びとを、「愚か」で「同情心の欠落した」人たちとするのである。そう、政府や県の責任は不可視化され、福島県の人びとのために放射性物質を含有した食品を食べるようにと「説教」されるのだ。

このような構造を作ることで、政府、県、さらに東電の責任は軽減されていく。放射性物質対策は、極端に高い土地、極端に含有されている物だけに対してだけでよい。東電の補償金も同じである。

このような構造をささえているのは、低線量では、即時に影響はでてこないということである。放射性ヨウ素が子どもの甲状腺がん発病の原因となることは実証されているが、それとても、即時に発病するものではない。年単位はかかるであろう。その数年のうちに、官僚は人事異動し、政権は変わる。社長も変わるだろう。数年後の影響などは「想定外」のことであるということになる。基準だって「暫定」なのだ。

このようなことで、現時点でも、福島県では農業が行われ、そこでの産物が食べられているといえる。私個人は、福島県でも相対的に放射性物質が少ないところもあり、食品の種類によっては、ほとんど放射性セシウムが検出されないか、されてもごく微量しかないようなものは、そのことに確信がもてるならば、食べてもよいと思っている。少しでも、そのようにするために、検査体制や除染体制の確立が急務なのだ。しかし、放射線管理区域やチェルノブイリ事故時の自主避難地域なみの土地で農業生産が継続し、ある程度の放射性セシウムが含有されている食品が消費されていることが現状なのだ。

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福島第一原発事故が地域社会に与える影響は、どのような重さをもって受け止められているのか。福島第一原発事故の影響は、一時的なものと認識されているのか。それとも、かなり永続的なものなのか。現在、福島第一原発事故のために、根こぎにされた地域社会は、近い将来再建できるのか。それとも、かなり長い間、立ち入ることすら難しいのか。福島第一原発事故の地元住民を含め、このように、二様にわかれているのが現況であるといえる。

例えば、2011年9月5日付の朝日新聞朝刊の投書欄には、次のような記事が記載されている。

帰れるという期待抱かせるな

無職 石井優
(山梨県甲斐市 64)
 福島県富岡町にある自宅は警戒区域とされ、自宅に立ち入ることができない。先月菅直人首相(当時)が福島県に出向き、警戒区域は長期間帰宅困難に、また汚染物質の中間貯蔵施設を県内に造りたいと佐藤雄平知事らに告げた。
 2千坪の私の敷地には畑、果樹園、山林、深井戸があり、草は背丈まで伸び、もはや汚染どころではなかろう。
 そこで提案したい。一つは、警戒区域では地主の希望を聞いて、土地家屋の買い取りか借り上げを進める。二つは、福島第一原発の周辺に汚染物質を貯蔵することだ。
 私もこんなことを認めたくない。千葉県で教員生活を送り、定年退職し3年前に引っ越してきた。町への愛着心も強い。でも、もうだめだ。ことここに及んで、国が「帰れる」という期待を抱かせることがごまかしのような気がしてきたのだ。
 汚染物質も他の県で受け入れてくれるところはすぐ見つからないだろう。私は、原発に反対の立場だが、原発の作業員の安全を確保しながら近隣で貯蔵し、最終処分先を見つけるしかないと思う。

この投書者は、警戒区域にある富岡町から、かなり離れた山梨県甲斐市に避難していると思われる。現在のところ、有効な除染は難しく、さらに汚染物質の受け入れ先もないとして、現時点で警戒区域内への帰郷を断念し、警戒区域内の土地・家屋の買い上げ、借り上げをすすめ、福島第一原発の周辺に汚染物質の貯蔵所を設けることを提案していることが、この投書の趣旨である。この発言は、8月27日、菅首相が福島で表明した「一部地域『長期間戻れない』」「汚染土壌『県内に中間貯蔵』」(2011年8月28日付朝日新聞朝刊)という方針におおむねそったものといえよう。その際、投書者は「ことここに及んで、国が「帰れる」という期待を抱かせることがごまかしのような気がしてきたのだ」と述べている。

この投書に反論する投書が、くしくも3月11日からちょうど半年後の、2011年9月11日付朝日新聞朝刊の投書欄に掲載された。

「もうだめだ」とは思わない

無職 村田弘
(横浜市旭区 68)
 国は警戒区域に帰れるという期待を抱かせるな、という投書(5日)を読み、悔し涙がこぼれました。被災者にここまで言わせるのかと。
 投書者は福島県富岡町から避難、草に覆われた自宅を見て「もうだめだ」と思ったそうです。そして①国による土地家屋の買い上げか借り上げ②福島第一原発周辺での汚染物質貯蔵を提案しています。
 私も定年退職後、原発から16キロの同県南相馬市小高区に移り、「百姓見習い」をして8年になります。6月末避難先から一時帰宅した時、胸までの雑草に覆われ、鳥の鳴き声の絶えた農園を前に立ちすくみました。でも、私は「もうだめだ」とは思いません。
 二つの提案には断じて同調できません。菅政権の最後に発表された「年間推計積算放射線量」「土壌汚染地図」や、菅直人前首相の「長期帰宅困難」発言には「棄民政策」のにおいを感じます。
 怖い数字を並べて絶望感を誘うのではなく、きめの細かな汚染調査と科学技術の粋を結集した除染、納得のいく汚染物質処理計画を立てることが先でしょう。警戒区域約7万8千人の大半が帰郷を諦め、美しい故郷を「核のごみ捨て場」にすることを許すとはとても思えません。

この投書は、菅首相の打ち出した方針に反発しつつ、徹底的な除染と、汚染物質の県外移転を主張し、なるべく早期に「帰郷」させることを求めたものである。菅首相の方針に反発した福島県知事他各自治体の首長たちの発言と同様なものといえよう。

除染すれば、福島第一原発周辺の住民は帰郷できるのか。いや、除染すら難しいのか。そして、除染しても、その結果生じる汚染した土壌、瓦礫、植物などは、どこに捨てるのか。県外か、福島第一原発周辺に留め置くのか。

この二つの投書で示したように、地元住民も二つに分かれているといえよう。そして、その先には、重い問いがある。現時点では、福島第一原発周辺における地域社会の再建は諦めるべきか。いや、むしろ、除染などを徹底して、少しでも早期に「帰郷」できるように努力すべきなのか。そもそも、そのような「努力」すら可能なのか。逆に「努力」もしないで「希望」を放棄してよいのだろうか。

この時、ちょうど、福島第一原発周辺の自治体を「死のまち」と発言したことを契機にした、鉢呂吉雄経済産業大臣の辞任劇(9月10日辞任)が永田町で演じられていた。この辞任劇の背景には、このような福島第一原発事故の今後の影響をめぐる、見解の対立があったといえよう。

付記:パソコン修理中のため、多少更新が遅れることがあることをここで記しておきたい。

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さて、宮城県石巻市において、支援ボランティアを中心として、復興の象徴としてのひまわりを植栽する活動がなされていることを、前回のブログで述べた。

石巻市の北側にある、同じく津波被災地の南三陸町や気仙沼市では、やはり復興の象徴でありつつも、鎮魂の意味をもつ「はるかのひまわり」が植栽されている。

南三陸町の「はるかのひまわり」

南三陸町の「はるかのひまわり」


(南三陸 ホテル観洋のサイトより)

神戸新聞は、2011年8月11日に、次のような記事をネット配信している。

被災地結ぶヒマワリ満開 宮城・南三陸町 

花を咲かせた「はるかのひまわり」と牧野駿さん=7月30日、宮城県南三陸町
 1995年の阪神・淡路大震災で11歳で亡くなった女の子にちなんだ「はるかのひまわり」が東日本大震災の被災地、宮城県南三陸町の畑で花を咲かせ、被災者の心を和ませている。
 はるかのひまわりは、阪神・淡路大震災で亡くなった神戸市の小学6年加藤はるかさんの自宅跡地に咲いたヒマワリ。地元の人が育て、新潟県中越地震の被災地など各地に種が配られ、はるかさんのエピソードとともに復興のシンボルとして広がってきた。
 南三陸町に伝わったのは東日本大震災の後。同町の会社経営及川博之さん(64)が新潟市から炊き出しに来ていた親類の男性から種を受け取ったのがきっかけだった。合併前の旧歌津町長を務め、震災で長男(46)が行方不明となった牧野駿さん(72)が共鳴し、4月中旬から所有する高台の畑に地元住民と一緒に種をまき続けた。
 及川さんや牧野さんらは「三陸ひまわりの会」を立ち上げ、南三陸町と隣の同県気仙沼市の住民とともに国道沿いに種をまく運動を展開。1日には仙台市で開かれる防災をテーマとしたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の会合参加者にヒマワリの切り花も贈る。
 牧野さんは「住民の間で出会いや絆が生まれている。来年以降も続けていきたい」と話している。
特集】東日本大震災
(2011/08/01 10:00)

単純にいえば、1995年の阪神・淡路大震災において亡くなった小学生加藤はるかの自宅跡地に咲き、「復興のシンボル」となったひまわりの種を南三陸町や気仙沼市で植える運動が展開されているということなのだ。

この「はるかのひまわり」は、すでに神戸新聞の記事で言及されているように、元々は、阪神・淡路大震災の犠牲者の記憶なのである。この「はるかのひまわり」は、阪神・淡路大震災の記憶において、かなりメジャーなものになり、それを伝える絵本もある。まずは、絵本『あの日をわすれない はるかのひまわり』(指田和子作、鈴木びんこ絵、2005年、PHP研究所)から、「はるかのひまわり」についてみておこう。

『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

この話は、単純にいえば、阪神・淡路大震災で亡くなった小学生加藤はるかの自宅跡に自然に咲いたひまわりが「はるかのひまわり」とよばれ、復興の象徴になったということである。

まず、なぜ、「はるかのひまわり」と呼ばれるようになったか、経緯をみてみよう。本書はつぎのように述べている。

その年の 夏の ことです。
「ひまわりが さいた……」
ガレキが かたづけられた いえの あとから かえってきた おかあさんが、ぽつりと いいました。
うどんやの おっちゃんたちが、はるかを たすけだした あのばしょ(引用者注…助け出された時、すでにはるかは亡くなっていた)。
そこに、はるか みたいに まんまるの かおをした 大きな 大きな ひまわりがさいた。
「はるかの うまれ かわりや!」
おっちゃんも きんじょの ひとも いいました。

ーもしかしたら、それ、おとなりさんが かってた オウムの えさが こぼれんたかもしらん。なあ、はるか?

その秋、おっちゃんは、ひまわりの タネを しゅうかくしました。
そして つぎの年の 春から タネを まきはじめたのです。
ガレキが、すこしずつ かたづられた あとの
あきちや みちの はしっこに。
『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

まずは、「はるかのひまわり」は、震災で亡くなったはるかの「生まれ変わり」として認識されたことに注目してほしい。ある意味では、輪廻転生やギリシャ神話におけるアネモネになったアドニスなどがを思い起こされる。つまりは、神話的もしくは宗教的な意味が「はるかのひまわり」にはあるといえる。そして、この「はるかのひまわり」を植えることは、阪神・淡路大震災の犠牲者に対する一つの「鎮魂」ともいえるであろう。

他方で、この「はるかのひまわり」は、復興の象徴でもある。本書は、このように語っている。

震災の復興の花
 震災から6年目の2001年、神戸市で「KOBE2001 ひと・まち・みらい(神戸21世紀・復興記念事業)」という9か月にもわたるイベントが開催されました。これはたくさんの神戸市民が参加してつくりあげたイベントで、このイメージフラワーにひまわりが選ばれたのでした。ガレキのあとに咲いたあの「はるかのひまわり」は、震災からの一日も早い「復興」を願う人すべての心の花になったのです。
 この年、神戸ではいたるところにひまわりのタネがまかれ、夏にはおひさまのような黄色い花がまちをかざりました。その数150万本。これは、当時の神戸市民の数と同じでした。

このように、「はるかのひまわり」は、このイベントの中で震災復興の象徴となっていくのである。

さらに、この「はるかのひまわり」は、皇室によって正統化づけられていく。「はるかのひまわり」の普及活動を神戸で担っているNPO法人阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」のサイトは、次のように伝えている。

2009年12月 9日 (水)

はるかのひまわり報告

  5年前のお話 両陛下が神戸を訪問された時に 一人の少女より 
 皇后陛下のお手に はるかのひまわりの種と 指田和子さんの著書 
皇后陛下もご存知の「あの日を 忘れない はるかのひまわり」が
たくされてからの ひまわりがたどった日々が 平成22年1月2日 
月曜日 午前5時~5時40分に 
 フジテレビの皇室ご一家 新春スペシャルの
内で 放映されます ご期待下さい
http://117kibou.cocolog-nifty.com/blog/cat3051143/index.html

ある意味では、「はるかのひまわり」は、国家が認定したものになったといえるであろう。

なお、気仙沼市・南三陸町に「はるかのひまわり」を送ったのは「はるかのひまわり 絆プロジェクト」という団体だったようである。その団体のサイトでは、次のように、「はるかのひまわり」を普及する意義を語っている。

「はるかのひまわり」を育て採取した種を配布する過程で由来を伝え、災害の悲惨さと共に命の尊さを再考する機会とする事で、「人の尊厳」と「人との関わりの大切さ」を知る感性豊かな地域社会を醸成する事を目的とします。

阪神大震災での災害の教訓と命の尊さを、「はるかのひまわり」の命の連鎖に例え、実際にその手で育てる過程で、社会の最小単位である「家族」。咲いたひまわりを愛でる「見知らぬ人」。会社で育てる事で「社員」。そのひまわりを愛でる「近隣の人々」・・・・に出来事を伝えることで、少しでも地域社会での「絆」と、はるかちゃん、の「命」の連鎖を紡いでゆきたい。

そんな折に東北地方を襲った未曽有の地震と津波。
自然の営みには非情さと、人間にはかなわない力があるのでしょう。
しかし、人間には智恵と勇気と絆があります。
http://www.season.co.jp/haruka_sunflowerFB.htm

このプロジェクトでは、女の子よりひまわりへの転生の過程を、人間社会における関係性の連鎖とアナロジーで捉えているのである。

このように、宮城県の南三陸町・気仙沼市においては、阪神淡路大震災の記憶を源流とした、鎮魂と復興の象徴としての「はるかのひまわり」が植えられたのである。三陸ひまわりの会の中心人物である元歌津町長牧野駿の長男が行方不明であるということも想起されたい。阪神淡路大震災において、鎮魂と復興は、共に課題であった。そして、その課題を解決する象徴としての「はるかのひまわり」という伝統が、同様の状況にある南三陸町・気仙沼市に引き継がれたといえるのである。

付記:三浦博光「『はるかのひまわり』運動が生んだもの」(『世界』2011年8月号)には、地域の自生的な復興運動として「はるかのひまわり」が挙げられている。後述するつもりだが、被災地でひまわりの植栽活動が広まったのは、私自身も、だれでも参加できる復興運動としての意味合いがあると思われる。ただ、この論文には、「はるかのひまわり」がもつ思想史的意義が言及されていないのである。

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今年、福島・宮城・岩手県などの被災地では、多くのひまわりが植えられた。私は、もちろん、それほど被災地でのひまわりを見ていないが、インターネットで検索してみると、被災した多くの自治体や学校などで、ひまわりを植える活動を多くみることができる。さらに、ひまわりの種やプランターなどを被災地に送る運動もある。加えて、他県からきてひまわりを植えるボランティア活動すらあるようである。

もちろん、その一つが、福島県飯館村や伊達市などにおいて、放射性セシウムを除染することを期待してのことであることは言を俟たない。しかし詳しくは後述したいのだが、ひまわり植栽は放射性セシウムをほとんど吸着しないことが報道されている。さらに、そもそも、チェルノブイリ周辺において、除染効果を期待して植栽されているのはナタネであり、ひまわりではないようなのである。

他方、特別に放射性セシウムの除染が課題ではない、宮城県・岩手県の津波被災地にもひまわりを植える運動が生じている。そう考えてみると、そもそも、放射性セシウムの除染とは無関係に、ひまわりを植栽することが津波被災地で一般化していると思われるのである。

そこで、まず、私が見た、石巻市市街地におけるひまわり植栽からみてみよう。私は、7月26日に石巻市市街地を訪れた。石巻市市街地も津波に襲われたところであるが、立町大通りなどの目抜き通りは、概して原形を保った建物が多かった。その一つで、立町大通りに面して建てられている「あいプラザ・石巻」(社会福祉施設)の門前に、ひまわりが植えられている多くのプランターがあったのである。

今、石巻市関係のサイトをみると、さまざまなところに、ひまわりが植えられているようだが…。そこにはひまわりのプランターが多く集められており、突出していた。東京工業大学真野研究室が作成した『石巻まちあるきマップ』でも、わざわざ、あいプラザ石巻前に赤い破線でかこって「ヒマワリ」という表示がなされている。

石巻まちあるきマップ1

石巻まちあるきマップ1

このひまわりのプランターには、寄贈した人の名と住所が書かれていた。この写真は、あいプラザ石巻のブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/iplaza0294/MYBLOG/yblog.html?m=lc&p=1)に掲載されたものである。これなどは、カリフォルニアの人が寄贈しているようである。

石巻のひまわり(2011年6月9日)

石巻のひまわり(2011年6月9日)

そして、私の行った7月後半には、次のような花を咲かせていた。あいプラザ石巻のブログでは、「すべてのひまわり達が、きれいに花を咲かせてくれますように そして、石巻が少しでも明るくなりますように」(2011年7月27日)と書かれていた。いわば、ひまわりが花を咲かせることについて、石巻市が明るくなっていくことの象徴としてとらえられているのである。

石巻のひまわり(2011年7月27日)

石巻のひまわり(2011年7月27日)

このブログには、「このひまわり達は、ゴールデンウイークにボランティアの方や地域のみなさんに植えていただいたもので、たくさんのパワーが詰まったひまわりなんです。」(2011年6月9日)とあり、あいプラザ石巻のスタッフではなく、他地域からのボランティアや地域住民によって植栽されたものであることがわかる。中でも、他地域からのボランティアが率先して、ひまわり植栽を行ったようである。例えば、8月13日、神戸新聞は、次のような記事をネット配信している。

佐用出身の女性 石巻に希望のヒマワリ咲かせる 

 広大なヒマワリ畑で知られる兵庫県佐用町出身の女性が、東日本大震災で被災した宮城県石巻市にヒマワリの花を次々に咲かせている。故郷を染めた黄色い大輪を思い、「被災地の希望となって」と願いを込める。(若林幹夫)

 被災直後から現地入りしたボランティア団体「め組JAPAN」の井上さゆりさん(26)=東京都。佐用町海内出身で、100万本以上を咲かせる旧南光町にある三土中学校にも通っていた。

 東京で看護師をしていた井上さんは震災のあった3月12日、現在の実家がある大阪市内に向かう途中、ボランティアとして被災地入りを目指す知人に出会った。佐用町が大きな被害を受けた一昨年の県西・北部豪雨では、当時取り組んでいた植林ボランティアが多忙で、すぐに駆け付けられなかった。このときの後悔もあり、石巻には被災5日後に入った。

 混乱の中、避難所の把握や支援のニーズ調査を始め、物資配給や家屋に入った泥のかき出しなどにも取り組んだ。復興へ少しずつ歩み始めた5月、「泥だらけの町に彩りを取り戻したい」とヒマワリを植え始めた。

 まだがれきが残り、ほかのボランティアからは「石巻のためになるのか」と批判も受けたが、インターネットで活動を知った佐用町出身の女性から南光のヒマワリの種約1キロが届いた。

 何よりの励ましになった。全国から数万粒の種が集まり、賛同する仲間と街角や道路の中央分離帯に植え、被災者にも配った。芽が出て少しずつ成長する様子に「勇気をもらえる」と被災者が喜んでくれた。

 井上さんは体調を崩したこともあり、7月いっぱいで被災地での活動を終えた。名残惜しいが、「種が取れ、また来年も花を咲かせてくれると思う。復興を発信する何より強いメッセージになると信じています」と話していた。

【特集】東日本大震災

(2011/08/13 13:32)

インターネット上では、被災地にひまわりを植える運動が多数紹介されており、石巻も多い。ゆえに、この団体だけではない。ただ、とりあえず、「『泥だらけの町に彩りを取り戻したい』とヒマワリを植え始めた。」、「『種が取れ、また来年も花を咲かせてくれると思う。復興を発信する何より強いメッセージになると信じています』と話していた。」という意識ではじめたことは、その他の団体にも共通していると思う。「ひまわりで町に彩りを戻すこと」は「復興」を発信するとボランティア側は考えているのだ。そして、それは、独り善がりではなく、「芽が出て少しずつ成長する様子に『勇気をもらえる』と被災者が喜んでくれた。」と、被災者側にも共有されていたといえる。

ここであげられているボランティア団体「め組JAPAN」のブログ(http://maketheheaven.com/megumijapan/?page_id=32)の7月17日の記事をみてみよう。、

【SEEDS OF HOPE班】

活動概要:平和への祈り、復興への祈りを花に託し、世界同時でスタートした希望の種蒔きプロジェクトです。被災地では、地元の人と一緒にひまわりを植え、その成長を見守っています。

活動場所:

作業人数:鹿妻7人+牡鹿18人

活動内容:牡鹿鮎川公民館でひまわり苗植え

鹿妻小学校の花壇整備、種蒔き

素晴らしい花壇ができました。花壇の周りをブロックで囲み、粉炭と培養土を混ぜ、種を植えれる状態にし、みんなで植えて来ました。

明日は炭を粉末にする為、炭を砕く作業と8月1の川開きに駅前で並べるひまわり探しをしに小学校を回る。

【EM・竹炭班】

活動概要:

活動場所:地区

作業人数:

活動内容: 鹿妻小学校でひまわりの手入れ

「平和への祈り、復興への祈りを花に託し、世界同時でスタートした希望の種蒔きプロジェクトです。被災地では、地元の人と一緒にひまわりを植え、その成長を見守っています。」ということで、平和と復興を祈願することを目的としていることがわかる。しかも、この日、この団体では45名石巻に滞在したが、そのうち25名が、この活動に参加している。つまりは、ボランティア人員の半分以上を、ひまわり植栽に費やしているのである。

石巻市における、このひまわり植栽には、福島県での放射性セシウム除染や、岩手県の一部で期待されている塩害除去などは一切想定されていない。より海辺に近い、石巻漁港前の大通りの中央分離帯にひまわりを植える際には、わざわざEM菌という菌をまいて、塩害除去をはかってから、ひまわりを植栽しているのである。

まさに、復興の象徴としてのひまわり植栽であり、文化的意味のみをもっているのである。そして、かなりの労力が、このひまわり植栽に費やされているのである。

さらに、ひまわり植栽には、1995年の阪神・淡路大震災の記憶を前提とした、鎮魂という意味も含まれている。次回は、宮城県気仙沼市・南三陸町などを中心とした、「鎮魂」の象徴としてのひまわりをみていこう。

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さて、1923年の関東大震災において、被災者が自力で被災地にバラックー仮設建築物を建設したこと、そして、それが生活者としての被災者それぞれにとっての復興の開始であったことを述べてきた。当時の政府は、バラック建設を容認しただけではなく、用材供給という形で支援していたといえる。そして、帝都復興区画整理事業でも、減歩による道路・公共用地の確保という全体的な方針は維持しつつも、被災者が地域で再び生活することを考慮していたことを指摘した。

当時のバラックの景況について、震災・戦災について展示している東京都復興記念館が写真を展示している。ここであげておこう。実際に焼け跡のかなりの部分がバラックで埋め尽くされていたことがわかる。

震災直後のバラック(東京都復興記念館にて展示。2011年9月17日撮影)

震災直後のバラック(東京都復興記念館にて展示。2011年9月17日撮影)

1924年1月に、本建築建設も許可されるようになった。また、それ以降は、バラック建設も地方長官の許可制となった。しかし、区画整理が遅延しており、区画整理前に現実に本建築建設が認められることはきわめて少なかったと、田中傑の『帝都復興と生活空間』(2006年、東京大学出版会)は語っている。

結局、バラック建設に頼らざるを得なかった。バラック建設の着手は、1924年2月に延長された。さらに1924年8月には、区画整理の換地処分決定までバラック建設ができるようになった。そして、撤去期限も通常1933年8月となった。

そして、バラック自体も掘建小屋以上のものが建てられるようになった。そういう状況において、1925年1月に政府は「本建築以外ノ工作物築造物願処理方針」をだし、よりバラックについての規制を強めた。そこでは、換地処分が決まっている場合は換地予定地以外にはバラック建設は認めない、換地が決まっていない場合においては、煉瓦造、石造、鉄骨造、RC造以外で、建坪合計50坪以下もしくは建築延坪当たり平均単価120円を超えないという制限がかけられた。基本的に、換地処分以前においては、簡易に除去・移転できる構造で、建築費用も安価なものがバラックとして建築が認められたのである。

結果的に、バラックは約23万戸建設された。区画整理の障害になったそれらのバラックはどうなったのだろうか。撤去されてしまったのであろうか。撤去されたものもあるのだが…大半はそうではなかった。

大半のバラックは、区画整理による換地先に移転されたのである。これは、かなり大がかりなものであった。まず、軍の偵察機を借りて、復興事業を担当する復興局は、詳細な航空写真をとって、バラック移転計画を作成した。移転先も、また移転経路にもバラックが建設されていることが予想されるので、これは、大変な作業であった。そして、田中によると「多くの場合、バラックは部分的に除去して小さくした後、ジャッキアップし、轆を用いて換地先へ曳家された」(田中前掲書p165)としている。区画整理は、いずれにしても公共用地確保のために減歩するので、前の敷地において建設されたバラックは、小さくしないと移転できない。そこで、部分的にバラックを除去して小さくしてから、そのバラックを曳家して、移築するのである。

このような建物移転は、1927年から本格化し、最盛期の1928年8月には一日当たり500棟、合計1万5252坪の建物が移転したという。東京市では総計20万3485棟のバラックが移築された。戸と棟とは多少違いはあるが、まず大半のバラックは区画整理の換地先に移転されたのである。

バラック移築中、被災者は、国と東京市が用意した臨時収容家屋に住んだ。また、移転工事費・動産移転費・休業損失費など1坪当たり43円20銭が支給された。バラック建築費が120円以下と規定され、それに比べると被災者それぞれには家屋新築費にもならない金額であったが、移転したバラック建築面積が340万坪であり、総額では1億円かかった計算となった。当時の国家予算が約17億円弱であり、かなり大きな財政負担となったといえよう。

結局、区画整理事業で、街路は拡幅されたが、建てられた建築物の多くはバラックであったというのが、関東大震災の復興事業であったといえる。関東大震災は火災によって被害が拡大したのであるが、結局のところ、建物の不燃化率は、震災前よりも低下した。田中は「この間、建築物の不燃性能の点では、神田区、日本橋区、京橋区で1920年時点の棟数比で17~27%という水準から3~4%程度へと著しく低下した」(田中前掲書p116)と述べている。

バラックを改築して本建築にすることも進まなかった。そして、本建築といっても、木造建築物が多かったと思われる。次にあげるのは、現中央区築地に1930年に建設された商家である浜野家住宅である。

浜野家住宅(2011年1月15日撮影)

浜野家住宅(2011年1月15日撮影)

中央区のホームページでは、次のように紹介されている。

濱野家住宅
  区民有形文化財・建造物
  所在地:中央区築地七丁目10番8号
地図はこちら(電子マップ「ちゅうおうナビ」へ)

 濱野家は、海産物を扱う商家として、昭和5年現在地に建てられました。
 入口には、人見梁という背の高い梁がかけられ、軒は出桁造 という形式になっています。また、以前は、家に入ってすぐの場所が広い土間になっていて、鰹節 を入れた樽が山のように積まれていたといいます。
 濱野家住宅は東京の古い商家の造りを今に伝える貴重な建造物です。(内部非公開)
http://www.city.chuo.lg.jp/info/bunkazai/bunka002.html

つくりからみて、バラック建築とは思えない。本建築であろう。しかし、それでも、木造二階建てで、むしろ江戸的な家屋なのである。港区愛宕、中央区築地、中央区月島など、戦災をまぬがれた震災復興期の市街地は多少残っている(ただ、いまや再開発でほとんどが消滅していこうとしている)が、多くの建物は、銅版張りやモルタルで防火をしている建物はあるものの、それらを含めて、ほとんどが木造なのである。

このような震災復興のあり方は、防災上大きな課題を残した。ほとんどが木造家屋の町並みでは、空襲による戦災を免れえなかったのである。ある意味で、市街地の建築物のあり方は、バラックの移転などを認めるなど、被災者の生活を配慮したものであった。しかし、それは、将来の災害を防ぐという観点からは、問題をはらんでいた。それは、現在の津波被災地における、将来の防災のために住宅の高台移転を促進しようとする動きと、仮設店舗建設など早急に住民生活を再建させなくてはならないとする動きとの相克をある種先取りしていたとみることができる。

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前述のように、関東大震災後においは、焼け跡ー被災した市街地は、被災者が自力で建設したバラックー仮設建築物で埋め尽くされていた。このような中で、1924年より、帝都復興事業として、帝都復興区画整理が開始された。

帝都復興事業についての詳細は、別の機会について述べたい。ここでは、当初の計画が、帝国議会においてかなり予算が減額されたことを述べるにとどめておく。

帝都復興区画整理事業について、前回のブログで前述した田中傑の『帝都復興と生活空間』(2006年、東京大学出版会)が、最初に開始された第6区画整理地区(神田区駿河台)をもとにその特徴を述べている。この地区では15本の道路が新設され、8万坪の宅地より新たに1万坪が道路用地に編入されたが、用地買収は行われなかった。

区画整理は、地権者や住民がそれぞれ敷地を出しあい(減歩)、それを公共用地にあてるという仕組みであるので、用地買収をしなかったのは当然である。しかし、減歩される地権者や住民は反対した。そこで、帝都復興区画整理事業においては「価格換地の原則」が打ち出されていた。つまり、同じ面積の換地を与えるのではなく、同一価格の換地を与えるということである。そうしなければ、買収せずに新たな道路用地を捻出することはできないのである。この仕組みは、現在の区画整理にも受け継がれている。

しかし、田中傑は、実際の運用は違っていたと述べている。

…ところが実際の換地交付では、従前の所有地面積を勘案しての換地(面積換地)も行われた。それに加え、本来は換地を交付せずに金銭整理されるべき極小な土地に対しても換地をなるべく交付した。換地設計の原則から逸脱したこれらの措置は、住民が区画整理後も地区内に残ることができるように配慮した結果である。第6地区区画整理委員会の審議過程においても、地区内にあった開成中学校を地区外へと転出させたり、地区内の土地を買収して公共用地に充てる(潰地の充当)ことで減歩率を下げるなど、地権者の不満をかわすための措置がみられる。
 以上のように、区画整理の実施にあたっては事前に定めた換地設計の原則には必ずしも縛られておらず、居住者への臨機応変な配慮がなされていた。…(本書p162~163)

このように、現実には、公共用地を買収せず減歩で捻出するという区画整理の仕組みは守りつつ、地権者や住民の反対も念頭におきながら、住民が少しでも居住地に住むことができるように配慮して、帝都復興区画整理事業はなされたのである。

なお、参考のために『港区史』下巻(1960年)に掲載されている、「第25地区換地位置決定図」をここであげておく。ここは、現在の港区愛宕ー虎ノ門の南側、東京タワーの北側ーを中心とした地区である。黒く塗りつぶされた土地が減歩によってあらたに道路となったところである。

第25地区換地位置決定図(1926年)

第25地区換地位置決定図(1926年)

さて、この区画整理事業の実施にあたり、焼け跡に立ち並んでいたバラックー仮設建築物は、どのようになったのであろうか。これについては、次回以降のブログでみておこう。

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津波によって沿岸の各市町が大規模に被災された宮城県において、都市計画の実施をみこんで広範囲に建築制限が適用されたこと、しかし、財源・制度など、とても宮城県レベルでは決定できない問題を抱えてしまっており、都市計画のグランド・デザインが描けない自治体が多く、先の見込みのないままに、建築制限が適用されつづけ、結果的に被災地の復興の妨げとなったことを、このブログでは以前みてきた。

それでは、震災からの市街地の復興は、歴史的には、どのようなものであったのだろうか。ここでは、1923年の関東大震災による市街地復興のあり方をみていく。関東大震災における市街地復興は、後藤新平が中心として実施された「区画整理事業」を中心に議論されてきた。そして、このような議論においては、後藤新平の先進性や指導力が高く評価されている。たぶんに、村井嘉浩宮城県知事の大規模再開発構想も、たぶんに1995年の阪神・淡路大震災の復興過程を念頭にしているのだろうが、歴史的な源流としては、関東大震災の復興過程にたどることができよう。

しかし、震災復興について、財源問題について帝国議会は減額し、後藤新平の計画は構想よりは限定したものになったことも指摘されている。

他方で、震災に襲われた町々の生活者の側からみた「復興」とはどのようなものであったのか。2006年に出版された田中傑の『帝都復興と生活空間ー関東大震災後の市街地形成の論理』(東京大学出版会)は、今までほとんど検討されてこなかった、町々のレベルでの復興を正面にすえて検討した力作である。

少し、本書などに従って、関東大震災の復興過程を、町々で生活していた人びとの視点でみておこう。このことは、現在において震災復興とは何かということを考える参考にもなるだろうと思う。

1923年9月1日に発生した関東大震災では、約31万戸が罹災した。東京の町は、下町を中心に徹底に破壊された。現在、東京の町を歩いていても、関東大震災以前の町はほとんど残っていない。かなり古い外見をもった家でも、震災復興期以後に建築されたものが大半である。空襲による戦災のほうが広範囲であるが、中には空襲以前の町並みが残存していることもある。それだけ、徹底的な被災であったということなのだ。

田中は、このように指摘している。

住宅を失った人々は屋外生活を余儀なくされ、一部は東京府や東京市、陸軍やその他の団体が提供した天幕や避難民バラック(公設バラック)に収容された。
 事態が沈静化すると、被災者はそれぞれに住宅を確保しはじめた。引き続き公設バラックに居住するものもいれば、自ら掘建て小屋を作るものもあった。(本書p150)

最初は、現在でいえば避難所や公で建設した仮設住宅に収容されたということになるのだろうか。しかし、だんだん、自身で「掘建て小屋」を自分自身で建設していったのである。

田中は、9月21日ー10月11日に実施した、被災者の生活実態のヒアリング調査に基づいて、「焼跡の掘建て小屋に居住する被災者は材料の供給さえあれば自ら家屋を建築しようとするものが多い…大部分の人々は次第に自力でバラックを建てて移り住むようになっていった」(本書p151)と述べている。

つまりは、焼跡に自力で掘建て小屋やバラックを住民自身が自力で建設し、「生活空間」を確保した。いわば、町々に暮らす人びとの復興とは、そこから開始されたといえるのである。

そして、当時の政府も、このような住民自らが焼跡で行うバラック建設を容認した。1923年9月16日に出された「バラック令」といわれる勅令第414号は、震災で焼失した区域において、仮設建築物の建設を認めた。この仮設建築物は、1924年2月末までに建設が着手され、1928年8月末までに撤去されることになっていた。そして、この仮設建築物については、現在の建築基準法にあたる市街地建築物法で定められていた規制(用途地域、接道義務、建築線からの突出の禁止、建築物の高さと配置、防火地区、美観地区に対する規定)を免除することにした。といっても、すべて規制しなかったわけではない。9月17日の内務省令第33号では、バラックの階数を2階とした。さらに、9月27日の警視庁令第42号では、仮設建築物の屋上を不燃材で覆うことを定め、衛生のための最低限の便所の仕様を提示した。

バラックの用材は、一つには廃材であったとみられる。しかし、そればかりではない。臨時震災救護事務局(総裁:首相)から東京市に交付され、市が区を通じて被災者に廉価で供給した建材を利用したものもあると田中は指摘している。このように考えると、被災者の自力によるバラック建設を、当時の政府は、ある意味では促進したといえるであろう。

このような、被災者の自力によるバラック(つまりは期限のある仮設建築物)建設、そしてそれを容認し、部分的には促進したといえる政府のあり方は、今日の「震災復興」という認識枠組みとは大きくかけ離れているといえる。一見、後藤新平による復興事業によって復興が開始されたと思われがちだが、すでに、焼け跡のバラック建設という形で生活者は自力で「復興」に着手していたのだ。

もちろん、今日と状況は違う。しかし、元々いた「生活空間」を確保するということが、生活者にとっては「復興」なのであると思う。その意味で、そのような生活者ー住民の意欲を後押しすることが行政に求められているのだと考えるのである。そして、結局のところ、生活者ー人びとの生活空間が確保できなければ、都市・村落の機能自身が停止してしまう。それは、行政自体がもっている「統治」という課題にも反することなのではなかろうか。

震災の焼け跡に建設されるバラックは、規制は強まりながらも、建設着手期限、建築物撤去期限が延長され、かなり長い間建設され続けた。結局、約23万戸建設されたとされている。まず、震災による東京の焼け跡を埋めたのは、このような被災者が自力で建設したバラックー仮設建築物であったのである。

後藤新平の震災復興事業は、この被災者が自力で建設したバラックー仮設建設物にいかに対処するかということも課題であった。そのことについては、また語ることにしたい。

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さて、単に、検査体制や精度の問題とは別の次元で、政府や福島県の検査体制が信用できるのかということを、8月に発覚した福島県浪江町産のセシウム汚染牛肉問題を事例に考えてみよう。7月に表面化したセシウム汚染牛肉問題は、セシウム汚染問題の深刻さを日本社会全体に再認識させた「事件」であったといえる。暫定基準値の高下というレベルではなく、そもそも政府・県の放射性物質対策総体への不信を募らせた事件であった。そして、今でも、インターネット上で検索してみると、関連報道であふれかえっている。今なお進行中の事件なのである。

この問題については、一度全体を通してみてみたいと思うが、ここでは、7月から開始された福島県の肉牛出荷停止を8月に解除しようとした際に直面した浪江町産の汚染牛肉問題をみておこう。

8月18日、毎日新聞は、次のような記事をネット配信した。

福島・宮城:肉牛の出荷停止解除へ 政府、19日にも指示

 政府は18日、福島県と宮城県で飼育されている肉牛の出荷停止を両県全域で解除する方向で検討に入った。早ければ19日にも両県知事に解除を指示する。肉牛から国の暫定規制値(1キロあたり500ベクレル)を超える放射性セシウムが検出され、政府は7月19日~8月2日、福島、宮城、岩手、栃木の4県に出荷停止を指示したが、解除すれば初めてとなる。

 農林水産省と厚生労働省、福島、宮城両県は、汚染された稲わらの管理や解体後の牛の放射性物質検査の体制などを協議してきた。その結果、汚染稲わらを他の飼料と明確に区分してシートで覆ったり、地中に埋めて餌として使用できない状態であることが確認され、食肉処理後のセシウム検査で暫定規制値以下であれば、出荷を認める方向。

 政府は岩手、栃木両県についても同様の条件が整い次第、出荷停止を解除する方針。

 出荷再開の条件として、厚労省は畜産農家に保管されている汚染稲わらを農家の敷地外に移すよう求めていた。一方、農水省や福島、宮城両県は、保管場所の確保が難しいことを理由に農家の敷地内で牛と隔離した場所に置く方法を主張していた。【佐々木洋】

毎日新聞 2011年8月18日 22時19分(最終更新 8月18日 23時15分)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110819k0000m040119000c.html

牛肉のセシウム汚染の原因として、宮城県などで福島第一原発事故の際、野外にあった稲わらを牛に与えたためと農水省などは判断し、その対策を講じることで、検査値が暫定基準値以内であれば出荷停止を解除するという方針を打ち出したといえる。

しかし、19日、宮城県の肉牛の出荷停止は解除されたが、福島県の出荷停止解除は延期された。8月20日に毎日新聞がネット配信した記事がその景況を伝えている。

 ◇福島汚染牛、追跡調査を強化

 一方、解除方針が一転して延期となった福島県幹部は「また福島のマイナスイメージが広がってしまった」と苦渋の色を浮かべた。

 新たに汚染が確認されたのは、浪江町の計画的避難区域から出荷された4頭分。同区域は4月22日に指定され、肉牛の出荷・避難時にはスクリーニング検査が課されたが、その前に出荷されていた。4月7、19日に食肉処理され、東京都内の食肉業者が川崎市の冷凍倉庫で保管していた。

 同市や厚生労働省によると、業者が今月自主検査し、最大で国の暫定規制値の2倍に当たる1キロ当たり1000ベクレルの放射性セシウムを検出。同省が19日に検査し、最大で同997ベクレルを検出した。

 出荷した畜産農家は、浪江町と隣接している葛尾村、田村市の畜舎で約4000頭を肥育していた。原発事故後に県外へ避難し、現在は廃業した。「汚染稲わらは与えていない」と説明しているという。福島からの肉牛出荷解除のためには、汚染原因の確認が急務で、国と県は畜舎の状況や与えられていた水や飼料の調査を始めた。冷凍保存の牛肉は2年くらい保管するケースもあるといい、追跡調査も強化する。

 福島県は解除後に備え、全頭検査する体制を整えており、「今後は問題のある牛肉は市場に出ない」(鈴木義仁農林水産部長)として理解を求めている。JA全農福島畜産部の担当者は「出荷しても価格が原発事故以前に戻らないと畜産農家の生計は成り立たない。国と東京電力には風評被害の払拭に全力を尽くしてもらいたい」と怒りをにじませた。【浅野翔太郎、種市房子、高橋克哉、倉岡一樹】

毎日新聞 2011年8月20日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110820ddm041040098000c.html

つまり、4月22日に計画的避難区域に指定された浪江町の農場から、それ以前に出荷された肉牛から暫定基準値のほぼ2倍の1000ベクレル程度の放射性セシウムが検出され、そのため福島県産の牛肉の出荷停止解除が延期されたのである。

この記事を読んでみると、実は暫定規制値など以前の問題で、政府・県が何の対策もとっていなかったことがわかる。高放射線値を検出し、後に計画的避難区域に指定された浪江町からの肉牛は、その時点では何も検査されずに流通していたのだ。そして、この汚染発覚も、業者の自主検査を契機にしているのである。宮城県産の稲わら汚染などより、承知しやすい汚染だったと思うのだが、その時点では何もしていなかったのである。

そして、この記事では、「汚染稲わらは与えていない」としていることに注目されたい。8月21日の毎日新聞は、次のように報じている。

セシウム汚染:浪江町の牛のふんから高濃度検出

 福島県浪江町の農場が4月に出荷した肉牛から国の暫定規制値(1キロあたり500ベクレル)を超える放射性セシウムが検出された問題で、県は21日、農場への立ち入り調査の結果を発表した。えさの干し草は残っていなかったが、牛のふんを調べたところ、同じ干し草を与えた別の農場では浪江の10分の1以下しかセシウムが検出されなかった。県は「えさの汚染による可能性は低い。大気中のセシウムが牛舎に入り込み、吸い込んだことが原因かもしれない」としている。

 この農家は計画的避難区域などに指定されている葛尾村と浪江町、田村市で計約4000頭を飼育。いずれも葛尾の農場に保管していた輸入干し草を与えていたが、規制値超えが判明しているのは浪江から出荷した牛だけ。県は各農場に残っていた乾燥したふんを分析、浪江で1キロあたり9500ベクレルと高かったのに対し、葛尾、田村は同610ベクレル、同620ベクレルにとどまった。【関雄輔】

毎日新聞 2011年8月21日 22時05分(最終更新 8月21日 22時08分)
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110822k0000m040092000c.html

このように、この農家では、葛尾村に保管していた輸入干し草を、葛尾村・浪江町・田村市で飼育していた肉牛に与えていたが、暫定規制値を超えたのは浪江町で飼われていた牛だけであったという。ふんもとりわけ高いのは浪江町だけであった。この時点では干し草は残っていない。そして、福島県では、えさが原因ではなく、大気中のセシウムを牛が吸い込んだためではないかとの推測を述べている。

しかし、翌22日の産経新聞は、次のような記事をネット配信している。

側壁のない牛舎で干し草が汚染 福島県が原因公表

2011.8.22 22:38
 福島県浪江町の農場が出荷した12頭の牛の肉から暫定基準値を超える放射性セシウムが検出された問題で、同県は22日、開放型の牛舎で保管中に汚染された餌を牛に与えたのが原因とする調査結果を公表した。県は結果を国に報告し、この問題で先延ばしになった肉用牛の出荷停止解除を強く求めていく。

 福島県によると、生産者は東京電力福島第1原発事故後、避難で農場を約1週間離れる際、同県葛尾村の農場から大量の輸入干し草を運び込み、牛舎内のえさ箱や通路に置いていた。

 牛舎は側壁がなく、放射性物質を含む外気が干し草を汚染したとした。県によると、4月11日時点の周辺の放射線量は、毎時平均24.7マイクロシーベルトに達していた。

 県畜産課の大谷秀聖課長は「稲わら汚染と同じ状況に陥った。当時の国の通達は餌の屋内保管などだけだった」としている。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110822/dst11082222400027-n1.htm

一日で、福島県は「干し草」が原因と、180度違ったことを公表したのである。すでにみてきたように、証拠としての「干し草」は残っていない。にもかかわらず、外気に触れるところで「干し草」を保管し、そこで放射性セシウムが蓄積されたためであるとしたのである。

もちろん、そのようなことが蓋然性を持たないということはない。しかし、一日で見解を覆すには根拠不十分といえるであろう。大気を通じて汚染されたと考えても不思議はない。あれほどの高放射線地域である。今、この地域に一時避難した人びとの内部被ばくが問題となっている。牛でも同じであろう。汚染されたのは「干し草」だけではない。大気も水も汚染されていたのだ。

そして、結局、「干し草による汚染」というストーリーが維持されたことで、福島県の肉牛出荷停止は解除された。朝日新聞は、8月25日にネットで次のような記事を配信した。

福島、岩手、栃木の3県、肉牛の出荷停止解除

 福島、岩手、栃木県全域の肉牛について、菅政権は25日、えさが汚染しない管理や牛の検査体制が確立したとして、出荷停止の指示を解除した。福島県の牛は、国の基準を超える放射性物質が肉から見つかり、原因がわからないため、19日の解除が見送られていた。これで牛の出荷停止地域はなくなった。

 福島県は7月19日の出荷停止から5週間あまりで解除となった。原因不明だった牛肉の汚染は、その後の調査で、壁のない牛舎に置かれていた飼料に放射性物質が降り注いで汚染した可能性が高いと判明。菅政権は、えさの管理の徹底と、放射性物質に高濃度に汚染された地域の牛は全頭検査にする福島県の計画で対応できると判断した。

 福島、岩手、栃木3県のの計画は、19日に解除された宮城県とほぼ同様だ。汚染稲わらなどをえさとして利用した農家の牛は、全頭検査で国の基準を下回れば出荷できる。それ以外の農家は、最初の出荷の際に1頭以上を検査し、基準を大幅に下回っていれば、ほかの牛は一定期間、検査なしで出荷できる。(沢伸也)
http://www.asahi.com/national/update/0825/TKY201108250374.html

農水省などは、稲わらなどのえさの対策を中心に考えていた。しかし、ここでえさ以外の要因があると、別個の対策が必要となる。そのための遅延を嫌った福島県が、強引に政治的な形で「結論」を決めたというようにおもえてならないのである。8月31日の検査ではとりあえず暫定規制値は下回ったとのことである。

このように、政府・福島県においては、単に無策というのではなく、十分検証もせず、政治的に有利ということに着目して、浪江町のセシウム汚染牛肉について強引に結論を下しているようにみえるのである。特に、福島県にとっては、選挙民であり納税者である畜産農家の要望に応えるということを重視するのはよくわかる。しかし、そのあまりに、検査結果の分析について、拙速で根拠のうすい結論を下すのは問題であろう。私自身は、福島県では放射性物質の検査・公表にそれなりに力をつくしているとは思うし、数値自体を大々的に改竄したとも思ってはいない。しかし、このような調査結果の解釈においては、より条理をつくしておかないと、信用されないであろう。いろんなことを想定しなくてはならないのではないか。「稲わら」というのもその一つだ。しかし、今や「稲わら」が唯一無二の汚染源と理解されてしまっている。それが大半であることに異議があるわけではない。他の可能性を少しでも想定しておかないと、「稲わら」と同様な見落としをするということである。

放射性物質の汚染は、稲わらや干し草に限るものではない。空気・土地・水すべてが汚染されていると考えるべきである。特に浪江町においては。そして、このことは、牛ばかりの問題ではない。むしろ、人びとの被ばくこそ、より重要な問題なのではなかろうか。その意味で、汚染は総合的に考えるべきである。しかるに、根拠薄弱に「干し草」のみを原因にし、それ以外はみないメンタリティこそが重要である。

そして、いわゆる「風評被害」も、根本的には、大地・水・空気総体に対する放射性物質の汚染に対応していないということが原因であるといえる。このブログでも、福島県の浜通りや中通りなどで、チェルノブイリ事故での自主避難区域や、放射線管理区域に相応するような汚染を示す地域がひろがっていることを指摘した。そのような地域で人びとが生活すること自体が問題となっている。そこでの食品生産が現状において問題にならないわけはないのである。耕地を除染すること、水を除染すること…そのような取り組みこそが最も必要な課題といえるであろう。

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前回のブログで、福島第一原発周辺で生産された食品を購入することについて、筑波大学のアンケート調査に基づいて考えてみた。

このことを、私自身の消費行動に基づいて考えてみよう。

昨日(2011年9月10日)、自宅(東京都練馬区)付近のスーパーで、昼食・夕食のための買い物を行った。

その時は、夕食としては、サンマの塩焼きをメインとし、味噌汁と何か野菜の付け合せを考えた。サンマは88円で販売していたので購入し、味噌汁の具としては長ネギ(108円)を買った。

そして、キュウリをみつけた。1本68円である。ホウレンソウなどのお浸しをつくるのも面倒であったので、塩もみだけで食べられるキュウリは好適な食材である。ただ、「福島県産」と表示されている。

私個人の消費行動においては、通常、あまり放射性物質などを意識していない。しかし、前回のブログ執筆直後であったため、普段は意識しないことを意識して購入するかしないか考えることになった。

その際、厚生労働省(http://www.maff.go.jp/noutiku_eikyo/mhlw3.html)や福島県(http://www.new-fukushima.jp/monitoring.php)が公表している、福島県産の食品に対するモニタリング調査の結果を想起した。キュウリだけをみたわけではないのだが、一年草の野菜について、最近では福島県の全地域で、ヨウ素131、セシウム134、セシウム137が不検出となっていたという印象があった。現状の検査体制には不備があると思うが、福島県全域で野菜からは放射性物質は検出されていないということは、それなりに考慮すべきことであろう。他方で、暫定基準値を一部で超えたものがみつかった牛肉や茶については、暫定基準値は超えないまでも、それなりの検出値を示す検体は多かった。

現に売られているキュウリが不検出がどうかはわからないが、まあ、福島県の野菜全般の状況から考えれば、放射性物質はほとんど含有していないだろうと考えた。そこで、キュウリを購入し、その日の食卓に塩もみで供したのである。

福島県産のキュウリ(2011年9月10日

福島県産のキュウリ(2011年9月10日

キュウリの塩もみ(右上はサンマ、2011年9月10日)

キュウリの塩もみ(右上はサンマ、2011年9月10日)

前述した福島県のサイトでキュウリの放射性物質の検出結果を検索してみた。3月24日に採取した二本松市の検体がヨウ素131が36ベクレル(1kgあたり)、セシウム134が12、セシウム137が15と、キュウリとしては最高値を示すが、もちろん暫定基準よりはるか下である。3月から4月に採取された検体からは、これらの核種が検出された事例が複数あるが、それ以降は、5月23日に田村市で採取された検体からセシウム137が4,4ベクレル、6月29日に相馬市で採取された検体から、セシウム134が9.6ベクレル、セシウム137が9.7ベクレル検出されたことを最後として、不検出となっている。なお、福島県の放射性物質の検査は、かなり大がかりなものであり、キュウリだけでも200~300検体は検査しているのである。その意味で、広範囲な検査を実施し、公表することは、意義があるといえるのである。

といっても、普通の日常生活で、政府・県の検査結果をいちいち検索して、購入を決定するというのは、ちょっと難しいのではなかろうか。知識を蓄積して、商品を選択して購入することは、かなり意識して行はねばならないことである。

となると、より簡単な消費行動としては、次の二つが考えられる。

その一つは、「福島県産」というだけで忌避することである。福島県(近県も含むだろうが)産物は、放射性物質の検査結果いかんにかかわらず、すべて購入しないということになる。これが不当であることは間違いないのだが、購入する際、放射性物質について自分なりに考えるという手間を省くことができる。

もう一つは、政府の暫定基準を前提にして、それ以下ならばとりあえず安心とみなして、福島県産だとか放射性物質検査値などを考慮せず、購入していくことである。これも、自分なりに放射性物質について考えるという手間を省くことができる。

その意味で、もう一度、前回のブログで紹介した、福島第一原発近傍で収穫された米を購入するかしないかにつき既婚女性を対象に行った筑波大学のアンケート調査の結果をみておこう。

汚染度合いごとの購入価格(関東都市部)

汚染度合いごとの購入価格(関東都市部)


(http://mainichi.jp/select/science/news/20110903k0000e040049000c.htmlより)

一番多いのは、暫定基準値以下ならば購入するという人びとで、計算すると44.6%になる。次に多いのが、不検出でも買わないとしている人びとで、34.9%である。不検出も含めて放射性物質の検査結果を考慮して購入するという人びとは計算すると20.5%である。ただ、5ベクレル以下でも買わないとした人びとは47.6%であり、不検出でも買わないという人びとを差し引くと12.7%となる。この結果では、この人びとは5ベクレル未満なら買うということになるが、実際には微量でも検出されたら買い控えることのほうが多いであろう。

このように、自分自身の消費行動を考えてみると、前回のブログでの一般的な消費行動についての見解を修正したほうがよいかと思う。結局、①福島第一原発近傍地の産物については、放射性物質が不検出でも買わない、②不検出の場合も含めて放射性物質の検査結果を暫定基準とは別個に考えて判断する、③暫定基準値をとりあえず暗黙のうちに認め、放射性物質については考えないで購入するという、三つの類型が考えられる。

①と③は、もちろん対蹠的な消費行動であるが、実は、放射性物質について、それぞれが自分で考える手間を省くという意味では共通している部分があるといえる。

②のような行動は、実はかなり難しいといえる。そもそも暫定基準値自体が論議の的であるが、ではどの値にすべきかという定説があるわけではない。結局、「不検出」しかないのである。その上で、実は、新聞・テレビなどの一般的マスコミが与える情報では判断できず、インターネットなどで官庁が公表する情報を検索しないと判断できないのである。そして、それですら、目の前にある野菜自体の放射姓物質の含有量はわからない。福島県産の野菜一般から考えた推定でしかないのである。そのため、アンケート調査でも20.5%と、もっとも少ない数となっている。

ここでは、とりあえず、自分の消費行動から、もう一度、放射性物質の影響があると考えられている食品に対する消費行動について考え直してみた。たぶん、現状では、福島県などでも「放射性物質不検出」のものがかなりあることを強調し(暫定規制値以下では消費者の半分以下しかアピールしない)、さらに「放射性物質不検出」ということうたったブランドを立ち上げ、全品を調査していくようなシステムをつくるならば効果はあると思われるが、そのようなシステムを構築するのが、割に合うのかいなかは不明としかいえないのである。

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