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Archive for 2011年4月

福島第一原発配置図(1970年 『原子力発電所と地域社会』より)

福島第一原発配置図(1970年 『原子力発電所と地域社会』より)

それでは、新しく入手した『原子力発電所と地域社会』や、今まで使ってきた『東京電力三十年史』・『大熊町史』、加えてウィキペディアの福島第一原発の項目をみながら、再度、福島第一原子力発電所の建設過程を述べていこう。

まず、どのような原子炉を建設するかについて、東電内部で議論され、1965年12月、一号機の炉型を40万キロワットの軽水炉と決定した。それから、具体的に、機種選考を行った。候補は、アメリカのゼネラルエレクトリック社(GE)のBWR(沸騰水型原子炉)型と、同じくアメリカのウェスチングハウス社のPWR(加圧水型原子炉)型であった。『東京電力三十年史』では、「当時、GE社のBWR型には、スペインのニュークレノール社が46万キロワットの50ヘルツユニットを発注した先行例があったことや、日本原子力発電(株)敦賀1号炉の技術経験、受注先と当社との協力信頼関係などを総合的に評価した結果、当社は41年(1966年)2月GE社のBWR型が適当であると判断し」たと述べている。そして、1966年12月には、GE社と正式契約を結んでいる。当時、イギリスなども原子炉を製作しており、事実先行して1966年に営業運転した日本原子力発電の東海発電所(第一)は、イギリスから黒鉛炉を導入している。この段階での機種選定は、原子力技術のアメリカ依存を強めたといえる。敦賀1号炉もGE社製であり、また同時期に建設された関西電力福井県美浜原発はウェスチングハウス社製であった。

契約も特異で、東京電力は原子炉導入について、GE社と一括契約している。ただ、『東京電力三十年史』によると、「一方、圧力容器の製作と原子炉周りの据付け工事は、東京芝浦電気(株)と石川島播磨重工業(株)に下請けを依頼し、タービン発電機の据付け工事は(株)日立製作所に下請けを依頼するなど、日本原子力発電(株)の建設時の両社の下請け範囲を入れ替え、技術経験が蓄積するように配慮した」としている。つまりは、GE社の下請けをさせることによって、国産メーカーに技術移転することをはかったといえる。日本原子力発電と役割分担していることも興味深い。なお、ウィキペディアによると、本館建築土木関係工事は鹿島が担当した。また、敷地造成工事はGE社と無関係であり、東電が間組・熊谷組などのゼネコンに指示してつくらせた。そして、1968年3月に着工する二号機は、同じくGE社のBWR型であるが、契約は、GE社、鹿島建設、東京芝浦電気に個別になされた。

なお、このような過程から、福島第一原発の稼働には、GE社の技術者が必須であった。最盛期には60名に及び、発電所敷地内に宿舎、教会、小学校が設けられ、GE村とよばれた。この宿舎は富岡町夜の森にも設けられた。そして、六号機の建設が終わる1979年11月まで存続したという。この当時、アメリカを中心とした多国籍企業による「独立国」に対する経済進出につき、新植民地主義とよばれたが、福島第一原発も同じような様相を呈していたといえる。

具体的な福島第一原発の建設は、1967年1月、それまであった東京電力福島原子力建設準備事務所が原子力建設事務所に改組されてから、開始された。まず、行われたのは、敷地の整地であった。建設地点は、標高35mの台地であったが、わざわざ標高10mに削って整地している。その件につき、ウィキペディアは「台地を掘削したのは原子炉建屋など重要度の高い建物を岩盤に直接支持させるためであったが、津波の可能性は一定のレベルまでは考慮していた」としている。そして、

そのため、整地面レベルの決定に際しては、「過去の記録あるいは何らかの科学的推論にもとづく最大の高潮や津波時の海水面レベルの上昇の想定値に多少の余裕を与えて」最低の許容レベルが決定された。岩盤支持の問題も考慮すると地下1階式のマークIのような標準プラントでは、東芝レビューによれば整地面レベルから10m程度掘り下げたところに岩盤があるのが望ましいとされ、実際には1号機の原子炉建屋で整地面より14mほど掘り下げられた。

と述べている。
今の時点から考えると、これが、大きな運命の分かれ目であった。当時、想定されていた津波は5.7mであったが、実際の津波は高さ14-15mに及んだという。ウィキペディアによると、五・六号機は標高13mであったため、浸水の度も一号機などよりは軽かったようだ。わざわざ、35mの高さの台地を10mの高さまで削ったことが、結局、津波をもろにかぶることになったのである。
他方、福島第一原発の海側には、港湾とそれを守る防波堤が作られた。それについて、『東京電力三十年史』は、

…太平洋の波浪が四六時中断崖を洗っており、この強烈な破壊力に逆らって、直接外海に向かって防波堤を突き出して港湾をつくり、冷却水の取水と重量物の荷揚げに備える構想は、当時、発電所建設地点としては世界にも例をみないものであった。これをあえて断行したのは、当社の先見性と決断によるもので、この方面の権威者の指導のもとに、設計はもとより施工方法に至るまであらゆる面にわたり研究を重ねてきた当社土木技術陣の努力の成果であった。

と、胸をはっている。しかし、実は、第一原発一号機の建設につき、東電が自慢しているのは、建築・土木工事ばかりなのである。結局、原子炉本体そのものは、GE社の製作であり、この段階では、ブラックボックスみたいなものであったといえるのではないか。
しかも、防波堤・港湾工事についてのウィキペディアの評価はからい。

高潮、津波対策としては土木的には下記の2種の方法が挙げられている。
• 整地面レベルを高く取る
• 防潮堤、防波堤を構築する
しかし、防潮堤、防波堤の構築は当時信頼度の点から好ましい手段とは見なされていなかった。…それでも写真のように、小規模な港と防波堤が建設されたのは次の理由からである。復水器冷却用水の取水法を検討した際、海底パイプライン、海底隧道、桟橋、港湾の各方式を比較検討し、最も経済的であり、且つ建設資材や運開後の燃料搬入にも使用できる港湾方式を採用した。なお、港湾方式による取水は在来の東京湾岸の火力発電プラントにおいても多用されている方式でもあった。また、重量物搬入の面が重視された背景には軽水炉特有の事情も影響していると言う。つまり、当時の一般火力に比較しても蒸気条件が低いため、圧力容器、タービン、発電機のいずれもが大型とならざるを得なかった。圧力容器を例に取ると1号機で重量440t、直径約5m、高さ約19mであり、厚肉のため現場溶接は不可能であった。このため、後述のように防波堤を港湾周囲にめぐらす工事が実施された。

結局、防波堤などは津波・高潮には役立たないというのである。それでもなぜ、建設されたかについては、冷却水の取水と、圧力容器などの搬入のためとしているのである。結局のところ、人間というか企業の都合が優先されて建設されたといえるのである。

1968年6月には、原子炉格納容器の組み立てを完成、1969年5月には、日本最大の700トンクレーンで、440トンの原子炉圧力容器が荷揚げされ、五日がかりでコロで運んだとのことである。
一方、タービンと発電機は、GE社のストライキで遅れた1970年6月入荷し、9月に据付け工事を完了した。それに先立って、1970年の1-2月に核燃料が搬入され、同年7月には臨界に達した。そして、翌1971年3月26日に営業運転が開始されたのである。『東京電力三十年史』では、1955年に原子力発電課が設置されて以来、15年4ケ月かかったとしている。
以下、簡単に、一号機から六号機までの建設状況を確認しておこう。

一号機 出力46万キロワット 営業運転1971年3月
二号機 出力78万キロワット 営業運転1974年7月
三号機 出力78万キロワット 営業運転1976年3月
四号機 出力78万キロワット 営業運転1978年10月
五号機 出力78万キロワット 営業運転1978年4月
六号機 出力110万キロワット 営業運転1979年10月

なお、四号機より五号機のほうが早く営業運転がなされているが、これは、五号機・六号機が設置されている双葉町が、一刻も早く建設してほしいという要請していることを配慮し、五号機を先行して着工させたためである。つまりは、固定資産税が早くほしいということなのである。

この六号機で、福島第一原発は完成した。総出力469万キロワットであり、世界でも最大規模の原子力発電所と『東京電力三十年史』は述べている。

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原子力発電所と地域社会

原子力発電所と地域社会

福島第二原発について語っていく予定であったが、福島第一原発について、受け入れた地域社会の状況を事細かに分析した『原子力発電所と地域社会』(各論編)(1970年8月)を日本原子力産業協会の電子図書室で発見した。本書は、財界が中心となってつくられた日本原子力産業会議が編集したもので、その後身が原子力産業協会である。『大熊町史』が依拠した文献であったが、国会図書館には総論編しかない。そこで、入手を断念していたのだが、偶然、日本原子力産業会議のサイトをみて、電子図書室をみつけ、そこで検索すると、PDFにて入手できたのである。

そのアクセスは、次の通りである。
http://www.lib.jaif.or.jp/library/book/pa/pa8024.pdf

これは、福島第一原発と、関西電力が同時期に建設していた美浜原発について、建設を受け入れたそれぞれの地域社会の景況を詳細に分析したものである。全体では580頁におよぶ。『大熊町史』では、立地や用地買収・漁業補償などについては本書に依拠しているが、全体としては使われていない。

一応、簡略な形で、目次を紹介しておこう。

第一部 東京電力福島原子力発電所周辺地区に関する調査報告
第一章 福島発電所設置の経緯
第二章 福島発電所の建設計画と進捗状況
第三章 地域の概況
第四章 社会的側面における影響
第五章 経済的側面における影響
第六章 自治体財政と地域関連事業
第七章 観光と地域開発問題

第二部 関西電力美浜原子力発電所周辺地区に関する調査報告
第一章 美浜発電所設置の経緯
第二章 発電所の建設計画と進捗状況
第三章 地域の概況
第四章 社会的側面における影響
第五章 経済的側面における影響
第六章 美浜町の財政と地域関連事業
第七章 観光と地域開発問題

補論
Ⅰ 住民意識と社会構造の変化に関する実態調査の結果
Ⅱ 農業への影響に関する調査報道
Ⅲ 鮮魚小売商における水産物流通構造の調査報告
Ⅳ 地元町内出身労務者アンケート調査結果
Ⅴ 福島原子力発電所建設労務者実態とその消費動向

基本的には、福島と美浜のそれぞれを、基本的には同一の項目ごとに記述することで、両者を比較し、総論編の材料としている。他方、補論では、Ⅴを除いて、福島と美浜をそれぞれ同一の章であつかっている。総論編はそれほど興味深いものではないが、各論編は、原発を受け入れたこの当時の地域社会を詳細に分析している。

原発が立地された部落の社会状況、原発への賛否、地域の建設労働者の動向、財政問題にわたるまで、詳細な分析となっている。

今後、しばらく、福島第一原発を受け入れた大熊町と双葉町について、この資料を使ってみてみたい。場合によっては、美浜なども参照したい。

なお、むしろ、この地域の人々のほうが、この資料をみたほうが、よりよいであろう。現在、強制的に避難されており、なかなかインターネット環境にも接することすら難しいと思うが、できれば、直接本資料をみていただきたい。また、福島第一原発の運命を懸念している人々にも、みてほしいと思う。

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再び、福島第二原子力発電所の誘致経過を『東京電力三十年史』・『楢葉町史』(1985年)・『富岡町史』・山川充夫「原発立地推進と地域政策の展開」(1)(2)からみてみよう。『楢葉町史』は、近代・現代資料編に「昭和五十年現在 東京電力福島第二原子力発電所建設計画の経過」という年表をのせており、反対派の資料も部分的にのせている。

『東京電力三十年史』では、福島第二原発を、第一原発の南方10kmの富岡・楢葉両町の境界地点に建設する方針を決めた時点を1965年9月としている。この地点に決めた理由として、「地盤、取水をはじめ原子力発電所としての立地条件を満たしているとみられたこと、大熊、双葉地点の立地を進めている経緯から、地域の理解、協力が得られると期待されたことなどによる」としている。

そして、東京電力としては、「当社は地域に対してこの構想を打診し、地元意思の熟成を待った」としている。大熊・双葉町に、福島第一原発が建設されつつあることは、浜通りのこの地域に、自分の町にも原発を誘致したいという機運を作り出したといえる。それにのった形で、東電はひそやかな形で、福島第二原発の立地をすすめていたといえる。この時期、東北電力も、福島第一原発北方の浪江・小高町で原発立地計画をすすめていたが、これも、この機運にのろうとしたものといえる(浪江・小高の原発立地計画は、ながらく阻止されていたが、原発建設計画は生き続けていたようだ)。

『楢葉町史』によると、1967年11月25日に「富岡、楢葉、広野、川内の四ヶ町村で、南双方部総会(合の間違いか)開発期成同盟会結成(会長富岡町長)」となっている。『東京電力三十年史』では、四ヶ町村の町村長・全町村会議員が出席したと記載されている。そして、11月27日には、期成同盟会は、企業誘致を県知事に陳情した。このように、福島第一原発が建設された大熊町・双葉町など、双葉郡北部に対抗する形で、双葉郡南部の富岡町・楢葉町・広野町・川内村が団結し、企業誘致を陳情したのである。

 ただ、「企業誘致」であって、あからさまに「原発誘致」ではなかったことに注目されたい。広野町・川内村は、原発の恩恵に浴すことは特になかった。ただ、広野町に東京電力の火力発電所が建設されたことは、この「企業誘致」と関連があるのかもしれない。

『楢葉町史』では、1967年12月25日に、楢葉町長と富岡町長が南双開発に関する話し合いをもったとされている。その上で、翌26日に、楢葉町は「南双開発のため、第二原子力発電所建設地として、波倉小浜作地内を部落地権者に発表、協力を要請」(『楢葉町史』)したのである。つまり、地元の富岡・楢葉町当局により原発誘致が決められ、まず部落地権者に根回ししたのである。それは、全体の立地計画が福島県知事から発表されるのに先んじている。部落地権者に根回しする際、「南双開発のため」とされていることに注目したい。建設される楢葉・富岡両町だけではなく、「南双」全体の利益になるとして正当化されたのである。

福島県知事は、1968年1月4日に、「東京電力が第二原発建設を決定」(『楢葉町史』)と発表した。この経過からすると、地元の意見表明があってきめたようにみえるが、福島第一原発を誘致の際は福島県が主導しており、たぶん、内実は違うと思われる。『富岡町史』には、「こうした状況下の、南双(双葉郡南部)地区に原子力発電所の立地計画がもちあがり、地元の発展を待ち望んでいた各自治体は、実現に向けて誘致運動を展開する。当時の木村福島県知事も=相双地方の開発には原子力誘致が望ましい=と提唱、各町村長に働きかけたのがその発端になった」と記しており、知事側の慫慂が誘致の前提となったとしている。東京電力にせよ、福島県にせよ、かなり巧妙に、地元自治体をたきつけ、自ら誘致に名乗りをあげさせる形を作っていったといえる。

福島県におけるこの地域への誘致への慫慂の背景には、「相双地域『チベット』論」があった。1967年9月の福島県議会定例会で、滝議員は「特に双葉地方は仙台経済圏と常磐経済圏にはさまれた本県のチベットといわれているところだけにその(原発誘致)実現のために」(山川充夫前掲論文(二))と発言している。

福島県では、原子力開発が、地域経済に多大の波及効果をもたらすとしていた。福島県知事は、1968年2月の福島県議会定例会で、「原子力発電所の建設に関連して、どのような産業の開発に役立つかという問題であるが、本県においては、エネルギー・水資源・工場敷地及び労働力の面から見て、工場立地条件が恵まれているから関連産業の誘致発展も考えられるものと期待している」(山川充夫前掲論文(二))と述べている。単に、原発だけではなく、その開発が波及していくとしているのである。

『双葉原子力地区開発ビジョン調査報告書』(1968年3月)には、よりバラ色の将来が描き出されている。

当地区は、将来わが国の有数の原子力地帯として、特色あるエネルギー供給基地となることは疑いない。したがって、当地区は、原子力発電所、核燃料加工等の原子力産業、放射能を利用する各種の産業、原子力関連の研究所、研修所などが集積したわが国原子力産業のメッカとしての発展を思考することが最も適当である。

単に、原発だけでなく、原子力関連の研究所のある東海村や、原子燃料サイクル施設がある六カ所村をあわせたような開発を指向していたといえる。このような、「明るい将来」への期待を福島県は原発立地に込めていたのである。

このように、福島県内での受け入れ姿勢を確認して、東京電力は1968年1月に福島第二原発の建設計画を発表、翌1969年5月には、出力100万キロワット級原発四基を建設するという具体的な建設計画を明らかにした。このように、東電は、福島県や地元自治体に誘致させるという形で、福島第二原発の立地を確定していったのである。

さて、福島第二原発の用地交渉・漁業補償・反対運動については、次回以降に述べることにする。

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「津波てんでんこ」という言葉を知っているだろうか。「津波の際には、人には構わず、てんでんばらばらに、素早く逃げなさい」という、明治三陸津波(1896年)の後に三陸地方でいわれた教訓である。

この言葉を知ったのは、山下文男さんの著書『津波と防災―三陸津波始末―』(2008年 古今書院)からである。山下さんは、明治三陸津波において祖母を失い、昭和三陸津波(1933年)・チリ地震津波(1960年)は自身で体験した。明治三陸津波到達最高点(38.2m。ちなみに今回の震災における津波到達最高点は38.9mといわれている)がある岩手県大船渡市綾里に居住し、津波研究者として、本書の他、『津波てんでんこー近代日本の津波史』(2008年 新日本出版社)など多数の研究書を出版している。山下さんが、自身の経験をもとに「津波てんでんこ」を普及させたのである。

山下さんは、次のように言っている。

誰ひとりとして予想していなかった大津波の不意打ちによって集落は阿鼻叫喚、大混乱に陥ってしまった。だが、そうした混乱のなかでも、人間としての本能がはたらき、親が子を助け、子が親を助けようとする。兄弟・姉妹たちが助け合おうとする。そのため、結局は共倒れになるケースが非常に多く、これも、死者数を増幅させる結果になった。
(中略)
最近、津波防災と関連してよくいわれるようになった「津波てんでんこ」という言葉は、こうした体験を踏まえた明治三陸津波の教訓なのである。要するに、津波の時は、薄情なようだが、親でも子でも兄弟でも、人のことはかまわずに、てんでんばらばらに、1秒でも早く逃げなさい。これが一人でも多くの命を守り、犠牲者を少なくする方法です、との悲しい教えが「津波てんでんこ」という言葉になった。真意は、自分の命は自分で守れ!共倒れの被害を防げ!ということであり、津波とはそれほど速いものだという教えでもある。

山下さんが提唱した「津波てんでんこ」は、三陸地方では普及していて、岩手県釜石市では、小中学校生約3000名が「津波てんでんこ」の教えを守って、自主的に避難し、ほとんど命を全うしたという(どうしんウェブ 北海道新聞 3月27日 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/dogai/281397.html)。

「津波てんでんこ」とは、自然災害の脅威における、究極の「自己責任」といえる。この言葉の背後には重いものがある。多くの人が、自らの家族を守ろうとして、共倒れていった。そして、さらに、自らの命を守るために、家族・友人の命を見捨てるしかなかった人たちもいたであろう。津波の前では、国も自治体も集落も、いや家族ですらもあてにすることはできない。むしろ、そのようなしがらみにかまわず、てんでんばらばらに、一刻でも早く逃げること、これが生き延びる道なのである。

新聞などでは、自分の命をかえりみず、他の人の命を救った人々の記事がよく掲載される。それらの人々が「英雄」であることは間違いない。しかし、それは、命を救おうとして共倒れになった人びと、命を救いたくても救えなかった人びとの悲劇を前提にしてしか、意味をもたないといえる。生き延びるには、てんでんばらばらに、人に構わずに、逃げろ。それが「津波てんでんこ」なのである。

しかし、山下さんは、「自分の命は自分で守れ!共倒れを防げ!」だけでは、災害弱者のことを考えておらず、今日では一面的な誹りを免れえないとする。山下さんは、北海道南西沖地震(1993年)の際、奥尻島を襲った津波の際、年寄りをかばって共倒れになった家族を紹介し、

こうした場合に、一体、どうするか?勿論のこと「津波でんでんこ」だからといって、見て見ぬふりをするわけには、人間としてできない。
まず、災害弱者の避難と救助の問題を、個々の家庭や人の問題としてではなく、社会問題としてとらえることである。そして、その家族だけに任せず、普段から自主防災や自治会などで、避難を手助けする方法や手だてを検討したり、役割分担を決めたり、担架やリヤカーなどの避難要具などもぬかりなく用意して訓練も怠りなく、いざという場合に備えておくことである。これは「自分の命は自分で守る」という考え方を基礎とした「自分たちの地域は自分たちで守る」という防災思想の実践にほかならない。

津波を目前とした「津波てんでんこ」という究極的な自己責任を前提として、自立的な共同性が立ち上がってくるといえるのではなかろうか。そうも思えるのである。

最後に、エピソードを紹介したい。山下さんは、今回の大震災の際、岩手県の陸前高田市の県立高田病院に入院中、津波に被災した。入院者にも死亡者が出たが、山下さんは助かった。それを伝える記事である。

「想像をはるかに超えていた。津波を甘く見ちゃいけない…」。大船渡市三陸町綾里の津波災害史研究者、山下文男さん(87)は陸前高田市の県立高田病院に入院中に津波に遭い、首まで水に漬かりながらも奇跡的に助かった。これまで津波の恐ろしさを伝えてきた山下さんですら、その壮絶な威力を前に言葉を失った。「全世界の英知を結集して津波防災を検証してほしい」。声を振り絞るように訴えた。
 「津波が来るぞー」。院内に叫び声が響く中、山下さんは「研究者として見届けたい」と4階の海側の病室でベッドに横になりながら海を見つめていた。これまでの歴史でも同市は比較的津波被害が少ない。「ここなら安全と思っていたのだが」
 家屋に車、そして人と全てをのみ込みながら迫る津波。映像で何度も見たインドネシアのスマトラ沖地震津波と同じだった。
 ドドーン―。ごう音とともに3階に波がぶつかると、ガラスをぶち破り一気に4階に駆け上がってきた。波にのまれ2メートル近く室内の水位が上がる中、カーテンに必死でしがみつき、首だけをやっと出した。10分以上しがみついていると、またもごう音とともに波が引き、何とか助かった。
 海上自衛隊のヘリコプターに救出されたのは翌12日。衰弱はしているが、けがはなく、花巻市の県立東和病院に移送された。後で聞くと患者51人のうち15人は亡くなっていた。
 「こう話していると生きている実感が湧いてくる」と山下さんは目に涙をためる。「津波は怖い。本当に『津波てんでんこ』だ」
 「てんでんこ」とは「てんでんばらばらに」の意味。人に構わず必死で逃げろ―と山下さんが何度も訴え全国的に広まった言葉だ。
 9歳だった1933(昭和8)年、昭和三陸大津波を経験したが「今回ははるかに大きい。津波防災で検討すべき課題はたくさんある」と語る。特に、もろくも崩れた大船渡市の湾口防波堤について「海を汚染するだけで、いざというときに役に立たないことが証明された」と主張する。
 同市の湾口防波堤は60年のチリ地震津波での大被害を受けて数年後に国内で初めて造られた。「津波はめったに来ないから軽視されるが、いざ来ると慌てて対応する。それではいけない。世界の研究者でじっくり津波防災の在り方を検証すべきだ」と提言する。その上で「ハード整備には限界がある。義務教育の中に盛り込むなど不断の防災教育が絶対に必要だ」とも語る。
 1896(明治29)年の明治三陸大津波で祖母を失った。今回の津波で綾里の自宅は半壊。連絡は取れていないが、妻タキさん(87)は無事だった。「復興に向けて立ち上がってほしい」。最後の言葉に将来への希望を託した。
【写真=「津波防災の在り方を検証してほしい」とベッドから訴える山下文男さん=16日、花巻市東和町の県立東和病院】
(岩手日報ウェブニュース 2011年3月17日 http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110317_9)

本当によかったと思う。これからも長らく活躍していただきたいと思う。

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富岡町章

富岡町章

ここで、また、福島の原発問題に話を戻しておこう。原発立地と引き換えに地域が「恩恵」を得たといわれるが、それがどのようなものだったかは、地域外にはそれほど理解されていない。確かに、用地などの補償金が出て、固定資産税など増収となり、電源立地促進対策交付金なども入ってくる。ただ、これらを含めた「恩恵」が、どのように地域に受け止められたのか、それを見ていきたい。

それをみる格好な資料として、『富岡町史』続編・追記編(1989年)をみてみよう。富岡町には、南側の楢葉町との境界線上に、両町にまたがって、東京電力の福島第二原子力発電所が立地している。福島第一原発から半径20キロ圏内であり、今は、全町が避難指示区域である。なお、福島第二原発が立地する過程は、先のブログで瞥見してきたが、『東京電力三十年史』などに依拠して、より詳しくみていきたいと考えている。

ここでは、原発立地の「恩恵」についてみていこう。本書第六編「現代」第八章「地域開発と観光」の第二節は「電源開発の町富岡」と題されている。本節は、「整然と区画された町並み、そこへ駐車場付きの大型ショッピングセンター。調和をとる形で軒を並べる商店。いま、富岡町は急速に変貌を遂げつつある」という言葉から始まっている。まずは、都市化された「豊かな生活」のイメージで原発設置後の変貌が語られているのである。

まず、原発誘致の過程が語られる。自ら双葉地方は福島県のチベットといわれていたと認めている。原発誘致が持ち上がったとき、富岡町は財政難であった。当時の木村県知事が相双地方の開発には原子力誘致が望ましいと提唱し、各町村に働きかけた。『富岡町史』は、当時の町長の回想を紹介する。

「誘致には関係各町村長がもろ手をあげて賛成、町の全組織をあげて誘致を決議した。しかし、用地買収になると、民有地、私有地が多く、交渉がまとまるまでに五年もかかった。いま思い出すと、本当に大変だった。」と。
そしてまた「地域の人たちに、原子力を理解していただくために、原子力の知識をイロハのイから学んだ。欧米の原子力先進国の視察のなかで、原子力に対する考え方なり、信頼感が、極めて強いことに感銘を受けた」-

さらに、「福島第二原子力発電所の歩み」として、1968年の開発計画発表から、1975年の1号機着工をへて、1987年の四号機発電開始までの経過が年表風に記述されている。しかし、町長の回想にせよ、「歩み」にせよ、反対運動の存在は抹消されている。『東京電力三十年史』においても、かなり反対運動については記述している。ある意味で、富岡町の当局者において、反対運動が存在したことに言及することさえ、タブーであったといえよう。

続いて、福島第二原子力発電所の写真が掲載され、原子炉建屋の説明がある。そこでは「手前が四号機、その奥が三号機、いずれも110万キロワットの出力を持つ富岡町側の原子炉である」と説明されている。地域外の人からすると、ちょっと首をかしげるであろう。一号機・二号機はどこにあるのかと。それに普通は一号機から撮影するのが普通ではないかと。実は、これには、複雑な背景がある。福島第二原発は、富岡町と楢葉町の境界線上に立地され、一・二号機は楢葉町側にある。三・四号機のみが富岡町に所在しているのだ。そして、原発は、一・二号機から建設された。原発が運転されると固定資産税が入ってくるのだが、こうなると、楢葉町に比べ、富岡町に固定資産税が入ってくるのが遅れてしまうことになった。そのため、あつれきが起きたのである。このあつれきの余波が、この奇妙な写真に反映している。

そして、『富岡町史』は、次のように宣言している。

今、わが町富岡はエネルギー基地。
町章の◎の円は、無限に発展するエネルギーを象徴したものである。
東京電力福島第二原子力発電所は、電源三法・固定資産税・労働雇用の場など町の大きな財源であり、この巨大プラントの建設完成は、地元経済の振興・地域住民の所得向上に、大きな役割を果してきたことは、言うまでもない事実であろう。
「富岡町民憲章」の中に<楽しく働き活力ある町をつくりましょう>とある。
(中略)
昭和四十九年度、制度発足した、電源三法(発電用施設周辺地域整備法・電源開発促進税法・電源開発促進対策特別会計法)の公布により、電源立地による利益を地元に還元することによって、福祉の向上を目指した公共用施設が急速に整備され、私たちの生活環境は、従来に比して数段暮らしも向上し、憲章にうたわれている活力ある町づくりに役立っている。
明治の昔からあった“富岡人気質”-(住む人は一芸一業を持ち、平和に暮らそう)の合い言葉が電源立地による豊かな生活の中から聞こえて来るようである。

そして、福島第二原発立地で得たものが、具体的に語られている。第一にあげられているのは、電源三法により建設された「夜の森保育所」「学校給食共同調理場」である。確かに、これらの施設は、どのような地域でも必要なシビルミニマムである。しかし、通常は、電源三法などに依拠しないで建設されている。シビルミニマムさえも、電源三法に頼らざるをえないのが、富岡町の現実だったといえる。

第二にあげられているのは、第三号機(1985年)・第四号機(1987年)の運転開始にともない、電源三法交付金にかわって入ってきた大規模償却固定資産税の税収である。『富岡町史』では、この多額の税収を公共施設の整備や福祉の向上に使っているとしている。

第三に述べられているのは、人口の増加と就業構造の変化である。1955年の町村合併により現在の富岡町が成立した際は12913人であったが、1970年には11614人まで減少した。しかし、福島第二原発の建設着工後は人口増加に転じ、1985年には15895人となったとしている。また、農・林・水産などの第一次産業が減少し、原発建設に伴う建設、製造業などの第二次産業や、原発建設要員の大量増加に対応する第三次産業が盛んとなったとしている。この地域は阿武隈山系と太平洋に挟まれ、耕地面積が限られ、農業では生活維持できず、都市への出稼ぎが多く、若者の流出も著しかったのであるが、原発建設開始後は、都会へ出た人たちのUターン化が活発となり「町には若さが戻ってきたのである」としている。

第四にあげられているのが「明るい商店街」である。『富岡町史』は、次のように語っている。

発電所の立地に伴い、働く場も増え所得が向上した。
生活の向上にあわせて、大型店の建設や、店舗の整備には目を見張るばかりであり、また、駐車場の整備等により消費者へのサービスに努め、商工会の働きも活発化している。

「明るい商店街」が建設されたことが特筆されている。実際、この十年ほどは、大都市以外の各地域で商店街が不振であり、「暗い商店街」(最近は節電で東京も暗いが)は地域社会衰退の象徴となってきた。逆に「明るい商店街」は、活力ある地域社会の象徴として機能しているといえよう。

第五にあげられているのが「働く場の確保」である。『富岡町史』は、次のように指摘している。

原子力発電所建設当時のように、年間平均、毎日七~八〇〇〇人といった大量雇用は維持し得ないが、原子力発電所の場合一基一定検あたり約三ヶ月一五〇〇人オーダーの定検作業員を必要とするため福島第一原発と合わせて、一〇基を数える浜通り地域では、定検期間が三ヶ月以上要するので、常時二~三基の定期点検を実施することで、地域の就労需要はほぼ満たしうると思われる。

この指摘は、興味深い。建設終了後は、定期検査のための作業員により地域の就労需要はみたされるというのである。まして、原子炉の増設は、再び巨大な雇用の場を創出することになる。

第六にあげられているのが、東京電力が町の中心部に建設した広報施設である。この広報施設は、地域の人たちが展示会や趣味の会などに利用できるホールをもち、「電源開発のまち、富岡に“新名所”が誕生したのである」とされている。

最後に、原発立地に尽力した時の町長の、次の言葉でまとめられている。

「今日、原子力立地が実現していなかったら、この町は二〇年前と同じだったろう。原子力立地がこの町に果たした有形、無形の役割は極めて大きい」と。

『富岡町史』の、この部分は、原発立地に賛成した富岡町の当事者たちの「宣言」といえるだろう。しかし、今、この時、原発立地とひきかえに、得た(と思っていた)ものは、どこにあるのか。そのことを考えると、まことに悲しい。

他方、反対派の人々も、今、この結果をどう受け入れているのだろうか。このことについても、悲痛な思いがする。

そして、翻って考えてみると、私たちは、何を引き換えに何を得ているのだろう。これは、富岡町の人々だけの問題ではないのである。

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東京・築地市場の「マグロ塚」(2011年1月15日撮影)

東京・築地市場の「マグロ塚」(2011年1月15日撮影)

前回は、第五福竜丸事件における「死の灰」の恐怖について述べた。ここでは、「死の灰」-放射性降下物で汚染されたとみなされた「水爆マグロ」についてみてみよう。この「水爆マグロ」は、築地他、全国の市場に混乱を招き、全く関係のない魚類も忌避され、それこそ大きな風評被害をうんだ。

これは、また、第五福竜丸事件をスクープした、1954年3月16日の読売新聞にもどってみなくてはならない。その日の朝刊のスクープ記事では、焼津港に「死の灰」が付着した第五福竜丸が放置されていること、また船員の多くが「死の灰」をつけたまま、焼津市内を自由に往来していることが報道されたが、第五福竜丸が漁獲したマグロ・サメなどについては報道されていなかった。ところが、同日の夕刊では、驚くべき報道がなされた。

出荷の魚販売中止―静岡分はすでに食卓へ
[焼津発]第五福竜丸が焼津港に水揚げしたマグロは二千五百貫で十五日ひる四十六貫五百匁が大阪市内大水会社へ、約五十貫が四日市魚市場へ出荷されたほか名古屋、京都、東京方面を中心に静岡市内東海道沿線にそれぞれ少量ずつ出荷されている。
被曝当時マグロは福竜丸の魚ソウ(槽)に氷や紙などで、五重に密閉されてあったので焼津漁協組では大丈夫だとみているが、万一マグロが放射能を含んでいる場合を恐れ同漁組はじめ各団体は十六日朝あわてて出荷先に連絡、県外出荷分は販売中止に成功したもよう。しかし県内向けは十四日に出荷し、ほとんど売りつくされ各家庭でもすでに多く食べ終わっているとみられる。

このように、第五福竜丸で漁獲したマグロ類が、各地に販売されたというのである。県外分は、差し止められたが、県内分は食べてしまったとのことであった。

この水爆マグロは、各地の水産物市場に大混乱をまきおこした。『東京築地魚市場仲買協同組合月報』第6号(1954年4月13日 『原水爆禁止運動資料集』第一巻所収)の「原爆被災漁の記録」によると、築地市場に焼津からマグロ・サメ類が16日の午前2時半届いたが、東京都衛生局市場分室の当直が現場に急行して、手をふれないように指示し、10時より専門家がガイガー・カウンターで検査した結果、マグロ・サメともに高濃度の汚染が認められたので、市場内野球場のネット裏に深夜穴をほりマグロ・サメを埋めたということである。

しかし、これだけではすまなかった。読売新聞3月17日夕刊では「運搬人のズボンに放射能 築地市場」と報じられ、3月18日朝刊では、「放射能マグロ 到着の各地で続々検出」と伝えられた。

さらに、この朝刊では、「また放射能漁船入港 三崎の俊洋丸 ビキニの海水付着か」と報じられた。被曝したのは第五福竜丸だけではなかったのである。あまり知られていないことだが、この当時、ビキニ海域では850隻あまりの漁船が被曝し、結果的には460トン近くの汚染漁が見つかったのである。

『東京築地魚市場仲買協同組合月報』によると、「ここに市場に放射能が充満してゐるが如き消費者の誤った恐怖が拡大して行ったのである」と述べている。具体的には、16日の報道により「驚愕した国民が一斉に魚の購入を差し控へたのは人情として当然であり俄然十七日の市況は暴落して市場入場者(買出人)は平日の七割減で半数以下、仲買店舗は閑古鳥の鳴く様な始末となり、就中大物類(マグロ類のことと思われる)とさめ製品としての練製品については全く売上のない有様で、新聞ラジオは次々と情勢の報道を続け市場は十八日、十九日に至るも依然たる停滞を続けこの状況は何時まで続くのか見透も出来ない混乱となった。」としている。

築地魚市場では、記者会見をしたり、ポスターを配布したりしたが、全然効果がなく、19日には、先の大物のセリが中止された。この購入差し控えは、被曝したとされるマグロ・サメ以外の魚種にもおよび、3月21日には横浜市場が臨時休止となっている。

まさしく、「死の灰」の恐怖が、放射能汚染にあった魚だけではなく、すべての魚類に及んだことがわかるだろう。まさしく、「風評」被害そのものである。見てもわからない、もしくは不可視の「死の灰」は、魚を購入したり摂取したりする時にはわからず、事後になって放射能被害を及ぼす。ある意味では、消費者の合理的判断ではさけようがない。そのことによって、「死の灰」に関連するすべてのことをさけようとする。逆にいえば、「死の灰」を連想させるすべてのものが、恐怖の対象となるのである。

ただ、このような書き方では、一面的に理解されてしまうであろう。「死の灰」をかぶった「水爆マグロ」への恐怖、これは、当時、マグロを食べていた消費者としての国民一人一人が共有した恐怖であった。この恐怖への対抗が、原水爆禁止運動であった。そして、まさに、国民一人一人が共有していた恐怖に基づいていたからこそ、「国民運動」であったのである。

この運動を詳細に述べるためには、より多くの紙面が必要であろう。ただ、前述してきたように、アメリカすらも世界戦略遂行のためには対応を考慮しなくてはならないような運動であった。その意味で、原水爆禁止運動の意義は大きい。

翻って、現状を考えてみよう。今、放射能汚染があるとされる人・物を忌避する風評被害と、原子力発電に反対する運動が平行してみられている。しかし、この二つは、放射能への「恐怖」という意味では同じところに根差しているといえる。それは、1954年の、魚への「風評被害」と原水爆禁止運動との関係と同一の位相にあるとはいえないか。ある意味で、既視感(既視感はこれだけではないのだが)に襲われるのである。

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さて、ここで、問題になっている、放射能汚染への恐怖の源流についてみてみよう。これは、かなり時代を遡り、中曽根康弘たちが原子力予算獲得に狂奔していた1954年3月に求められる。

これは、教科書的出来事なのだが、1954年3月1日、ビキニ環礁においてアメリカが水爆の核爆発事件を実施し、そのため、周辺海域で操業していた日本の漁船第五福竜丸が被災した。第五福竜丸は3月14日、焼津に帰港したが、船員に放射線被災者が出て、それが16日に読売新聞にスクープされた。これが、原水爆を禁止せよという世論を形成する契機になり、9月23日に船員の久保山愛吉が放射線障害で死去し、原水爆禁止運動へと展開していった…。

それは、そうなのだが、このような説明だけでは、この時代の人々が感じた、放射能への恐怖を実感することはできない。そして、この時代の人々が感じた恐怖は、現在のわれわれの恐怖でもある。今、日本社会における放射能汚染への恐怖の源流として、この事件を位置づけることが必要なのだ。

そのためには、まず、そもそもの発端である、1954年3月16日の読売新聞朝刊のスクープ記事からみていかねばならない。この記事は全体の見出しが「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」となっている。いろいろあるが、最も目を引くのは「焼けただれた顔、グローブのような手 ひん死の床で増田さん語る」と題して、重症の船員が語る次の話だろう。

『一日の朝四時半ごろ、ちょうどナワを入れている時だった。遠い沖の方の水平線から真赤なタマがすごい速さで空へぐんぐん上がっていったと思うと見たこともないような色んな色のまじった白い煙がもくもく立ち上がったのでみんな“何だろう”と話し合った。ところが、一時間半ぐらいした時に甲板にいると空からパラパラと何かが降って来たので”小雨のようだ“と言いあった。そのままふだん通り働いていたが三日ぐらいたった時、顔と手がふくれ、火傷のようになって来た。みんな南洋で陽に焼けていたし鏡をみることもないので自分でも気づかなかったが仲間が”おかしいぞ“というので気がついてみると頭が真黒に焼けていた。毛糸のジャケットとズボンをはいていたので体はなんともなかったが、出ていた頭と手がだんだんひどくなり、かゆくてたまらないので船でじっと寝ていた。”原爆でやられたんだろ“とみんながいうので船に降って来た灰も一緒にもって来て先生に渡した。』

放射性降下物いわゆる死の灰で被曝した状況がここでは語られている。ここでは、まず、①放射能が「灰」のイメージで語られ、②その場では被災は見えない、③時間の経過につれて放射線障害として発症する、とされていたことに着目したい。例えば、火傷などでは、被害は即座にわかるのだが、放射能汚染の被害は違う。被災は「灰」のようなものが付着しておこるのだが、すぐはわからず、時間が経過すると発症が判明するということになる。

逆にいえば、「灰」が付着する可能性があれば、その場ではなんともなくても、時間の経過によって、どこでも発症することになる。それは、現実的には「灰」が付着する可能性がなくても、神経症的にというか、仮想的というか、「灰」が付着する可能性があると認識すれば、だれでも、どこでも、放射線障害が発症しかねないと考えさせるようになってしまうのだ。

これが、いわゆる、直接的接触がない人・物を忌避する風評被害のもとになっている。「灰」といったが、「死の灰」をみたことがある人は少ない。それに、そもそも「灰」のどこに放射能が含まれているかはわからない。また、どれほどの放射能が人体に影響があるかもわからない。報道を読んでいると「半減期」という言葉はなく、放射能は時間につれて減衰することは言及されていない。目に見えない放射線ならなおさら恐怖をあおることになろう。ちょっとでも、「死の灰」に連想させる事物にあうと、すぐさま発症することがない放射能への恐怖がよびさまされるのである。

そして、読売新聞の報道も、「死の灰」への恐怖を呼び起こすようなものであった。この記事によると、「“死の灰”をつけ遊び回る」と題して、放射線障害を発症した2名以外の「他二十一名は灰のついた服のまま自宅に帰ったり、遊びに出たりしており、また船は灰のついたまま焼津港内に停泊している」とされている。「死の灰」が、焼津市内でまきちらされているという、恐怖のイメージが呼び起こされている。

そして、事態は、より、放射能への恐怖を強めていく。次で語る予定の「水爆マグロ」の出現は、消費者である国民全体に放射能への恐怖を植え付けることになった。

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