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Archive for 2020年6月

さて、ここで、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの新型コロナウィルス肺炎感染対策としてとられた都市封鎖ーロックダウンについての激烈な批判をみていこう。

アガンベンの発言は、「エピデミックの発明」(2020年2月26日発表)、「感染」(2020年3月11日発表)、「説明」(2020年3月17日発表)の3つであり、いずれも『現代思想』5月号(青土社、ここではKindle版より引用)に訳出されている。

アガンベンの発言にふれるまえに、wikipediaの「イタリアにおける2019年コロナウィルス感染症の流行状況」によって、簡単にイタリアの状況をみておきたい。イタリアにおいて新型コロナウィルス肺炎の感染症例が公式に報告されたのは、2020年1月30日であったが、その際の感染者は2名に過ぎず、それも中国人の渡航者であった。全世界的にみても、その当時(1月31日)の感染者数は9826名、死亡者は213名で、大多数は中国で発生していた。それでもイタリア政府は非常事態を宣言した。その後、2月22日に感染者数が増加した北部の11の自治体では都市封鎖を実施し、翌23日には北部の学校・美術館・劇場・映画館などの閉鎖が命令された。それでも、2月23日の感染者数は150名、死亡者は3名で、1月30日からみれば増えたものの、今からみれば数少なかった。アガンベンが「エピデミックの発明」を発表した2月26日の感染者数は445名、死亡者数は12名、2月29日の感染者数は1128名、死亡者数は29名と増加傾向は顕著となっていたが、今日の時点からみれば少なく感じられる。ちなみに、2月29日の全世界における感染者数は85403名、死亡者数は2924名であったが、やはりその多くが中国で発生していた。しかし、3月になるとイタリアにおいては指数関数的といわれるような爆発的感染となり、3月15日に感染者数24747名、死亡者数は1809名、3月31日には感染者数105792名、死亡者数12428名となった。イタリア政府は感染拡大に応じて、3月7日に、北部・中部諸州における都市封鎖の対象地域を拡大し、3月9日にはイタリア全土が対象となった。

2020年3月という時期は欧米で新型コロナウィルスの爆発的な感染が顕著になった時期で、3月31日時点では、アメリカ合衆国が感染者数185991名、死亡者数は3806名、スペインが感染者数111541名、死亡者数8662名、フランスが感染者数52128名、死亡者数3523名、イギリスが感染者数25521名、死亡者数3095名、全世界では感染者数750890名、死亡者数36405名を数えた。ちなみに、現時点(6月2日)では、イタリアでは感染者数233197名、死亡者数33475名、全世界では感染者数6343360名、死亡者数が376305名となっている。現時点では、イタリアの感染も拡大してきたのだが、全世界ー特にアメリカ合衆国・ブラジル・ロシアなどーの感染拡大のペースはイタリアのそれをかなり上回っている。

なお、イタリアでは、5月18日より段階的に都市封鎖ーロックダウンの解除が進められ、6月3日からは国内移動や国境通過(ただし、相手国の対応次第)も解禁された(https://www.bbc.com/japanese/52916367 https://www.bbc.com/japanese/52702252)。

アガンベンが「エピデミックの発明」を発表したのは、感染増加傾向はみられたが、今日ほどの状況ではないなか、北部の11の自治体で都市封鎖がなされた時点であった。アガンベンは、この時期にだされた、新型コロナウィルス肺炎は通常のインフルエンザとそれほど違わないものとするイタリア学術会議の声明を典拠にして、次のようにいっている。

コロナウイルス由来のエピデミックとされるものに対する緊急措置は、熱に浮かされた、非合理的な、まったくいわれのないものである。

アガンベンは、根拠が薄弱にもかかわらず、新型コロナウィルス肺炎対策として都市封鎖が行われたことについて、「メディアや当局が全国で激しい移動制限をおこない、生活や労働のありかたが通常に機能することを宙吊りにして正真正銘の例外状態を引き起こし、パニックの雰囲気を広めようと手を尽くしている」と指摘する。なお、「例外状態」とはアガンベンの思想のキーワードだが、ここでは「国家的非常事態」と、とりあえずは理解してほしい。アガンベンがこの文章を発表した際には、まだ一部の地域に限定されて都市封鎖が実施されていたが、この措置は全国に拡大するだろうとも述べていた。実際、都市封鎖は3月9日には全国に拡大されたのである。

アガンベンは、都市封鎖において想定されている「自由に対する重大な制限」を次のように列挙する。

A:当該自治体・地域にいる全個人に対する転出禁止。

B:当該自治体・地域への進入禁止。

C:場所の公私を問わず、あらゆる性質のデモや企画、イベント、あらゆる形態の集会の中止。文化・娯楽・スポーツ・宗教に関わるものもすべて中止。公衆向けの、閉ざされた場での開催も中止。

D:幼児から小中高までの教育サービスの中止、また教育活動への出席や高等教育の中止。ただし遠隔教育を除く。

E:博物館・美術館ならびに、文化財景観法典第一〇一条、二〇〇四年一月二二日付政令第四二号に関わるその他の文化施設・場の、公衆に対する入場サービスの中止。当該施設・場への無料入場に対する中止措置の有効性は言を俟たない。

F:国内、国外を問わず、教育目的のいっさいの旅行の中止。

G:倒産手続きの中止、また、公益ある本質的サービスの提供以外の役所の活動の中止。

H:拡散した伝染病の症例であると確認された者と濃厚接触した個人に対する、積極的監視をともなう検疫隔離措置の適用。

 

このような自由の制限をもたらしたものとして、アガンベンはテロリズムなどの脅威などを口実にして、諸政府が「例外状態を通常の統治パラダイムとして用いるという傾向」と、「諸政府によって課される自由の制限はセキュリティへの欲望の名において受け容れられるが、当の諸政府こそがセキュリティへの欲望を駆り立て、その欲望を充たすべくいまや介入をおこなう」社会状況をあげている。

 

このアガンベンの発言は、ヨーロッパの哲学者たちからの強い批判を受けた。フランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーは「ウィルス性の例外化」(2月27日発表)を、イタリアの哲学者ロベルト・エスポジトが「極端に配慮される者たち」(2月28日発表)を、イタリアの精神分析学者・哲学者セルジョ・ベンヴェヌートが「隔離へようこそ」(3月5日発表)を出し、それぞれアガンベンの発言を批判した(それぞれ『現代思想』5月号所収)。

このように批判を受け、イタリア社会においても爆発的感染があきらかになった3月中旬においても、アガンベンは都市封鎖政策を批判しつづけていた。アガンベンの「感染」(2020年3月11日発表)、「説明」(2020年3月17日発表)において、さすがに新型コロナウィルス肺炎をインフルエンザにたとえるような論理は影を潜めたが、あいかわず激烈に都市封鎖政策批判を行っている。

まずは、「感染」からみておこう。アガンベンは16~17世紀のペスト流行時に、その流行がペストの病毒を市街に塗り付けた「ペスト塗り」によって引き起こされたと認識されて警戒されたことを引き合いにして、現在のイタリアの措置は「 事実上、 それぞれの個人を潜在的なペスト塗りへと変容させている。 これはちょうど、 テロに対する措置が、 事実上も権利上も全市民を潜在的なテロリストと見なしていたのと同じである 」とする。そして「私見では、 この措置のうちに暗に含まれている自由の制限よりも悲しいのは、 この措置 によって人間関係の零落が生み出されうるということである」とアガンベンは言う。社会的距離をとれと人々に強制することは、そういうことに結果していくのである。そして、それは「大学や学校がこれを限りと閉鎖され、 授業がオンラインだけでおこなわれ、 政治的もしくは文化的な話をする集会が中止され、 デジタルなメッセージだけが交わされ、 いたるところで機械が人々のあいだのあらゆる接触 ―― あらゆる感染 ―― の代わりとなりうる、 という状況 」が創出されるとアガンベンは指摘するのである。

「説明」では、このような状況の社会的な意味について説明している。アガンベンは次のように言う。

私たちの社会はもはや剥き出しの生以外の何も信じていないということである。 病気になる危険を前にしたイタリア人 に、 ほとんどすべてのものを犠牲にする用意があるというのは明らかである。 ほとんどすべてのものとは、 通常の生活のありかたや社会的関係や労働、 さらには友人関係や情愛や宗教的・政治的な信念のことである。

引用箇所でアガンベンは「剥き出しの生」という概念をつかっている。この「剥き出しの生」という概念もアガンベンの重要なキーワードなのだが、とりあえず、自然的な生、生物学的な生として理解しておく。ここでの文脈は、通常の社会的関係をすべて犠牲にして、生物的な生存のみを追い求めているということになるだろう。

そして、アガンベンは「 諸政府がしばらく前から私たちを慣れさせてきた例外状態が、 本当に通常のありかたになったということである」とし、次のように指摘する。

永続する緊急事態において生きる社会は、 自由な社会ではありえない。 私たちが生きているのは事実上、「 セキュリティ上の理由」 と言われているもののために自由を犠牲にした社会、 それゆえ、 永続する恐怖状態・セキュリティ不全状態において生きるよう自らを断罪した社会である。

 

すでに見てきたように、アガンベンの都市封鎖ーロックダウン批判には強い批判がある。今まで紹介してきたものの他に、ジャン=リュック・ナンシーが再び「あまりに人間的なウィルス」(3月17日発表、『現代思想』5月号訳出)でアガンベンを批判し、スロベニア出身の哲学者スラヴォイ・ジジェクも、「監視と処罰ですか?  いいですねー  お願いしまーす!」(3月16日発表、『現代思想』5月号訳出)と「人間の顔をした野蛮がわたしたちの宿命なのかーコロナ下の世界」(3月18日発表、『世界』2020年6月号訳出)でアガンベンを批判している。それらについては、次回以降の本ブログでみていきたい。

ただ、ざっとみても、アガンベンの反対意見については問題があるだろう。そもそも、インフルエンザのようなものだから特別な感染対策をたてる必要がないというのは、2~3月時点で世界の各国である程度みられたが、現時点でみると、とてもそうはいえない。また、前回紹介したハーヴェイが指摘しているように、都市封鎖ーロックダウンにおいては、それまでの新自由主義下における過度に浪費的で環境破壊的な現代資本主義へのアンチテーゼという意味もあろう。加えて、それぞれの各国の国家権力が「例外状態」を宣言して人々の生を「剥き出しの生」に単線的にもとめているというのも、日本の安倍政権の緊急事態宣言発布をめぐる逡巡や、その日本も含めた世界各国の政権が、多かれ少なかれ、「経済の復活」を求めて都市封鎖ーロックダウンの緩和を志向していることをみていると、やや単純にすぎる見方とも思える。

ただ、都市封鎖ーロックダウンについて、アガンベンの批判は一部あたっているように思える。第一に、人々が直接接触しないことが強制された状況の中で、彼らは、アガンベンのいうような「剥き出しの生」をこえた、人間としての生をおくることは可能なのかという問いである。社会的距離を取るということを厳格に励行するならば、家族以外と社会関係を維持することは可能なのだろうか。そして、そのような社会関係が初めて成立する営為ー学術的・教育的・文化的な営みは、これまでのように続けていけるのだろうか。

また、このような都市封鎖ーロックダウンを維持するためには、やはり、通常とは異なった「例外状態」における権力行使が必要であろう。日本の場合では、あからさまな強権行使という形ではなく、都市封鎖に即して人々に「自粛」を要請するという形をとったが、これは決して非権力的なものではなく、「自粛」を守らないという人々への「社会的制裁」ーつまりは「自粛警察」を前提にしたものであった。国家権力が責任を取らない形での「例外状態」における権力行使という観点も考えることができる。

こういう観点も含めて、次回以降の課題となるが、「例外状態」と「剥き出しの生」を扱ったアガンベンの代表的な著作『ホモ・サケルー主権権力と剥き出しの生』を参照して考えてみたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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