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Archive for the ‘女川原発’ Category

前のブログで述べたように、6月5日に、宮城県の被災地をみるために石巻・女川・牡鹿半島をめぐったが、その際、とりあえず、目標にしたのは女川原発であった。

女川原発(2011年6月5日)

女川原発(2011年6月5日)

いってみると、まわりが林で囲まれていて、ほとんどみられる状態ではなかった。多少残念ではあるが、福井県の美浜原発のように、直接、住民の住んでいる集落からみることができるというよりはいいだろう。直接、集落から目視できるということは、直接放射線が集落に遮蔽物なく達しうるということだから。

女川原子力PRセンター(2011年6月5日)

女川原子力PRセンター(2011年6月5日)

広報センター「女川原子力PRセンター」も閉鎖していた。なお、女川原発は避難所になっていた。下記の朝日新聞記事がそのことを報道している。

避難所は女川原発、「福島」に複雑な思い
2011年06月02日

 運転停止中の東北電力女川原発(女川町、石巻市)の敷地内で、避難生活を続けている被災者がいる。原発で暮らしながら、東京電力福島第一原発の深刻な事態を複雑な思いで受け止めている。

 女川原発で関係者以外入れない敷地を正門からバスで10分ほど走ると、避難所の体育館がある。暖房、水洗トイレ、自動販売機もある。火を使えないため炊き出しはないが、女川町からパンや弁当が届けられる。

 敷地内は自由に歩けないが、外出はできる。日中、自宅の片づけやがれき処理の仕事などに出かける避難者が多い。体育館に向かう最終バスが出る午後4時半の「門限」までに戻る。

 体育館にはテレビが1台。新聞も東北電力の従業員が持ってくる。避難者の男性(35)は「当初は原発のニュースも見ていたが、今じゃ避難者同士の話にも出ない」と話す。「原発より次の仕事が心配」(61歳男性)、「テレビも政府も原発ばかりでなく津波のことをちゃんと取り上げて」(44歳女性)。テレビでは子ども向けのビデオが流されることが多いという。

 周辺の集落はほとんどが壊滅状態で、東北電力は人道的配慮から被災者を受け入れた。ピーク時は360人ほどが避難し、いまも30人近くが暮らしている。女川原発の渡部孝男所長は「(避難所を解消する)期限は決めていない」と話す。

 女川町に原発計画が浮上したのは1965年ごろ。町は誘致を進めたが、地元の反対は根強く、建設決定まで10年余りかかった。

 原発の避難所で暮らした阿部七男さん(61)は、近くでカキ漁を営んでいた。建設前、原発が稼働する福島、福井両県を視察。漁獲物の風評被害がないことを確認し、賛成した。原発事故のニュースは耳にはするが、「女川原発は津波に備えて高い位置に造られた。福島第一原発とは違う」。

 一方、かつて建設に反対していた旧牡鹿町(現石巻市)の漁師の男性(68)は「俺たちは爆弾を抱えて暮らしているようなもの」と話す。原発が建った後、家族は原発関連の仕事に就いた。「お金をもらったら、もう反対とは言えないよ」

 福島第一原発の事故は、反対運動をしていた当時に懸念していた事態そのものだった。「形あるものは必ず壊れる。『絶対安全』なんてありえねえ」。男性は今、40年前に自ら叫んだ言葉をかみ締めている。(多知川節子、吉浜織恵)(http://mytown.asahi.com/miyagi/news.php?k_id=04000001106020004)

ただ、この地域には、結構「原発反対」の立看板がたっていた。私が発見しただけでも、四つ立っていた。原発建設地に、「原発反対」の立看板は立っていることは、あまり多くない。東海、敦賀、もんじゅ、美浜においては、少なくとも原発に直行する道には立看板はたっていなかった。浜岡では、一つみかけた。ここでは、四つも立っていた。

原発反対の看板(2011年6月5日)

原発反対の看板(2011年6月5日)

原発反対の看板の裏側(2011年6月5日)

原発反対の看板の裏側(2011年6月5日)

第一の看板は、女川原発正門に向かう道に立っていた。女川原発反対同盟の名前で「なくせ 原発 事故で止まるか みんなで止めるか」という、まるで、今を予兆したかのようなキャッチフレーズが書かれていた。

この看板の裏には墨書にて、「原発止めよう 九二女川行動」を記念して看板を1992年4月26日に建立したことなどが書かれていた。写真撮影に失敗して、全部解読できないのは残念である。

原発反対の看板(2011年6月5日)

原発反対の看板(2011年6月5日)

第二の看板は、「原発あっかんべえ!! 止□□う原発 子どもたちの未来のために」とある。この看板は、女川原発正門を通り越して、「女川原子力センター」に向かう道の途上にあった。

原発反対の看板(2011年6月5日)

原発反対の看板(2011年6月5日)

第三と第四の看板は、女川原発の南側に隣接する石巻市寄磯浜にあった。「原発反対 青年団 実業団」と書かれていた。全く同じものなので、第四の看板は撮影しなかった。

「青年団」はわかるが「実業団」とはなんだろうか。寄磯浜は、現在石巻市に編入されているが、以前は牡鹿町に属していた。牡鹿町の自治体史『牡鹿町誌』上巻(1988年)において、この地域には、年齢階梯組織である「契約講」というものが近世から存在し、1870年頃に「神風講社」というものに改称され、さらに1922年に「実業団」に改組されたと記述されている。この「実業団」は、15~43歳の男性が加入するもので、部落の基幹組織とされている。つまりは、近世に淵源する部落組織なのである。隣接部落は、まだ反対の意志を表示しているのだ。

『女川町誌』続編(1991年)によると、東北電力が女川を原発候補地と正式に発表したのは1967年であった。しかし、北側の雄勝町の漁協を中心に反対運動が展開し、雄勝・女川・牡鹿三町の反対派漁民を中心に「女川原子力発電所設置反対三町期成同盟会」が1969年に結成され、女川町漁協も同調した。

この反対運動のため、女川原発建設着工は10年遅延したとされている。女川漁協は1978年にようやく同意した。そして、隣接する牡鹿町寄磯浜の寄磯・前浜漁協が原発建設に同意したのは1979年であった。そして、同年女川原発は建設着工した。1984年にようやく第一号機の営業運転が開始されたのである。

漁協は同意しても、地域社会には、まだ反対への意識が根強く存在しており、それが、この四枚の立看板に現れているといえよう。

前述の朝日新聞の記事は、地元の人々の、微妙な感情をすくいとっている。今更、原発に反対できないという意識、安全であってほしいという願い。そこには、当の原発敷地に避難しているという現状把握もあろう。もちろん、東日本大震災に被災し、原発について考える余裕がないということもあろう。

一方で、原発に対する不安な感覚も増幅している。結局、非常に矛盾した意識の下にあるのではなかろうか。

この微妙な感情は、他の原発立地地域も、たぶん共有しているのではないかと思うのである。

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