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2016年4月18日現在、九州の熊本地方に地震が襲っている。4月14日夜、マグニチュード6.5、最大震度7の地震が起こり、16日未明にはマグニチュード7.3、最大震度6強の地震が発生した。16日以後、震源域は東側の阿蘇地方・大分地方にも拡大しつつ、最大震度6・5クラスの地震が相続いている。最大震度5以上の地震は4月14日に3回、15日に2回、16日に9回発生した。17日に大きな地震はなかったが、4月18日の夜、本記事を書こうとした際、最大震度5強の地震が発生したという報道に接した。

この地震については、地震の専門家である気象庁が「観測上例がない」と困惑を見せている。次の毎日新聞のネット配信記事を見てほしい。

<熊本地震>気象庁課長 観測史上、例がない事象を示唆
毎日新聞 4月16日(土)11時21分配信

<熊本地震>気象庁課長 観測史上、例がない事象を示唆

 ◇熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象に

 気象庁の青木元(げん)地震津波監視課長は16日午前の記者会見で、熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象について「広域的に続けて起きるようなことは思い浮かばない」と述べ、観測史上、例がない事象である可能性を示唆。「今後の(地震)活動の推移は、少し分からないことがある」と戸惑いを見せた。

 また、14日の最大震度7の地震を「前震」と捉えられなかったことについて、「ある地震が発生した時に、さらに大きな地震が発生するかどうかを予測するのは、一般的に困難だ」と述べた。

 熊本地方などを含む九州北部一帯は低気圧や前線の影響で、早い所で16日夕方ごろから雨が降り始め、16日夜から17日明け方にかけては広い範囲で大雨が予想されている。青木課長は「揺れが強かった地域は土砂災害の危険が高い。さらに雨で(地盤が)弱くなっている可能性があるので注意をしてほしい」と呼びかけた。【円谷美晶】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160416-00000052-mai-soci

気象庁に言わせれば「観測史上例がないこと」なのだろう。しかし、本当に未曾有のことなのだろうか。熊本地震の報道に接しながら、地震学者石橋克彦著の『大地動乱の時代』(岩波新書、2014年)を想起した。本書の冒頭部分は「幕末ー二つの動乱」と題されている。嘉永6年(1853)にペリーの黒船艦隊が来航し、それ以来、日本は幕末の動乱を迎えていくことになる。石橋によると、この時期は日本列島で地震活動が盛んになった時期でもあった。ペリー来航より少し前の嘉永6年2月2日(1853)、マグニチュード7の「嘉永小田原地震」が発生した。
 
翌嘉永7年(1854)にペリーは再来航し、日米和親条約が締結される。この年の6月15日に、伊賀上野・四日市・笠置山地でマグニチュード7.2、6.7、6.8の地震が相次いで発生し、桑名から京都・大阪までの広い範囲で震度5以上の揺れとなり、1000人以上が死亡したという。11月4日には、駿河ー南海トラフを震源としたマグニチュード8.4の「安政東海地震」が発生した。東海地方の多くの地域が震度6以上の揺れとなり、さらに伊豆半島から熊野灘まで海岸に津波が襲来した。場所によっては津波は10m以上に達したという。
 
 そして、「安政東海地震」発生の約30時間後の11月5日、紀伊半島・四国沖の南海トラフを震源とするマグニチュード8.4の「安政南海地震」が発生した。紀伊半島南部と四国南部は震度6以上の揺れに見舞われ、伊豆半島から九州までの沿岸には津波が襲来した。大阪にも津波は及んだのである。そして、黒船来航、御所焼失とこれらの一連の地震を考慮して、11月27日に年号は「安政」に改元されたのである。

しかし、改元されても、地震は止まなかった。安政2年10月2日(1855)、安政江戸地震が発生した。マグニチュードは6.9であったが、都市直下型地震であったため、江戸市中を中心に震度6以上の揺れになった。火事も発生し、1万人以上が死んだとされている。そして、これらの地震活動は、石橋によると1923年の関東大震災にまで継続していったとされている。

このように、3年あまりの間で、日本列島は5回もの大地震に遭遇したのである。石橋は次のようにいっている。

江戸時代末の嘉永6年(1853)、日本列島の地上と地下で二つの激しい動乱が口火を切った。二つの激動は時間スケールこそ多少ちがっていたが、ともに、そのご十数年から数十年のあいだに日本の歴史を左右することになる。(石橋前掲書p4)

確かに、このような短い時期に大地震が集中したのは希有のことだっただろう。しかし、日本列島で、大地震が連続して発生することは未曾有のことではないと歴史的に言える。

石橋は次のように指摘している。

黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、関東・東海地方の大地の底では、もう一つの「動乱の時代」が始まっていた。嘉永小田原地震を皮切りに、東海・南海巨大地震がつづき、安政大地震が江戸を直撃する。そして、明治・大正の地震活動期をへて、ついに大正12年の関東巨大地震にいたる。
 それから71年。東京は戦災の焦土の中から不死鳥のごとくに蘇り、日本の高度経済成長と人類史上まれにみる急速な技術革新の波に乗って、超過密の世界都市に変貌した。しかし、この時期は、幸か不幸か、大正関東地震によって必然的にもたらされた首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)にピタリと一致していた。敗戦による「第二の開国」のあと日本は繁栄を謳歌しているが、首都圏は大地震の洗礼を受けることなく、震災にたいする脆弱性を極限近くまで高めてしまったのである(石橋前掲書p1)

日本の戦後復興・高度経済成長・技術革新の時代は、石橋によれば首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)でもあった。「技術革新」の中には、地震科学の発展も含まれるであろう。気象庁などによる精緻化された「地震科学」は、「大地の平和の時代」における経験の産物なのであり、幕末のような「大地動乱の時代」にはそのままの形では対応しきれないのではなかろうか。

『大地動乱の時代』出版の翌年である1995年に阪神淡路大震災が発生した。2011年には東日本大震災が起きた。これ以外にも様々な地震が起きている。そして、今回の熊本地震の発生である。「大地動乱の時代」の再来を意識せざるをえない。そして、とにかく確認しなくてはならないことは、日本列島に住むということは、現状の科学で把握できるか否かは別として、このような地震の発生を覚悟しておかねばならないということである。

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さて、宮城県石巻市において、支援ボランティアを中心として、復興の象徴としてのひまわりを植栽する活動がなされていることを、前回のブログで述べた。

石巻市の北側にある、同じく津波被災地の南三陸町や気仙沼市では、やはり復興の象徴でありつつも、鎮魂の意味をもつ「はるかのひまわり」が植栽されている。

南三陸町の「はるかのひまわり」

南三陸町の「はるかのひまわり」


(南三陸 ホテル観洋のサイトより)

神戸新聞は、2011年8月11日に、次のような記事をネット配信している。

被災地結ぶヒマワリ満開 宮城・南三陸町 

花を咲かせた「はるかのひまわり」と牧野駿さん=7月30日、宮城県南三陸町
 1995年の阪神・淡路大震災で11歳で亡くなった女の子にちなんだ「はるかのひまわり」が東日本大震災の被災地、宮城県南三陸町の畑で花を咲かせ、被災者の心を和ませている。
 はるかのひまわりは、阪神・淡路大震災で亡くなった神戸市の小学6年加藤はるかさんの自宅跡地に咲いたヒマワリ。地元の人が育て、新潟県中越地震の被災地など各地に種が配られ、はるかさんのエピソードとともに復興のシンボルとして広がってきた。
 南三陸町に伝わったのは東日本大震災の後。同町の会社経営及川博之さん(64)が新潟市から炊き出しに来ていた親類の男性から種を受け取ったのがきっかけだった。合併前の旧歌津町長を務め、震災で長男(46)が行方不明となった牧野駿さん(72)が共鳴し、4月中旬から所有する高台の畑に地元住民と一緒に種をまき続けた。
 及川さんや牧野さんらは「三陸ひまわりの会」を立ち上げ、南三陸町と隣の同県気仙沼市の住民とともに国道沿いに種をまく運動を展開。1日には仙台市で開かれる防災をテーマとしたアジア太平洋経済協力会議(APEC)の会合参加者にヒマワリの切り花も贈る。
 牧野さんは「住民の間で出会いや絆が生まれている。来年以降も続けていきたい」と話している。
特集】東日本大震災
(2011/08/01 10:00)

単純にいえば、1995年の阪神・淡路大震災において亡くなった小学生加藤はるかの自宅跡地に咲き、「復興のシンボル」となったひまわりの種を南三陸町や気仙沼市で植える運動が展開されているということなのだ。

この「はるかのひまわり」は、すでに神戸新聞の記事で言及されているように、元々は、阪神・淡路大震災の犠牲者の記憶なのである。この「はるかのひまわり」は、阪神・淡路大震災の記憶において、かなりメジャーなものになり、それを伝える絵本もある。まずは、絵本『あの日をわすれない はるかのひまわり』(指田和子作、鈴木びんこ絵、2005年、PHP研究所)から、「はるかのひまわり」についてみておこう。

『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

この話は、単純にいえば、阪神・淡路大震災で亡くなった小学生加藤はるかの自宅跡に自然に咲いたひまわりが「はるかのひまわり」とよばれ、復興の象徴になったということである。

まず、なぜ、「はるかのひまわり」と呼ばれるようになったか、経緯をみてみよう。本書はつぎのように述べている。

その年の 夏の ことです。
「ひまわりが さいた……」
ガレキが かたづけられた いえの あとから かえってきた おかあさんが、ぽつりと いいました。
うどんやの おっちゃんたちが、はるかを たすけだした あのばしょ(引用者注…助け出された時、すでにはるかは亡くなっていた)。
そこに、はるか みたいに まんまるの かおをした 大きな 大きな ひまわりがさいた。
「はるかの うまれ かわりや!」
おっちゃんも きんじょの ひとも いいました。

ーもしかしたら、それ、おとなりさんが かってた オウムの えさが こぼれんたかもしらん。なあ、はるか?

その秋、おっちゃんは、ひまわりの タネを しゅうかくしました。
そして つぎの年の 春から タネを まきはじめたのです。
ガレキが、すこしずつ かたづられた あとの
あきちや みちの はしっこに。
『あの日をわすれない はるかのひまわり』(amazonより)

まずは、「はるかのひまわり」は、震災で亡くなったはるかの「生まれ変わり」として認識されたことに注目してほしい。ある意味では、輪廻転生やギリシャ神話におけるアネモネになったアドニスなどがを思い起こされる。つまりは、神話的もしくは宗教的な意味が「はるかのひまわり」にはあるといえる。そして、この「はるかのひまわり」を植えることは、阪神・淡路大震災の犠牲者に対する一つの「鎮魂」ともいえるであろう。

他方で、この「はるかのひまわり」は、復興の象徴でもある。本書は、このように語っている。

震災の復興の花
 震災から6年目の2001年、神戸市で「KOBE2001 ひと・まち・みらい(神戸21世紀・復興記念事業)」という9か月にもわたるイベントが開催されました。これはたくさんの神戸市民が参加してつくりあげたイベントで、このイメージフラワーにひまわりが選ばれたのでした。ガレキのあとに咲いたあの「はるかのひまわり」は、震災からの一日も早い「復興」を願う人すべての心の花になったのです。
 この年、神戸ではいたるところにひまわりのタネがまかれ、夏にはおひさまのような黄色い花がまちをかざりました。その数150万本。これは、当時の神戸市民の数と同じでした。

このように、「はるかのひまわり」は、このイベントの中で震災復興の象徴となっていくのである。

さらに、この「はるかのひまわり」は、皇室によって正統化づけられていく。「はるかのひまわり」の普及活動を神戸で担っているNPO法人阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」のサイトは、次のように伝えている。

2009年12月 9日 (水)

はるかのひまわり報告

  5年前のお話 両陛下が神戸を訪問された時に 一人の少女より 
 皇后陛下のお手に はるかのひまわりの種と 指田和子さんの著書 
皇后陛下もご存知の「あの日を 忘れない はるかのひまわり」が
たくされてからの ひまわりがたどった日々が 平成22年1月2日 
月曜日 午前5時~5時40分に 
 フジテレビの皇室ご一家 新春スペシャルの
内で 放映されます ご期待下さい
http://117kibou.cocolog-nifty.com/blog/cat3051143/index.html

ある意味では、「はるかのひまわり」は、国家が認定したものになったといえるであろう。

なお、気仙沼市・南三陸町に「はるかのひまわり」を送ったのは「はるかのひまわり 絆プロジェクト」という団体だったようである。その団体のサイトでは、次のように、「はるかのひまわり」を普及する意義を語っている。

「はるかのひまわり」を育て採取した種を配布する過程で由来を伝え、災害の悲惨さと共に命の尊さを再考する機会とする事で、「人の尊厳」と「人との関わりの大切さ」を知る感性豊かな地域社会を醸成する事を目的とします。

阪神大震災での災害の教訓と命の尊さを、「はるかのひまわり」の命の連鎖に例え、実際にその手で育てる過程で、社会の最小単位である「家族」。咲いたひまわりを愛でる「見知らぬ人」。会社で育てる事で「社員」。そのひまわりを愛でる「近隣の人々」・・・・に出来事を伝えることで、少しでも地域社会での「絆」と、はるかちゃん、の「命」の連鎖を紡いでゆきたい。

そんな折に東北地方を襲った未曽有の地震と津波。
自然の営みには非情さと、人間にはかなわない力があるのでしょう。
しかし、人間には智恵と勇気と絆があります。
http://www.season.co.jp/haruka_sunflowerFB.htm

このプロジェクトでは、女の子よりひまわりへの転生の過程を、人間社会における関係性の連鎖とアナロジーで捉えているのである。

このように、宮城県の南三陸町・気仙沼市においては、阪神淡路大震災の記憶を源流とした、鎮魂と復興の象徴としての「はるかのひまわり」が植えられたのである。三陸ひまわりの会の中心人物である元歌津町長牧野駿の長男が行方不明であるということも想起されたい。阪神淡路大震災において、鎮魂と復興は、共に課題であった。そして、その課題を解決する象徴としての「はるかのひまわり」という伝統が、同様の状況にある南三陸町・気仙沼市に引き継がれたといえるのである。

付記:三浦博光「『はるかのひまわり』運動が生んだもの」(『世界』2011年8月号)には、地域の自生的な復興運動として「はるかのひまわり」が挙げられている。後述するつもりだが、被災地でひまわりの植栽活動が広まったのは、私自身も、だれでも参加できる復興運動としての意味合いがあると思われる。ただ、この論文には、「はるかのひまわり」がもつ思想史的意義が言及されていないのである。

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