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Archive for 2015年8月

環境破壊の近代史を考えるため、2015年8月20日から22日にかけて熊本県水俣を訪ねた。いろいろな所をフィールドワークしたが、まずは「水俣病」公式患者発生の地である水俣市坪段についてみてみよう。

今から59年前の1956年5月1日、水俣病患者が「公式確認」された。原田正純は、この出来事を次のように語っている。

 

昭和31年4月21日、5歳11ヵ月の女の子が、歩行障害、言語障害、さらに狂騒状態などの脳症状を主訴として、チッソ(昭和39年まで新日本窒素株式会社)水俣工場付属病院(細川一院長)の小児科で受診した。その患者はその二日後の23日に入院した。この子が入院したその日、つづいて妹の2歳11ヵ月になる女の子が、歩行障害と手足の運動の困難、膝、手の指の痛みを訴え、姉と同じ状態で同月29日に同じ小児科で受診して入院した。
 その母親の話によって、隣の家にも同じような女の子がいるという、驚くべき事実を医師たちは知らされた。その隣の家の女の子は、5歳4ヵ月で、4月28日に同じように歩行障害、言語障害、手の運動障害をきたしていた。驚いた医師たちは、付属病院の内科、小児科をあげて、調査、往診により、さらに多数の患者を発見し、8名を入院させた。細川院長は、昭和31年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患が多発している」と、水俣保健所(伊藤蓮雄所長)に正式に報告した。この5月1日こそ、水俣病正式発見の日である。(原田正純『水俣病』、岩波新書、1972年、p2)

もちろん、5月1日は、「水俣病」発生が公式確認された日なのであって、細川一などの調査により、実際の水俣病患者の発生は1954年までさかのぼることができる。それでも、「水俣病」が公式確認されたということは歴史的意義がある。

この、最初の水俣病公式患者発生地、水俣市坪段について、原田は次のように回想している。

 

最初に正式発見された患者の発生した場所は、小さな入江の奥まったところに、数軒の家がお互いに寄り添うように建っている。その入江のいちばん奥のところに田中義光さんの家がある。この家の四女と五女が患者であった。ここの窓から見る恋路島は、ほどよく入江の松にはばまれて、そのまま一枚の絵のようである。満潮のときは、この窓から糸を垂れると魚が釣れる。その隣、江郷下さんの家も入江に沿って家が建てられており、水上生活者の家みたいである、この家では、第三例の女の子が発病したのであるが、その後家族が次々と発病し、文字通り一家全員水俣病に罹患した。(原田前掲書pp2-3)

熊本学園大学水俣学研究センター編『新版 ガイドブック 水俣を歩き、ミナマタに学ぶ』(熊本日日新聞社、2014年)では、「坪段(坪谷) 公式確認の地であり震源地である」とされ、次のように紹介されている。

 

岬というには余りにも小さい突出した岩積に囲まれた小さな舟溜りを坪段と呼んだ。ちょうど崖が崩れた谷のように両側が高台になっているからであろうか、坪谷とも呼ばれる。そこはまた、渚というには余りにも狭い砂利浜があって、かつては子どもたちの安全な遊び場になっていた。波もなく、深みもなく、それでいてビナ(巻貝の一種)やクロダイ、カキや子カニや時にはタコさえ石の下にいた。ミニチュアのような短い堤防には小さな石の祠と恵比寿さんがあって、子どもたちを見下ろして護ってくれていた。この恵比寿さんはここでじーっと水俣病の歴史を見つめていたはずである。田中家の二人の娘たちもこの狭い遊び場で潮の匂いを浴びながら2歳、5歳と育っていた。田中家は船大工であったために、家が海に張り出していて、満潮の時には窓から魚が釣れるようにさえ見えた。(熊本学園大学水俣学研究センター前掲書p43)

2015年8月22日、私はこの地を訪れた。実は8月20日、水俣病センター相思社水俣病歴史考証館にて前述のガイドブックを購入し、その日のうちに行こうとしていたのだが、20日は自動車でのいき方がわからず、挫折した。22日に、ようやく新設された「月浦新港」の脇から入る道から入ることができた。簡単にいえば「月の浦橋」という橋の下にある。チッソが廃水を流していた百間港のすぐ南にあった。

近くに「月浦新港」ができて、坪段はあまり改修されていないらしい。1950〜1960年代の水俣病が多発していた漁村の原風景をしのぶことができる地でもある。

まず、簡単に説明すれば、急傾斜の崖地に囲まれた小さな入江、それが坪段である。陸側からではどこから入っていいかわからないほどのところであり、道も狭い。すぐそばに国道3号線が通っており、水俣市街地からもさほど遠くはないが、周辺からは隔絶している。ほとんど平地はなく、一般的な田畑をつくる余地はない。まず、一番奥を写した写真を掲示しよう。

水俣市坪段

水俣市坪段

コンクリートではなく、石垣で船着場がつくられ、その上にまるで釣りが出来るような具合で家がたっている。そして、非常に小さな渚がある。実際足を踏み入れてみると小さなカニがいた。

ここの船着場は、小さい割に意外と複雑なつくりをしている。まず船着場の外側に、やはり石垣で作られた中堤防というようなものがあり、その上に月の浦橋がかかっている。

水俣市坪段の中堤防

水俣市坪段の中堤防

その中堤防から、不知火海のほうをみてみよう。画面左のほうに石垣でつくられた外堤防というべきものがある。小さいつくりながら、きっちりとした漁港であった。そして、右のほうには現在の「月浦新港」の堤防の一部がみえる。そして、遠くに見える島が、百間港のそばにある恋路島である。原田の回想通りである。

水俣市坪段からみた不知火海

水俣市坪段からみた不知火海

恵比寿様らしき石像が隣の月浦新港にまつられていた。波にさらされ、ぼろぼろになっていた。

月浦新港にまつられていた恵比寿様

月浦新港にまつられていた恵比寿様

月浦新港には、漁船が繋留されていた。水俣病が多発した漁港のいくつかに私は行ったが、どこでも漁船が数多くとまっていた。

月浦新港

月浦新港

この坪段では、1954年頃より、まずはネコが次々と狂死し、飼っていたブタもたおれた。1956年には、二人の女の子が水俣病患者として発見されるが、この子たちは他に発見された患者らともに、伝染病罹患が疑われて隔離病棟に移され村八分の状態になったという。母親は「わたしがネコの病気がこの子にうつったのではなかでしょうかと医者に言わんばよかったのに言ったためにひどい目にあった」と亡くなるまで悔やんでいたという(熊本学園大学水俣学研究センター前掲書p44)。このことは水俣病患者への差別を物語っている。その後も患者は続発し、熊本大学医学部二次水俣病研究班(1973年)によると、坪段8戸41人のうち、25人が水俣病、7人が水俣病疑いと診断され、未検診を除くと症状のない者はわずか4人だったという。集落住民の四分の三が水俣病の症状が出ていたのである。

この坪段は、単に水俣病患者が最初に公式的に確認された地というだけでなく、水俣病患者がどのような地域で多発し、患者たちがどのような視線にさらされてきたかを如実に理解できる場である。水俣市では、今でも水俣病であるから水俣の印象が悪くなるという声があるという。水俣市内をめぐっても、水俣病発生を具体的に示す掲示は非常に少ない。水俣病被害者として運動を続けてきた川本輝夫は、水俣の88ヵ所に地蔵を建立する願いをもっていたという。もちろん、水俣病患者への現在も続く差別について考えなくてはならず、微妙な問題である。しかし、歴史研究者の一人としていえば、鎮魂のためにも、水俣病についての理解のためにも、どのような地域において水俣病が多発したのかを示しておく必要があると考える。

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現在、朝日新聞夕刊では、写真家・作家の藤原新也へのインタビュー記事「人生の贈りものー私の半生」を連載している。本日(2015年8月13日)はその9回目で、「3.11後遺症が日本を覆っている」というテーマで、藤原の東日本大震災認識が語られている。

まず、藤原はこのように言う。

 震災災害にしろ原発災害にしろ、人が故郷を失うということの意味を日本人のどれだけの人が実感として持てたかは疑問ですね。自分は高校生のとき家が破産し郷里を捨てたが、故郷そのものが無くなったわけではない。だが東日本では故郷そのものが完全に消失したわけだ。それは自分の血肉を失うことに等しい。

藤原は、1995年の阪神大震災でも景観全体が失われたわけではないとしつつ「東日本では風景そのものが流されてしまった」と指摘する。その風景の「残骸」は「瓦礫」と呼ばれることになったが、藤原は「震災地以外の人が瓦礫と呼んだものは当地の人にとっては最後の記憶のよりどころだったわけだ」と述べている。

さらに、藤原は、東日本大震災における津波災害被災者と原発災害被災者との違いをこのように表現している。

 

津波災害と原発災害が同時にやって来たわけだが、被災者の心情はまったく異なる。かたや天災、かたや人災。天災は諦めざるをえない気持ちに至れるが、人災は諦めきれないばかりかそこに深い怨念が生じる。取材時でも津波被災者は心情を吐露してくれたが、原発被災者は強いストレスを溜め、取材で入ってきた私にさえ敵視した眼を向け、とりつく島がなかった。

そして、藤原は次のように述べている。

…おしなべてストレス耐性の弱い老人で多くの老人が死期を早めた。原発の最初の犠牲は老人なんだ。原発再稼働にあたって経済効率の話ばかりが優先されるが経済とは人間生活のためにあるわけで、その人間生活の根本が失われる可能性を秘めた科学技術は真の科学ではないという理念を持った、本当の意味で”美しい日本”を標榜する政治家が今後出てきてほしいと願う。

しかし、現状の日本社会は、藤原の願いとはまるで逆方向にいっているようにみえる。「震災以降、日本人はどのように変りましたか」(聞き手・川本裕司)の質問に、藤原は次のように答え、この記事を締めくくっている。

 

3.11後遺症が日本を覆っているように感じる。日本列島が人の体とすると、日本人は左足か右足を失ったくらいのトラウマを背負ったわけだ。ヘイトスピーチや放射能問題に触れると傷口に塩を塗られたかのように興奮する人々の出現、キレる老人など日本人がいま攻撃的になっている理由の一つは、後遺症による被害妄想が無意識の中にあるように思う。それとは逆にテレビなどで外国人によるニッポン賛美番組がむやみに多いのは、3.11による自信喪失の裏返しの自己賛美現象であり、自己賛美型の右傾化傾向ひいては戦争法案への邁進とも底流でつながっている。

3.11以降の日本社会の意識状況について「3.11後遺症が日本を覆っている」と藤原は指摘している。私も2011年以降の日本社会の意識状況について同じように感じていた。ただ、「3.11後遺症」で中心をなす「故郷そのものが完全に消失する」ことへの恐怖は、単に東日本大震災からのみ出現しているわけではないだろう。すでに、兆候としては、バブル崩壊後の「失われた20年」における長期経済不況、リーマンショック時の雇用不安、さらに地方都市のシャッター街化という形で現われてきていた。そして、2011年はGDP世界第二位の地位が日本から中国に移った年でもある。よくも悪くも高度経済成長以降の「経済大国」化のなかで成立してきたこれまでの「故郷」=日本社会のあり方の根底が崩れる可能性が出現してきたといえる。

とはいえ、それらはまだ「可能性」ということはできる。東日本大震災は「故郷そのものが完全に消失する」光景を目の当たりにさせた。今までは「可能性」であった「故郷そのものが完全に消失する」ということを東日本大震災は可視化したのである。その意味で、東日本大震災は、それ自体が巨大な出来事なのだが、そればかりではなく、日本社会全体のあり方の象徴にもなっていると私は考える。

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