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Archive for 2013年12月

さて、また、12月26日の安倍首相の靖国神社参拝についてみておこう。前回のブログでは次のように述べた。靖国神社への首相の参拝については、憲法上の政教分離原則に抵触することや、靖国神社が国家によって国民が戦争にいかさせることを美化するなどいろいろな問題があるが、現状においてもっとも問題になることは、日本を戦争に導いていったとみなされ、極東国際軍事裁判において、A級戦犯として認定されて、処刑もしくは獄死した戦争指導者たちが合祀されており、そのような靖国神社への首相参拝は戦前の日本軍国主義を顕彰しているとみなされることであった。そのことを明確に批判しているのが中国政府であるが、日本国内でもそのような批判があり、昭和天皇はA級戦犯合祀を認識してから「平和」意識にかけているとして靖国参拝はしておらず、現天皇も踏襲している。しかし、安倍晋三は、戦争指導者たちと一般国民を「一体化」してとらえ、たぶん、中国・韓国から批判されることを念頭に置いた上で、靖国神社に参拝することで、現在の国民と安倍政権の一体化をはかろうとしたとみることができよう。そして、安倍個人にとっては、A級戦犯であった自らの祖父岸信介の名誉を回復する営為でもあった。なお、前回のブログでは書き落としたが、安倍首相にとっては、特定秘密保護法強行成立で下落した自らの支持率を回復することも期待していたといえる。

安倍首相にとって、中国・韓国からの批判は、もちろん「想定内」のことであった。むしろ、中国・韓国から批判されることで、日本国民のナショナリズムを高揚させようと考えていたと思われる。しかし、これらの国だけではなく、アメリカも、靖国参拝に「失望」の意を表明した。まず、「失望」を示した、アメリカ大使館声明をみておこう。

安倍首相の靖国神社参拝(12月26日)についての声明

*下記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。

2013年12月26日

 日本は大切な同盟国であり、友好国である。しかしながら、日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している。

 米国は、日本と近隣諸国が過去からの微妙な問題に対応する建設的な方策を見いだし、関係を改善させ、地域の平和と安定という共通の目標を発展させるための協力を推進することを希望する。

 米国は、首相の過去への反省と日本の平和への決意を再確認する表現に注目する。http://japanese.japan.usembassy.gov/j/p/tpj-20131226-01.html

この声明は、最初、アメリカ大使館声明として出されたが、その後、同じ内容で国務省声明で出された。格上げされたといえるだろう。その内容は、なかなか微妙である。まず、冒頭で日本が同盟国であることを強調しながら、靖国参拝については日本の指導者が「近隣諸国との緊張を悪化させるような行動」とし、「米国政府は失望している」と述べている。そして、日本と近隣諸国(つまりは、中国・韓国など)にともに、過去の歴史問題に対する建設的方策を見いだし、関係を改善し、地域の平和と安定という共通の目標を達成するために協力することを呼びかけている。日本だけではなく、中国・韓国などにもよびかけているというのがミソである。緊張悪化につながる靖国参拝には「失望」しているが、歴史問題を解決し、地域の平和と安定は、日本だけではなく、中国・韓国などの課題としている。さらに、最後に「米国は、首相の過去への反省と日本の平和への決意を再確認する表現に注目する」と述べている。これは、靖国参拝にあたり安倍首相が発表した談話に「日本は、二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省の上に立って、そう考えています」としているところを評価しているといえる。ただ、この談話において、確かに「平和への決意」は他でも述べられているが、「反省」とみられる文言はここにしかなく、アメリカ大使館もかなり苦労していることと思われる。

とりあえず、かなり気を使って、一方的にならないようにアメリカ政府が努力しているとはいえる。しかし、それでも、首相の靖国参拝について、アメリカ政府は近隣諸国との緊張を高めるという意味で「失望」と表現したのである。

靖国参拝について、それまでアメリカ政府はコメントしたことはなかった。今回が初めてである。その背景について、共同通信は次のように報道している。

【首相靖国参拝】 「失望」の裏に憤り 米、参拝静観に決別 

 近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに失望している―。米政府が26日、安倍晋三首相の靖国神社参拝を批判する声明を発表、日中韓の緊張緩和に向けた仲介努力を台無しにされたことに憤りをにじませた。中国が東シナ海上空に防空識別圏を設定したことを直ちに非難し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設前進へ安倍政権と二人三脚で取り組んできた米政府に何が起きたのか。
 ▽首相の不満
 「これだけ靖国参拝を我慢しているのに、中韓は対話を拒否している。首相は不満を募らせている」。今秋訪米した日本政府高官はこう漏らしていた。
 しかし東アジアの安定のためには、日韓、日中関係の悪化は望ましくないというのが米政府の基本的立場だ。首相の靖国参拝は同盟国指導者の行動でもあり、小泉政権時代は直接の批判を避けてきた。今回の声明内容はもちろん、声明を出したこと自体も従来と比べて一歩踏み込んだ厳しい対応といえる。
 米当局者によると、声明の表現としては「遺憾」や「懸念」も上がったが、日本側に明確なメッセージを送る必要があると判断し「失望」に落ち着いた。声明を出さないという議論はなかったようだ。

 ▽政権の違い
 「失望という言葉は予想していなかった」と語る日本政府筋は、小泉政権時代との対応の差を米政権の違いに求める。同盟国重視とされる共和党のブッシュ前政権であれば、今回のような声明は出さなかったとの見方だ。
 声明を「完全な間違い」と批判するシンクタンク、アメリカン・エンタープライズ研究所のオースリン日本研究部長は「日本を批判するべきではない。米国は中国の味方と受け止められる」と指摘する。
 しかし、安全保障問題に詳しい米民主党関係者は、防空圏や沖縄県・尖閣諸島をめぐる日中対立など東アジア情勢の緊迫化を指摘、ブッシュ政権時代と同じように論じるのは無理があると反論する。「共和党政権でも民主党政権でも変わらないだろう。事態を一層悪化させる動きには強く反応せざるを得ない」
 ▽はしごを外す
 オバマ政権が衝撃を受けたのは、今月上旬にアジアを歴訪したバイデン副大統領が、日中韓首脳に関係改善を求め「一定の成功を収めたという認識があった」(日米関係筋)からだ。
 特に韓国の 朴槿恵 (パク・クネ) 大統領に対し、バイデン氏は日本との関係修復を迫っただけに、オバマ政権内では安倍首相に「はしごを外された」との憤りが生まれたようだ。
 年末休暇でひっそりしている首都ワシントンで、日本政府関係者は靖国参拝に関する各方面への説明に追われている。安倍首相に付けられる「ナショナリスト」という枕ことばも当面消せなくなった。来年は日本外交にとって波乱の1年になりそうだ。(ワシントン共同=有田司)
(共同通信)
2013/12/29 17:48
http://www.47news.jp/47topics/e/248975.php

この記事によれば、アメリカの対アジア政策の基調は本地域の安定であり、そのためには、日中・日韓関係の悪化はもっとも避けなければならないとしている。そして、今月上旬に日中韓諸国を訪問したバイデン副大統領はそれぞれに関係改善を求めたのだが、今回の参拝は「はしごを外された」ものとして、憤りが生まれたとしているのである。

アメリカ政府は、それ以前から、靖国首相参拝はさけるべきだというメッセージを発していた。例えば、NHKは次のように12月26日に報道している。

ことし10月に日米の外務・防衛の閣僚協議が東京で行われた際には、ケリー国務長官とヘーゲル国防長官がそろって、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑を訪れ、花をささげました。
アメリカで、戦没者を埋葬するアーリントン国立墓地に当たる日本の施設は、千鳥ヶ淵の戦没者墓苑だと位置づけることで、安倍総理大臣に靖国神社への参拝を自粛するよう求めるメッセージを送るねらいがあったものとみられます。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131226/k10014135741000.html

婉曲な形で、戦歿者追悼について、靖国神社は不適当であると暗示していたといえよう。

それでは、安倍政権はどのような認識を持っていたか。朝日新聞朝刊(12月27日付)は「参拝日は、この日しかなかった。首相は25日、沖縄県の仲井真弘多知事と会談し、最後の懸案だった普天間問題が節目を越えた。米国は政権の努力を買っており、『参拝ショック』も和らぐと読んだ。26日は政権発足から1年の節目で、対外的に説明もついた」と報じている。結局、普天間基地の辺野古移転と首相靖国参拝がバーターされた形になっており、このこと自体が問題だが、基地問題で最大限の便宜をはかれば、アメリカは強く批判しないと思っていたらしい。

そして、「失望」が表明されても、首相周辺はそれほど深刻には受け止めようとはしていない。朝日新聞朝刊(12月28日付)では、「首相周辺は米国の批判を当初、『在日米国大使館レベルの報道発表だ』。その後、国務省が同様の談話を発表すると、政府高官は『別の言葉から『失望』に弱めたと聞いている』と語った。官邸から外務省には『参拝で外交に悪影響が出ると記者に漏らすな』と伝えられたという」と述べている。また、「『誤解』との表現で自らの参拝の正当性を訴えた首相に対し、米国の反応は『失望』だったが、首相周辺の危機感は薄い。政権幹部は『米国はクリスマス休暇中だし、言葉を練れていなかったのではないか」と分析。側近の一人は『米国は同盟国なのにどうかしている。中国がいい気になるだけだ』と不満を漏らした」と報道している。結局、ほとんどまともに認識しようとせず、さらに、悪影響を隠蔽し、逆ギレしている始末である。ここまでくると「裸の王様」としかいえないだろう。

もちろん、政権内部でも困惑の声がある。前述の朝日新聞は、次のように報道している。

 

ただ、政権の足元では、懸念の声が強まり始めている。外務省幹部は「『失望』という表現はショックだ。米国との間にすきま風が吹くと中国、韓国、北朝鮮が日本に強く出てくる」と指摘した。
 日米のきしみは、普天間問題にも影を落とした。…(普天間基地問題で日本政府の営為をアメリカが評価しているとした上で)だが、靖国参拝で効果は相殺される結果になった。政府関係者は27日、こう嘆いた。「靖国参拝のおかげで沖縄がかすんでしまった。歴史的な進展なのに」

結局、現実には悪影響はさけられず、普天間問題の「進展」さえ、免罪符にはならなかったのである。

そして、このアメリカ政府の「失望」表明に続いて、ロシアは「遺憾」の意を表明し、EUも緊張緩和や関係改善に寄与しないと指摘し、国連事務総長も「遺憾」であるとした。今まで、靖国参拝にコメントを出してこなかったような国なども批判的コメントを発表したのである。そして、欧米を中心に、外国の諸新聞もおおむね批判的な報道を行っているにいたっている。

アメリカ政府の「失望」声明に「同盟国」としての日本の立場への配慮があり、そのことからみても、短期的には日本はアメリカの「同盟国」としてのあつかいを受けるであろう。しかし、最早、中国・韓国という「近隣諸国」からだけでなく、国連を含めた世界各国から安倍政権は警戒されるにいたった。安倍政権としては、アメリカに従属した形で「戦後政治の総決算」をすすめていこうとするだろうが、長期的にいえば、祖父岸信介が首相を務めていた冷戦期と違って、アメリカが一方的に日本の「安全」を「保障」するいわれはないのである。その当時、アメリカは中国・ソ連などの共産圏と対抗しており、それに協力するならば、アメリカは独裁国家でも「同盟」していた。日本で岸のようなA級戦犯を含む戦前の支配層が復権し、さらに自衛隊が保有できたのは冷戦による国際秩序があったためである。今や、冷戦はなく、アメリカにとって、中国やロシアは、無条件に対抗する存在ではなくなった。もちろん、それぞれ「懸念」しなくてならないことはあるが、むしろ「協調」して現在の国際秩序を維持しようとする志向が強いだろう。そのような中、靖国神社参拝は、アジア諸国からだけでなく、アメリカを含めた国際社会全体から「孤立」化をまねくことになるのだ。しかし、安倍晋三首相は、そのことに目をつぶり、「裸の王様」となっているのである。

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2013年12月26日、安倍晋三首相が靖国神社を参拝した。中国・韓国が激しく反発しただけではなく、アメリカも「失望」を表明し、EU・ロシアや国連事務総長報道官も懸念を表明するように、日本の外交的孤立を招くことになった。

靖国神社参拝には、憲法の政教分離原則についての侵犯、さらに戦争で死んだ軍人・軍属を神として祀ることで、戦争によって死ぬということを美化しているのではないかなど、さまざまな問題がある。ただ、、現状において、中国・韓国などより批判にされていることは、日本をアジア太平洋戦争開戦に導き、戦後、「平和に対する罪」などで、極東国際軍事裁判で裁判され、死刑もしくは獄中死した東条英機などのA級戦犯が合祀され、彼らも神として参拝しているということである。

さて、どのような論理で批判しているのか。例えば、中国側の批判をみてみよう。2006年12月11日、王毅駐日中国大使(当時)は、新華社「環球」誌の年末インタビューにおいて、安倍晋三首相(第一次)が、靖国神社参拝をとりやめ、日中首脳会談を実現したことを評価しつつ、靖国神社参拝問題について、次のように述べている。

周知のように、戦後中日関係が再び発展できた政治的基礎は、日本政府が戦争の侵略的性格とその責任を認め、この歴史に正しく対処することである。だがA級戦犯はかつての日本軍国主義の責任者の象徴であり、A級戦犯を美化または肯定する言動にも、中国人民はどうしても同意できないし、アジア各国と国際社会としても受け入れ難い。
http://www.china-embassy.or.jp/jpn/zrgxs/t284043.htm

まず、みなくてはならないのは、とりあえず、靖国神社に首相が参拝することを問題にしているわけではないことである。中国側からいえば、A級戦犯は日本軍国主義の責任者の象徴であり、靖国神社への参拝は、彼らを美化することなのである。つまり、A級戦犯が靖国神社に合祀されていることが問題なのである。

実は、A級戦犯合祀は、戦後すぐからではない。1978年からである。それ以前は、あまり問題とされず、首相や昭和天皇も参拝していた。しかし、A級戦犯合祀は、昭和天皇に不快感を与えることとなり、以来、昭和天皇も現天皇も靖国神社参拝をとりやめた。元宮内庁長官である富田朝彦が、1988年4月28日にかきとめた昭和天皇の言葉が残っている。

私は或る時に、A級が合祀され
その上 松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか
易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに
親の心子知らずと思っている
だから 私あれ以来参拝していない
それが私の心だ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E3%83%A1%E3%83%A2

文中であげられている「松岡」は松岡洋右元外相、「白取」は白鳥敏夫元駐イタリア大使、「筑波」は元靖国神社宮司筑波藤麿、「松平の子」は松平慶民(元宮内相)の子で靖国神社宮司であった松平永芳とみられる。つまり、筑波藤麿宮司はA級戦犯合祀をさしとめていたのに、松平永芳宮司は合祀を認めてしまったことに憤り、それ以来参拝していないことを「私の心」としているのである。

その上で、父親の松平慶民には「平和に強い考え」があったのに、その心を子どもは受け継がず、「親の心子知らず」と評しているのである。

この昭和天皇の発言は微妙である。結局、極東国際軍事裁判では裁かれることはなかったが、国内外に昭和天皇の戦争責任をとう声は、戦争直後もあったし、今でも存在している。それらに対して、昭和天皇は、自身の戦争責任を否定した。しかし、昭和天皇からみても、戦争を指導していたA級戦犯たちは、靖国神社でまつるべき存在ではなかったのである。そして、その判断の基軸になったのは、「平和」なのであった。昭和天皇なりの「戦後」への適応がここにはみられるといえよう。実は、このような姿勢は、中国などの批判とも相通じているだろう。

考えてみれば、当たり前のことだが、国家の命令により戦争にいって命を落とした人びとと、そのような命令を出した指導者たちがその罪をとわれて死ぬことは、同じではないのである。もちろん、戦死者の多くは軍人であって、その営為により犠牲者が出ており、さらには命令を出していた将校たちも含まれるので微妙であるのだが。それでも、権力をもっている統治者と、それに従うしかない被統治者は、同じ立場ではないのだ。

さて、それでは、安倍晋三自身は、どのように自身を弁明しているのか。12月26日に出した談話全文を、時事通信のネット記事からみておこう。

靖国神社参拝に関する安倍晋三首相の談話全文は次の通り。
 本日、靖国神社に参拝し、国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊に対して、哀悼の誠をささげるとともに、尊崇の念を表し、み霊安らかなれとご冥福をお祈りしました。また、戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀(ごうし)されない国内、および諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも、参拝いたしました。
 ご英霊に対して手を合わせながら、現在、日本が平和であることのありがたさをかみしめました。
 今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。愛する妻や子どもたちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります。
 きょうは、そのことに改めて思いを致し、心からの敬意と感謝の念を持って、参拝いたしました。
 日本は、二度と戦争を起こしてはならない。私は、過去への痛切な反省の上に立って、そう考えています。戦争犠牲者の方々のみ霊を前に、今後とも不戦の誓いを堅持していく決意を、新たにしてまいりました。
 同時に、二度と戦争の惨禍に苦しむことが無い時代をつくらなければならない。アジアの友人、世界の友人と共に、世界全体の平和の実現を考える国でありたいと、誓ってまいりました。
 日本は、戦後68年間にわたり、自由で民主的な国をつくり、ひたすらに平和の道をまい進してきました。今後もこの姿勢を貫くことに一点の曇りもありません。世界の平和と安定、そして繁栄のために、国際協調の下、今後その責任を果たしてまいります。
 靖国神社への参拝については、残念ながら、政治問題、外交問題化している現実があります。
 靖国参拝については、戦犯を崇拝するものだと批判する人がいますが、私が安倍政権の発足したきょうこの日に参拝したのは、ご英霊に、政権1年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創るとの決意を、お伝えするためです。
 中国、韓国の人々の気持ちを傷つけるつもりは、全くありません。靖国神社に参拝した歴代の首相がそうであったように、人格を尊重し、自由と民主主義を守り、中国、韓国に対して敬意を持って友好関係を築いていきたいと願っています。
 国民の皆さんのご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。(2013/12/26-13:41)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201312/2013122600349&g=pol

この談話にはいろいろあるが、「今の日本の平和と繁栄は、今を生きる人だけで成り立っているわけではありません。愛する妻や子どもたちの幸せを祈り、育ててくれた父や母を思いながら、戦場に倒れたたくさんの方々。その尊い犠牲の上に、私たちの平和と繁栄があります。」という観点のもとに、靖国神社に合祀されている戦争犠牲者に「不戦の誓い」をするということが、全体の論理といえる。その上で、「靖国神社への参拝については、残念ながら、政治問題、外交問題化している現実があります。靖国参拝については、戦犯を崇拝するものだと批判する人がいますが、私が安倍政権の発足したきょうこの日に参拝したのは、ご英霊に、政権1年の歩みと、二度と再び戦争の惨禍に人々が苦しむことの無い時代を創るとの決意を、お伝えするためです。」といっている。A級戦犯と軍人・軍属の戦死者をわけていないのである。確かに、戦争犠牲者ーといっても、彼らの多くは軍人であり、彼らの営為で当然ながら死傷した人たちが数多くいたことを忘れてはならないがーの前で「不戦の誓い」をすることは理解できなくはない。しかし、A級戦犯という戦争責任者の前で「不戦の誓い」をするというのは、理解に苦しむことになるだろう。昭和天皇は、A級戦犯合祀に「平和に強い考え」がないとしているのであり、昭和天皇からみても、理解に苦しむことになろう

といっても、安倍晋三はそうは考えないだろう。彼にとって、国民は統治者であろうが被統治者であろうが「一体」であり、それがすべてなのだろう。ゆえに、靖国神社に、「戦争犠牲者」というくくりで、一般の戦死した軍人・軍属と、彼らを死地に赴かせた「戦争指導者」たちがともに合祀されても問題とは思わないのであろう。むしろ、中国・韓国を刺激し憤激させることで、それに対抗して、安倍政権と一般国民を「一体」化するということが戦略的に目指されていると考えられるのである。このことは、他方で、自身の祖父岸信介も含めたA級戦犯総体の復権にもつながっていくのである。

*執筆するにあたってWikipediaの「靖国神社問題」を参考にした。昭和天皇発言などで疑問のある方は、そちらを参照され、それでも疑問が解けない場合は、それぞれの典拠をみてほしい。なお、昭和天皇の発言は、文中で述べたように、問題をはらんでいないというわけではない。ただ、戦争責任を問われかねない昭和天皇からみてA級戦犯はどういう人たちと認識しており、安倍晋三とかなり異なった認識をもっていたことを示すために引用した。

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現天皇が12月23日に80歳を迎えた。誕生日をひかえた12月28日に宮内庁で記者会見を行った。まず、冒頭の部分をみておこう。

問1 陛下は傘寿を迎えられ,平成の時代になってまもなく四半世紀が刻まれます。昭和の時代から平成のいままでを顧みると,戦争とその後の復興,多くの災害や厳しい経済情勢などがあり,陛下ご自身の2度の大きな手術もありました。80年の道のりを振り返って特に印象に残っている出来事や,傘寿を迎えられたご感想,そしてこれからの人生をどのように歩もうとされているのかお聞かせ下さい。

〈天皇陛下〉
80年の道のりを振り返って,特に印象に残っている出来事という質問ですが,やはり最も印象に残っているのは先の戦争のことです。私が学齢に達した時には中国との戦争が始まっており,その翌年の12月8日から,中国のほかに新たに米国,英国,オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が,若くして命を失ったことを思うと,本当に痛ましい限りです。

戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,様々な改革を行って,今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し,かつ,改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し,深い感謝の気持ちを抱いています。また,当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。戦後60年を超す歳月を経,今日,日本には東日本大震災のような大きな災害に対しても,人と人との絆きずなを大切にし,冷静に事に対処し,復興に向かって尽力する人々が育っていることを,本当に心強く思っています。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h25e.html

ここで、重要なことは、第二次世界大戦を「本当に痛ましい限り」と表現した上で、「戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,様々な改革を行って,今日の日本を築きました。」と主張していることである。これは、天皇が日本国憲法の原理である「平和と民主主義」を擁護しているといえるであろう。

これは、改憲をかかげる安倍首相とは全く相反した意見といえるだろう。例えば、天皇誕生日の前日である12月22日に、安倍首相はNHKのテレビで次のような発言をしている。日本経済新聞が12月23日に配信した記事でみてみよう。

首相「落ち着いて仕事」 長期政権に意欲
2013/12/23 0:46

 安倍晋三首相は22日夜のNHK番組で「衆院(議員)もまだ3年任期がある。日本を正しい方向へ導いていくためにも、この期間に落ち着いて仕事をしていかなければいけない」と述べた。「そう簡単には辞めるわけにはいかない」とも語り、長期政権に意欲をにじませた。

 集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈の変更や憲法改正などには腰を据えて取り組む考えを強調したものとみられる。集団的自衛権に関して日本維新の会やみんなの党と連携したい意向を示すとともに「憲法改正は私のライフワークだ。なんとしてもやり遂げたい」とも力説した。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2201Q_S3A221C1PE8000/

安倍晋三は「憲法改正は私のライフワークだ」とまでいっているのである。天皇の意向との違いはあきらかである。

さらに天皇の発言を紹介しておこう。次の部分を読んでほしい。

問3 今年は五輪招致活動をめぐる動きなど皇室の活動と政治との関わりについての論議が多く見られましたが,陛下は皇室の立場と活動について,どのようにお考えかお聞かせ下さい。

〈天皇陛下〉
日本国憲法には「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない。」と規定されています。この条項を遵守することを念頭において,私は天皇としての活動を律しています。

しかし,質問にあった五輪招致活動のように,主旨がはっきりうたってあればともかく,問題によっては,国政に関与するのかどうか,判断の難しい場合もあります。そのような場合はできる限り客観的に,また法律的に,考えられる立場にある宮内庁長官や参与の意見を聴くことにしています。今度の場合,参与も宮内庁長官始め関係者も,この問題が国政に関与するかどうか一生懸命考えてくれました。今後とも憲法を遵守する立場に立って,事に当たっていくつもりです。

実は、この発言は、日本国憲法の規定に抵触する恐れがある。下記の条文にあるように、天皇は国政に関する権能はもたず、国事に関する行為のみが許されている。しかし、今まで触れてきた発言は、あきらかに「国政」への発言を含んでいるのであり、それ自体が問題をはらんでいる。そしてまた、憲法では、国事行為においては内閣の助言と承認が必要であるとしている。何が国事行為にあたるのかということも、本来、内閣の助言と承認が必要であるはずである。にもかかわらず、天皇は、何が国事行為で、何が国政に関与する行為であるということについて、宮内庁長官や参与の意見を参考にして「判断」しているのである。

第三条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第四条  天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
○2  天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
(中略)
第六条  天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
○2  天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。
第七条  天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一  憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二  国会を召集すること。
三  衆議院を解散すること。
四  国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六  大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七  栄典を授与すること。
八  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九  外国の大使及び公使を接受すること。
十  儀式を行ふこと。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html

このことは、現天皇が、厳密にいえば憲法の規定通り行動していないこと示しているといえる。しかし、それでも、現天皇は「今後とも憲法を遵守する立場に立」つと宣言しているのである。そして、本意としては「内閣の助言と承認」つまり安倍政権の天皇の行為への関与を限定的なものにしたいという意向があるといえる。

日本国憲法では「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」(前文)とし、天皇の位置については、「第一条  天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と定めている。主権者は国民であり、その総意によって天皇は「日本国の象徴」となっているのである。それゆえ、「国政の権能」はもたず、「国事行為」には、国民の代表である内閣の助言と承認が必要となっている。言うなれば、独自の政治的主体として公的に行動することは憲法上は認めていないのである。

しかし、少なくとも、現天皇は、主体的に「憲法を遵守」すると宣言している。そして、これは、私的な意見の表明ではない。国事行為と国政との境界については、宮内庁長官や参与などと協議して判断しているとしており、公的な意見の表明である。そして、この記者会見での発言を見る限り、内閣とは独立した立場なのである。非常に微妙なのだが、ある種の憲法に拘束されない立場をもつ天皇が、平和と民主主義を原理とする日本国憲法を「遵守」しているということになろう。いわば、天皇制が民主主義を護持しているのであり、「天皇制民主主義」ともいえるだろう。その意味で、実は、天皇の発言は、微妙なものである。

たぶん、この問題は、もともと内包されていた日本国憲法と天皇制の微妙な関係が、改憲をライフワークとする安倍政権の登場によって露呈されたとみることができるだろう。天皇の個々の行動が内閣の助言と承認を得たものではなくても、それらがおおむね内閣の方針と食い違うものでなければ、このよう問題は表面化しない。しかし、安倍政権と現天皇の憲法に対する見解が食い違ってくると、この問題に矛盾が内包されているが露呈されてくることになるのである。

そして、より微妙なのは、安倍政権は自民党を中心とした政権であり、自民党は昨年4月に「日本国憲法改正草案」を発表していることである。この草案では、現在の憲法前文にはない、次のような表現がなされている。

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される(後略)
http://www.geocities.jp/le_grand_concierge2/_geo_contents_/JaakuAmerika2/Jiminkenpo2012.htm#0

そして、草案第一条では「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とし、草案第六条第四項では「天皇の国事に関する全ての行為には、内閣の進言を必要とし、内閣がその責任を負う。ただし、衆議院の解散については、内閣総理大臣の進言による」としている。天皇を元首化するとともに、内閣の関与を「助言と承認」から「進言」とトーンダウンさせている。天皇の立場をより権威化しようとしたものといえる。しかし、安倍政権自体は、現天皇の意向とは矛盾した方向性をとっている。より矛盾が深まっているといえよう。そして、このことは、安倍政権が意図しない形で、「戦後政治」の見直しにつながっていくのではないかと考えられるのである。

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さて、特定秘密保護法制定や猪瀬直樹東京都知事辞職などの報道の背後で、福島第一原発や原発再稼働のことについても、いろんな動きがみられる。今回は、12月20日に政府が閣議決定した「復興加速の新指針」についてみることにしたい。

まず、大枠について、NHKが一番わかりやすい記事を12月20日にネット配信しているので、それで把握しておこう。

政府 復興加速の新指針を決定
12月20日 19時12分

政府は原子力災害対策本部を開いて、東京電力福島第一原子力発電所の事故で帰還できない住民が移住先で生活を始める場合の住宅の取得費用を賠償の対象に加えることなどを盛り込んだ、福島の復興の加速に向けた新たな指針をまとめ、閣議決定しました。

総理大臣官邸で開かれた対策本部には、安倍総理大臣や茂木経済産業大臣ら関係閣僚が出席し、原発事故からの復旧や復興の加速に向けた新たな指針をまとめました。
安倍総理大臣は指針について「福島の復興なくして日本の再生はない。関係閣僚は今回の決定に従って、地元と十分に協議しながら、被災者の生活再建と関係自治体の再生の道筋を具体化していってもらいたい」と述べました。
閣議決定された新たな指針では、できるだけ早い帰還を望む人と、故郷を離れて新しい生活拠点を定めざるをえない人への、2つの支援策を提示しています。
このうち、避難指示が解除され、できるだけ早い帰還を望む人には、住宅の修繕や建て替えについて賠償を追加するとしていますが、精神的な損害の賠償は、避難指示の解除後1年間までと明記しています。
一方、避難指示が続き帰還できない人が新しい生活を始める場合は、移住先での住宅取得に必要な費用を賠償に加えるとともに、事故から6年後以降の精神的損害を一括で賠償することが盛り込まれています。
また、帰還に向けた対応として、▽住民の被ばく線量は年間1ミリシーベルト以下にすることを長期的な目標とし、▽住民の被ばく線量の評価をこれまでの環境中の線量から推定する方法ではなく、住民に線量計を配り実際に測る方法に変えるとしています。
一方で、賠償や除染費用が膨らむ見通しになっているため、東京電力の支払いが滞らないよう、国が無利子で貸し付ける資金の枠を、今の5兆円から9兆円に拡大するとしています。
賠償は引き続き、東京電力と原子力事業者の負担金で賄う一方、将来的には除染費用などに国が保有する東京電力の株式の売却益も充てられることが盛り込まれています。(後略)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20131220/k10013988231000.html

この新指針の要点は主に三つある。まず、第一には、従来、福島全員帰還させる方針であったことを転換させ、早期帰還者と移住者の二つにわけて対応するということである。現状で空間線量が年間20mSvをこえている帰宅困難区域や居住制限区域に帰還するということは中期的には難しいことであり、年間20mSv未満の避難指示解除準備区域にせよ、かなり多くの人が帰還を望まない状況であるので、しかたのないことかと思う。ただ、問題は、これが精神的賠償の打ち切りと結びついているということである。現在、避難者には月10万円が精神的賠償として払われているが、避難指示解除1年後には打ち切るとしている。また、移住した場合、事故から6年以降の精神的賠償を一括で支払うとされている。たぶん、これは、避難指示解除ができない帰宅困難区域や居住制限区域を対象としているのであろう。さらに、帰還した場合でも、移住した場合でも、住宅の修繕、建て替え、取得費用は賠償に含めるとしている。いずれにせよ、賠償金の支払いは打ち切られるのである。

第二には、住民の被ばく線量の測定を、空間線量ではなく、個人ごとの線量にかえるということである。除染の基準が年間1mSvであることはかえないが、このことによって、除染対象はかなり少なくなることが想定される。さらに、将来的には、帰宅困難区域や居住制限区域の線引きも変更されることも予想されるであろう。そして、これもまた、除染や賠償費用の減少につながるということになるといえる。

第三には、東電への政府からの支援額を5兆円から9兆円に拡大するということである。賠償については、建前的には東電と原子力事業者が負担すべきとしているが、除染については、政府が保有する東電株式の売却益をあてるということにしているのである。少なくとも除染については、東電に負担させることを政府はあきらめたということになるだろう。

すでに述べてきたように、帰宅困難な被災者も多く、このような方針転換はしかたのないところもある。ただ、これらの復興加速とは、それぞれの項目で賠償や除染の全体額を縮小することで、東電とその費用を肩替りしている国の負担を軽減することにつながっているといえる。特に、東電の場合、支援額が2倍近くになるとともに、除染費用は国の負担にされているのである。賠償にせよ、除染にせよ、本来は被災者が当然受け取るべき権利である。しかし、それが切り捨てられ、東電は手厚く保護されている。もちろん、現状の費用全体を東電が払うことはできず、何らかの公的支援は必要であった。しかし、東電に出資した株主や銀行の責任は問われることは過去も現在もない。「東電復興加速の新指針」というのが、今回の方針といえよう。

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2013年12月19日、猪瀬直樹東京都知事が知事選前に徳洲会から5000万円を受け取った問題で辞任した。

辞任の直接の引き金となったのは、一つには、17日に都議会が偽証の際には罰則がある百条委設置を検討したことがあったといえる。そして、もう一つには、朝日新聞(18日付朝刊)の次の報道である。一部引用しておこう。

 

東京都の猪瀬直樹知事(67)が医療法人「徳洲会」グループから5千万円を受けとっていた問題で、猪瀬氏が昨年11月に徳田虎雄前理事長(75)に面会した際、売却が決まっていた東京電力病院(新宿区)の取得を目指す考えを伝えられていたことが、関係者の話でわかった。今月6日の都議会一般質問で「東電病院の売却は話題になっていない」とした猪瀬氏の答弁は、虚偽だった疑いがある。

 徳田前理事長の意思表示に対し、猪瀬氏も、自らが東電に売却を迫ったことを話したとされ、5千万円はこの面会の2週間後に提供された。猪瀬氏は10日の都議会総務委員会で「徳洲会が東電病院に興味を持っていたことは全く知らない」とも説明していたが、これも虚偽答弁の可能性が出てきた。病院の開設や増床には都知事の権限が及ぶこともあり、辞任を求める声はさらに強まりそうだ。

 猪瀬氏は昨年11月6日、神奈川県鎌倉市の病院に入院中の徳田前理事長と約1時間、面会した。仲介役で新右翼団体「一水会」の木村三浩代表や前理事長の妻・秀子容疑者(75)=東京地検が公職選挙法違反(買収資金交付など)の疑いで逮捕=のほか、複数の徳洲会職員が立ち会った。関係者によると徳田前理事長はこの場で、約1カ月前に決まった東電病院売却に触れ、徳洲会として取得に関心があることを話題にした。

結局、徳田前理事長から、売却予定の東電病院取得に関心が示され、その後で5000万円が無利子・無担保の借出金(猪瀬本人の説明によると)という形で、当時副知事であった猪瀬に提供されたということになる。この記事では、都議会における答弁と食い違いということが指摘されているが、実は、もっと大きな問題がある。徳洲会から東電病院取得の意向が示され、その後5000万円が供与されたということは、贈収賄にあたる可能性があるのだ。

例えば、12月18日、自由民主党の高村正彦副総裁は、次のように語っている。18日に配信された朝日新聞のネット記事をみてみよう。

 

自民党の高村正彦副総裁は18日、医療法人「徳洲会」グループから5千万円を受け取っていた東京都の猪瀬直樹知事について、「都知事としての職務権限と関係する仕事をする人から5千万円の大金を受け取った。この外形的事実だけで、出処進退を決断するのに十分だ」と記者団に語り、辞任を促した。自民党幹部で猪瀬氏の辞任論を公言したのは初めて。

 高村氏は「職務権限と関係なく5千万円受け取っても不思議ではない特別な関係を説明できれば別だが、今までの説明からすれば、そうではないとはっきりしている」と述べ、猪瀬氏の説明は理解を得られないと指摘。「辞任の決断が遅れると、東京オリンピックの準備にも支障が出るし、都知事として招致に成功した大きな功績を台無しにすることになる」と強調した。http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312180090.html

さて、この東電病院売却問題とはどういう問題なのだろう。朝日新聞(18日付朝刊)は、次のように説明している。

 

猪瀬氏は副知事だった昨年6月、東電の株主総会に自ら出席し、一般患者が利用できない点などから東電病院の売却を強く要求。東電は同年10月1日、経営合理化の一環として、競争入札での売却を発表した。
 徳洲会は今年8月に東電病院の入札に参加したが、9月に東京地検特捜部の強制捜査を受け、辞退。

つまり、昨年6月の東電の株主総会で、副知事であった猪瀬が経営合理化の観点で東電病院の売却を求め、それが実現されて、徳洲会がその入札に応じたということになろう。

ここで、時計を巻き戻して、昨年6月27日の東電株主総会をみてみよう。この株主総会は、東電が政府の原子力損害賠償機構から1兆円の出資を受けることで、実質的に国有化されることが決定させたものであった。現在、東電は、賠償にせよ、除染にせよ、福島第一原発の廃炉処理にせよ、さまざまな点で機能不全に陥っているが、そのような枠組みが確定した総会であったといえる。

そして、この総会で、猪瀬はさまざまな提案をしている。まず、それを当時の朝日新聞に依拠してみておこう。

 

また総会には、筆頭株主の東京都が、顧客サービスの向上や電気料金の透明性を高めることなどを定款に書き込む提案を提出した。猪瀬直樹副知事が出席し、同意を求めた。
(中略)
 東京電力の株主総会では、東京都の猪瀬副知事が約15分間にわたり、株主提案の趣旨説明をした。「東京電力に対する信頼は大きく揺らいでいる。構造改革を後押しする提案を行った」と訴えた。
 猪瀬氏は「新生東電が信頼を取り戻すには、経営の透明性や説明責任を果たすことがかぎとなる」と声を張り上げて主張。「ゼロから再出発をするのに必要なのは社員の意識改革だ」とも述べた。会場からは拍手ややじが飛んだ。
 東電は株主総会前の通知で、都の提案に反対する意向を表明。 都は大株主約400法人に賛同を呼びかける文書を送り、個人株主にもホームページで賛同を訴えた。猪瀬氏は「電気料金値上げに対し、ユーザーを代表して発言した」と語った。
朝日新聞夕刊(2012年6月27日付)

 

東電病院の売却要求 株主総会で猪瀬副知事

 猪瀬副知事は27日の東京電力の株主総会で、東電が所有する「東京電力病院」(新宿区)の売却を求めた。一般利用できない東電の福利厚生施設にもかかわらず、東電の資産売却リストに入っていなかったためだ。
(中略)
 猪瀬副知事は質疑で「資産価値は122億円に上る」と主張。都が今月行った定期調査では、119のベッド数のうち、稼働しているのは20程度だったという。東電の勝俣恒久会長は「どう整理するか早急に検討したい」と述べるにとどまった。
 猪瀬副知事は質疑後、記者団に「1兆円の公的資金が投入されるのだから、当然売却すべきだ」と協調した。
朝日新聞朝刊東京版(2012年6月28日付)

結局、定款変更他の株主総会への提案はことごとく否決されたが、提案事項ではない東電病院の売却は「検討事項」とされて、結果的に実現したということになる。猪瀬の副知事時代の業績の一つであるといえよう。

この東電の株主総会は、大飯原発再稼働を直前に控えた時期で、脱原発の提案が多く出させれてもいた。そんな中、猪瀬は、脱原発にせよ、東電の存続にせよ、いわば「大きな問題」には関心を示さず、「東電」の経営合理化と、「経営の透明性や説明責任」を、筆頭株主である東京都を後ろ盾にして主張したのである。後者の問題は、結局、本人に降り掛かることになるのだが。実際、猪瀬のブログに、東電株主総会での本人分の発言が出ているが、福島のことはほとんど出てこないのである。東電の経営破たんは、福島第一原発事故のためであり、さらにそれは、重い道義的責任もあるのだが、そのようなことは考慮されない。結局、彼にとっては「電気料金値上げに対し、ユーザーを代表して発言した」ということでしかないのである。

そして、最終的に実現したのは東電病院売却であった。そして、この東電病院売却を主張する猪瀬の「言葉」が、徳洲会からの5000万円の供与につながったのである。

この経過を見ると、憤慨にたえないのである。猪瀬は、東電解体や脱原発などの根本的問題には手を付けないまま、経営合理化や説明責任などで東電を「言葉」でのみ追及して、ポピュリズム的人気を得た。それは、たぶんに、この年末に行われた都知事選における猪瀬の圧勝の一つの要因でもあっただろう。他方で、東電病院売却という、猪瀬の「言葉」による業績が、5000万円供与の要因となっている。根本的なところでは、3.11は東京都政の深部を規定しているのだが、そのことをまともに向き合わず、むしろ、いろいろな意味で「言葉」によって弄び、自身の利益につなげようとしたのが猪瀬であったといえるのではなかろうか。そして、このような存在は、猪瀬だけではないのである。

*東電株主総会における猪瀬の発言は、次のブログで読むことができる。

http://www.inose.gr.jp/news/politics/post312/

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前回、東京大学法学部教授長谷部恭男が、どのような理由で特定秘密保護法案に賛成しているかを紹介した。ここでは、長谷部の『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)を手がかりにして、そのようなさん賛成論の背景にある憲法観をみていきたい。

まず、この本を一読すると、多くの人は自民党などの改憲論を批判したものとして受け取ることと思われる。実際、確かに明示的に憲法を改正することについてこの本では批判している。そのため、なぜ、改憲を志向すると考えられる安倍政権によって推進されていた特定秘密保護法案に長谷部が賛成したのかと疑問を持った方もおられると思われる。ただ、今回では、長谷部の改憲論批判は別の機会にまわすこととし、とりあえず、この本で長谷部が展開している憲法論を私なりに理解していきたい。

長谷部にとって、立憲主義とは、互いに相違し矛盾しあう多様な価値観を信奉しあう人たち同士の対立をおさえ、多様な価値観を認めて共存する社会を作り上げる仕組みとして、まず認識されている。そのためには、まず、社会を私的領域と公的領域に分離しなくてはならないのである。その上で、私的領域においては、人びとがそれぞれの価値観に基づいて、自由に生きることが保障されるべきだと考えている。

さて、問題は公的領域である。公的領域においては、特定の価値観・世界観が独占して、対立する価値観を駆逐するようなことをさけなくてならない。そのことについて、長谷部は、ハーバーマスの「公共性」概念を批判しながら、このように言っている。

筆者は討議が公共の利益について適切な解決を示すには、論議の幅自体が限定されることが必要であるとの立場をとっている。逆にいうと、社会全体の利益に関わる討議と決定が行われるべき場(国・地方の議会や上級裁判所の審理の場が典型であろう)以外の社会生活上の表現活動では、そうした内容上の制約なく、表現の自由が確保されるべきである。(本書p77)

長谷部によれば、マス・メディアの報道の自由、批判の自由は、一般の表現の自由と違って「生まれながらにして」保障されるものではない。政治的プロセスがよりよく果されるために保障されているとしている。その意味で、報道の自由というものは、長谷部によれば、公的領域に属しているといえる。それゆえ「論議の幅自体が限定される」ことも、長谷部の発想からいえばありうることであろう。

もちろん、長谷部の考えから離れていうならば、公的領域も、本来、国民主権を前提とするならば、その決定プロセスに対する関与が保障されるべきであり、その意味で情報も最大限保障されるべきということもいえるだろう。しかし、そういう考えは、長谷部のものではない。長谷部にとって、現状の議会制民主主義が前述の立憲主義を成立させる上で最善のものである。そして、この議会制民主主義の対抗物として、ファシズムと共産主義をあげている。この二つは、両者とも、議会における討議を通じて公益をはかることを否定し、「反論の余地を許さない公開の場における大衆の喝采を通じた治者と被治者の自同性を目指す」(本書p46)とし、さらに、そのことを通じて国民の同一性・均質性が達成されるとしている。そして、この二つの体制について「直接的な民主主義を実現しうる体制」とするシュミットの見解を紹介している。しかし、長谷部にとって、「直接的な民主主義」によって国民の同一性・均質性が強制され、国民の多様性が破壊されることが、立憲主義の破産を意味するといえる。その意味で、「直接的な民主主義」は、長谷部にとって、制限されなくてはならないものといえる。

このような憲法論が、特定秘密保護法案への長谷部の賛成意見の背景にあったといえる。彼にとって、公的領域における論議の幅は制限すべきものであった。それには、議会制民主主義が最適であり、ファシズムにせよ、共産主義にせよ、これらの「直接的な民主主義」は、立憲主義の原則から排除されるべきものであった。特定秘密保護法案反対論の背景には、情報を最大限公開して、主権者である国民についても、政治的プロセスに参加させるべきという考えがあるといえるが、長谷部は、全く、そう考えないのである。報道の自由、批判の自由は、表現の自由などとは別の次元に属すものであり、公的領域での政治プロセスをよりよく機能させるものなのである。長谷部が特定秘密保護法案に賛成した背景として、以上のようなことが指摘できよう。

長谷部の議論を読みながら思ったことだが、長谷部の中には、「民衆」への恐れと蔑視があるといえる。彼にとって、「直接的な民主主義」とは、ファシズムか共産主義という「全体主義」をめざすものでしかない。長谷部にとって、「多様な価値観」で共生することを保障するものは「議会制民主主義」でしかない。民衆の政治参加は、結局「喝采」にとどまってしまうのである。特定秘密保護法案については、法の内容も、制定経過も、民意無視としかいえないのであるが、そのような民意による政治への介入は抑制しなくてはならないとする長谷部にとっては、あれでも「正常」なのであろう。

他方、公的領域と私的領域を分けるという長谷部の議論についても、問題をはらんでいる。私的領域における自由の獲得も、公的領域での議論と当然ながら関連していたといえる。現状の私的領域での自由も、公的領域における戦い(イギリス革命、アメリカ革命、フランス革命、自由民権運動など)によって得られたものである。例えば、表現の自由は、別に私的領域の中でのみ問題にされていたわけではない。公的領域における報道・批判の中でむしろ成長していったものといえる。そして、現状でも、報道の自由と表現の自由は相関連しているのである。

そして、私的個人の問題も、公的領域に無関係ではない。例えば、生活保護にしても、年金にしても、介護保険にしても、その当事者個人にとっては死活問題である。ブルジョワ民主主義の黎明期のイデオロギーである「公私」の問題は、もちろん、現状においても重大な問題であるが、単純に公私分離を固定して考えるべきことではないといえる。

ただ、逆にいえば、新自由主義の時代に適合的な議論ともいえる。長谷部は、フィリップ・ハビットの見解を紹介して、このように述べている。

 

国家の置かれた状況の変化は、国家目標にも影響すると考えるのが自然であろう。ハビットは、国民総動員の必要性から解放された冷戦後の国家は、すべての国民の福祉の平等な向上を目指す福祉国家であることを止め、国民に可能な限り多くの機会と選択肢を保障しようとする市場国家(market state)へと変貌すると予測している。そうした国家は、社会活動の規制からも、福祉政策の場からも撤退をはじめ、個人への広範な機会と選択肢の保障と引換えに、結果に対する責任をも個人に引き渡すことになる。(本書p56)

福祉国家の時代では、私的個人の生存も公的領域ではかるべきとされていたといえる。まさに、新自由主義における福祉政策や社会活動への規制の撤廃は、私的個人の生存を公的領域ではかろうとする営為を否定するもので、公的領域と私的領域をより切り離すことになろう。こうなってみると、立憲主義の前提として長谷部が考えている「公私分離」は、新自由主義によって達成すべき目標ともいえるだろう。このように、長谷部の「特定秘密保護法案」への賛成意見の背景には、多くの重大な問題があるのである。

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前からこのブログで述べているように、12月6日、特定秘密保護法が成立した。この法については、世論調査では多くの人びとが反対もしくは慎重審議を求めていた。また、多くの法律家や学者・文化人たちも多くの反対声明を出している。政府とその与党である自民・公明党だけが賛成している法律のなのである。

このような特定秘密保護法案についての反対が渦巻く中で、東京大学法学部教授長谷部恭男は、11月13日に衆議院国家安全保障に関する特別委員会に出席し、参考人として特定秘密保護法案に賛成する意見を述べている。いわゆる学者の中で、これほどはっきり賛成意見を述べているのは少数派に属する。ここでは、長谷部の賛成意見をみておこう。

冒頭で長谷部はこのように述べている。

まず第一に、そもそもこの日本という国には特別の保護に値する秘密など存在しない、そういう立場も理論的にはあり得るとは思いますが、余り常識的な立場ではないだろうと思われます。そして、そうした特別な保護に値する秘密、これを政府が保有しているという場合には、みだりに漏えい等が起こらないよう対処しようとすることには高度の緊要性が認められますし、それに必要な制度を整備すること、これも十分に合理的なことであり得ると考えております。ほかの国でも、御案内のとおり、類似の制度は少なくございません。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/027418520131113012.htm

長谷部のこの発言は、政府においては秘密保護が必要である、ゆえに「特定秘密保護法」は成立しなくてはならぬということに換言できるだろう。これは、よく自民党などが「特定秘密保護法」の必要性を主張するときに使っている論理である。ここには二つの問題点があろう。第一に、すでに国家公務員法などで公務上の秘密は保護されているが、なぜ新しい法律を作ってまで、新たな保護措置をとらなくてはならないのかということである。第二に、言論・出版などの表現の自由は基本的人権であり、これらの基本的人権については「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」(日本国憲法第十三条)とされているが、そのような基本的人権の尊重と「公共の福祉」を比較して検討しようとする姿勢が欠けていることである。特に、第二の点が重要である。かりに政府における秘密保護の必要性が「公共の福祉」とされた場合でも、それは、基本的人権を最大限に尊重するという背反する義務の中で比較されなくてならない。言論・出版の自由などの基本的人権を擁護することが本則であり、政府の秘密保護ということは、必要性があるにせよ、最小限の例外にすべきことなのではなかろうか。長谷部の賛成意見においては、基本的人権の尊重ということを明示的にみることができないのである。

次に、長谷部は、このように言っている。なお、ここでは、例示として独占禁止法をあげているところを省略しておいた。

それから第二に、この法案の別表の記載等によりまして、何が特別な保護に値する秘密なのか、基本的な考え方は示されているわけですが、より具体的に言って、どのような情報が特別な保護に値する特定秘密なのかがわからないではないか、よくわからない、これが批判の対象とされることもございます。

 ただ、これは、閣僚や国会議員の方々を含めまして、人はおよそ全知全能ではございませんので、何が特別な保護に値する秘密なのかをあらかじめ隅々まで確定する、これはおよそ不可能でございまして、その答えは、具体的な事例ごと、専門知識を持つ各部署で判断し、個別に指定をしていくしかない、そのことによるものではないかと考えております。

(中略)

 特定秘密につきましても事情は同様と考えることができるわけでございまして、誰が考えても特別な保護に値する情報だろう、誰が考えてもそれには当たらないだろう、そういう情報をあらかじめ例示することはできると思われますが、その他の情報、これは具体的な事例ごとに、専門知識を持つ各行政機関で的確、合理的に判断し、その都度指定をしていくしかないのではないかと思われます。いわば暗闇の中で立法者があらかじめ確定をしてしまうというわけには、なかなかいかないもののように思われます。

この議論は、かなり乱暴である。これならば、すべての法を立法時に詳細に規定する必要はなくなるだろう。特に問題なのは、この法は基本的人権を侵害するおそれがある法律であり、それゆえ、基本的人権を抑制する際において事例を限定しておかねばならないと考えられるが、逆に、特定秘密保護法案の無規定性を擁護してしまっているのである。これは、最初のことともつながるが、権利を抑制する際の規定は厳密にすべきであり、そこから漏れてしまった事例は、この法の対象外にすべきであろう。それが不都合であれば、法改正をすればいいだけの話である。はっきりいって、特定秘密保護法の対象にしなくても、公務員の守秘義務によって秘密は守られる。そもそも、基本的人権を尊重するという意識がないがゆえに、このような議論をしているといえよう。

次に長谷部はこのように議論している。

それから第三に、この法案は、ごらんのとおり、政府が保有する情報の中で、公になっていないものであって、かつ特定秘密として指定されたものにつきましては、それを漏えいする行為、あるいは漏えいを唆したり扇動したりする行為、それらを処罰の対象としております。

 ただ、世の中一般におきましては、民間の方が独自に収集をした情報でありますとか、既に公になっている情報についても、その保有が処罰の対象とされかねないという、言ってみれば、一種のホラーストーリーが流布をしております。

 もちろん、こんなことを処罰の対象にすることには私自身も絶対に反対でございますが、ただ、これはこの法案の内容とは違う話でございますので、この種のホラーストーリーも、この法案を批判する根拠には余りならないのではないかというふうに私は考えております。

確かに、本来は、政府機関の保有情報のみが保護対象とされている。ただ、その保護対象が広範で無限定である。例えば、原発警備関係もテロ関係で特定秘密保護法の対象となるとされている。原発警備が問題であるならば、核燃料の輸送も該当する可能性がある。例えば、もし、私が、原発関係者に核燃料輸送・コースなどを聞き出して、そのことを本ブログに掲載した場合、特定秘密保護法に抵触する可能性がある。こういうことは、全く杞憂ではない。私が、福井地方の原発を訪問し原発宣伝施設に入館した際、原発の取水口は撮影しないでほしいと要請されたことがある。その理由がテロ警備だった。もちろん、原発の取水口など秘密にできないものであるが、それでもテロ警備で撮影が禁止されたのである。こういうことが、たぶん横行するだろう。それこそ、今後は、原発撮影禁止の理由を聞いただけで、秘密の暴露を迫ったということになりかねない。「何が秘密なのかが秘密」なのである。

さらに、長谷部はこのように指摘している。

それから第四、それでも、この法案の罰則規定には当たらないはずの行為に関しましても、例えば、捜査当局がこの法案の罰則規定違反の疑いで逮捕や捜索を行う危険性、それはあるのではないかと言われることがございます。

 我が国の刑事司法は、御案内のとおり、捜索や逮捕につきましては令状主義をとっておりまして、令状をとるには、罪を犯したと考えられる相当の理由ですとか捜索の必要性、これを示す必要がございますので、そうした危険がそうそうあるとは私は考えておりませんが、もちろん、中には大変な悪巧みをする捜査官がいて、悪知恵を働かせて逮捕や捜索をするという可能性はないとは言い切れません。

 ただ、そうした捜査官は、実はどんな法律であっても悪用するでございましょうから、そうした捜査官が出現する可能性が否定できないということは、まさにこの法案を取り上げて批判する根拠にはやはりならないのではないか。むしろ、そうした捜査官が仮に出現するのでありましたら、そうした人たちにいかに対処するのか、その問題に注意を向けるべきではないかと考えております。

これも、かなり乱暴な議論である。人権保護の観点からいえば、このような拡大解釈の余地をなくして、不当な捜査が行われることを防ぐべきであろう。そして、悪用する捜査官がいるならばという議論を展開している。このような悪用する捜査官がいるのは、確かに脅威である。しかし、最も恐れるべきは、国家全体が組織的に不当逮捕を行うことである。むしろ、国家による人権侵害の可能性こそ、抑止されるべきものなのである。

さらに、長谷部は、次のように指摘している。

それから第五に、この法案、これは報道機関の取材活動に悪影響を及ぼすのではないかという懸念が示されることもございます。

 ただ、広く知られておりますとおり、いわゆる外務省秘密電文漏えい事件に関する最高裁の決定がございまして、これは平たく申しますと、よほどおかしな取材の仕方をしない限りは、報道機関が情報の開示を公務員に求めたからといって、処罰されることはないと言っております。

 この法案の第二十一条第二項の条文は、こうした判例の考え方はこの法案に対しても当てはまるのだ、そのことを改めて確認しているものと考えております。

 これは、報道機関に対しまして、一種、一般市民には認められないような特権を認める考え方のあらわれでございまして、報道機関の取材、報道活動、これが民主主義社会を支える重要な役割を果たす、それを根拠にするものでございます。

 ただ、この条項につきましても、具体的に言って、では誰が報道機関のメンバーと言えるかが明確ではないという批判が聞かれております。

 私自身は、これはさほど困った問題ではないと考えております。常識的に申しまして、誰が報道機関のメンバーであるか、これは大部分の場合は容易に判断できるはずでございます。

また、仮に判断の難しい事例が起こり得るといたしましても、そうした判断が求められますのは、実際に特定秘密の漏えいを唆す行為等がなされた場合でしょうから、そうした事件が実際に発生をしたときに、その具体的な状況に即して、果たしてその当事者が報道機関のメンバーと言えるのか、その行為が公益を図る目的からなされたもので、しかも、著しく不当な方法によるものと言えるかどうか、これを裁判所が個別に判断をすれば足りるのではないかと考えます。

これは、先ほど、一般の人がブログなど発信した場合、処罰されるのかということに関連している。この場合、報道機関関係者が情報を入手し発表した場合は処罰されないが、私などがブログで書いた場合は処罰されるということになるだろう。実際、米国愛国者法のもとで、アメリカでは多くのブログが閉鎖に追い込まれたそうである。著しく不公平としかいわざるをえない。

なお、この後、長谷部は、何を報道機関とするのかを今の段階で定義するのは適当ではないとしていることについて、また、「前にも申し上げましたとおり、人間は全知全能ではございませんので、あらかじめ法律の条文等でこの種の問題の結論を決め切ってしまう、それが賢明であるとは必ずしも言えないように思われます。」といっている。これが、いかに立法することの意義を阻害させるかについては、前述した通りである。さらに、情報の流通を独占的に認めさせることについて、そもそも定義していないということも、恣意的な運用の要因となりえよう。さらに、何をジャーナリストとするかについても、実際は多様である。ジャーナリストは、新聞社・テレビ局・雑誌などのマスコミに所属している者だけではない。フリージャーナリストも多く存在しており、さらには、政党機関紙の記者もいる。昨年、原子力規制委員会が日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」の記者を記者会見から排除しようとして物議をかもしていた。今後、こういうこともありうるのである。

最後に、長谷部はこのように述べている。

さらに、これが最後になりますが、こうした法律をつくること自体が、政府の保有する情報を取り扱う公務員の萎縮を招きまして、全体として報道機関の取材活動を困難にすると言われることもございます。ただ、この法案の目的がそもそも、特別な保護を必要とする政府保有情報に関しまして特に慎重な取り扱いを求めようとするものでございますので、慎重な取り扱いをしているということは、悪く言えば萎縮をしているということになるのかもしれません。ただそれだけのことのようにも思えるわけでございます。

 つまり、この問題は、そもそも日本という国には特別な保護に値する政府保有情報があるのかないのかという、冒頭の問題に戻っていくことになります。そんな情報はないという立場も理論的にはあり得ないわけではないとは思いますが、私は、それは余り常識的な立場ではないと考えております。

まあ、単純にいってしまえば、長谷部は、公務員の秘密保全を厳格するのが目的であって、その結果、報道機関の取材活動が困難になってもかまわないと主張しているのである。そして、長谷部は、冒頭の問題にもどって、厳格に保護しなくてはならない政府の秘密情報があるのは常識だと指摘しているのである。

ここで、また、私たちも最初の問題に戻らなくてはならない。そもそも、今までより厳格に秘密をなぜ保護しなくてはならないのかということ、そして、そのことが認められるとしても、基本的人権の尊重義務と比較して検討されているということである。

長谷部は、NHKが11月28日に配信した「視点・論点 特定秘密保護法案」においても、衆議院の意見陳述と同様の意見を述べた上で、最後に、このように指摘している。

つまり、この問題は、そもそも日本という国には、特別な保護に値する政府保有情報はあるのかないのか、という冒頭の問題に戻っていくことになります。国民の生命や財産の安全よりも知る権利の方が、いつも必ず大切だと、言い切ってしまっていいのかという問題です。
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/174326.html

この文章のほうが、より長谷部の主張が明確に表現されているといえよう。長谷部にいわせれば、政府保有情報の保護は「国民の生命や財産の安全」にかかわる問題であり、「知る権利」はそれを超えて主張すべきものではないというのである。人権よりも、政府保有情報の保護を優先する論理ということができよう。

この長谷部の主張は、彼の独特な人権観・憲法観に基づいており、機会があれば、そのことをみておきたい。ただ、ここでは、11月22日に表明された表現・言論の自由保護の国連特別報告者フランク・ラ・ルー(グアテマラ出身)と、健康の権利の国連特別報告者であるアナンド・グローバーによる、特定秘密保護法案に対するコメントの結論部分を再度引用して、長谷部恭男の特定秘密保護法案に対するコメントにかえておきたい。

「日本を含め、ほとんどの民主主義国は、国民の知る権利をはっきりと認識しています。例外的な状況では、国家安全保障の保護に機密性が必要になりうるとしても、人権基準は、最大限の開示という原則を常に公務員の行動指針としなければならないことを定めています」。
http://www.unic.or.jp/news_press/info/5737/

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12月6日、多くの反対や懸念を押し切って成立した特定秘密保護法案については、国連の人権担当者たちも、大きな懸念を抱いていた。11月22日、国連人権理事会から共に任命された、表現・言論の自由保護の特別報告者フランク・ラ・ルー(グアテマラ出身)と、健康の権利の特別報告者であるアナンド・グローバーは、ジュネーブで特定秘密保護法案について懸念を表明した。国連のサイトに掲載された彼らの意見表明をみておこう。

ジュネーブ(2013年11月22日) – 2名の国連の独立人権専門家は11月22日、国が保有する情報の機密指定に関する根拠と手続きを定める日本の特定秘密保護法案につき、深刻な懸念を表明しました。

表現の自由と健康の権利をそれぞれ担当する国連特別報告者たちは、法案に関する詳しい情報の提供を日本の当局に要請するとともに、その人権基準への適合について懸念があることを明らかにしました。

「透明性は民主的なガバナンスの核心をなす要件のひとつです」。表現の自由を担当するフランク・ラ・ルー特別報告者はこのように述べています。「この法案は、秘密保護について極めて広範かつ曖昧な根拠を定めるだけでなく、内部告発者、さらには機密に関して報道するジャーナリストにとっても深刻な脅威を含んでいると見られます」

ラ・ルー氏は、公務に関する秘密保護が認められるのは、重大な被害が及ぶ危険が実証でき、かつ、その被害が、機密とされた情報の閲覧がもたらす全体的な公益よりも大きい場合だけだという点を強調し、次のように述べました。

「当局が秘密保護の必要性を確認できる例外的な場合でも、当局の決定を独立機関が審査することは不可欠です」

ラ・ルー特別報告者は、情報の漏えいについて法案が定める罰則について、特別の注意を喚起し、「誠意により、公的機関による法律違反や不法行為に関する機密情報を漏らした公務員は、法的制裁から守られるべき」であることを強調しました。

「その他、ジャーナリストや市民社会の代表を含め、それが公益にかなうという信念から、機密情報を受け取ったり、拡散したりした個人も、それによって深刻な被害という差し迫った状況に個人が陥ることがない限り、制裁を受けるべきではありません」。ラ・ルー特別報告者はこのように語りました。

一方、昨年訪日し、福島第一原発事故への対応について調査したアナンド・グローバー 健康への権利に関する特別報告者は、災害時に全面的な透明性を常に確保する必要性を強調し、次のように述べました。「特に大災害の場合には、人々が自分の健康について情報に基づく決定を下せるよう、一貫性があり、かつタイムリーな情報提供をすることが不可欠です」

「日本を含め、ほとんどの民主主義国は、国民の知る権利をはっきりと認識しています。例外的な状況では、国家安全保障の保護に機密性が必要になりうるとしても、人権基準は、最大限の開示という原則を常に公務員の行動指針としなければならないことを定めています」。両特別報告者はこのように発言を締めくくりました。

以上
http://www.unic.or.jp/news_press/info/5737/

ラ・ルーはジャーナリズム擁護の観点から、グローバーは、災害時の情報の透明性を確保しようとする観点から、日本の特定秘密保護法案の問題点を指摘し、両者共に「日本を含め、ほとんどの民主主義国は、国民の知る権利をはっきりと認識しています。例外的な状況では、国家安全保障の保護に機密性が必要になりうるとしても、人権基準は、最大限の開示という原則を常に公務員の行動指針としなければならないことを定めています」としているのである。

民主主義国家においては国民の知る権利を尊重しており、情報の最大限の開示が公務員の行動指針であって、国家安全保障の保護に機密性が必要である場合も、それは例外措置であるということは、安倍政権他、この特定秘密保護法制定を推進した人びとには全く欠けた視点である。そして、見ている範囲では、国連の特別報告者たちの懸念について、安倍政権は全く考慮した形跡はないのである。結局、11月26日には、特定秘密保護法案は、衆議院を通過した。

そして、このような状況は、国連の「懸念」をより深めたと思われる。12月2日には、国連人権保護機関のトップであるピレイ人権高等弁務官が、国内外で懸念がある状況下で成立を急ぐべきではないと記者会見で述べた。朝日新聞が12月3日付で配信した記事をここであげておく。

国連人権高等弁務官「急ぐべきでない」 秘密保護法案
2013年12月3日01時37分

 【ジュネーブ=野島淳】国連の人権保護機関のトップ、ピレイ人権高等弁務官が2日、ジュネーブで記者会見し、安倍政権が進める特定秘密保護法案について「何が秘密を構成するのかなど、いくつかの懸念が十分明確になっていない」と指摘。「国内外で懸念があるなかで、成立を急ぐべきではない」と政府や国会に慎重な審議を促した。

 ピレイ氏は同法案が「政府が不都合な情報を秘密として認定するものだ」としたうえで「日本国憲法や国際人権法で保障されている表現の自由や情報アクセス権への適切な保護措置」が必要だとの認識を示した。

 同法案を巡っては、国連人権理事会が任命する人権に関する専門家も「秘密を特定する根拠が極めて広範囲であいまいだ」として深刻な懸念を示している。

http://www.asahi.com/articles/TKY201312020479.html

さて、さすがに、特定秘密保護法案制定を推進する人びとでも、国連の人権高等弁務官の発言には無関心ではいられなかった。毎日新聞2013年12月06日付東京朝刊に掲載した、自民党内の発言を伝える記事をあげておこう。

◇自民・城内氏「国連人権弁務官に謝罪させよ」

 国会の内外で高まる特定秘密保護法案への反対論に対する自民党内のいら立ちが5日朝、党本部で開かれた外交・国防合同部会で噴き出した。矛先が向けられたのは「『秘密』の定義が十分明確ではない」と特定秘密保護法案に懸念を表明した国連の人権部門のトップ、ピレイ国連人権高等弁務官。

 「なぜこのような事実誤認の発言をしたのか、調べて回答させるべきだ。場合によっては謝罪や罷免(要求)、分担金の凍結ぐらいやってもいい」。安倍晋三首相に近い城内実外交部会長は怒りをぶちまけた。ピレイ氏は2日の記者会見で「表現の自由に対する適切な保護措置を設けず、法整備を急ぐべきではない」とも語っており、議員からは「そもそも内政干渉」「弁務官という立場は失格だ」などと強硬意見が相次いだ。

 5日の合同部会は、中国の防空識別圏を中心に議論する予定だったが、党側の意向で急きょ議題に加わった。国連では従軍慰安婦問題で日本批判がたびたび持ち上がり、自民党を刺激してきた経緯もある。中堅議員は「従軍慰安婦問題でも『日本はけしからん』と検証せず発言することが少なくない」と日ごろの鬱憤を晴らした。

 国連総会が指名する弁務官への罷免要求は現実的ではない。発言を理由に分担金をカットするのも先進国の対応としてはありえない。議論は終始、脱線気味だった。
http://mainichi.jp/shimen/news/20131206ddm005010074000c.html

この中で、自民党の外交部会長をしている衆議院議員城内実は人権高等弁務官の発言を「事実誤認」としている。そればかりか、謝罪や罷免を国連に要求し、さらには国連分担金の凍結まで主張しているのである。その他の議員たちも、「内政干渉だ」とか「弁務官という立場では失格だ」とか、同様の発言をしているようである。この記事でも書かれているように、国連総会で指名した高等弁務官に罷免要求することは現実的ではないし、このような発言を理由に分担金をカットするのも先進国の対応ではありえないのだが…。これが、特定秘密保護法案を推進する人びとの感覚なのである。

そして、これは、単に安倍政権だからということではない。刑事訴訟・ヘイトスピーチ禁止・福島の健康被害など、たびたび日本政府は国連より人権上の問題点を指摘されているが、その多くにまとも答えようとはしていないのである。そして、5月22日には、日本の「人権大使」が国連の拷問禁止委員会の対日審査の席上で「笑うな、黙れ」と発言する事態が起きている。産經新聞のネット配信記事から、この状況をみてみよう。

国連で「シャラップ」日本の人権大使、場内の嘲笑に叫ぶ
2013.6.14 08:14 [外交]
 国連の人権条約に基づく拷問禁止委員会の対日審査が行われた5月22日、日本の上田秀明・人権人道担当大使が英語で「黙れ」を意味する「シャラップ」と大声で発言していたことが13日までに分かった。「シャラップ」は、公の場では非礼に当たる表現。

 日本の非政府組織(NGO)によると、対日審査では拷問禁止委の委員から「日本の刑事司法制度は自白に頼りすぎており、中世のようだ」との指摘が出た。上田大使は「日本の人権状況は先進的だ。中世のようではない」と反論したところ、場内から笑いが起き、上田大使は「何がおかしい。黙れ」と大声を張り上げたという。

 委員会は、警察や国家権力による拷問や非人道的な扱いを禁止する拷問禁止条約に基づき1988年に設置された。国連加盟国の審査を担当し、対日審査は2007年に続き2回目。前回審査でも日本政府側から「(委員は)日本の敵だ」との発言が出たという。(共同)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130614/erp13061408180002-n1.htm

国内の選挙民たちを相手にする国会議員だけでなく、ある意味では国外のいろんな発言に冷静に対応しなくてはならない外交官ですら、この始末である。このような、ゆがんだ「先進国」意識を外して考えると、結局のところ、日本は「人権小国」でしかない。そして、そのことを指摘されると、国連であろうとなんだろうと激昂するというのが、現在この国を「統治」している人たちのレベルなのである。

それにしても、前のブログでアメリカ国務省のハーフ副報道官が、特定秘密保護法成立を「歓迎」するとともに、その内容については「懸念」を示していることを紹介した。この人たちは、アメリカ国務省には「抗議」をするのだろうか。知りたいものである。

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昨日、多くの人が反対する中で、2013年12月6日に特定秘密保護法が成立した。

この特定秘密保護法成立について、アメリカ国務省は「歓迎」の意向を示している。TBSのネット配信記事(7日付)はこのように伝えている。

アメリカ・国務省は6日、日本で特定秘密保護法が成立したことを受け、「情報保全は同盟関係において重大」と評価しました。

 「機密情報の保全は同盟関係の中の協力においても重大な役割を果たすため、機密情報の保護につながる強化策、手続きなどを歓迎します」(ハーフ副報道官)
http://news.tbs.co.jp/20131207/newseye/tbs_newseye2074523.html

特定秘密保護法は、日本政府が安全保障会議を設置し、さらに、そこに外国からの提供情報を受け入れるにあたって、その情報を保護することを本来の目的としている。この外国からの提供情報の中心は、当然ながら同盟関係にあるとされるアメリカのものであろう。この記事では、「一方、秘密保護法成立をアメリカ政府がこれまで日本に要請してきたのではとの指摘については、「特にコメントすることはない」としています。」と伝えているが、このような秘密情報保護法制設置はアメリカ側から要求されていたことでもあったといえる。その意味で、特定秘密保護法成立を「歓迎」するのは当然である。そして、このように秘密保護法制が整備されるということは、アメリカと日本が、「テロとの戦い」であれ、「紛争地帯への人道的支援」であれ、世界中に軍事介入できる体制を構築している一つの証でもある。

しかし、特定秘密保護法成立に手放しで「歓迎」しているかといえば、そうではないのである。この記事の次の個所をみておこう。

成立にあたり、日本国内で反発が強いまま強行採決に至ったことについて、「同盟関係の根幹には表現の自由、報道の自由という普遍的な価値観の共有がある」と述べ、「知る権利」に十分配慮する必要があるとの認識も示しています。

これは、かなり微妙な発言といえる。国務省のハーフ副報道官は、アメリカの同盟関係の根幹には、表現の自由、報道の自由という普遍的な価値観の共有があるとした上で、日本の特定秘密保護法については「知る権利」に十分配慮すべきとしているのである。つまり、特定秘密保護法それ自体について「自由権」を侵害しかねない性格を有するものであると「懸念」を示しているのである。

これは、かなり微妙なことだ。特定秘密保護法によってアメリカが提供する情報の機密が保たれることは「歓迎」しつつも、特定秘密保護法自体については「自由権」を侵害しかねないものとして認識されており、それは「日米同盟」の根本にある「普遍的な価値観の共有」という問題なのだと指摘しているのである。このコメント自体が、アメリカ政府の「ジレンマ」を現しているといえよう。

考えてみれば、アメリカ政府は、明文改憲や「侵略否定」など、成立当初の安倍政権の「自立大国」化には抑制的だったといえる。今年の前半期の安倍政権の姿勢は「大国化」をやみくもに志向していたが、それは、戦前の日本の体制を肯定しつつ、戦争直後の体制を根本的に変えようとするものであった。もちろん、これは、中国や韓国などの反発をうみ、東アジア全体の緊張を高める要因となっている。しかし、このような安倍政権の姿勢は、中国や韓国だけでなく、アメリカ政府自体も困惑させることになった。究極のところ、これは、アメリカが第二次世界大戦を戦った原理を否定し、さらにアメリカが主導して成立した戦後の国際秩序を「修正」することにつながっていくのである。このような安倍政権の姿勢にアメリカ政府が抑制的であったのも当然である。

結局、特定秘密保護法というものは、日本の「自立大国」化は抑制しつつも、「同盟関係」の中により強く引き込んで「戦争協力者」に日本をしてしまおうとするアメリカ政府の意向と、アメリカの「同盟」関係に恭順しながらも、アメリカの意向を体しつつ、法律の形で、憲法に規定している諸権利を制限しようとしようした日本の安倍政権の意向があわさり、この二つのベクトルがあわさることによって強力に成立が推進されたとみるべきだと思われる。みんなの党、日本維新の会、民主党が特定秘密保護法自体の制定には反対していないことは、その現れであろう。

それでも、アメリカ国務省では「「同盟関係の根幹には表現の自由、報道の自由という普遍的な価値観の共有がある」と述べ、「知る権利」に十分配慮する必要があるとの認識も示しています。」と言わざるを得なかった。そして、これはアメリカ国務省だけの見解ではない。アメリカの「オープン・ソサエティー」財団が次のように指摘していることを共同通信は配信している。

【ニューヨーク共同】民主主義の発展や人権擁護に取り組む米財団「オープン・ソサエティー」は6日までに、日本の特定秘密保護法が国家秘密の保護と開示に関する国際基準を「はるかに下回る」とし、「日本の一歩後退」を示すことになると懸念する声明を発表した。
 声明は、秘密指定の範囲が「曖昧で広すぎる」とし、指定の是非を独立機関が監視する仕組みを欠くと批判。罰則が最大懲役10年と重いこと、情報を漏らしても開示の公益が勝れば罪に問えないとする規定がない点も問題視した。
 米国のいくつかの同盟国も、秘密指定は公益との兼ね合いを考慮するよう規制し、漏えいの罰則は5年の刑が最大だと指摘した。また、各国や国連の専門家が作成し、今年6月に公表した「国家安全保障と情報への権利に関する国際原則(ツワネ原則)」を大幅に逸脱するとした。
 声明の中で、同財団上級顧問で米国の国防総省や国家安全保障会議(NSC)の高官を務めたハルペリン氏もコメントし、特定秘密保護法が「21世紀に民主的な政府が検討した中で最悪の部類」とした。
(共同通信)
2013/12/08 11:58

このように「21世紀に民主的な政府が検討した中で最悪の部類」とまで評されている。その他、国連人権高等弁務官が同様の懸念を示している。特定秘密保護法は、海外ではこのような見方をされているのである。さらにいえば、繰り返しになるが、アメリカ国務省も「懸念」しているのである。

別に、現在のアメリカが「自由の国」というのではない。2011年9月11日の同時多発テロ直後、「テロとの戦い」を正当性原理として、アフガニスタンなどに「戦争」をしかけるとともに、国内外を「監視社会」化し、いわゆる同盟国であるドイツ首相まで盗聴し、国内ではデモ参加者やジャーナリストを弾圧している。この特定秘密保護法についても、アメリカの国益を「保護」するという性格が強い。しかし、そのような国の国務省においても、「懸念」を示さざるを得なかったのである。

もう一度、ハーフ副報道官のコメントに戻ってみたい。「成立にあたり、日本国内で反発が強いまま強行採決に至ったことについて、「同盟関係の根幹には表現の自由、報道の自由という普遍的な価値観の共有がある」と述べ、「知る権利」に十分配慮する必要があるとの認識も示しています。」とされている。ハーフにこのように言わせた一つの要因には、「成立にあたり、日本国内で反発が強い」ことがあるといえる。つまりは、特定秘密保護法案への人びとの反対運動が、このような発言につながり、日米両政府の微妙な関係を露見させたのである。これもまた、反対運動の一つの成果ということができよう。

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さて、もう一度、石破ブログにもどってみよう。現在のところ、石破茂のブログ記事「沖縄など」の終わりは、このように書かれている

今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。
 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術は「テロ行為とその本質においてあまり変わらない」「本来あるべき民主主義の手法とは異なる」ように思います。
http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/

「テロ行為とその本質においてあまり変わらない」を「本来あるべき民主主義の手法とは異なる」と書き換えたのである。いずれにせよ、デモを民主主義にそぐわないものとしてみていることはあきらかだ。

では、石破のいう「民主主義」とはどんなものだろう。まず、この文章が「沖縄など」と題されていることに注目したい。そもそも、この文章は「沖縄問題」から書き起されているのである。その部分をみておこう。

 

沖縄・普天間移設問題に明け、それに暮れた1週間でした。
 その間に特定秘密保護法案の衆議院における可決・参議院への送付という難事が挟まり、いつにも増して辛い日々ではありましたが、沖縄県選出自民党議員や自民党沖縄県連の苦悩を思えばとてもそのようなことは言っておれません。
 多くの方がご存知のことと思いますが、沖縄における報道はそれ以外の地域とは全く異なるものであり、その現実を理解することなくして沖縄問題は語れません。沖縄における厳しい世論にどう真剣かつ誠実に向き合うのか。私は現地の新聞に「琉球処分の執行官」とまで書かれており、それはそれであらゆる非難を浴びる覚悟でやっているので構わないのですが、沖縄の議員たちはそうはいきません。
 繰り返して申し上げますが、問われているのは沖縄以外の地域の日本国民なのです。沖縄でなくても負うことのできる負担は日本全体で引き受けなくてはならないのです。

この文章だけを読むと、何を書いているかさっぱりわからないが、ここで、石破が書いていることは、沖縄普天間基地の辺野古移転計画を、県外移設を主張していた沖縄県選出自民党議員や沖縄県連に認めさせたことである。その状況について、沖縄タイムス社説は、次のように指摘している。

社説[菅・石破発言]沖縄への露骨な恫喝だ
2013年11月20日 09:21

 「このまま県連の要望を聞いていると、普天間の固定化がほぼ確実になる」「県外移設なんてとんでもない。党本部の方針に従うべきだ」

 菅義偉官房長官と自民党の石破茂幹事長が18日、自民党県連の翁長政俊会長らとそれぞれ会談した中で、県連側に伝えた言葉だ。

 米軍普天間飛行場の県外移設を公約に掲げている県連に対し、両氏はそれぞれ「恫喝(どうかつ)」としか受け取れない激しい言葉で、辺野古移設容認への転換を促した。

 県外移設を求める県民世論に支えられ、公約を堅持してきた県連に対し、辺野古移設か固定化か-と「二者択一」を迫るような姿勢は、強権的な安倍政権の「脅し」でしかない。

 権力をあからさまに振りかざし、問答無用で政府や党本部の方針に従わせようとするやり方は、とうてい容認できない。政治家に対し、支持者との契約ともいえる公約の破棄を求めるのは、有権者を愚弄(ぐろう)するものである。

 そもそも「県外はあり得ない」とする根拠は何か。辺野古以外を検討したのか。そうならば検討した内容を明らかにすべきだ。沖縄の民意を置き去りにして、当初から辺野古ありきなのではないか。

 政府首脳や公党の幹部が、普天間の固定化に言及するのは無責任きわまりない。普天間返還の原点は市街地のど真ん中に位置し、「世界一危険な飛行場」の危険性除去である。「固定化」は自らの不作為を認めるようなもので、とても口にするべきことではない。

    ■    ■

 戦後、米軍基地が沖縄に集中したのは、日本政府が安保の負担を過重に沖縄に負わせた結果である。

 1950年代、山梨や岐阜に駐留していた海兵隊が沖縄に移駐したが、それは本土での反基地感情の高まりが背景にあったからだ。

 本土復帰直後の72年には、米国防総省が沖縄を含む太平洋地域からの海兵隊の撤退を検討していたが、日本政府が海兵隊の駐留維持を求め、在沖米軍基地の大幅縮小の機会が失われた。

 菅氏は自民党県連との会談で「辺野古移設は米軍による抑止力を考えて日米両政府で決めたことだ」とも述べたという。

 しかし、民主党政権で防衛相を務めた森本敏氏は、普天間の移設先について「軍事的には沖縄でなくてもよい」と述べている。菅氏の発言は沖縄に対する「構造的差別」以外の何ものでもない。

    ■    ■

 ことし1月、県内全市町村長と議会議長、県議会全会派などが連名で、普天間飛行場の閉鎖・撤去と県内移設の断念を求める「建白書」を安倍晋三首相に手渡した。

 安倍政権はそれを一顧だにすることなく、3月には辺野古埋め立て申請を提出。県民世論を無視したまま、辺野古移設を進めようとしている。17年も続く迷走は、当事者である沖縄の頭越しに決められているからだ。稲嶺進名護市長が言うように「基地はできてしまえば100年も残る」。一体いつまで沖縄に過重負担を強いるつもりなのか。http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=57006

そして、結局、沖縄県連などは、辺野古移設を認めさせられた。次の読売新聞のネット配信記事をみてほしい。

普天間の辺野古移設、自民沖縄県連が容認へ

 沖縄県の米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設問題を巡り、県外移設を掲げていた自民党県連は26日、同県名護市辺野古への移設を容認する方針を固めた。

 県連所属の国会議員5人が容認に転じた上、県連内でも同飛行場の固定化回避には辺野古移設を否定すべきではないとの意見が大勢を占めたことから、方針転換する。政府・党本部と地元の足並みがそろうことで、政府が申請した移設先の埋め立てについて、仲井真弘多ひろかず知事が承認しやすい環境が整う。

 辺野古容認の方針は、自民党の石破幹事長と国会議員団が25日に確認した「普天間基地の危険性を一日も早く除去するために、辺野古移設を含むあらゆる可能性を排除しない」との文言を踏襲する方向で調整する。ただ、県外移設の主張を堅持すべきだとする一部の声にも配慮し、「あらゆる可能性には、県外も含む」(県連幹部)との考え方をとる方針だ。

(2013年11月27日03時21分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20131126-OYT1T01555.htm?from=navr

石破の言っていることは、沖縄県連などに辺野古移設を認めさせたが、その際、軍事施設全般の県外移設をすすめるというリップサービスをしたということなのである。石破のやったことは、沖縄の世論を背景に県外移設を公約としてきた沖縄県選出の国会議員や自民党沖縄県連を説得して、「公約」を破らせたということにほかならない。

結局、ここにあるのは、民意を尊重するというのではなく、公選された代表たちを「説得」して「合意」させて正当性を得ようという政治手法である。沖縄の場合、保守的な自民党ですらも選挙においては普天間基地の県外移設を公約にしないと議員当選は難しかった。それが「民意」であるといえよう。

もちろん、代表制民主主義において、すべてのことを選挙民と合意して政治を進めていくことは難しい。しかし、沖縄において普天間基地を県内に移設させないことは、保守・革新という政治的立場をこえた「世論」となっており、ゆえに自民党の沖縄県連も公約に掲げていたといえる。その意味で「民意」はここでも踏みにじられたのである。

公選された代表である議員たちは、本来主権者である国民の代理人として存在すべきものといえる。しかし、ここでは、公選された議員たちに決定権があり、民意は無視されてもかまわないことになるだろう。たぶん、沖縄で公選された議員たちに対し、石破は形式的には「暴力」的でない形で「合意」をとったといえるだろう。しかし、それは、結局のところ、沖縄の人びとそれぞれの合意ではないといえる。つまり、いわば、公選された議員たちだけが、民意とは無関係に政治を決定できるというシステムになっているといえる。議員主権とでも評価できようか。それが、石破のいう「民主主義」なのである。

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