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Posts Tagged ‘福島第一原発’

前回のブログでは、5月8日に私が常磐道を使って福島県浜通りを北上しようとしたが、常磐道が片道一車線、対面通行で、以前よりも交通量が増え、横風にもあったため、いわき市最北のいわき四倉インターチェンジで常磐道を下りたことを紹介した。この時点で、私は迷った。常磐道でも帰還困難区域を通過せざるをえないのだが、一般道国道6号線は福島第一原発の前を通過しており、より高線量の地点があると予想せざるをえない。

実際、後から調べたことだが、国道6号線は常磐道より多くの被曝を強いられることになっているようだ。「物流ニッポン」というサイトの2015年7月13日付の記事では、次のように説明されている。

内閣府の原子力災害対策本部原子力被災者支援チームが6月24日に公表した資料によると、避難指示区域通過による被ばく線量は、国道6号で放射線量が最も多い区間(42.5キロ)を時速40キロで通過した場合が「1.2マイクロシーベルト」。これは、胸部X線集団健診の被ばく線量60マイクロシーベルトの50分の1程度だ。また、常磐道・広野インターチェンジ(IC)―南相馬IC(49.1キロ)を時速70キロで通過した際の被ばく線量は0.37マイクロシーベルトで、X線健診の160分の1に当たる――としている。
http://logistics.jp/media/2015/07/13/251

今、考えてみると、常磐道でもそれなりの被曝を覚悟しなくてはならないが、その3倍以上の被曝になっていたようである。沿道のモニタリングでも、常磐道では最大毎時4μSv程度だが、国道6号線沿いには毎時12μSvの地点もあるようだ。福島第一原発により近い国道6号線では、より被曝を覚悟しなくてはならないのである。

とはいえ、多分、公開されている限り、一度は福島第一原発前を通りたいと考えてもいた。そこで、四倉から国道6号線を使って、浜通りを北上することにした。

とはいえ、四倉から楢葉町までの区間は避難指示が解除されている。事故後、行ったこともある。事故後に行かなかったところは、富岡町から浪江町の区間だ。大雑把に言えば、富岡町中心部は居住制限区域(年間20〜50mSv)、富岡町北部ー大熊町ー双葉町が帰還困難区域(年間50mSv以上)、浪江町(海岸部)以北が避難指示解除準備区域(年間20mSv以下)となっている。とにかく、行ってみることにした。

このあたりは、山地と海に挟まれ、山地からは小河川が流れ、小河川に沿って平坦地があって田畑や小さな街並みが所在し、それぞれの小河川流域を区切るように岡があって、そこに林地が広がっているという地形だ。その地形にはもちろん変化はない。国道6号線沿いに所在する林地は新緑となっており、そこここで、藤の花が満開となっていた。見た目だけでは、「美しい自然」なのである。

国道6号線における帰還困難区域の通行は、放射線を多少でも遮蔽できる自動車でしか許されない。自動二輪や徒歩は通行禁止となっていた。そこで、帰還困難区域の境界は、車道は開放されているが、警官もしくは警備員が警戒していた。たぶん、自動二輪や歩行者を追い返すことが任務なのだろう。

帰還困難区域に入ってみると、津波に遭わなかったところでは、意外と町並みはかたづいている感じがした。地震で壊れていたような家屋は撤去されたようであり、残っていた家も青いビニールシートなどで屋根が補修されていた。ただ、国道6号線の沿いにある全ての家の前にはバリケードが築かれていた。また、国道6号線と交差する道路の多くは封鎖され、そこも警官もしくは警備員で警備されていた。

当たり前だが、警官・警備員以外に人はいない。富岡町(北部)・大熊町・双葉町の街並みに住民はいない。新緑の林に囲まれた、それらの街には人は住んでいないのである。

もちろん、線量の高低などは体感できるわけはない。ただ、ところどころに線量を表示する電光掲示板があった。表示されている線量は、最高毎時3μSV台だったかと記憶している。ただ、「ここは帰還困難区域(高線量区域を含む)」や「この先帰還困難区域につき通行止」という立看がそこここにあった。

この帰還困難区域内には、福島第一原発入口もある。しかし、それも封鎖されている交差点の一つにすぎない。

この帰還困難区域の通行に大きな支障はなかった。しかし、車の外に出ることが許されない地域である。信号以外で車を一時停止する気にもならず、写真撮影もしなかった。とにかく、早く通過したいと願うばかりであった。

ようやく、双葉町をぬけ、浪江町に入った。浪江町の海岸部は比較的線量が低く、避難指示解除準備区域となっている。しかし、そこも、それなりに家屋は補修されているものの、住民はほとんどいなかった。

住民をみかけたのは、浪江町をぬけて南相馬市小高に入ってからであった。そして、北上し、南相馬市の中心部である原町に入ると、それなりの賑わいをみることができた。そこから、飯舘村をぬけて、福島市にむかい、帰京の途についた。

帰還困難区域の印象を一言でいうことは難しい。「高線量」の危険とは目に見えないものであり、直接的には常磐道の対面通行のほうが危険に感じてしまう。帰還困難区域の「自然」の美しさが目をひき、「危険」を感じさせなくしている面もある。

しかし、放射線量の高さは、この地に人が自由に出入りしたり、住むことを許さない。たぶん、除染家屋の補修、地震・津波被災の後片付け、避難住民の荷物の運び出し、福島第一原発の廃炉作業など、それぞれの用務で立ち入っている人々はいるだろう。でも、一般には、短時間であっても、車などの遮蔽物から外に出ることは許されていない。

結局、立ち入ること禁止する警官・警備員をのぞけば、街並みだけしか残っていない。そこにいたはずの人々は、立ち退いたままなのだ。帰還を強く望む国・県すら、この地への早期帰還は想定していない。帰還困難区域のありようは、東日本大震災と福島第一原発事故の一つの結果ともいえよう。

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5月8日、久方ぶりに福島県浜通りを訪問した。目的地は、居住制限区域の浪江町であった。そのすぐ北側の南相馬市小高や、福島第二原発南側の楢葉町まで行ったことはあるが、福島第一原発事故以後、浪江町に到着したことは一度もなかった。

どのルートで行くか、結構悩んだ。福島市まで東京から東北道を北上し、伊達市もしくは飯舘村で山越えし、相馬市もしくは南相馬市に出て国道6号線を南下するというルートは、途中の放射線量も相対的に低く、何度も使った。ただ、やや遠回りなのは否めない。しかし、南側から常磐道もしくは国道6号線を北上するルートは、相対的に近いが、放射線量の高い帰還困難区域を通過せざるをえない。どうしようか。

結局、一度も使っていない常磐道を北上するルートを選んだ。途中のいわき中央ジャンクションまでは快適だった。沿線の山々は新緑で、ところどころ藤の花が咲いていた。湯ノ岳パーキングエリアでは放射能情報などを伝える小さな小屋のようなものができていたが、それだけだった。しかし、いわき中央をこえると、それまで片道二車線だった常磐道が一車線となり、ところどころで反対車線と対面通行になった。それには、前から恐怖感をおぼえていたのだが、以前よりも交通量が増え、制限速度時速70kmで走っていると後続の車が団子状態になり、反対車線を通行する車も格段に増えた。横風もあって車もぶれてきており、結局、いわき市最北のいわき四倉インターチェンジで常磐道を降りるよりほかなくなってしまった。

実際、常磐道の対面通行区間では、事故がおきている。5月4日、常磐道のより北の部分で死亡事故がおきた。朝日新聞のネット記事をみてほしい。

死亡の母娘、水族館帰りに事故 常磐道、車とバス衝突
2016年5月5日12時57分
 福島県大熊町下野上の常磐道下り線で4日午後8時45分ごろ、高速路線バスと乗用車が衝突し、乗用車の2人が死亡した事故で、県警は5日、死亡したのは、同県広野町に住む中国籍の秦丹丹さん(33)と、長女で小学1年生の熊田京佳さん(6)と発表した。

 県警によると、バスの乗客40人のうち38人と運転手、事故後にバスに追突した乗用車の運転手の計40人が軽傷を負い、そのほとんどが近くの病院に搬送された。バスは東京・池袋発、福島県相馬市行きの高速路線バスで、秦さん親子は宮城県内の水族館に遊びに行った帰りだったという。

 現場は富岡町の常磐富岡インターチェンジ(IC)と浪江町にある浪江ICの間の片側1車線の対面通行区間。県警は、秦さんの運転する乗用車がセンターラインをはみ出して、バスに正面衝突したとみて調べている。(後略)
http://www.asahi.com/articles/ASJ552T3FJ55UGTB001.html

前々から、いわき四倉までの対面通行区間をなんども通行して、そのあやうさを私は認識していた。それゆえ、新規全面開通した常磐道は、単に放射線量が高いというだけではない危険性があると考えていた。この事故と私の経験は、その危険性をまざまざとみせたものといえよう。

そして、この事故については、対面通行だけの問題にはすまなかった。この事故地点は、放射線量が高い帰還困難区域であった。そのことについて、朝日新聞のネット記事は次のように伝えている。

福島)帰還困難区域での事故、現場は、課題は
茶井祐輝、本田雅和2016年5月7日03時00分

 大熊町の常磐道下り線で4日夜、高速路線バスと乗用車が正面衝突した事故があり、乗用車の2人が死亡した。現場は東京電力福島第一原発事故の影響で帰還困難区域になっており、付近の放射線量は毎時4マイクロシーベルトを超すことも。バスに乗っていたけが人の多くはマスクもなしで2時間近く、路上にとどまらざるを得なかった。(後略)
http://www.asahi.com/articles/ASJ565D1RJ56UGTB00T.html

これも、懸念されていたことの一つであった。事故が起きると、巻き込まれた人々は、放射線量が高い地域にもかかわらず、事故地点にとどまって助けを待たなければならない。特に事故車に乗っている人々は、追加事故をさけるために、車から降りなくてはならないのだ。実際、福島県内の高速道路のサービスエリアやパーキングエリアでは、そのように指示するポスターがはってあった。結局、無用の被曝を余儀なくされるのである。

このように、福島県浜通りには、原発や放射線だけではない生活上の困難が存在する。たぶん、片道一車線の高速道路は、日本のそれぞれの地方にみられるであろう。そして、それぞれ危険性や不便を甘受せざるをえないことになっていることだろう。直接には交通量の少なさ、より大きくいえば周辺地域の人口の少なさがゆえに、危険や不便であっても、「片道一車線」の「交通道路」は建設されている。それでも「東京」直結が望ましいと地域では認識されているのであろう。原発があろうがなかろうが、「過疎地」であるということは、地域住民にそのような危険性を強いている。そして、このような構造を前提として、原発は建設されるのだ。

他方で、福島県浜通りでいえば、一般の「過疎地」の状況に加えて、福島第一原発事故による放射能汚染という問題もかかえている。事故の救護をまつために「無用」の被曝を余儀なくされるということは、他地域ではありえない。常磐道での交通事故は、「放射線被曝」にもつながっていくのである。

なお、常磐道を降りた私は、一つの決断をした。福島第一原発の入り口がある国道6号線を使って北上するルートをとるこにした。それについては、別の機会に述べたい。

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前のブログで、足尾鉱毒によって山林も含めて荒廃し廃村に追いやられた旧松木村の現況について紹介した。この足尾鉱毒による山林の荒廃について、公害研究者である宇井純は1970年11月16日の自主講座公害原論(宇井純『合本公害原論』、亜紀書房、1988年)で、足尾鉱毒事件の概要を述べた後、「足尾の鉱毒事件は決して過去ではない。足尾は現に鉱毒を流しています」とし、1970年当時の足尾の山林荒廃について話した。足尾の鉱毒が流失している最大の原因は山林の荒廃であると宇井純はいう。彼は、このように言っている

 

 ところが足尾の山では何十年かかって、この木を全部枯らしたのですから、土はどんどん雨の中に出てきまして結局ハダカと変らない。ここへ亜硫酸ガスが降りそそぎ酸化されて硫酸の雨になる。この中には砒素も含まれています。そうするとタネをまいたぐらいでは草も生えないのですね。いま、一生懸命植生板という堆肥の板のなかにタネを埋め込んだものを張りつけます。これは実に骨の折れる作業です。しかし、ちょっと根がついても、それはそのまま草木として安定せずにまた次の雨で洗い流される。
 それから芽の出た草は亜硫酸ガスで枯れてしまいます。そうすると、持って上って張りつけただけですからいずれは川へ出る。銅も少しずつ流れ出る。砒素やなんかが山の肌にぶちまけられていますから苔も生えない。

そのようになった足尾の山々について、宇井純は次のように叙述している。

 

 生物がまったくいない山というものはこんなに不安定なものかということを、足尾に行くと感じますね。冬になりますと、岩の破目に水がしみこみまして凍ります。そうしますと凍った時の膨張で岩はどんどん割れていきます。
 生物が発生する前の地球というのはこんなふうにして山がけずられ風化していった。その何億年か前、陸上の植物が発生する前の地球の風化のしかたを足尾ではみることができます。そうな利ますと割合風化というものは早いものですね。ずい分硬い石ですけれども、どんどんヒビが入ってガラガラ崩れていきます。

宇井純によると、荒廃した足尾の山々は、陸上が植物に覆われていない、生物発生前の地球を彷彿させるという。このような中、砂防ダムを設置したり、斜面に網をかけて土砂流出を喰い止め用としたりすることも効果はないとされる。宇井純は「現代の技術が自然に対していかに無力であるかという実例を見るのには、足尾にいくのが一番いいと思います。私も土木屋のはしくれですけれど、できないものはできないと答えるほかはないのです」と述べている。

足尾銅山の鉱山部門は1973年に閉山され、煙害の現況の一つである足尾製錬所は1978年に比較的煙害が出ない自溶製錬法に転換、1989年には製錬所自体が事実上閉鎖された。足尾製錬所近くにある龍蔵寺の住職は「境内に草が生えるとは、夢にも思わなかった。草木が育つようになったのは自溶製錬になって亜硫酸ガスが減ってきてからです」(布川了『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』改訂版、随想舎、2009年)と語っている。現在、足尾製錬所周辺も含めて、表土のある箇所では草ぐらいは生えている。しかし、基盤岩が露出しているところは草も生えない。そして、露出している岩自体が銅鉱石であって、そこから鉱毒が流失している恐れもあるのだ。

荒廃した足尾の山林(2016年2016年2月27日)

荒廃した足尾の山林(2016年2016年2月27日)

さらに、廃棄物を捨てた堆積場も植生を破壊した。宇井純は次のように言っている

 

 それから天狗沢とか原とかこういった古い選鉱の捨て方をみますと、山のてっぺんに索道を使って、てっぺんからバケツをひっくり返すようなかたちでどんどん投げ捨てていきます。これは山の斜面を覆ってやはり完全に植生―山に生えている木や草をこわしてしまいます。これもどうにもならないのですね。大体ケーブルで持っていくようなところですから、人間が行けるような楽なところではなくて、一辺ぶちまけたものをシャベルでいちいちすくってなんてということはとてもできないのです。

この状況も、松木堆積場に行けば理解できる。確かに廃棄物を山の上に運搬し、斜面にぶちまけるというやり方でないと、堆積場の景観はできないのだ。そして、そのようなことをすれば、斜面全体が砂漠のようになり、植生が破壊されることになるのである。

松木堆積場(2016年2月27日)

松木堆積場(2016年2月27日)

単に乱伐で山林がなくなっただけでなく、煙害によって草すらも生えることが許されなかった足尾の山々。それこそ、生物発生前の地球の景観への「回帰」であり、生物がいなくなった後の地球を「幻視」させるものであったといえる。そして、これは、自然の「摂理」などではなく、人間の「作為」でもたらされた「黙示録」なのである。人間の作為によって壊された「環境」は、人間の技術で速やかに回復できるものではないのである。足尾の山々が元のような山林に回復するには1000年はかかるだろうと言われている。そして、このようなことは、足尾で終わったわけでない。水俣でも福島でも繰り返されている。100年以上前に足尾であったことは、今の問題なのである。

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最近、日本において国民国家批判を提唱した故西川長夫の晩年の著作を読んでいる。晩年の西川は、「植民地主義」という言葉をキーワードにして現代世界を考察していた。その一つが『〈新〉植民地主義』(平凡社、2006年)である。この中で、西川は、9.11の映像を見て、「平和研究」で著名なヨハン・ガルトゥング(安倍晋三とは全く違う意味で「積極的平和主義を提唱した)の次の文章を想起したと回想している。

しかしながら、ますます相互依存が深まる世界にあって、他国で行使される暴力が、たとえばテロ行為という形で、自国にもたらされる傾向は強まるであろう。そしてそのことは、搾取と抑圧という構造的暴力の二つの基本形態にもあてはまる。自然を搾取すれば、生態系が破壊される。人々を搾取すれば、アル中や麻薬、犯罪、自殺などの深刻な社会的病が発生する。国全体を搾取すれば、債務問題や貿易問題が起こってくる。そこには宿命的なものがある。「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」(「まえがき」、『構造的暴力と平和』日本語版、中央大学出版部、1991年)

西川長夫によれば、この文章は東欧とソ連の崩壊直後に書かれたもの(1990年代初頭だろう)だということだが、西川は次のように指摘している。

いまでは9・11の予告のように思えます。だが、同時にこの文章はグローバリゼーションの見事な定義になっているのではないでしょうか。キーワードは「相互依存」ですが、それは必ずしも調和的な関係ではなく、そこには「搾取」と「抑圧」という「構造的暴力」が働いている。

3.11を経験し、その淵源の一つであった福島への原発立地ということを自分なりに検討してみて、この文章は、9・11だけでなく、3・11の予告にもなっていたと思う。なぜ、福島に原発が集中して立地していたのか。それは、単純化すれば、破滅的な原発事故の可能性を前提として、東京や大阪などの日本社会の「中心」をなすところではなく、それらから遠く離れており、人口や経済も集中しておらず、事故が起きたとしても日本社会総体への影響が小さいと考えられた「過疎地」であるために建設されたのだ。しかし、3・11をふりかえってみれば、原発事故の被害は、原発があった地元にとどまるものではない。もちろん、原発がある福島地域が最も大きいのではあるが、放射性物質は、福島だけにふりかかったわけではない。本来は影響がないようにしたはずの「首都圏」でもかなりの放射性物質が降下し、ある程度の被曝が余儀なくされた。さらに、地球全体の大気や海洋も放射性物質により汚染された。そして、今でも放射能汚染は続いている。結局、ガルトゥングにならって「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」としかいいようがないのだ。

そして、今、パリで起きた連続テロ事件の報道に接してみると、またもや、ガルトゥングの先の文章が想起される。「他国で行使される暴力が、たとえばテロ行為という形で、自国にもたらされ」ているのであり、「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」としかいいようがない。私たちは、眼前から暴力や放射能のようなものを遠ざけ、自分たちとは関係がないと考えられてきた「辺境」の地にその矛盾をおしつけてきた。しかし、やはり「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」宿命は存在しているのである。

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2015年10月20日、元福島第一原発事故作業員が発症した白血病が、被曝による労災と認定された。福島第一原発事故に関連してがん発症が被曝として認められたのは初めてのことである。まず、下記のNHKのネット報道をみていただきたい。

原発事故の作業員が白血病 初の労災認定
10月20日 16時10分

東京電力福島第一原子力発電所の事故の収束作業などにあたった当時30代の男性作業員が白血病を発症したことについて、厚生労働省は被ばくしたことによる労災と認定し、20日、本人に通知しました。4年前の原発事故に関連してがんの発症で労災が認められたのは初めてです。
労災が認められたのは、平成23年11月からおととし12月までの間に1年半にわたって各地の原子力発電所で働き、福島第一原発の事故の収束作業などにあたった当時30代後半の男性作業員です。
厚生労働省によりますと男性は、福島第一原発を最後に作業員をやめたあと、白血病を発症したため労災を申請したということです。白血病の労災の認定基準は、年間5ミリシーベルト以上被ばくし、1年を超えてから発症した場合と定められていて、厚生労働省の専門家による検討会で被ばくとの因果関係を分析してきました。その結果、男性はこれまでに合わせて19.8ミリシーベルト被ばくし、特に、福島第一原発での線量が15.7ミリシーベルトと最も高く、原発での作業が原因で発症した可能性が否定できないとして労災と認定し、20日、本人に通知しました。
厚生労働省によりますと、原発作業員のがんの発症ではこれまでに13件の労災が認められていますが、4年前の原発事故に関連して労災が認められたのはこれが初めてです。
労災申請 今後増える可能性
厚生労働省によりますと、福島第一原発の事故後、被ばくによる労災は今回の件以外に10件が申請されていて、このうち7件では労災は認められませんでしたが、3件は調査が続いています。福島第一原発で事故からこれまでに働いていた作業員は延べおよそ4万5000人で、年間5ミリシーベルト以上の被ばくをした人は2万1000人余りに上っていて、今後、労災の申請が増える可能性もあります。
専門家「今後も被ばく量に注意」
今回の労災認定についてチェルノブイリ原発の事故の際、被ばくの影響を調査した長崎大学の長瀧重信名誉教授は「労災の認定基準は、労働者を保護するために僅かでも被ばくをすれば、それに応じてリスクが上がるという考え方に基づいて定められていて、今回のケースは年間5ミリシーベルト以上という基準に当てはまったので認定されたのだと思う。福島第一原発での被ばく量は15.7ミリシーベルトとそれほど高くはないので、福島での被ばくが白血病の発症につながった可能性はこれまでのデータからみると低いと考えられるが、今後も、作業員の被ばく量については、十分注意していく必要がある」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151020/k10010276091000.html

この記事によると、白血病の労災認定基準は、年間5ミリシーベルト以上被曝し、それから1年以上経過して発症した場合とされているが、この作業員の場合、2011年11月から2013年12月の間で各地の原発で作業に従事して19.8ミリシーベルト被曝し、そのうち福島第一原発での作業で15.7ミリシーベルト被曝したということで、労災認定されたということである。この経過からみると、より線量が高かったと思われる事故直後の作業には携わっていない。報道でも指摘されているが、福島第一原発事故処理に携わり年間5ミリシーベルト以上被曝した作業員は2万1000人以上にのぼる。福島第一原発関連で被曝による労災認定申請は11件だされ、7件が未認定、3件が調査中で、本件が認められたということだが、放射線従事者の通常時の年間線量限度は50ミリシーベルト、5年間での限度は100ミリシーベルトで、かなり多くの労働者が年間5ミリシーベルト以上の被曝をしているのである。

この報道をみて再認識させられたことは、年間5ミリシーベルト以上被曝するということは、それを原因にした白血病の発症を覚悟しなくてはならないということである。もちろん、皆が白血病を発症することではなく、統計的にいえば白血病発症のリスクが高まるということなのだろうが、白血病を発症した個人にとっては死に直結しかねないリスクなのである。

それにもかかわらず、原発労働者は、年間50ミリシーベルト、5年間で100ミリシーベルトという、被曝によって白血病発症が認められる年間5ミリシーベルトよりかなり高い被曝線量を受忍しなくてはならない。今回認められたケースでも、総計20ミリシーベルト弱であり、それらの限度からみれば、必ずしも限度近くとはいえない線量である。これは、たぶん、3.11以前からのことであるが、原発労働者は白血病を覚悟しなくてはならない放射線量の中で働かされていたのだ。原発労働者は被曝労働者なのである。そして、汚染水処理や廃炉作業などの福島第一原発事故処理は、そういった被曝労働者を増やすことになっている。

また、現在までに福島の各地域で除染事業が進められてきたが、従事する労働者たちにおいても、年間5ミリシーベルト以上の被曝する場合もあるだろうと予想されている。

さらに、現在、福島第一原発事故にともなう避難区域のなかで、放射線量年間20ミリシーベルト以下の避難指示解除準備区域では、除染をある程度進め、インフラを整備した上で、避難指示が解除され、住民の帰還が促されている。そして、政府は、この避難指示解除準備区域と、年間20〜50ミリシーベルトの放射線量があった居住制限区域に対する避難指示を2017年までに解除する方針を打ち出している。これらの地域の放射線量は、自然的な減衰と、それなりの除染で、いくばくか下がっているだろうと思われる。しかし、このまま解除され、住民の帰還が促進されれば、年間5ミリシーベルト以上の被曝を余儀なくされる人々が少なからず出て来るだろう。

白血病の労災認定が認められた労働者が福島第一原発で働いていた時期は、事故直後の混乱した状態の時ではない。汚染水や廃炉などの福島第一原発事故処理、福島県各地で行われた除染事業、復興の名のもとに避難指示を解除して住民の帰還を促す政策展開、これらは、白血病などの発症リスクをこえた放射線量が照射された被曝者をやみくもに増やしているようにしかみえないのである。

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もう旧聞になるが、2015年8月11日、九州電力の川内原発が再稼働した。同日、菅義偉官房長官は次のようにコメントしている。

川内原発再稼働、菅官房長官「判断するのは事業者」
 
[東京 11日 ロイター] –
は11日の記者会見で、九州電力(9508.T)の川内原発1号機(鹿児島県薩摩川内市)について「再稼働を判断するのは事業者であり、政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」と述べた。川内1号は同日午前10時半に原子炉が再稼働した。

菅長官は、国際原子力機関(IAEA)の基本原則に「安全の一義的責任は許認可取得者にある」と明記されていると指摘。政府は、原子力規制委員会が新規制基準に適合すると認めた場合に、原発の再稼働を進めることを閣議決定していることから、災害の際には国が迅速に対応する責任があると語った。

その上で、「再稼働にあたっては地元の理解が得られるよう丁寧に取り組んでいくことが極めて重要」との見方を示した。http://jp.reuters.com/article/2015/08/11/suga-sendai-nuclear-idJPKCN0QG08U20150811

それ以来、伊方原発他、日本各地の原発再稼働への動きがさかんに報道されている。つい最近は、安倍改造内閣で新規に復興担当大臣となった福井県選出衆議院議員である高木毅が、10月7日の就任記者会見で東北の被災地にある女川原発と福島第二原発を再稼働させることもありうると話している。

「被災地原発 基準適合なら再稼働」 就任会見で高木復興相

2015年10月8日 朝刊(東京新聞)

 高木毅復興相(衆院福井2区)は七日夜の首相官邸での就任記者会見で、東日本大震災で被災した東北三県にある東京電力福島第二原発(福島県楢葉町、富岡町)と東北電力女川原発(宮城県女川町)を再稼働させる可能性について「原子力規制委員会が世界で最も厳しい水準の新規制基準に適合すると認めたもののみ、再稼働を進めるのが政府の一貫した方針で、私もそうした考えだ」と述べた。被災地以外の原発と同様に新規制基準を満たせば、再稼働することもあり得るとの考えを示した。
 安倍政権が進める原発再稼働路線を踏まえた発言。福島第一原発事故で大きな被害を出し、現在も多くの避難者がいる福島などの復興を担う閣僚の発言に対し被災地の住民や野党から批判が出る可能性がある。
 高木氏は原発が数多く立地する福井県選出。自民党では原発の早期再稼働を求める議連の事務局長も務めてきた。
 高木氏は会見で「私の地元は、原発とともに生きてきたといって過言ではない地域。非常に残念な福島の事故が起きてしまったことは、本当に重く受け止めなければならない」とも述べた。
 再稼働の手続きは、女川原発1~3号機のうち2号機のみ規制委の審査中。福島県議会は原発事故後の二〇一一年、福島第二原発の廃炉を求める請願を採択している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201510/CK2015100802000127.html

これらの報道を見聞きするにつけ、政府側は原子力規制委員会の規制基準に適合するから再稼働を認めるというばかりで、なぜ再稼働が必要なのかということはほとんど言っていないという印象を受ける。菅官房長官にいたっては「再稼働を判断するのは事業者」と言い切っている。しかし、「政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」といっている。事故が起きたとき、責任をとるのは、事業者でなくて、政府なのだ。全く割に合わない。

野田政権が2012年に大飯原発の再稼働を決めたときは、電力不足により国民生活・国民経済に支障を来すためと、偽善的ではあったが、とにかく理由を述べて、人々の合意を得ようとしていた。安倍政権における再稼働については、原子力規制委員会により「安全」の保証が得られたというばかりで、人々の合意を得ようとは全くしていないのだ。今でも、半数程度が再稼働に反対という民意が各世論調査で示されているにもかかわらず、だ。

原発再稼働についての問題は重大事故時の安全性の確保だけではない。放射性廃棄物はどう処理するのか、老朽原発はどうするのか、平常の運転時でもまぬがれない労働者の被曝についてどのように対処するのか、いろいろな問題がある。そして、そもそも、汚染水、賠償、除染、避難、廃炉など、福島第一原発事故の処理はどうなっているのだろう。「政府は万が一事故が起きた場合に先頭に立って対応する責任がある」と口ではいうが、実際はこの通りだ。

そういうことすべてに、偽善的な言い訳すらしないのだ。安保法制制定過程でみられた、対話による合意獲得の努力を一切しない安倍政権の姿勢が、再稼働問題でも顕在化しているのである。

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さて、前回は、『現代思想』10月臨時増刊号「総特集 安保法制を問う」に掲載されたSEALDs KANSAIの一員である大澤茉実の「SEALDsの周辺から 保守性のなかの革新性」という文章を引用して、SEALDsのような若い世代の人びとにおいては、一見「保守的」にみえる態度のなかに、現代社会が戦後日本社会と断絶しているという歴史認識があるのではないかと論じた。前回のブログでも述べたが、大澤は「原発事故による価値観の転換(既存の権威の失墜と社会運動の必要性・可能性の再発見)」としており、3.11が一つの分岐点であったと述べている。

この『現代思想』には、東京で活動しているSEALDsのメンバーの一人である芝田万奈が「絶望の国で闘う」という文章をよせている。彼女は冒頭から、3.11について、次のように述べている。

 

 テレビの画面からは伝わってこなかった震災の現実がそこにあった。2011年の夏、当時高校三年生だった私が母親の実家である宮城県の東松島を訪れた際に目の当たりにしたのは、何もかも破壊された人々の生活そのものだった。他人ごとじゃない。親戚の赤ちゃんが亡くなったことを私はフィクションとしか受け入れることができなかった。あまりにも残酷すぎる事実を前に、私は人生を、以前のように何も考えずに送ることができなくなった。生きることの意味を考えるたびに自分を見失い、過ぎ去っていく厖大な時間と情報を私は焦点の合わない目で見つめていた。

彼女は、翌2011年夏、福島県南相馬市小高を訪れた。小高の空気はとても穏やかだったそうだが、そこに所在した中華料理店は内外ともに壊れたまま放置されて「意地悪そうな表情の猫」しかおらず、それでも外の花壇は手入れをされていたそうである。
彼女は、

この断片的な記憶の中では、大通りの情景に色褪せたセピアのフィルターがかかっている。これがゴーストタウンということか、と改めて絶句した。これを期に3・11は人災であったということをようやく理解し、原発の本を読んだり、勉強をするようになった

と記している。

この原発・福島の勉強と平行して国際関係学を彼女は勉強していたが、「世の中に対しての失望が大きくなるばかりであった」。アメリカで教育を受けていたこともあって、アメリカが世界中を「民主化」すべく繰り広げている政策とアメリカ国内に存在する矛盾が「民主主義」という言葉によって美化されていることに大きな違和感を覚えたという。

そして、このように記している。

 

 大学二年になって、原発にともなう社会の矛盾によって生じるしわ寄せが母親や子どもにくると知った。3・11をテーマに福島から避難したお母さんたちの研究を始めた。その過程で、自分にもいつか子どもを産む日が来るのかと思うと何度も恐怖感に襲われた。子どもは大好きなのに、やはり社会を見ると、子どもを安心して育てられるとは思えなかったし、その社会を自分では変えることができないという無力感も自分の中で大きくなった。

  * * *

 この頃には政治家はもちろん、大人も、政府も、「復興」や「民主主義」という言葉に対してでさえ嫌悪感を持つようになった。自分の力ではどうしようもない何か、それが私にとっての「社会」のイメージである。原発の実態で露わになった、無力感と恐怖感と絶望と怒りを生み出してきた「社会」。東北に行けばせっせと防潮堤の工事が進んでいるし、沖縄の辺野古ではオスプレイを仰いで座り込みを続ける人々がいる。

この状況の中で、反原発運動などの社会運動は「希望」であったと彼女は述べている。

 

 金曜官邸前の抗議の存在や震災後原発ゼロが続いてきた事実は、日本社会における私にとっての希望であった。市民が起こした社会運動が本当に変化を呼ぶということが証明されたのは、震災後に起きたポジティブな出来事の一つだと思う。そして2013年の秋、私はSEALDsの前進(ママ)団体であるSASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)に出会い、今ではコアメンバーとして活動している。震災後の社会運動の上にあるSEALDsは、私の四年間の怒りと絶望をポジティブに変換する役割を果していると思う。

そして、2015年8月11日に川内原発が再稼働したことについて、「未だにこの事実は受け入れられないし、再び無力感に苛まされ、何もできなかったのだろうかと絶望はする」としながら、「だが、SEALDsの活動を通して気付いたことは、時には現状を嘆きながらも、希望を自ら作り出していくしかないということである」と述べている。

最後に、彼女は次のように語っている。

 

 けれど、この数ヶ月で感じたことは、自らが変える力となることで未来は切り拓かれていくということだ。あの日、震災はこの国から光を奪った。真っ暗なこの国の路上で私は闘うことを選んだ。特別なことじゃない。私はただ、当たり前のことをしているだけ。

3.11ー震災と原発事故の衝撃を契機とした日本社会への怒り、それを変えることのできない自分自身の無力感、その絶望のなかで、社会運動が社会を変えていく可能性に気付いたことが「希望」であり、「震災後に起きたポジティブな出来事」であると彼女は言っている。その上で自らが変える力になることで未来は切り拓かれていくと主張している。

たぶん、3.11直後、彼女らにとどまらず、日本社会の多くの人がそう考えていただろう。とはいえ、「昨日と同じ明日」を取り戻すなどという幻想のなかで、そういう思いはあいまいにされてきた。芝田は、現状に対するより真摯で透徹した「絶望」の中で、社会運動の可能性・必要性を意識しつづけ、「真っ暗なこの国の路上で私は闘うことを選んだ」のである。

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現在、安倍政権によって、集団的自衛権を核とする安全保障法制制定が着々と進められている。それに対し、元自民党の有力者など保守派の人びとも含めて、広い範囲でデモや抗議活動が国会前はじめ、全国津々浦々で行なわれている。8月30日には、国会前で12万人が抗議活動に参加し、全国では30万人が運動に参加したといわれている。

他方、保守派も含めて安保法制反対運動に集め、多数派を形成することへの懸念も表明されている。例えば、優秀な在日朝鮮人史研究者である鄭栄恒は、【朴露子-鄭栄桓 教授対談】「過去に囚われるのをやめようという『韓日和解論』、中国と対立を呼ぶリスク」の中で、このように発言している。

鄭「日本の歴史修正主義を見る時は二つの対象を見なければならない。一つは、韓国でも批判する45年前の歴史修正主義だ。もう一つは、日本の敗戦後の歴史修正主義だ。 (日本の戦後の歴史と関連して)90年代までの日本のリベラルや進歩は、日本の歴代政権が平和憲法を正しく守らないと主張してきた。日本を真の平和国家にするための批判とみることができる。しかし今の進歩勢力は、戦後日本の歴史そのものを美化し、平和国家を安倍政権が破壊しているとのスタイルで批判する。新自由主義の影響のせいか、高度成長期の日本を破壊するなと装飾した批判もする。つまり、80年代以前の自民党政権に対する評価を大きく変えている。これらリベラルの主張に対して保守も同意する。だから安倍政権との対立は激しくなっているように見えるが、日本の進歩と保守がほぼ同じ戦後史の歴史像を持っていることが分かる。もちろん日本の安倍晋三首相の修正主義的な歴史認識や植民地支配を内心では肯定しようとする態度に対する批判も必要だが、日本戦後史の修正が行われているという点についても批判的な介入が必要だ。」
http://east-asian-peace.hatenablog.com/entry/2015/09/03/061508

確かに表面的に見れば、そういう指摘も可能なのかもしれない。安保法制反対運動のスローガンの一つは「安倍晋三から日本を守れ」である。鄭栄恒は「日本の進歩と保守がほぼ同じ戦後史の歴史像を持っていることが分かる」としている。しかし、本当に、鄭栄恒のような見方だけでよいのだろうか。

周知のように、現在の安保法制反対運動を主導しているグループの一つに”Students Emergency Action for Liberal Democracy s”(自由と民主主義のための学生緊急行動 略称SEALDs)がある。このSEALDsの関西での組織であるSEALDs KANSAIの一員である大澤茉実は「SEALDsの周辺から 保守性のなかの革新性」という文章を『現代思想』10月臨時増刊号「総特集 安保法制を問う」によせている。大澤は次のように言っている。

いま、運動に参加する若者たちが共有する内的衝動に、原発事故による価値観の転換(既存の権威の失墜と社会運動の必要性・可能性の再発見)に加え、今日より明日はよくならない停滞の時代を生きるためのサバイバル的人生観があると感じている。だから、若者が運動に参加するとき、基本的な目標は「これ以上状況を悪化させるな」となるし、それは保守性を帯びることになる。私は、その表面的な部分に抵抗感を持っていたわけだが、運動に飛び込んで、その保守性のなかには、同時に私たちの世代が持つ革新性が編み込まれていると感じるようになった。
 経済成長が続き、「パイ」の総体が大きくなっていく時代には、権威主義的な組織のなかでがむしゃらに働くことが個人にとっても社会にとっても豊かさを実現する道であったのかもしれない。しかし、停滞の時代にあっては既存の組織は現状維持を図るために往々にして個人を犠牲にする。若い世代にとって、これからの人生を一つの組織(とりわけ企業)に依存して生きることは現実的でないし、また望ましい選択肢でもなくなっている。そのなかで、私たちは、いまある「パイ」の活用や分配のあり方に敏感になっている。つまり、将来的に「パイ」が大きくなるという希望的観測を理由に、周辺的な立場の者への分配が後回しになることに拒否感を持つのだ。そういった、日常レベルでの知恵や実践が「日常を守りたい」という保守性の内部に脈打っている。具体的には、先述した「個人の集まり」としての組織のあり方である。かつてなら大きな権威によって無下にされたであろう「わたし」たちも、政治的発言権を手に入れはじめた。それが、個人も社会も豊かにするのだと、肌感覚で知っているのである。
 経済の停滞が形成した私たちのサバイバル的な人生観は、なによりもまず日々を生き抜くことを至上命題とする。そのため、表面的には若者は保守的で政治に無関心に映るかもしれないが、現実にはさまざまな試行錯誤を経験しながら激烈な「政治」を生きている。
 そのことが、民主的で柔軟な組織をつくるための創意工夫につながる。そしてそれは、与えられた現実のなかでより賢く生きるために私たちが持ちはじめた強かな革新性なのだ。その実感があるからこそ、私は運動に一片の希望を抱く。

大澤は、まず、権威が失墜し社会運動の必要性・可能性が再発見されていった原発事故による価値観の転換をあげている。そのうえで、経済成長が続き「パイ」の総体が大きくなっていき、権威主義的な組織のなかで自己実現がはかれた時代と、経済が停滞し、権威主義的な組織のなかで依拠して生きることは非現実的かつ無意味で、既存の「パイ」の活用や分配に敏感になった自分たちの時代を画然とわけている。そして、「今日より明日はよくならない停滞の時代を生きるためのサバイバル的人生観があると感じている。だから、若者が運動に参加するとき、基本的な目標は「これ以上状況を悪化させるな」となるし、それは保守性を帯びることになる。」と主張しているのだ。その中で形成された「民主的で柔軟な組織をつくるための創意工夫」を、大澤は「与えられた現実のなかでより賢く生きるために私たちが持ちはじめた強かな革新性なのだ」としているのである。

ここには、むしろ、ある意味で原発事故による価値観の転換を契機にした、戦後日本社会から断絶されてしまったという現代社会に対する歴史意識があるといえる。そして、現在の、「今日より明日はよくならない停滞の時代」への憤懣と、「これ以上状況を悪化させるな」という危機感が表出されているのである。つまりは、「現在」をどう認識し、どのように行動していくかが課題なのである。

そして、最早、高度経済成長の時代ではある意味で生存を保障していた、企業などの権威主義的な組織に依拠して生活するということは意味をなさないものとして認識され、それとは別の、オルタナティブな組織をつくっていくことが目指されている。そういうことを前提に「安倍晋三から日本を守れ」というスローガンを聞いた時、その「日本」が少なくとも戦後「日本」そのままなのだろうかと考えるのである。

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現在、朝日新聞夕刊では、写真家・作家の藤原新也へのインタビュー記事「人生の贈りものー私の半生」を連載している。本日(2015年8月13日)はその9回目で、「3.11後遺症が日本を覆っている」というテーマで、藤原の東日本大震災認識が語られている。

まず、藤原はこのように言う。

 震災災害にしろ原発災害にしろ、人が故郷を失うということの意味を日本人のどれだけの人が実感として持てたかは疑問ですね。自分は高校生のとき家が破産し郷里を捨てたが、故郷そのものが無くなったわけではない。だが東日本では故郷そのものが完全に消失したわけだ。それは自分の血肉を失うことに等しい。

藤原は、1995年の阪神大震災でも景観全体が失われたわけではないとしつつ「東日本では風景そのものが流されてしまった」と指摘する。その風景の「残骸」は「瓦礫」と呼ばれることになったが、藤原は「震災地以外の人が瓦礫と呼んだものは当地の人にとっては最後の記憶のよりどころだったわけだ」と述べている。

さらに、藤原は、東日本大震災における津波災害被災者と原発災害被災者との違いをこのように表現している。

 

津波災害と原発災害が同時にやって来たわけだが、被災者の心情はまったく異なる。かたや天災、かたや人災。天災は諦めざるをえない気持ちに至れるが、人災は諦めきれないばかりかそこに深い怨念が生じる。取材時でも津波被災者は心情を吐露してくれたが、原発被災者は強いストレスを溜め、取材で入ってきた私にさえ敵視した眼を向け、とりつく島がなかった。

そして、藤原は次のように述べている。

…おしなべてストレス耐性の弱い老人で多くの老人が死期を早めた。原発の最初の犠牲は老人なんだ。原発再稼働にあたって経済効率の話ばかりが優先されるが経済とは人間生活のためにあるわけで、その人間生活の根本が失われる可能性を秘めた科学技術は真の科学ではないという理念を持った、本当の意味で”美しい日本”を標榜する政治家が今後出てきてほしいと願う。

しかし、現状の日本社会は、藤原の願いとはまるで逆方向にいっているようにみえる。「震災以降、日本人はどのように変りましたか」(聞き手・川本裕司)の質問に、藤原は次のように答え、この記事を締めくくっている。

 

3.11後遺症が日本を覆っているように感じる。日本列島が人の体とすると、日本人は左足か右足を失ったくらいのトラウマを背負ったわけだ。ヘイトスピーチや放射能問題に触れると傷口に塩を塗られたかのように興奮する人々の出現、キレる老人など日本人がいま攻撃的になっている理由の一つは、後遺症による被害妄想が無意識の中にあるように思う。それとは逆にテレビなどで外国人によるニッポン賛美番組がむやみに多いのは、3.11による自信喪失の裏返しの自己賛美現象であり、自己賛美型の右傾化傾向ひいては戦争法案への邁進とも底流でつながっている。

3.11以降の日本社会の意識状況について「3.11後遺症が日本を覆っている」と藤原は指摘している。私も2011年以降の日本社会の意識状況について同じように感じていた。ただ、「3.11後遺症」で中心をなす「故郷そのものが完全に消失する」ことへの恐怖は、単に東日本大震災からのみ出現しているわけではないだろう。すでに、兆候としては、バブル崩壊後の「失われた20年」における長期経済不況、リーマンショック時の雇用不安、さらに地方都市のシャッター街化という形で現われてきていた。そして、2011年はGDP世界第二位の地位が日本から中国に移った年でもある。よくも悪くも高度経済成長以降の「経済大国」化のなかで成立してきたこれまでの「故郷」=日本社会のあり方の根底が崩れる可能性が出現してきたといえる。

とはいえ、それらはまだ「可能性」ということはできる。東日本大震災は「故郷そのものが完全に消失する」光景を目の当たりにさせた。今までは「可能性」であった「故郷そのものが完全に消失する」ということを東日本大震災は可視化したのである。その意味で、東日本大震災は、それ自体が巨大な出来事なのだが、そればかりではなく、日本社会全体のあり方の象徴にもなっていると私は考える。

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2015年7月22日、NHKのクローズアップ現代で、「もう一度咲かせたい 福島のバラ」(水)という表題で、福島第一原発事故で「帰還困難区域」となり、事実上閉鎖に追い込まれた双葉ばら園について放映された。まず、番組の紹介をみてほしい。

もう一度咲かせたい 福島のバラ

 
出演者
開沼 博 さん
(福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員)

福島県双葉町に、イギリスのウィリアム王子など世界中の人たちが強い関心を示し、復活を切望するバラ園がある。7000株ものバラが咲き乱れ、“日本で最も個性的で美しい”と称賛された「双葉ばら園」だ。地元の岡田勝秀さん(71)の一家が40年以上かけて築いたが、原発事故で荒れ野と化してしまった。ばら園は原発事故がもたらした悲劇の象徴として知れ渡り、再建を願う声は今も後を絶たない。しかし賠償手続きは難航。ばら園の価値をはかることは難しいというのだ。避難先の茨城県つくば市で茫然自失の日々を送っていた岡田さんを変えたのは被災者からの言葉だった。「失った暮らしがバラと重なる。だからこそ再び美しいバラを咲かせてほしい」。今年、岡田さんは養護施設で子供たちと一緒にバラを育て始めた。目を輝かせて取り組む子供たちの姿に力をもらっているという。岡田さんの姿から福島のいまを見つめ、取り返しのつかないものを失った人々に何が必要なのか、考える。
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3689.html

この双葉ばら園は、双葉町に所在し、ばら愛好家の間では知られた存在であった。私も、よくこの前を通り、1、2回は中を見たことがある。しかし、初夏に行くことができず、花盛りのばら園をみたことがない。今となっては永遠に見ることはできない。福島第一原発事故で残念に思うことの一つだ(もちろん、こればかりではないけれど)

この番組の冒頭では、写真などをもとにしてCGで花盛りのばら園を再現していた。この番組内容をおこしたサイトがあるが、それによると全体は6ヘクタールになり、個人経営としては国内最大規模で、750種7000株のバラが植えられ、年間5万人の人が訪ねたという。(http://varietydrama.blog.fc2.com/blog-entry-2881.htmlより、以下番組内容については、同サイトより引用)

しかし、福島第一原発より8キロの場所にあり、放射線量が高く、今でも「帰還困難区域」にある。園主は200キロ離れた茨城県つくば市に避難し、ばら園を手伝っていた息子たちも別の仕事につかざるをえなくなった。こうして、4年以上もの間、ばら園は手入れされることもなく、荒れ果ててしまった。双葉でのばら園再開はあきらめざるをえなくなったのである。

園主に別の場所でのばら園再開を求める人たちもいる。しかし、園主は再開に踏み切れない。その理由を、クローズアップ現代では、このように説明した。

バラ園を再建するためには新たな土地に移るかしかありません。
しかし岡田さん(園主)はまだ具体的には考えられないといいます。
その理由は東京電力との賠償交渉が進まず再建のための資金にメドが立たないためです。
岡田さんのようなバラ園の賠償は前例がありません。
東京電力の基準ではヒノキやスギなどを植えた人工林と同じ扱いになります。
しかし岡田さんは、そのことに納得がいかないといいます。

基本的には、東電との間の賠償交渉が不調のため、ばら園再開の資金がないということが、ばら園再開を阻んでいるといえよう。同番組では「一向に先が見えない日々」と表現している。

その上で、クローズアップ現代では、ある養護施設が、ばら栽培の専門家としての園主に子どもたちの心を慰めるばら苗植え付けを依頼したり、支援者がばら園の写真展を開始したりすることを肯定的に伝えている。

そして、ここで、「被災者の方々への聞き取りをずっと続けている」「福島県いわき市のご出身」で福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員」の開沼博氏が登場してくる。開沼氏は、福島原発の建設経過から福島第一直後の状況を扱った『フクシマ論』の著者として著名である。

開沼氏は、震災や原発事故などで失われたもののなかで、死亡者や賠償金額など数字に表されるものはわかりやすいが、生きがいとか、社会的役割とか、仕事とか、未来への展望とか外からは見えにくいとする。そして、被災者たちは、政治とか行政とかメディアと研究者とかへの社会的信頼ととも自分自身への信頼も失っていると主張する。

その上で、このようにいう。

もうかなうならば、失われたものが元に戻ってほしい、多くの方がそういうふうに思っています。
一方で、なかなかその思いというのはかなわない。
失われてしまったものをどうすればいいのかと思っている方が多いです。
そこに対して、1つは、いわゆる公助、公に行政とか東電とかが補償、賠償などをするということがあります。
ただそれだけで足りない部分というのがあるわけですね。
VTRの中でもありましたとおり、なかなかお金に換算できない価値というのがある。
(中略)
やっぱり重要なのは、そういう賠償、補償などだけではカバーしきれない部分というのをいかに立ち直していくか。
ここで重要になってくるのは承認というキーワードだというふうに思っています。
これ、承認っていうのは、まず1対1の関係で、あなたはそこにいていいんだと、分かりやすくいうなら、そういう感覚だと思います。
そして自分自身がここにいて、こういうことをやっていいんだという感覚。
それが失われているわけですね。
これをどういうふうに立て直すか、もちろん公助はまだまだ必要ですけれども、いわゆる自助、共助といわれる、つまり自分たちの身の回りで、あなたがこういうふうに必要なんだよ、ここにいてよと。
あるいは自分たちと一緒に何かやってくださいと

まとめていえば、東電の賠償も含めて「公助」としつつ、金銭でカバーしきれない部分について、被災者の自己承認を回復させるためとして、「自助」「共助」の重要性を主張したのである。

こういう番組があることはいいことである。しかし、開沼氏のような捉え方は、非常に奇異に思える。東電は原発事故を起した責任者である。そして、原発事故で住めなくなったり、使えなくなってしまった財産に対する賠償は、権利の侵害に対する代価を義務として提供することであって、津波被害などの自然災害による被災者の生活を政治的に救助するという意味での「公助」ではない。

まず、そうした理解の上にたって、「双葉ばら園」について考えてみよう。ばら園が再開できない最大の理由は、東電の賠償交渉が不調であるということである。東電の賠償金は、たぶん一般山林と同様な基準で賠償を考えているのであろう。しかし、その金額ではばら園再開はできないため、園主は再開できないと考えているのだ。ばら園創設後の手間は確かに金額に換算できない。しかし、少なくとも、別の場所でばら園を再開することが可能な程度が最低の賠償金額になるべきだと思う。

一方、NHKや開沼氏の強調する「自助」「共助」はどうだろうか。生活者的視点から考えて、被災者自身や被災者を受け入れている地域社会の側で、そのような営為が不要であるとは思われない。聞き取り調査などすれば、そういう意見も出るだろう。そもそも東電の賠償が失われた財産の最低限度にたるものになるかどうか不明でもある。しかし、それは、NHKや開沼氏のような非当事者が一方的に強調してよいこととは思えない。それでもたぶん、かれらは「被災者によりそう」視点として自己規定するだろう。

番組全体では、東電の賠償を「公助」として「義務」的色彩をうすめつつ、それに頼らない被災者の「自助」「共助」を説いているといえるのである。しかし、これでよいのか。こういうことで、「福島のばら」は「もう一度咲く」のであろうか。

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