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Archive for 2012年9月

    1、原子力規制委員会記者会見からの「しんぶん赤旗」の排除

2012年9月26日、共産党の機関紙である「しんぶん赤旗」は、次のような記事をネット配信した。

原子力規制委員会が毎週1回開く委員会終了後の記者会見について、同委員会の実務を担当する原子力規制庁の広報担当者は「特定の主義主張を持つ機関の機関紙はご遠慮いただく」などとして、「しんぶん赤旗」を排除する方針を25日、明らかにしました。さらにフリーランスの記者についても「どういった雑誌に、どういった記事を書いているかを見て、特定の主義主張を持って書かれている方はご遠慮いただいています」と、憲法が禁止する検閲まがいの対応をしていることも明言しました。

 原子力規制委員会の田中俊一委員長は19日の第1回委員会で、「地に落ちた原子力安全行政に対する信頼を回復する」ため「透明性を確保する」と述べ、「報道機関への発表を積極的に行うことで、委員会としてのメッセージを分かりやすく伝える」とする方針も決めていました。委員会で決めた「報道の体制について」では「報道機関を既存官庁よりも広く捉え、報道を事業として行う団体や個人を対象にする」とまで明記していました。

 これまで、内閣府原子力安全委員会後の委員長らの記者会見で、こうした対応はされていませんでした。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-09-26/2012092614_03_1.html

つまり、「特定の主義主張を持つ機関の機関紙」として「しんぶん赤旗」所属記者を記者会見から排除するとともに、フリーランスの記者についても、「特定の主義主張を持つ」かどうかで選別すると、原子力規制委員会は明言したということである。

    2、原子力規制委員会の初仕事としての原子力「言論」規制

翌26日、原子力規制委員長田中俊一の第一回定例記者会見が開かれた。その際、この問題が記者から質問された。一応、典拠として、この記者会見の映像をあげておこう。大体10分過ぎあたりから、この問題のやり取りが記録されている。

ブログ「みんな楽しくハッピーがいい」で、この部分のやり取りがおこされている。まず、フリーランスの記者から、次のような質問があり、原子力規制委員会の事務局である原子力規制庁の広聴広報課長が、このように答えている。

フリーランス:
フリーランスのWatariと申します。
本日の赤旗の記事で、今日のこの会見にですね、赤旗の記者の参加が認められないという事を、原子力委員会の広聴広報課の方からあったということだったんですけれども、その際にフリーランスの人間も含めて、報道内容を精査し、偏った主義主張の報道媒体、あるいは記者には記者会見の参加を認められないというふうに、委員会の方から連絡があったという事を記者から直接聞いたんですけれども、そのことが事実か?っていうことと、「開かれた報道」という事を前提として、この委員会でそういうことは委員長として、見解としてどうなのか?ということと、それから「偏った報道」というのは、たとえば、フリーランスには限らないと思うんですけれども、どこまでのことをいうのか?と。
朝日新聞、読売新聞、産経新聞、毎日新聞等々はですね、「毎日社説で偏った主張をされている」と僕は思っていますけれども、そうしたものは偏っていなくて、他の物は偏っているという基準を教えて下さい。

(中略)
広聴広報課長:
わたくし広聴広報課長でございますので、まず事実関係から説明させていただきますと、フリーランスの方でそういう主義主張を確認するというような事はございません!
わたくしどもが申し上げているのは、先の19日の委員会決定でもございましたけれども、フリーランスの方の実績ですね。これまでの活動実績として、どういう記事が、掲載されてきたのか、それが出来るだけ最近に掲載されているのか。というような事を見させていただくという事はございますけれども、記事の内容を確認するという趣旨ではございません。
フリーランスの方のそうした活動の、顕著な方を優先して対象としたいという思いでございますので、特定の主義・主張で判断するという事ではございません。
というのが事実関係でございます。

フリーランス:赤旗はどうなの?

広聴広報課長:
赤旗さんにつきましては、こちらは政党の機関紙という事でございまして、報道を事業とするという趣旨からいくと、少し違うんではないかという事で、いわゆるフリーランスの方っていうのは報道を事業とされる方かと思います。
そうした方々を優先的に、こうした記者会見の場でお招きして参加いただくということを申し上げたという事でございます。

フリーランス:政党機関紙以外は・・(聞きとれない

広聴広報課長:少し繰り返しになりますけれども、フリーランスの方であればですね、

フリーランス:フリーに限らないで、直接の意味は、政党機関の…(聞き取れない

広聴広報課長:
政党の機関紙というよりは報道を事業としている方という事を、一つの基準として考えさせていただいています。はい。
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2385.html

そして、広聴広報課長は、次のように「記者会見」の資格について述べたのである。

第一回の委員会の資料で、「報道の体制について」という中で、資料の16ページ17ページにありましたけれど、記者会見等に参加を求める報道機関の範囲は次の通りにするとか言って、いわゆる新聞協会、あるいは専門新聞協会、あるいはインターネット報道協会、等々の会員である方。あるいはこうしたものに準ずるような方というようなことで、一つの基準は示させていただいているところでございます。その中に、いわゆるその報道を事業と、最初の趣旨のところでですね、報道事業として行う団体や個人を対象にする。というふうに掲載させていただいています。
という、ことでございます。
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2385.html

いわば、「報道事業者」に記者会見参加者を限定するとしたのである。その上で、政党機関紙である「しんぶん赤旗」は参加資格がないと述べている。ここであげている「報道の体制について」という文書において、いわゆる記者クラブ会員以外の記者会見参加者は「発行する媒体の目的、内容、実績等に照らし、上記いずれかに準ずると認め得る者」「上記メディアが発行する媒体に定期的に記事等を提供する者であって、その実績等を認め得る者」とし、その判定の基準を「発行媒体の目的・内容・実績の報告を求め、これらを証する資料の提出を求めて、準ずるか否かを判定する」などとしている。いわゆる「検閲」というのは、このことをさしていると思われる。なお、広聴広報課長は「内容」はみないとしているが、この文書では「内容」も判定基準としている。ということは、今後、具体的な運用がすすめば、「内容」も判断基準として記者会見参加者の選別が行われるのであろう。結局、原子力規制委員会の初仕事は、記者会見参加者の選別という形で行われる、原子力「言論」規制なのである。

    3、原子力規制委員長田中俊一の本末転倒な「政治的中立」論

フリーランスの記者に続いて、「週刊金曜日」の記者が、「しんぶん赤旗」は報道事業として成立っており、報道事業者に該当するのではないかと質問した。それに対し、田中俊一は、次のように答えた。

これは答えにくいところですけれども、政治からの独立っていうのがこの委員会の非常に大きな、プリビレージ、それがありますので、政党っていうのは政治とダイレクトに政治の力を表に出す一つの手段として使われているのが、政党の機関紙じゃないかと思うんですね。
これは私の考えですけれども。
ですから、そういうところで、そういう方を同じにっていうふうにやってしまうと、政治からの独立っていうことが、少し怪しくなるかなっていう感じはしないことはないですね。
これはみなさんが、是非、皆さんで考えていただいた方がいいと思いますけれども、私はそんなふうに思うところがありますね。
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2385.html

田中俊一が「しんぶん赤旗」を排除する理由は、原子力規制委員会が政治的に中立でなければならないからというのである。彼にとって、政党の機関紙である「しんぶん赤旗」に書かれることは「政治の力を表に出す一つの手段」なのである。

原子力規制委員会が、政治的中立を求められるのは、推進側との一体化をさけるためであった。6月15日の参議院本会議で、原子力規制委員会設置法案の共同提出者の一人である民主党の近藤昭一衆議院議員は、次のように述べている。

衆議院議員(近藤昭一君) 法案提出者の衆議院議員の近藤昭一でございます。
 原子力規制委員会を三条委員会としたその理由について、お答えをさせていただきたいと思います。
 これまでの原子力規制においては、原子力発電の推進を担う経済産業省とその規制を担う原子力安全・保安院とが一体となっていたため、独立した規制上の判断と決定が担保されず、安全規制がゆがめられる事態が生じておりました。
 新たな規制組織をどのようなものとするかについて、政府案は環境省の外局として原子力規制庁を設置するものでありましたが、本法案では原子力規制組織を独立行政委員会、すなわち三条委員会として設置することとし、十分な権限、人事及び予算が担保された上で、原子力事業者のみならず、他の行政機関や政治部門からも独立して職権を行使することが可能な組織となっております。

そして、原子力規制委員長に田中俊一が不適格であるとして世論が反対するのは、彼が日本原子力研究開発機構という、原発の推進側にいた人物であるからということである。原子力規制委員会設置法は第7条の中で、「原子力に係る製錬、加工、貯蔵、再処理若しくは廃棄の事業を行う者、原子炉を設置する者、外国原子力船を本邦の水域に立ち入らせる者若しくは核原料物質若しくは核燃料物質の使用を行う者又はこれらの者が法人であるときはその役員(いかなる名称によるかを問わず、これと同等以上の職権又は支配力を有する者を含む。)若しくはこれらの者の使用人その他の従業者」は原子力規制委員になれないと決めている。つまり、彼自体が委員長の職にいるということ自体が、原子力規制委員会の中立性を侵犯しているのである。つまり、彼が政治的中立を云々する時点で、本末転倒なのである。

その上で、彼は、「しんぶん赤旗」に書かれることを「政治的圧力」として把握している。しかし、「しんぶん赤旗」紙上で指摘されるということは、別に、他の新聞ー例えば朝日でも読売でもいいがーで書かれることと、手段において差はない。それは、政治的な圧力ではなく、公開の場の言論にすぎないのである。田中の発言は、政治的圧力と公開の場の言論による批判を混同したものなのである。確かに、「しんぶん赤旗」記者の質問は批判的なものであろう。しかし、その批判的な質問により、原子力規制委員会の問題点がよりあきらかになる。そして、当たり前のことだが、「しんぶん赤旗」記者の行った質問によってあかされたことは、単に「しんぶん赤旗」の読者だけでなく、他の新聞の読者にも共有される可能性を有する。その意味で、公開の場での言論による批判は、社会の共有財なのであるといえる。

特に、原子力規制委員会設置法では「原子力規制委員会は、国民の知る権利の保障に資するため、その保有する情報の公開を徹底することにより、その運営の透明性を確保しなければならない。」(第25条)と、情報公開を徹底することを規定している。これは、福島第一原発事故で情報が隠蔽されたことの反省に基づいたものである。その意味で、田中らの発言は、そもそも原子力規制委員会設置法にも反するとともに、福島第一原発事故から何も学んでいないことを自ら暴露したものであるといえる。

このブログで、田中俊一の放射線規制に対する考え方は規制委員長として不適格ではないかと指摘したことがある。しかし、そもそも、「政治的中立」という「公人」としての第一原則まで理解できない人物とは思わなかった。しかし、考えてみれば、原子力規制委員会設置法自体が、彼のような存在を原子力規制委員としては不適格としているのであり、そのことに思い当たらないがゆえに、原子力規制委員長の職につくことになったのだろうと思う。つまり、前述したように、政治的中立を侵犯している人物自体が、記者会見参加者の「政治的中立」を云々するという、逆さまなことになっているのである。

このままいれば、より晩節を汚すだけだと思う。国会の同意不同意にかかわらず、本人のためにも一刻も早く辞任すべきであると思う。いずれにせよ、原子力規制委員会は原子力「言論」規制委員会になりはてているのだ。

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さて、尖閣諸島問題について、9月19日、訪中したアメリカのバネッタ国防長官に対し、中国で次期最高指導者と目される習近平国家副主席が尖閣諸島の領有の正当性を次のように語ったと朝日新聞は9月20日に報道した。

習近平氏「尖閣国有化は茶番」 日本政府を批判

 中国の習近平(シーチンピン)・国家副主席は19日、訪中した米国のパネッタ国防長官と会談し、「日本軍国主義は米国を含むアジア太平洋国家に大きな傷を与えた」としたうえで、日本政府の尖閣諸島国有化について「日本の一部政治勢力は(歴史を)反省せず、茶番を演出した」と批判した。次の最高指導者就任が確実視される習氏の尖閣国有化に対する発言が明らかになるのは初めて。新華社通信が伝えた。「米国が言動を慎み、釣魚島を巡る主権争いに介入しないことを望む」と牽制(けんせい)した。(北京)
http://www.asahi.com/international/update/0920/TKY201209190924.html

ここで、朝日新聞は新華社通信を典拠としている。それでは、新華社はどのように伝えているか。新華社通信のネットである新華網日本語版より、当該記事の部分を引用しておこう。

また、習副主席は釣魚島問題における中国の厳正な立場を次のように述べた。日本国内のある政治勢力は、隣国やアジア太平洋諸国に与えた戦争の苦しみを深く反省するどころか、さらに間違いを重ね、『島購入』という茶番劇をして、『カイロ宣言』と『ポツダム宣言』の国際法としての効力を公然と疑問視し、隣国との領土紛争を激化させた。日本は中国の主権と領土保全を損害するすべての言動をやめるべきだ。米国が、地域の平和と安定の大局に着目し、慎重な言動を取ると共に、釣魚島の主権紛争に関わらず、情勢を複雑化させるようないかなることも介入しないよう希望する。
http://jp.xinhuanet.com/2012-09/20/c_131861842.htm

両者を見比べてみよう。もちろん、表現には違いがある。また、朝日新聞が短縮して伝えている部分もある。ただ、大きな違いとしては、新華社報道において習近平が領有の根拠としたカイロ宣言とポツダム宣言に、朝日新聞はふれていないということである。なお、ここでは朝日新聞をあげているが、読売新聞・毎日新聞・産經新聞など、多くの日本の新聞もカイロ宣言とポツダム宣言にはふれていない。

まず、ここで、カイロ宣言について紹介しておこう。1943年11月22日、日本やナチスドイツなどの枢軸諸国に抗していた米英中三国の首脳であるルーズベルト・チャーチル・蒋介石がカイロにて会談し、これら連合国の対日方針などを決めた宣言を発した。それがカイロ宣言である。公文書は残されていないが、新聞発表などでは、次のようなものであった。

「ローズヴェルト」大統領、蒋介石大元帥及「チャーチル」総理大臣ハ、各自ノ軍事及外交顧問ト共ニ北「アフリカ」ニ於テ会議ヲ終了シ左ノ一般的声明ヲ発セラレタリ

各軍事使節ハ日本国ニ対スル将来ノ軍事行動ヲ協定セリ
三大同盟国ハ海路陸路及空路ニ依リ其ノ野蛮ナル敵国ニ対シ仮借ナキ弾圧ヲ加フルノ決意ヲ表明セリ右弾圧ハ既ニ増大シツツアリ
三大同盟国ハ日本国ノ侵略ヲ制止シ且之ヲ罰スル為今次ノ戦争ヲ為シツツアルモノナリ右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ス又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ス
右同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於テ日本国カ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト並ニ満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ
日本国ハ又暴力及貧慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ

前記三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス
右ノ目的ヲ以テ右三同盟国ハ同盟諸国中日本国ト交戦中ナル諸国ト協調シ日本国ノ無条件降伏ヲ齎スニ必要ナル重大且長期ノ行動ヲ続行スヘシ
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/002_46/002_46tx.html

これは、米英中三国が日本の無条件降伏を対日方針として決めたもので、この方針は、1945年のポツダム宣言に継承される。このカイロ宣言において、日本が旧ドイツ領で第一次世界大戦以後統治していた太平洋諸島を放棄させ、日本の植民地であった朝鮮を独立させることとならんで、「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域」を中国に返還させることを定められた。ここで「満州、台湾及澎湖島の如き」といっていることに注目していきたい。以前、本ブログで、下関講和条約で明示的に割譲させられた台湾・澎湖諸島だけでなく、尖閣諸島も日清戦争で日本が獲得した領土として中国がみているということを指摘した。中国としては、このカイロ宣言の規定を、広い意味で日本に割譲させられた領土として位置づけているのだと思われる。

このカイロ宣言は、そもそも合意された文書自体が存在せず、署名もないので、公文書としての効力を疑う意見もある。ただ、前述したように、日本の無条件降伏を定めたポツダム宣言(1945年7月26日)にこの方針は継承された。ポツダム宣言には次の条項がある。

八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html

いうなれば、ポツダム宣言はカイロ宣言を追認したものとみることができる。ここで、習近平が、アメリカのバネッタ国防長官にカイロ宣言・ポツダム宣言を典拠にして尖閣諸島の領有の根拠としているのは、第二次世界大戦における対ファシズム戦線としての連合国の一員としての記憶を呼び起こさせようとしているのだといえる。

ただ、結果的にいえば、1951年のサンフランシスコ講和条約では、次のように決まった。

第二条

 (a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 (d) 日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。

 (e) 日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。

 (f) 日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

   第三条

 日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html

基本的には、カイロ宣言にそった形で国境線が定められたといえる。ただ、この講和条約において、「台湾及び澎湖諸島」という限定された形で国境線がひかれ、沖縄については、小笠原諸島とともに、アメリカの信託統治のもとにおかれることになったことに注目しておきたい。沖縄には尖閣諸島も含められるとされ、1972年の沖縄復帰とともに日本政府が実効支配するもととなった。

この講和条約を交渉した講和会議には、当時の中華人民共和国も参加していない。また、台湾の中華民国も参加していない。講和条約について、日本国内では、米英などの資本主義諸国中心に講和条約を結ぶという単独講和論と、ソ連や中華人民共和国とも結ぶべきである全面講和論が対立していた。いわば、その当時の単独講和論の問題点が現在に引き継がれたかっこうになっている。当時、中華人民共和国も中華民国もどのような見解をもっていたかということを表明される機会もなく、いわば中国の合意ぬきで講和条約は結ばれ、国境線が確定されていったのである。そして、中華人民共和国によれば、沖縄の日本復帰が日米で合意された1971年に日本に対して尖閣諸島の帰属について異議申し立てをしたということになるといえる。そして、これは、アメリカ中心で再編成された東アジアの政治秩序への異議申し立てにもなっているといえる。

このように、習近平がバネッタ国防長官に「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」を出して尖閣諸島の問題を語っていることを説明することができる。ここで表明されていることは、単に尖閣諸島の帰属の問題というだけでなく、日清戦争、アジア侵略、ファシズム陣営への参加、第二次世界大戦、無条件降伏、サンフランシスコ講和条約、沖縄復帰という、日本の近現代史総体を含めた「歴史問題」が、ここで問われているということなのである。

帰属の根拠については、私自身としては中心的に問題にはしないつもりである。中国はさまざまな国境紛争をかかえていることは事実である。日本もまた、竹島/独島や北方領土などの国境紛争を有している。そこには、さまざまな根拠がある。ただ、概していえば、前近代国家の領域概念と近代の国民国家の領域概念の違いがそれらの背景にあるといえる。そして、それらを解決するのはよくも悪くも「政治」ということになるだろう。

ただ、尖閣諸島ー竹島/独島にも共通していえるのだがー問題の背後にある「歴史問題」の深みということを理解しなければならないということである。その意味で、朝日新聞その他の日本の新聞が、習近平が「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」を根拠にしていること自体を報道しなかったことは、問題性を少なからずはらんでいると思う。彼らからすれば、「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」は、歴史の遠い物語かもしれない。しかし、現在の戦後世界は、多かれ少なかれ、「カイロ宣言」「ポツダム宣言」の枠組みで動いている。最早、そのことへの想像力が働かせることができず、現状の尖閣諸島が日本に領有するという「国益」にそぐわないと判断して報道をさけているといえる。

そのことがどのような結果をもたらすのか。例えば、韓国の朝鮮日報は、9月20日にこのように報道している。ほとんど、新華社通信のままだといえるだろう。

習副主席は「日本のこうした行動は、カイロ宣言やポツダム宣言の国際法的効力に公然と疑問を投げ掛けるもので、第2次世界大戦以降に樹立された戦後秩序に対する挑戦。国際社会は、反ファシズム戦争勝利の成果を否定しようとするこうした日本の企てを決して容認しないだろう」とし、さらに「日本は中国の領土主権を害する時代錯誤的言動を直ちに中断しなければならない」と強調した。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/09/20/2012092000611.html

そして、韓国は「歴史問題」での中国に接近ということになった。このことを産經新聞が9月25日に報道している。

中韓が対日圧力でタッグ 領土に歴史問題絡め協調 外相会談
2012.9.25 11:39 (1/2ページ)[韓国]
 【ニューヨーク=黒沢潤】国連総会に出席するため訪米中の中国の楊潔●(=簾の广を厂に、兼を虎に)外相と、韓国の金星煥外交通商相は24日、ニューヨークで会談した。韓国の聯合ニュースなどによると、金外交通商相は会談後、「国連の場で正しい歴史を広めていく必要性で一致した」と語り、歴史問題とからめて領土問題で日本に共同で圧力をかける意向を示した。

 中国はこれまで、沖縄県・尖閣諸島の領有権について、歴史的な正当性を国際社会に訴えていく姿勢を示していた。楊外相は同日の会談で、「関係国が正しい歴史認識を持っていなければ、北東アジアの秩序は挑戦を受ける」と述べるなど、名指しこそ避けながらも日本を批判したという。

 韓国も、日本と竹島の領有権、慰安婦問題をめぐって対立しており、国連の場で共闘することで、双方の立場を強固にしようという狙いがあるとみられる。

 野田佳彦首相が26日、国連総会の一般討論演説で領土問題に言及するのに続き、楊外相は27日に尖閣諸島問題、金外交通商相も28日に竹島、慰安婦問題に言及する見通しだ。中韓両国とも野田首相の演説次第では強硬な姿勢を打ち出し、日本との対立が一段と悪化する恐れもある。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120925/chn12092511390008-n1.htm

ある意味で、過度に歴史問題を意識しないということも必要ではある。しかし、現在の朝日新聞などの論調は、いわば「歴史問題」を欠落させた報道を行い、それを強く意識している人びとがアジアにはいるということを報じない。そのことは、日本の官民の対応を、よりアジアの人びとの神経を配慮しないものにおいやっているといえるのだと思う。それは、より事態を悪化させていくことになっていくのである。その意味で、今回の朝日新聞などの責任は大きいのである。

ただ、このような、アジア侵略などについての「歴史問題」の欠落は、朝日新聞などのマスコミだけには限られないことも忘れてはならない。

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さて、本日9月21日は、民主党の代表選が投開票される日である。報道によれば、現職の野田首相の再選が確実と聞く。

同時並行的に行われている自民党総裁選は、テレビなどの露出も多く、街頭演説なども多いらしい。しかし、民主党の代表選は、テレビへの露出も少なく、街頭演説もほとんどない。

しかし、一度は行わなくてならないと考えたらしく、9月19日午後4時半より、野田佳彦、鹿野道彦、赤松広隆の三候補は、新宿駅西口にて街頭演説会を実施した。なお、原口一博は、沖縄にいっており、この演説会には出ていない。

野田首相の演説分をとった映像が youtubeに投稿されている。ここで紹介したい。

10分はある映像だが、最初のところだけみれば、大体理解できる。野田は、群衆に「帰れ」「帰れ」や「人殺し」などと野次られながら、演説を行っていたのである。

この状況をもっともよく伝えているのが、日刊ゲンダイの次のネット記事である。

野田首相初の街頭演説「人殺し」「辞めろ」コールに思わず涙目
【政治・経済】

2012年9月20日 掲載

 野田首相は、自分がどれだけ国民から嫌われているか、身に染みて分かったのではないか。
 19日、民主党代表選の街頭演説が東京・新宿で行われた。詰めかけた聴衆の手には「辞めろ」「ウソつき」などと書かれたプラカード。野田が登場すると、「帰れ!」「人殺し!」とヤジや罵声が飛び、最後は「辞めろ」コールの大合唱で演説がまったく聞こえないほどだった。
「反原発の官邸デモの件もあって、総理は街頭演説を嫌がっていた。今回は反原発の左翼だけじゃなく、尖閣問題で右翼も警戒しなければならない。それで、大阪と福岡で行われた演説会も屋内開催になったのです。しかし、自民党総裁選が各地で街頭をやっているのに、民主党が1回もやらないのでは批判されると中央選管から泣きつかれ、急きょ投票2日前の街頭演説会となった。新宿駅は聴衆と選挙カーの間に大きな道があって安全ということで、総理も納得してくれました。警視庁とも相談し、警備しやすい安全な場所を選んだのですが……」(官邸関係者)
“演説力”が自慢の野田にしては意外な気もするが、街頭演説は首相就任後これが初めて。昨年12月に新橋駅前で予定されていた街頭は、直前に北朝鮮の金正日総書記死去の一報が入って取りやめになった。
 今回は万全の警備態勢を取り、民主党関係者も動員したのだが、野田が演説を終えても拍手は皆無。怒号とヤジがやむことはなく、さすがに野田も涙目になっていた。これがトラウマになり、二度と人前に出てこられないんじゃないか。最初で最後の街頭演説かもしれない。
「右からも左からも、これだけ攻撃される首相は珍しい。最近は、千葉県の野田首相の事務所や自宅でも『落選デモ』が数回にわたって繰り広げられています。首相の自宅前をデモ隊が通るなんて、自民党政権では考えられなかったこと。かつて渋谷区松濤にそびえる麻生元首相の豪邸を見にいこうとした市民団体は、渋谷駅前のハチ公広場からスクランブル交差点を渡ったところで止められ、3人が逮捕された。警察も、野田政権は長く続かないと考えているのでしょうか。もはや政権の体をなしていません」(ジャーナリストの田中龍作氏)
 こんなに嫌われている男が再選確実なんて、悪い冗談としか思えない。民主党が国民から見放されるのも当然だ。
http://gendai.net/articles/view/syakai/138764

つまり、右からも左からも攻撃されているのが、現在の野田首相なのである。そのことは、野田自身も予期していたと思われる。本来、代表選であっても、ライバル自民党との対抗のため、街頭演説をなるべく実施しようとするのが当然のことであろう。しかし、こうなることを予期して、街頭演説を最小限にとどめたと考えられる。それであっても、このような状態なのだ。

野田の演説をところどころ聞くと、自民党の批判を中心にしているように思われる。朝日新聞は、次の記事を9月20日ネット配信している。

ヤジで声がかき消されそうになる中、首相の語り口も次第にヒートアップ。「財政がひどい状態になったのは誰の政権下だったでしょうか」「原子力行政を推進した政権は誰だったんですか」「領土、領海をいい加減にしてきた政権は一体誰だったんですか」

 消費増税をめぐって自民党との合意を優先してきた首相とは思えないほど、自民党を厳しく批判。聴衆に笑顔を振りまくこともなく会場を後にした。
http://www.asahi.com/special/minshu/TKY201209190746.html?ref=chiezou

しかし、野田を野次っている人びとは、彼の自民党批判を聞きにきたわけではない。野田政権が進めている原子力政策や尖閣諸島国有化による日中摩擦を批判しているのだ。そして、可能ならば、それに対する野田の弁明を聞いてみたいのだ。だが、野田は、群衆が批判する声にこたえようとせず自民党批判を続けている。野田だって人間なので、まったく感じないわけではないようで、「涙目」「ヒートアップ」になったといわれている。しかし、その演説内容は、少なくとも、その批判に答えようとしたものではない。いわゆる抽象的な「有権者」しか眼中にないのだ。野田にとって、いちおう野次と怒号は肉体的に反応を余儀なくされた「大きな音」ではあったが、理性的に対応する必要がある「大きな声」ではなかったのだ。

昔、ソ連解体過程で、リトアニアの独立派のデモの前で、ゴルバチョフがその説得を試みようとしたことがある。そういった意志は全くない。批判している人びとを説得するのではなく、それを無視して、自説を続けるということーこれが、民主党政権のあり方を象徴的に示しているといってよいだろう。

この街頭演説について、多くのマスコミはあまり伝えようとはしていなかった。今挙げたもの以外では、TBSがニュース23の中で、群衆の野次・怒号と各候補の演説内容を要領よくまとめているくらいである。

その中で、特筆すべきは、フジテレビである。9月19日に、このように報道した。

この映像では、全く、野田首相を野次っている群衆の姿は写っていない。そればかりか、野田首相を野次る群衆の声すら聞こえない。野田首相が自民党批判している声が非常にクリーンに聞こえてくる。まるで、批判する群衆などは不在の映像なのだ。

知人によると「ライン録り」ーアンプから直接録音機材に連結するーでとっているのではないかと話していた。いずれにせよ、これは、まさに、野田を批判する群衆などはいないがごとき映像なのである。たぶんに、フジテレビは、マスコミとしての特権から、ライン録りを許可されたのだと思う。それがゆえの映像なのだ。確かに、野田らの演説は、よく聞こえる。そして、このような映像がマスコミを通じて配信されることを、民主党側は期待していたといえるのだ。群衆を無視した野田は、テレビを通じて抽象的な「有権者」に自民党批判を語りかけたかったのであろう。

しかし、逆にいえば、フジテレビは、全くあの街頭演説会の状況を伝えなかったともいえるのだ。そして、それは、この街頭演説会自体を報道しなかった他の各メディアもいえることである。その意味で、マスコミ報道自体のあり方も問われるべきことであるといえる。

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大飯原発再稼働の一つの理由が「夏場の電力不足」とされていたことー今や、それも根拠薄弱なのだがーは、周知のことといえる。

しかし、原子力利用が開始された草創期である1956年にも、電力会社の連合体である電気事業連合会は、将来の電力不足を名目とした原発建設を、原子力委員会に陳情した。『科学朝日』1956年7月号には次のような記事が掲載されている。

   

電気事業連合会のお願い
 4月12日電気事業連合会の松根理事と関西電力の一本松常務とは原子力委員会を訪れて、正力、石川、藤岡の3委員に「原子力発電計画に関するお願い」をした。
 それにはまず昭和40年度に数十万kw(後に再び資料が出されて45万kwと発表された)の原子力発電を必要と予想されることをのべ、「われわれは以上を考慮して、これに対処すべき万全の態勢をととのえ、営業用原子力発電の開発と運営に当る所存でありますが、貴委員会において原子力開発利用基本計画の策定ならびにその実施計画の策定に当っては左記の事項を考慮されることを切望致します」として、次のような要望事項をあげている。
A 原子力発電の年次計画として、昭和32年10月までに動力用試験炉を発注。昭和35年10月までに動力用試験炉を完成。昭和36年までに営業用動力炉を発注。昭和38年から40年末までに順次営業用動力炉を完成するものとし、この仕事は電気事業者が行う。
B 動力用試験炉は2台以上。炉の型は適当な型を2種以上、場所は東京、大阪など。容量は電力10000kw以上とする。これらの原子炉は「早期実現のため」輸入すべきである。
C 営業用動力炉は電力10万kw級とし、これは電気事業者が直接やる。初期は輸入する。国産化は原子力委員会で考える。
D 以上の対策の確立を助けるため先進国から適当な技術顧問団を招いてもらいたい。

1965年(昭和40)には電力が不足するので、原発建設を急いでほしいということなのである。

このことをテーマとして推進派の物理学者である伏見康治らによって「座談会 日本の原子力コース」が行われ、その記事が『科学朝日』に掲載されている。伏見は「お伺いしたいのは足りなくなるという推定が妥当なものか相当狂う可能性のあるものなのか…。」と問いかけた。この問いに答えたのが、科学技術庁科学審議官・東京大学教授であり、河川学・土木学を専攻していた安芸皎一である。安芸は、電気需要が年に7〜4%づつ伸びるなどと述べながらも「実をいうとわからない」とした。安芸は「いままではいかにたくさんのエネルギーを早く供給しうるかだったが、いまは安いエネルギーがほしいということなんです」と主張している。具体的には、当時の電力の源の一つであった石炭火力発電所において、今後石炭価格の高騰が見込まれるということが指摘されている。結局は、安価な電力を得たいということだったのである。

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

後に、中島篤之助と服部学が「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅱ」(『科学』44巻7号、1974年)で上記のように実績と比較している。1965年の電力は、電事連の予測では水力1435万kw、火力776万8千kw、原子力45万4千kw、総計で2257万2千kwであったが、実績は水力1527万kw、火力2116万2千kw、原子力0kw、総計で3643万2千kwであった。結局、火力発電が予想以上に伸び、原子力発電に依存する必要は、まだなかったのである。

この座談会に出席していた科学者たちは、早期の原発建設には否定的であった。北大教授で物理学者の宮原将平が「俗論」といい、東大教授で化学者であった矢木栄は「原子力がなかったらどうするつもりか」とこの座談会で述べている。伏見は「研究者を無視した恐ろしい高い目標がかかげられて、正直な研究者がその階段を上ろうとして落っこちてしまうという結果になるんです」と懸念していているのである。この座談会に出席していないが、原子力委員であった湯川秀樹も早期の原発建設には否定的であった。この時期は、世界でもソ連のオブニンスク発電所(1954年)くらいしか原子力発電所はなかった(なお、1954年よりアメリカは原子炉を電源とした原子力潜水艦を使用していた)。また、ようやく原子力委員会や日本原子力研究所が創設されたが、まだ、ようやく日本原子力研究所の敷地が決まったばかりで、日本では全く原子炉などはなかったのである。

しかし、原子力委員長であった正力松太郎は、早期の原発建設に積極的であった。そして、コールダーホール型原発を開発していたイギリス側の売り込みを受けた。結局、1965年までに原発を建設することを1956年12月に原子力委員会は決定してしまう。1957年には湯川秀樹が原子力委員を辞任し、1958年にはコールダーホール型原発の導入が決定されたのである。このように、科学者たちの懸念をよそに、電事連の「電力不足」を理由とした原発建設が結果的に実現していくのであった。これが、日本で初めての原発である、東海発電所になっていくのである。

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本日9月18日は、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の記念日である。まるで、この日にあわせたかのように、尖閣諸島の帰属をめぐって、日中両国が対抗しあっているとする報道がなされている。

ここでは、現状ではなく、その前提となる尖閣諸島帰属の経緯を整理して検討しておこう。

その際、「尖閣諸島の領有をめぐる論点ー日中両国の見解を中心に」(国立国会図書館『調査と情報』565号、2007年)を中心にみていくことしたい。なお、本論は、立場上、日本政府側からみたまとめであるといえる。ここでは、まとめとして利便なものであるので活用したが、本論と私の見解は一致するものではない。(http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0565.pdf参照)

まず、「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、「1968(昭和43)年の、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)による学術調査の結果、東シナ海の大陸棚に豊富な石油資源が埋蔵されている可能性が指摘され、にわかに注目を集めるようになった。1970 年代に入ると、中国は同諸島に対する領有権を主張し始めた」としている。ただ、いつから中国が領有権を主張したのかといえば、「中華人民共和国政府外交部声明(1971年12月30日)」からとしている。実は、沖縄返還協定が1971年6月17日に調印され、翌年5月15日に発効した。背景には埋蔵資源問題があるかもしれないが、沖縄返還協定によって沖縄の復帰が確定的になったタイミングで尖閣諸島問題が主張されたともみることができる。

さて、その上で、「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、「日本政府が尖閣諸島に対する領有権の根拠としているのは、先占である。」として、「先占とは、国家が、無主地、すなわちいずれの国家領域にも属していない地域を、領有意思をもって実効的に占有することをいう。」と述べている。尖閣諸島は「無主地」であったという主張なのである。

 そして、中国側が尖閣諸島が明清期から自国に帰属する典拠としてあげている文献については、島名などをあげているだけのものであるとする。なお、興味深いことは、地理的に近接している琉球王国に帰属するものとすらみていないのである。本書は、このようにいっている。

中国は、1879 年の琉球の帰属に関する日清交渉において、琉球国の版図、いわゆる琉球36 島に尖閣諸島が含まれていないことを、日清双方が認めているという。
琉球 36 島は、人居の地であることと、首里王庁への貢納義務を負っていることが条件であり、これらの条件を満たした島嶼のみが王府領と明記された28。確かに、このような条件を満たしていない尖閣諸島は、琉球 36 島に含まれていなかった。しかし、同諸島が、明・清代の福建省、あるいは台湾省の行政範囲にも含まれていなかったのは、先述の通りであって、琉球 36 島に含まれていないことが、直ちに尖閣諸島の中国への帰属を意味するものではない。

考えてみれば、前近代において、「国境線」は存在せず、人々が居住したり利用したりする場所のみが「領有」できたといえるのである。その意味で、これは当たり前のことではある。ただ、一つ考えなければならないのは、それでも、琉球ー沖縄が日本に帰属しなければ、尖閣諸島の領有もなかったとはいえるだろう。そして、この指摘は、ある意味で、前近代の琉球王国の主体性を、明・清とともに否定していると解することができる。

さて、近代に入っての尖閣諸島の帰属問題をみていこう。これは、日本近代史では周知のことであるが、琉球王国は「両属の国」といわれ、明・清の朝貢国として、広い意味で中国帝国に帰属していたが、1609年に薩摩藩により征服され、それ以来、日本の幕藩制秩序にとりこまれた存在であった。しかし、1879年、日本政府は、強制的に琉球王国を廃止して沖縄県を置くという琉球処分を実施し、琉球ー沖縄を日本に編入したのである。

「尖閣諸島をめぐる論点」では、琉球処分後、日本政府公認の地図に琉球諸島に含めた形で尖閣諸島が描かれていることをさして、「領有意思」を持ち始めたとしている。

日本が尖閣諸島に対して領有の意思を持ち始めたのは、1879(明治 12)年の琉球処分の頃と思われる。この年に発行された『大日本全図』、及び同年発行の英文の『大日本全図』で、尖閣諸島は琉球諸島に含められている。これら 2 つの地図は、いずれも私人が作成し、内務省の版権免許を得て刊行された。
内務省地理局によって刊行されたものでは、1879(明治 12)年の『大日本府県管轄図』が、尖閣諸島を琉球諸島の中に含め、1881(明治 14)年の『大日本府県分割図』が、「沖縄県図」の中に、島の名は記さず、その形だけで、尖閣諸島を示している。内務省作成の地図において、尖閣諸島が日本の版図に含まれていることは、同諸島に対する日本の領有意思を示すものと言えよう。

 ただ、この見解は、非常に大きな問題を欠落させている。1879年の琉球処分後、旧琉球士族たちは強制的な日本への編入に反対し、清国も琉球ー沖縄を日本に編入したことに抗議し、その帰属をめぐって外交交渉を開始したのである。具体的な経緯は省略するが、翌1880年、日本は、通商条約である日清修好条規に「最恵国待遇」条項を追加させることとひきかえに、先島(宮古・八重山諸島)を清国に割譲することとした。清国側も一時合意したが、当時の有力者李鴻章の反対で、合意には至らなかったという。合意しなかったということは、琉球ー沖縄全体を帰属させることを清国はあきらめていなかったということになる。そして、その後も旧琉球士族たちの多くは清国帰属を希望していたといわれている。つまり、この段階では、尖閣諸島はおろか、琉球ー沖縄全体の帰属が、日清間の問題であったといえるのである。

そして、「尖閣諸島をめぐる論点」では、先島割譲案にはふれることのないまま、次のように論じている。

1885(明治 18)年、沖縄県令は、尖閣諸島の実地調査にあたり、国標建立について指揮を仰ぎたいとの上申書を山県有朋内務卿に提出した。内務卿は、これらの諸島が清国に属している証拠が見当たらず、沖縄県が所轄する宮古島や八重山島に接近した無人島嶼であるので、国標の建立は差し支えないとして、「無人島久米赤島他外二島ニ国標建立ノ件」を太政官会議に提出するための上申案をまとめた。続いて同年 10 月 9 日には、井上馨外務卿と協議し、その意見を求めた。10 月 21 日の外務卿の回答は次のような内容である。これらの島嶼は、清国国境にも近い小島嶼である。また、清国はその島名もつけていて、清国の新聞に、我が政府が台湾付近の清国領の島嶼を占拠したなどの風説を掲載して、我が政府に猜疑を抱き、しきりに清国政府の注意を促す者もいる。ついては、「公然国標ヲ建設スル等ノ処置有之候テハ、清国ノ疑惑ヲ招キ候間、…(中略)…国標ヲ建テ開拓ニ着手スルハ、他日ノ機会ニ譲リ候方可然存候。」この回答を受けた内務卿は、国標建設の件を太政官会議に上申するのを見送った。上記の井上外務卿の見解は、尖閣諸島が清国に属することを認める趣旨であろうか。これについては、当時小国であった日本の、大国清に対する外交上の配慮であり、朝鮮問題及び琉球処分という重大問題が介在する中、このような小さな問題で、今清国と事を構えるのは得策ではないという、外務省としては当然の発想であると指摘されている。

つまり、沖縄県令と山県有朋内務卿は、尖閣諸島を調査するにあたり、日本帰属を示す「国標」を立てることを望んだが、井上馨外務卿は、清国側は尖閣諸島には島名もつけていて、清国側の疑惑をまねきかねないから、国標を立てて本格的に開拓するのは控えるべきであるとしたのである。すでに述べたように、1879年の琉球処分以来、琉球ー沖縄全体の帰属問題が日清間の懸案事項であった。とりあえず、日本側が実効支配しているといえるのだが、それは、清国側の意向次第であったといえる。「尖閣諸島の領有をめぐる論点」でも、「なお、継続的な「現実の支配」に対する、他国、特に他方の係争国が与える承認や黙認は、その平穏性を示すことから、極めて重要なものと評価される」としている。

その後、尖閣諸島を本格的に開拓したいという希望者が出たが、許されなかったのである。

この状況を打破したのが、1894〜1895年の日清戦争であった。日清戦争の主要目的は、朝鮮に対する支配権を日清のどちらがもつかということであり、主要な戦場は朝鮮から中国北部であった。しかし、副次的には、台湾などの中国南部への進出もはかられ、日本は台湾に属する澎湖諸島を攻撃するとともに、1895年の下関講和条約では、遼東半島とともに台湾を清国から割譲させた。同年の三国干渉によって、遼東半島は返還せざるをえなかったが、台湾は日本の植民地として確定することになった。

そのさなか、尖閣諸島に標杭が立つことになった。「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、次のように述べている。

1894(明治 27)年 8 月 1 日、日清戦争が開戦し、その年末には勝敗がほぼ決定していた。そのような情勢下にあった 12 月 27 日、野村靖内務大臣は、1885(明治 18)年当時とは事情が異なるとして、「久場島及び魚釣島へ所轄標杭建設の件」の閣議提出について、陸奥宗光外務大臣の意見を求めた。翌 1895(明治 28)年 1 月 11 日、外務大臣は、外務省としては別段異議がない旨回答した。かくして本件は、1895(明治 28)年 1 月 14 日の閣議に提出され、沖縄県知事の上申通り、「久場島及び魚釣島」を同県所轄とし、標杭建設を許可する閣議決定がなされた。1 月 21 日には、内務、外務両大臣連名で、沖縄県知事に上申中の標杭建設を聞き届けるとの指令を出した。

これが、尖閣諸島が日本に帰属した経緯である。日清戦争まで、日本は清国との間で、琉球ー沖縄の帰属問題をかかえていた。日清戦争の結果、ある意味では、戦争の脅威によって、清国との合意なしに、琉球ー沖縄の帰属問題は決着した。その後は、台湾の帰属が問題になっていく。尖閣諸島の日本帰属は、その一連の問題として考えなくてはならない。日清戦争以前は、清国の意向により「国標」を立てるという領有意思のあからさまな宣言は差し控えられた。日清戦争によって、尖閣諸島のあからさまな領有宣言は可能となったのである。

しかし、「尖閣諸島の領有をめぐる論点」は、この日清戦争における下関講和条約やその経過で尖閣諸島のことは取り上げられた形跡がないといっている。まず、中国側の主張を「中国は、中日甲午戦争(日清戦争)を通じて、日本が尖閣諸島をかすめとり、さらに清朝政府に圧力をかけて、1895 年 4 月に馬関条約(下関条約)に調印させ、台湾とそのすべての付属島嶼及び澎湖列島を割譲させたと主張している」としている。その上で、

講和条約締結に向けた談判中、清国は、日本からの台湾、澎湖諸島の割譲要求に対しては、強く反対の立場を主張していたが、尖閣諸島の地位については何ら問題にしなかった。
もし、清国が尖閣諸島を自国領と認識していたならば、台湾や澎湖諸島と同様、尖閣諸島の割譲についても異を唱えていたのではないだろうか。この点、中国側の主張を支持する立場には、敗戦国である清国に、けし粒のような小島の領有権を、いちいち日本と交渉して確定するゆとりはなかったのであろう、との見解もある。しかし、これに対しては、国際法的な抗議は、戦争の勝敗とは無関係であり、戦争中でも、日清講和条約の交渉過程においても、また、その後でも、中国が同諸島を自国領土として認識していたならば、当然に抗議その他何らかの措置をとるべきであった、と反論される。(中略)以上のことから、尖閣諸島は、下関条約第 2 条に基づき接受された「台湾及其ノ附属諸島嶼」には、含まれていなかったと考えられる。

このことがなぜ重要になるかといえば、1951年のサンフランシスコ講和条約では、台湾および澎湖諸島を日本は放棄することになっていたからである。確かに、下関講和条約では尖閣諸島について議論されていないとする「尖閣諸島の領有をめぐる論点」の主張は、文面上ではある種の正当性をもつともいえる。しかし、尖閣諸島もふくめた琉球ー沖縄全体の帰属問題自体が日清間の懸案事項であったのであり、それは日清戦争の中で暴力的に解決させられたといえる。その意味で、尖閣諸島は、中国人からみるならば、日清戦争で日本が獲得した領土として意識されることになると思われる。

このように、尖閣諸島の問題は複雑である。たぶんに日本政府側の観点からまとめたものと思われる「尖閣諸島の領有をめぐる論点」を読んでも、さまざま矛盾した論点が見出しうるのである。今言えることは、この問題は、日清戦争を契機とした日本のアジア侵略をどうとらえるかということを背景にしているということである。さらに、ある意味で主体性を否定されてきた、近隣の先島住民や、場合によっては台湾住民の意思はどういうものであるかということも問われなくてはならないと思うのである。

*なお「尖閣諸島の領有をめぐる論点」では、日清戦争後の尖閣諸島の開拓やアメリカ統治下の状況についても簡便にまとめているということをここで付記しておく。

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さて、前回は1975年に原子力情報資料室が創設されたことを述べた。創設時の原子力情報資料室は、「専門家各人が資料をもちより、共通に閲覧し、必要に応じて意見交換する、一種のサロン的場」(高木『市民科学者として生きる』、岩波新書、1999年)をめざすものであったと高木は回想している。

しかし、創設まもない頃、高木は、代表であった武谷三男らと、原子力情報資料室の運営方針をめぐって論争した。やや長文になるが、ここでその経緯を紹介したい。

 

ところが、それに(原子力情報資料室…引用者注)自分の一生を賭けるつもりでいた私は、明らかに「サロン」には不満で、「全国の住民は日々にさまざまな情報を求めているのであり、また政府・電力会社の計画や原発の安全性を独立の立場から日々解析・批判していくことが社会的に求められているのではないか。これに対応するには、きちんとした専従スタッフの体制を敷くと共に、われわれ研究者自身がいわば自分たちの運動として資料室にかかわるべきではないか」と主張した。
 これに対して武谷先生は、次のように言われた。
 「科学者には科学者の役割があり、(住民)運動には運動の果すべき役割がある。君、時計をかな鎚代りにしたら壊れるだけで、時計にもかな鎚にもなりはしないよ」
 もちろん、ここでは、科学者・専門家が精密機械としての時計に、大衆的な行動の力である住民運動がかな鎚にたとえられていた。かなり強い調子で言われたので一瞬皆が固唾を呑んだ。私も少したじろいだが、恐いもの知らずの”遅れて来た人間”だった私は、
 「資料室はともかく、私個人はそういう役割人間であることを拒否したいと思います。少なくともかな鎚の心をも併せもった時計を目指したいのです。時計は駄目でもせめて、釘の役割でもよいです」。
 正確にこの通りではないが、そんな風に言った。なんとも生意気な発言だった。その場はまわりの人がとりなして終ったが、後から水戸巌さんに、「武谷先生に対しては、誰もあんな風には反論しないものだよ。ま、君は古いことを知らないから、はっきりものを言って、それはそれでよかったと思うけど」と言われた。水戸さんは武谷先生の一番若い弟子とも言える立場で、その世代以前の人にとっては、学問的にも思想的にも輝かしい業績があり指導的な地位にあった武谷先生は、深い尊敬の対象であり、軽々に反論などできない存在だった。
 武谷先生の名誉のためにも、誤解を招かないためにも付け加えて置きたいのだが、先生が私に言ったことの中には、「運動をやっているという自己満足で、専門性を鈍らせたり精進を怠ったりするなよ」という、貴重な忠言が含まれていた。その時の私にはそのように受けとめるだけのゆとりがなく、世代間の思想的違いとのみとらえて、がんばったのである。
 しかし、その後、私は常にこの時のことを頭に入れ、大見得を切った手前、ぜったいに「壊れた時計」にはなるまいと、常に心に誓って来た。その意味で、武谷先生の言葉は現実によい忠言になったと思う。
 なお、武谷先生はこのやりとりからしばらくあって後、資料室の代表を辞任したが、私との間に対立関係が生じたわけではなかった。先生は、現在に至る私の活動を評価してくれ、頻繁な行き来はないが、よい関係が続いていると私は思っている。(同書p164〜166)

武谷三男と高木仁三郎では、知識人・専門家のあり方について、大きく見解が異なっていたといえる。武谷は、自身も高木も「専門家集団」であり、彼らは直接に運動を行う存在ではなく、運動側を知識によってサポートしていくという形で意識していた。その意味で、専門家が情報を提供し、利用し、意見交換するためのものとして原子力情報資料室を武谷はとらえていた。武谷にとっては、専門家・知識人と、運動は、別々の役割を担うべきものであった。このような考えは、戦前来の知識人の自己認識といえよう。武谷の発言は、それを体現したものであった。

他方で、高木は、運動側に資料を提供することにとどめるのではなく、専門家もまた自身ものとして運動を担っていくべきであるというように考えていた。高木にとって、知識人・専門家と運動は別々の存在であってはならなかったのである。これは、まさしく、1970年代以降に生まれた、知識人のあり方についての新しい考え方であった。高木仁三郎は、単に、今日の脱原発・反原発運動の源流というだけでなく、知識人のあり方ーひいては科学・学術のあり方について、新しい考え方を提示した先覚者としても評価しなくてはならない。ここまで、高木について、延々述べてきたのは、このことを言いたいがためである。

しかし、このことは、簡単にできることではない。先ほど引用したところで高木が武谷の言葉について反省して述べているように、運動にたずさわることと、研究を深めていくということを両立することは、並大抵なことではないのだ。高木は、結局、専門家と市民という「二足のワラジ」の両立に悩んでいたことを本書で書き留めている。さまざまな活動を通じて「反原発のリーダー」として目されていく反面、身体的にも精神的にも高木は疲弊していった。一時期はうつ病になったこともあると、高木は告白している。そして、そのことを、高木は次のように述べている。

 

精神医学的なことは私には分からないが、個人的に考えると、私が鬱になった原因は、先述の「二足のワラジ」の両側に私が引き裂かれてしまって、時計としてもかな鎚としても自分が機能していないことに、ほとんど絶望的に悩まされたことにあった。そのうえに、私のこの問題意識は、まわりの誰にもうまく共有してもらえなかった。
 むしろ、原子力資料情報室の運営委員会内にも、資料室が運動側に傾斜しすぎていることに関係して、私への至極当然の批判も生まれ、それに端を発して、スタッフの役割、専門家の位置づけなど、蓄積していた意見の相違なども顕在化し、議論が錯綜した。私はついに行き詰まり、医師の助言もあって、三ヵ月近くの休暇をとった。1990年の夏頃のことであった。(同書p172〜173)

 そして、休暇中に、高木は、次のように考えるにいたったのである。

 

プルトニウムという原点に戻ろうと思った。それまでの反省として、自分の専門の間口をひろげ過ぎ、「時計」の精度が悪くなって来たことが、自分自身でよく分って自分を悩ませていたということがひとつにあった。もうひとつの反省としては、柄にもない「運動のリーダー」役を担いすぎ、しかもそれを内発的な動機というよりは、押しつけられた責任として実行しようとしすぎた。それはもう断ちきらねばならない。
 といって、もちろん、「専門家」に徹し切るつもりはなかった。一人の人間として、一市民活動家の立場は、すでに自分から取り除くことのできない身体の一部のようなものになっていた。それなら、専門家と市民、時計とかな鎚という二足のわらじをはくのではなく、やることの範囲を絞ったうえで科学者=活動家といった地平で仕事をすることも可能ではないか。いや、そこにしか自分が今後生きていく道はないのではないか。それまでは、ディレンマとしかとらえられなかった問題も、妙な肩の力みを除いてみると、案外止揚できるかもしれない。それだけの失敗の経験と苦しみは味わってきたのではないか。
 そう思うと、妙に気が楽になって、立ち直れるのではないかと思えて来た。
 そして、自分の営みが、基本的には市民の目の高さからの科学、すなわち「市民の科学」を目指すことであり、資料室は、市民の科学の機関であると位置づけることが、ごく自然のように思えて来た。(同書p174〜175)

まさに、「市民の科学」をめざすこと、これが、科学者と市民という「二足のワラジ」の矛盾に苦闘した高木の回答であったといえよう。ある意味では、先行する武谷三男から投げかけられた問いを、高木は、このように解こうとしたのであったのである。

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さて、前回のブログで、1969年に東京都立大学助教授に赴任した高木仁三郎が、「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」(宮沢賢治)をめざして、大学をやめようと考えるにいたったことを述べた。高木は、西ドイツのマックス・プランク核物理学研究所に留学し、東大原子核研究所時代以来抱いていた研究テーマをまとめた。そして、1973年に、慰留をうけながらも東京都立大学をやめた。高木は、その時の思いを、『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年)で、次のように回想している。

大学や企業のシステムのひきずる利害性を離れ、市民の中に入りこんで、エスタブリッシュメントから独立した一市民として「自前(市民)の科学」をする、というのが私の意向だった(同書134頁)

もちろん、生活を維持することには苦労していたと高木は回想している。雑誌『科学』(岩波書店)の科学時事欄執筆を匿名で担当する、他の雑誌に原稿を書く、翻訳に従事するなどで、ようやく生計を立てていた。ただ、『科学』については、後に「市民の科学」のための基礎知識を得たり、世界全体の科学技術を鳥瞰することに役立ったと高木は述べている。

しかし、アウトサイダーになった高木は、次のような苦労もしたのである。

 

今のようにインターネットなどなかった時代のことで、文献資料を得るのには苦労した。都立大学の図書館を利用させてもらおうと思い、知り合いの教授を紹介者として立て、図書館利用を正式に申しこんだが、「部外者には認めていない」とあっさり断られた。今だったら大学も市民に対してこんなに閉鎖的ではやっていけないと思うが、いったんアウトサイダーの刻印を押された人間には、大学・諸研究機関は、なべてこんな調子で、歯ぎしりさせられることが多かった。それにしても、私の心の中には、未だにこの都立大学の態度には一種の屈辱感が残っていて、その後、自分のことを「元都立大学助教授」と書かれる度に恥しい思いがした。(同書p138)

ただ、高木は「しかし、一方的に孤独感に悩まされる、という感じではなかった。そこには、内側にいたのでは見えなかった世界のひろがりがあった」(同書p138)と書き留めている。三里塚通いも続き、平和や環境問題に関する市民運動との交流も広がった。三里塚では、有機農法によって1反あまりの田づくりを行った。このことは、放射能の実験ではなく米づくりをしながら考えるという意味で新鮮な経験になり、後年エコロジストに傾斜する原点にもなったと高木は述べている。

そんな中、当時大阪大学に勤務しており、四国電力伊方原発差し止め行政訴訟の住民側特別補佐人になっていた久米三四郎より、1974年、高木仁三郎に、プルトニウム問題に取り組んでくれないかという要請がなされた。高木は、プルトニウム問題については前から思い入れをもっていたが、久米は、そのことは知らなかっただろうと、高木は推察している。久米の意図については、1970年代前半、原発建設がさかんになり、そのことで原発反対運動もさかんになっていたとして、次のように述べている。

人々は、電力会社や政府の宣伝とは別の、独立した情報を求めていたが、その助けになるような研究者・専門家が決定的に不足していた。そういう状況下で、一人でも仲間を増やしたい。そういう気持ちで久米さんは私の所にやって来たのだと思う。(同書p141)

この時の高木の対応は、複雑なものであった。次のように回想されている。

 

その場では、私は返事を留保した。私はそれまでの間、専門性と市民性という問題に悩んでいた。先述のように、連れ合いのハリ(中田久仁子、後、高木久仁子…引用者注)とも常に議論があり、市民側・住民側の立場から運動に参加するにしても、できたら原子力分野の専門家として再登場するという形でなく、一市民として参加できたらよいなと思っていた。いずれ原子力問題は避けて通れない思っていたが、その参加の仕方、私の志向する”市民の科学”へのアプローチが見えて来なかったためだ。
 だが、結局、私は久米さんの要請にある程度応える形で、限定的ながら、プルトニウム問題に取り組むことにした。なんといってもプルトニウムは、私のスタートとなった特別な物質であったし、シーボーグ(プルトニウムの発見者…引用者注)に魅せられたとともに、一抹の違和感を彼の本に抱いたことは、第3章で触れた。その違和感を、もっと踏みこんで解明してみようと思った。(同書p142)

高木自身は、この時点で、専門家というよりも、一市民として、運動に参加したいと考えており、それが上記のような複雑な対応をとらせたといえよう。科学者ー専門家としてふるまうこと、一市民運動家としてふるまうこと、この二つの志向は、高木の後半生を支配したモティーフだったといえる。

そして、高木は、プルトニウムの毒性(発がん性)の研究をはじめ、すでにプルトニウムの毒性の大きさを指摘していたタンプリンとコクランの説を高木なりに評価した「プルトニウム毒性の考察」を『科学』1975年5月号に掲載した。高木はプルトニウム論争に巻き込まれ、テレビの論争にも”批判派”として登場するようになった。

さらに、高木は、プルトニウムに関する多面的な問題(安全面、社会面、経済性、高速増殖炉計画など)を議論する「プルトニウム研究会」を組織した。この時の検討をもとにして、原子力に関する初めての本である『プルートーンの火』(現代教養文庫、1976年)を書いた。

すでに、1974年末には、高木は反原発の東京の市民運動の集まりにも顔を出すようになったと回想している。高木によると、当時の日本の反原発運動は原発立地予定地の住民運動を中心としていたが、「ようやくにして東京のような都会でも、原発問題を自分たちの問題としてとらえようとする市民運動がスタートしつつあった時で、運よくほとんどその初期から参加することができた」(同書p147)と述べている。

この当時、原発立地予定地の住民運動に協力して活発に活動していた専門家として、久米の他、武谷三男、小野周、水戸巌、市川定夫や、藤本陽一などの原子力安全問題研究会、全国原子力科学技術問題研究会を高木はあげている。高木は「それらの人々に比べたら、私はずい分、”遅れてやって来た反原発派”だった。」(同書p147)と述べている。

1975年8月24〜26日には、京都で日本初めての反原発全国集会が開かれた。この集会は、女川、柏崎、熊野、浜坂、伊方、川内など、原発計画に反対する住民運動団体が中心的に準備していたと高木は述べている。この全国集会に呼応して、前記の専門家の間にも、共通の資料室的な場をもとうという動きが起こってきた。この動きを強く押し進めたのは、反原発運動に取り組んでいた原水禁国民会議であり、その事務局の一部を提供してくれることになった。ここで、原子力情報資料室が誕生したのである。このことについて、高木は、次のように述べている。

…1975年の夏までに何回か話し合いがあり、結局武谷三男氏を代表とし、浪人的存在であった私が専従(ただし無給!)的役割(一応世話人という名称で)を担うことを了承して、その司町のビル(原水禁国民会議事務局が所在した神田司町のビル…引用者注)の五階で、原子力資料情報室は9月にスタートすることになった。…とりあえずの合意としては、「全国センター」的なものとして気張るのではなく、文字通りの資料室=資料の置き場とそこに集まってくる研究者たちの討論や交流の場(ある種サロン的なもの)とするということでスタートした。(同書p148〜149)

この原子力情報資料室創設時、基本的には高木が一人で運営していた。高木は、無給で電話の応対、資料の収集・整理、自身の学習に従事していた。当時の資料室は財政困難であり、彼自身の生活のためだけでなく、資料室のためにも稼がなくてはならなかったと語っている。高木は、創設時の原子力情報資料室は会費(会員40人程度)と原水禁からの若干の支援によって財政的に支えられていたが、原水禁から一定の独立性を保ちたいという会員の意向もあって原水禁からの支援は限定的なものであったと述べている。

しかし、高木は、この原子力情報資料室に「全人生」をかけていた。

 

ところが、私はなにしろ、資料室にかかわることを決めた時点で、そこに全精力、おおげさでなく全人生をかけ、そこをわが「羅須地人協会」にするという気持になっていたから、設立の趣旨を越えて走り出し、それがフライング気味だったことは、否定すべくもないだろう。(同書p150)

高木にとって、原子力情報資料室は、いうなれば宮沢賢治の「羅須地人協会」を継承するものーいや「羅須地人協会」そのものであったのである。そのような高木の思いと行動が、原子力情報資料室自体のあり方を決定づけていくことになったのである。

 

 

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