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Archive for 2011年6月

続いて、女川町南側の漁村部落をみてみよう。このあたりは、牡鹿半島東側で、太平洋に面したところにある。

まず、高白浜をみてみよう。高白浜は、比較的女川町市街地に近いところにある。グーグルの航空写真を下記に提示する。

高白浜は小さな漁港である。北側の比較的高い土地には多少家屋が残っているが、漁港に近接した南側の低地の家屋はほとんど流失してしまっている。

その状況を、地上からみてみよう。次の動画は、youtubeより転載したものである。

(http://www.youtube.com/embed/tSulr0k7NAM” frameborder=”0″より 4月16日撮影)

この動画でも、漁港の前面にあったはずの集落がほとんどなくなっている。左側の高台にかろうじて家屋があるが、実際に使用できるものかどうかはわからない。

私自身も6月5日に高白浜を撮影した。まず、次の一枚をみてほしい。

津波で被災した高白浜

津波で被災した高白浜

正面が高白浜の漁港であるが、その前の、集落のあったはずの空間は、瓦礫しか残っていない。ただ、後方には残った家屋があり、たぶん整理だと思われるが、自動車が停められていた。

ただ、漁港はまだ使われていた。防波堤の内側に漁船が繋がれていた。

高白浜漁港

高白浜漁港

被災前の高白浜漁港の景況は、このようなものである。

高白浜は、人口78名で死亡等11名、約14%の人命が失われたことになる。被災棟数60であるが、これはたぶんに納屋なども含んでおり、住宅は60戸もあったようには思えない。いずれにせよ、比較的高地にあった数戸を除いて、ほとんどが流失してしまったと思われる。集落規模は小さいが、津波被害は圧倒的であった。

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女川町が、市街地を中心に、死亡者・行方不明者が町人口の1割、家屋については7割の甚大な被害を受けたことは、前回叙述した。それでは、ここで、動画・写真などより、女川町がどの程度の被害を受けたかをみていこう。

あまりに甚大な被害を受けた女川町には、それほど津波襲来を写した動画はあまり多く残されていないようである。youtubeを検索し、次の動画を発見した。

(http://www.youtube.com/watch?v=DngU0NJl3cY&NR=1より)

この動画は、「引き波」ではあるが、津波被害の恐ろしさを如実に物語っている。画面には雪がまっている。3月11日では、まだ女川は冬だったことが思いおこされる。画面には、津波をみている避難者が何人も写っている。一応、命は助かったといえるのだが、彼らは、その多くが、家族・親族・知人を失った。そして、家屋・財産・勤め先も喪失したことであろう。さらに、これから、何日も、いや何週間も、最悪の場合は今でも、避難所などでの窮乏生活を強いられることになる。

この動画は、どこで撮影し、どの地点が写っているのだろうか。上記の航空写真をみていただきたい。撮影地点は高台で、その前には、たぶん芝地の段々になっている斜面があり、その先には、丸い建物のある大きな建物が写っている。津波は、少なくとも、この地点までは到達し、この建物に車が流れ着いている。航空写真でみると、「熊野神社」というところの前に、段々のある芝地があり、その先に「女川町立病院」がある。この動画は、「熊野神社前」から、「女川町立病院」を撮影したものといえよう。

被災前の女川町立病院(同院ホームページより)

被災前の女川町立病院(同院ホームページより)

実際、女川町立病院のホームページに、同じようなアングルで撮影した同院の写真が掲載されている。上記に掲載しておく。なお、奥にみえるのが、女川町市街地の一部である。被災前の女川町は、このような町であったのである。

女川町立病院は、女川市街地の中心にあり、北側が、女川町役場や石巻線女川駅のある女川浜、南側が、マリンパル女川という観光施設がある鷲神浜・黄金町である。動画画面の右側が女川浜、右側が鷲神浜・黄金町である。しかし、もはや、どちらも、津波にのまれ、かろうじて、高台にある町立病院のみが顔をのぞかせているという有様である。女川町市街地全体が津波にのみ込まれたのである。家屋6~7割が全壊したというのも当然であろう。

続いて、私個人が6月5日、同地をフィールドワークした際の写真でみておこう。その日は、石巻市中心部から、国道398号線(女川街道)を経由して、車で女川町に入った。石巻市と女川町の間には万石浦という海跡湖(といってもカキ養殖をしているから海水)がある。そこに面した浦宿というところは、津波の物理的被害は軽微であった。どうやら、浸水ですんだようだ。しかし、報道によるとこの万石浦沿岸は地盤沈下で満潮時浸水するようで、「浸水注意」の看板があった。

この浦宿をすぎ、ちょっとした鞍部をぬけると、女川町市街地である。かなり山側の地点まで、津波でほとんどの家が流失していた。下記の写真が、その景況を示している。

浦宿から女川町中心部にむかう女川街道

浦宿から女川町中心部にむかう女川街道

次の写真は、女川町中心部をとった写真である。鉄筋コンクリート造は、とりあえず外観を保っていることが多い。この写真を撮影していた時は意識しなかったが、たぶん、左側の高台に写っている建物が町立病院である。つまり、ここで写っている建物の多くは、津波襲来時には水没したのである。

女川町市街地中心部

女川町市街地中心部

なお、グーグルで、この地点近傍と思われる被災前の写真を発見した。ここに掲載する。ここに写っている家屋は、今はないのである。

被災前の女川町市街地

被災前の女川町市街地

なお、鉄筋コンクリート造でも倒壊しているものもあった。以下に掲載する。

倒壊した鉄筋コンクリート造家屋

倒壊した鉄筋コンクリート造家屋

鉄骨は鉄筋コンクリート造よりも津波に弱いらしく、鉄骨以外はほとんど流失し、鉄骨自体もグニャリと曲がっていた。

津波に被災した鉄骨造家屋

津波に被災した鉄骨造家屋

女川港の埠頭も破壊されていた。ただ、これは地震で壊されたのか、津波で壊されたのか判然としない。

被災した女川港の埠頭

被災した女川港の埠頭

女川だけには限らないが、どこにいっても瓦礫の山ばかりである。方々の瓦礫の山をみていると、瓦礫処理に努力しているのはわかるが、被災地の瓦礫はまだまだ多く、とても片付いたとは思えない。それに、市街地をみている限り、瓦礫処理や道路補修以外の復興作業が進んでいるようにはみえなかった。「復興が遅れている」という、被災地からの不満も、当然だと思う。

女川町の瓦礫集積所

女川町の瓦礫集積所

ただ、女川魚市場は、まだ外形を保っていた。そばに近づくと、被災の跡が残っているが。牡鹿半島をまわっていると、海面には漁船がおり、とりあえず使用可能な港湾には船が繋がれていることが多かった。漁業復旧に対する、この地域の熱意がうかがえる。

対岸からみた女川魚市場

対岸からみた女川魚市場

女川港に面して建設された観光施設マリンパル女川も、もちろん被災したが、鉄筋コンクリートのためか、外形は保っていた。補修して使えるかどうかはわからないが、行った時は、屋上にこいのぼりがあがっていた。復興への心意気であろう。

被災したマリンパル女川

被災したマリンパル女川

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さて、今回は、女川町役場の発表している資料を使って、女川町の津波被災状況をみてみよう。すでに宮城県全体の被災状況でみたように、女川町は、宮城県の津波被災地において、人口に比して最も人的被害(死者・行方不明者)の多い地域であった。宮城県発表の数字とは多少違うのであるが、ここでは、女川町発表の数字を使ってみていこう。

その前に、女川町の位置を念のため確認しておこう。女川町は、宮城県東部の海岸沿いで、牡鹿半島の根元の部分にある。現在、平成の町村合併で、旧牡鹿町・旧雄勝町が石巻市に合併され、陸地ではすべて石巻市に囲まれている状態になったが、本来の石巻市市街地からは東側に所在している。女川町中心市街地は、西は万石浦、東は女川湾にはさまれ、女川漁港が所在している。さらに、周辺部の海岸や島嶼に小規模な漁村が散在している。

まず、津波であるが、女川町を襲った津波の高さは、14.8mとしている。ただ、同時に発表された分析成果をみていると、津波の最高到達地点は標高20m程度はあるかと思う。リアス式海岸で、奥に行くほど狭まって、波高が高まったと推測される。

浸水区域は300ha(3k㎡)、被害区域は240ha(2.4k㎡)とされている。女川町の総面積は65.79km²であり、それぞれ約4.5%、約3.6%にあたる。女川町の大部分は山地であり、それを考えれば、かなりの被災といえよう。

人的被害では、2011年4月29日現在で、死者455名(内身元判明者333名)、行方不明者739名、けが人2名、生存確認者8938名とされている。3月5日現在の町人口は10010名で、生存確認できない人たちは人口のうち、10.7%にあたる。6月の宮城県全体の統計では約9%にあたるので、時間がたつと、多少数字が整理されてきたといえる。いずれにせよ、女川町では、10名に1名程度が死亡・行方不明者となっているのである。また、死者のうち、4月29日時点での身元判明者は333名しかおらず、122名は身元不明である。他地域出身者の遺体が流れ着くこともあったと思われるが、いずれにせよ、遺体の身元確認は難航したのであろう。

建造物被害は、次のようである。

               住家  非住家  合計  %
全体            4438   2073  6511  100.0%
全壊            3021   1411  4432   68.1%
半壊              46    23    69    1.1%
一部損壊           86    52   138    2.1%
津波被害なし                  1730   26.6%
未調査及び所在不明              142    2.2%

これは、驚くべき数字である。住家・非住家あわせて6511棟のうち、全壊は4432棟、全体の68.1%なのである。7割近くの建造物が全壊してしまったのである。そして被害のない建造物は26.6%しかない。女川町の壊滅的な被害状況がよくわかるといえる。

続いて、女川町の各地域の被災状況をみてみよう。女川町は「女川町被災状況図」を公表しているので、下記に転載しておこう。

女川町被災状況図

女川町被災状況図

やや小さくてわかりにくいかもしれない。赤い部分が全壊被災地である。この図によれば、最も被災面積の大きいのは、女川市街地地域であることがわかる。特に、女川湾に面した地域が甚大な被害となった。

また、太平洋に面したもしくは島嶼にある各漁港もそれぞれ被災していることがわかる。

比較的被災の程度の小さいのは、西側の万石浦に面した地域である。津波襲来当時、万石浦もその影響を免れなかったのであるが、浸水という形ですんだようである。赤線で囲まれたところが浸水区域である。

次に、女川町の各地域別の被災状況をみておこう。上記の「女川町被災状況図」より、下記の表を作成した。死亡者等が1714名に上るなど、あきらかに過大なのであるが、とりあえず、地域別の傾向はよみとれよう。

女川町の各地域別被災状況

女川町の各地域別被災状況

まず、目につくのは、女川市街地地域の被災状況である。死亡者等の84.78%は市街地ででている。人口比率よりも大きいのである。市街地人口の17.79%が死者などにカウントされている。被災面積でも全体の59.95%をしめ 、被災棟数でも67.92%をしめている。その意味で、女川市街地地域の津波被災は、量的には甚大である。

それ以外の、主に地元の人たちが使用することになっている「第一種漁港」が所在することが多い、周辺部や島嶼部の被災状況をみてみよう。もともとの家屋棟数などがわからないので、その程度を考察することは難しい。ただ、死亡等の比率をみると、かなりまちまちである。全く死亡等がいなかった桐ヶ崎地区もあるが、人口の39.36%が失われた江島地区などもある。横浦地区も22.81%で、市街地地域よりは多い。ただ、その他は市街地地域よりは低い。もちろん、これは、最新の数字が出ればかなり違うだろうと思う。

このように、統計数字などから、女川町の被災状況をみてみた。次回以降、写真などにより、実際の被害状況をみてみたいと思う。   

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6月26日、佐賀で経済産業省が原発の安全対策に関する「説明番組」をケーブルテレビなどで中継した件につき、6月27日付の『西日本新聞』は次のように報道している。

九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)2、3号機の運転再開を目指し、経済産業省は26日、原発の安全対策に関する県民向け「説明番組」を同県内のケーブルテレビ(CATV)などで中継した。同省が選んだ県民7人が出演し、担当者と質疑した。終了後、古川康知事は「(県民理解に)一定の役割を果たした」と評価したが、記者会見した出演者6人は「時間が短い。説明も歯切れが悪く、納得できなかった」などと不満を述べた。

 福島第1原発事故後、原発立地自治体の住民に対する国の説明活動としては初めて。ただ、説明対象者を限定し、放送するという手法には批判もあり、運転再開に反対する市民団体が番組の会場となったCATV会社周辺で抗議活動をした。

 番組は午前10時から90分、県内の4割以上にあたる約13万世帯が加入するCATVとインターネットで中継された。県民の出演者は、国が地元の広告代理店にリストアップを依頼して決めた農業や主婦、商工団体代表や大学生など男女7人(20-60代)。同省原子力安全・保安院の黒木慎一審議官らが福島第1原発事故の拡大原因や、その後に九電が実施した緊急安全対策を説明した。

 質疑では「原発事故が収束していない中、玄海原発を早く再開すべき緊急性とは何か」「本当に電力量は足りないのか」といった声が相次いだ。番組視聴者からメールやファクスで2041通の質問や意見が届き、一部は番組内で紹介された。

 終了後の会見で、出演者6人は「時間が短く、説明も分かりにくかった」「国の説明は歯切れが悪く、安心できない」「これで(説明会を)終わりにしないでほしい」などと指摘。テレビ番組という手法には「賛成派だけで(運転再開への)シナリオを作ってしまうと誤解を招く」「公開型説明会が必要ではないか」との意見が出た。

 同省側は「安全対策をしていることは分かってもらえた気がした。透明性と科学的データに基づく情報発信を続けるしかない」と述べた。

 説明会実施を国に要請した古川知事は知事室で番組を視聴。取材に「やらせではない、いいやりとりができていたのでは」と評価した。県民や県議会の一部から要望がある県主催の大規模な説明会については「今日のやりとりを分析したいが、現時点でやるべきとは考えていない」と語った。

=2011/06/27付 西日本新聞朝刊=

この「説明番組」は「県内の4割以上にあたる約13万世帯が加入するCATVとインターネットで中継された。県民の出演者は、国が地元の広告代理店にリストアップを依頼して決めた農業や主婦、商工団体代表や大学生など男女7人(20-60代)」という形で行われた。そもそも出演者自体が「広告代理店」がリストアップし、CATVとインターネット以外には立ち会わせていなかったのである。

本ブログでは、以前、1973年に開催された福島第二原発の公聴会について取り上げた。陳述人を賛成派25名、反対派15名と差をつけ、傍聴人については地元町村役場が賛成派住民・中立派住民の名を勝手に使って応募し、実質的に反対派を締め出して、この公聴会は開催された。その周りでは、機動隊とデモ隊が対峙していた。この公聴会は、ある意味で、住民の合意を装う形式的なセレモニーでしかないと考えた。

今回の「説明番組」では、どうであろうか。これは、公聴会ですらない。いわゆる「パブリシティ」ということになろう。

パブリシティについて、「パブリシティ.com」では、次のように定義している。

パブリシティは、製品なり、サービスを新聞、テレビ、ネットなどでニュースや記事として取り上げるものです。紙面に掲載されたり、画面に映されたりすることは広告と同じように思われがちですが、マスコミの主導による情報提供となり、顧客、すなわちサービスを受ける側から言えば、実に公的な立場からの情報となります。これは、どういった利点があるかと言いますと、まずは、企業からの一方的な情報ではないので、信頼性の高い情報として受け止められるということ。マスコミ=第三者による提供に値する情報ということですから、受けての側にも先入観なくスムーズに製品やサービスの良さを伝えることができます。

福島第二原発は、形式的にーいや本当に形式的なものなのだがー、陳述人や傍聴人は「公募」されていた。実質的には不公平であるが、形式的には公平性を装うことで、「合意」形成をはかろうとする「形式的なセレモニー」たらんとしていた。

今回の「説明番組」では、そもそも広告代理店が「出演者」をリストアップし、国が選んでいるのであるから、「公募」という形式すらとっていない。そもそも、「視聴者参加番組」でしかないのである。そして、直接伝えるメディアも選別している。そして、「顧客、すなわちサービスを受ける側から言えば、実に公的な立場からの情報となります。これは、どういった利点があるかと言いますと、まずは、企業からの一方的な情報ではないので、信頼性の高い情報として受け止められるということ」をめざしていたといえよう。結局、マスコミを利用した広報戦略でしかないといえる。

「公聴会」から「説明番組」へ。たぶん、経産省あたりはインターネットやケーブルテレビなどの発展に応じた「広報戦略」の「進歩」ととらえているのであろう。「公募」という面倒な手続きを廃し、「暴力的な傍聴人」を排除する手間も省き、より効率的に説明できると信じているのであろう。

しかし、「公聴会」にすら形式的準拠枠としてあった、だれにでも参加できる公開の場における言説空間の形成という意味での公共性ーパブリックの、パブリシティの論理による簒奪といえるのではないか。地域住民や自治体議会との合意形成すら問題にせず、しかもケーブルテレビやインターネットというメディアによりかかって、信頼性を担保している点において。

結局、「終了後の会見で、出演者6人は「時間が短く、説明も分かりにくかった」「国の説明は歯切れが悪く、安心できない」「これで(説明会を)終わりにしないでほしい」などと指摘。テレビ番組という手法には「賛成派だけで(運転再開への)シナリオを作ってしまうと誤解を招く」「公開型説明会が必要ではないか」との意見が出た」とのことである。出演者それぞれを疑ってもしかたがないのであるが、このような意見が出るような形で出演者を構成し、「公平性」を偽装しようとしているともみることもできよう。

案の定、「説明会実施を国に要請した古川知事は知事室で番組を視聴。取材に「やらせではない、いいやりとりができていたのでは」と評価した。県民や県議会の一部から要望がある県主催の大規模な説明会については「今日のやりとりを分析したいが、現時点でやるべきとは考えていない」と語った」とされている。このような形で開催することが「やらせ」であり、出演者それぞれに「演技指導」したかどうかは別なのである。

なお、「説明会」と経産省は把握しているようで、『朝日新聞』・『読売新聞』などは、そのような名で報じていたが、7名の参加者では「会」とすらいえないだろう。テレビなどで視聴者参加の討論番組はあるが、それを「会」とはよばない。『西日本新聞』・『東京新聞』など指摘しているように「番組」でしかないのである。言葉と実態のギャップを認識することが重要である。

『佐賀新聞』は6月22日にこのように報道している。

玄海原発2、3号機の再稼働問題で、国が26日に実施する県民向け説明会の開催方法をめぐって21日、県議や市民団体などから批判が相次いだ。県議会運営委員会では、参加人数が5人程度に限定される方法に「もっとオープンにすべき」などの異論が噴出、各会派に持ち帰って22日の議運理事会で再協議することになった。市民団体や共産党県委員会も「納得できない」と知事宛てに撤回を求める抗議文を提出した。

 

 国の説明会は県民4、5人が原子力安全・保安院、資源エネルギー庁の担当者と質疑応答し、その模様をケーブルテレビ(CATV)やインターネットで生中継。視聴者からファクスやメールで質問を受け付ける。

 

 議運では参加者限定に対し、市民リベラルが「誰もが参加でき、質疑が保証されての開催と思っていた。今回の手法は茶番だ」と批判、県民ネットも「これで説明がつくのか」と疑問を投げかけた。自民は「4、5人という参加者はどうなのか。議会としてあり方の確認をすべきだ」と述べ、各会派に持ち帰った。自民はその後、議員団総会で「まずは開いて、十分なのかみたい」として容認する意見でまとまった。

 

 住民説明会開催の請願を県議会に提出している玄海原発プルサーマル裁判の会など3団体は「たった5人の説明会ではとても公開と言えず、アリバイづくりだ」「性急にやることなのか」と県側を追及。ホールや体育館など数カ所で実施し、告知から開催まで1~2カ月間を置くことなどを求めた。

 

 県側は国主催のため、開催方法に関与しない方針。古川康知事は議会後、「国がきちんと説明責任を果たすべきというのは、議会も異論はないと思う。その場は数人かもしれないが、厳しいやり取りや見ている人が疑問などを寄せることで国にも県民の不安などが生で分かり、非常に意味がある」と語った。

 

 経産省の担当者は「準備期間の問題もあり、広い会場で大人数でやることは検討していない。CATVやネットでより多くの人に見てもらえる」としている。

一部の県議や市民団体は、誰にでも参加できる形での公聴会実施を求めている。これが当たり前の「公共性」-「パブリック」といえるのである。そして、この説明番組」実施というパブリシティによるパブリックの簒奪の影響は、単に原発問題だけに限られないのである。

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宮城県では、罹災概況図というものをホームページに公開している。画像が小さいので、少々見にくいが、宮城県の津波の景況の概略はわかるだろう。赤く塗られた部分が津波による浸水範囲である。

宮城県全体の津波被災状況

宮城県全体の津波被災状況

なお、宮城県では、その日ごとに震災の被災状況を公表している。6月24日のデータで津波被災した自治体分だけを抜き出して、下表を作成した。厳密にいえば、津波分だけではないのだが、概況はわかるだろう。一応、宮城県内の死者は9159名、行方不明者4693名、合算して13822名の犠牲者がカウントされている。全壊した住宅は62989戸、半壊した住宅40588戸、一部損壊した住宅は50094戸で、損壊した住宅の総計は153671戸に上る。

東日本大震災における宮城県の津波被災状況

東日本大震災における宮城県の津波被災状況

まず、一見した印象でいえば、浸水区域は、宮城県南部の海岸に広大な津波浸水範囲があることがわかる。よく、震災報道の対象となった、仙台空港も属している。自治体でいえば、多賀城市・仙台市・名取市・岩沼市・亘理町・山元町がそれにあたる。海岸平野があり、そのため、浸水範囲が広がっているのだろうと思われる。この浸水範囲は、福島県浜通りの新地町・相馬市・南相馬市へと広がっていると考えられる。次の図は、仙台管内の罹災概況図である。

仙台管内の罹災概況図

仙台管内の罹災概況図

直接見たことは、仙台東部道路上から車内より瞥見したことしかないのだが、その時の印象では、水田の上にヘドロや木の根が堆積しており、福島県相馬市松川浦でみた津波被災状況に似ていた。

人的被害では、仙台市・名取市・山元町が700~1000名を越えている。また、住宅被害では、仙台市の56558戸と、宮城県の津波被災地では最多となっている。100万都市仙台の周辺市街地の住宅が被災したと思われる。仙台空港・仙台港も被災しているので、交通インフラもかなり被災している。どうしても、瓦礫が散在した市街地のイメージが報道されていることが多いのだが、農地、港湾、空港などが被災し、生産・交通施設が多く被災したことと思われる。

多賀城市の北東側、松島湾周辺には、比較的被害が軽微だった七ヶ浜町・塩竈市・利府町・松島町が存在している。このように、おしなべて津波にあったということではなく、それぞれの地域によって違いがあるのだ。

この地域の東側の地域は、甚大な被害を蒙っている。自治体でいえば、東松島市・石巻市・女川町が該当する。特に石巻市は死者3110名、行方不明者2770名で、あわせて5880名となり、総人口の3,67%が犠牲となった計算となる。少なくとも、犠牲者数で石巻以上の自治体はない。次に多い気仙沼市にしても、1447名である。東松島市も犠牲者は1168名で、人口の2,73%に該当する。女川町では、死者498名、行方不明者420名で、犠牲者は人口の9.21%ととなり、宮城県において津波被災した自治体の中で比率が最も多い。

損壊した住宅も石巻市で31166戸、東松島市で11732戸と、仙台市についで多い。女川町は3624戸だが、これは、単に元々住宅戸数が少ないだけであり、後日紹介する女川町独自の調査では、全住宅の6~7割が被災していた。

この地域は、かなり複雑な地域である。市街地をなす石巻市中心部や東松島町、石巻港・石巻漁港を中心とする石巻湾岸の巨大な港湾や工場地帯、北上川沿いの農地、漁港の多い女川町や牡鹿半島のリアス式海岸など、さまざまな地域がある。石巻市といっても、多様なのだ。甚大な被害といっても、それぞれのところで様相は異なる。

この被災状況を、石巻市の中心部市街地の被災状況でまとめてしまうのは、暴力的すぎると思う。私個人は、石巻市の中心部市街地をそれほどみていないのだが、最も印象に残ったのは、市街地全体が被災していた女川町市街地であり、ほぼ全戸が流失した牡鹿半島の石巻市鮫浦・大谷川浜・谷川浜であり、津波に被災し、倉庫・工場群が廃墟と化した石巻の港湾部であった。農村部の被災状況はみていないのだが、それをみれば、また違った印象を受けるであろう。

石巻管内の罹災概況図

石巻管内の罹災概況図

続いて、北側の南三陸町・気仙沼市の景況をみておこう。南側の牡鹿半島、女川町などと同様、この周辺はリアス式海岸であり、海と山にはさまれた地域である。浸水範囲はそれほど大きくないが、逆に集落が海岸線沿いに集中しており、多大な被害を出したといえる。気仙沼市では死者980名、行方不明者467名で、犠牲者総計1447名と、石巻市についでおり、人口の1.97%にあたる。南三陸町では、死者542名、行方不明者664名で、犠牲者総計は1206名で気仙沼市についでおり、人口の6.94%で、女川町の犠牲者率についでいる。損壊住宅も、気仙沼市では10672戸、南三陸町では3311戸に及んでいる。次に、この地域の罹災概況図を示しておく。

気仙沼・本吉管内の罹災概況図

気仙沼・本吉管内の罹災概況図

この地域は、足を踏み入れていないから、想像でいうしかないのだが、南の牡鹿半島や女川町と同様な、三陸海岸特有の漁港が多いのではないかと思う。ただ、たぶん気仙沼のような大港湾都市と、それ以外の漁港では、同じ漁港といってもかなり違うのではないかと思う。漁港といえば、私は、石巻市鮫浦のような小規模なものか、せいぜいは女川町のような中規模なものしか想定していなかった。しかし、石巻漁港は、どちらかといえば東京湾岸の国際貿易用の埠頭に近いものであり、このような大規模な港湾が「漁港」であるとは思えなかった。

このようなことは、被災地の人達からみれば、当たり前のことであろう。しかし、東京において、基本的にはマスコミの写真にせよエピソードにせよ「点景」に焦点をあてた報道を中心に受容している私にとって、宮城県全体の被災状況と、自分のささやかな見聞をつきあわせて、とりあえず全体を想像してみることが必要であった。もちろん、たぶんに、見当違いなこともあろう。

ただ、被災地といっても複雑であり、復旧・復興も多様にならなくてはならないことぐらいはわかる。住宅の高地移転といっても、漁民の生業は「海」であり、サラリーマンの転居とはわけが違う。それに、山裾まで津波に被災した地域ではどこに移転すればよいというのか。石巻では、巨大な港湾都市の埠頭や工場地帯も、市街地も、後背地の農村でも津波に被災したと思うが、それぞれの復旧・復興のあり方は違うであろう。都市部中心に被災したという点では、関東大震災や阪神・淡路大震災のほうが地域としての共有性はあったと思う。

このようなことが意識されない…ということ自体が問題なのではないか。「東北を支援する」はいいのだが、実際のところ、あまりにも報道は「点景」すぎると思う。面として、どのような被災があったのかを、それぞれの人が考えることが必要であろう。

次回以降は、自治体レベルで統計をしっかり公表している女川町について、その被災状況を検討してみたいと思っている。

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東日本大震災で、津波被災の現状を撮影した写真・動画をたくさんみかける。でも、なんというか、自分が見た被災地とはどうもしっくりあわない。もちろん、報道においても、私においても、被害地の本当の悲しみ、苦しみなどはわかりようはない。しかし、それでも、なんだろうか……外部からみた場合でも、何か大事なものが落ちているような気がするのである。

例えば、4月9日、私自身が撮影しブログにのせた福島県相馬市松川浦の被災状況について撮影した写真を例にとって考えてみよう。その際、複数の写真を撮影したが、ブログには次の写真しか載せなかった。

相馬市松川浦①

相馬市松川浦①

この写真を載せるのには結構葛藤があったのだが…それにしても、この写真を選択したこと自体、鑑賞者の目を気にした私なりの美意識があっただろう。つまりは、「迫力ある写真」ということで、わざわざ望遠レンズで乗り上げたヨットという点景を撮影したものを被災状況全体を代表する写真としているのだ。

もちろん、一般的に報道の場で流通する写真は、私の写真などより百倍素晴らしい写真である。しかし、その多くは、点景を写した写真に過ぎない。乗り上げた舟、基礎以外流失した家屋は、どこにいっても、それこそ山と存在していた。それぞれが被写体になりうるのである。しかし、むしろ、そのような被写体になりうるものが、万として存在したということ、それが、外部者の視点でも理解できる、津波被災の大きさなのではないか。

そこで、今ならば、私は、相馬市松川浦の被災写真としては、次の写真を選ぶだろう。

相馬市松川浦の被災②

相馬市松川浦の被災②

この写真では、前の写真で中心であったヨットは、あまり目立たない。一方で、ヘドロにまみれた水田、そこに点在する木の根、そして、もはや水田と区別がつかなくなった松川浦が写っている。つまり、点や線ではなく、面なのだ。目路にみえる風景全体が、津波被災地なのだ。津波被害の深刻さとはそういうものだといえる。これをみて、復旧・復興のままならないことを肌で感じた。

少なくとも報道においては、写真で語るとはいかなくても文章において、津波被災の巨大さ、復旧・復興の困難さが語られなくてはならないと思う。しかし、現実には、津波の「点景」にこだわっているのではなかろうか。

むしろ、グーグルの航空写真のほうが、津波被災の巨大さがわかるといえる。

この航空写真でみても、松川浦と水田は区別がつかない。復興・復旧とは、海と陸を分けることから始まるだろう。まるで「天地創造」である。

さらに、被災を受けた地域だけではなく、それほど被災していない地域もあるのだということも理解されなくてはならない。今までの二枚の写真は、国道六号線の相馬バイパスから海側をとった写真であるが、その山側には、このような情景が展開されていた。

相馬市松川浦の景況③

相馬市松川浦の景況③

津波は、大体相馬バイパスでとまった。その山側には、緑の農耕地と津波に被災していない集落が存在していた。あまりのギャップに驚いたのである。

あまりにも容易に注目できることだけではなく、その背後にあるものを想像力でせまること、それが本来報道に求められていることではないかと思う。

次回以降、「その背後にあるものを想像力でせまること」の例として、実際にはほとんど見ていない宮城県とりわけ女川町の被災状況を、統計や被災地図などで考えてみたいと思っている。

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「原発バブル」後の財政危機を、双葉町はどのように克服しようとしたのだろうか。前述した、『朝日新聞』2011年5月28日付朝刊に掲載された、編集委員神田誠司「『増設容認』カネの魅力、神話の陰にー福島原発40年④」では、このように説明している。

最後に頼ったのは、やはり「原発マネー」だった。
前町長(現在は井戸川克隆町長)時代の91年、町議会は原発増設決議を可決。その後、東電のトラブル隠しの発覚で決議は凍結された。

このように、原発増設決議を行って、また資金を獲得しようとしたのである。

経済学者諸冨徹は、「原発震災から地域再生へ」(『現代思想』2011年6月号)で、双葉町の状況を解説している。

したがって、双葉町が九一年に誘致決議で直面したように、さらなる原発増設によって減ってしまった交付金と固定資産税収入を再び回復させ、高水準の歳出を賄うという選択を取ってしまうことになるのです。

しかし、すでに朝日新聞の神田が指摘しているように、90年代においては、東電のトラブル隠しのため、原発増設は不可能であった。双葉町は、どんどん財政破綻に追い込まれていく。朝日新聞の神田は、双葉町の財政破綻をこのように説明している。

 

財政状況の悪さは、福島県の原発立地4町の中でも、突出していた。年間収入に占める借金返済額の割合では、07年度の数値で大熊町3.9%、楢葉町11.0%、富岡町17.9%に対し、双葉町は30.1%。財政健全化の計画策定が義務づけられる「早期健全化団体」のラインとなる25%を大きく超え、「危険水域」に入っていた。

 諸冨も「あらゆる地方財政上の指標で見て、全国の市区町村でワースト一〇に入ってしまうほど財政状況が悪化しています」と指摘している。

このような財政危機の中、登場したのが、現町長で双葉町ぐるみで埼玉県に移った井戸川克隆である。朝日新聞の神田は、2005年12月8日の井戸川の初当選時の思い出を次のように記している。

 

新顔同士の一騎打ちを小差で破った後の晴れがましさは、町長室をたずねてきた総務課長の一言で吹き飛んだ。「町長、来年度の予算が組めません」
 多額の借金を抱えていることはわかっていた。だから、住宅設備会社を一代で立ち上げた経営のノウハウを生かして町を再建したい。そう訴えて支持を得たのだ。「でも、そこまでひどいとは思わなかった」

井戸川町長は、とにかく歳出カットにはげんだ。朝日新聞の神田は、その奮闘ぶりをこのように述べている。

 

井戸川はまず大型事業を見直した。自らの給料も実質的に手取りをゼロにした。「このままだと第二の夕張になってしまう」。住民に訴え、様々な補助も削減。だが、歳出カットだけでは追いつかない。

結局、井戸川も原発マネーに依拠せざるをえなかった。朝日新聞の神田は、このように井戸川の選択を記述している。

井戸川は07年6月、町議会で早々と幕引き(91年原発増設要望決議凍結について)を宣言する。翌日には町議会が増設容認の決議を賛成多数で可決。賛成した町議の一人は「増設容認は財政再建の切り札だった」と明かす。
 結果、毎年9億8千万円、4年間で39億2千万円に上る7、8号機増設に向けた電源立地等初期対策交付金を手にした。

諸冨は、このように指摘している。

言葉は非常に悪いのですが、これはある種の依存構造であり、麻薬的であるとも言えます。次々に大きな歳入減(増の間違いか)を求めて、見返りに原発を受け入れざるを得なくなっていくのです。いったん受け入れてしまうと抜け出せない原発は、地域発展の手段としては逆効果であり、依存対策から抜けだせなくなる点に、電源三法の恐ろしさもあるのです。

しかし、ここで、東日本大震災とそれを契機とした福島第一原発事故が双葉町を襲った。朝日新聞の神田は、次のように、井戸川町長の心境を物語っている。

 

今年3月11日、突き上げるような揺れに襲われたとき、井戸川の頭をよぎったのは第一原発のことだった。懸念は現実になり、埼玉県北部・加須市の避難所で町民1050人と寝起きをともにする。「いつ町に戻れるのか」。遠く離れた無人の町には「原子力 郷土の発展 豊かな未来」と書かれた大きなアーチがかかっている。

まるで、井戸川町長の苦労を嘲笑しているかのようである。以前、本ブログの中で、原発立地による利益を数え立てている『富岡町史』の記述に対し、それが全戸避難の現実と引き合うものなのかと述べた。原発立地を契機として生じた財政破綻に対応するため、原発増設決議を出し、新たな電源交付金を獲得した双葉町についても、同じようなことがいえる。全戸避難し、地域で生活もできず、土地・家屋・工場・家畜などもとりあえず触れることのできない現状と、原発で獲得した利益は引き合うものであったのかと言わざるをえない。

別に、双葉町当局・富岡町当局の責任を今更問うつもりではない。財政破綻していて、雇用もない状態にはなりたくないというのも真摯な思いであったであろう。その思いとは全く相反してしまった状況が悲しいのである。

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(福島第一原発から3.5キロにある双葉町役場手前。アーチ式標語には「原子力 郷土の発展 豊な未来」とある。役場にも双葉町中心部にも人影はない。2011年3月13日午前中 山本宗補撮影  http://twitpic.com/4aiukiより転載)

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さて、また原発のことに話をもどしてみよう。原発立地は、本当に立地した町村財政にプラスになるのだろうか。まず、想定できるのは、原発設備に対する固定資産税である。しかし、原発運転開始時には多額の固定資産税が入るが、原発の減価償却につれて、毎年固定資産税額は下がってしまう性格を有している。

 1974年、田中角栄が首相で中曽根康弘が通産相であった時期に制定された電源三法(発電用施設周辺地域整備法・電源開発促進税法・電源開発促進対策特別会計法)により電源交付金が創設された。この電源交付金は、電力会社が電力料金に上乗せして消費者より税金を徴収し、それを原子力などの発電所が立地する自治体・隣接自治体・府県に交付するものであった。

 だが、これも発電所が建設されるまでの直前はかなり多く支給されるが、発電所の営業運転が開始されると固定資産税が入ってくるので、電源交付金はしだいにもらえなくなってしまう。そして、固定資産税は、前述のようにしだいに減額されていくのである。

 電源交付金は、創設当初はいわゆる「箱もの」への支出を中心としていたので、必要性の少ない施設が多く作られた一方、維持費や人件費はその後も自治体財政の負担となった。

例えば、福島第一原発が所在する双葉町についてみてみよう。『朝日新聞』2011年5月28日付朝刊で、編集委員神田誠司が「『増設容認』カネの魅力、神話の陰にー福島原発40年④」という署名記事を書いている。この記事を再構成しつつ、原発立地が町村財政にプラスなのかいなかを検討してみよう。この記事において、双葉町財政が豊かであった時期はこのように叙述されている。

 

双葉町の5・6号機が運転開始したのは1978、1979年のことだ。当時、人口約8千人の町には巨額の「原発マネー」が奔流のように流れ込んだ。
 原発立地を促すための国の電源3法交付金、東電からは巨額の固定資産税などの税収……原発関連の固定資産税収だけでもピークの83年度は約18億円、当時の歳入総額33億円の54%に達した。町は下水道や道路整備、ハコ物建設に次々と手をつけた。

しかし、それは長くは続かなかった。同記事は、このように叙述している。

 

だが、双葉町の「原発バブル」は長くは続かなかった。施設の老朽化に伴って頼りの固定資産税収は激減。期限のある交付金も減った。それでもいったんタガの緩んだ財政規律は戻らない。温水プールつき健康福祉施設などを続けて借金を膨らませ、予算も組めなくなっていた。

この状態を、経済学者諸冨徹は、「原発震災から地域再生へ」(『現代思想』2011年6月号)で、このように説明している。

こういった交付金を一度受けてしまうと、財政構造が強烈な依存型へと変わってしまうのです。強烈な依存型になるということは、二つあるのですが、交付金自体が外部から箱物投資のためにくるものですから、まずは色々な公共設備を作っていくわけです。例えばコミュニティーセンターやコンサートホールですね。どれも非常に立派で美しい建物ですが、年間数千万円の維持費がかかりますから、とても事業収入だけでペイできない。残りは全て一般会計からの持ち出しになります。こうした建物だけにとどまらず、下水道や道路建設の公共事業も一挙に進めることになります。そのことで設備水準は上がるのですが、維持管理コストも跳ね上がってしまう。
 さらに一度上げた事業水準は、収入が減ったとしても落とすことは難しいものです。維持管理費は恒常的に発生し続けますから費用の歳出構造の水準が硬直化する現象が発生します。しかし反面で、収入の方は恒常的に一定の水準を維持するわけではありません。

諸冨によると、電源交付金などは原発稼働の七年前くらいから大幅に上がるが、原発稼働後は固定資産税に置き換わる、しかし減価償却のため固定資産税は年々減額され、約10年で半分以下になってしまうとのことである。そのため、歳出構造を原発建設期もしくは建設直後にあわせると全く歳入が足らなくなってしまうというのである。

このような財政危機は、どのような形で克服がはかられるのか。次回以降のブログでみていこう。

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前回のブログにて、明治三陸津波、昭和三陸津波による鮫浦、大谷川浜、谷川浜の被災状況を記した。『牡鹿町誌』中巻(2005年)によると、昭和三陸津波の後、1933年4月10日、罹災地域の各地町村に対し、「宅地造成の高さは今回及び明治二十九年の海嘯以上となすこと」という指示を出した。高地移転を命じたといえる。罹災地には臨時海嘯地家屋復興計画委員会を設置させ、6月30日に「海嘯罹災地建築取締規則」を公布した。同規則は、第一条で、海嘯罹災地域もしくは海嘯のおそれがある地域では、知事の許可がなければ住宅建設を認めないとしている。そして、第二条で、次のように建築方法を定めている。

第二条 前条の場合住居の用に供する建物の敷地並に構造設備は左の各号に依るべし。
一、建物の敷地は安全と認められるる高さ迄地揚を為すこと。
二、建物の腰積を設け又は之に代るべき基礎を設くること。
三、建物は土台敷構造と為し、土台は前号の腰積又は基礎に緊結すること。
四、建物の土台及び敷桁の隅角には燧材を使用すること。
五、建物には適当に筋違又は方杖を設くること。
  土地の状況に依り支障無しと認むるときは前各号の制限に拘らず認可することあるべし。

敷地を高めること、基礎を強化すること、建物に筋違を入れることが決められている。単に、高さだけではなく、津波を受けても流失・全壊しない住宅を建設することが期されていたといえよう。

鮫浦・大谷川浜・谷川浜が所属していた大原村では、「総工費七万四十六円を投じて住宅復旧と、田、宅地の場合坪一円五十銭以内、畑一円以内、その他の土地は六十銭以内で購入した移転先の土地の造成を行」ったと『牡鹿町誌』中巻は記載している。昭和三陸津波で流失・全壊した住宅は、鮫浦・谷川浜に限られており、鮫浦では14戸、谷川浜では29戸が集団移転の対象となり、1935年までには完了した。つまりは、基礎自治体である大原村主体で、集団移転が実施されたのである。

具体的な集団移転については、次の二図を参照してほしい。なお、谷川浜では、「新田」地区は西側であり、その他は集落の南側に位置している。谷川浜の洞福寺住職である石田正孝が執筆したと思われるが、『牡鹿町誌』上巻(1988年)には「これによって集落は集団移動を余儀なくされ、かつては居久根や生垣に取り囲まれ、大きな納屋と門構いの家が並んでいた美しい谷川浜の姿は再び見ることはできなくなった」と記載されている。

谷川浜の集落移転(『牡鹿町誌』中巻より)

谷川浜の集落移転(『牡鹿町誌』中巻より)

鮫浦の集落移転(『牡鹿町誌』中巻より)

鮫浦の集落移転(『牡鹿町誌』中巻より)

大原村では、朝日新聞社より震災記念碑建設指定の義援金残額の一部1040円90銭を県より配分され、谷川浜、鮫浦、大谷川浜、小渕、小網倉に震災記念碑が建設された。たぶんに津波の最高到達地点に建てられ、将来にわたって津波被災を警告する意味が込められていたと思われる。

また、大原村独自で、義援金9180円を公共事業施設費として使うこととして、「震嘯災記念館」が、大原浜、谷川浜、鮫浦、小渕に建設された。『牡鹿町史』によると建設は1935年であったようである。設立目的は「記念館ハ非常災害ノ場合ニ於テハ避難場所トシ、常時ニ於テハ協同精神ニ基キ環境ノ改善近隣居住者ノ生活向上並善隣関係ノ確立ヲ図リ以テ昭和八年三月三日三陸大震嘯当時各方面ヨリ寄セラレタル芳志ニ応ズルヲ以テ目的トス」とされている。

谷川浜の記念館は、戦後一時大原中学校の分校となり、また教員住宅や医院に利用されたが、その後取り壊されて牡鹿9町公民館分館となったとのことである。鮫浦の記念館は元々あった行屋(講のためのお籠りの場)を取り壊されて立てられ、牡鹿町になって建替えられ、地区の生活センターとして使われていたとのことであった。

このように、1933年の昭和三陸津波に被災し、少なくとも鮫浦と谷川浜はかなり津波対策を実施していたといってよいであろう。集落の高地への集団移転、津波で流失・全壊しない住宅の建設、津波被災を将来にわたって警告する震災記念碑の建立、避難所であり公民館としての機能もはたす震嘯災記念館建設など、当時としては意欲的な津波対策がとられた。

この津波対策は、1960年5月24日のチリ地震津波には有効であった。この際は、鮎川浜など、牡鹿半島西側のほうが被害は大きかったが、谷川浜・鮫浦では、床下・床上浸水程度ですんだ。

しかし、今回の東日本大震災では、津波対策していた筈の鮫浦、谷川浜でも壊滅的な被害を与えた。現地に行ってみても、グーグルの航空写真をみても、平地部の家屋はほとんど流失してしまった。高地移転したはずの家屋も、避難所として機能するはずであった震嘯災記念館の後継施設も含めてである。谷川浜のかなり山際のほうにようやく少し家屋が散見できるくらいであった。昭和三陸津波では約5m程度の波高であったが、今回の津波では波高が13~14m以上ともいわれている。ある意味では、そのためであったであろう。

どのような津波対策が今後可能なのか。真の復旧とは何か。この二つの集落の津波との歴史は、そのことを考えさせるのである。

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前のブログで牡鹿半島の太平洋側に属する宮城県石巻市鮫浦・大谷川浜・谷川浜が全戸流失に近いほどの津波被害を受け、大谷川浜・谷川浜は集落組織解散の状況となっていることを述べた。

この地域は、度々津波を受けた。『牡鹿町誌』中巻(2005年)により、この地域の津波被災をみておこう。1896年6月18日の明治三陸津波の際に、鮫浦で3,1m、谷川浜で3.4mの津波を受け、鮫浦では床上浸水程度の被害ですんだが、谷川浜では死者1名、住居流失4、住居全壊2などの損害を受けた。谷川浜では翌年も津波被害を受けたという。この際、谷川浜では高台移転の話が出たが、「海岸から遠く離れた場所に移っては、職住一体の生活に不便を感ずる漁家の多くは現在地に踏み止まり」(『牡鹿町誌』中巻)とされ、結局、湯屋を営んでいた「石森氏」のみが海岸から数百m後方の、脇の入の山麓の畑を買って移転したという。

この地域では、1933年3月3日の昭和三陸津波のほうが被害は大きかった。鮫浦で4.8m、大谷川浜で5,2m、谷川浜で4.8mの津波を受けた。『牡鹿町誌』中巻では、昭和三陸津波を受けた谷川浜の景況をこのように記述している。なお、地震が起きたのは3月3日の午前2時32分であり、大体約30分後に津波が三陸沿岸を襲ったとされている。深夜であったことに留意されたい。

 

太平洋に向かってU字形の湾口を開いている鮫浦湾の湾奥にある谷川浜は、当時イワシの大漁が続き、大勢の人々が粕製造で夜遅くまで働いていた。引潮に気づいた「堤防」の老婆が、「津波だぁ、津波がくるよぅ」と叫んで知らせたが、疲れて寝入っていた人々の耳に届くのが遅かった。逃げる暇もなく四・八メートルの津波の第一波が幔幕を湾口の幅一杯に広げたようになって押し寄せ、集落の中心部を呑み込んでしまった。年寄りや子供の殆どは家の中で死んだ。湾口の幅が約九十メートルと狭い袋状の鮫浦は、これも襲い掛かった波高四・八メートルの第一波が湾内で、ぐるぐる廻って渦を巻き、引潮で家も、中にいた人も一気に湾外に運び出されてしまった。翌朝の鮫浦湾内は谷川浜に積み出されていた大量の材木と雪の積もった屋根だけの家々が漂い、海が見えない程であった。
 その当時筆者(洞福寺住職となり『牡鹿町誌』の中心的執筆者であった石田正孝)は谷川浜の洞福寺に住んでいる十二歳の小学六年生であった。足を怪我して血だらけになった同級生の土井啓之進が雪道を裸足で駆けつけ、津波の来襲を教えてくれた。「津波だ。起きろ。」と言われて私が起きた時、前夜から祖母の法要で泊まっていた大勢の人達が総出で庫裏や本堂の戸障子を開け放ち、庭に火を焚き、忙しく焚き出しの準備をしていた。海はごうごうと鳴り響き、合間に助けを求める人々の叫び声が聞こえていた。父は仙台から来ていた甥の立花親雄を連れて急いで近道の山越えして大原へ知らせに出掛けていった。後で聞くと、父の知らせが県に届いた津波第一報であったという。時がたつにつれて、亡くなった人々の死体が戸板に乗せられて運ばれてきた。畳を揚げた本堂の中は運び込まれた死体で一杯になり、廊下まで並べられていた。庭では息の絶えた娘の周りを焚き火で囲み、体を温めながら声を嗄らして娘の名前を呼ぶ老婆の声が何時までも夜空に聞こえていた。

もはや、想像力でしかこの景況は理解できないのであるが、それでもカタストロフであったことはわかる。

しかし、今回の東日本大震災における、鮫浦・大谷川浜・谷川浜の津波の高さや被災状況はよくわからないが、近くの女川原発の津波が高さ約13mであったといわれている。たぶん、昭和三陸津波の二倍以上の津波が今回は襲ったといえる。想像を絶するとはまさにこのことをさすのであろう。

この昭和三陸津波で、鮫浦では、死者19名、行方不明者17名、負傷者19名、流出住宅10戸、全壊住宅3戸の被害を出した。谷川浜では死者24名、行方不明者2名、負傷者22名、流失住宅31戸(内半流失3戸)の被害を出した。明治三陸津波では大きな被害を受けなかった大谷川浜でも床上浸水の被害を受けている。

この昭和三陸津波について、大きな被害を受けた鮫浦・谷川浜では集落の高地移転がなされている。次回以降、そのことを述べていきたい。しかし、高地移転したところも、今回の津波で被災したのである。

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