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Archive for 2011年12月

さて、東日本大震災と福島第一原発事故に対して、科学者は何ができるのだろうか。もちろん、義援金を送る、ボランティアに行くなどの直接的支援も個人としては可能である。また、例えば、脱原発デモに行くなど市民としての政治的意思表示もできるだろう。しかし、科学者の職能を生かしたこととして、どのようなことができるのか。

これは、広い意味で、「研究」(自然科学・社会科学・人文科学)に携わっている者すべての問題である。しかし、ここでは、自然科学者である児玉龍彦氏が『内部被曝の真実』(幻冬舎新書 2011年)で提示した考え方に即して検討していくことにする。

児玉龍彦氏は、東京大学医学部出身で、現在、東京大学先端科学技術研究センター教授・東京大学アイソトープ総合センター長である。福島第一原発事故後、児玉氏の言によれば法律違反を犯してまで南相馬市の放射線の測定と除染を行ってきた。そして、7月27日に衆議院の厚生労働委員会に参考人として出席し、放射線の測定や除染についての国の無策を「私は満身の怒りを表明します」と批判し、国策として、福島第一原発周辺における放射線の測定と除染を行うことを提唱した。

ここでは、児玉氏の行動の背後にある思想に注目してみたい。児玉氏は、1986年のチェルノブイリ事故の際多くみられた小児甲状腺がんについて、このように指摘する。

 

性質が特徴的である小児の甲状腺がんといっても、ウシとヒトの2段階の生物学的濃縮と、2段階の遺伝子変化を経て発症までには長い時間がかかっている。こうした場合に数万人集めて検診を行なっても、なかなか因果関係を証明できない。エビデンスが得られるのは20年経って全経過を観測できてからである。これでは患者の役には立たない(本書p83)。

今や周知である、チェルノブイリ事故による小児甲状腺がんの増加について、統計的に因果関係を証明するというエビデンスを得るのに20年もかかったというのである。そして「これでは患者の役には立たない」と児玉氏は主張するのである。

エビデンスがないということは問題がないということではない。本書の中で、児玉氏は、長崎大学名誉教授長瀧重信氏の次のような主張を引用している。

国際機関で“因果関係があると結論するにはデータが不十分である”という表現は、科学的には放射線に起因するとは認められないということである。ただし、科学的に認められないということは、あくまで認められないということで、起因しないと結論しているわけではない。(長瀧重信「私の視点 被爆者援護法 科学の限界ふまえ改正せよ」 朝日新聞2009年8月2日号 本書p84より引用)

その上で、児玉氏は、このような形で問題を把握することを主張した。

それでは、病気が実際に起こっている段階で、医療従事者はどのように健康被害を発見したらいいのか。ここで、普通で起こりえない、「肺転移を伴った甲状腺がんが小児に次から次へとみられた」という極端な、いわば終末型の変化を実感することが極めて重要になってくる。軽微な変化を多数みるのではなく、極端な現象に注意するということが警報として最も大事であろう(本書p83~84)

ここでは、上から俯瞰的に見るのではなく、現場にたち、そこでの重要な問題を考えていくことが「警報として最も大事」としている。ある意味で、場に即した「臨床」の知といえるだろう。

児玉氏は、津波被災予測問題をとりあげ「専門家とは、歴史と世界を知り、本当の危機が顕在化する前にそれを防ぐ知恵を教える人でなければならない」(本書p114~115)という。他方で、「福島にとどまって住まざるをえない人々がいる以上、その人たちのためにどのような対応を急ぐべきかが重要だ。危険だ、危険だとばかり言っていてもしかたがないのではないか。」(本書p59)という質問に対して、このように答えている。

 

危険なことがあったら、これは本当に危険だから、苦労があっても何でもやっていこうと国民に伝えるのが専門家です。みんなが専門家に聞きたいのは、何も政治家みたいに折り合いをつけることじゃない。危険を危険だとはっきり言うのが専門家なのです。
 今までの原子力学会や原子力政策のすべての失敗は、専門家が専門家の矜持を捨てたことにあります。国民に本当のことを言う前に政治家になってしまった。経済人になってしまった。これの反省なくしては、われわれ東京大学も再生はありえないし、日本の科学者の再生もありえないと思っています。(本書p61)

危険を最大限防ぐために警告するーそれこそが専門家に求められていることと児玉氏はいう。そして、そのような専門家の矜持を捨てたことが、原子力学会・原子力政策の失敗の原因であると児玉氏は指摘するのである。

そして、児玉氏は、政治・行政については、国会でこのように要望している。

 

私が一番申し上げたいのはですね、住民が戻る気になるのは、行政なり何なりが一生懸命測定して、除染している地域です。測定も除染もなければ、「安全だ」「不安だ」と言われても、信頼できるところがありません。ですから、「この数値が安全」「この数値がどう」ということではなしに、行政が仕組みを作って一生懸命測定をして、その測定に最新鋭の機械を投じて、除染に最新鋭の技術をもって、全力でやっている自治体が、一番戻るのに安心だと思います(本書p35)。

といいつつも、児玉氏にもためらいがないわけではない。7月27日に国会で話す前に、児玉氏はこのように感じていたという。

 

だが、放射線被害と、その予防について、1週間でまとめて、国会で話せる自信はなかった。間違ったことを言ってご迷惑をかけるかもしれない。専門家としての自分の評価に傷がつくかもしれない。
 ためらいがあった。(本書p115)

児玉氏は、実はかなりの葛藤を抱いていたと考えることができる。科学者としては、「間違ったこと」はいいたくない。それは「専門家としての自分の評価」ということにもかかわるのだ。例えば、チェルノブイリ事故の際の小児甲状腺がんの発生については、「エビデンス」にこだわって、放射線起源であることを科学者としてもなかなか認めなかったのは、単に、IAEAやソ連の当局者に影響されたとばかりみることはできない。実証性を重んずる科学者の特性でもある。

しかし、それは、それこそ、IAEAなどが原発事故の影響を過小評価することにも結び付いてしまうといえよう。それこそ、20年もかかって小児甲状腺がんと事故との因果関係が立証されるしかないならば、それまでの期間は原発事故の人体の影響は考慮されない。そして、それは、対策の遅れにもつながっていく。今苦しんでいる人たちにはどのような医療を施したらよいのか。このことにはだれが責任をもち、費用負担はどうするのか。因果関係が立証されるまで何もしないということは、今、目の前で苦しんでいる人たちを救わず、責任者たちの責任回避を助けることになる。

その意味で、児玉氏は、「専門家とは、歴史と世界を知り、本当の危機が顕在化する前にそれを防ぐ知恵を教える人でなければならない」というのである。とにかく、今、起ころうとする危機を直視し、それが顕在化するまでに、対処できる知識を手渡していなねばならない。それこそが「専門家」だということになる。

もちろん、例え20年かかっても、学術的に因果関係を実証することを児玉氏は忘れているわけではない。本書では、何年かかっても実証してきた人びとに対する敬意の念があふれている。臨床の場で状況を把握し対処しつつ、やはりエビデンスを求めていくということ、そのような往復関係として、児玉氏の「科学」はとらえるべきなのではなかろうか。

このような児玉氏の姿勢は、自然科学だけでなく、社会科学・人文科学においても尊重すべきものと思う。

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今まで、1950~1960年代の福島県議会において、原発問題がいかに扱われてきたのかをみてきた。

1950~1960年代の福島県議会の基調は、地域発展のため原発誘致に積極的であるというものであったといえる。しかし、すでに本ブログで述べたように、1968年の初めには、自民党の県議会議員すら、原発の危険性や経済性への懸念を口にするようになっていた。

そして、いよいよ、1968年9月30日、福島県議会で、原発誘致を批判した質問が行われるようになった。この日、社会党県議相沢金之丞(相馬郡鹿島町出身)は、社会党の代表質問の中で、このように述べた。

 

次に原子力発電所の問題であります。原子力基本法の制定によりまして、原子力の平和利用という名によって、わが国においては各地にあらゆる型の原子炉による電力開発計画が進められ、当県においても双葉地方を主体として原子力センターの設立が低開発地帯の底上げと本県産業分野の新しい開発として一石二鳥の評価のもとに着々進められております。この原子力発電所発電所設置地域ではどこでも、この未知数の原子力に大きな潜在的危機感を持っておるのであります。この潜在的危機感は原子力発電所による災害時の汚染や発生するところの事故に対してであります。原子炉は安全だともいわれております。また一方危険だともいわれております。事故が発生した場合決定的な被害をこうむることを予想するとき、住民の健康と安全を守ることが政治の本来の任務であるときに、この原子力発電所設立は単なる工場や企業の誘致と同一視し、経済的観念からのみこれをとらえるということはあまりにも近視眼的な見方であります。問題の原子炉とは膨大なエネルギー源であり、臨界量以上の核分裂性物質と大量の死の灰が共存するものであります。他に類を見ないきわめて潜在的な危険性の大きい装置であります。(『福島県議会会議録』)

このように、相沢の趣意は、原発の危険性を見据え、その上で、原発の設立を単なる工場や企業の誘致と同一視して、経済的観念からのみ把握してはいけないとするものであった。

ただ、相沢は、この時点では、「原子力の平和利用」自体の可能性は否定していない。「原子力の平和利用」を肯定しつつ、住民の健康と安全を守る措置が必要なのだというのが、相沢の立場といえよう。

かく言う論旨は、特に県内に設立される原子力発電所が平和利用である限り絶対反対するものではなく、ただ住民の健康と安全を守る、このことを政治の責任の中で一そうこれを保持するというためのわれわれの提言であります(『福島県議会会議録』)。

そして、具体的には、相沢は三点の質問をしている、第一点は、原子炉等規制法には知事の権限が認められておらず、原発の運営について自治体は発言権を有さないが、自治体の発言権を有するような立法措置を政府に働きかけるつもりはないかということである。

第二点は、原発から公害が出た場合、県の公害防止条例は適用されるのかということである。

第三点については、現在重要な問題となっているので、相沢の言葉をそのまま引用する。

 

第三点は原子力災害が異常に巨大な天災地変、あるいは社会的動乱によって生じたとき、原子力事業者は損害賠償をしなくてもよろしいという規定がありますが、条文上の判断からいっても、かなり住民への災害が予想されるのでありますが、この災害への保障はどこで行われるのか、このことをお尋ね申し上げたというふうに思うのであります。(『福島県議会会議録』)

この当時、福島第一原発一号機は建設途中であった。しかし、その際より、事故時の損害賠償はどのようにするのかが、問題になっていたのである。

この質問に対して、木村守江福島県知事は、相沢が指摘した原発の危険性についてには直接答えなかった。そして、原子炉規制法等については、関係知事と協議し、知事の発言権を確保する方向で法改正を促したいとした。また、原発が公害を起こした場合、県の公害防止条例よりも国の規制法のほうが厳しいので、県の公害防止条例が適用されることはないと答えている。

そして、原発事故の際の損害賠償について、木村守江はこのように答えている。

 

次には原子力発電所は御承知のように最大の自然災害に対しましては絶対的な安全の度を確保いたしまして、しかる後に、この建設を許可されてまいっておるのでございます。しかしながら、これは特に特異な社会騒乱、あるいはその他の異変によりまして災害が起こった場合にはこの事業主は賠償することがないということになっておりまするが、これは特異な社会的事変、その件の事変という場合にはそのほかの部分にも大きな災害も起こることでございまして、これは災害補償法第十七条におきまして、国においてこれを対処することになっておりますことを御了承を願います。(『福島県議会会議録』)

つまり、木村は、まず自然災害は起こりえないとしつつ、社会的騒乱などで災害が起きた場合は、事業主ではなく国が対処するといしているのである。

この相沢の原発誘致批判質問は、それまで誘致基調であった福島県議会における、論調の大きな変化であるといえる。「原子力の平和利用」の枠内ではあるものの、原発の危険性を指摘し、経済成長からのみ誘致を検討してはならないと相沢は主張している。その上で、自治体が原発の運営について、より発言権をもつべきとしているのである。県公害防止条例の適用問題も、このようなことが背景となっているといえる。

現在問題となっている原発災害の損害賠償についても、すでにこの時期から問題になっているのである。

そして、この演説以降、社会党議員を中心に原発批判の発言が福島県議会でぼつぼつみられるようになるのである。

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2012年1月29日(日)、下記の要領で、私が所属している東京歴史科学研究会主催で歴史科学講座「歴史学は災害にどう向き合ってきたのか」が開催されることになった。報告者の一人成田龍一氏は、近年、国民国家論の見地から近代史学史を問い直すという営為を行っている。成田氏は、「関東大震災のメタヒストリー」という論文を執筆しており、本ブログでも、

近代史研究者の成田龍一さんには「関東大震災のメタヒストリーー報道・哀話・美談―」(『思想』866号初出、1996年。『近代都市空間の文化経験』再録、2003年)という研究がある。この中で、成田さんは、関東大震災が「われわれ」の体験として語られていくという見込みの中で、まず、報道が鳥瞰的視点・虫瞰的視点を駆使しつつ「全体」を創出し、そして哀話と美談という語りによって「全体」が当事者をまきこんで共有していくと述べている(「東日本大震災の歴史的位置ー『朝日新聞』における被災地報道と原発報道との間の不協和音」 2011年3月27日)。

という形で紹介した。

他方、北原糸子氏は、近世から近現代にかけての災害・救済の問題を実証的に検討しており、さまざまなところで活躍されている。例えば、安政の大地震の際の鯰絵の流行を「災害ユートピア」的な見地から分析している。地震と「貧困」の問題に揺れ動かされた日本社会の現状をみる参考になる思われる。

ご興味のある方は、是非お出で下さい。

2011年度 東京歴史科学研究会 歴史科学講座

「歴史学は災害にどう向き合ってきたのか」

報告者:成田龍一氏
「災害史の構想力と可能性をめぐって―3.11の経験をへて」(仮)

報告者:北原糸子氏
「理系災害学と文系災害史研究」

【講座概要】
東日本大震災と原発事故は歴史学に大きな影響を与え、災害史研究に注目が集まっています。しかし、歴史学はこれまで、過去および同時代の災害にどのように向き合い、そこから歴史認識を深めるどのような学問的営みを行ってきたのでしょうか。今回の歴史科学講座は、震災を機に生じた歴史認識の変化をふまえつつ、これまでの歴史学における災害史研究のあり方について、史学史的観点から歴史学の自己点検を試みます。 成田龍一氏には史学史における災害史について、北原糸子氏には災害史研究者としての立場から、上述のテーマについてそれぞれご講演をいただきます。

【日時】2012年1月29日(日)13:00~
(戸山キャンパス正門前集合:12:45)
【会場】早稲田大学戸山キャンパス36号館681教室
【参加費】600円

※当日は入構制限のため、戸山キャンパス正門前に12:45にお集まりください。会場までご案内いたします。
遅れてご参加の方は、090-9828-1172まで当日お電話下さい。係の者がご案内に伺います。

【問い合わせ】東京歴史科学研究会 TEL/FAX 03-3949-3749
〒114-0023 東京都北区滝野川2-32-10-222(歴科協気付)
e-mail:torekiken@gmail.com  URL: http://www.torekiken.org/

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本日(2011年12月19日)、北朝鮮の金正日総書記死去のニュースにかぶり、ほとんど報道されないであろう出来事が、昼、東京の新橋駅前であった。ここで、野田首相が、街頭演説を行う予定だったのだ。

この街頭演説は、少し前から企画されていた。時事通信は、12月15日付で、次のような記事をネット配信している。そして、15~16日に、他のメディアも同様の報道を行った。

野田首相、19日に街頭演説=支持率下落を意識?
 野田佳彦首相は19日に東京都内で街頭演説を行う。消費増税を含む社会保障と税の一体改革を中心に、政権の基本方針を訴えるとみられる。選挙に関わりなく首相が街頭でマイクを握るのは異例。内閣支持率下落の理由として首相の発信不足を指摘する声があることも意識しているようだ。 
 支持率下落に関し、首相は15日付の首相官邸のブログ「官邸かわら版」で、「国民の皆さんが、野田政権に向けている視線に厳しさが増していることを感じる」と指摘。「私自身にも閣僚にも、期待に応えられていない部分がある。心を正し、改めるべき点はしっかり改め、課題に一つ一つ答えを出し、使命を果たしていくしかない」とした。(2011/12/15-21:15)http://www.jiji.com/jc/zc?k=201112/2011121501022

この報道からみると、野田首相は、内閣支持率低下にかんがみ、街頭で「消費増税を含む社会保障と税の一体改革を中心に、政権の基本方針を訴える」ことをしたかったようである。財務相就任まで、ほぼ平日はかかさず、千葉の選挙区で街頭演説をしてきたという野田首相らしい考えだといえる。

確かに、毎日街頭演説をしているのはつらいだろう。選挙期間中、立候補者が駅前で演説しているのをみたことがあるが、朝などは通勤時間で、ほぼ聞いてくれない。ほんの少しの言葉が耳に入るのもまれなくらいだ。そのような「街頭演説」を毎日にこなして、支持率をあげ、選挙戦を勝ち抜いてきた野田首相だからの発想だといえる。「異例」というが、選挙期間中でもない限り、確かに今までの首相は、街頭で演説などあまりしてこなかった。

そして、19日午前、テレビ朝日は次のような記事をネット配信した。野田首相は、「昼休みに集まる多くのサラリーマン」をターゲットとして、「消費税増税」などの世論形成をしようとしていたとテレビ朝日は観測している。

菅政権で入閣するまで20年以上にわたって、駅前での演説を日課にしていた野田総理大臣。内閣支持率が急落し、発信力不足が問われるなか、今週から消費税の議論が本格化することから、現職の総理としては異例の街頭演説を行います。「どじょう演説」でトップの座を射止めた野田総理の反転攻勢となるのでしょうか。

19日午前から、民主党議員による演説が始まっています。オフィス街の新橋で、野田総理がターゲットにしているのは昼休みで集まる多くのサラリーマンです。この後、現職総理として選挙遊説以外では異例の街頭演説を行います。国会や記者会見でも主張してきた消費税増税の必要性などについて世論の支持を得ようと、今度は得意の街頭演説で直接国民に訴える作戦です。消費税増税をめぐっては、民主党幹部からは「まとまらなければ年明けに先送りもあり得る」との声が強くなっています。世論に訴えながら、何とか年内にまとめたい野田総理とのせめぎ合いが激しくなっています。
http://news.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/211219013.html

新橋駅前で演説する民主党の議員たち(2011年12月19日撮影)

新橋駅前で演説する民主党の議員たち(2011年12月19日撮影)

たまたま、時間があいたので、私も、演説会場にいってみた。新橋駅前のSL広場で行われていたのだが、それほど広い広場ではない。そこが全体的にうまっていたとはいえる。しかし、「サラリーマン」が多く集まっていたか。もちろん、いないわけではない。しかし、そこで目立つのは、「民主党政権退陣」の横断幕やプラカードだった。

どのような人びとによって、そのような横断幕はかかげられたのか。横断幕やプラカードをみていただけではわからなかった。ただ、それらに加えて、日の丸が打ち振られ、「売国奴」みたいに民主党政権を批判する声がずっとあげられていたので、右翼的な人びとがいたことは確かである。

新橋演説会場で広げられる日の丸(2011年12月11日撮影)

新橋演説会場で広げられる日の丸(2011年12月11日撮影)

右翼的な人びとが、TPP他いろんな意味で民主党政権に対して批判的になっていることは承知していた。彼らが抗議にくることは理解できる。ただ、これは、全く気分の問題でしかないが、現職首相を「歓迎」するのではなく、「抗議」するという意味で、日の丸が振り回されてことには、結構驚いた。

そのうち、演説を行っていた宣伝カーの上で動きがあった。現職閣僚である蓮舫が宣伝カーから去った。そして、残った議員より、北朝鮮の金正日総書記が死去し、安全保障会議が開催されることになったので、演説会に向っていた野田首相は、急遽官邸に引き返したと発表があった(後で、テレビでみてみると、この発表がひどいもので、「韓国の」とか「金正日主席」といっていた。それだけ混乱しているのである。)

そうなると、俄然、会場全体が騒然となった。実は、宣伝カー一番近いところに陣取った人びとの多くは「脱原発」グループだったのだ。「脱原発」のプラカードが急遽とりだされ、多くの人が頭上でうちふった。そして、「脱原発デモ」でよくいわれる「原発いらない」などの掛け声がそれぞれ発せられたのである。

「脱原発」プラカード(2011年12月19日撮影)

「脱原発」プラカード(2011年12月19日撮影)

脱原発のプラカードに直面する民主党議員たち(2011年12月19日撮影)

脱原発のプラカードに直面する民主党議員たち(2011年12月19日撮影)

蓮舫などの「前座」が演説していた際には、比較的静かであった。たぶんに、野田首相の演説時に出して、最大の効果をあげようとした戦術だったと考えられる。

一方、「脱原発」グループの存在に気づいた右翼的な人びとは、今度は、「脱原発」グループに攻撃対象をかえた。「おまえたちこそいらない」「脱原発では不景気になる!」などなど。そして、対抗して「日の丸」が振り回された。最後までみなかったのだが、「脱原発」グループへの対抗の場にもなったといえる。

とにかく、野田首相が世論形成をしようとした新橋の演説会場は、「脱原発」グループと右翼的な人びとが野田政権への抗議の意をアピールする場になったのである。

私は、こう思う。「こんなの当たり前ではないか。TPPにせよ、福島第一原発事故収束宣言にせよ、許せないという人はたくさんいる。右にせよ左にせよデモが増えている中、抗議に来る人がいることは予測できたはずだ」と。

しかし、野田首相サイドは、そう思わなかったようだ。それこそ、3.11以前の選挙の経験則を振り回して、街頭演説で増税を誠実に主張すれば、世論形成できると思っていたようだ。確かに、自民党も民主党も政策的にはそれほど違いがなく、その中で選挙戦で勝ち抜くのは、利益でなければ人柄・雄弁であったのかもしれない。しかし、今や、そのことは通用しないのだ。ある意味では、「選挙」ではなく、直接的な意思表示が意味をなす時代への転換への第一歩をなす出来事だったのかもしれない。

今後、野田は街頭演説を続けるのだろうか。そして、そのたびに抗議行動が続けられるのであろうか。注視していきたいと思う。

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2011年12月16日、野田首相は「原子炉冷温停止」になったということで、「福島第一原発事故収束」宣言をした。大体、その過程は、新聞・テレビなどで伝えられており、周知のことと思うが、「最近、ニュースをみるのがたまらん」ということで、ニュースを見たくなくなる病気にかかっている方(私のような)もいると思うので、とりあえず、17日に配信された時事通信のネット記事を引用しておこう。

野田首相、事故収束を宣言=「冷温停止状態」達成-避難区域見直しへ-福島原発

 東京電力福島第1原発事故で、政府は16日、原子力災害対策本部(本部長・野田佳彦首相)の会議を首相官邸で開き、原子炉が安定した「冷温停止状態」が実現し、事故収束に向けた工程表「ステップ2」が完了したと確認した。野田首相は「原子炉は冷温停止状態に至った。不測の事態が発生しても敷地境界の被ばく線量は十分に低い状態を維持できる。発電所の事故そのものは収束に至ったと判断した。早く帰還できるよう政府一丸となって取り組む」と宣言した。
 同原発では3基の原子炉が炉心溶融(メルトダウン)を起こし、溶けた核燃料の状況が確認できない上、放射性物質の外部放出も完全に止まっていない。避難した住民の帰還のめども立っておらず、反発を呼びそうだ。
 宣言を受け、政府は同原発から半径20キロ圏内の警戒区域と、年間放射線量が20ミリシーベルトを超える計画的避難区域を、新たに三つに再編する検討に入った。
 近い将来の帰宅が可能な「解除準備区域」(年間線量20ミリシーベルト未満)、数年間居住が難しい「居住制限区域」(同20ミリシーベルト以上~50ミリシーベルト未満)、数十年間帰宅できない可能性がある「帰還困難区域」(同50ミリシーベルト以上)とする方向で調整している。細野豪志原発事故担当相らが18日、福島市を訪れ、県知事や関係市町村長と意見交換する。(2011/12/16-21:27)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&rel=j7&k=2011121600622

この「事故収束宣言」については、いろいろいいたいこともある。しかし、ここでは、主要な東京の新聞が17日の社説でどのように評価したのかみておこう。

まず、かなり高く評価したのは読売新聞である。

「事故収束」宣言 完全封じ込めへ全力を挙げよ(12月17日付・読売社説)

 野田首相が、東京電力福島第一原子力発電所の「事故収束」を宣言した。発生から9か月、ようやく応急措置を終えたということだろう。
 新段階への移行を国内外に発信する意義は大きい。
 壊れた炉心は、冷却水を浄化しながら循環注水し、100度以下の冷温停止の状態に維持している。多量の放射性物質が漏れ出す可能性は小さいという。
 だが、首相が「原発事故との戦いがすべて終わったわけではない」と言う通り、課題は多い。
 汚染地域の除染、住民の健康管理、賠償の三つを首相が挙げたのも妥当な認識だ。「力こぶを入れて解決を急ぐ」との決意を実行に移してもらいたい。
 政府は今後、原発周辺などに設けた住民の避難地域を再編する。住民が安心して故郷へ戻れる体制を早急に築きたい。
 原案では、放射能汚染の程度ごとに避難地域を三つに区分する。このうち年間に浴びる放射線量が最大でも20ミリ・シーベルトの地域は、電気や水道などが復旧すれば帰宅できる「解除準備区域」とした。
 さらに20~50ミリ・シーベルトは「居住制限区域」、50ミリ・シーベルト超は「長期帰還困難区域」に指定する。
 政府は、除染の取り組みと同時に、汚染状況を踏まえ、地元自治体と協議しつつ、区域指定を急がねばならない。
 帰宅の可否を「20ミリ・シーベルト」で分けたのは、これを下回れば発がんリスクは十分低い、との判断からだ。他の発がん要因としては、例えば肥満も、200~500ミリ・シーベルトの被ばくリスクに相当する。
 細野原発相が設けた「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」の議論で得られた知見を踏まえている。
 政府は、この「20ミリ・シーベルト」についても、除染により1~2年で10、さらに5、1ミリ・シーベルト以下へと段階を踏んで軽減させる方針だ。時間をかけて環境を修復するという、現実を踏まえた対応だろう。
 今後は、原発の廃止という30~40年に及ぶ難事業への取り組みが本格化するが、壊れた原発内に残る使用済み核燃料の取り出し、炉心や施設の解体などには高度な技術が要る。
 原子炉内の状況把握も、放射能汚染がひどく難航している。
 すでに、炉心の冷却などで出た汚染水の保管場所が来春までに満杯になる、と懸念されている。対策の見通しは立っていない。
 政府、東電は、長期の安全維持に一層気を引き締めるべきだ。
(2011年12月17日01時31分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20111216-OYT1T01301.htm

読売新聞の社説では、冒頭から「野田首相が、東京電力福島第一原子力発電所の「事故収束」を宣言した。発生から9か月、ようやく応急措置を終えたということだろう。 新段階への移行を国内外に発信する意義は大きい。」と「事故収束宣言」を評価している。そして、原子炉自体が壊れており、冷温停止状態自体が不明であるということはふれていない。しかし、社説の中身をみると、「課題山積」という状態で、実は、後述する批判的な他紙の社説とはそれほどかわらない。ただ、住民帰宅の可否を20ミリシーベルトとしたことを当面妥当としていることは、本紙の特徴ではある。

読売新聞と同様に評価が高いのは産経新聞である。

冷温停止状態 長期戦への覚悟を新たに

2011.12.17 03:43 (1/2ページ)[主張]

 福島第1原子力発電所の事故について、野田佳彦首相は原子炉が「冷温停止状態」に達したとして、事故の収束に向けた工程表の第2ステップの完了を宣言した。大震災で大破した原子炉が、初期の危険な状態から脱したことを意味する大きな節目である。
 来年1月を当初の達成目標としていた第2ステップが、現場関係者らの努力で年内に実現したことを評価したい。放射線による犠牲者を1人も出さずに、重大事故後の原発を安定化させたことは、チェルノブイリ事故と比較しても特筆に値する。
 ただし、冷温停止状態になったことで事故との戦いが一気に終結に近づくわけではない。廃炉までには最長で40年という長い時間を要する。世界に前例のない複数炉の事故を安全かつ確実に処理することは日本の責務だ。政府や関係自治体、周辺住民と国民がそれぞれの立場で、長期戦に取り組む覚悟を新たにすることが必要だ。
 冷温停止は、原子炉圧力容器底部の温度が100度以下に保たれ、放射性物質の新たな放出が抑制・管理されている状態を指す。本来は正常な原子炉の安定状態を指す概念だ。
 福島第1原発の場合は、大津波による全電源喪失で炉心溶融を起こし圧力容器の底に穴が開いた。損傷に伴う発熱は抑えられたとはいえ、正確な状態すらまだ把握されていないのが現状だ。冷温停止に「状態」の2文字が付け加えられているのは、このためだ。
野田首相は「廃炉と被災者の生活再建に一丸となって取り組む」としており、政府は事故に伴って設定した警戒区域、計画的避難区域の見直しを本格化させる。
 低レベル放射線の健康影響を検討してきた内閣府の作業部会は、避難区域設定基準とした年間20ミリシーベルトを「適切」とする見解をまとめた。避難住民の帰宅や除染作業も年間20ミリシーベルト以下が目安となる。
 除染に伴う廃棄物をどこでどう処理するかなど、難しい課題は山積している。原発周辺の沿岸地域は瓦礫(がれき)撤去が他の被災地に比べて大幅に遅れている。住民が元の暮らしを取り戻せるよう、迅速なインフラ整備が必要だ。
 風評被害などが被災者の生活再建を妨げることは、今後はあってはならない。政府や東京電力には国内と世界に向けての適正な情報発信が求められる。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111217/dst11121703240002-n1.htm

冒頭から「福島第1原子力発電所の事故について、野田佳彦首相は原子炉が「冷温停止状態」に達したとして、事故の収束に向けた工程表の第2ステップの完了を宣言した。大震災で大破した原子炉が、初期の危険な状態から脱したことを意味する大きな節目である。」と高い評価である。チェルノブイリと比べても高い評価を下せると同紙は主張している。そして、やはり、20ミリシーベルトを帰宅の可否としていることにも注目されたい。さらに、「風評被害などが被災者の生活再建を妨げることは、今後はあってはならない。政府や東京電力には国内と世界に向けての適正な情報発信が求められる。」とあり、放射線被曝ではなく「風評被害」を懸念しているのである。ただ、それでも、真に「冷温停止状態」が達成されたのかについては、疑問を抱いているのだが。

この両紙の社説は、「事故収束宣言」を評価している。そして、住民の帰宅の可否を20ミリシーベルトとしていることを「適切」としている点でも共通性があるといえる。

「福島第一原発事故収束宣言」について、疑問をなげかけているのは、17日の毎日新聞である。

社説:冷温停止宣言 収束の正念場これから

 世界に類のない重大事故発生から9カ月。政府が冷温停止状態を宣言したことで東京電力福島第1原発の事故対策が大きな節目を迎えた。
 原子炉の安定した制御は人々が待ち望んできたものだ。しかし、その実態は危ういバランスの上に乗ったものであり、本当の収束からはほど遠い。
 一方で、周辺住民の生活の立て直しは待ったなしの危機的状況にある。政府は、今回の政治的な宣言を機に、事故の真の収束と地域の復興の両方に、新たな覚悟を持って臨んでもらいたい。
 原子炉の状態は事故当初に比べれば確かに落ち着いている。しかし、冷温停止は健全な炉の停止状態を示すものだ。3基の炉心が溶融した重大事故の収束をこの言葉で測ろうとすること自体に大きな疑問がある。
 むしろ、今後、爆発現象や再臨界などの恐れがなくなったのかどうかを丁寧に説明すべきではないか。
 シミュレーションによると燃料は溶けて格納容器内に落下し床のコンクリートを侵食している。東電は落下した燃料も水で冷やされているとの見方を示しているが、推測に過ぎない。今後、燃料の正確な状態を把握していく努力がいる。
 原子炉建屋を覆うカバーもまだ1号機にしか設置されていない。他の原子炉への設置も急ぐべきだ。循環注水冷却系も急ごしらえのままで、汚染水の漏えいには十分な注意を払う必要がある。
 汚染水の処理にも不安がある。原子炉建屋には大量の地下水が流れこみ汚染水の増加につながっている。できるだけ早く手を打つべきだ。
 原発の安定を保つさまざまな設備について東電は3年程度の安全確保の方策も示している。国もお墨付きを与えているが、二重三重の安全装置が一気に吹き飛んだのが今回の原発事故である。二の舞いとならないよう対策には念を入れてほしい。
 今回の宣言を踏まえ、政府は近く警戒区域と計画的避難区域を3区域に再編するとみられる。線量の低い地域でも住民の帰還には除染や健康管理の徹底が大前提となるが、それだけではすまない。
 農業を営む人が多い地域だけに、生活基盤の立て直しとセットでなければ帰還は難しい。野田佳彦首相は土地の買い上げにも言及しているが、長期に帰還が困難な地域にどう対処していくかは政治がかつて直面したことの無い難題となる。
 政府は来年の通常国会に福島の復興に向けた特別措置法案を提出する。住民の声を最大限に尊重しつつ、福島の復興を長期的視点で具体化する。まだ終わりの見えない事故収束に向けた国の重い責務である。
 http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20111217k0000m070113000c.html

毎日新聞は「政治的宣言」とし、実質的な「冷温停止状態」になったことには疑問を呈している。「今後、爆発現象や再臨界などの恐れがなくなったのかどうかを丁寧に説明すべきではないか」ということが、毎日新聞の主張といえる。ただ、一方的な批判に終わらなかったのは、「一方で、周辺住民の生活の立て直しは待ったなしの危機的状況にある。政府は、今回の政治的な宣言を機に、事故の真の収束と地域の復興の両方に、新たな覚悟を持って臨んでもらいたい。」というためではないかと思われる。なお、ここでは紹介できなかったが、日本経済新聞も収束宣言には疑問をなげかけた社説を掲載している。

一方、朝日新聞は、はっきりと「収束宣言」を批判した。

原発事故―「収束」宣言は早すぎる

 野田首相がきのう、記者会見で福島第一原発事故の「収束」を内外に宣言した。
 周辺の人々が避難生活を強いられていることや、本格的な除染などの課題が山積していることに触れ、事故炉に絞った「収束」だと強調した。
 だが、そうだとしても、この時点で「収束」という言葉を用いたことは早すぎる。
 いまは、急ごしらえの装置で水を循環させて炉の温度をなんとか抑えているだけだ。事故炉の中心部は直接、見られない。中のようすは、計測器の数値で推測するしかない。
 これでは、発生時からの危機的状況を脱したとは言えても、「事故の収束」だと胸を張る根拠は乏しい。
 そもそも、今回は炉が「冷温停止状態」になったと発表するとみられていた。首相が、この年内達成に努めることを国際社会に公言していたからだ。
 だが、それは事故収束に向けた工程表のステップ2の完了にすぎない。あくまで途中経過であり、過大にみてはいけない。
 「冷温停止状態」という見立てそのものにも、さまざまな議論がある。
 政府の定義では、圧力容器底部の温度が100度以下になり、大気への放射能漏れも大幅に抑えられたことをいう。
 だが、東京電力が先月公表した1号機の解析結果で、圧力容器の底が抜け、ほとんどの燃料が容器外へ落ち、格納容器を傷つけたらしいとわかっている。
 いまなお混沌(こんとん)とした炉内で、再臨界の恐れはないのか。巨大な地震に耐えられるのか。こうした懸念をぬぐい去ったとき、初めて「収束」といえる。
 敷地内の作業員らが日夜、危険な仕事を続けたことで、事故処理が進んだのは紛れもない事実だ。その結果、安定した冷却が続いているのなら、そのことを過不足なく説明すればよい。そのうえで「少しずつ前へ進もう」というメッセージを発信すれば十分なはずだ。
 「収束」という踏み込んだ表現で安全性をアピールし、風評被害の防止につなげたいという判断があったのかもしれない。しかし、問題は実態であり、言葉で取り繕うことは、かえって内外の信を失いかねない。
 いま政府がすべきは、原発の状況をにらみながら、きめ細かく周辺地域の除染をしつつ、人々の生活再建策を積極的に進めることだ。
 国民を惑わせることなく、厳しい現実をそのまま伝え、国民とともに事態の打開を図る。それが首相の仕事だ。
http://www.asahi.com/paper/editorial20111217.html#Edit1

この時点で「収束宣言」は早すぎるというのが朝日の主張である。まず、この時点で発するのは原子炉が「冷温停止状態」ということを宣言するだけでなかったのかと朝日は主張する。さらに、原子炉が壊れ、内部を直接確認できない状態において「冷温停止状態」といいきることも無理があるというのである。「安定した冷却が続いているのなら、そのことを過不足なく説明すればよい。そのうえで『少しずつ前へ進もう』というメッセージを発信すれば十分なはずだ」と朝日はいうのである。

その上で、「 『収束』という踏み込んだ表現で安全性をアピールし、風評被害の防止につなげたいという判断があったのかもしれない。しかし、問題は実態であり、言葉で取り繕うことは、かえって内外の信を失いかねない。」と述べている。この評価は、実は野田首相の「善意」を強調することになっていることに注目されたい。朝日新聞は、現時点では「事故収束」も「冷温停止状態」も主張できないことを強く批判ししている。しかし、野田首相の政治姿勢まで踏み込んで批判していないことに注目されたい。

東京新聞は、野田首相の政治姿勢にまで踏み込んで批判している。

事故収束宣言 幕引きとはあきれ返る

2011年12月17日

 福島第一原発の「事故収束」を野田佳彦首相が宣言した。放射性物質の放出や汚染水の懸念も残り、絶対安全の保証はどこにもない。廃炉までの長き道のりを考えれば、幕引きとはあきれ返る。
 「原子炉は冷温停止状態に達し、事故そのものが収束に至った」と述べた野田首相の言葉に誰もが耳を疑ったことだろう。
 原発建屋内ではいまだに高い放射線量が計測され、人が立ち入れない場所もある。さっそく現場作業員から「政府はウソばかり」と批判の声が上がったほどだ。
 そもそも「冷温停止」という言葉は正常運転する原発で用いられる。「状態」というあいまいな文字を付けて宣言にこだわる姿勢は、幕引きありきの政治的な思惑からだろう。
 廃炉へ進める節目とすることや、「いつ戻れるのか」という避難住民を少しでも安心させようという狙いがあろう。全国の原発の再稼働はむろん、世界へ原発輸出を進める底意もうかがえる。
 だが、福島第一原発は「収束」どころか、溶け出した核燃料が格納容器内でどうなっているかもつかめず、ただ水を注ぎ込み、冷却しているにすぎない。
 循環注水冷却システムが正常に機能すればいいが、大きな地震が襲えば、再び不安定化する心配はつきまとう。綱渡り状態なのが現状ではなかろうか。
 放射能汚染水処理も難題だ。建屋への一日四百トンもの地下水流入は続いており、保管タンクはいずれ満杯になる。むろん海への放出など、漁業者や国際的反発などから安易に考えるべきでない。
 廃炉となると、核燃料取り出しに「十年以内」、炉の解体など最終的に「三十年以上」かかる見通しだ。その過程で放射能漏れなどの事故が起きる可能性もある。要するに課題山積なのだ。
 原発から半径二十キロ圏内の警戒区域と北西に延びる計画的避難区域を新たに三つの区域に再編する予定だ。年間放射線量が二〇ミリシーベルト未満を「解除準備区域」、二〇ミリシーベルトから五〇ミリシーベルトを「居住制限区域」、五〇ミリシーベルト以上を「長期帰還困難区域」に分ける。
 「解除準備区域」では除染とともに住民が戻れるようにするというが、子育て世代が安心して帰還できるだろうか。社会インフラの機能回復も見通せないままだ。
 収束宣言の内実は、原発事故の未知領域に足を踏み入れる「幕開け」といった方がいい。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2011121702000054.html

社説の最初のほうから、「廃炉までの長き道のりを考えれば、幕引きとはあきれ返る。 『原子炉は冷温停止状態に達し、事故そのものが収束に至った』と述べた野田首相の言葉に誰もが耳を疑ったことだろう。」とある。そもそも、このような宣言を出したことを批判している。さらに、現場の作業員の言葉をかりて「「政府はウソばかり」とまでいっているのである。

そして、このような宣言について「幕引きありきの政治的思惑だろう」という。加えて、東京新聞では、「廃炉へ進める節目とすることや、『いつ戻れるのか』という避難住民を少しでも安心させようという狙いがあろう。全国の原発の再稼働はむろん、世界へ原発輸出を進める底意もうかがえる。」とあり、原発再稼働や原発輸出を進める上での布石としての「事故収束宣言」であると指摘している。つまりは、野田首相の政治姿勢も含めて、批判しているといえるのだ。

東京新聞では、特に20ミリシーベルトを住民帰宅の可否にすることについて、「除染とともに住民が戻れるようにするというが、子育て世代が安心して帰還できるだろうか。」と疑問をなげかけている。この視点は、20ミリシーベルトを適切とする読売新聞や産経新聞と著しく相違した見解である。そして、この視点は、毎日や朝日にもない視点である。

以上のように、野田首相の「事故収束宣言」に対する東京の主要新聞の対応は、大体三種にわけることができるといえる。「評価」するー実は課題山積なのだがーのが読売新聞・産経新聞、「疑問」とするのが毎日新聞とここでは紹介できなかったが日本経済新聞、批判するのが朝日新聞と東京新聞なのである。読売新聞は正力松太郎以来の原子力推進派であり、産経新聞もある意味では右派的といわれるので、この宣言が、いわゆる「右派的」な新聞に評価される傾向にあることはいなめないと思う。そして、「宣言」を評価するということは、住民帰宅の可否を20ミリシーベルトとすることを認めることにもつながっているのである。

他方で、この宣言に疑問を抱いたり、批判したりする新聞が多かったことにも注目したい。つまり、そもそも「冷温停止状態」といえるのか、「事故収束宣言」といえるのか、それが、読売新聞・産経新聞を除いた、東京の新聞の多数の声であったといえる。

ただ、野田首相の政治姿勢を批判したのが、東京新聞ただ一つであることも忘れてはならないだろう。さらに、東京新聞は住民帰宅の可否を20ミリシーベルトとすることを批判している。最近、脱原発の論調をとることが多い東京新聞ならではの社説といえる。しかし、このような論調が他紙にはー批判している朝日新聞も含めてーみられないことにも注目しなくてはならないと思う。これらのことを注意して、今後の原発に対する論調をみていかねばならないだろうと思う。

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1、はじめにー問題の所在
福島第一原発事故を考えた時、いつも頭から離れないことの一つに、地元福島県に電力が供給しない東京電力が設置したということがある。もちろん、福島県の地元に供給していたとしても、事故の悲惨さは変わらないとはいえるのだが。しかし、やはり、不条理である。

といっても、基本的に、原発の生産した電力は、地元ではなく、遠隔の都市部で使われることがほとんどである。そもそも、原発は人口の少ない過疎地に多くは建設される。東海村のような例外は別として、原発自体はそれほど関連企業を吸引する存在ではない。例え、個々の電力会社の営業範囲に原発が立地していたとしても、原発の生産した電力は、大都市部のような電力消費地に送電され、そこで多くが消費される。

しかし、それで、原発が立地している地域が納得したかということは別である。何よりも問題であることは、原発の安全性である。さらに、原発が立地することによって、地域開発にどのような貢献があるのか。そのことは福島県議会でも重大な問題であった。

本ブログでは、これまで、1950~1960年代中葉までの福島県議会において、原発誘致について、日本社会党所属議員も含めて、ほとんど批判がなく、佐藤善一郎や木村守江などの歴代知事たちの、双葉地域を中心とする地域開発―地域工業化の核としての原発建設という論理にのった形で、誘致をおおむね評価する姿勢でいたことを述べてきた。

しかし、1960年末から1970年代初めにおいて福島県議会では、原発建設の問題性が追求されるようになった。ここから、しばらく、この時期の福島県議会における原発問題の論議をみていくことにする。

2、木村守江福島県知事による福島第二原発、浪江・小高原発建設計画の表明
福島県議会における原発問題の論戦の発火点となったのは、1968年1月4日に、木村守江が発表した福島第二原発、浪江・小高原発の誘致計画であった。

福島第二原発の建設反対運動については、本ブログでも、鎌田慧『日本の原発地帯』(1988年)などに依拠しながら、「福島第二原発建設に部落総会で反対した富岡町毛萱の人々ー東日本大震災の歴史的位置」(2011年6月2日)などでみてきた。また、いまだ計画中の浪江・小高原発の反対運動については、恩田勝亘『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』(1991年)が詳細に叙述している。福島第一原発誘致時とかなり違う点の一つとしては、地元に明確な反対運動があるかないかということが、これらの原発についてはあげられよう。そのことを念頭におきつつ、福島県議会の状況をみておくことにする。

1968年1月4日に発表された原発誘致方針は、同年2月14日に行われた福島県議会における木村守江の施政方針演説にもとりいれられた。木村は、1968年度の施策の中心として「南東北工業地帯の造成」「あしたの道路の建設」「住みよい都市の建設」「明るい農村の建設」「教育の振興」の五点をあげた。ある意味で、1960年代を象徴する、「開発」志向がそこにあらわれているといえる。

原発建設について、木村守江は「南東北工業地帯の造成」のなかでふれている。少々長いが、会議録の中から、その部分を引用しておこう。

まずその第一は、南東北工業地帯の造成であります。最近における企業の立地状況を見まするときに、常磐・郡山地区、あるいは県北地区のみならず、会津、県南、相双の各地区にも多数の企業が誘致されており、これらを拠点といたしまして、県内各地区相互の有機的関連をはかりつつ工業化を促進するとともに、公害防止などについて企業の社会的責任を高め、もって一体として南東北における理想的な工業地帯を造成しようとするものであります。そのため、一つには化学コンビナートをはじめとする近代的企業の誘致促進をはかり、二つには最近における企業立地の状況にかんがみ、県内各地区において積極的な工業用地造成を行ない、三つには小名浜港について、新港湾整備五カ年計画に基づき四号埠頭の建設などその画期的な整備を行ない、四つには現在建設中の東京電力原子力発電所に加えまして、今後二大原子力発電施設をはじめ、重油専焼火力発電所、石炭専焼火力発電所の建設によりまして、あわせて将来におきましては二千万キロワットに及ぶエネルギー供給基地を造成することであります。特に本年は原子力発電所、石炭専焼火力発電所の建設に意欲的に取り組む考え方であります。さらには、水資源総合開発基本計画を策定するとともに、猪苗代湖の総合開発をはじめ、特定地域の利水対策の推進をはかろうとするものであります。また、労働力の確保のため、新規学卒者の県内就職を促進し、職業訓練施設の整備を行なうなど、これらによりまして南東北工業地帯の造成に資せんとするものであります。(『福島県議会会議録』 国立国会図書館所蔵)

とにかく、野心的な計画である。常磐や郡山などの既存の工業地帯だけでなく、ある意味で、福島全県を「南東北工業地帯」として開発をすすめることとし、県内各地で工業団地造成をすすめていくというものなのである。その中で、原発を中心とした発電所建設は、重点目標なのであった。福島民報などには、1月4日に木村知事が福島第二原発、浪江・小高原発の誘致計画発表の記事が掲載されているが、そこでも「南東北工業地帯」造成が主張されている。木村は、この年知事選を迎えるが、そのための選挙公約としての意味もあるといえる。

しかし、それまでの原発において目標とされた双葉地域の開発とはイメージが違っていることに注目しておきたい。地域開発は、全県におよぶものとされるとともに、発電所建設は「エネルギー供給基地」造成のためのものとされたのである。元々、建前では、原発の電力を使って立地地域それ自体の工業化をはかることが目的とされていた。ここでは、原発立地地域は、ただの「エネルギー供給基地」になるのである。福島全県が「南東北工業地帯」となるのだが、その中で、原発が立地している双葉地域は、特別な便宜をはかるべき対象ではなくなるのである。

3、原発誘致に懸念を示す自由民主党議員鈴木正一
さて、このような木村の方針は、どのように福島県議会では受け取られたのであろうか。実は、かなり微妙な対応が、木村の与党である自由民主党の議員からもみられたのである。2月21日、自民党の鈴木正一(信夫郡選出)が県議会で代表質問を行った。鈴木は、木村の功績の一つとして「原子力発電所の建設」をあげている。さらに、鈴木は、このように木村県政を評価した。

県土を開発して産業基盤の整備と近代化をはかり、県民の富を増大して県民生活の向上を期するための基本方針として、今回南東北工業地帯の造成、あるいは住みよい都市の建設、あるいは明るい農村の建設を打ち出されましたことは、まことに力強い施策であります(『福島県議会会議録』 国立国会図書館所蔵)。

加えて、鈴木は、京浜・京阪神に比肩する一大工業地帯の形成をめざすものとして、「南東北工業地帯」造成をたたえたのであった。そして、質問の最後のほうで、木村知事に知事選出馬を促している。

だが、鈴木は、「南東北工業地帯」について、部分的には懸念も表明している。

しかしながら、南東北工業地帯造成の推進に当たり、ややもすれば常磐・郡山地区を中心とする新産業都市建設に重点が注がれ、県内各地域の均衡ある工業開発がおくれをとるような事態が生じないよう十分な配慮がなされるべきであると考えられるのでありますが、これが方策をお聞きしたいのであります。
 また工業開発に伴いまして、とかく発生しがちな公害の問題につきましては、快適な県民生活を守るという立場でこれを完全に防止する必要があると思うのでありますが、従来のような後手後手に回りがちな公害防止対策ではなく、これを未然に防止するような具体的な方策を立てるべきだと思うのであります。
 また電力供給基地の中核となる原子力発電所の建設につきましては、その安全性について一部に危惧の念があるようでありますが、これらの不安を解消するためにもこの本会議場において確信のほどを明確にされることを望むものであります。
 なお原子力発電所につきましては、これに関連する企業が少ないのではないかと聞いているのでありますが、この発電所が真に本県の開発に役立つものであるかどうか。この点についてもあわせて明確にされたいと思うのであります(『福島県議会会議録』 国立国会図書館所蔵)。

つまりは、まず、「南東北工業地帯」造成ということで、逆に新産業都市の常磐・郡山だけの開発にならないようにと指摘している。そして、公害についても、未然に防止することが必要であるとしている。

さらに、原発については、安全性に不安があることが指摘されている。加えて、原発は関連企業誘致の波及効果がないことが論じられている。自民党の鈴木にとっても「原発は安全か」「この発電所が真に本県の開発に役立つものであるかどうか」は、疑問になってきたのである。

もちろん、鈴木が、木村知事のいう「南東北工業地帯」造成に賛成であることは確認しておかねばならない。その意味で、究極的には原発建設を容認していたといえる。しかし、それでも、原発がかかえている問題にふれざるをえなかったのである

これまで、自民党議員はおろか社会党議員も含めて、原発建設に懸念を示すということはなかった。原発は安全か。原発建設は立地する地域社会の開発に貢献するのか。公害や、県内における地域開発の落差も含めて、原発がかかえている問題を、自民党議員すら気づくようになったのである。これは、まさしく、1950~1960年代中葉までの福島県議会の認識とは大きく異なっているのである。

4、今後の展望
自民党議員すら原発に懸念を表明するようになったことをここでは述べた。もう少したつと日本社会党の議員たちが、原発建設を批判するようになってくる。特に、このブログではなんども触れたが、1971年に福島県議会に初当選する岩本忠夫(双葉郡選出)は、その急先鋒であった。
 しかし、自民党議員たちも、実は1960年末から1970年代初めにかけて、原発建設には賛成しつつも、原発の安全性などを議会における質問項目に加えていたのである。ある意味で、原発が建設されている地域社会において反対運動がおきていたことと照応するのであろう。もちろん、自民党議員は反対運動を代表するわけではなく、むしろそれを抑圧し、原発を推進する側にいた。しかし、反対運動が提起した原発の問題性を考えようとする意識は、自民党の県議すら共有することになったといえる。ここに、原発問題への意識における転換の始まりを読み取れよう。原発の安全性、さらに原発は地域社会の開発に貢献するのか。それは、推進側の自民党議員すら目をそらすことができなくなった問いなのであった。
そして、社会党議員が中心に指摘し、自民党議員すら感じていた原発の問題性について、次回以降より詳しくみていくことにする。

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2011年12月10日、専修大学で開催された「同時代史学会」2011年度大会において行われた、政治学者加藤哲郎氏の報告「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」を聞いた。ここで、その内容を簡単に紹介しておこう。なお、報告の論点は、日本政府の原子力開発政策の特質や、受け入れた日本民衆のあり方など多岐にわたっており、すべてを提示することはできない。ここでは、主要な内容と思われるものを、自分の能力の限りでアレンジしていることをことわっておかねばならない。

加藤哲郎氏は、なぜ、日本のマルクス主義者から高木仁三郎・小出裕章のような脱原発論者が生まれてこなかったと問いかけた。加藤氏は、とりあえず日本マルクス主義について、もっとも狭義に日本共産党に限定しつつ、日本共産党が社会主義における核開発を肯定していたと述べた。特に、日本共産党が社会主義における核開発を肯定する上でキーマンー「伝道師」とすら表現されているーとなったのが武谷三男であると加藤氏は主張した。終戦直後の武谷は、例えば「原子爆弾は、原子力を利用したものであるが、それが平和のきっかけをつくってくれた」と、反ファッショ技術として原爆開発を肯定するとともに、「原子力を利用すれば、シベリアのひろい野原や砂漠のまんなか、大洋のなかの島々のように、動力源がふべんなためにいままでひらけなかった地方もひらいてゆける」(武谷「原子力のはなし」 『子供の広場』1948.11)と原子力の平和利用を鼓吹していたと加藤氏は指摘した。そして、1950年代の日本共産党の原子力政策に、武谷の考え方が生かされていったと、加藤氏はいった。いろいろ例が出されているが、ここでは、次の資料をあげておこう。

ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展をしめすとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺したこと。原子力を動力源として適用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはやおかすことのできない革命の要さいであり、物質的基礎となった(「日本共産党第18回拡大中央委員会報告」 1950.1.18)。

そして、このような方針は、1954年の第五福竜丸事件を契機に展開した初期の原水爆禁止運動において、アメリカの原水爆実験に反対しつつ、原子力の平和利用を肯定していたことにも影響を及ぼしたとされている。

ただ、1950年代中葉以後、武谷と日本共産党本体は分岐していくと加藤氏は述べた。武谷は、次第に原子力開発の将来性に疑問をいだくようになり、さらには1956年のスターリン批判以降はソ連の核実験を批判するようになり、反原発住民運動に傾斜していくと加藤氏は指摘した。他方、日本共産党は、硬直的に、社会主義における原子力開発の可能性を主張した。その例として、例えば次の資料をあげている。

原子力についての敵の宣伝は、原子力がもつ人類の福祉のための無限の可能性が、帝国主義と独占体の支配する資本主義社会においてそのまま実現できるかのように主張している。しかし、帝国主義と独占体の支配のもとでは、軍事的利用が中心におかれ、それへの努力が陰に陽に追求され、平和的利用は大きく制限される。したがって軍事的利用を阻止し、平和利用、安全性をかちとる道は、帝国主義と独占体の支配の政策に反対する統一戦線の発展と勝利に結びついている。原子力のもつ人類のあらゆる技術的可能性を十分に福祉に奉仕させることは、人民が主権をもつ新しい民主主義の社会、さらには社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。ソ連における原子力の平和利用はこのことを示している(「原子力問題にかんする決議」 1961.7)

このような、社会主義における原子力開発の可能性を維持してきたことが、日本共産党系の人びとによる、「反原発」を指向するようになった社会党系の原水禁との対抗や、広瀬隆への批判活動の前提にあったと加藤氏は指摘している。このような方針は、チェルノブイリ事故やソ連邦解体などで現実には維持できなくなってきたが、今でも、例えば共産党委員長志位和男が「2,3世紀先の平和的利用可能性」に言及している(2011年8月の、志位・福島「老舗」対談)ように、原理的には放棄されていないと加藤氏は主張した。

質問に答えた形であると記憶しているが、加藤氏は、このような日本共産党が原子力開発の可能性に固執したことの要因について、彼らは社会主義政権になった場合、原子力の力を保持したかったのではないかと述べた。そして、1960年代末から1970年代にかけて、全世界的に環境問題がクローズアップされ、マルクス主義にかわって大きな影響力をもつようになり、西ドイツなどでは緑の党などの新しい政治勢力が出現したが、その可能性は日本ではなかったと述べた。

コメンテーターは思想史研究者の安田常雄氏であったが、戦後マルクス主義においてその思想様式を問題にしなくてはならないとし、理論信仰、エリート主義、人びとのくらしとの接点、どこでマルクス主義とふれあったのなどの論点をあげた。なお、加藤氏の報告は「マルクス主義と戦後日本の知的状況」という全体テーマの中で行われ、本来崎山政毅氏も報告するはずであったが、病気で欠席されたことをここで付記しておく。

加藤氏の報告は、日本共産党の人びとが、核兵器・原発にどのような姿勢をもっていたか、そして今どのような姿勢を有しているのかということを、豊富な資料をつかって示してくれた点で大きな意義をもつ。このことは、今まで部分的には知られていた。私なりに多少知っていたこともある。しかし、日本共産党に即して、これほど詳細に検討したことはないと思われる。そして、戦後日本社会における日本共産党の知的影響力の大きさからみて、このことを検討することは緊要な課題であった。そして、それは、なぜ日本で「脱原発」の運動が相対的に弱かったことを解明することにつながっていこう。

加藤氏に対する質問において、日本共産党だけで日本のマルクス主義総体を代表できるのか、日本社会党や社青同などはどのように対応していたのか、民衆全体の動向はどうかなどの疑問が出された。私自身もそう思う。福島県の原発誘致過程について、日本共産党自体がどれほど影響力があったといえば、かなり疑問だ。また、1960年代末から1970年代初めにかけて、福島県議会において社会党の県議たちが一斉に原発建設を批判するようになるが、その過程もまた分析していく必要があろう。ただ、これは、加藤氏にのみ答えを求める課題ではないだろう。私の、ひいては私たちの課題なのだと思う。

付記:報告者の氏名を渡辺治氏と勘違いしていた。皆様にお詫びしたい。削除も考えたが、とりあえず、自戒のために前の版は削除し、報告者氏名を訂正した上で、再度掲載しておく。内容については修正していない。

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