Feeds:
投稿
コメント

Archive for the ‘津波’ Category

さて、前回のブログで、11月23日に福島県楢葉町を踏査したことを述べた。その後、海岸線を南下し、広野町をぬけて、いわき市に入った。

いわき市の小名浜地区には、アクアマリンふくしまという水族館がある。2000年に開館した水族館で、私も10年ぐらい前に行ったことがある。この水族館は、小名浜港にあり、3.11においては、津波により、多大な被害を蒙った。Wikipediaには、次のように書かれている。

東日本大震災[編集]
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では揺れによる建物への損傷こそ殆ど無かったが、巨大な津波が施設の地上1階全体を浸水させこれにより9割の魚が死亡した。
その後は自家発電装置で飼育生物の生命維持装置である濾過装置などを稼働していたが、日動水の支援もあり3月16日にセイウチなど海獣を中心とした動物を他の水族館や動物園へ緊急移送(避難)させた。
トド、セイウチ、ゴマフアザラシ、ユーラシアカワウソなどの海獣、ウミガラスなどは鳥類は鴨川シーワールドと伊豆三津シーパラダイスへ、カワウソが上野動物園に、ウミガラスが葛西臨海水族園など。ただしバックヤードに収容されるため基本的に展示は行われない[10][11][12]。また、2011年4月1日にはメヒカリやガーといった魚類がマリンピア日本海に避難した[13]。
拠出用のクレーンに自家発電装置用の備蓄燃料である軽油を消費したが、交通網の遮断に加えて立地するいわき市北部が福島第一原発事故による屋内退避基準の半径30kmに含まれる関係もあり、燃料と餌の調達は困難であった。その後漁港の機能がマヒし、アザラシなどの海獣やカニなどの海洋生物・両生類・鳥類など約700種の餌も入手できず、最後に残った小型発電機の燃料を使い果たし水の管理が出来なくなったため海洋生物20万匹が全滅したことが3月25日に判明した[11]。
また施設内のWebサーバーも被災のため公式サイトが一時不通となり、3月16日頃に「マリンピア日本海」の公式サイトで被害状態などの惨状が掲載された。
7月15日、震災以来4ヶ月ぶりに営業を再開した[14]。同日は、7月16日(土)・17日(日)・18日(月、海の日)の週末3連休の前日で、当館の開館記念日にあたる。震災後に生まれ、「きぼう」と名付けられたゴマフアザラシが注目を集めている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%B5%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%BE

この被災について、ここではWikipediaの記事から引用したが、3.11直後、ときどきマスコミにこの水族館の状況は報道されていた。大型動物は移送されたが、9割もの飼育されていた生物が死滅したということである。

今回、行ってみて驚いたのは、この水族館が十年前の記憶と全く同じであったことである。もちろん、津波によって流されていないないモダンな水族館建屋自体が変わっていたわけはない。しかし、内装まで全く同じなのだ。

アクアマリンふくしま(外観)

アクアマリンふくしま(外観)

例えば、ヒトデなどの海洋生物にふれあうことができるタッチプールという施設を十年前にみたが、今も存在しており、ほとんど記憶通りなのである。

タッチプール

タッチプール

また、「潮目の海」とネーミングされた大水槽は、津波によって親潮と黒潮の界をなしていたアクリル板が壊れるなど、かなり被災したはずだが、その痕跡を見ることはできない。

潮目の海(大水槽)

潮目の海(大水槽)

館内で、パブリックな形で3.11における被災についてふれている掲示としては、入口にあるこのパネルくらいである。ただ、提携水族館との協力や、放射線問題についてふれているコーナーでは多少3.11の痕跡をみることができるのであるが。

アクアマリンふくしま再開のパネル

アクアマリンふくしま再開のパネル

もちろん、これは、アクアマリンふくしまが「復興」しようとした努力の結果であるといえる。しかし、3.11による被災は、Wikipediaの記事をみるように、アクアマリンふくしまの歴史にとって、非常に大きなものであった。そして、十年前と同様な形で再開したこと自体が、館にとって大きなことであったに違いない。しかし、そのことをはっきりと明示した展示物は館内にはないのである。

そして、アクアマリンふくしまのサイトにも、全く3.11の痕跡はみられない。「アクアマリンふくしまの復興日記」というブログがあったようだが、このブログは閉鎖され、過去の記事は非公開となっている。

このように、アクアマリンふくしまは、3.11における被災という事実を館内から消失させようと努めているといえるのである。

しかし、館の外には、津波の痕跡を示す記念物がある。津波によるがれきを集めてつくられた「がれき座」という「舞台」があり、津波により破壊された大水槽のアクリル板によってプレートがつくられている。

がれき座

がれき座

がれき座プレート

がれき座プレート

がれき座のプレートには、次のような言葉が記されている。

がれき座
〜私たちの海をよみがえらせる〜

その日、アクアマリンふくしまは、津波の中にあった。このアクリル板は黒潮と親潮をへだてる厚さ6cmのアクリル板の破片です。
MARCH 11、M9の地震は黒潮と親潮の「潮目の海」の2000トンの大水槽にも津波を起こし、巻き起こった大波が仕切り板を破壊し突破した。親潮の魚が黒潮の魚が仕切り板を越えて交流していた。
外のアスファルトさえも波打って裂け目ができた。アスファルトをはがして、がれきの津波をつくった。
アクリル板を「がれき座」の舞台の看板にして、私たちの海をよみがえらせる祭りの場とする。
        アクアマリンふくしま 館長 安部義孝

つまり、館内で消し去った津波の「痕跡」である大水槽の「アクリル板」を使って、館外に3.11の「記憶の場」を設置したということになる。

アクアマリンふくしまにおける3.11の記憶の問題は、複雑である。アクアマリンふくしまの館内においては、3.11の痕跡はほとんど消失させられている。それは、サイトやブログまで及んでいる。そして、ちょっと奇異に感じるくらい、3.11以前の水族館が「再現」されている。3.11は消し去りたいという心性がそこに働いているのではないかとも思う。

しかし、他方で、3.11を記憶しなくてはならないという心性もまた存在する。それが、館外のがれき座という形で表現されているのであろう。

水族館「内部」での3.11の記憶の消去と、水族館「外部」における3.11の記憶の場の設置。これは、「復興」における地理的格差の暗喩ともみえる。アクアマリンふくしまのある小名浜港においては、3.11の痕跡はほとんど目立たなくなっている。しかし、おなじいわき市でも久之浜や豊間などは、がれきが片付いただけで復興はすすんでいるとはいえないのである。

いわき市豊間周辺

いわき市豊間周辺

もっといえば、楢葉町・富岡町など、居住や立ち入り自体が制限されたところもある。そういう所では、3.11の記憶をいやがおうでもつきつけられているのである。

3.11の記憶は、このように複雑なものである。3.11をなかったものにしたいとする心性と、記憶しなくてはならないとする心性は、水族館アクアマリンふくしまの中でもせめぎあっている。このせめぎあいの中から、「歴史」意識が生まれてくるのではなかろうか。

Read Full Post »

今回は、宮城県の津波被災地を揺るがしている防潮堤建設問題について、私自身の心覚えのため、みてみることにする。

まず、毎日新聞夕刊2013年2月6日付に掲載された、次の記事をみてほしい。

特集ワイド:東日本大震災 巨大防潮堤、被災地に続々計画 本音は「反対」だが…復興が「人質」に 口閉ざす住民
毎日新聞 2013年02月06日 東京夕刊

 東日本大震災の被災地で、巨大防潮堤建設計画が進んでいる。高いコンクリート壁で海を覆えば、海辺の生態系を壊し、津波からの避難が遅れるとの指摘がある。防潮堤問題に揺れる被災地を歩き、失われゆく潮騒を聞いた。【浦松丈二】

 <計画堤防高さ TP+9・8m 高さはここまで>

 宮城県気仙沼市の大谷海岸に電信柱のような看板があった。荒れ地の中に青い海だけが広がる。TPとは「東京湾平均海面」だ。つまり、東京湾を基準に高さ9・8メートルの防潮堤がここに建つのだ。間近に見ると高さに圧倒される。この高さの壁がどこまでも続く……想像したらその重苦しさにめまいがした。9キロ南の海岸にはなんと14・7メートルの防潮堤が計画されている。
 気仙沼市民有志の「防潮堤を勉強する会」の発起人、酒造会社社長の菅原昭彦さん(50)が説明する。「防潮堤は2011年9月に宮城県の震災復興計画として最初に示されました。震災から半年しかたっておらず、これで確定とは誰も思わなかった。県と市は昨年7月から説明会を始めたが内容は当初のまま。しかも防潮堤の位置や形状は話し合えるけれど、高さは変えられないという。あまりに唐突、強引だった」
 住民は昨年8月から専門家を招いて「勉強する会」を計13回開き、毎回100人以上が参加した。だがあえて賛成反対を言わなかった。「私たち住民は復興の予算とスピードを人質に取られているようなもの。文句を言うことで復興全体が遅れることがあっては困るから」と説明する。
 同じ被災地でも地域によって実情は異なる。「工場や産業エリアなら防潮堤が高くてもいいが、海辺の景観で商売をしている所は問題になる。ワカメや昆布などの資源のある地域では生態系への影響が懸念される。でも、防潮堤計画には背後地の利用計画がセットにされていて、復興を進めようとしたら計画をのまざるをえないのです」
 話の途中、菅原さんの携帯電話に友人からメールが入った。「防潮堤各地でどんどん決まっていきますね。いいんですか。このままで?」とあった。年度末が迫り、県は合意形成を急ぐ。菅原さんは「県の担当者が『隣の人は合意した』と戸別訪問したことがあり、強く抗議しました。そんなやり方では、地域の信頼関係が壊れてしまう」と懸念する。
 多くの地域で防潮堤計画はなし崩し的に進んでいる。石巻市雄勝町立浜の銀ザケ・ホタテ養殖業、末永陽市さん(55)は「管理者の県が示した高さだから」と不本意ながら受け入れる意向だ。防潮堤は高さ6・3メートルと震災前に比べ約3メートル高くなる。
「地震発生後は防潮堤の上で海を見ていた。湾内にじわりじわりと海水が上がってきて、後ずさりしながら見守っていたが、防潮堤を越えたら早かった。やばいと思って、一気に裏山まで走った。海が見えていたから避難できた」。全49戸160人の集落ごと流されたものの、死者は5人にとどまった。これまで津波を経験してきた住民たちは、地震直後に裏山にほぼ全員が避難したからだ。だが、海が見えないまま津波がいきなり防潮堤を越えてきたら……。
 大津波で、末永さんは自宅だけでなく、養殖していた銀ザケ12万匹とホタテ35万個を失った。船に同乗し、再開した銀ザケ養殖のエサやりに同行させてもらった。風がごうごうと音をたて、潮騒を聞くどころか寒さで耳がちぎれそうだ。この海と生きる、という末永さんの強い意志を感じる。しかし、巨大防潮堤はそこにも影を落とす。
 末永さんは、自宅跡地に水産加工工場の建設を計画している。今後はサケの加工もして、ブランド化を目指すしかないと考えるからだ。だが防潮堤が高くなれば、自宅跡地横の小川の土手もかさ上げしなければならない。地続きの自宅跡地のかさ上げも必要になる。「待っていたらいつになるか分からない。さっさと自己資金で工場を建ててしまおうか」と迷う。
 雄勝地区の人口は1565人(昨年12月)と震災前の3分の1だ。末永さんは14世紀から続く24代目網元。「先祖が代々頑張って何とかつないできてくれた。それを考えると……」と意欲的だが、その前に防潮堤が立ちはだかる。
 「巨大防潮堤は被災地だけの問題ではない。国土強靱(きょうじん)化を掲げる政権下では、日本全体がコンクリート壁に囲まれてしまう恐れがある」と警鐘を鳴らすのは、気仙沼市のNPO法人「森は海の恋人」副理事長の畠山信さん(34)だ。
 畠山さんの地元、同市西舞根(にしもうね)地区は住民要望で防潮堤計画を撤回させた。畠山さんらは「堤防ができれば海と山が分断されて取り返しがつかなくなる」と計画が固まる前の段階で、集落に残る全戸(34戸)の意見を取りまとめ、市側を動かした。「人口や組織の多い市街地で合意を形成するのは大変。私の地域は長老がいて、その下に役員がいてという古い集落だから決まりやすかった」と語る。
 同地区では津波で全52戸中44戸が流され、地盤は約80センチ沈んだ。「沈下でできた干潟にアサリが増え、絶滅危惧種のニホンウナギが生息している。野鳥が来て、子どもたちの遊び場になっている。この干潟は地域で守っていくことにしています」。これも合意形成の成果だ。
「環境省や宮城県は『森・里・川・海のつながり』を重視すると言っていたのに、現場は逆行している。災害に備えるために必要なのは、管理費のかかる防潮堤というハードではなくて自然の見方というソフト。津波なら前兆のとらえ方です。これは自然体験からしか学べない。でもそこに予算はついていない」
 自民党は今国会に「国土強靱化基本法案」を議員立法で提出する方針だ。防災の柱として「強靱な社会基盤の整備」を盛り込んでおり、巨大防潮堤の整備を後押ししそうだ。
 畠山さんらを招いて公益財団法人「日本自然保護協会」が3日に東京都内で開いたシンポジウムでは、専門家から「海辺を利用してきた沿岸部住民で本音で賛成している人はいないだろう」「(住民が声を上げられない以上)外から声を上げるしかないのでは」などの意見が出た。同協会は4日、慎重な防潮堤復旧を求める意見書を安倍晋三首相らに提出した。
 海と陸の境目にコンクリートの巨大な壁を打ち立てて、本当にふるさとは再生するのか。何かゆがんだ発想がこの国を覆おうとしていないか。http://mainichi.jp/feature/news/20130206dde012040022000c.html

つまり、宮城県においては、津波被災地にこれまで以上の高さの防潮堤を建設することを強制しており、その計画について、漁業や観光で生きてきた地域住民たちが困惑しているというのである。生業にも差し支え、自然破壊にもなるということである。また、高い防潮堤は、近づいてくる津波がみえなくなる恐れがあり、かえって危険ではないかという声もある。しかし、国土強靭化法案をひっさげた安倍自民党政権の誕生によって、防潮堤拡充の動きが加速しているのではないかとも、この記事では懸念している。

さらに、3月7日付毎日新聞夕刊において、次のような続報が掲載されている。

特集ワイド:巨大防潮堤に海が奪われる 宮城・気仙沼で住民が計画見直し要請
毎日新聞 2013年03月07日 東京夕刊

 ◇セットバック案に制度の壁 東日本大震災級は防げず

 万里の長城のような巨大防潮堤が東日本大震災の被災地に築かれようとしている。本欄(2月6日付)で「巨大防潮堤に、本音は反対」という地元の声を紹介したところ、多くの反響が寄せられた。防潮堤計画の何がそんなに問題なのか? 続報をお届けしたい。【浦松丈二】

 「私たちは豊かな自然を後世まで残すため、防潮堤建設に当たっては住民の意見を反映するよう1324名の署名を添えて要請致します」
 宮城県気仙沼市の菅原茂市長に、巨大防潮堤計画見直しの要請書と署名が提出されたのは昨年11月12日だった。1324人は、同市大谷地区の人口の半数近い。
 宮城県内で防潮堤計画見直しを求める大規模な署名が提出されたのは初めてだ。避難が難しいお年寄りや障害者には高い防潮堤を必要とする人もいる。同じ被災者でも世代や職業、被災体験などによって意見は異なる。何より防潮堤計画が決まらないと復興計画が動かない地域が多く、反対の声を上げにくい−−それでもなお、コンクリートの壁で海を覆う計画に違和感を感じる人は多いのだ。
 問題の計画は、宮城県有数の海水浴場である大谷海水浴場一帯に高さ9・8メートル、全長約1キロのコンクリート製防潮堤を建設するもの。巨大なのは高さだけではない。津波で倒されないために土台の幅は実に45メートルもある。海水浴場の砂浜を覆い尽くして海までせり出す構造だ。
 大谷地区で生まれ育ち、署名集めの中心となったNGO職員、三浦友幸さん(32)は「防潮堤で消える砂浜は大谷地区のアイデンティティーそのもの。ここで生まれた子どもたちは卒業式、成人式などの節目節目に砂浜に集まって記念撮影をしてきた。砂浜がなくなるのは嫌だ。この一点に絞ることで住民の合意が形成できたのです」と説明する。
 要請書を受け取った菅原市長は「現在の計画では砂浜は残らない。署名のような地域住民の意向が分かるものがあると大変ありがたい。強い説得材料になります」と述べ、住民の意見を尊重して県や林野庁などに砂浜を残すよう働きかけると約束した。
 住民が要請し、市側が同意したのは防潮堤の建設予定地を砂浜から陸側に後退させる「セットバック案」だ。防潮堤を海から離せば離すほど砂浜が守られる。津波や高潮の脅威は衰え、海抜も上がるため、構造物を低くして建設・維持費用を安くできる。
 だが、いいことずくめに思えるセットバック案を実行しようとすると、制度の壁が立ちはだかるのだ。
 防潮堤に関するルールは海岸法に定められている。防潮堤を建設できる位置は、原則的に海岸線から陸側50メートルと海側50メートルの間の海岸保全区域だけ。これ以上陸側に移動するには県知事の指定など複雑な手続きが必要になる。防潮堤をセットバックしようとすると国道45号やJR気仙沼線も陸側に移動させないといけなくなる。
 気仙沼市は大谷地区住民の要請を受け、3通りのセットバック案を作成中だ。難しい作業を部下に指示した菅原市長だが「防潮堤の高さは安全度そのもの」と高さの変更は退ける。県も同じ姿勢だ。
 防潮堤は、国が方針を決め、県知事が計画を策定し、県や市町村などの海岸管理者が設計することになっている。今回の防潮堤の高さを決める方法は、2011年7月8日に国土交通省など関連省庁課長名で出された通知で示された。「数十年から百数十年に1度程度」の津波を防ぐ高さにする内容だ。
 不思議なことに通知は、東日本大震災級の津波は「最大クラス」の例外として防潮堤で防げなくてもいいことにしている。同年6月の中央防災会議専門調査会中間報告で示された専門家の見解を踏まえたという。震災で大谷地区の海岸には20メートル級の津波が押し寄せた。あの津波を防げない防潮堤に砂浜を覆われるのは釈然としない。
 県担当者が説明する。「今回計画されている防潮堤は明治三陸地震(1896年)の津波に対応したもの。災害復旧事業として費用の3分の2以上が国庫から出る。前の防潮堤が建設された1960年代は県の財政事情が悪く、チリ地震(1960年)にしか対応していなかったから今回は高くなった」
 国の補助金が出るから無理にでも通知に合わせて防潮堤の高さを決める、と聞こえる。

  ■

 では、巨大防潮堤の建設費用はいくらかかるのか。県河川課によると、県発注分の事業費だけで約3140億円。ほとんどが国からの補助金だ。港湾を管理する国交省や市町村の発注分を加えると、さらに増加する。無論別に維持補修費用もかかる。
 県内最高の14・7メートルの防潮堤が計画されている気仙沼市小泉地区でも不満がくすぶっている。「小泉地域の子どもたちに街づくりに関する絵を描いてもらったら、マリンスポーツ基地など海や砂浜を利用した内容が多かったそうです。防潮堤の絵を描く子はいなかった」(前出・三浦さん)
 すでに県発注の防潮堤275カ所、総延長163キロのうち、岩沼、石巻市など52カ所で着工されている。コンクリートの巨大な塊が姿を現しつつあるのだ。
 海辺の景観街づくりが専門の岡田智秀・日本大学理工学部准教授は「ハワイでは州法で決めたセットバックルールに基づき、防潮堤などの海岸構造物に極力依存しない街づくりを実施しています。目的は防災、景観、観光、環境の全て。全て密接に関連していますから」と語る。
 ハワイのルールとは、砂浜の自然観察を通じて高波などの最高到達ラインを調査し、住宅などの建造物は10〜15メートルの標準距離をセットバック(陸側に後退)させる。さらに砂浜の自然浸食と建物の耐用年数を考慮して、追加的に後退させる。街づくりには海岸線との距離が常に考慮される。
 岡田さんは「日本の防災計画も日常の暮らしの豊かさと非常時の防護の両方を表裏一体にして考えていくべきです。人口減少時代を迎えて、地方都市ではコンパクトシティーと呼ばれる集約型の街づくりが注目されています。セットバックは時代の流れにも合致しているのではないでしょうか」と訴える。
 大震災から2年。津波にえぐられた被災地の海岸に、ようやく砂が戻りつつある。防潮堤の巨額予算の一部でも住民本位の街づくりに回すことはできないのか。
http://mainichi.jp/feature/news/20130307dde012040002000c.html

気仙沼市では、すでに地域住民によって昨年11月に堤防建設の見直しを求める要請書が提出され、気仙沼市長も、防潮堤をより陸側に建設するセットバック案を検討することになった。しかし、このセットバック案については、海岸に建設しなくてはならないとという制度の壁がたちはだかっていると、この記事は伝えている。さらに、防潮堤の高さの変更は、この記事が書かれた時点では気仙沼市も宮城県も認めていないのだ。

しかし、この防潮堤の高さがどのように決められたかをみると、一驚する。ここで、問題になっている気仙沼市大谷の防潮堤は、9.8mにすることが予定されている。しかし、東日本大震災の津波では、20m程度の津波が襲来したとされている。そもそも、この高さでは、東日本大震災クラスの津波は避けられないのだ。

この9.8mという高さは、実は、東日本大震災クラスの津波をさけるものではない。このクラスの津波は1000年に1度のものとして、防潮堤で防御することをあきらめ、総合的に防災するとしている。そして、100年に1度程度はくる津波から守ることを目標にしてそれぞれの地域の防潮堤の高さを決めている。この気仙沼市大谷の場合、1896年の明治三陸津波の高さ8.8mを基準として設定されたのである。

つまり、この程度の防潮堤では、想定されうるすべての津波から、地域を守り切ることはできないのである。にもかかわらず、住民生活の利便とは反し、さらに自然破壊にしかならないような防潮堤建設が、国の補助金をめあてにして、津波被災地で強行されようとされてきたのである。

すでに、気仙沼市西舞根のように、地域住民の要求によって、防潮堤建設計画を撤回させたところもある。また、2013年3月7日付河北新報では、宮城県も防潮堤の高さについて譲歩の姿勢をみせているようである。

防潮堤の高さ変更示唆 宮城・村井知事、方針転換か

 宮城県議会2月定例会は6日、予算特別委員会を開き、総括質疑を行った。東日本大震災で被災した海岸防潮堤の整備をめぐり、村井嘉浩知事は、県が設定した高さで住民合意が得られていない地区のうち、漁港や集落の背後地に高台がある場合は地勢を考慮し、高さの変更もあり得るとの認識を示した。
 気仙沼市の小鯖や鮪立(しびたち)など一部地区が対象になるとみられる。村井知事は「位置をよく考え、合意を得るため最大限に努力する」と述べ、住民との意見調整の中で弾力的な対応を認める方針を示唆した。
 これまで、沿岸部の一部地域から「県が示した計画高は高すぎる」との反発が出ていた。村井知事は「命を守ることが大前提だ」と、変更に応じない姿勢を示していた。
 近く決定する復興交付金の第5次配分額に関して、上仮屋尚総務部長は、約108億円を申請した県事業分に対し、「2倍の200億円程度が配分されるのではないか」との見通しを示した。
 県が導入を決めたドクターヘリについて、県は基地病院の選定や医師の確保など、稼働に向けた課題を検討する委員会を新設する考えを明らかにした。18日の県救急医療協議会に諮り、正式決定する。

2013年03月07日木曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2013/03/20130307t11025.htm

このことは、現在進行中のことで、予断を許さない。少しでも、地域住民の主体性を尊重し、防潮堤などの計画が進められることを私は望む。結局のところ、地域住民自体が、想定される津波被災と、地域における生活の実情を勘案しつつ、自主的に、防災計画をともなった形で地域の復旧計画を決めるべきなのだと思う。そして、このように、地域住民の生活を無視し、その合意をとらない形で、「復興」がすすめられていることが、津波被災地のかかえる問題の一つなのだと考えるのである。

Read Full Post »

さて、前回は、1968年に建設計画が発表した東北電力の浪江・小高原発が、地元の浪江町棚塩の地域住民の反対運動によって、3.11直前まで着工が阻止されてきたことを述べつつ、最終的に福島第一原発事故によって、同地域が居住困難な地域になってしまったことを述べた。

この棚塩地区の現状はどのようなものであろうか。まず、Googleによる3.11以後の航空写真をみてほしい。

この航空写真は、棚塩地区の原発建設反対運動の指導者であった舛倉隆が住んでいた中舛倉を中心としたものである。中舛倉は、南棚塩に属し、水田に囲まれていた。しかし、この航空写真をみればわかるように、3.11の津波襲来により、ほとんど集落は原型をとどめていない。中舛倉の海側には、南棚塩のいくつかの集落が点在しているが、それらの多くも、ほとんど原型をとどめていないのである。そして、周辺に広がっていた水田も、津波によって泥の海となっている。

この棚塩地区の状況について、風船によって空中から2011年4月16日に撮影された動画がある。撮影者である「義援バルーン空撮」は「撮影位置は海岸線から1kmの地点」(http://www.t01.com/11041603z.html)と解説している。中舛倉よりもやや陸側の地点ではないかと推定される。しかし、この地点でも津波が押し寄せ、水田に瓦礫が散乱しているのである

他方、浪江・小高原発の建設される予定地であった北棚塩のほうをみておこう。この地図の三枚岩というところを中心に浪江・小高原発は建設される予定であった。この地域は標高20m以上ある台地にあり、山林や畑が多い地域であった。航空写真だけからみるならば、津波の直撃はさけられた模様である。

このように、原発建設反対運動の根拠であった南棚塩の土地や家屋は、東日本大震災の津波によって大きな被害を受けたのである。

なお、放射線量は、2013年2月18日21時において棚塩集会所のモニタリングポストの値が0.110μSv/hであり、とりあえず、年間1mSvをこえる線量となる0.23μSv/hを下回っている。浜通り各地の海側の放射線量は比較的低いが、この地域もそうなのだといえる。この地域だけならば、隣接する南相馬市小高区浦尻地区のように、立入りはできるが居住はできない避難指示解除準備区域になることも可能かもしれない。実際、2013年1月25日、浪江町は、棚塩地区などを避難指示解除準備区域にする方針を示した。しかし、浪江町の山側の放射線量は非常に高い。この棚塩地域が避難指示解除準備区域となっても、水道他のインフラを整備するのはかなり困難であろうと思われる。

そして、津波で壊滅した低地の集落や水田を復旧することにも困難が予想されるのである。

このように、浪江・小高原発建設反対運動の拠点であった浪江町棚塩地区は、東日本大震災による津波と福島第一原発事故によって大きな打撃を蒙ったのである。この両方で、浪江町棚塩地区を含めた福島県浜通りが被害を受けたということ、そして、単に原発事故だけでなく、津波被害からの復旧という課題もこの地域にあることを忘れてはならないのである。

Read Full Post »

さて、2011年7月27日に、気仙沼市市街地北部の被災地をみたことは前回のブログで述べた。その後、地理不案内にて、さんざん気仙沼市の高台をさまよったのだが、ようやく魚町に戻ってきた。

そこから、「お魚いちば」という看板につられて、港町にやってきた。ここは、気仙沼の漁港の一部であり、南側には気仙沼市魚市場が所在している。

同行した気仙沼での調査経験のある中世史研究者は、「お魚いちば」は被災前からあったのだが、その時は行けず、ずっと行きたかったのだがと話していた。

気仙沼市お魚いちば(2011年7月27日)

気仙沼市お魚いちば(2011年7月27日)

中に入ってみると、そこは水産物の小売店舗と飲食店であった。

お魚いちばの内装(2011年7月27日)

お魚いちばの内装(2011年7月27日)

すでに、カツオや銀鮭などが販売されていた。

お魚いちばで販売されていたかつお(2011年7月27日)

お魚いちばで販売されていたかつお(2011年7月27日)

お魚いちばで販売されていた銀鮭(2011年7月27日)

お魚いちばで販売されていた銀鮭(2011年7月27日)

ちょうど昼時だったので、「港町丼」という、海鮮物の丼を注文してみた。聞くと4日前に開店したとのことである。

お魚いちばの港町丼(2011年7月27日)

お魚いちばの港町丼(2011年7月27日)

福島・宮城県で、被災地で特産物を食べるのは初めてである。そこまで復旧したといえるのではなかろうか。

周辺で、写真撮影してみた。お魚いちばの前は、埠頭となっている。浸水の跡があり、地盤沈下したのであろう。恒久的な復旧ではないと思われるが、それでもとりあえず整備され、漁船が繋留されていた。

気仙沼市港町の埠頭(2011年7月27日)

気仙沼市港町の埠頭(2011年7月27日)

港町の市街は、さすがに津波に被災した建築物が目立った。ただ、それでも、瓦礫などは片づけられ、整備されている印象はあった。

気仙沼市港町の景況(2011年7月27日)

気仙沼市港町の景況(2011年7月27日)

港町の南側にある気仙沼市魚市場は6月23日から再開されているはずで、実際、かなり整備されている印象をもった。ただ、併設されているリアスシャークミュージアムは、到底開館している印象はない。まだ館前に漁船が残置されていた。

リアスシャークミュージアム(2011年7月27日)

リアスシャークミュージアム(2011年7月27日)

このように、市街地北部と比較すると、市街地中心部に属する港町は、かなり整った印象がある。しかし、ここも甚大な被害を受けた被災地なのである。3月11日、港町の南側の魚市場から撮影した動画があるので、みてみよう。

(http://www.youtube.com/watch?v=48zK7Te8yxc&feature=relatedより)

低層階は水没し、巨大な船が港町に乗り上げていく。湾奥と比べると、大規模な火災はなかったようだが、それでも甚大な被害であった。

5月8日でも、このような景況であった。 火災がないだけましというくらいで、市街地北部とそれほど違わない状態といえよう。

(http://www.youtube.com/watch?v=YT_cD-3i9YEより)

このような状態から、とりあえず瓦礫などは片づけられ、漁港も修繕され、使用可能な家屋は整備され、たぶん水没したであろう魚市場も再開するようになったといえるのである。それが、気仙沼市港町の「今」といえよう。

Read Full Post »

2011年7月27日、仙台より気仙沼市に向かった。本来は、石巻市から、南三陸町をへて行く予定であったが、三陸道が大渋滞なので、一関市まで北上し、そこから気仙沼市に回る道を使った。

一関市から北上高地を山越えしていく途中は、全くの緑の地であった。途中、北上川を横断した。そこは、川崎という。前九年の役の古戦場川崎柵である。

同行者の一人は、中世史研究者で、このあたりによく調査にきたという。確か、テーマは金山研究であったと思う。古い話でいえば、安倍氏や奥州藤原氏の金山地域なのである。

このあたりは、途中、屋根が壊れているのを除けば、ほとんど、変わりがなかった。

トンネルを抜けて、気仙沼市内に入った。全く地理不案内なのであるが、一関市から入ると、まず高台の市街地に入るようである。気仙沼駅や気仙沼市役所がある。高台の市街地は、たぶん地震のためと思われるが、多少屋根などが壊されたところがあるが、概して市街地の体をなしていた。かなり古く立派な建物が多く所在していた。

今、グーグルの地図などをみて確認しているのであるが、市役所のところを下りると低地部分に入る。たぶん、魚町というところであろう。ここは、さすがに津波被災が目立った。全半壊した家が数多くみられたのである。ただ、完全に流された建物はそれほどなく、まだ、市街地の様相は残っていた。

魚町の景況は、次のような感じであった。この写真は、魚町2丁目の岩手銀行気仙沼支店周辺をとったものであるが、まだ市街地の形状はあるといえる。

岩手銀行気仙沼支店周辺(2011年7月27日)

岩手銀行気仙沼支店周辺(2011年7月27日)

しかし、やはり海岸道路沿いは甚大な被害であった。同じく魚町2丁目にあった酒造男山本店であるが、三階建のはずが最上階しか残ってない。1931年に建てられた洋館で、国の登録有形文化財であったが、この状態なのである。下の階は、津波で破壊されたのであろう。

男山本店(2011年7月27日)

男山本店(2011年7月27日)

そこから北上して、気仙沼港の北半部にむかった。たぶん、魚浜町というのか、この辺りから、道路の通行すらままならない状態になった。

通行止めになった東浜街道(2011年7月27日)

通行止めになった東浜街道(2011年7月27日)

ただ、埠頭などはかなり整備され、とりあえず浮かべることのできる船舶は繋がれていた。ただ、その中に、黒焦げになった巡視船が含まれていた。

気仙沼港北部(2011年7月27日)

気仙沼港北部(2011年7月27日)

そこからさらに北上する。被災した建築物群をぬけると、たぶん今までみたことがない惨状が広がっていた。元々は倉庫や水産物加工場が多かったと思われるが、この地帯は、津波で家屋が破壊された上、さらに火災に逢い、ほとんど焼野原になっている。石巻市門脇町に類似しているといえるが、あれよりも広範囲に、谷の奥にむかって、焼野原は続いている。グーグルの航空写真によると、より船舶などが散在しているが、あまりそれはみられなかったので、そういうものは片づけたのであろう。焼け焦げた自動車も集中されて置かれているので、そういうものも整理したのであろう。しかし、それ以外の瓦礫はほとんど片づけられていないようにみえた。次に掲げる写真は、場所もわからないので、そのままあげておく。ただ、この地帯を南から北に向かって取ったものであることを付記しておく。

気仙沼市市街地北部の津波被災地①(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地①(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地②(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地②(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地③(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地③(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地④(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地④(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地⑤(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地⑤(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地⑥(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地⑥(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地⑦(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地⑦(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地⑧(2011年7月27日)

気仙沼市市街地北部の津波被災地⑧(2011年7月27日)

被災地の一部にかなり巨大な船が残置されていた。鹿折唐桑駅の側である。いわき市小名浜港所属の第十八共徳丸という漁船だそうである。現在、津波被害のモニュメントとして、保存が検討されているそうである。この写真は、同行した中世史研究者から提供してもらった。

鹿折唐桑駅周辺に残置された漁船(2011年7月27日 高松百香撮影)

鹿折唐桑駅周辺に残置された漁船(2011年7月27日 高松百香撮影)

先ほど、話が出た中世史研究者は、気仙沼にも調査にきたとのことであった。知っている土地がこのようになったとショックを受けていたようであった。

なお、私たちのみたのは、気仙沼市街地でも、ほんの一部にすぎない。今回はみることができなかったが、下記の罹災概況図にあるように、気仙沼市街地南部、南気仙沼駅周辺も甚大な被害を受けている。津波の動画は、むしろ、この方面を多くとっている。このような甚大な被害を受けた被災地も一部であり、気仙沼市街地全体ではいかほどの被害があったのか、検討もつかないのである。

罹災概況図(気仙沼・本吉管内)

罹災概況図(気仙沼・本吉管内)

そして、気仙沼市街だけでなく、三陸海岸の集落すべてが被害を受けているのである。

Read Full Post »

2011年7月26日の午後、石巻についで女川を訪れた。

女川にいってみると、前と同様、人影がなかった。直前に訪問した石巻は、もちろんそれほど人はいないにせよ、多少はボランティアもおり、開いている店舗もあった。それと比べると、人の少なさが目立った。

前よりは、瓦礫がかたづけられているようだった。そして、被災地には石灰がかけられていた。たぶん、消毒のためであろう。

山奥のほうにいってみた。後で地図をみると、女川駅後方の大原というところであろう。山の奥まで、一軒の家もなかった。

道が山道にかわるところに、たぶん倉庫として使っているらしい建物があった。

津波で残った女川の家屋(2011年7月26日)

津波で残った女川の家屋(2011年7月26日)

しかし、その下の方は、すべての家屋が流され、基礎くらいしか残っていない。たぶん、大きな瓦礫は片づけられたと思われるが、小さな瓦礫はまだ残されていた。周りは完全な山であり、ウグイスなどが鳴いていた。津波の高さは20mといわれている。ここまで到達したのである。

女川の山奥にある津波被災地(2011年7月26日)

女川の山奥にある津波被災地(2011年7月26日)

女川港におりてみると、港の各所で海水が浸水していた。次の一枚をみてほしい。

女川港に浸水する海水(2011年7月26日)

女川港に浸水する海水(2011年7月26日)

画面の奥の方にあるのが岸壁の線である。それをこえて、かなり奥まで、海水が浸水していた。

次の写真のほうが、もっとよくわかるだろう。離島に向かう連絡船の桟橋であるが、まるで海に浮かぶ島のようになっている。

女川港桟橋(2011年7月26日)

女川港桟橋(2011年7月26日)

http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E7%94%BA&ie=UTF8&hq=&hnear=%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E7%89%A1%E9%B9%BF%E9%83%A1%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E7%94%BA&gl=jp&t=h&brcurrent=3,0x5f89afdc40dbda41:0x39d5eb2cdf8440fb,0&ll=38.445455,141.444383&spn=0.016133,0.027466&z=15&iwloc=A&output=embed
大きな地図で見る

地面を見ると、このような状態である。道路は地盛りしているが、その下の地面ーたぶん、元来の道路は、完全に水没している。

女川港の地面(2011年7月26日)

女川港の地面(2011年7月26日)

6月5日にきた際には、これほどではなかった。次の写真は、女川港の別のところをとったものであるが、完全に水没するほどではないことがわかる。

女川港岸壁(2011年6月5日)

女川港岸壁(2011年6月5日)

今回は、満ち潮となり、女川港の各所はかなりの規模で海水の浸水を受けていたのである。

もちろん、地盤沈下のためである。少々の盛り土では追いつかないのである。かなり大規模に嵩上げが必要になっているといえる。

それが、女川のかかえている大きな課題と思えた。高台移転、漁港集約化、仮設住宅建設だけでなく、女川港自体の地盤の嵩上げが必要となっているのである。

ある意味では、今は、住民の生業を確保するため、漁港などの応急的「復旧」を行うこと、これが最も必要とされていると感じた。

Read Full Post »

さて、今回は、石巻市で配布されたパンフレットである「石巻まちあるきマップ」を紹介しよう。このマップは、東京工業大学真野研究室で作成されたものである。まず、第一面をみてみよう。表題には「石巻まちあるきマップー今、再開店舗・活動ガイド」とある。

石巻まちあるきマップ1

石巻まちあるきマップ1

どうしても、画面が小さいので、http://ishinomaki2.com/map.pdfよりダウンロードしてみてほしい。この第一面の冒頭には、このような文章が載せられている。

津波に負けずがんばるまちなか

3.11の津波によって、石巻のまちなかは甚大な被害を受けました。
川縁から駅前にかけての商店街ではほとんどの店舗で1階部分が浸水し、
ヘドロまみれになりました。
商店主や住民の方々はそれでもこの場所を捨てずに、
津波の被害と向き合いながら、
ボランティアの力を借りながら、
失業を再生させています。
そんな、まちなかの人々のがんばりを集めてマップにしてみました。
お気に入りのスポットを探してみてください。

そして、その下には、市街地中心部の被災状況を記載した地図が載せられている。いわば、石巻の「現在」がここに表現されているといえる。もっとも甚大な被害を受けた地域は、南側の門脇町地域である。そして、日和山・羽黒山の高台は津波被災を免れた。しかし、旧北上川から石巻駅にかけての商店街は浸水したことが示されている。

ここには、①被災状況と復興の足がかりツアーの経路が示されている。この経路では、どちらかといえば、まだ被害の程度が軽かった地域があげられている。確かに、門脇町方面は徒歩では危険であり、さらに多くの人が亡くなった鎮魂の場所でもあろう。

そして、その右側には、中心部の商店街の地図が掲載され、その下には「商店街再開店舗情報(2011年7月21日時点)」が書かれている。一応73店舗が営業しているということであった。しかし、実際行ってみると、パラパラと営業している感じである。「現在」の情報であるが、「未来」にむけたものといえる。

こういっては悪いのだが…駐車場の情報がないので、車では行きづらい。駐車場も、看板はあっても営業していないところもあった。

この市街地中心部の地図には「夜の石巻ディープツアー」のルートが記載されている。その関連で、このような記事が掲載されている。

64 復興BAR
広小路で被災したBARである「French Quater」を改装し、”復興バー”として復活。今この瞬間しか味わえない復興直前ともいうべきこの石巻のストリートのど真ん中で地元酒蔵の銘酒や冷えたビールを楽しんで下さい。

本当に営業しているかとおもって、http://ishinomaki2.com/2011/07/をみたら、7月27日の開店時には満員だったそうである。確かに、人がよりあえる場が必要だと実感した。

復興バー、初日から満員御礼

復興バー、初日から満員御礼

津波の被害をうけたビルを修復した「復興バー」、
広小路通りにオープンしました。

信号も復旧しておらず、薄暗さがヨーロッパの町並みを彷彿するような
街角で小さなお店が隠れてしまうほど大きな開店祝いの花輪が飾られ
店内の外まで人があふれるほど沢山のお客様が集まりました。

復興バーでは各種カクテルの他、松村マスター特製のパスタなど
軽食も用意しています。(7月27日)

それ以外にも、かなり「盛り場情報」が載せられている。

54 Cofee Shop Roots
橋通りで被災した榊洋品店の夫婦が、隣の空き店舗を利用して誰にでも立ち寄れるカフェをオープン。昼間はボランティアや近所の方々で賑わっており、カフェの周りの路上で若者達が集まり、夜な夜なライブを行っている。
STAND UP WEEK中は太陽熱でお湯をつくるシステムをみんなの手でつくりながら、できるだけ自然のエネルギーで運営できる「自然エネルギーコーヒーショップ roots」となった。

なお、このSTAND UP WEEKについて、http://ishinomaki2.com/2011/07/には、次のように説明されている。川開き大会にあわせたイベント期間のようである。

毎年夏、石巻最大の行事、川開き祭りが開催されます。
今年も色々な意見がある中、今年も開催が決定しました。
我々ISHINOMAKI 2.0は、この非常に意味がある今年の川開き祭りを復興の一つのスタートと考えました。
祭り開催前一週間からSTAND UP WEEKと題し、中央商店街の一部の商店や建物を東京と石巻の有志が一緒になり出作りで(手作り)再利用し、新しいアイディアを注入したお店作りやシンポジウムを開催しながらこれからのまちづくりのヒントやきっかけを生み出したいと考えています。

期間:7/23(土)~8/1(月)
会場:石巻中央の各所
会期中のインフォメーションセンターをアイトピア通りボックスピア内旧富士ツーリスト(現ISHINOMAKI2.0 オフィス)に設置し、Stand Up Weekについてのすべての情報を手にすることができます。インフォメーションセンターではそれぞれのプログラムの場所や協賛店舗の場所を記したマップを配布します。

路上ライブもイベントらしい。http://ishinomaki2.com/2011/07/は、このように伝えている。

音楽ライブ ステージ

レゲエをはじめ音楽がさかんな街、石巻ならではの音楽ライブを野外のステージで開催。東京からはHIFANAが参戦。地元石巻からは、ちだ原人が参戦!?また、地元石巻のカホン工房アルコの協力でHIFANAカホンワークショップも開催
会場:コーヒーショップroots(橋通り)前広場他
出演アーティスト:HIFANA、ちだ原人 他
協力:RT CAMP、W+K 東京LAB、カホン工房アルコ

また、このような記事もある。なんか、いろいろな意味で想像つかないのであるが。

45 Be-in
被災前は小鳥屋さんだった。寿町通りの小さな一角を占める店舗。現在は救援物資として大量に寄付された衣類を販売している。オーナーが誰も聞いていなくても、よなよなギターをもって歌い出す。

私が7月26日に訪ねたところもある。実際、記事通りに一階ではTシャツなどが販売されていた。そして、さらに、石巻市市街の写真展がおこなわれていた。

50 かめ七
震災後、呉服屋の店舗を仮に地域のイベントスペースとして活用中。2階は地域での活動のためにいつでもネットが使えるスペースとしている(通称:「ネットかめ」)
商店街の有志によるリバイバル石巻プロジェクト(RIP)のTシャツ販売窓口となっている。オリジナル商店のカラフルな「かめタオル」はボランティアに大人気。

その他、前回のブログで市街地中心部の津波被災の状況を映した石巻スポーツ振興センターも「スポーツショップマツムラ」に所在していることが明記されている。

なお、「石巻まちあるきマップ」とは直接関係ないが、http://ishinomaki2.com/2011/07/は、無料野外映画上映会が開催されることを伝えている。写真もアップしてみた。不謹慎とは思うが、壊れた建物の間での、幻想的な光景に思えた。

無料野外映画上映会

阿部新旅館跡地を利用して無料野外映画上映を一週間に渡り開催。同じ並びにあるビルの壁面をスクリーン代わりにし、この石巻のこの夏でしか体験出来ない映画を体験してもらいます。同場所にては、ベルギーカフェWb2I caféもオープン。映画を見ながらおいしい食べ物と飲み物も楽しめます。
会場:阿部新旅館 跡地 石巻市中央二丁目7-23
上映期間:7/23 – 7/31 8/1のコンテンツは検討有
上映映画:未定(詳しい内容は本サイト上で随時更新されます)

無料野外映画上映会(2011年7月23日)

無料野外映画上映会(2011年7月23日)

第二面は、「石巻まちあるきマップー昔、石巻の歴史ガイド」と題されている。調査協力として千石船の会、邊見清二があげられている。いわば、石巻の「過去」-特に市街地を扱ったものである。左の方に写真と説明、右の方に地図が掲載されている。近世の石巻は、仙台藩他が蔵屋敷をもち、さらに廻船問屋が立ち並んでいたとされている。近代になると、鉄道敷設と内海橋架設によって、東西方向にも街並みが形成され、新たな横丁や通りが開かれたとしている。また、石巻の劇場もここで紹介しているのである。

石巻まちあるきマップ2

石巻まちあるきマップ2

「過去」「現在」「未来」が、この「石巻まちあるきマップ」には凝縮されているといえる。そのうちで、最も興味深かったのは「未来」の部分であった。「未来」の部分では、「若者」を意識していたといえる。これは、東京工業大学真野研究室で作成されたものであるが、石巻市内でも配布されており、石巻住民の一部の意向もそこに盛り込まれているといえる。歴史を想起しつつ、「若者がよりつどう街」をめざすものと位置づけられるのである。

そして、随所で「ボランティア」についてふれているように、これは、ボランティアという「外部者」の視点を意識したものともいえるのである。

Read Full Post »

一昨日(7月26日)、石巻市を再訪した。

石巻市は、6月24日の集計で、死者3110名、行方不明者2770名と、宮城県下では最大の人的被害を出したところである。家屋被害も、全壊18560棟、半壊2663棟、一部損壊10043棟、床上浸水6756戸、床下浸水8973戸にのぼり、全壊戸数では最多、全体でも仙台市に次ぐ規模にのぼった。

罹災概況図(石巻管内)

罹災概況図(石巻管内)

石巻市の被災状況は、大別して三つにわけられると思う。まず、旧北上川の河口、石巻湾にそって発達している市街地中心部、牡鹿半島や旧雄勝町に散在している小規模漁村、そして、北上川河口である。

石巻市街地は、多くの地域が津波に被災したといえる。まずは、石巻湾沿いに展開している工業港・漁業港・工場・魚市場・倉庫・水産物加工場が津波にあった。石巻港が3月11日に津波に襲われた際の動画を紹介しておく。

被災後の景況については、6月5日の写真を出しておく。7月26日には、いくつかの工場で再建工事に着手する動きがみられた。

日本製紙石巻工場(2011年6月5日)

日本製紙石巻工場(2011年6月5日)

石巻市漁港(2011年6月5日)

石巻市漁港(2011年6月5日)

そして、港湾部の背後の低地にあった市街地が津波の直撃を受けた。この地域をよくみると、最も海側の家屋が被害が大きかったことがみてとれる。

石巻市海岸部の市街地(2011年6月5日)

石巻市海岸部の市街地(2011年6月5日)

これらの低地にあった市街地のうち、最も被害の程度が大きいのが門脇町・南浜町であった。この地点は、単に津波に被災しただけではなく、火災が発生したため、より甚大な被害となった。

日和山より門脇町・南浜町方面をみる(2011年7月26日)

日和山より門脇町・南浜町方面をみる(2011年7月26日)

なお、門脇町と思われる部分が津波と火災に襲われる動画をここで紹介しておこう。前半は多少見にくいのであるが、後半の火災はよくわかる。

門脇町の背後にある日和山は、標高約55mに達し、中世には石巻周辺の領主であった葛西氏が石巻城を築いていたところである。こことその周辺は、津波被災を免れた。しかし、門脇町の火災からの延焼を防ぐのに必死であったと伝えられている。ここは、現在、門脇町などの津波被災地を見下ろせるスポットになっている。ここを訪問した時、ボランティアとおぼしい人々が多く訪れていた。

日和山(2011年7月26日)

日和山(2011年7月26日)

日和山のさらに後ろ側に、中央・立町などの石巻市市街地中心部が広がっている。ここも津波被害を受けたが、現在みると海岸部の市街地ほどではない。原形を保った家屋もかなり多く残存している。現在のところ、ぼつぼつと、何等かの営業を行っている店舗がみられる。

石巻市立町大通り商店街(2011年7月26日)

石巻市立町大通り商店街(2011年7月26日)

今や、かなり片付いているが、3月11日には、このあたりも一階部分は水没し、車などが流れていた。中央二丁目10-13の特定非営利活動法人石巻スポーツ振興サポートセンター事務局から、引き波を撮影した動画をここで紹介しておこう。

石巻は、それこそ起源は中世にさかのぼる古い町であり、近世から近代にかけても舟運の中心地として栄えた。古い建物が残っているが、それも被災していた。

観慶丸商店(2011年7月26日)

観慶丸商店(2011年7月26日)

中州に移築された旧石巻ハリストス正教会教会堂(2011年7月26日)

中州に移築された旧石巻ハリストス正教会教会堂(2011年7月26日)

なお、地盤沈下の影響と思われるが、海・川の水面が上昇しており、河畔では土嚢が積まれていた。女川や気仙沼でも感じたのであるが、この地盤沈下がかなりの問題となっていると思われる。

旧北上川河畔(2011年7月26日)

旧北上川河畔(2011年7月26日)

さらに内陸部の国道などには駐車場の広い郊外型の店舗が数多く所在している。このあたりも津波被災しているはずだが、かなり多くの店舗が営業を再開している。前日みた多賀城市のようであった。今、どの地方にいっても、市街地中心部の商店街よりも、郊外型の店舗のほうが活気あるといえるのであるが、その違いといえる。課題は、津波だけではないのである。

なお、街中をよくみたためかもしれないが、ボランティアを数多くみかけた。女川町・気仙沼市などよりも多いようであった。

参考文献:東京工業大学真野研究室『石巻まちあるきマップー石巻の歴史ガイド、再開店舗・活動ガイド』

Read Full Post »

昨日(7月25日)のブログで24日の多賀城市の津波被災地に行ったことを伝えた。7月26日には、石巻市・女川町、7月27日には、気仙沼市の津波被災地の見分を行った。

中世史研究者2名、近代史研究者1名がともに見分した。私個人は運転するほうにまわり、それほど写真撮影をしていない。

詳細は、後日ブログに書くことを予定している。

ただ、印象をここで記しておく。

石巻は、ようやく市街地中心部の津波被災状況が把握できたと思う。まずは、石巻港とその背後の工場地帯・倉庫地帯・水産物加工場地帯が被災し、その背後の市街地が津波の直撃を受けたといえる。もっともひどいところが門脇町ということになるだろう。さらにその背後の石巻市中心部市街地も津波が襲ったが、すべての家が全壊するほどではなかったようだ。そして、市街地中心部の一部の店舗は営業を始めているようである。

女川については、ほとんど山奥というところまで、津波に被災したことがわかった。また、昨日行った午後は、潮が満ちてきたらしく、埠頭の内側にかなり浸水していた。五箇浦湾の漁港は、それぞれの地域ごとに仮設住宅が作られていた。

気仙沼市の津波被災地(2011年7月27日)

気仙沼市の津波被災地(2011年7月27日)

本日行った気仙沼市については、湾の一番奥が、もっとも被災していたことがわかった。巨大な船が残留されていた。

それにしても、仙台ー石巻間の三陸道は大渋滞を起こしており、今回の見分において大きな支障となった。そのため、予定していた南三陸町などに足を踏み入れることはできなかった。

それに、変な話であるが、どこでも仏壇屋の新規開業が目立った。

被害も各所で大きく違っているが、復興の度合いもかなり違っている。それについても、詳述したい。

Read Full Post »

2011年7月25日、数名の友人たちと多賀城市を訪れた。

陸奥国府である多賀城は869年の貞観地震で破壊されたというところである。そのことを伝える『日本三大実録』の現代語訳をここでのせておく。

5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立っていることができなかった。ある者は(倒壊)家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑み込まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合うなどし、城や数知れないほどの倉庫・門櫓・牆壁[10]などが崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難することができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。
(http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87_%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81より)

2011年3月11日もこの地は地震・津波で被災した。6月24日の集計では、死者187名、行方不明者3名、全壊家屋1549棟、半壊家屋2353棟、一部損壊は948棟となっている。まさに、多賀城の城下にあたる多賀城市八幡の津波被災を伝える動画を以下に示す。

(<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/OrsYTS7TUqQ&quot; frameborder="0"より)

現在、現地に行ってみると、国府多賀城跡そのものは高台にあり、貞観地震でも東日本大震災でも津波被災は受けなかったと思われる。

多賀城跡遠望

ただ、遺跡の一部で開発が規制されていると思われる場所(平時には駐車場であるように思われる)が瓦礫の集積場になっていた。

多賀城跡周辺の瓦礫集積場

多賀城跡周辺の瓦礫集積場

ただ、この地域では、さすがに復興にむけた動きが目立った。多賀城市には仮設住宅が建設されている。

多賀城市の仮設住宅

多賀城市の仮設住宅

また、激甚な津波被災を受けたと思われる多賀城市八幡も、かなり商店が復興していた。

7月25日現在の多賀城市八幡

7月25日現在の多賀城市八幡

よくここまで復興したという感がある。

しかし、より海岸部は、津波被災の爪痕をまだみることができる。さすがに仙台塩釜港は再開していたが、その周辺は、まだかなり荒涼としていた。夏なので、草が成長していたが、いまだ、自動車や木などが散乱している。ここでは、仙台市宮城野区蒲生前通の景況を示しておく。

仙台市宮城野区蒲生前通

仙台市宮城野区蒲生前通

ここも、被災直後は、こんな状態であった。

Read Full Post »

Older Posts »