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『「フクシマ」論』

『「フクシマ」論』

2011年6月30日、開沼博さんの『「フクシマ」論ー原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)が出版された。開沼さんは、現在東大大学院博士課程に在籍中で、本書は修士論文である。本書の内容を概括すると、開沼さんが、資料の渉猟と、関係者の聞き書きによって、福島第一原子力発電所周辺の地域社会と原発の関係について考察したものである。

まず、青土社のホームページより、本書の目次を示しておこう。

「フクシマ」 を語る前に

第Ⅰ部 前提

序章   原子力ムラを考える前提―― 戦後成長のエネルギーとは
       1 はじめに
       2 「翻弄される地方・地域の問題」 の複雑さ
       3 『田舎と都会』
       4 地方の服従と戦後成長という問い

第一章 原子力ムラに接近する方法
       1 原子力ムラという対象
         1・1 戦後成長とエネルギー
         1・2 原子力ムラとは何か
         1・3 原子力の三つの捉え方
       2 これまで原子力はどう捉えられてきたか
         マクロアプローチ
         メゾアプローチ
         ミクロアプローチ
         葛藤から調和へ
       3 どのように原子力を捉えるのか

第Ⅱ部 分析

第二章 原子力ムラの現在
       1 原子力の反転
         1・1 「クリーン」 な原子力
         1・2 「脱原発の兆し」 と原子力ムラ
         1・3 原子力ムラの秩序
       2 原子力を 「抱擁」 するムラ
         2・1 方法の再確認―― 「抑圧」 「変革」 からの脱却のための 「経験」 への注目
         2・2 中央からの切り離し
         2・3 流動労働者の存在と危険性の認識―― 原子力ムラが排除するもの
         2・4 中央を再現するメディアとしての原子力―― 原子力ムラが包摂するもの
       3 原子力ムラの政治・経済構造
         3・1 反対の極から推進の極への 「転向」―― 二値コミュニケーションの転換
         3・2 原子力ムラの経済依存―― 地元雇用と波及効果
       4 佐藤栄佐久県政―― 保守本流であるがゆえの反原子力
         4・1 「保守本流」 としてのスタート
         4・2 「中央」 と 「原子力ムラ」 のはざまでの 「地方」 のゆらぎ
         4・3 「中央」 との対峙
         4・4 突然の幕切れと 「二つの原子力ムラ」―― なぜ 「地方」 は逆戻りしたのか
         4・5 なぜ、佐藤栄佐久県政において原子力はゆらいだのか―― 電力自由化と五五年体制の崩壊

第三章 原子力ムラの前史―― 戦時~一九五〇年代半ば
       1 戦時体制下のムラ
         1・1 戦時下における貧しいムラの動員と変貌
         1・2 中央の余剰の引き受けてとしてのムラ―― 起死回生のプロジェクトから
       2 戦後改革と混乱するムラ―― 常磐炭田と大熊町
         2・1 地方自治政策の変化とエネルギー政策の転換―― 常磐炭田のヤマ
         2・2 戦後改革とムラの混乱―― 自律的であるがゆえの国家への取り込み
       3 中央とのつながりの重要性
         3・1 反中央・反官僚の戦い―― 佐藤善一郎の選挙
         3・2 福島県と電力―― 中央‐地方関係の確立
         3・3 主体性をもった地方の誕生―― 巨大電源開発プロジェクト
       4 変貌するムラと原子力―― 原子力ムラ誕生への準備
         4・1 中曽根康弘と正力松太郎―― 中央の政治・メディアにおける原子力と戦後復興
         4・2 ムラの変貌―― 「村の女は眠れない」

第四章 原子力ムラの成立―― 一九五〇年代半ば~一九九〇年代半ば
       1 反中央であるがゆえの原子力
         1・1 「地方への」 から 「地方からの」 への転換―― 原発誘致のエージェント
         1・2 原子力イメージの連続と断絶・原子力ムラの成立
       2 原子力ムラの変貌と完成
         2・1 原子力がムラにやってきた―― わらぶき屋根が瓦屋根へ
         2・2 東電による雇用拡大と農業の変化・出稼ぎからの解放
         2・3 ムラの変貌と成長の夢
         2・4 中央から来る 「近代の先端」 に映る自画像
         2・5 変貌の影の露呈
       3 原子力ムラと 〈原子力ムラ〉―― メディアとしての原子力

第Ⅲ部 考察

第五章 戦後成長はいかに達成されたのか―― 服従のメカニズムの高度化
       1 中央‐ムラ関係におけるメディエーター(媒介者)としての地方
       2 ムラの変貌と欲望
       3 戦後成長とエネルギー
       4 内へのコロナイゼーション

第六章 戦後成長が必要としたもの―― 服従における排除と固定化
       1 他者としての原子力ムラからの脱却
       2 排除と固定化による隠蔽―― 常磐炭田における朝鮮人労働者の声から
       3 成長のエネルギー

終章   結論―― 戦後成長のエネルギー
       1 原子力ムラから見る服従の歴史
       2 統治のメカニズムの高度化
       3 成長に不可欠な支配の構図
       4 幻想のメディア・原子力と戦後成長

補章   福島からフクシマへ
       1 「忘却」 への抗い
       2 「4・10」
       3 忘却の彼方に眠る 「変わらぬもの」―― ポスト3・11を走る線分


参考文献
あとがき

関連年表
索引

[著者] 開沼博(かいぬま・ひろし)
1984年福島県いわき市生まれ。2009年東京大学文学部卒。2011年東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。

副題にある「原子力ムラ」という概念が、開沼さんの独自のものであることを忘れてはならない。今、一般的には、「原子力ムラ」といえば、電力会社・原子炉メーカー・大学・経済産業省などの、いわば「原子力業界」をさしている。開沼さんも全くそういう意味で使わないわけではない。しかし、概ね、開沼さんの「原子力ムラ」は、原発を受け入れた地域社会をさしている。

開沼さんの議論は、暴力的に概括すれば、原発を積極的に受け入れている地域社会側の論理を内在的に把握しようとするものであるといえる。開沼さんによれば、すでに戦前期より、ムラー地域社会は、中央(政府・資本)の側の「部品化」を積極的に受け入れることによって、近代化を達成しようとしており、また、それが実現できなければ存立できない状況となっていた。原発の受け入れも、その一つの手段であり、国策としての原発立地をムラー地域社会(やはりムラは変だ)は、近代化を達成しようとした。そして、その論理は、推進/反対という二分法ではなく、愛郷/非愛郷というものであるとしている。そして、反対派すらも「愛郷」という論理で抱擁するとしている。つまりは、原発推進も、原発反対も「愛郷」なのであり、その意味で反対派も「抱擁」されているというのである。そして、原発が実際に建設され、地域社会(ムラは変だから使わない)の住民や自治体財政が原発に依存するようになると、この「愛郷」という論理が、強固な原発推進のバックボーンとなると開沼さんは述べている。

そして、このような地域社会においては、このようなことが一面で起こるとする。

全体に危機感が表面化しない一方で、個別的な危険の情報や、個人的な危機感には「仕方ない」という合理化をする。そして、それが彼らの生きることに安心しながら家族も仲間もいる好きな地元に生きるという安全欲求や所属欲求が満たされた生活を成り立たせる。
そうである以上、もし仮に、「信じなくてもいい。本当は危ないんだ」と原子力ムラの外から言われたとしても、原子力ムラは自らそれを無害なものへと自発的に処理する力さえ持っていると言える。つまり、それは決して、強引な中央の官庁・企業による絶え間ない抑圧によって生まれているわけではなく、むしろ、原子力ムラの側が自らで自らの秩序を持続的に再生産していく作用としてある。

さらに、開沼さんは、Jヴィレッジ(東電が広野町に建設したサッカー施設)や、そこを本拠地とする東電女子サッカー部マリーゼ(なでしこリーグ所属、現在活動停止中)、「原子力最中」、「回転寿しアトム」、原発PR館などにふれながら、このように指摘している。

直接的に原発・関連施設がイメージされるか否かという点に関わらず、原子力ムラには、これらのように原子力を身近なものとし、原子力自体やそれに媒介された文化が成立する。これらの例からは、原子力を持つことと引き換えに、あるいは原子力を通して、原子力ムラが自らを肯定する文化を歴史的に作り上げてきているということが言えるであろう。本節の冒頭で示した「原子力ムラは何を包摂するのか」という問いに答えるならば、原子力ムラは原子力によってムラにもたらされたアイデンティティや中央の文化を、決して他者によって設計され無理やり押し付けられたというわけではなく、自ら取り込みながら包摂していったということができるだろう。

私のように「俄か」に原発のことに関心をもった人間からいえば、非常によく調べられており、多少嫉ましい思いもする。全体でいえば、従来反対運動側から、「敵対者」として外在的にしか捉えられてこなかった地域社会における原発推進派の論理を、内在的に把握しているといえる。私も、原発推進側の論理においては、「愛郷」意識に基づいた主体的な選択という側面があることは感じていた。しかし、このような形で言語化できなかった。また、「原子力安全神話」「原子力文化」についての指摘も的確だと思う。

ただ、逆に、地域社会における原発推進の論理をあまりにも内在的かつ精密に理解したがゆえに、その相対化が十分はかれないこともあるように思える。これは、研究対象に肉薄したためともいえるのであるが…。

まずは、「原子力ムラ」-地域社会の内実をみてみよう。「ムラ」という概念に、さっきから違和感を感じていた。開沼さんの「原子力ムラ」は、いわば立地自治体レベルの話なのではないか。例えば、福島第一原発でいえば大熊町・双葉町、福島第二原発でいえば富岡町・楢葉町、浪江・小高原発(東北電力)でいえば浪江町・旧小高町のレベルについて語っているように思われる。そして、その首長たち、議員たち、そして彼らに密接に結びついている住民たちについては、確かにそのような「ムラ」意識をもつだろう。しかし、普通「ムラ」といえば、藩制村にさかのぼるより共同体的な部落をさすのではなかろうか。そのレベルでの「愛郷」という意識は、自治体レベルの「愛郷」とは違うだろう。そして、このような共同体的な部落において、福島第二原発における富岡町毛萱、浪江・小高原発における浪江町棚塩のように、反対運動が生まれたのである。いわば、「ムラ」とは、階層性を有している。反対運動を抑圧していく過程は、自治体レベルの「ムラ」が、部落レベルの「ムラ」を抑圧し、さらには「愛郷」という旗印を独占していく過程でもあるだろう。推進派の側は、それを「忘却」しており、逆に彼らからいえば、そのようなことは見えないのである。ある意味では、内在的にみることにつとめた結果、開沼さん自身も視野狭窄に陥っているような印象を受ける。もちろん、すべてを論じることはできないので、ある種の限定は必要である。ただ、なんというか「原子力ムラ」としてしまうと、内部が一枚岩の印象を受けるのだ。確かに推進派からいえば反対派は抱擁されている存在なんだろう。しかし、反対派からいえば、とても「抱擁されている」とは感じないであろう。

次いで、まあ、これは無い物ねだりなのだが……。「原子力ムラ」の論理を、やや性急に戦後社会の地域開発全般に結びつけているような気がする。確かに、戦後社会の地域開発全般の論理は「原子力ムラ」の論理と通底しているといえる。しかし、原発開発は、放射線被害以外でも、地域開発一般からみれば、特異な開発でもある。製鉄所・石油コンビナート・港湾整備などと比べれば、原発開発は雇用や副次的な開発などの波及効果が少ない。それゆえに電源交付金という制度ができたといえる。全般的な地域開発への展望については、原発以外のものもみるべきであると思う。

さて、一番の問題は、3.11以後、開沼さんのいう「原子力ムラ」がどうなるのかということである。開沼さんは、このように言っている。

福島において、3.11以後も、その根底にあるものは変わってはいない。私たちはその現実を理解するための前提を身につけ、フクシマに向き合わなければならない。さもなくば、希望に近づこうとすればするほど希望から遠ざかっていってしまう隘路に、今そうである以上に、ますます嵌りこむことになるだろう。

そして、何も変わらない証左として、高円寺の原発反対反対デモがあった4月10日の統一地方選において原発立地自治体ではおおむね原発推進派が勝利したこと、そして、福島第一原発事故で離郷した人々が柏崎刈谷原発などに再雇用されていくことなどをあげている。単純化すれば、「原子力ムラ」は原発を必要としているというのである。

そして、開沼さんの攻撃対象は、「原子力ムラ」をかえりみない知識人に向けられる。

原発を動かし続けることへの志向は一つの暴力であるが、ただ純粋にそれを止めることを叫び、彼らの生存の基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない。そして、その圧倒的なジレンマのなかに原子力ムラの現実があることが「中央」の推進にせよ反対にせよ「知的」で「良心的」なアクターたちによって見過ごされていることこそ最大の問題がある。とりあえずリアリストぶって原発を擁護してみる(ものの事態とともに引っ込みがつかなくなり泥沼にはまる)か、恐怖から逃げ出すことに必死で苦し紛れに「ニワカ脱原発派」になるか、3.11以前には福島にも何の興味もなかった「知識人」の虚妄と醜態こそあぶり出さなければならない。それが、40年も動き続ける「他の原発に比べて明らかにボロくてびっくりした」(前出、30代の作業員)福島原発を今日まで生きながらえさせ、そして3.11を引き起こしたのは確かなのだから。

確かに、3,11以前の福島第一原発の地元の人たちなら、こういったかもしれない。今でも佐賀県玄海町やその他の原発立地自治体では、こういう声が聞けるかもしれない。開沼さんの話は、まさに原発を維持し続ける強固な構造が「原子力ムラ」-地域社会にはあるということなのである。そして、そんなことを無視し続けた知識人こそ「最大の問題」なのである。

確かに無視していたと思う。「知識人」がどうかはわからないが私も反省する。

しかし、これは、3.11以後の「フクシマ」の現実なのだろうか。福島第一原発事故で、期間は不明ながら、離郷せざるをえない人々は、どこに住んでいるのか。いまだに「原子力ムラ」に住んでいるのか。確かに、「原子力ムラ」に戻りたいという意識はあるだろう。しかし、そんなことは可能か。それこそ、福島第一原発で事故処理を扱うことくらいしかできないのではなかろうか。それで、住んでいるといえるのか。

「愛郷」は、確かに開沼さんのいうように、原発推進の論理であっただろう。3.11以前には。しかし、離郷せざるをえない人々の「愛郷」は、離郷せざるをえない原因となった「原発」に向かうのだろうか。推進派の人々も含めて、「原子力ムラ」自体が根扱ぎにされてしまった。福島に限定していうなら、それが、3.11以後の「原子力ムラ」の現実である。

福島で、原発反対運動をしていた人々の意識には、このようなことになることへの恐れがあった。彼らには、それが「愛郷」であったのだ。

今の状況において問題なのは、「変われるかいなか」ではない。「変わらされてしまった」のであり、それを前提にどのように行動するかなのだ。

それは、一方で、「原子力ムラ」の外部の人間にもいえるのだ。確かに「外部者」は無関心であったといえる。しかし、結局、放射線汚染は拡大し、それへの恐怖は一般化してしまった。そのような恐怖を抱いているのは東京の人間だけではない。福島県の近隣住民も恐怖を抱えている。そして、それは、他の原発自治体の近隣にもひろまっていく。受益もないのに、恐怖だけが蔓延することになる。原発は、もはや、中央と「原子力ムラ」だけの問題ではないのである。

その意味で、開沼さんの結論には、異論がある。よく調べており、対象地域の人々の意識に内在するがゆえにとは思うのであるが、そのために、基本的な事実、福島第一原発事故をどうとらえるかということがよくわからない。そして、それが、学問的には素晴らしい成果を、より深めて考えていくことの一助になると……。いやはや「俄か」がなに偉そうにと言われるだろうが。

興味深いとともに、違和感をもつ論考であった。機会があれば、もっと論じてみたいと思う。

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2011年7月26日の午後、石巻についで女川を訪れた。

女川にいってみると、前と同様、人影がなかった。直前に訪問した石巻は、もちろんそれほど人はいないにせよ、多少はボランティアもおり、開いている店舗もあった。それと比べると、人の少なさが目立った。

前よりは、瓦礫がかたづけられているようだった。そして、被災地には石灰がかけられていた。たぶん、消毒のためであろう。

山奥のほうにいってみた。後で地図をみると、女川駅後方の大原というところであろう。山の奥まで、一軒の家もなかった。

道が山道にかわるところに、たぶん倉庫として使っているらしい建物があった。

津波で残った女川の家屋(2011年7月26日)

津波で残った女川の家屋(2011年7月26日)

しかし、その下の方は、すべての家屋が流され、基礎くらいしか残っていない。たぶん、大きな瓦礫は片づけられたと思われるが、小さな瓦礫はまだ残されていた。周りは完全な山であり、ウグイスなどが鳴いていた。津波の高さは20mといわれている。ここまで到達したのである。

女川の山奥にある津波被災地(2011年7月26日)

女川の山奥にある津波被災地(2011年7月26日)

女川港におりてみると、港の各所で海水が浸水していた。次の一枚をみてほしい。

女川港に浸水する海水(2011年7月26日)

女川港に浸水する海水(2011年7月26日)

画面の奥の方にあるのが岸壁の線である。それをこえて、かなり奥まで、海水が浸水していた。

次の写真のほうが、もっとよくわかるだろう。離島に向かう連絡船の桟橋であるが、まるで海に浮かぶ島のようになっている。

女川港桟橋(2011年7月26日)

女川港桟橋(2011年7月26日)

http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E7%94%BA&ie=UTF8&hq=&hnear=%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E7%89%A1%E9%B9%BF%E9%83%A1%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E7%94%BA&gl=jp&t=h&brcurrent=3,0x5f89afdc40dbda41:0x39d5eb2cdf8440fb,0&ll=38.445455,141.444383&spn=0.016133,0.027466&z=15&iwloc=A&output=embed
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地面を見ると、このような状態である。道路は地盛りしているが、その下の地面ーたぶん、元来の道路は、完全に水没している。

女川港の地面(2011年7月26日)

女川港の地面(2011年7月26日)

6月5日にきた際には、これほどではなかった。次の写真は、女川港の別のところをとったものであるが、完全に水没するほどではないことがわかる。

女川港岸壁(2011年6月5日)

女川港岸壁(2011年6月5日)

今回は、満ち潮となり、女川港の各所はかなりの規模で海水の浸水を受けていたのである。

もちろん、地盤沈下のためである。少々の盛り土では追いつかないのである。かなり大規模に嵩上げが必要になっているといえる。

それが、女川のかかえている大きな課題と思えた。高台移転、漁港集約化、仮設住宅建設だけでなく、女川港自体の地盤の嵩上げが必要となっているのである。

ある意味では、今は、住民の生業を確保するため、漁港などの応急的「復旧」を行うこと、これが最も必要とされていると感じた。

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さて、今回は、石巻市で配布されたパンフレットである「石巻まちあるきマップ」を紹介しよう。このマップは、東京工業大学真野研究室で作成されたものである。まず、第一面をみてみよう。表題には「石巻まちあるきマップー今、再開店舗・活動ガイド」とある。

石巻まちあるきマップ1

石巻まちあるきマップ1

どうしても、画面が小さいので、http://ishinomaki2.com/map.pdfよりダウンロードしてみてほしい。この第一面の冒頭には、このような文章が載せられている。

津波に負けずがんばるまちなか

3.11の津波によって、石巻のまちなかは甚大な被害を受けました。
川縁から駅前にかけての商店街ではほとんどの店舗で1階部分が浸水し、
ヘドロまみれになりました。
商店主や住民の方々はそれでもこの場所を捨てずに、
津波の被害と向き合いながら、
ボランティアの力を借りながら、
失業を再生させています。
そんな、まちなかの人々のがんばりを集めてマップにしてみました。
お気に入りのスポットを探してみてください。

そして、その下には、市街地中心部の被災状況を記載した地図が載せられている。いわば、石巻の「現在」がここに表現されているといえる。もっとも甚大な被害を受けた地域は、南側の門脇町地域である。そして、日和山・羽黒山の高台は津波被災を免れた。しかし、旧北上川から石巻駅にかけての商店街は浸水したことが示されている。

ここには、①被災状況と復興の足がかりツアーの経路が示されている。この経路では、どちらかといえば、まだ被害の程度が軽かった地域があげられている。確かに、門脇町方面は徒歩では危険であり、さらに多くの人が亡くなった鎮魂の場所でもあろう。

そして、その右側には、中心部の商店街の地図が掲載され、その下には「商店街再開店舗情報(2011年7月21日時点)」が書かれている。一応73店舗が営業しているということであった。しかし、実際行ってみると、パラパラと営業している感じである。「現在」の情報であるが、「未来」にむけたものといえる。

こういっては悪いのだが…駐車場の情報がないので、車では行きづらい。駐車場も、看板はあっても営業していないところもあった。

この市街地中心部の地図には「夜の石巻ディープツアー」のルートが記載されている。その関連で、このような記事が掲載されている。

64 復興BAR
広小路で被災したBARである「French Quater」を改装し、”復興バー”として復活。今この瞬間しか味わえない復興直前ともいうべきこの石巻のストリートのど真ん中で地元酒蔵の銘酒や冷えたビールを楽しんで下さい。

本当に営業しているかとおもって、http://ishinomaki2.com/2011/07/をみたら、7月27日の開店時には満員だったそうである。確かに、人がよりあえる場が必要だと実感した。

復興バー、初日から満員御礼

復興バー、初日から満員御礼

津波の被害をうけたビルを修復した「復興バー」、
広小路通りにオープンしました。

信号も復旧しておらず、薄暗さがヨーロッパの町並みを彷彿するような
街角で小さなお店が隠れてしまうほど大きな開店祝いの花輪が飾られ
店内の外まで人があふれるほど沢山のお客様が集まりました。

復興バーでは各種カクテルの他、松村マスター特製のパスタなど
軽食も用意しています。(7月27日)

それ以外にも、かなり「盛り場情報」が載せられている。

54 Cofee Shop Roots
橋通りで被災した榊洋品店の夫婦が、隣の空き店舗を利用して誰にでも立ち寄れるカフェをオープン。昼間はボランティアや近所の方々で賑わっており、カフェの周りの路上で若者達が集まり、夜な夜なライブを行っている。
STAND UP WEEK中は太陽熱でお湯をつくるシステムをみんなの手でつくりながら、できるだけ自然のエネルギーで運営できる「自然エネルギーコーヒーショップ roots」となった。

なお、このSTAND UP WEEKについて、http://ishinomaki2.com/2011/07/には、次のように説明されている。川開き大会にあわせたイベント期間のようである。

毎年夏、石巻最大の行事、川開き祭りが開催されます。
今年も色々な意見がある中、今年も開催が決定しました。
我々ISHINOMAKI 2.0は、この非常に意味がある今年の川開き祭りを復興の一つのスタートと考えました。
祭り開催前一週間からSTAND UP WEEKと題し、中央商店街の一部の商店や建物を東京と石巻の有志が一緒になり出作りで(手作り)再利用し、新しいアイディアを注入したお店作りやシンポジウムを開催しながらこれからのまちづくりのヒントやきっかけを生み出したいと考えています。

期間:7/23(土)~8/1(月)
会場:石巻中央の各所
会期中のインフォメーションセンターをアイトピア通りボックスピア内旧富士ツーリスト(現ISHINOMAKI2.0 オフィス)に設置し、Stand Up Weekについてのすべての情報を手にすることができます。インフォメーションセンターではそれぞれのプログラムの場所や協賛店舗の場所を記したマップを配布します。

路上ライブもイベントらしい。http://ishinomaki2.com/2011/07/は、このように伝えている。

音楽ライブ ステージ

レゲエをはじめ音楽がさかんな街、石巻ならではの音楽ライブを野外のステージで開催。東京からはHIFANAが参戦。地元石巻からは、ちだ原人が参戦!?また、地元石巻のカホン工房アルコの協力でHIFANAカホンワークショップも開催
会場:コーヒーショップroots(橋通り)前広場他
出演アーティスト:HIFANA、ちだ原人 他
協力:RT CAMP、W+K 東京LAB、カホン工房アルコ

また、このような記事もある。なんか、いろいろな意味で想像つかないのであるが。

45 Be-in
被災前は小鳥屋さんだった。寿町通りの小さな一角を占める店舗。現在は救援物資として大量に寄付された衣類を販売している。オーナーが誰も聞いていなくても、よなよなギターをもって歌い出す。

私が7月26日に訪ねたところもある。実際、記事通りに一階ではTシャツなどが販売されていた。そして、さらに、石巻市市街の写真展がおこなわれていた。

50 かめ七
震災後、呉服屋の店舗を仮に地域のイベントスペースとして活用中。2階は地域での活動のためにいつでもネットが使えるスペースとしている(通称:「ネットかめ」)
商店街の有志によるリバイバル石巻プロジェクト(RIP)のTシャツ販売窓口となっている。オリジナル商店のカラフルな「かめタオル」はボランティアに大人気。

その他、前回のブログで市街地中心部の津波被災の状況を映した石巻スポーツ振興センターも「スポーツショップマツムラ」に所在していることが明記されている。

なお、「石巻まちあるきマップ」とは直接関係ないが、http://ishinomaki2.com/2011/07/は、無料野外映画上映会が開催されることを伝えている。写真もアップしてみた。不謹慎とは思うが、壊れた建物の間での、幻想的な光景に思えた。

無料野外映画上映会

阿部新旅館跡地を利用して無料野外映画上映を一週間に渡り開催。同じ並びにあるビルの壁面をスクリーン代わりにし、この石巻のこの夏でしか体験出来ない映画を体験してもらいます。同場所にては、ベルギーカフェWb2I caféもオープン。映画を見ながらおいしい食べ物と飲み物も楽しめます。
会場:阿部新旅館 跡地 石巻市中央二丁目7-23
上映期間:7/23 – 7/31 8/1のコンテンツは検討有
上映映画:未定(詳しい内容は本サイト上で随時更新されます)

無料野外映画上映会(2011年7月23日)

無料野外映画上映会(2011年7月23日)

第二面は、「石巻まちあるきマップー昔、石巻の歴史ガイド」と題されている。調査協力として千石船の会、邊見清二があげられている。いわば、石巻の「過去」-特に市街地を扱ったものである。左の方に写真と説明、右の方に地図が掲載されている。近世の石巻は、仙台藩他が蔵屋敷をもち、さらに廻船問屋が立ち並んでいたとされている。近代になると、鉄道敷設と内海橋架設によって、東西方向にも街並みが形成され、新たな横丁や通りが開かれたとしている。また、石巻の劇場もここで紹介しているのである。

石巻まちあるきマップ2

石巻まちあるきマップ2

「過去」「現在」「未来」が、この「石巻まちあるきマップ」には凝縮されているといえる。そのうちで、最も興味深かったのは「未来」の部分であった。「未来」の部分では、「若者」を意識していたといえる。これは、東京工業大学真野研究室で作成されたものであるが、石巻市内でも配布されており、石巻住民の一部の意向もそこに盛り込まれているといえる。歴史を想起しつつ、「若者がよりつどう街」をめざすものと位置づけられるのである。

そして、随所で「ボランティア」についてふれているように、これは、ボランティアという「外部者」の視点を意識したものともいえるのである。

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一昨日(7月26日)、石巻市を再訪した。

石巻市は、6月24日の集計で、死者3110名、行方不明者2770名と、宮城県下では最大の人的被害を出したところである。家屋被害も、全壊18560棟、半壊2663棟、一部損壊10043棟、床上浸水6756戸、床下浸水8973戸にのぼり、全壊戸数では最多、全体でも仙台市に次ぐ規模にのぼった。

罹災概況図(石巻管内)

罹災概況図(石巻管内)

石巻市の被災状況は、大別して三つにわけられると思う。まず、旧北上川の河口、石巻湾にそって発達している市街地中心部、牡鹿半島や旧雄勝町に散在している小規模漁村、そして、北上川河口である。

石巻市街地は、多くの地域が津波に被災したといえる。まずは、石巻湾沿いに展開している工業港・漁業港・工場・魚市場・倉庫・水産物加工場が津波にあった。石巻港が3月11日に津波に襲われた際の動画を紹介しておく。

被災後の景況については、6月5日の写真を出しておく。7月26日には、いくつかの工場で再建工事に着手する動きがみられた。

日本製紙石巻工場(2011年6月5日)

日本製紙石巻工場(2011年6月5日)

石巻市漁港(2011年6月5日)

石巻市漁港(2011年6月5日)

そして、港湾部の背後の低地にあった市街地が津波の直撃を受けた。この地域をよくみると、最も海側の家屋が被害が大きかったことがみてとれる。

石巻市海岸部の市街地(2011年6月5日)

石巻市海岸部の市街地(2011年6月5日)

これらの低地にあった市街地のうち、最も被害の程度が大きいのが門脇町・南浜町であった。この地点は、単に津波に被災しただけではなく、火災が発生したため、より甚大な被害となった。

日和山より門脇町・南浜町方面をみる(2011年7月26日)

日和山より門脇町・南浜町方面をみる(2011年7月26日)

なお、門脇町と思われる部分が津波と火災に襲われる動画をここで紹介しておこう。前半は多少見にくいのであるが、後半の火災はよくわかる。

門脇町の背後にある日和山は、標高約55mに達し、中世には石巻周辺の領主であった葛西氏が石巻城を築いていたところである。こことその周辺は、津波被災を免れた。しかし、門脇町の火災からの延焼を防ぐのに必死であったと伝えられている。ここは、現在、門脇町などの津波被災地を見下ろせるスポットになっている。ここを訪問した時、ボランティアとおぼしい人々が多く訪れていた。

日和山(2011年7月26日)

日和山(2011年7月26日)

日和山のさらに後ろ側に、中央・立町などの石巻市市街地中心部が広がっている。ここも津波被害を受けたが、現在みると海岸部の市街地ほどではない。原形を保った家屋もかなり多く残存している。現在のところ、ぼつぼつと、何等かの営業を行っている店舗がみられる。

石巻市立町大通り商店街(2011年7月26日)

石巻市立町大通り商店街(2011年7月26日)

今や、かなり片付いているが、3月11日には、このあたりも一階部分は水没し、車などが流れていた。中央二丁目10-13の特定非営利活動法人石巻スポーツ振興サポートセンター事務局から、引き波を撮影した動画をここで紹介しておこう。

石巻は、それこそ起源は中世にさかのぼる古い町であり、近世から近代にかけても舟運の中心地として栄えた。古い建物が残っているが、それも被災していた。

観慶丸商店(2011年7月26日)

観慶丸商店(2011年7月26日)

中州に移築された旧石巻ハリストス正教会教会堂(2011年7月26日)

中州に移築された旧石巻ハリストス正教会教会堂(2011年7月26日)

なお、地盤沈下の影響と思われるが、海・川の水面が上昇しており、河畔では土嚢が積まれていた。女川や気仙沼でも感じたのであるが、この地盤沈下がかなりの問題となっていると思われる。

旧北上川河畔(2011年7月26日)

旧北上川河畔(2011年7月26日)

さらに内陸部の国道などには駐車場の広い郊外型の店舗が数多く所在している。このあたりも津波被災しているはずだが、かなり多くの店舗が営業を再開している。前日みた多賀城市のようであった。今、どの地方にいっても、市街地中心部の商店街よりも、郊外型の店舗のほうが活気あるといえるのであるが、その違いといえる。課題は、津波だけではないのである。

なお、街中をよくみたためかもしれないが、ボランティアを数多くみかけた。女川町・気仙沼市などよりも多いようであった。

参考文献:東京工業大学真野研究室『石巻まちあるきマップー石巻の歴史ガイド、再開店舗・活動ガイド』

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昨日(7月25日)のブログで24日の多賀城市の津波被災地に行ったことを伝えた。7月26日には、石巻市・女川町、7月27日には、気仙沼市の津波被災地の見分を行った。

中世史研究者2名、近代史研究者1名がともに見分した。私個人は運転するほうにまわり、それほど写真撮影をしていない。

詳細は、後日ブログに書くことを予定している。

ただ、印象をここで記しておく。

石巻は、ようやく市街地中心部の津波被災状況が把握できたと思う。まずは、石巻港とその背後の工場地帯・倉庫地帯・水産物加工場地帯が被災し、その背後の市街地が津波の直撃を受けたといえる。もっともひどいところが門脇町ということになるだろう。さらにその背後の石巻市中心部市街地も津波が襲ったが、すべての家が全壊するほどではなかったようだ。そして、市街地中心部の一部の店舗は営業を始めているようである。

女川については、ほとんど山奥というところまで、津波に被災したことがわかった。また、昨日行った午後は、潮が満ちてきたらしく、埠頭の内側にかなり浸水していた。五箇浦湾の漁港は、それぞれの地域ごとに仮設住宅が作られていた。

気仙沼市の津波被災地(2011年7月27日)

気仙沼市の津波被災地(2011年7月27日)

本日行った気仙沼市については、湾の一番奥が、もっとも被災していたことがわかった。巨大な船が残留されていた。

それにしても、仙台ー石巻間の三陸道は大渋滞を起こしており、今回の見分において大きな支障となった。そのため、予定していた南三陸町などに足を踏み入れることはできなかった。

それに、変な話であるが、どこでも仏壇屋の新規開業が目立った。

被害も各所で大きく違っているが、復興の度合いもかなり違っている。それについても、詳述したい。

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2011年7月25日、数名の友人たちと多賀城市を訪れた。

陸奥国府である多賀城は869年の貞観地震で破壊されたというところである。そのことを伝える『日本三大実録』の現代語訳をここでのせておく。

5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立っていることができなかった。ある者は(倒壊)家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑み込まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合うなどし、城や数知れないほどの倉庫・門櫓・牆壁[10]などが崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難することができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。
(http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87_%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81より)

2011年3月11日もこの地は地震・津波で被災した。6月24日の集計では、死者187名、行方不明者3名、全壊家屋1549棟、半壊家屋2353棟、一部損壊は948棟となっている。まさに、多賀城の城下にあたる多賀城市八幡の津波被災を伝える動画を以下に示す。

(<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/OrsYTS7TUqQ&quot; frameborder="0"より)

現在、現地に行ってみると、国府多賀城跡そのものは高台にあり、貞観地震でも東日本大震災でも津波被災は受けなかったと思われる。

多賀城跡遠望

ただ、遺跡の一部で開発が規制されていると思われる場所(平時には駐車場であるように思われる)が瓦礫の集積場になっていた。

多賀城跡周辺の瓦礫集積場

多賀城跡周辺の瓦礫集積場

ただ、この地域では、さすがに復興にむけた動きが目立った。多賀城市には仮設住宅が建設されている。

多賀城市の仮設住宅

多賀城市の仮設住宅

また、激甚な津波被災を受けたと思われる多賀城市八幡も、かなり商店が復興していた。

7月25日現在の多賀城市八幡

7月25日現在の多賀城市八幡

よくここまで復興したという感がある。

しかし、より海岸部は、津波被災の爪痕をまだみることができる。さすがに仙台塩釜港は再開していたが、その周辺は、まだかなり荒涼としていた。夏なので、草が成長していたが、いまだ、自動車や木などが散乱している。ここでは、仙台市宮城野区蒲生前通の景況を示しておく。

仙台市宮城野区蒲生前通

仙台市宮城野区蒲生前通

ここも、被災直後は、こんな状態であった。

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さて、ここでは、2011年5月27日、午後4時から女川高校で開催された、女川復興計画公聴会について述べておこう。この公聴会は、鷲神・小乗(女川町市街地南側)・浦宿(万石浦側)・出島(離島部)を対象として実施された。

ここでは、町長や鈴木浩会長の挨拶は省略する。

地区住民の第一声は、このようなものであった。

(地区民)
①女川町の道路の問題は、以前からあったが、道路を拡幅する考えは無いのか。
②衛星電話を活用したのか。県庁へ連絡したら女川町から連絡が無いと言われた。
③町指定の避難場所に備蓄が少なかったのではないか。
④町議会議員が、被災後アパートを借りた。町民の苦しみをもっと分かって欲しい。
⑤防災無線の津波避難の呼びかけを、もっと具体的にして欲しかった。
⑥安全安心の町づくりに原子力関係が載っていない。原発事故が発生すれば、復興計画も意味のないものになる。
(女川町役場サイトより)

ここで、ようやく、原発関連について、住民側から意見が出たのである。外部からみると「原発事故が発生すれば、復興計画も意味のないものになる」という指摘はもっともであるといえる。このことは、女川においても、福島第一原発事故の影響が及んできたことを示しているといえる。しかし、この指摘も、より個別の問題の中の一問題、いわば、ワンオブゼムであったことにも着目しなくてはならないであろう。

それぞれの個別のことについての町長らの回答は省略しておこう。原子力発電については、このように回答している。

(町長)
原子力発電所は、人間があらゆる努力をし、いかに信頼を勝ち取るかである。建設当時は、14mの高さは必要無いと言われていたが、「必要な高さだ」と主張したことにより実現している。現在も電源車、自家発電を加える努力をしている。

町長の意見は、電力会社があらゆる努力をし、それによって信頼を勝ち得ることが必要であるということである。これは、佐賀県の玄海原発再稼働問題における、佐賀県知事や玄海町長らの姿勢と基本的に同じであるといえる。言ってしまえば、努力したことに信頼できれば、女川原発の再稼働を認めるということと同義といえるのである。

ただ、原発問題の論議はここで紹介する以上されなかった。この公聴会でもやはり、高台移転、集落・漁港の集約化が一番の課題であった。ただ、地区住民の発言もさまざまである。

例えば、「計画案は、大筋で良いと思う。住民の協働、参加が必要である」という意見があったかと思うと、「高台移転は、本当に良いのか。高齢者が生活するには高台は大変である」という意見もあった。

町長と鈴木会長は、高台移転につき、設計や交通を確保する面で、高齢者に配慮することは述べた。しかし、全体としては、

(町長)
女川町は、私有権をとても大事にしてきた。しかし、町の8割が無くなったため、がれきを片付け、嵩上げが必要となる。造成後の案を簡単に言えば、100坪の土地を持っていれば、移転先に100坪の土地の権利を与えることも考えられる。半島部の土地も個人、共同と分けて使用したり、水産加工の規模も大小様々である。分野別に協同的に考えれば信用がつき、国もお金を出し、町も補助するなど、お金を引き出しやすくなる。

(鈴木会長)
皆さんが亡くなった後に、子ども達に不動産を引き継ぐ見通しがあるのか。地方では、子ども達がふるさとを離れる。相続の時点で、空き家になるということが問題になっている。ふるさとを離れた子どもたちは、その土地を売却したいが売れず、空き家が続出するということが、現実に問題となっている。このことをこれからのまちづくりで考えていかなければならない。

と言っており、高台移転・集落・漁港の集約化をすすめることは変わっていないといえる。

また、それぞれの地域の特性にあわせた意見も地区住民から出ている。例えば、

(地区民)
小乗地区では、住民と話し合いを行った。小乗地区内の高台に適地があり、コバルトラインとの接続も可能であるため、小乗地区への居住地設置を要望したい。

という意見が出た。町長は、今の場所に近いという要望は理解できる、検討したいと答えている。

一方、ここでもまた、「総合運動場が居住地になっているが、取り壊し、清水に移転するのは税の無駄ではないか」という意見が出た。それに対し、町長は「運動公園は利用者も多いが、陸上競技場の修繕に相当なお金がかかる。体育館については、残すことも検討したい」と答えているのである。

このように、まず、高台移転や集落集約化という、住民の居場所を確保するということが最も大きな課題であった。原発問題は、女川町住民にとっては、まだ、ワンオブゼムの問題であったといえよう。

ただ、福島第一原発の事故は、近隣町村の住民の居場所を根こそぎ喪失させたものといえる。その意味では、原発が立地する女川においても、抽象的な安全論ではなく、住民の居場所を根こそぎ喪失させる可能性をもつものとして、原発がとらえられるようになってきたともいえるのである。そのような変化も、ここで読み取ることができよう。

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さて、今回は、前回予告しておいた女川町市街地を対象として2011年5月27日に行われた女川町復興計画公聴会の景況をみておこう。この日の午前中には、前述のように女川町復興連絡協議会会員に対する公聴会が開かれた。そして、午後1~3時に、女川第二小学校において、女川・清水・宮ヶ崎・石浜地区(市街地北側)を対象とした公聴会が開かれた。ついで、午後4~6時に、女川高校において、鷲神・小乗・浦宿・出島地区を対象とした公聴会が開催された。鷲神・小乗は市街地南側、浦宿は万石浦側の集落、出島は離島部にある。

まず、市街地北側を対象とした公聴会の景況からみていこう。安住宣孝町長は、一日も早い復興が望まれるが、これほどの災害では復興に時間がかかることも承知されたい、自分の財産を捨てても町づくりに協力してもらう場面もあるが、生存権を生かされる新しい町づくりが必要であると述べた。その上で、以下のように主張した。

復興には大金がかかる。全国の皆さんも、今は熱い思いを持っており、どのような計画を立ててれば国民の皆さんの目を向けさせることができるかを考えている。今回の復興計画案は、あくまでも「たたき台」であり、結論を出している訳ではない。皆さんのご意見を聞かせていただくとともに、委員を信頼して欲しい。現状から少しでも脱却するために、閉鎖的な感情で考えられては困る。プランが国、県に信頼され、次の世代が期待を持てるような計画の姿を出したい。

さらに、町長は、半島部の公聴会では浜単位で居住地を確保してほしいという意見が出ているが、人口減少・高齢化が進んでいる状態では、行政サービス・コミュニティの問題が出てくると述べた。その上で、今回は町中心部の話をするとした。

町長は、復興には金がかかるので、国民総体が注目し、国や県に信頼されるようなプランが必要であると論じているのである。その意味では、そもそも、女川町独自の復興ではないのであり、国や県の予算が要請されているのである。

さらに、女川町復興計画策定委員会会長の鈴木浩(福島大学名誉教授)は、このようにあいさつした。

日本は、原子力問題で大きく揺れているが、私は、福島県復興ビジョン委員会の座長もやっている。反原発という思いもあるが、もっと自然エネルギーを活用する必要を感じている。
今回の震災の特徴は、日本経済の低迷、政治の混迷、地域社会の空洞化、地域コミュニティ低迷の中で起きた災害である。また、地震災害、津波災害が一度に起きた問題である。
復興ビジョンの中でも避難所から仮設住宅、そして定住までの流れになるが相当の時間がかかり、皆さんがどのような健康状態、生活、仕事をしていくのかという「つなぎ」、初動体制が重要である。今日示した中間案で皆さんを操ろうとする気は毛頭無いので、多くの皆さんの意見を聞かせていただきたい。

重要なことは、ここで鈴木会長が「反原発」の意識を前提にしつつ自然エネルギーの活用を主張している点である。すでに、5月1日に提示された女川町復興方針案でも「自立型エネルギーの整備 風力発電など自立型エネルギーの整備」と記載されており、5月9日の復興計画策定委員会にだされた復興方針案での拡充された形でかかれていた。長期停電による通信機能途絶を抑止するために、電力自給をおこなおうというものであった。ある意味では、現在の電力供給体制の代替を模索しようという意識がそこに窺える。

これに対し、住民からは、まず、このような意見が出た。

①ゾーニングの話に入る前に、今の状況は、仮設住宅に入れるかどうかと言う当面の生活に関することで不安を抱いている。住宅が流され、財産は土地しかない。その財産を元手に頑張っていきたい人もいると思う。仕事が無い状況では厳しいので、計画以前に、その対応について示して欲しい。
②清水地区で水産関係の鉄工業を営んでいる。仮工場を設置して良いのか?
③清水の奥に被災した家が残っている。嵩上げ等の話もあり、家をリフォームして良いのか、新築して良いのか、女川に住みたいが住み続けられるのか、計画の前に説明が必要である。

同一人物の話かどうかわからない。ただ、仮設住宅に入居できるかいなかの不安、土地しか残っておらず、その財産をもとにしか生活再建できないという訴え、現在の生業を再開してよいかいなかの疑問、清水町に残った家をリフォームしたいなどの要望がないまぜとなっている。

町長や鈴木会長は、仮設住宅の入居期限(二年間)の延長をはたらきかけることや、漁業者の有償がれき撤去などの「つなぎ」の仕事を実施すること、仮設店舗・仮設市場の設置、移転を前提とした形での生業の再開、被災した家屋のリフォームなど、当面の問題については理解を示した。しかし、例えば、仮設住宅問題については、非常に不安であったらしく、その後も何回も質問されていた。また、集合住宅を建設してほしいという意見もだされ、町長も前向きな姿勢を示していた。

一方、住宅地の高台移転について、町長は譲らない姿勢をみせている。

復興に必要な時期は地域で異なってくるが、宮城県が10年、女川町は8年を想定している。復興には時間がかかる…個々の生活についても喫緊の課題と捉えているが、個別の生活の話だけに終止してしまうと、進んでいかない側面もあることは理解していただきたい。
…新田、日蕨(いずれも女川市街地北側の清水地区内で、山側の地域)の奥でコミュニティが形成できるのかを考える必要がある。行政として電気、水道、医療、福祉等の効率的な問題もあるため、お互い歩み寄りながら個別交渉する場面もある。現状でプレハブを建てた人がいるが、そういうことを個別に行われたのでは、行政として対応しにくい…
…土地を強制的に整理すれば「しこり」が残る。造成後は、住むところは変わるが、従前の土地の権利をそのままに、新たな土地を提供するという考えでいる。等価方式等を今後検討していく。財源の確保のためにも、国に早急にプランを示し、認めてもらわなければならない。お盆前には、復興計画を確定したいと考えている。だから急いでいる。

等価交換方式で、住宅地の高台移転を推進するということであり、現住地のプレハブ建設などは認めないというのである。

町長と地区住民の間で問題になったのは、市街地北半部にある清水町の住宅地についてである。復興計画案でははっきり書いていないのであるが、このやりとりをみると、このようなものであった。清水町は、かなり海岸線から離れたところにあるが、標高が低いので、ここも津波被害にあった。その西隣の高台に運動公園が造成されている。町長の計画によれば、この運動公園に清水町の住宅地を移転し、現在の清水町に運動公園を移すというのである。

これについて、地区住民より反対の意見が出た。以下に示しておこう。

⑩各地区に造成を行い、居住地を設置して欲しい。
⑪40億円をかけた運動場を潰すことは無い。今の地区を生かせば良い。
(中略)
⑬スポーツ施設を移転するようだが何mの嵩上げ、どのくらいの期間がかかるのか。その期間スポーツができないのか。
⑭清水地区から嵩上げし住宅地にした方が、もっと早い復興になると思う。

このような意見に対して、町長は、このように答えている。

…地区毎のコミュニティ形成の問題もある。陸上競技場も相当の被害を受けており、修理には数億かかるため、移転を考えている。
(中略)
清水地区は、津波被害を受けた事実がある。清水地区は運動場であれば津波が来ても高台に逃げれば良いと考えており、移設を考えている。津波避難訓練をしても、500~600人程度の参加である。ソフトハードの両面から、新たな町は「常に津波を意識している」ということを意識したものにしたい。二度と同じ間違いは起こさない。

つまり、基本的は、半島部の漁村集落と同じ紛争が、ここ女川町の市街部でも起きていたといえよう。住民たちは、現状の宅地を前提として生活再建を考えている。また、既設の運動公園をとりこわすことについても忌避感を感じている。一方で、町長は、強行的に高台移転をすすめているといえる。漁業権問題はからんでいないことが違いといえよう。

このように、自分の居場所を確保するということ、それ自体がこの公聴会でもっとも議論されたことであった。それも、一つの闘いであろう。

そして、「町の産業が早めに動き、仕事ができるよう仮設店舗整備を進めて欲しい」、「復興計画を国に示すことで、国からの支援が厚くなると考えて良いか」という質問に答えて、町長と鈴木会長はそれぞれこのように答えた。

(町長)
町の産業の動きは二重債務の問題があり、長期間の時間がかかるが国にも要望している。産業界は、協同でまとまり動くことで、お金を効果的に引き出すことができる。「こういうことで意見を統一してきたのか」と思わせるような「まとまり」が重要である。例えば、二重債務の話でも、「女川町はどう困っているか、水産業はどう動こうとしているか」を問われ、個々にお金が出るものではない。水産業会一体となって、組合をつくって協同的に動くことで可能性が生まれる。現在、つなぎの仕事として、思いついたことを一つ一つ処理しているが、長期的な協同の視点も必要である。皆さんも各自の思いをまとめてほしい。

(鈴木会長)
政府が、復興支援法を議論している。その結果で被災地の復興内容は左右される。被災地の課題や要求の声を、どれだけ国が反映できるのかにかかっている。皆さんも関心をもって欲しい。

いうなれば、水産業へのテコ入れを「国」に要望するに際して、「協同」するというスタイルをとることが重要であると町長は主張している。鈴木会長も、国の方針によって左右されるといっている。結局は、国に依存するしか復興はないのである。

平時では、これは地方自治の問題である。しかし、現時点では、国に依存するしか、復興の道はないだろう。そもそも財政的基盤の弱い自治体であり、震災後税収も激減することが予想される。原発からの収入も、稼働してみたところで、復興費用全体をまかえるものではない。国費投入は必然なのである。

しかし、釈然としない思いはある。住民が居場所を確保したいという意欲と相反した形で復興はすすめてよいのだろうか。町長側の努力は認めるとしてもである。

次回以降、女川町市街地南側の公聴会についてみていこう。ここで、ようやく原発問題がとりあげられるのである。

なお、7月25~27日の三日間、仙台を根拠地にして、宮城県の津波被災地を巡見することを予定している。何も具体的には決まっていないが、たぶん、石巻や女川にも行くであろう。その間は、もしかすると、せいぜい巡見記録しかブログに出せないかもしれない。とりあえずおことわりしておく。

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2011年7月20~22日(つまり、このブログを書いている22日現在ということになるが)、女川町復興計画公聴会が開かれている。7月20日午前は高白浜(五部浦中心)で、午後は女川第二小学校(市街地中心)で、21日午前は女川高校(浦宿中心)で、午後は女川町復興連絡協議会会館で、22日午前は旧女川第三小学校(北浦中心)で行われることになっている。対象地域には送迎バスが出ることになっているとのことである。ただ、復興連絡協議会会館以外は、どれにでてもいいということになっている。

この女川町復興計画公聴会について、東京ではあまり報道されていない。ただ、テレビ朝日が20日夜の「報道ステーション」と21日朝の「やじうまテレビ」で報道されていた。

公式のホームページではないが、「テレビでた蔵」サイトでは、次のように要約している。私自身もみたが、大体、この内容であっていると思う。なお、これは報道ステーションの報道を要約したものであるが、「やじうまテレビ」報道も同様であった。

原発抱える被災地で 「復興」と「脱原発」…住民の苦悩
宮城・女川町では復興計画の意見交換会が役場で行われた。東日本大震災から4ヶ月以上経った今も不満を感じており、女川町の復興費用は推定で3350億円と見られている。この町にある女川原発は、東北電力の最初の原発として1984年に営業運転を始めていた。

宮城・女川町には原発による交付金で作られたものが多い。政治家の発言通り脱原発が進めば、女川町の歳入は大きく減る可能性がある。

女川町立病院は毎年町から約5億円の補填を受けており、復興費用で町の負担が増えれば病院が閉鎖する事態もありうる。女川原発がなくなると、女川町は成り立たないという。反対派は人名に関わるような被害を及ぼす原発は見直すのは当たり前という考えを示している

(http://datazoo.jp/tv/%E5%A0%B1%E9%81%93%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3/500264)

無関心よりはいいと思うが……。私にとっては、なんとなく違和感がある記事である。これまでの女川町復興計画公聴会においては、まずは集落の高地移転、漁港集約化が問題となっており、さらに仮設住宅や仮設店舗の設置や漁港の整備などが中心になっているようにみえた。実際、多少原発問題は出ているのであるが、メインの問題にはみえなかった。メインの問題ではないということ自体が問題でもあろうが。

実際、公聴会の映像をみても「高台移転」は議論されていたが、原発問題を議論している印象は薄かった。

なお、財政問題であるが、毎日新聞のサイトは、7月15日付で、次のように報じている。

 

(前略)
「原発事故が発生すれば復興計画も意味のないものになる」

 5月27日、女川町が復興計画を策定するため、県立女川高校で開いた公聴会。町の「復興計画策定委員会」が5月に公表した復興方針に原発への言及がないことに、町民から疑問の声が出た。

 震災で緊急停止した東北電力女川原発は町中心部から車で約30分、牡鹿半島の中ほどに位置している。営業運転が始まったのは1984年。町は見返りに、多額の固定資産税と電源3法交付金という恩恵を受け、原発は最大2000人規模の雇用も生んだ。

 電源3法交付金は電源開発促進税法など三つの法律に基づき、原発などの発電所を受け入れた立地自治体に交付されている。09年度の女川町の歳入総額は約64億円。このうち、固定資産税と電源3法交付金を含めた原発マネーの割合は65%に達し、全国最高水準だ。

 町は潤沢な財源で避難所となっている町総合運動公園や観光拠点施設、町立病院といったハコモノを相次いで建設してきた。施設の維持・管理費だけでなく、施設で働く看護師や保育士などの人件費まで交付金でまかなう。「原発があるから予算が組めた」(町幹部)というのが実態だ。

 町の基幹産業だった水産業は、震災で壊滅的な被害を受けた。町財政の減収は避けられず、固定資産税と電源3法交付金の比重は増す。東京電力福島第1原発の事故で原発リスクが高まる一方で、復興計画を実現するため、町はこれまで以上に原発マネーに頼ろうとしている。

 しかし、福島第1原発の事故を受け、住民の意識は変わり始めた。女川原発に近い沿岸部に暮らす主婦(61)は「原発にもろ手を挙げ賛成、と言えなくなった」。息子は家業の漁業を継がず、女川原発で20年以上働いてきたが、やはり「脱原発」の議論が気になるという。

 選挙を控えた現職町議も住民意識の変化を敏感に受け止めている。阿部繁町議(46)は「今、脱原発を言わずにいつ言うのか。原発ありきでない町の復興計画にしないといけない」と話す。一方、町幹部は「原発の是非を巡る議論が始まれば、復旧・復興が遅れかねない」ともらす。

 「これまで選挙の時に原発なんか、話したことがない。でも、人間が制御できないものを造っていいの、と率直に思うのよね」

 当選6回を数える女川町議会の木村征郎議長(66)は、次期町議選の争点として原発論議が浮上するとの見方を示した。町財政の大前提だった原発を巡り、定数14の町議会も揺れている。【青木純】
(http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110715ddm002040081000c.html)

実際、このような発言が5月27日の女川町市街地を対象とした公聴会でなされており、まだしも説得力がある。ただ、この発言だけで、この公聴会を要約してよいのかといえば、それにも違和感がある。

確かに、脱原発かいなか、女川町にとっても重要な問題である。その気運が女川町に出ていることを伝えるのも重要であろう。これらの報道は、公聴会というよりも、原発問題についてのインタビューを中心に構成されている。その努力は認めるべきであろう。

しかし、復興計画公聴会で出された、女川町にかかえている問題はそれだけではないのである。3350億円が復興費用としてかかると算出されている。一方、町の予算は64億円で、その65%が原発関連とされている。確かに平時には重要な財源であるといえるが、復興費用全体を賄うものであろうか。

なんとなく、原発立地自治体という性格のみに着目した、ステレオタイプな報道に思えるのである。女川の場合、①津波被災地であること、②漁業の中心地であること、という二つの性格もあり、それと原発がどのようにからまっていくのかをみていく必要があるのではないか。

次回以降、原発問題も議論された、5月27日の女川町復興計画公聴会をみていきたい。また、現在開かれている公聴会についての報道があれば、紹介していきたいと考えている。

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 1970年代の原発建設反対運動が、反公害運動―市民運動の性格を帯びていたことをこのブログの中で述べてきた。

友人らと話してみたり、フェイスブックの議論をみていたりすると、反公害運動の源流としての足尾鉱毒事件への関心が非常に強くなっていると感じている。そこで、やや「東日本震災の歴史的位置」の趣旨から離れてしまうかもしれないが、私が『館林市史』資料編6(2010年 館林市)で執筆した資料解説をもとに、次の一文を書いてみた。

なお、よろしければ、『館林市史』資料編6-鉱毒事件と戦争の記録ーを購入していただければと思う。送料は別だが3000円で購入できると思う。あまり、多くの図書館に寄贈していないので、それぞれの図書館にでも購入希望を出していただければと思う。連絡先は374-8501 館林市城町1-1 市史編さんセンターである。本論では割愛した資料が載せられている。

『館林市史』資料編6

『館林市史』資料編6

足尾鉱毒事件は、とにかく大きな事件であり、私自身、すべての状況を把握しているとはいえない。特に、館林市史とは直接関係のない谷中村については、まだよくみていない。

解説全体では、足尾鉱毒事件の全体像を執筆したが、とてもブログで全体を語りえるとも思えない。機会があれば、その部分も紹介したい。

ここでは、田中正造と群馬県館林地域の人々との関係性にしぼってみてみることにする。あまり知られていないが、足尾鉱毒の被害地は栃木・群馬両県に及んでいた。有名な1900年の川俣事件に参加した人々の半数が群馬県民であり、事務所がおかれていた雲龍寺も現在の群馬県館林市内にある。とりあえず、館林の場所を確認しておこう。渡良瀬川の南岸にある。北岸が栃木県であり、田中正造の本拠地であった。そして、渡良瀬川下流、現在は栃木市内になっているところに谷中村があった。

足尾鉱毒反対運動は、その指導者である田中正造の影響が極めて強く現れたものであったといえる。いうなれば、田中正造に言及せずして足尾鉱毒反対運動を語ることは一般的ではなかったといえる。しかし、いかに民衆的心情を有しているといっても、そもそも立憲改進党―進歩党―憲政本党所属の衆議院議員として鉱毒反対運動を指導し、その後もいわば、自身の生活をかえりみず鉱毒反対運動に挺身した田中と、既存の地域社会秩序を前提として自身の生活・生命が危機に陥ったために運動に立ち上がった地域民衆とは、もちろん重なりあう部分も多いが、立場が違っているといえる。特に、1904年以降は、鉱業停止を前提として栃木県谷中村救済を課題とした田中正造と、治水問題としての解決を模索した館林地域の民衆とは立場の相違が顕著となってくるようになった。しかし、1913年に田中正造は、館林地域に隣接した栃木県足利郡吾妻村で倒れた。館林地域も含めた地域住民は、田中正造の看護組織をつくりあげた。そして、9月3日に田中が死去すると、地域住民ぐるみで壮大な葬式を営み、死後は「義人」としてたたえるようになった。ここでは、このような関係を、『田中正造全集』に収録された書簡や、市史編纂の過程で見いだされた大塚家文書などを中心として検討することをめざしている。なお、田中正造の書簡は『田中正造全集』第十四―十九巻に多くが収められており、田中正造に宛てて出された書簡は、同全集別巻に収録されている。ここでとりあげたものは、その一端にすぎないことをまず付記しておきたい。

田中正造は、下野国安蘇郡小中村(現佐野市)の名主の家で1821年に出生した。1877年以後さかんになる自由民権運動に積極的に参加し、1880に栃木県会議員になるなど、栃木県を代表する立憲改進党系の自由民権家となった。1890年の帝国議会開設後は、栃木三区(安蘇・足利・梁田郡)を選挙区とする衆議院議員として活動した。田中は、立憲改進党所属の衆議院議員として、藩閥政府を帝国議会において鋭く追求した。

1890年頃より足尾鉱毒問題は表面化していくが、田中正造は、1891年に開かれた第二回帝国議会に12月18日質問書を提出し、足尾銅山の鉱業停止を訴えた。そして、1892年に開かれた第三回帝国議会でも、鉱業停止を訴える質問を行った。

しかし、当時、館林地域を含めた鉱毒被害地では、古河の働きかけによる示談交渉が進行中であった。そのため、田中正造の議会活動と鉱毒被害地の動向は連動したものにはならなかった。1895年には、示談の欺瞞性がしだいに明確となってきて、鉱毒被害地においても鉱毒反対運動が顕著となってくるが、田中正造の活動とは独立したものであったように思われる。

田中正造の活動が鉱毒被害地の運動と連携したものになってくるには、渡瀬村雲竜寺に鉱毒事務所が設置された1896年以降となってくると思われる。これ以降、元来は少なかった館林地域を含む群馬県域の人々と田中正造との書簡の往復が多くなってくる。例えば、三野谷村の荒川高三郎と郷谷村の大塚源十郎に宛てた、1896年10月13日付田中正造書簡が残っている。二人は、県会議員として鉱毒反対運動に携わった。ただ、県会選挙においては互いにライバル視していたといわれる。また、運動事務所があった雲竜寺にも田中正造は書簡を送っている。そして、1897年頃より、大島村の大出喜平とも書簡の往復をするようになった。ここでは割愛せざるをえないが、田中正造は鉱毒反対運動のため多くの書簡を館林地域の人々に送っている。この頃の鉱毒反対運動は、田中正造が東京において質問演説や請願書紹介などの議会活動を担い、さらに東京の知識人や新聞世論に働きかける一方で、鉱毒被害地において、鉱毒事務所での会合・地域集会開催や請願書作成、鉱毒被害調査などの活動、さらには郡役所・県庁などへの陳情活動など実施していたといえよう。そして、東京と鉱毒被害地を結びつける示威行動としていわゆる「東京押し出し」が行われたといえよう。1900年におきた川俣事件裁判の被告となった多々良村の永沼政吉や先の大出喜平らに田中正造は書簡を送っている。

しかし、1904年には、田中正造と館林地域の人々との間で一つの亀裂が入った。元来、田中正造は立憲改進党―進歩党―憲政本党系に属し、群馬県でも中島祐八衆議院議員ら憲政本党系の政治家を応援していた。それは、鉱毒反対運動事務所もそうであったと考えられる。ところが、1904年3月1日に行われた総選挙において、田中正造は、太田町出身で、自由党―憲政党―立憲政友会に近い人脈をもつ武藤金吉を、鉱毒反対運動に挺身すると自身が誓約したとして、衆議院候補として推薦した。ただ、田中正造は武藤と中島が共に当選することを望んでいたようである。しかし、武藤金吉は、中島祐八を敵視した選挙活動を展開した。大出喜平は、鉱毒反対運動の分裂をおそれ、鉱毒反対派の人々における票の分配を田中正造自身によって行ってほしいと依頼した。結局、総選挙において武藤は中島に僅差で勝利した。武藤は、『義人全集』第一巻序で、選挙における油断・慢心をとがめた田中正造の一喝によって、選挙態勢を立て直し、当選できたと語っている。結局、大出喜平らは、恩があると思われる中島を応援し、その正当性を田中正造に書簡で述べている。これに対し、田中は、中島の落選は、新規票田の開拓などを指導したのに中島が怠ったなどと弁明する書簡を送っている。ただ、このことで、完全に田中正造と館林地域の人々が断絶したわけではない。1904年4月17日の書簡では、大出喜平・左部彦次郎がこの地域での演説会について周旋活動をしているのがわかる。なお、左部彦次郎は、群馬県利根郡池田村の左部家の養子で田中正造の側近として当時行動していた。

当選当初の武藤金吉は、足尾鉱毒反対運動に協力する姿勢をとっていた。1904年12月10日には、渡良瀬川沿岸特別地価修正の杜撰・不公平を批判した質問書を帝国議会に提出している。1905年2月7日の書簡で、武藤は田中正造に、谷中村問題の演説会を開催したこと、渡良瀬川沿岸地方特別地価修正漏れについての請願を院議に付していることを述べ、自身が特別地価修正について衆議院で質問したことについて、政府答弁を「無恥なる、無責任なる」と批判している。1907年1月28日には、足尾銅山の鉱業予防工事が不十分であることを指摘し、鉱業停止を命じないことの不当性を主張した質問主旨書を帝国議会に提出し、2月7日には、その主旨により帝国議会において質問演説を行った。

 1906年5月、渡良瀬川遊水地とするため、栃木県谷中村は廃村となり、藤岡町に合併された。さらに1907年1月には、旧谷中村民で立ち退きに応じない者に対し土地収用法に基づき強制立ち退きを行うことが公告された。そして、6月29日から7月5日にかけて、残留十六戸の家屋が次々と強制撤去されたが、これら十六戸の住民は即日仮小屋を建てて、抵抗する姿勢を示した。そして、7月29日に谷中村残留民や田中正造らは、土地収用補償額が不当に廉価であることを理由にして宇都宮地方裁判所栃木支部に訴訟を起こした。この裁判は、1918年8月18日に原告の要求を不十分ながらも認めた控訴審判決をえて終わった。

 一方、上流部の群馬県域では、この時期、全く別の様相を示していた。武藤金吉が大塚源十郎に書簡にて書き送っているように、武藤は1906年から政権与党であった立憲政友会に1907年8月に正式入党してしまうのである。武藤は、県会議員であった黒田孝蔵他多くの人々が立憲政友会に入党したことを誇示するとともに、邑楽郡民である大塚源十郎に対して治水事業における利益誘導をはかるために邑楽郡も一円政友会に入党してほしいと勧誘している。政友会入党後の武藤は、1907年末より内務省への陳情、栃木県知事との交渉、他県会への働きかけ、帝国議会への運動など、治水問題に対して積極的な関与を行った。そして、川俣事件以前から、栃木・群馬両県の渡良瀬川上流部における田中正造の同志であった、大島村の大出喜平、山本栄四郎や、郷谷村の大塚源十郎らは、谷中村廃村を前提とした治水工事に賛成し、武藤の活動を積極的にささえようとすることになった。

1908年2月29日に提出された渡良瀬川水害救治請願書は、この武藤の活動と呼応するものとみられる。この請願書は、渡良瀬川水害の激化は足尾銅山によるものとし、根本的な解決は鉱毒の流下と煙害の飛散を防止し樹木伐採を禁止することとしながらも、このことは長い年月にわたる政治道徳の改善が必要で、目下焦眉の急には対応できないものとして、鉱毒流下や煙害飛散さらに森林乱伐の禁止とならんで、利根川・渡良瀬川の早期改修を求めるものであった。この請願書には大塚源十郎他二五五六名が署名し、邑楽郡の各町村の町村長・助役が副署している。

もちろん、田中正造は怒った。1907年9月17日付田中正造書簡は、郷谷村長であったかつての同志大塚源十郎に送ったものであるが、「但し邑楽も亦近き未来に谷中の兄とも申べき有様に至るや必せり」と書かれており、何らかの皮肉を大塚に浴びせているように思われる。この時期には、谷中村の残留民の家屋が強制的に破壊されるとともに、館林地域が立憲政友会の基盤となっており、これらのことを風刺しているように考えられる。1907年12月3日付大出喜平・野口春蔵宛田中正造書簡では、谷中村を遊水池にする渡良瀬川改修工事が効果のないことを力説しつつ、この改修工事についての幻想に地域住民がとらわれるようになったとし、反対運動の中心であった邑楽郡大島村の大出喜平、栃木県安蘇郡界村の野口春蔵も欺かれるようになったと批判し、このことを山本栄四郎などにも伝えてほしいと述べた。

田中正造の批判に対し、館林地域の人々の意見として1907年12月29日の書簡で弁明したのが、山本栄四郎であった。この時、山本は大島村長であったとみられる。山本は、志と違い生活問題に余念がなく、大洪水で人類の滅亡がせまっているのに、政治家は利害獲得に狂奔し民衆を苦しめているとした。これらの悪人に渡良瀬川沿岸民がうち勝たねば、谷中の二の前であると山本はしつつ、邑楽郡としては一時的でも堤防の改良をはかって余命をつなぎ、さらに河身改良・鉱業停止を獲得していくべきであると述べた。その上で、田中の言っていることに大出・野口ともども力を尽くすことを誓うとした。

しかし、田中正造は、館林地域の人々を批判する姿勢を崩さなかった。しかし、1908年10月16日の書簡のように、田中正造は自分の傍らに昔の同志である大出喜平・山本栄四郎らがいないことを嘆く時もあった。

1909年9月には、旧谷中村の遊水池化を含めた渡良瀬川改修計画が政府から群馬・栃木・埼玉・茨城県に諮問され、各県では臨時県会を召集した。立憲政友会が制していた群馬県会は、諮問案が提案された9月10日当日、全員起立で渡良瀬川改修計画に賛成した。栃木県会は9月10日より審議に入った。田中正造は、谷中村地域の人々とともに、渡良瀬川改修計画に反対する運動をくりひろげた。しかし、以前、足尾鉱毒反対運動で田中の同志であった野口春蔵や大出喜平は、田中の面前で渡良瀬川改修計画に賛成する運動を行った。栃木県会では、碓井要作のように反対を主張する県会議員もいて即座には決しなかったが、9月27日に賛成多数で渡良瀬川改修計画は可決された。

 しかし、茨城県会は、9月29日に、この改修案の賛否を現状では決することができないという議決を行った。また、田中正造らの働きかけもあって、10月4日、埼玉県会も渡良瀬川改修計画を否決した。武藤金吉が、田中正造らの動きに抗しつつ、必死に茨城県会・埼玉県会を渡良瀬川改修計画に賛成させようと働きかけており、地域社会でも、大塚源十郎は、武藤のよびかけにこたえて活動していた。

11月30日、茨城県会は渡良瀬川改修計画に賛成する議決を行った。1910年1月には埼玉県会のみが問題となったが、結果的には2月9日に渡良瀬川改修計画に賛成の議決を行った。各県県会の賛成を受けて、政府は1910年3月に帝国議会に対して渡良瀬川改修費予算を提案し、帝国議会は可決した。このような過程をへて、鉱毒問題は、治水問題に転化させられたのであった。1910年より渡良瀬川改修工事は着手され、同年8月に発生した大水害により大幅な変更を余儀なくさせられた。

このように、1909年には、大出喜平ら館林地域の人々と、田中正造との意見の違いがより明白になった。しかし、それでも田中正造は、書簡において、山本栄四郎へ自らの行動や治水論を語っていた。そして、1910年水害に際しても、自らの治水論を大出喜平に説いていた。

特に興味深いのは、1911年1月8日付大出喜平宛田中正造書簡である。この書簡で田中正造は、大島村・西谷田村で、鉱毒被害民に北海道移住をすすめていると聞き、大出喜平にこのことに賛成したのかと怒気を込めて詰問した。谷中村をはじめとする鉱毒被害地では、政府は反対運動を弱体化させるため、北海道などへの移住をすすめていた。それに対して、大出喜平・山本栄四郎は、書簡で弁明した。大出・山本の両名は、田中の治水論の正当性を認めながら、現在の渡良瀬川改修工事は応急処置であり、田中の治水論とは矛盾しないとした。その上で、北海道などへの移住勧奨には自身は関与していないと両名とも述べている。大出は、移住勧奨への反抗は紛擾を招き、一村の平和を破壊するので黙止しているとしながら、武藤金吉が移住勧奨を批判していることを述べた。山本は、鉱毒被害地の現状では移住もしかたがないと諦めていると述べた。このように、治水問題で立場を異にした大出・山本は、それでも田中正造の正当性を最終的には認めていたのであった。そして、1912年3月6日の書簡において、大出喜平は、田中正造に足尾鉄道工事が渡良瀬川水源を破壊していることを批判する請願書の写しを田中正造に送った。自分たちなりに社会の公益に尽くしていることを田中にみせたかったのだろうと推測される。

しかし、大出喜平に多くの時間は残されていなかった。1912年11月21日付田中正造宛山本栄四郎書簡では、大出喜平が死病に陥っており、一度は田中に会いたいとしているが、今としては何ともできず、またこの私事で田中を煩わせることも遠慮したいので、せめて田中正造の肖像に揮毫をいれてもらい、自らの死後家に伝わるようにしてほしいと頼まれたことが記されている。山本は、できれば生前大出にあってほしいと田中に願った。しかし、この書簡の翌日である22日、大出は死去し、山本の願いはかなわなかったのである。「田中正造日記」によると、11月28日田中は大出家に弔問に訪れた〔『田中正造全集』第十三巻〕。なお、1913年3月18日の書簡によると、山本栄四郎もまた田中正造についていけなかったことを悔やんでいたことを田中正造に告げていた。

そして、この書簡が書かれてからそれほど時間のたっていない1913年8月2日、田中正造は、栃木県足利郡吾妻村下羽田の庭田清四郎宅で倒れた。倒れた直後、田中正造は谷中村に戻りたいと訴えたが、周囲の人々にとめられた。そこで、田中正造は用談があるといって付近の有志を集めてくれと申し出た。渡瀬村村長谷津富三郎・助役小林善吉が庭田宅によばれ、彼らにより、群馬県多々良村・渡瀬村・大島村・西谷田村、栃木県久野村・吾妻村・植野村・界村・犬伏町の代表者が呼び集められた。この九ヶ村は、この地域における足尾鉱毒反対運動の中核であった。そして彼らにより、田中正造の看護体制が決められたのである〔『田中正造全集』別巻・島田宗三『田中正造翁余録』下巻・木下尚江『田中正造翁』などを参考〕。

地域の町村役場や有力者は、田中正造の見舞金を贈った。それに対して礼状が出された。礼状は、田中正造の寄付で生家に学習会などの開催を目的として設置された小中農協倶楽部からも出された。田中正造の病状は郵便で伝えられた。

9月4日、田中正造は、看護人であり過去の同志であった栃木県毛野村の岩崎佐十に「お前方、大勢来て居るようだが、嬉しくも何とも思はねえ。お前方は、田中正造に同情して呉れるか知らねえが、田中正造の事業に同情して来て居るものは、一人も無い。―行って、皆んなに然う言へッ」〔木下尚江『田中正造翁』〕という言葉を最後に残して死去した。

田中正造の死は、郵便で各町村役場にも伝えられた。9月6日、鉱毒反対運動事務所が所在した雲龍寺で密葬が行われた。密葬といっても参列者五〇〇名を数えた。そして、佐野町春日岡山惣宗寺で開かれた一府五県の有志総会で田中正造の葬儀が同寺にて10月12日に行うことが決められた。委員長は同町の津久井彦七が勤めることになった。郷谷村長の大塚源十郎も葬儀委員となった。この葬儀は、会葬者三万人を数えたというが、資料二五六にあるようにつつがなく済み、四十九日をかねて残務処理のため常務委員が参集した。

田中正造の死後も谷中村での闘争は続いた。また、渡良瀬川改修工事を行っても鉱毒問題の根本的な解決ではなく、随時鉱毒問題は再燃した。しかし、田中正造の死は、狭義の意味での鉱毒反対運動の終焉を象徴するものであったといえよう。

田中正造の最後の言葉には、大出喜平や山本栄四郎への書簡と同様に、谷中村の破壊につながる渡良瀬川改修工事に賛成した地域民衆への田中正造の憤りが感じられる。しかし、田中正造は、そうはいっても、大出喜平や山本栄四郎らを切り捨てはせず、説得を続け、大出喜平の死に際しては弔問にいっている。

また、山本や大出などがそうであるように、最後の地の民衆が、全く田中正造の事業に同情がなかったとはいえないであろう。田中正造の主張に正当性を感じつつ、生活を守るために田中正造に従えないジレンマを抱えていたというのが、地域民衆の実情ではなかったのではなかろうか。それが、地域ぐるみの看護体制と壮大な葬式の開催に結果し、さらに田中正造を義人としてあがめる心性が形成されていくことにつながっていったと考えられるのである。

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