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『「フクシマ」論』

『「フクシマ」論』

2011年6月30日、開沼博さんの『「フクシマ」論ー原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)が出版された。開沼さんは、現在東大大学院博士課程に在籍中で、本書は修士論文である。本書の内容を概括すると、開沼さんが、資料の渉猟と、関係者の聞き書きによって、福島第一原子力発電所周辺の地域社会と原発の関係について考察したものである。

まず、青土社のホームページより、本書の目次を示しておこう。

「フクシマ」 を語る前に

第Ⅰ部 前提

序章   原子力ムラを考える前提―― 戦後成長のエネルギーとは
       1 はじめに
       2 「翻弄される地方・地域の問題」 の複雑さ
       3 『田舎と都会』
       4 地方の服従と戦後成長という問い

第一章 原子力ムラに接近する方法
       1 原子力ムラという対象
         1・1 戦後成長とエネルギー
         1・2 原子力ムラとは何か
         1・3 原子力の三つの捉え方
       2 これまで原子力はどう捉えられてきたか
         マクロアプローチ
         メゾアプローチ
         ミクロアプローチ
         葛藤から調和へ
       3 どのように原子力を捉えるのか

第Ⅱ部 分析

第二章 原子力ムラの現在
       1 原子力の反転
         1・1 「クリーン」 な原子力
         1・2 「脱原発の兆し」 と原子力ムラ
         1・3 原子力ムラの秩序
       2 原子力を 「抱擁」 するムラ
         2・1 方法の再確認―― 「抑圧」 「変革」 からの脱却のための 「経験」 への注目
         2・2 中央からの切り離し
         2・3 流動労働者の存在と危険性の認識―― 原子力ムラが排除するもの
         2・4 中央を再現するメディアとしての原子力―― 原子力ムラが包摂するもの
       3 原子力ムラの政治・経済構造
         3・1 反対の極から推進の極への 「転向」―― 二値コミュニケーションの転換
         3・2 原子力ムラの経済依存―― 地元雇用と波及効果
       4 佐藤栄佐久県政―― 保守本流であるがゆえの反原子力
         4・1 「保守本流」 としてのスタート
         4・2 「中央」 と 「原子力ムラ」 のはざまでの 「地方」 のゆらぎ
         4・3 「中央」 との対峙
         4・4 突然の幕切れと 「二つの原子力ムラ」―― なぜ 「地方」 は逆戻りしたのか
         4・5 なぜ、佐藤栄佐久県政において原子力はゆらいだのか―― 電力自由化と五五年体制の崩壊

第三章 原子力ムラの前史―― 戦時~一九五〇年代半ば
       1 戦時体制下のムラ
         1・1 戦時下における貧しいムラの動員と変貌
         1・2 中央の余剰の引き受けてとしてのムラ―― 起死回生のプロジェクトから
       2 戦後改革と混乱するムラ―― 常磐炭田と大熊町
         2・1 地方自治政策の変化とエネルギー政策の転換―― 常磐炭田のヤマ
         2・2 戦後改革とムラの混乱―― 自律的であるがゆえの国家への取り込み
       3 中央とのつながりの重要性
         3・1 反中央・反官僚の戦い―― 佐藤善一郎の選挙
         3・2 福島県と電力―― 中央‐地方関係の確立
         3・3 主体性をもった地方の誕生―― 巨大電源開発プロジェクト
       4 変貌するムラと原子力―― 原子力ムラ誕生への準備
         4・1 中曽根康弘と正力松太郎―― 中央の政治・メディアにおける原子力と戦後復興
         4・2 ムラの変貌―― 「村の女は眠れない」

第四章 原子力ムラの成立―― 一九五〇年代半ば~一九九〇年代半ば
       1 反中央であるがゆえの原子力
         1・1 「地方への」 から 「地方からの」 への転換―― 原発誘致のエージェント
         1・2 原子力イメージの連続と断絶・原子力ムラの成立
       2 原子力ムラの変貌と完成
         2・1 原子力がムラにやってきた―― わらぶき屋根が瓦屋根へ
         2・2 東電による雇用拡大と農業の変化・出稼ぎからの解放
         2・3 ムラの変貌と成長の夢
         2・4 中央から来る 「近代の先端」 に映る自画像
         2・5 変貌の影の露呈
       3 原子力ムラと 〈原子力ムラ〉―― メディアとしての原子力

第Ⅲ部 考察

第五章 戦後成長はいかに達成されたのか―― 服従のメカニズムの高度化
       1 中央‐ムラ関係におけるメディエーター(媒介者)としての地方
       2 ムラの変貌と欲望
       3 戦後成長とエネルギー
       4 内へのコロナイゼーション

第六章 戦後成長が必要としたもの―― 服従における排除と固定化
       1 他者としての原子力ムラからの脱却
       2 排除と固定化による隠蔽―― 常磐炭田における朝鮮人労働者の声から
       3 成長のエネルギー

終章   結論―― 戦後成長のエネルギー
       1 原子力ムラから見る服従の歴史
       2 統治のメカニズムの高度化
       3 成長に不可欠な支配の構図
       4 幻想のメディア・原子力と戦後成長

補章   福島からフクシマへ
       1 「忘却」 への抗い
       2 「4・10」
       3 忘却の彼方に眠る 「変わらぬもの」―― ポスト3・11を走る線分


参考文献
あとがき

関連年表
索引

[著者] 開沼博(かいぬま・ひろし)
1984年福島県いわき市生まれ。2009年東京大学文学部卒。2011年東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。

副題にある「原子力ムラ」という概念が、開沼さんの独自のものであることを忘れてはならない。今、一般的には、「原子力ムラ」といえば、電力会社・原子炉メーカー・大学・経済産業省などの、いわば「原子力業界」をさしている。開沼さんも全くそういう意味で使わないわけではない。しかし、概ね、開沼さんの「原子力ムラ」は、原発を受け入れた地域社会をさしている。

開沼さんの議論は、暴力的に概括すれば、原発を積極的に受け入れている地域社会側の論理を内在的に把握しようとするものであるといえる。開沼さんによれば、すでに戦前期より、ムラー地域社会は、中央(政府・資本)の側の「部品化」を積極的に受け入れることによって、近代化を達成しようとしており、また、それが実現できなければ存立できない状況となっていた。原発の受け入れも、その一つの手段であり、国策としての原発立地をムラー地域社会(やはりムラは変だ)は、近代化を達成しようとした。そして、その論理は、推進/反対という二分法ではなく、愛郷/非愛郷というものであるとしている。そして、反対派すらも「愛郷」という論理で抱擁するとしている。つまりは、原発推進も、原発反対も「愛郷」なのであり、その意味で反対派も「抱擁」されているというのである。そして、原発が実際に建設され、地域社会(ムラは変だから使わない)の住民や自治体財政が原発に依存するようになると、この「愛郷」という論理が、強固な原発推進のバックボーンとなると開沼さんは述べている。

そして、このような地域社会においては、このようなことが一面で起こるとする。

全体に危機感が表面化しない一方で、個別的な危険の情報や、個人的な危機感には「仕方ない」という合理化をする。そして、それが彼らの生きることに安心しながら家族も仲間もいる好きな地元に生きるという安全欲求や所属欲求が満たされた生活を成り立たせる。
そうである以上、もし仮に、「信じなくてもいい。本当は危ないんだ」と原子力ムラの外から言われたとしても、原子力ムラは自らそれを無害なものへと自発的に処理する力さえ持っていると言える。つまり、それは決して、強引な中央の官庁・企業による絶え間ない抑圧によって生まれているわけではなく、むしろ、原子力ムラの側が自らで自らの秩序を持続的に再生産していく作用としてある。

さらに、開沼さんは、Jヴィレッジ(東電が広野町に建設したサッカー施設)や、そこを本拠地とする東電女子サッカー部マリーゼ(なでしこリーグ所属、現在活動停止中)、「原子力最中」、「回転寿しアトム」、原発PR館などにふれながら、このように指摘している。

直接的に原発・関連施設がイメージされるか否かという点に関わらず、原子力ムラには、これらのように原子力を身近なものとし、原子力自体やそれに媒介された文化が成立する。これらの例からは、原子力を持つことと引き換えに、あるいは原子力を通して、原子力ムラが自らを肯定する文化を歴史的に作り上げてきているということが言えるであろう。本節の冒頭で示した「原子力ムラは何を包摂するのか」という問いに答えるならば、原子力ムラは原子力によってムラにもたらされたアイデンティティや中央の文化を、決して他者によって設計され無理やり押し付けられたというわけではなく、自ら取り込みながら包摂していったということができるだろう。

私のように「俄か」に原発のことに関心をもった人間からいえば、非常によく調べられており、多少嫉ましい思いもする。全体でいえば、従来反対運動側から、「敵対者」として外在的にしか捉えられてこなかった地域社会における原発推進派の論理を、内在的に把握しているといえる。私も、原発推進側の論理においては、「愛郷」意識に基づいた主体的な選択という側面があることは感じていた。しかし、このような形で言語化できなかった。また、「原子力安全神話」「原子力文化」についての指摘も的確だと思う。

ただ、逆に、地域社会における原発推進の論理をあまりにも内在的かつ精密に理解したがゆえに、その相対化が十分はかれないこともあるように思える。これは、研究対象に肉薄したためともいえるのであるが…。

まずは、「原子力ムラ」-地域社会の内実をみてみよう。「ムラ」という概念に、さっきから違和感を感じていた。開沼さんの「原子力ムラ」は、いわば立地自治体レベルの話なのではないか。例えば、福島第一原発でいえば大熊町・双葉町、福島第二原発でいえば富岡町・楢葉町、浪江・小高原発(東北電力)でいえば浪江町・旧小高町のレベルについて語っているように思われる。そして、その首長たち、議員たち、そして彼らに密接に結びついている住民たちについては、確かにそのような「ムラ」意識をもつだろう。しかし、普通「ムラ」といえば、藩制村にさかのぼるより共同体的な部落をさすのではなかろうか。そのレベルでの「愛郷」という意識は、自治体レベルの「愛郷」とは違うだろう。そして、このような共同体的な部落において、福島第二原発における富岡町毛萱、浪江・小高原発における浪江町棚塩のように、反対運動が生まれたのである。いわば、「ムラ」とは、階層性を有している。反対運動を抑圧していく過程は、自治体レベルの「ムラ」が、部落レベルの「ムラ」を抑圧し、さらには「愛郷」という旗印を独占していく過程でもあるだろう。推進派の側は、それを「忘却」しており、逆に彼らからいえば、そのようなことは見えないのである。ある意味では、内在的にみることにつとめた結果、開沼さん自身も視野狭窄に陥っているような印象を受ける。もちろん、すべてを論じることはできないので、ある種の限定は必要である。ただ、なんというか「原子力ムラ」としてしまうと、内部が一枚岩の印象を受けるのだ。確かに推進派からいえば反対派は抱擁されている存在なんだろう。しかし、反対派からいえば、とても「抱擁されている」とは感じないであろう。

次いで、まあ、これは無い物ねだりなのだが……。「原子力ムラ」の論理を、やや性急に戦後社会の地域開発全般に結びつけているような気がする。確かに、戦後社会の地域開発全般の論理は「原子力ムラ」の論理と通底しているといえる。しかし、原発開発は、放射線被害以外でも、地域開発一般からみれば、特異な開発でもある。製鉄所・石油コンビナート・港湾整備などと比べれば、原発開発は雇用や副次的な開発などの波及効果が少ない。それゆえに電源交付金という制度ができたといえる。全般的な地域開発への展望については、原発以外のものもみるべきであると思う。

さて、一番の問題は、3.11以後、開沼さんのいう「原子力ムラ」がどうなるのかということである。開沼さんは、このように言っている。

福島において、3.11以後も、その根底にあるものは変わってはいない。私たちはその現実を理解するための前提を身につけ、フクシマに向き合わなければならない。さもなくば、希望に近づこうとすればするほど希望から遠ざかっていってしまう隘路に、今そうである以上に、ますます嵌りこむことになるだろう。

そして、何も変わらない証左として、高円寺の原発反対反対デモがあった4月10日の統一地方選において原発立地自治体ではおおむね原発推進派が勝利したこと、そして、福島第一原発事故で離郷した人々が柏崎刈谷原発などに再雇用されていくことなどをあげている。単純化すれば、「原子力ムラ」は原発を必要としているというのである。

そして、開沼さんの攻撃対象は、「原子力ムラ」をかえりみない知識人に向けられる。

原発を動かし続けることへの志向は一つの暴力であるが、ただ純粋にそれを止めることを叫び、彼らの生存の基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない。そして、その圧倒的なジレンマのなかに原子力ムラの現実があることが「中央」の推進にせよ反対にせよ「知的」で「良心的」なアクターたちによって見過ごされていることこそ最大の問題がある。とりあえずリアリストぶって原発を擁護してみる(ものの事態とともに引っ込みがつかなくなり泥沼にはまる)か、恐怖から逃げ出すことに必死で苦し紛れに「ニワカ脱原発派」になるか、3.11以前には福島にも何の興味もなかった「知識人」の虚妄と醜態こそあぶり出さなければならない。それが、40年も動き続ける「他の原発に比べて明らかにボロくてびっくりした」(前出、30代の作業員)福島原発を今日まで生きながらえさせ、そして3.11を引き起こしたのは確かなのだから。

確かに、3,11以前の福島第一原発の地元の人たちなら、こういったかもしれない。今でも佐賀県玄海町やその他の原発立地自治体では、こういう声が聞けるかもしれない。開沼さんの話は、まさに原発を維持し続ける強固な構造が「原子力ムラ」-地域社会にはあるということなのである。そして、そんなことを無視し続けた知識人こそ「最大の問題」なのである。

確かに無視していたと思う。「知識人」がどうかはわからないが私も反省する。

しかし、これは、3.11以後の「フクシマ」の現実なのだろうか。福島第一原発事故で、期間は不明ながら、離郷せざるをえない人々は、どこに住んでいるのか。いまだに「原子力ムラ」に住んでいるのか。確かに、「原子力ムラ」に戻りたいという意識はあるだろう。しかし、そんなことは可能か。それこそ、福島第一原発で事故処理を扱うことくらいしかできないのではなかろうか。それで、住んでいるといえるのか。

「愛郷」は、確かに開沼さんのいうように、原発推進の論理であっただろう。3.11以前には。しかし、離郷せざるをえない人々の「愛郷」は、離郷せざるをえない原因となった「原発」に向かうのだろうか。推進派の人々も含めて、「原子力ムラ」自体が根扱ぎにされてしまった。福島に限定していうなら、それが、3.11以後の「原子力ムラ」の現実である。

福島で、原発反対運動をしていた人々の意識には、このようなことになることへの恐れがあった。彼らには、それが「愛郷」であったのだ。

今の状況において問題なのは、「変われるかいなか」ではない。「変わらされてしまった」のであり、それを前提にどのように行動するかなのだ。

それは、一方で、「原子力ムラ」の外部の人間にもいえるのだ。確かに「外部者」は無関心であったといえる。しかし、結局、放射線汚染は拡大し、それへの恐怖は一般化してしまった。そのような恐怖を抱いているのは東京の人間だけではない。福島県の近隣住民も恐怖を抱えている。そして、それは、他の原発自治体の近隣にもひろまっていく。受益もないのに、恐怖だけが蔓延することになる。原発は、もはや、中央と「原子力ムラ」だけの問題ではないのである。

その意味で、開沼さんの結論には、異論がある。よく調べており、対象地域の人々の意識に内在するがゆえにとは思うのであるが、そのために、基本的な事実、福島第一原発事故をどうとらえるかということがよくわからない。そして、それが、学問的には素晴らしい成果を、より深めて考えていくことの一助になると……。いやはや「俄か」がなに偉そうにと言われるだろうが。

興味深いとともに、違和感をもつ論考であった。機会があれば、もっと論じてみたいと思う。

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2011年7月26日の午後、石巻についで女川を訪れた。

女川にいってみると、前と同様、人影がなかった。直前に訪問した石巻は、もちろんそれほど人はいないにせよ、多少はボランティアもおり、開いている店舗もあった。それと比べると、人の少なさが目立った。

前よりは、瓦礫がかたづけられているようだった。そして、被災地には石灰がかけられていた。たぶん、消毒のためであろう。

山奥のほうにいってみた。後で地図をみると、女川駅後方の大原というところであろう。山の奥まで、一軒の家もなかった。

道が山道にかわるところに、たぶん倉庫として使っているらしい建物があった。

津波で残った女川の家屋(2011年7月26日)

津波で残った女川の家屋(2011年7月26日)

しかし、その下の方は、すべての家屋が流され、基礎くらいしか残っていない。たぶん、大きな瓦礫は片づけられたと思われるが、小さな瓦礫はまだ残されていた。周りは完全な山であり、ウグイスなどが鳴いていた。津波の高さは20mといわれている。ここまで到達したのである。

女川の山奥にある津波被災地(2011年7月26日)

女川の山奥にある津波被災地(2011年7月26日)

女川港におりてみると、港の各所で海水が浸水していた。次の一枚をみてほしい。

女川港に浸水する海水(2011年7月26日)

女川港に浸水する海水(2011年7月26日)

画面の奥の方にあるのが岸壁の線である。それをこえて、かなり奥まで、海水が浸水していた。

次の写真のほうが、もっとよくわかるだろう。離島に向かう連絡船の桟橋であるが、まるで海に浮かぶ島のようになっている。

女川港桟橋(2011年7月26日)

女川港桟橋(2011年7月26日)

http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&q=%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E7%94%BA&ie=UTF8&hq=&hnear=%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E7%89%A1%E9%B9%BF%E9%83%A1%E5%A5%B3%E5%B7%9D%E7%94%BA&gl=jp&t=h&brcurrent=3,0x5f89afdc40dbda41:0x39d5eb2cdf8440fb,0&ll=38.445455,141.444383&spn=0.016133,0.027466&z=15&iwloc=A&output=embed
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地面を見ると、このような状態である。道路は地盛りしているが、その下の地面ーたぶん、元来の道路は、完全に水没している。

女川港の地面(2011年7月26日)

女川港の地面(2011年7月26日)

6月5日にきた際には、これほどではなかった。次の写真は、女川港の別のところをとったものであるが、完全に水没するほどではないことがわかる。

女川港岸壁(2011年6月5日)

女川港岸壁(2011年6月5日)

今回は、満ち潮となり、女川港の各所はかなりの規模で海水の浸水を受けていたのである。

もちろん、地盤沈下のためである。少々の盛り土では追いつかないのである。かなり大規模に嵩上げが必要になっているといえる。

それが、女川のかかえている大きな課題と思えた。高台移転、漁港集約化、仮設住宅建設だけでなく、女川港自体の地盤の嵩上げが必要となっているのである。

ある意味では、今は、住民の生業を確保するため、漁港などの応急的「復旧」を行うこと、これが最も必要とされていると感じた。

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さて、今回は、石巻市で配布されたパンフレットである「石巻まちあるきマップ」を紹介しよう。このマップは、東京工業大学真野研究室で作成されたものである。まず、第一面をみてみよう。表題には「石巻まちあるきマップー今、再開店舗・活動ガイド」とある。

石巻まちあるきマップ1

石巻まちあるきマップ1

どうしても、画面が小さいので、http://ishinomaki2.com/map.pdfよりダウンロードしてみてほしい。この第一面の冒頭には、このような文章が載せられている。

津波に負けずがんばるまちなか

3.11の津波によって、石巻のまちなかは甚大な被害を受けました。
川縁から駅前にかけての商店街ではほとんどの店舗で1階部分が浸水し、
ヘドロまみれになりました。
商店主や住民の方々はそれでもこの場所を捨てずに、
津波の被害と向き合いながら、
ボランティアの力を借りながら、
失業を再生させています。
そんな、まちなかの人々のがんばりを集めてマップにしてみました。
お気に入りのスポットを探してみてください。

そして、その下には、市街地中心部の被災状況を記載した地図が載せられている。いわば、石巻の「現在」がここに表現されているといえる。もっとも甚大な被害を受けた地域は、南側の門脇町地域である。そして、日和山・羽黒山の高台は津波被災を免れた。しかし、旧北上川から石巻駅にかけての商店街は浸水したことが示されている。

ここには、①被災状況と復興の足がかりツアーの経路が示されている。この経路では、どちらかといえば、まだ被害の程度が軽かった地域があげられている。確かに、門脇町方面は徒歩では危険であり、さらに多くの人が亡くなった鎮魂の場所でもあろう。

そして、その右側には、中心部の商店街の地図が掲載され、その下には「商店街再開店舗情報(2011年7月21日時点)」が書かれている。一応73店舗が営業しているということであった。しかし、実際行ってみると、パラパラと営業している感じである。「現在」の情報であるが、「未来」にむけたものといえる。

こういっては悪いのだが…駐車場の情報がないので、車では行きづらい。駐車場も、看板はあっても営業していないところもあった。

この市街地中心部の地図には「夜の石巻ディープツアー」のルートが記載されている。その関連で、このような記事が掲載されている。

64 復興BAR
広小路で被災したBARである「French Quater」を改装し、”復興バー”として復活。今この瞬間しか味わえない復興直前ともいうべきこの石巻のストリートのど真ん中で地元酒蔵の銘酒や冷えたビールを楽しんで下さい。

本当に営業しているかとおもって、http://ishinomaki2.com/2011/07/をみたら、7月27日の開店時には満員だったそうである。確かに、人がよりあえる場が必要だと実感した。

復興バー、初日から満員御礼

復興バー、初日から満員御礼

津波の被害をうけたビルを修復した「復興バー」、
広小路通りにオープンしました。

信号も復旧しておらず、薄暗さがヨーロッパの町並みを彷彿するような
街角で小さなお店が隠れてしまうほど大きな開店祝いの花輪が飾られ
店内の外まで人があふれるほど沢山のお客様が集まりました。

復興バーでは各種カクテルの他、松村マスター特製のパスタなど
軽食も用意しています。(7月27日)

それ以外にも、かなり「盛り場情報」が載せられている。

54 Cofee Shop Roots
橋通りで被災した榊洋品店の夫婦が、隣の空き店舗を利用して誰にでも立ち寄れるカフェをオープン。昼間はボランティアや近所の方々で賑わっており、カフェの周りの路上で若者達が集まり、夜な夜なライブを行っている。
STAND UP WEEK中は太陽熱でお湯をつくるシステムをみんなの手でつくりながら、できるだけ自然のエネルギーで運営できる「自然エネルギーコーヒーショップ roots」となった。

なお、このSTAND UP WEEKについて、http://ishinomaki2.com/2011/07/には、次のように説明されている。川開き大会にあわせたイベント期間のようである。

毎年夏、石巻最大の行事、川開き祭りが開催されます。
今年も色々な意見がある中、今年も開催が決定しました。
我々ISHINOMAKI 2.0は、この非常に意味がある今年の川開き祭りを復興の一つのスタートと考えました。
祭り開催前一週間からSTAND UP WEEKと題し、中央商店街の一部の商店や建物を東京と石巻の有志が一緒になり出作りで(手作り)再利用し、新しいアイディアを注入したお店作りやシンポジウムを開催しながらこれからのまちづくりのヒントやきっかけを生み出したいと考えています。

期間:7/23(土)~8/1(月)
会場:石巻中央の各所
会期中のインフォメーションセンターをアイトピア通りボックスピア内旧富士ツーリスト(現ISHINOMAKI2.0 オフィス)に設置し、Stand Up Weekについてのすべての情報を手にすることができます。インフォメーションセンターではそれぞれのプログラムの場所や協賛店舗の場所を記したマップを配布します。

路上ライブもイベントらしい。http://ishinomaki2.com/2011/07/は、このように伝えている。

音楽ライブ ステージ

レゲエをはじめ音楽がさかんな街、石巻ならではの音楽ライブを野外のステージで開催。東京からはHIFANAが参戦。地元石巻からは、ちだ原人が参戦!?また、地元石巻のカホン工房アルコの協力でHIFANAカホンワークショップも開催
会場:コーヒーショップroots(橋通り)前広場他
出演アーティスト:HIFANA、ちだ原人 他
協力:RT CAMP、W+K 東京LAB、カホン工房アルコ

また、このような記事もある。なんか、いろいろな意味で想像つかないのであるが。

45 Be-in
被災前は小鳥屋さんだった。寿町通りの小さな一角を占める店舗。現在は救援物資として大量に寄付された衣類を販売している。オーナーが誰も聞いていなくても、よなよなギターをもって歌い出す。

私が7月26日に訪ねたところもある。実際、記事通りに一階ではTシャツなどが販売されていた。そして、さらに、石巻市市街の写真展がおこなわれていた。

50 かめ七
震災後、呉服屋の店舗を仮に地域のイベントスペースとして活用中。2階は地域での活動のためにいつでもネットが使えるスペースとしている(通称:「ネットかめ」)
商店街の有志によるリバイバル石巻プロジェクト(RIP)のTシャツ販売窓口となっている。オリジナル商店のカラフルな「かめタオル」はボランティアに大人気。

その他、前回のブログで市街地中心部の津波被災の状況を映した石巻スポーツ振興センターも「スポーツショップマツムラ」に所在していることが明記されている。

なお、「石巻まちあるきマップ」とは直接関係ないが、http://ishinomaki2.com/2011/07/は、無料野外映画上映会が開催されることを伝えている。写真もアップしてみた。不謹慎とは思うが、壊れた建物の間での、幻想的な光景に思えた。

無料野外映画上映会

阿部新旅館跡地を利用して無料野外映画上映を一週間に渡り開催。同じ並びにあるビルの壁面をスクリーン代わりにし、この石巻のこの夏でしか体験出来ない映画を体験してもらいます。同場所にては、ベルギーカフェWb2I caféもオープン。映画を見ながらおいしい食べ物と飲み物も楽しめます。
会場:阿部新旅館 跡地 石巻市中央二丁目7-23
上映期間:7/23 – 7/31 8/1のコンテンツは検討有
上映映画:未定(詳しい内容は本サイト上で随時更新されます)

無料野外映画上映会(2011年7月23日)

無料野外映画上映会(2011年7月23日)

第二面は、「石巻まちあるきマップー昔、石巻の歴史ガイド」と題されている。調査協力として千石船の会、邊見清二があげられている。いわば、石巻の「過去」-特に市街地を扱ったものである。左の方に写真と説明、右の方に地図が掲載されている。近世の石巻は、仙台藩他が蔵屋敷をもち、さらに廻船問屋が立ち並んでいたとされている。近代になると、鉄道敷設と内海橋架設によって、東西方向にも街並みが形成され、新たな横丁や通りが開かれたとしている。また、石巻の劇場もここで紹介しているのである。

石巻まちあるきマップ2

石巻まちあるきマップ2

「過去」「現在」「未来」が、この「石巻まちあるきマップ」には凝縮されているといえる。そのうちで、最も興味深かったのは「未来」の部分であった。「未来」の部分では、「若者」を意識していたといえる。これは、東京工業大学真野研究室で作成されたものであるが、石巻市内でも配布されており、石巻住民の一部の意向もそこに盛り込まれているといえる。歴史を想起しつつ、「若者がよりつどう街」をめざすものと位置づけられるのである。

そして、随所で「ボランティア」についてふれているように、これは、ボランティアという「外部者」の視点を意識したものともいえるのである。

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一昨日(7月26日)、石巻市を再訪した。

石巻市は、6月24日の集計で、死者3110名、行方不明者2770名と、宮城県下では最大の人的被害を出したところである。家屋被害も、全壊18560棟、半壊2663棟、一部損壊10043棟、床上浸水6756戸、床下浸水8973戸にのぼり、全壊戸数では最多、全体でも仙台市に次ぐ規模にのぼった。

罹災概況図(石巻管内)

罹災概況図(石巻管内)

石巻市の被災状況は、大別して三つにわけられると思う。まず、旧北上川の河口、石巻湾にそって発達している市街地中心部、牡鹿半島や旧雄勝町に散在している小規模漁村、そして、北上川河口である。

石巻市街地は、多くの地域が津波に被災したといえる。まずは、石巻湾沿いに展開している工業港・漁業港・工場・魚市場・倉庫・水産物加工場が津波にあった。石巻港が3月11日に津波に襲われた際の動画を紹介しておく。

被災後の景況については、6月5日の写真を出しておく。7月26日には、いくつかの工場で再建工事に着手する動きがみられた。

日本製紙石巻工場(2011年6月5日)

日本製紙石巻工場(2011年6月5日)

石巻市漁港(2011年6月5日)

石巻市漁港(2011年6月5日)

そして、港湾部の背後の低地にあった市街地が津波の直撃を受けた。この地域をよくみると、最も海側の家屋が被害が大きかったことがみてとれる。

石巻市海岸部の市街地(2011年6月5日)

石巻市海岸部の市街地(2011年6月5日)

これらの低地にあった市街地のうち、最も被害の程度が大きいのが門脇町・南浜町であった。この地点は、単に津波に被災しただけではなく、火災が発生したため、より甚大な被害となった。

日和山より門脇町・南浜町方面をみる(2011年7月26日)

日和山より門脇町・南浜町方面をみる(2011年7月26日)

なお、門脇町と思われる部分が津波と火災に襲われる動画をここで紹介しておこう。前半は多少見にくいのであるが、後半の火災はよくわかる。

門脇町の背後にある日和山は、標高約55mに達し、中世には石巻周辺の領主であった葛西氏が石巻城を築いていたところである。こことその周辺は、津波被災を免れた。しかし、門脇町の火災からの延焼を防ぐのに必死であったと伝えられている。ここは、現在、門脇町などの津波被災地を見下ろせるスポットになっている。ここを訪問した時、ボランティアとおぼしい人々が多く訪れていた。

日和山(2011年7月26日)

日和山(2011年7月26日)

日和山のさらに後ろ側に、中央・立町などの石巻市市街地中心部が広がっている。ここも津波被害を受けたが、現在みると海岸部の市街地ほどではない。原形を保った家屋もかなり多く残存している。現在のところ、ぼつぼつと、何等かの営業を行っている店舗がみられる。

石巻市立町大通り商店街(2011年7月26日)

石巻市立町大通り商店街(2011年7月26日)

今や、かなり片付いているが、3月11日には、このあたりも一階部分は水没し、車などが流れていた。中央二丁目10-13の特定非営利活動法人石巻スポーツ振興サポートセンター事務局から、引き波を撮影した動画をここで紹介しておこう。

石巻は、それこそ起源は中世にさかのぼる古い町であり、近世から近代にかけても舟運の中心地として栄えた。古い建物が残っているが、それも被災していた。

観慶丸商店(2011年7月26日)

観慶丸商店(2011年7月26日)

中州に移築された旧石巻ハリストス正教会教会堂(2011年7月26日)

中州に移築された旧石巻ハリストス正教会教会堂(2011年7月26日)

なお、地盤沈下の影響と思われるが、海・川の水面が上昇しており、河畔では土嚢が積まれていた。女川や気仙沼でも感じたのであるが、この地盤沈下がかなりの問題となっていると思われる。

旧北上川河畔(2011年7月26日)

旧北上川河畔(2011年7月26日)

さらに内陸部の国道などには駐車場の広い郊外型の店舗が数多く所在している。このあたりも津波被災しているはずだが、かなり多くの店舗が営業を再開している。前日みた多賀城市のようであった。今、どの地方にいっても、市街地中心部の商店街よりも、郊外型の店舗のほうが活気あるといえるのであるが、その違いといえる。課題は、津波だけではないのである。

なお、街中をよくみたためかもしれないが、ボランティアを数多くみかけた。女川町・気仙沼市などよりも多いようであった。

参考文献:東京工業大学真野研究室『石巻まちあるきマップー石巻の歴史ガイド、再開店舗・活動ガイド』

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昨日(7月25日)のブログで24日の多賀城市の津波被災地に行ったことを伝えた。7月26日には、石巻市・女川町、7月27日には、気仙沼市の津波被災地の見分を行った。

中世史研究者2名、近代史研究者1名がともに見分した。私個人は運転するほうにまわり、それほど写真撮影をしていない。

詳細は、後日ブログに書くことを予定している。

ただ、印象をここで記しておく。

石巻は、ようやく市街地中心部の津波被災状況が把握できたと思う。まずは、石巻港とその背後の工場地帯・倉庫地帯・水産物加工場地帯が被災し、その背後の市街地が津波の直撃を受けたといえる。もっともひどいところが門脇町ということになるだろう。さらにその背後の石巻市中心部市街地も津波が襲ったが、すべての家が全壊するほどではなかったようだ。そして、市街地中心部の一部の店舗は営業を始めているようである。

女川については、ほとんど山奥というところまで、津波に被災したことがわかった。また、昨日行った午後は、潮が満ちてきたらしく、埠頭の内側にかなり浸水していた。五箇浦湾の漁港は、それぞれの地域ごとに仮設住宅が作られていた。

気仙沼市の津波被災地(2011年7月27日)

気仙沼市の津波被災地(2011年7月27日)

本日行った気仙沼市については、湾の一番奥が、もっとも被災していたことがわかった。巨大な船が残留されていた。

それにしても、仙台ー石巻間の三陸道は大渋滞を起こしており、今回の見分において大きな支障となった。そのため、予定していた南三陸町などに足を踏み入れることはできなかった。

それに、変な話であるが、どこでも仏壇屋の新規開業が目立った。

被害も各所で大きく違っているが、復興の度合いもかなり違っている。それについても、詳述したい。

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2011年7月25日、数名の友人たちと多賀城市を訪れた。

陸奥国府である多賀城は869年の貞観地震で破壊されたというところである。そのことを伝える『日本三大実録』の現代語訳をここでのせておく。

5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。(空を)流れる光が(夜を)昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立っていることができなかった。ある者は(倒壊)家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑み込まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合うなどし、城や数知れないほどの倉庫・門櫓・牆壁[10]などが崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難することができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった。
(http://www.weblio.jp/wkpja/content/%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87_%E8%B2%9E%E8%A6%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81より)

2011年3月11日もこの地は地震・津波で被災した。6月24日の集計では、死者187名、行方不明者3名、全壊家屋1549棟、半壊家屋2353棟、一部損壊は948棟となっている。まさに、多賀城の城下にあたる多賀城市八幡の津波被災を伝える動画を以下に示す。

(<iframe width="425" height="349" src="http://www.youtube.com/embed/OrsYTS7TUqQ&quot; frameborder="0"より)

現在、現地に行ってみると、国府多賀城跡そのものは高台にあり、貞観地震でも東日本大震災でも津波被災は受けなかったと思われる。

多賀城跡遠望

ただ、遺跡の一部で開発が規制されていると思われる場所(平時には駐車場であるように思われる)が瓦礫の集積場になっていた。

多賀城跡周辺の瓦礫集積場

多賀城跡周辺の瓦礫集積場

ただ、この地域では、さすがに復興にむけた動きが目立った。多賀城市には仮設住宅が建設されている。

多賀城市の仮設住宅

多賀城市の仮設住宅

また、激甚な津波被災を受けたと思われる多賀城市八幡も、かなり商店が復興していた。

7月25日現在の多賀城市八幡

7月25日現在の多賀城市八幡

よくここまで復興したという感がある。

しかし、より海岸部は、津波被災の爪痕をまだみることができる。さすがに仙台塩釜港は再開していたが、その周辺は、まだかなり荒涼としていた。夏なので、草が成長していたが、いまだ、自動車や木などが散乱している。ここでは、仙台市宮城野区蒲生前通の景況を示しておく。

仙台市宮城野区蒲生前通

仙台市宮城野区蒲生前通

ここも、被災直後は、こんな状態であった。

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さて、ここでは、2011年5月27日、午後4時から女川高校で開催された、女川復興計画公聴会について述べておこう。この公聴会は、鷲神・小乗(女川町市街地南側)・浦宿(万石浦側)・出島(離島部)を対象として実施された。

ここでは、町長や鈴木浩会長の挨拶は省略する。

地区住民の第一声は、このようなものであった。

(地区民)
①女川町の道路の問題は、以前からあったが、道路を拡幅する考えは無いのか。
②衛星電話を活用したのか。県庁へ連絡したら女川町から連絡が無いと言われた。
③町指定の避難場所に備蓄が少なかったのではないか。
④町議会議員が、被災後アパートを借りた。町民の苦しみをもっと分かって欲しい。
⑤防災無線の津波避難の呼びかけを、もっと具体的にして欲しかった。
⑥安全安心の町づくりに原子力関係が載っていない。原発事故が発生すれば、復興計画も意味のないものになる。
(女川町役場サイトより)

ここで、ようやく、原発関連について、住民側から意見が出たのである。外部からみると「原発事故が発生すれば、復興計画も意味のないものになる」という指摘はもっともであるといえる。このことは、女川においても、福島第一原発事故の影響が及んできたことを示しているといえる。しかし、この指摘も、より個別の問題の中の一問題、いわば、ワンオブゼムであったことにも着目しなくてはならないであろう。

それぞれの個別のことについての町長らの回答は省略しておこう。原子力発電については、このように回答している。

(町長)
原子力発電所は、人間があらゆる努力をし、いかに信頼を勝ち取るかである。建設当時は、14mの高さは必要無いと言われていたが、「必要な高さだ」と主張したことにより実現している。現在も電源車、自家発電を加える努力をしている。

町長の意見は、電力会社があらゆる努力をし、それによって信頼を勝ち得ることが必要であるということである。これは、佐賀県の玄海原発再稼働問題における、佐賀県知事や玄海町長らの姿勢と基本的に同じであるといえる。言ってしまえば、努力したことに信頼できれば、女川原発の再稼働を認めるということと同義といえるのである。

ただ、原発問題の論議はここで紹介する以上されなかった。この公聴会でもやはり、高台移転、集落・漁港の集約化が一番の課題であった。ただ、地区住民の発言もさまざまである。

例えば、「計画案は、大筋で良いと思う。住民の協働、参加が必要である」という意見があったかと思うと、「高台移転は、本当に良いのか。高齢者が生活するには高台は大変である」という意見もあった。

町長と鈴木会長は、高台移転につき、設計や交通を確保する面で、高齢者に配慮することは述べた。しかし、全体としては、

(町長)
女川町は、私有権をとても大事にしてきた。しかし、町の8割が無くなったため、がれきを片付け、嵩上げが必要となる。造成後の案を簡単に言えば、100坪の土地を持っていれば、移転先に100坪の土地の権利を与えることも考えられる。半島部の土地も個人、共同と分けて使用したり、水産加工の規模も大小様々である。分野別に協同的に考えれば信用がつき、国もお金を出し、町も補助するなど、お金を引き出しやすくなる。

(鈴木会長)
皆さんが亡くなった後に、子ども達に不動産を引き継ぐ見通しがあるのか。地方では、子ども達がふるさとを離れる。相続の時点で、空き家になるということが問題になっている。ふるさとを離れた子どもたちは、その土地を売却したいが売れず、空き家が続出するということが、現実に問題となっている。このことをこれからのまちづくりで考えていかなければならない。

と言っており、高台移転・集落・漁港の集約化をすすめることは変わっていないといえる。

また、それぞれの地域の特性にあわせた意見も地区住民から出ている。例えば、

(地区民)
小乗地区では、住民と話し合いを行った。小乗地区内の高台に適地があり、コバルトラインとの接続も可能であるため、小乗地区への居住地設置を要望したい。

という意見が出た。町長は、今の場所に近いという要望は理解できる、検討したいと答えている。

一方、ここでもまた、「総合運動場が居住地になっているが、取り壊し、清水に移転するのは税の無駄ではないか」という意見が出た。それに対し、町長は「運動公園は利用者も多いが、陸上競技場の修繕に相当なお金がかかる。体育館については、残すことも検討したい」と答えているのである。

このように、まず、高台移転や集落集約化という、住民の居場所を確保するということが最も大きな課題であった。原発問題は、女川町住民にとっては、まだ、ワンオブゼムの問題であったといえよう。

ただ、福島第一原発の事故は、近隣町村の住民の居場所を根こそぎ喪失させたものといえる。その意味では、原発が立地する女川においても、抽象的な安全論ではなく、住民の居場所を根こそぎ喪失させる可能性をもつものとして、原発がとらえられるようになってきたともいえるのである。そのような変化も、ここで読み取ることができよう。

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