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Archive for 2011年1月

青松寺旧山門(http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/mapframe.html)

青松寺旧山門(http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/mapframe.html)

愛宕グリーンヒルズにおける青松寺の境内復興にかける熱意はなみなみならぬものがある。関東大震災以前に存在していた山門を、復興したのだ。青松寺のホームページでは、関東大震災以前の山門の写真を出して、次のように説明している。なお、門前の橋は、赤坂溜池から流れ出ていた「桜川」という川にかかっていた。

右手前に厩舎、その右奥は門番所です。門前の高札には「説教」と大きく書かれ、毎月一日に行なわれていました。

青松寺現山門(2011年1月31日撮影)

青松寺現山門(2011年1月31日撮影)

青松寺は、大きな山門を建設した。現在の山門は二階建てであり、たぶん、近世の山門より大きい。

青松寺山門の四天王像(2011年1月31日撮影)

青松寺山門の四天王像(2011年1月31日撮影)

山門内部には、四天王像が安置されている。

青松寺山門につながる連絡通路(2011年1月31日撮影)

青松寺山門につながる連絡通路(2011年1月31日撮影)

一方、実際には封鎖されているが、山門の二階建て部分には、愛宕グリーンヒルズ遊歩道からの通路がある。ある意味で、大寺院としての威容を取り戻したいという青松寺の思いと、山門部分も愛宕グリーンヒルズの公開空地の一部と考える森ビル側の思惑が交差しているといえよう。

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青松寺本堂(2011年1月4日撮影)

青松寺本堂(2011年1月4日撮影)

青松寺境内図(http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/mapframe.html)

青松寺境内図(http://www5.ocn.ne.jp/~seishoji/mapframe.html)

帝都地形図(1930年)

帝都地形図(1930年)

(井口悦夫編『帝都地形図』第4集所収、2005年、之潮)

今の青松寺は、一見近世の姿を保存しているようにみえる。しかし、実際は、1923年の関東大震災で全山焼失したのである。そして、その後の区画整理で、この地域、家屋は道路用地などへの転用を余儀なくされた。宅地の減少率は11%であったという(『港区史』下巻 1960年)。青松寺も昔の威容を維持することはできなかった。1930年の「帝都地形図」においても、本堂部分の再建のみがされていた。青松寺のホームページには次のようにかかれている。

大正12年9月の関東大震災で境内堂宇全てが消失し、昭和4年に新たに建立された本堂は、大震災で火災を被った後ということもあり、当時はまだ珍しい鉄筋コンクリートで造られました。

現在の青松寺の本堂が建立された当時(昭和5年)、その天井いっぱいに「菩提場陀羅尼」(ぼだいじょうだらに)というお経が梵字で書かれてありました。

この地域は戦災を免れたが、近世の青松寺の威容を取り戻すことはできなかった。ゼンリンの『住宅地図』(1993年度版)では、青松寺本堂とそれに付属する庫裏などと思われる部分、子院である傳叟院・考寿院・清岸院(元子院)の再建はされているが、近世にあった山門・鐘楼などは再建されていない。過去、青松寺境内であった地域は、細かく分割され、小規模の民家やビルなどが立ち並んでいた。その状況をかえ、関東大震災後に再建された本堂を中心に現在の青松寺の威容を取り戻したのが、愛宕グリーンヒルズ開発であったのである。青松寺のホームページには次のように書かれており、同寺自身がこのことは認めている。

大正十二年(1923年)の関東大震災では堂塔は烏有に帰したが、歴代住職と檀信徒の青松寺復興に寄せる思いは篤く、今日の時節到来を迎えて再開発を行い、往時の伽藍を再建し、願いが叶えられた。これにより青松寺本来の姿に立ちかえり、活溌な機能を果たす仏法興隆の場として、世に広く応じる事のできる構えを備えるに到った。

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青松寺中心部(2011年1月4日撮影)

青松寺中心部(2011年1月4日撮影)

江戸名所図会・青松寺(http://shangshang-typhoon.blog.ocn.ne.jp/photos/edo_1/0071.html)

江戸名所図会・青松寺(http://shangshang-typhoon.blog.ocn.ne.jp/photos/edo_1/0071.html)

ここで、愛宕グリーンヒルズの中心部のC地区にある万年山青松寺をみておこう。万年山青松寺は、1476年に太田持資が僧雲岡によって命じて開基したという曹洞宗寺院である。1476年は太田道灌が存命しており、実質的には道灌の命ということになろう。開基当時の青松寺は、麹町貝塚に所在していた。現在の最高裁・国立劇場のあたりに想定されている。つまりは、江戸城の近辺にあった。そして、1600年に、江戸城拡張のために、現在の位置に移転した。なお、貝塚にいた時分は、浄土宗増上寺と隣り合わせにあり、愛宕山に移った際も増上寺の隣に移されたと伝えられている。将軍が葬られた増上寺ほどではないが、近世の青松寺は大寺院であった。「江戸名所図会」の挿絵でそれがわかる。
現在の青松寺については、おいおい紹介していくが、かなり大きな寺院であり、一見近世のおもむきを残しているようにみえる。しかし、内実はどうだろうか。検討していきたい。
参考文献『芝区誌』(1938年)

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「千里社稲荷」(2011年1月4日撮影)

「千里社稲荷」(2011年1月4日撮影)

「法輪大観音」(2011年1月4日撮影)

「法輪大観音」(2011年1月4日撮影)

「鑓持勘助」(2011年1月4日撮影)

「鑓持勘助」(2011年1月4日撮影)

この「公開空地」にあるのは、オブジェー石仏だけではない。従前からの信仰対象も散在している。一番南側にあるのが、「千里社稲荷」という、青松寺の境内社である。先に見た祠と違って、こちらの境内社はきちんと護持されている感じがする。一方、この「公開空地」の最も南側で、一段高いところにあるのが、銅像の「法輪大観音」である。高さ3mはあるだろうか。かなり大きい。ゼンリンの『住宅地図』(1993年度版)にも記載されているので、開発以前から所在していたといえる。青松寺のホームページには、次のように記載されている。

坐禅堂の西側におわす観音菩薩様です。法輪とは、「仏の教え」のことで、また、仏さまがその教えを説かれることを「転法輪」というのですが、「法輪」のお名には、世の中に仏教の教えが広く説かれるように、人々の心に届くようにとの願いが込められております。

この「法輪大観音」のわきには、「鑓持勘助」の像が所在している。この勘助は、本名芦田義勝といい、主人の鑓が長すぎて落として打ち首になる者が続出することを憂い、1702年にその鑓を切断して自害したということである。『芝区誌』(1938年)によると小堂があったそうだが、いまは露天である。

このほか、この「公開空地」には、従前からの信仰対象が散在している。石仏群とあいまって、不思議な空間を演出しているといえよう。

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「公開空地」(2011年1月4日撮影)

「公開空地」(2011年1月4日撮影)

兎の彫刻(2011年1月4日撮影)

兎の彫刻(2011年1月4日撮影)

地蔵の彫刻(2011年1月4日撮影)

地蔵の彫刻(2011年1月4日撮影)

さて、MORIタワーをめざして、石段をおりていく。おりきったところは、C地区の青松寺に続く道となっている。しかし、道といっても、MORIタワーに隣接した「公開空地」という観がある。芝生の中に遊歩道があり、それに則して、小さな堀割ー水の流れがあり、ところどころ遊歩道が飛び石でそれをわたっている。樹木や草花もきれいに植栽されている。プロの造園家がデザインしたと思われる。MORIタワーの窓からは、この景観がよくみえると思う。
ここもまた、青松寺の管理する空間だ。この空間の中に、石で作ったオブジェがいくつも点在している。近づいてみよう。一面には、兎や猿などが彫刻されている。全部みたわけではないが、たぶん、十二支の動物なんだろう。しかし、その裏側には、仏像が彫刻されている。それぞれ趣が違うが、たぶん地蔵像なんだろうと思う。
通常、石仏は、どんなに摩耗していても、信仰対象として扱われている。ここでは、「公開空地」のオブジェになっているといえる。「千と千尋の神隠し」の舞台となった、廃業されたテーマパークに点在する、意味不明の石造物に似ている。その意味で、この空間も「不思議」である。

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公開空地(2011年1月4日撮影)

公開空地(2011年1月4日撮影)


「芝青松の杜」(2011年1月4日撮影)

「芝青松の杜」(2011年1月4日撮影)


「芝青松の杜」掲示板(2011年1月4日撮影)

「芝青松の杜」掲示板(2011年1月4日撮影)


十二支のオブジェ、展望台、祠(2011年1月4日撮影)

十二支のオブジェ、展望台、祠(2011年1月4日撮影)


智正庵(2011年1月4日撮影)

智正庵(2011年1月4日撮影)


清岸院の前から、MORIタワーのほうに(つまり東に)歩いて行こう。しばらく、いかにも現代の公開空地でございという植え込みが続く。公開空地には、日本在来の草木をいかにも自然な感じで植栽することがはやりで、たぶんどこも造園家が腕をふるっているのだろうが、なんというかどこも同じようにみえてくるのがご愛嬌である。といっても、イギリス庭園を再現したりすればコストがかかるからな…と思っていると、全然違う風景がみえてくる。本当に自然の「杜」が目の前に存在しているのだ。もちろん、下草をかったり、遊歩道をつけたりしているが、公開空地特有の「自然的植栽」でもなく、東京でありがちな大名屋敷庭園の遺跡でもない、「庭」ではない「杜」の名残がそこにあるのだ。
愛宕グリーンヒルズ開発直前の景況を示しているゼンリンの『住宅地図』(1993年度版)には、この地には何も建設されておらず、広葉樹林や荒地となっていた。結果的にどの程度改変されたかはわからない。森ビルならば、一度木を移植して再度植えなおすということも考えられる。しかし、景観的には自然林の名残のようにみえる。
この場所は、「芝青松の杜」の一部とされており、青松寺境内として管理されることになっている。掲示板をみると、この場所は「芝青松の杜」のほんの一部だ。「芝青松の杜」は、夜は立ち入り禁止となっている。といっても、正直かなり気味が悪く、夜に来たいとは思わないだろう。
さらに、気味が悪いものがここにはある。十二支の動物の金属でできたオブジェが点在している。オブジェ自体は確かにかわいいともいえるのだが、なぜ、ここにあるのか不明で、その不条理感が、この場所の不気味さを増幅させている。
この場所には、展望台があり、青松寺が見下ろせる。しかし、木もあり、何よりも愛宕グリーンヒルズの超高層建築物のため、展望がきかない。展望するなら、MORIタワーを選ぶだろう。
この展望台のとなりに、小さな祠がある。後述するように、愛宕グリーンヒルズ内にはほかにも祠があるのだが、ここの祠は、自然の中に打ち捨てられた観があり、これも不気味さのもととなっている。
もちろん、まったくこの土地は打ち捨てられているわけではない。「智正庵」という日本家屋が立っている。しかし、これは、どどういう目的で建設されたのか、まったくわからなかった。清水昭夫の文章にふされた設計図でようやくわかった。本来、ここは「集会所」だったのだ。しかし、今でもその目的で使われているのだろうか。愛宕グリーンヒルズの住民は、ここで集会するのだろうか。
一見、機能的なオフィス地域の背後には、かなりカオスな不気味な空間が広がっていたのである。

*青松寺のホームページによると「智正庵」は同寺の施設となっている。

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清岸院に上がるエスカレーター(2011年1月4日)

清岸院に上がるエスカレーター(2011年1月4日)

清岸院(2011年1月4日)

清岸院(2011年1月4日)


愛宕グリーンヒルズA地区を表通りからみると、一見普通のビジネス地域にみえる。しかし、一歩足を踏み入れてみると、そこには、不思議な空間がひろがっているのだ。

まず、愛宕グリーンヒルズの南西側にまわってみよう。そこには光文社ビルがあるが、さらにその外側にエスカレーターがある。このエスカレーターは、結構長い。そこをあがってみよう。

上がってみると、日本家屋がみえてくる。これは、なんだろうか。そばに近寄ってみると、清岸院という仏教寺院であることがわかる。この清岸院は、伝統ある寺院である。そもそもは、曹洞宗青松寺の子院として、1601年に開創され、1922年に青松寺より独立した。そして、1923年の関東大震災で被災し、その後の区画整理によってこの地に移転した(『港区史』上巻参照)。現状でいえば、愛宕山の高地にある。

後述するように、青松寺自体は、歴史的伝統にそった寺院形式で建築されている。しかし、清岸院の場合は、日本家屋であることはわかるが、ただの住宅にみえ、寺院のようにはみえない。そもそも、寺院に参詣するのに、エスカレーターを使うこと自体が、あまりに未来的すぎる。バリアフリーな寺院とはいえるのだが。

確かに高地だからエスカレーターを使うという発想はわかる。しかし、寺院の歴史性よりも、モダニズム的な機能性が優先されているといえないだろうか。むしろ、伝統的寺院のモダンなモデルチェンジを提起しているという様相を呈しているといえよう。

さらに、奥にいってみる。新たに不思議な空間が広がってくる。

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愛宕グリーンヒルズMORIタワー(2011年1月4日撮影)

愛宕グリーンヒルズMORIタワー(2011年1月4日撮影)

MORIタワー内部(2011年1月4日撮影)

MORIタワー内部(2011年1月4日撮影)

プラザ(2011年1月4日撮影)

プラザ(2011年1月4日撮影)

さて、ここから、愛宕グリーンヒルズの各地区をめぐっていこう。まず、オフィス地域のA地区をみてみよう。ここには、オフィスビルのMORIタワーがそびえたっている。地上42階地下2階、建築面積2426㎡、高さ187mの超高層ビルである。B地区のフォレストタワーとともに、アメリカの建築家シザー・ベリにより外観がデザインされたとのことで、超高層の圧迫感を緩和することを意図しているそうである(清水昭夫)。ホームページによると蓮の葉をイメージしているとのこと。まあ、確かに比較的細身で、上部はより細くなっており、圧迫感を与えないという意図はうかがえる。青光りする概観は、六本木ヒルズに似ているが、それよりも小さい。
もちろん、中も一般的なオフィスビルの仕様である。いまどき、それ以外のやり方はないだろうが。低層階は店舗が入居し、最上階の42階にもレストランが入っている。
それ以外にも、崖地部分を利用して、愛宕山に埋め込まれた地上2階のプラザがある。建築面積597㎡なので、それほど大きいものではない。スーパーとして「成城石井」が入居している。中に入っていないが、そんなに大きくはないので、すべての生活必需品がそろうということはないだろう。そのほかの店舗も飲食店が多い。六本木ヒルズのような商業施設が充実しているということではない。
その他、光文社ビルなどが所在している。表通りからみると、デザインは優れているが、普通のオフィス地域のようにみえる。しかし、一歩、裏に入ってみると、A地区には異空間が広がっている。次からみていこう。

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愛宕グリーンヒルズ配置図(『都市計画』51-2)

愛宕グリーンヒルズ配置図(『都市計画』51-2)


ここで、清水昭夫「新しい都市景観の創造(歴史と融合した愛宕グリーンヒルズ)」(『都市計画』51-2 2002年6月25日)にしたがって、愛宕グリーンヒルズ全体を概観してみる。図をみてみよう。なお、西が上であることに注意されたい。まず、施行区域は38450㎡で、愛宕神社は含んでいない。愛宕神社の南側の地域である。建築面積は10763㎡だが、延床面積は167685㎡、容積対象は140563㎡で、10倍以上となる。建築面積からいえば、確かに半分以下となっている。

清水は、愛宕グリーンヒルズを四つの地区にわけている。まず、南側のA地区には、MORIタワー(オフィス)・プラザ(商業店舗)・清岸院・光文社があり、主に業務機能が集約されて配置されている。北東側のB地区には、フォレストタワー(住宅)・傳叟院・愛宕山エレベーターがあり、主に住宅機能が集約されて配置されている。中央部はC地区とされ、青松寺が所在する。北西部はD地区とされ、もともと所在したNHK放送博物館がある。

図でいうと、上側が愛宕山上となる。標高差はかなり大きく20m以上ある。崖地といってよいだろう。このように愛宕グリーンヒルズは配置されているのである。

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愛宕グリーンヒルズ内の歩行者通路(2011年1月4日撮影)

愛宕グリーンヒルズ内の歩行者通路(2011年1月4日撮影)

さて、前回、愛宕グリーンハイツという寺社地を使っての大規模開発の森ビル側の戦略目標として、商業地と寺社地を利用して、高容積率を要する超高層住宅を建設することにあったのではないかと考察した。しかし、たぶん、それだけではないだろう。そこをもう一度考えてみよう。

森ビル設計部の清水昭夫は、「新しい都市景観の創造(歴史と融合した愛宕グリーンヒルズ)」(『都市計画』51巻2号 2002年6月25日)で、愛宕グリーンヒルズの開発理念を次のように語っている。

愛宕山の既存の地形と緑を保全し、都心の貴重な景観資源として活用すると共に、定住人口を回復し安全で快適な街づくりを目指すことを開発理念としている。

後段の「定住人口を回復し」云々は、森ビルの都市開発事業で総じていわれていることである。アークヒルズにせよ、六本木ヒルズにせよ、森ビルは、常にそのように主張して、超高層住宅を建ててきたといえる。

愛宕グリーンヒルズの固有な戦略目標は、「愛宕山の既存の地形と緑を保全し、都心の貴重な景観資源として活用する」ということができる。景観の保全は、青松寺との交渉時から課題であった。しかし、森ビルは、それだけではなく、保全した景観を「景観資源」として活用することをはかっているといえよう。

では、どのように景観を保全をしようとしているのか。清水は、このように述べている。

MORIタワーおよびフォレストタワーは、沿道から見える愛宕山を本来の姿として再現する為に高層化し、隣棟間隔を大きく開放して配置している。
また、2本のタワーを高層化した結果、敷地面積の約半分のオープンスペースが生み出され、そのオープンスペースは歩行者通路や広場・または公園的に整備され愛宕山の緑を修復すべく緑化を行っている。
外構計画にいたっては、愛宕山の緑再生の為に、従前の樹木の再植樹や、愛宕山で育った苗木の植樹を行い、また従前の区道側の間知石を開発地区内で再利用するなどしている。
商業店舗であるプラザも、愛宕山に埋もれるように配置する事により、従前の間知石の切通しを再現しており、本開発は、歴史的景観をさまざまな観点から保全するように配慮している。

清水は、愛宕グリーンヒルズの半分はオープンスペースであるとしている。かなりすごい話だ。また、再植樹などもかなり手を入れているといえる。そして、景観資源には、「緑」だけではなく「歴史的景観」も含んでいるのである。ゆえに、キャッチフレーズを「歴史と融合した愛宕グリーンヒルズ」としているといえよう。

高容積率の超高層建築と歴史的景観の保全。この二つの戦略目標の追及が、どのような街づくりになるのか。次からは、愛宕グリーンヒルズの現況を縷々みていきたい。

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