いわき市立美術館前のヘンリー・ムーアの彫刻
<緑濃きいわきにおける反原発集会>
さて、5月15日、いわき市の海岸部の久之浜、四倉、豊間を車で巡った後、いわき市中心部の平地区に向かった。
こんなに美しい街だったのか…まず、そんな思いにかられた。ほぼ10年前、ここにきた時は、雨にぬれ、なんか淋しい街だった。今日は晴天で、まさに新緑の頃、街路樹や公園の木々は青々としていた。街路も広々としていた。いわき市立美術館の前には、ヘンリー・ムーアの「横たわる人体・手」(1979年)という彫刻があった。
私は、いわき市平地区の中心部にある「平中央公園」に向かった。あまり大きな公園ではないが、真ん中に芝生の広場があり、そのまわりには大きな木が植えられていた。東京などと違って、芝生も木々も傷みがなく、青々としていた。
しかし、公園の前にある、「いわき芸術文化交流館」は被災し、ところどころ壊れ、その前の地面には、亀裂が走っていた。
この公園に来たのは理由がある。その日、この公園を出発点として「NO NUKES! PEACE DEMO in Iwaki, FUKUSHIMA☆ さよなら原発 放射能汚染のない平和な未来を求めるパレード」が開催されるということになっていた。前々から、福島県の被災地をみてみたいという希望があったのだが、こういうことがあるのならば、参加してみたいと思った。そこで、この日に福島県浜通りにくることにしたのだ。
それ以前、5月3日に東京新宿で行われたデモにも出ていたのだが…。こういうデモやパレードへの参加は、私が個人的にできる、本当にささやかな意思表示かと思ったので。
なお、この集会の趣旨は、このようなものだ。一言でいえば、福島第一原発における放射能汚染から、「子供たち」を守ろうということが目的となっているといえる。
〜子供たちを守りましょう!〜
2011年3月11日に発生した東日本大震災により引き起こされた、東京電力福島第一原子力発電所の大事故をきっかけに、私たちの生活や環境が大きく変化してしまいました。地震や津波の被害、余震への心配の上に、「放射能汚染」という更なる被害が私たちに覆いかぶさってきています。
日本全国、福島県全域はもとよりいわき市でも、行政の放射線量に関しての「安全キャンペーン」により正確な情報が市民に行き届いていない、または遅れ遅れの対応での被害拡大など、特に最近の小中学校に対する行政からの指示などは、子供を持つ多くの父母に甚大な不安を与えています。また、このままのやり方を行政に許していくことで、更なる環境汚染と健康被害を市民、とりわけ未来を担う子供たちへもたらすことは一目瞭然です。子供たちを守ることは、私たち大人の「責任範囲」です。
開催地いわき市の人々だけではなく、福島県全域または全国からの脱原発を望む人々、不安を抱えながらどうすることもできないと思っている人々、避難所でこの不条理な状況に憤っている人々、すべての人々が集い、元気を与え合い「私たちは無力ではない、私たちにも変えられる」という意識を持って帰れる、そんな場を一緒につくりましょう!(http://nonukesmorehearts.org/?page_id=462)
集会の中央にそびえるメタセコイア
パレードに先立って、緑の濃い平中央公園で集会が開催された。通常演説壇が置かれることになる集会の中心は、一本のメタセコイアの木の根元であった。なんというか「自由の木」を思わせる。そして、その前の芝生広場に人が集まっていた。数百人ほどであろうか。警察の規制もあまり厳しくない。東京のギスギスした感じとは大違いであり、まるで、テレビでみる欧米の集会のようであった。趣旨が趣旨だけに母子づれが目立った。
このパレードは、「いわきアクション!ママの会」といういわき市の団体と、「No Nukes More Hearts」という東京に事務局のある団体の共催で行われ、「脱原発福島ネットワーク」という福島県の団体が協賛する形で行われていた。地元の団体と全国ネットワークがある東京の団体という共催の形である。司会者は「いわきアクション!ママの会」から出し、主催者挨拶は「No Nukes More Hearts」が行っていた。なお、どちらも、「母親」ということであり、その意味で趣旨通りであるといえる。「No Nukes More Hearts」の主催者挨拶は、福島県の人々にかなり気を遣っており、日本いや世界のために、福島県の人々こそ反原発で頑張ってほしい、その応援にきたのだという論調であった。
演説する福島県議会議員
まず、福島県議会議員が挨拶を行った。その他にも、いわき市会議員も挨拶しており、自治体議員の参加が多かったようだ。
<福島ー東京の間における亀裂の露呈>
ただ、東京への微妙な思いが交錯していた。先に、パレードが地元の団体と全国ネットワークがある東京の団体という共催の形であると述べたが、東京などの他県の人々の協力は大きかったようある。集会スピーチも、他県の人が多かった。しかし、東京の電力供給のために福島が犠牲になったことへの憤りは強く、最初に挨拶した福島県議会議員は、「地産地消、東京の電力は東京でまかなってほしい」といって、拍手されていた。
さらに、次のようなことがあった(なお、この一件についてはメモをとっていなかったので、ニュアンスを違って記憶しているかもしれないことを付記しておく)。東京出身で、放射線への恐怖のため子どもとともに関西地方に転居した一人の母親が、涙ながらに「福島の原発の電力を、今まで享受してきたことを反省する」旨のスピーチをしていた。放射線の脅威から子どもを守るというのが集会・パレードの趣旨であるので、それにそっている発言といえる。
しかし、会場から、「川崎市民が福島県の瓦礫を受け入れないということをどう考えるのか」という発言があった。その発言をした人は、まあ初老の老人といえる人で、後でよくみたら、背中に「南相馬市」という文字を付けている衣服を着用していた。津波で大きな被害を受けた上に、多くの部分が「警戒区域」「計画的避難区域」「緊急時避難準備区域」に指定され、復興事業が遅れている南相馬市の人だったらしい。
スピーチをしている女性は「福島県の放射性物質に汚染されたものは、20km圏以内から動かさないようにしてほしい」などと答えたのだが、そこで論争になってしまった。ああいう場で論争する光景は、はじめてみた。
しばらくして、「東京の方からわざわざ来ていていただいて、感謝します」などという発言が会場からあって、とりあえず、収拾された。しかし、そのスピーチをしていた人と、会場で疑問をなげかけた人は、その後も檀上をおりて議論していた。
いわき市久之浜地区の瓦礫
川崎市の話については、説明を必要としよう。川崎市長が福島出身で、好意で福島県の瓦礫(別に放射性廃棄物というわけではない)を引き受けて処理しようとしたら、市民より反対のメールが殺到したということだ。いわば、まさに「風評被害」なのだ。その結果はわからない。切ないなと思わなくもないが、今や、郡山市の校庭の土でも市内すら引き受け手がない状態になっていると聞いている。
16日付けの朝日新聞朝刊には、「警戒区域」「計画的避難区域」を除く福島県中通り・浜通りの瓦礫は、県内に焼却処分場を新設し、放射性物質を除去する装置をつけて、処理する方針を環境省が固めたという報道がなされている。技術的には可能ではあろうが、建設するだけでも日時がかかる。それに、このような施設の立地には時間がかかるのが通常である。
南相馬市鹿島地区の津波被災(4月9日撮影)
南相馬市では、福島第一原発事故のため、津波被災における瓦礫の片付けはすすんでいない。南相馬市においては、単に放射線への恐怖だけでなく、津波被災からの生活再建が進んでいないということもあるのだ。そして、それもまた、福島第一原発事故のためなのである。
南相馬市の人の発言の意味を考えると、その苦しみを、福島県で生産された電力を享受してきた関東圏の人々に少しでも分かち合ってほしいということであろう。
しかし、そのような真意と全く逆に、「福島県の放射性物質に汚染されたものは、20km圏以内から動かさないようにしてほしい」とスピーチ者の女性は応答してしまった。福島県内より低い放射線量の東京からでも、子どものために関西へ避難した彼女の応答は、素朴に考えるならば、理解できる。「放射能汚染から子どもを守る」というのが、今回の集会・パレードの目的でもあり、東京圏内の多数の子どもたちを守りたいということが、彼女の心情であろう。
だが、これは、東京などへの放射線汚染を防ぐために福島県内に放射性物質を封じ込めておくということであり、それは、そもそも福島県内に原発を建設した東電の意図に重なっていくことになろう。警戒区域などの福島県内は、どうするのか。論争になるのも当然である。
ここで、そのように答えたこの女性を批判するつもりはない。ここで考えなくてはならないことは、福島の地に原発が建設された時に前提とされた中央―地方からなる社会構造は、反原発運動の中における言説のあり方も規定しているということなのだ。本ブログの中で、どのように福島に原発が建設されたかということを問題にしてきたが、それは、それぞれの人の主体的意思をこえて、私たちを拘束しているのである。これは、全くのアポリアである。そして、これは、このブログを書いている私の問題でもある。
<和解の契機としての「共苦」>
このように露呈されてしまった亀裂はどのように解決されるのであろうか。「たぶん主催者側の人だと思うが、『東京の方からわざわざ来ていていただいて、感謝します』などという発言が会場からあって、とりあえず、収拾された。」と私は書いたが、そのことの意味を考えなくてはならない。子どもも連れて関西に避難したというならば、かなり放射線について恐怖しているであろうとこの女性については考えられる。それにもかかわらず、東京より放射線量が高いいわき市にきていたただいてありがとうといっていると解釈すべきなのだろう。
この発言を行った人の属性は、中年の男性ということしかわからなかった。内容からみて、会場進行の責任を担う発言であり、主催者側の人であろうと推測される。さらにいえば、この発言は、当事者の福島県の人でなければ意味をなさないといえる。こういうようにいえるのではないか。私たちもあなたも、放射線の脅威を感じている。あなたは、わざわざ放射線の脅威をおして、わざわざいわき市にきて運動に参加してくれた。そのことにわれわれ福島県民は感謝すると。
「放射線の脅威」にさらされながら共に在るということ、それが、社会構造に起因する亀裂を乗り越え、お互いの連帯を可能にさせているといえる。つまりは「共苦」の意識が人々をつなげているのである。それが、私にとっての、この集会で得られた意義であった。
<パレードに出て>
平中央公園を出発するパレード
さて、ここで、もう一度、集会・パレードの光景にもどろう。パレードつまりデモなのだが、かなり牧歌的で、子どもも参加していた。東京のデモでは、車線はみ出し規制など警察が暴力的に行っていたが、ここでは主催者が行っていた。もちろん、警察も規制しないわけではないが、信号待ちのようなことに終始し、早く歩けなんていわない。
パレードの参加者たち
デモ文化もかなり変わりつつあるようだ。最初、年長の人が「シュプレヒコール」なんていっていたが、いまいちのりが悪い。一方「素人の乱」も参加しており、リズミカルな音楽をベースとして「原発やめろ」「原発いらない」「子どもを守れ」というコールをしていたが、最終的にはそちらの方が主流となった。どうやら、いわき市でデモが行われたのはひさしぶりらしい。猫が窓から顔を出して、デモ見物をしていた。
デモの際の市民向けのコールで、「今、私たちの体には放射線が貫いています」というのがあった。それはそうで…。感じ入った。いわき市のその日の放射線量は、0.25マイクロシーベルト。福島や郡山は1.3マイクロシーベルトを超えているので、それよりは低いのだが、東京の0.06マイクロシーベルトよりは高いのだ。
人のいい人が多かった。ある方から「どこから来たのですか」と聞かれ、「東京です」と答えたら、いわき市のいろんなことを教えてくれた。いわき市では今までデモなんてなかったそうである。主催者発表によると500名くらいが参加していたようだ。
また、途中で、平市体育館の前を通ったら、中から手を振ってくれた。避難所らしい。後日聞くと、福島第二原発のある楢葉町からの避難民であった。
デモ解散地点がいわき駅で、そこに近づくと、別の方が、「いわき駅から東京に帰るのですか」と心配してくれた。解散地点で「遠くから応援にきてくれた方々に感謝します」と主催者側がコールしていた。
まさに、優しい、美しい光景であった。「共苦」している人々への感謝。しかし、ずっと放射線量の高い地域で生活するということと、たまたま、短期間来訪したということは、レベルの違う話なのだ。そのことを、私は心に刻んでおかねばならない。そう思いつつ、車にて、東京への帰途についた。
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