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Archive for 2011年10月

東日本大震災においては、津波に襲われた各地の被害状況をリアルタイムに記録した動画が数多く残されており、youtubeなどの動画サイトにアップされていいる。本ブログでも、津波被災の状況を示すものとしていくつか引用している。

しかし、このように、リアルタイムの動画が数多く残され、社会に流通するということは、非常に新しいことである。

まず、考えてほしい。基本的に、何か事件が起きているとき、それにまきこまれている当事者は、記録機材ーそれこそカメラ程度でもー持ち歩いていないのが普通である。基本的に、動画ないし写真などは、今までは、メディア関係者が事件の行われている場に赴き、そこで撮影され、テレビ・新聞・雑誌などのメディアを通じて発信され、最終的には記録されるというものであったといえる。その意味で、短時間で終わってしまう津波などの「現場」がリアルタイムで撮影されることは、たまたま、撮影機材をもったメディア関係者もしくは学術関係者がその「現場」にいたという「偶然」がなければ、ありえないことであったといえる。

東日本大震災の起きた今日、あまりにも一般的になっているのでほとんど指摘されていないのだが、このような状況は大きく変わったといえる。現在、多くの人が携帯電話を持ち歩いている。日雇派遣の際、求人のためのアイテムとなっているなど、たぶん、携帯電話は人びとの生活において必須なものになっているといえる。この携帯電話は、単に電話機能だけでなく、写真・動画撮影のカメラ機能をもつものが普通である。そして、メール機能やインターネット接続機能がついている。つまり、携帯電話をもつということは、出来事を撮影するカメラをもつということであり、さらに、撮影した動画・写真などをインターネットを通じて発信できるということなのである。

通常は、このような機能は、比較的他愛のないことに使われている。例えば、「今日、どこに行った」とか「夕食でステーキを食べた」とかなど、それぞれの個人が体験したことを伝え合っているにすぎない。しかし、日常時でも、「当事者が経験しつつあることを当事者自身の視点で記録し発信する」ということが行われている。

東日本大震災において、多くの動画が残されているのだが、大部分は携帯電話によるものではないかと推察している。もちろん、なにがしかデジタルカメラ・デジタルビデオによるものもあると思うが、津波より避難している人びとの多くが、わざわざデジタルカメラ・デジタルビデオなどを持参しているとは思えない。多くは携帯電話で撮影されたものであろう。津波をリアルタイムに記録している動画をみると大抵は避難している当事者たちによって撮影されたものである。事件を体験している当事者自身が、当事者の視点でリアルタイムで動画・写真を記録したということは、類を見ないことである。

携帯電話で撮影された動画・写真は、メールによって転送されることができ、youtubeなどの動画サイトに投稿できる。すべての動画を直後にアップしたとは限らないが、それこそ、リアルタイムに出来事を伝える速報性を、携帯電話で撮影された動画・写真は可能性としては有しているといえる。当事者自身が体験ししている出来事を、当事者自身の視点で、情報伝達するーこれは、例えば速報性を有するとされていたテレビもできなかったことである。

その例として、たまたまyoutubeで発見した動画をみておこう。南相馬市における津波被災を写したこの動画は、2011年3月11日、たぶんFNN(フジテレビ)のニュースで流されたものである。テレビで流しているのだが、テレビ局や通信社で撮影した動画ではない。福島テレビを介して「視聴者」から提供されたものである。この「視聴者」とはだれか。この動画の後の方の電話インタビューでわかるのだが、南相馬市に襲来した津波から避難した「当事者」なのである。

テレビ局もしくは通信社が「当事者」たちを撮影し、それをマスメディアとして情報発信しているのではない。当事者自身が当事者の体験しつつある「出来事」を記録し、情報発信しているのである。そして、テレビ局は、そのような「当事者」たちに依拠して、ようやく「速報性」を確保しているのである。

このことをせんじつめていくと、かなり大きな変化が起こっているということができる。メディアは、出来事の「当事者」たちを「客体」として記録・撮影し、そして、「主体」として情報発信していた。しかし、東日本大震災では、当事者たちが記録し、情報発信している。それに依拠しなければ、メディアは情報発信できないのである。その意味で、メディアと「当事者」たちの間の位相が大きく転換しているといえるだろう。

そして、メディアを介さず、「当事者」たちがyoutubeなどのサイトに投稿することも多い。実は、資料的には、ネット掲載の動画のほうが、価値が高いといえる。テレビ局などで流されている動画は、結局のところステロタイプな「津波像」を表現するように編集されることが多く、津波のすごさは強調されるが、一体全体、どういうところで具体的にはどのような状況で津波がきたのかがわからなくなっていることが多い。早い話、石巻でも気仙沼でも、似たような動画が流されている。しかし、ネット掲載の動画は、それぞれの当事者にいた場に即して記録されており、具体的な状況がわかるのである。

そのような意味で、東日本大震災で、多くの津波の動画が残されたということは、多いというばかりではなく、携帯電話とネットを介して、当事者とメディアの関係が変わったことを意味しているのである。それは、もちろん、東日本大震災だけに限られない。つい最近、リビアのカダフィ大佐を殺害した動画が流された。わざわざ戦闘現場にカメラ(従軍記者は別だが)をもってくるものがいるとは思えない。もちろん、断定はできないが、携帯電話での撮影ではなかろうか。いずれにしても、あの動画は、プロのカメラマンが撮影したものとは思われない。「当事者」が自ら体験していることを記録して情報発信し、それに依拠してメディアが報道するという時代が到来したということができよう。

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前のブログで、私が所属している歴史学研究会発行の雑誌『歴史学研究』10月号の「東日本大震災・原発事故と歴史学」の緊急特集の中から一部紹介した。ここでは、歴史資料保存活動を中心にみてみよう。下記に目次をあげておく。

『歴史学研究』10月号(884号)
緊急特集 東日本大震災・原発事故と歴史学

特集によせて………………………………… 歴史学研究会委員会(1)
[論文]
東日本大震災と歴史の見方 …………………………………平川新(2)
地震・原発と歴史環境学-9世紀史研究の立場から……保立道久(8)
東日本大震災と前近代史研究……………………………矢田俊文(12)
災害にみる救援の歴史-災害社会史の可能性…………北原糸子(16)
東日本大震災と歴史学
 -歴史研究者として何ができるのか-…………………奥村弘(21)
[史資料ネットワークから]
歴史遺産に未来を
 -東日本大震災後の歴史資料レスキュー活動-……佐藤大介(27)
「茨城史料ネット」の資料救出活動
 -3・11から7・2へ-………………………………… 白井哲哉(30)
ふくしま歴史資料保存ネットワークの現況と課題……阿部浩一(32)
[論文]
原発と地域社会-福島第一原発事故の歴史的前提-…中嶋久人(34)
マンハッタン計画の現在…………………………………平田光司(40)
原子力発電と差別の再生産-ミネソタ州プレイリー
 ・アイランド原子力発電所と先住民-………………石山徳子(48)
記録を創り,残すということ……………………………三宅明正(54)
言論の自由がメルトダウンするとき
 -原発事故をめぐる言説の政治経済学-……………安村直己(59)

全体でいうと、一番大きい比重をしめているのが、歴史資料の保存活動ということができる。津波や地震に被災した歴史資料を救出する活動である。一般的には、津波や地震に被災した地域に、歴史研究者たちがボランティアでおもむき、おもに文書を中心とした歴史資料を救出し、破損していた場合は修復するという活動である。本特集では「史資料ネットワークから」というコーナーに、宮城・茨城・福島三県における活動報告がのせられている。また、平川新さんの「東日本大震災と歴史の見方」も、半分くらいは平川さんが中心になって進められている「宮城資料ネット」の活動が紹介されている。さらに、奥村弘さんの「東日本大震災と歴史学ー歴史研究者として何ができるのか」という論文も奥村さんが関わってきた阪神・淡路大震災における被災歴史資料保全活動についての経験を前提としたものである。

東日本大震災の際、私の周囲の歴史研究者でも、歴史資料の保存ボランティア活動に従事した人たちが多かった。行かないまでも、福島第一原発事故の話題の次に歴史研究者たちが話したことは、歴史資料保存活動であった。それこそ、阪神淡路大震災において奥村弘さんなどの被災資料保全活動は、災害において歴史研究者が行うことと、強く印象付けられていたためということができよう。宮城などは、今回の震災前から活動が組織されたときいている。その意味で、阪神・淡路大震災の経験は、歴史研究者の災害における実践活動の型として結実していたといえる。ある意味での、歴史研究者の、職業的関心から行うところの社会参加ということができよう。

そして、それは、単に、歴史資料の物理的な保存活動にとどまるものとしてはいけないだろう。奥村さんは、前述の論文の中で、このようにいっている。

地域の歴史の中で生きてきた被災者にとって、生活再建はその歴史的な現在の上にしかない。にもかかわらず、そのような視点は阪神・淡路大震災時にはほとんど顧みられることがなかった。

このことは、今回の大震災でもとわれていると、奥村さんは述べる。その上で、歴史研究者のなすべき課題として、このような提言を行っている。

歴史の深さにささえられて、豊かなイメージを持って現在を語りうる、そのような市民社会を形成する点において、歴史に関わる専門家は、現代社会に対して大きな役割を担っている。歴史的に考えるということが、被災地での生活再建において焦点となっているということは、具体的イメージをもって日本社会の未来を捉える際、歴史学が重要な位置にあること、社会的に大きく期待されていることを示している。その意味で、震災においてなすべき責務が今、私たちに問われているのではなく、私たち歴史研究者が、歴史的イメージをもって未来を考えていくことを社会通念にまで高めえたかどうかが、大震災の中で厳しく問われているのである。

単に、歴史資料を保存しているだけではないのである。歴史を前提として、未来を考えていくことが歴史研究者の責務であると、奥村さんは主張している。

私自身が、「東日本大震災の歴史的位置」と題して、必ずしも専門ではないことを本ブログで述べていることも、そのような思いからである。そして、このような実践を行うことで、必ずしも社会的分業の中で十分な地歩を占めているとはいえない歴史研究者の存在を少しでも固めていくことになると考えているのである。

一見、現状からみれば迂遠のような歴史的過去、それを前提として未来を考えていくこと、それが歴史研究者の課題なのだと、私もいいたいのである。

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今、福島第一原発の周辺はどうなっているのだろうか。福島第一原発事故の処理にかかわっている東電関係者、放射線の影響を調べる研究者、境界周辺にいるであろう警察官など、とりあえず、「関係者」以外の立ち入りが許されない土地になっている。津波被害を受けなかったところでも、人の影はこの土地から消えた。森や野原、渓谷などには、放射線の影響を受けつつも、動物・植物は存在している。しかし、恒常的に人をみることはない。そして、人がこの土地に住んだあかしといえる、家屋、田畑などは、時の経過とともに朽ちていく。放置すれば、森や野原になっていくであろう。

もちろん、すべての周辺地域がそうなるというわけではない。福島第一原発事故は、とりあえずチェルノブイリ事故ほど大きな事故ではなく、チェルノブイリ周辺ほどの大きな「強制移住区域」は必要ではないかもしれない。より精密に放射能の検査をし、大規模に除染をすれば、とりあえず住める土地もあろう。しかし、確実に、ある程度長期にわたって、人が住めない土地がいくばくかはあるだろう。

そして、もし戻れたとしても、放射能による健康被害の不安と背中合わせの生活が続くことになる。このことは、何も福島第一原発周辺だけではなく、ある程度は、首都圏なども同様なのである。

ある意味では、まるで、「人類滅亡後の地球」をみているようである。放射能をまきちらす原子炉跡や核廃棄物貯蔵所を背景にして、放射能で傷つきながらも、ある程度は適応して、緑の木や草がしげり、鳥が飛び、獣が走り、虫がはっている。海や川には魚が群れをなしている。しかし、そこには「人」だけがいない。

戦時期に日本の原爆開発に協力させられ、戦後は平和運動を担った原子物理学者の湯川秀樹は、1947年に、このように語っている。

原子爆弾が文明の破滅に導くか否かは、これが出現した地球的世界に人類が全体として適応するか否かにかかっている。…自然科学だけでなく、人文科学も社会科学も含めた人類の持っている知識の全体としての学問の進展こそ、本当の意味で人類を救済するものである。万一原子爆弾が人間を戦争にかり立て破壊ー自滅へと導くことになってならば、それは物理学のうちたてた高度の文明世界に生物としての人類が適応しなかった証拠になるといえるのかも知れぬ。(湯川「科学の進歩と人類の進化」、『京都日日新聞』1947年8月14日)

この文章については、新しく創刊された歴史学の雑誌『史創』創刊号の特集「『想定外』と日本の統治ーヒロシマからフクシマへー」に掲載された、田中希生「<特殊な>知識人ー湯川秀樹と小林秀雄」で知った。この特集については、また、別に議論しなくてはならないと感じている。しかし、この言葉が、一番、ずっしりと胸にこたえた。田中さんは「科学の見出した知ーたとえば原子力ーだけが、人類不在の場所で運動をつづける世界。人類不在の地球の空にも、月は昇り日もまた昇る」と書いている。

冷戦終結まで、日本でも「核戦争」というかたちで湯川のいうような危機感をもっていた。しかし、冷戦が終結すると、とりあえず全面的核戦争の脅威は意識されなくなった。ある意味で、イデオロギーとしての「原子力の平和利用」を前提として、原子力のもつ危険性から、日本の人々ー私も含めてー目をそらしていたのである。

結局、「物理学のうちたてた高度の文明世界に生物としての人類が適応しなかった」ことになるのだろうか。田中さんが本稿を書かれた意図とは別に、そのような感慨をもたざるをえなかった。もちろん、地球温暖化など、すでにそのような意識はよくみられている。しかし、福島第一原発事故は、「人のいない大地」が存在しうることを、いわば実証してしまったといえるのである。

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私が所属している歴史学研究会発行の雑誌『歴史学研究』10月号は、「東日本大震災・原発事故と歴史学」の緊急特集であった。下記に紹介しておこう。

『歴史学研究』10月号(884号)
緊急特集 東日本大震災・原発事故と歴史学

特集によせて………………………………… 歴史学研究会委員会(1)
[論文]
東日本大震災と歴史の見方 …………………………………平川新(2)
地震・原発と歴史環境学-9世紀史研究の立場から……保立道久(8)
東日本大震災と前近代史研究……………………………矢田俊文(12)
災害にみる救援の歴史-災害社会史の可能性…………北原糸子(16)
東日本大震災と歴史学
 -歴史研究者として何ができるのか-…………………奥村弘(21)
[史資料ネットワークから]
歴史遺産に未来を
 -東日本大震災後の歴史資料レスキュー活動-……佐藤大介(27)
「茨城史料ネット」の資料救出活動
 -3・11から7・2へ-………………………………… 白井哲哉(30)
ふくしま歴史資料保存ネットワークの現況と課題……阿部浩一(32)
[論文]
原発と地域社会-福島第一原発事故の歴史的前提-…中嶋久人(34)
マンハッタン計画の現在…………………………………平田光司(40)
原子力発電と差別の再生産-ミネソタ州プレイリー
 ・アイランド原子力発電所と先住民-………………石山徳子(48)
記録を創り,残すということ……………………………三宅明正(54)
言論の自由がメルトダウンするとき
 -原発事故をめぐる言説の政治経済学-……………安村直己(59)

基本的には、①震災(津波)を歴史学でどのようにとらえれてきたか、②資料保存活動の重要性、③原発問題、という三つの問題にわかれている。実は、私も「原発と地域社会-福島第一原発事故の歴史的前提-」という形で書かせてもらっている。この特集全体については、機会があれば、議論していきたい。

ここで、紹介したいのは、平田光司さんの「マンハッタン計画の現在」である。この論考では、原発問題を考える上での基本的事項が整理されていると思う。

この論考の冒頭で、平田さんは、このようにいっている。

 

マンハッタン計画は原爆製造のために第2次世界大戦中に実施された総経費20億ドル(当時)の超巨大プロジェクトであった。計画の成功は戦後の国際政治に大きな影響を与えたが、その直接の影響のもとに、核兵器、原子力、素粒子物理学が誕生した。

そして、平田さんによれば、もともと「原子炉」というものは、長崎型原爆の主要な原料であるプルトニウムを生産するためのものとして開発された「黒鉛炉」(1941年初めて連鎖反応が実現)が源流なのであると説明している。原子炉は、核兵器をつくるためのものであったのだ。

そして、今、日本で一般的に原発で使われている軽水炉も、そもそもが軍事技術であった。平田さんは、たぶん皮肉交じりなのだろうが、このように指摘している。

 

「平和利用」が最初に実現したのは原子力潜水艦であった。潜水艦に乗せるためには、小型で安定した原子炉が必要であったが、水を減速材および冷却材として用いる軽水炉が開発された…1954年には初の原子力潜水艦ノーチラス号が完成した。これにはウェスティングハウス社とゼネラル・エレクトリック社(GE)が協力したが、軽水炉は後に民需用原子炉のモデルとなった。

そして、平田さんは、このように述べている。

 原子炉は、もともと原爆製造のために作られたものであり、軽水炉も原子力潜水艦の動力源として開発された。
 原子力の平和利用は、兵器の製造過程を多少変えて、一般にも役立つようにしたものである。このため、原子力で発電する装置は即軍事に転用できる。…原子力は核兵器と同じ体系のものである。原子力が広まれば、核武装の可能性も同じように広まる。

つまりは、原子力と核兵器は同根であり、いわゆる「平和利用」といっても、容易に核兵器に転用できるのである。その例として、黒鉛炉や高速増殖炉で生産されるプルトニウムを使った原爆製造や、核廃棄物を使った劣化ウラン弾があげられている。

さらに、平田さんは、福島第一原発事故における地震・津波対応に対する、日本の原子力業界の当事者能力のなさを指摘した。結局、、「反語」として、このようにいっている。

 

アメリカ、フランスなど原子力を進めようとしている国は核武装しており、国防という経済性を無視した聖域のなかで核兵器および原子力の開発を一体として進めてきた…この観点からすると、導入の経緯が問題なのではなく日本の原子力は最初から平和利用のみだったため、輸入技術に依存したひよわな産業構造しか持てなかったのかもしれない。危機管理能力も備えた本格的な原子力利用のためには、日本は再軍備し、核武装するべきだ。もちろん、これは反語として書いていることであって、日本は原子力からの撤退を真剣に考えるべきである。

この指摘は重要である。結局、日本においては、「原子力の平和利用」は、同根である「核兵器」と切り離されて意識され、導入された。そして、原子力の危険性においては「核兵器」の危険性のみが強調され、同様の危険性を有していた「原子力の平和利用」のそれについては考えなかった。それゆえに、核兵器をもつがゆえに核の危険性を想定していたであろう、アメリカ・フランス・ロシアなどの諸国からみてもお話にならない対応になった要因の一つとして考えられるのである。

その意味では、前のブログでも述べたが、1955年体制において、本格的な再軍備(核武装も含む)がなされなかったことと「原子力の平和利用」の導入はつながっているのではないかと考えさせられるのである。

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1954年の第五福竜丸事件がもたらした原子力への恐怖は、当時の資料をみていると、現在の風評被害を思いおこすものがある。かつて、私は、本ブログで、このように書いた。

……第五福竜丸事件は、マグロ漁船が被曝し(なお、被曝した漁船は第五福竜丸だけではない)、被曝したマグロ(水爆マグロ・原爆マグロとよばれた)が市場に流通し、さらに水爆実験により多くの放射性物質がまきちらされたため、より身近に放射線への恐怖をうむことになった。そして、今日と同様、水産物(被曝とは無関係なものも含めて)は買い控えられた。https://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/06/19/%E3%80%8C%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%88%A9%E7%94%A8%E3%80%8D%E3%82%92%E8%82%AF%E5%AE%9A%E3%81%97%E3%81%A6%E5%87%BA%E7%99%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E5%8E%9F%E6%B0%B4%E7%88%86/

第五福竜丸事件の直後は、多くの水産物が買い控えられた。ニュース映像などをみていると、「原爆マグロ」にガイガーカウンターをあてている姿を発見できる。それをみていると、複雑な気持ちになる。なぜ、あのとき、食品の放射能汚染対策を検討しなかったのかと。

もちろん、何も起きなかったわけではない。第五福竜丸事件は、日本における原水爆禁止運動の発火点となった。本ブログで、このように私は書いた。

また、広島・長崎の原爆投下も思い起こされ、原爆・水爆などの核兵器を禁止しようとする原水爆禁止運動が展開した。 この原水爆禁止運動は、保守層も含めた多様な人々に当初賛成されていた。例えば、1954年4月1日には、衆議院本会議で、当時の自由党幹事長であった佐藤栄作によって「原子力の国際管理に関する決議」が提案され、全会一致で可決された。「全会一致」といえば、あの中曽根康弘も賛成したことになる。決議は下記のようなものである。 「本院は、原子力の国際管理とその平和利用並びに原子兵器の使用禁止の実現を促進し、さらに原子兵器の実験による被害防止を確保するため国際連合がただちに有効適切な措置をとることを要請する」(丸浜江里子『原水禁署名運動の誕生―東京・杉並の住民パワーと水脈』、2011年より引用)。 参議院でも4月5日に「原子力国際管理並びに原子兵器禁止に関する決議」が提案され、全会一致で可決された。

ここで、この衆議院の「原子力の国際管理に関する決議」をみておこう。もちろん、主眼が原子兵器の使用禁止とその実験による被害の防止にあることはあきらかだ。しかし、本ブログでも強調していたように、この決議では「原子力の平和利用」が促進されていたことにもなるのである。つまりは、原子力兵器の使用禁止と原子力の平和利用促進ということが、この決議では中心になっていたのである。

このような不思議な意識は、中曽根康弘みたいな保守系政治家がイニシアチブを握っていた衆議院だからおこったことではない。今、みている1954年当時の資料にはたびたびでていることである。ここでは、以前、このブログで紹介した中野区議会の例をだしておこう。1954年5月28日に、中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が提案され、これも全会一致で可決した。提案者近藤正二は、決議の趣旨について、次のように語っている。

(前略)  今般のビキニにおきますところの伝えまするところの実況と申しますものは、そのビキニ環礁におきますところの爆発点におきましては、地下百七十五フィート半径一マイルの大きな穴を起しまして、そこの噴火口から爆発いたしました所の珊瑚礁の飛沫というものが富士山の三倍の高さまで到達し、それが今日見ますような空から灰が降る、あるいはもらい水であるところの雨水にまでもその放射能によるところの被害というものが感ぜられるわけでございます。  翻って考えまするに、原子力の破壊力というものは、七年前に比べますると、その力は一千倍の惨害を呈するところにまで至っておりまして、今日の日進月歩の科学の力をもっていたしまするならば今後その猛烈な破壊力の到達するところは、これを戦争目的あるいは破壊的な形において実験するならば、人類は真に破滅に瀕するということは、もはや明瞭な事実でございます。しかるに人類は現在この原子力を持ちましたことによりまして、かつて人類の歴史に見なかったところの光栄ある未来を築き、精神的にもまた物質的にも偉大な繁栄が、この原子力の平和的な利用ということにかかって存在し得るのでありまして、逆な形で今申したごとく、これを破壊目的に使用するならば、人類は破滅に瀕するという、まことに人類の歴史にとって、かつてない重大な危機に立っておると言っていいのであります。 (後略 『中野区史』昭和資料編二 1973年)

前もいったが、近藤正二は、当時無所属であったが、後に社会党に入っている。その意味で、彼は保守層ということもできないのだ。原子力の平和利用に対するある種の幻想がそこにあるといえる。原子力に対する恐怖と幻想がここにないまぜになっているのだ。

このような意識をもっていたのは、区会議員たちだけではない。前回紹介したように、当時『中野新報』というローカル紙が、アンケートを実施した。アンケートに答えて大和住宅共同組合理事長渡辺潜は、次のように語っている。

一、水爆実験に対する非難の声、今後実験中止を要求する声は世界的に起こって来た。日本は被害体験者だけに憤りや恐怖心の入り交じった混乱した気持は一番激しいのは当然である。
一、水爆実験の結果は原子力の前には戦争は不可能になったという事を実証したと思ふそこで
(一)原子力の超国家機関による管理、(二)原子力の平和利用(既に各国によって進められつつある。例えば発電所の建設、医学的な応用等無限にその分野は開拓されつつある。新しい産業革命は原子力によってもたらされるであろう)について世界的な運動が必要である。広島や長崎又ビキニなどで被害を受けた最初のそして最大の犠牲者を出した日本こそは堂々と世界の与論を喚起しなければならないと思う。原子力の国外に立っている、まことにあわれな政治の姿ではあるが又それならばこそすぐれた政治家の奮起を待望してやまないのである。

原子力兵器への恐怖と原子力の平和利用への幻想が、ここでもないまぜになっている。

前のブログでは、とりあえず「科学信仰」ということに、このような意識をもつ原因をもとめた。それは間違っていないとは思うが、それだけなのだろうか。そういった思いが、その時も禁じえなかった。

その後、必要があって、雨宮昭一さんの『占領と改革』(2008年、岩波新書)を読んだ。本書は、雨宮さんの年来の主張である、戦後体制の源流を戦時体制にもとめるという主張が、非常にわかりやすく語られていた。

その中で、1950年代の政治状況を、雨宮さんはこのように総括している。

 

しかし、それ(講和直後日本の大規模な再軍備が阻止されたこと)は日本の戦後体制にとって大きな意味をもった。まず大規模な再軍備による経済の軍事化をおこなわなかったがゆえに、その後、民需中心の経済が展開され、憲法改正を阻止することにもなった。
 また経済問題では、共産党を含めたほとんどの政党が経済自立など生産の近代化、効率化を主張したことにも注目しておきたい(日本社会党本部「完全雇用を目標とする経済自立四ヶ年計画(第四次修正案)」、日本共産党中央委員会『日本共産党綱領集』)。こうして改憲が不可能になり、五五年共産党が武装蜂起を放棄するなどして憲法秩序に参入したこともあって、法体制としての日本国憲法体制がつくられ、経済においても民需産業中心の体制ができていった。国際体制としては前述のように、戦勝国体制としてのポツダム体制のうえにやがて戦争責任と植民地責任に「寛大」な片面講和によって日米安保体制が形成されていく。
 安保体制を認めるのか否定するのか、改憲か護憲かをめぐって政治における五五年体制が形成される。そこでは、守られた憲法第九条が戦争責任の免責とかかわっており、戦争責任問題や社会主義・資本主義とは異なって福祉国家へつながる協同主義などが冷戦体制の中で封印された。

それこそ、戦後形成された五五年体制は「安保体制を認めるのか否定するのか、改憲か護憲かをめぐって」対立するものであった。しかし、それをこえて「民需中心」とするということに、主要な政治勢力は反対していなかったことに注目しなくてはならない。そして、結果的に、本格的再軍備は、少なくともこの時点では阻止された。つまりは、民需中心の体制に転換していったのである。

その意味で、1954年当時、多くの人々が、核兵器に反対しつつ、「原子力の平和利用」に多大な幻想をもったということは、このような民需中心への体制転換を象徴することではなかったのかと思うのである。

しかし、一方で、これは、原子力の「軍事利用」を「平和利用」におきかえただけにも思えるのである。結局、「平和利用」ということで、原子力のもっている危険性には目をふさいだのではなかろうか。核兵器だけが危険なのではない。それにもかかわらず、「平和利用」という名目がつくことによって「原子力」を認めてしまうーいや、さらなる発展を期待してしまうのである。

五五年体制は民需中心の体制といったが、それこそ、経済発展それ自体を「国策」として最大限推進する体制である。そして、このことには、財界だけでなく、官僚・政党・マスコミも異議はなかったであろう。「原子力の平和利用」はーとりあえず核兵器と違ってー経済発展の中で把握されている。そして、たぶん、今でも「原子力の平和利用」を否定することは「国策」としての経済発展を否定するというように、財界・官僚・政党・マスコミは意識していると考えられる。「原発」の擁護は、単に東電の顔色をうかがってのことではない。むしろ、それこそ五五年体制以来の「国策」としての「経済発展」に支障がないようにすることのほうが強く意識されているのではないかと、仮説的には考えるのである。

このように「国策」を第一義的に考えることーそれこそ、戦前から引き継いだ体質のように思えるのである。

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2011年10月16~18日、東京都豊島区雑司ヶ谷(池袋の南側にあたる)において、今年もお会式の万灯行列が行われた。このお会式について、本ブログでは、このように説明している。

単純化すると、地域(豊島区南部)と宗教(日蓮宗)がコラボーレションしたような現代的都市祭典である。鬼子母神は、日蓮宗の法明寺に属している。日蓮宗では10月13日の日蓮の命日を追悼するためにその前後に「お会式」(おえしき)が行われる。最も有名なのは、日蓮がなくなった池上本門寺で行われている。雑司ヶ谷鬼子母神では、10月16-18日の三日間に行われている。基本的には、それぞれの講社が、うちわ太鼓や太鼓などを集団でたたきながら、まといなどをもって踊り、日蓮の事績や題目などが描かれた万燈を持参して、池袋駅東口(西武池袋)からパレードし、雑司ヶ谷鬼子母神・法明寺に参詣するというものである。

雑司ヶ谷鬼子母神お会式の万灯(2011年10月17日撮影)

雑司ヶ谷鬼子母神お会式の万灯(2011年10月17日撮影)

お会式について、よりご興味があれば、このブログで詳述しているので参照されたい。

今年のお会式においては、福島県を支援する試みがみられた。

その一つが、NPO法人「元気になろう福島」による「うつくしま子ども未来塾」基金への協力依頼をよびかけるブースの設置である。募金を集めるとともに、会津の牛のアイテムの販売を行っていた。場所は、鬼子母神堂のすぐ前で、屋台などが多く出されている鬼子母神境内の中では、かなり優遇されているといえる。

NPO法人「元気になろう福島」のブース(2011年10月18日撮影)

NPO法人「元気になろう福島」のブース(2011年10月18日撮影)

もう一つが、JA福島による「特産品販売」のブースである。野菜、漬物などが販売されていた。これも、鬼子母神堂のすぐそばにあり、かなり優遇されているといえる。

福島県JA復興特産品販売のブース(2011年10月18日撮影)

福島県JA復興特産品販売のブース(2011年10月18日撮影)

福島県産物の忌避は各地で起きている。例えば、9月には、福岡市で「ふくしま応援ショップ」を開催する予定が、抗議のメールや電話が殺到しているということでとりやめになったことが報じられた。

東京電力福島第1原発事故後の風評被害に苦しむ福島県の農家を支援しようと、福岡市内で17日に予定されていた「ふくしま応援ショップ」の開店が7日、取りやめになった。企画者側によると、計画発表後に「福島のトラックが来るだけで放射能を運んでくるだろう」といったメールや電話が相次いだことが原因という。新たな出店先を探すが、被災地を応援しようという試みに水を差された。

 「応援ショップ」は福岡市西区の商業施設「マリノアシティ福岡」内の農産物直売所「九州のムラ市場」の一角約20平方メートルに開設する計画だった。ムラ市場関係者によると、メールや電話は約20件で「出店をやめないなら不買運動を起こす」や「危ないものを売るとはどういう了見だ」などの内容も含まれる。ショップの運営主体で生鮮品宅配などを行っている「九州産直クラブ」(福岡市)にも同様のメールが約10件送られているという。

 ムラ市場によると、産直クラブは国の暫定規制値の10分の1まで放射性物質量の基準を厳格化し検査結果は店頭で開示。生鮮品の取り扱いはやめ、震災前の原材料を使った加工品だけを販売する方針だったが、7日に関係者で協議し異論も出たため見送りを決めた。

 産直クラブは「こんな事態になるとは予想していなかった。安全性は検査した上で消費者に判断してもらいたかったが、非常に残念」。ムラ市場側は「メールの内容はいわれのない話で、とんでもないことだが、他のテナントに迷惑を掛けるリスクがあった。違う形で支援したい」と説明した。

 ムラ市場と産直クラブは正式な店舗使用契約は結んでおらず、ムラ市場に出資しているマリノアシティ運営会社の福岡地所は「出店の合意形成ができていたとはとらえておらず、メールなどの苦情は判断材料ではない。被災地支援は企業としてこれまでも行ってきた。収益性の観点からもムラ市場は九州の生産者支援に力を注ぐべきだ」としている。

=2011/09/08付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/262245

このような「忌避」は、かなり極端な事例として報じられる場合、福島第一原発事故の影響が少ないとみられる西日本のほうが多いように見受けられる。東京の鬼子母神境内では、普通に販売ブースが設置された(ただ、鬼子母神内部で議論があったかもしれない)。そこそこ購入者もいた。全体として、存在自体を忌避しているようには見られなかった。

ただ、価格であるが…写真に写っている小松菜は100円、ブロッコリーは100円、トマトは250円である。今の市価はよくわからないが、最近野菜の値段が上がっているようで、この間購入したブロッコリーが200円を超えていたことは記憶している。トマトは比較的高価な野菜で、一般的に300円は超えているのではないかと思う。

ここでは、ピーマンも販売されていた。写真ではラベルがみえないが…1袋50円である。このピーマンを購入してみた。

鬼子母神境内で売られていた福島県産ピーマン(2011年10月19日撮影)

鬼子母神境内で売られていた福島県産ピーマン(2011年10月19日撮影)

少々小ぶりではあるが、6個入りであった。翌日、前に買い置きしたピーマン(茨城県産である)とあわせてチンジャオロースにしてみたが、もちろん、何も変わらず、普段よりも甘く感じた。

販売担当者が別の客に説明しているのを聞いたのだが…普段だったら、とてもこんな値段では販売しないそうだ。前回紹介した、カタログハウス東京店では、ピーマンは210円で販売されている。カタログハウスで売られている野菜全体が比較的高く、大体200円はこえていたことと著しい対照をなす。

福島県では、放射性セシウムの検査を他県よりきめ細かく行っているが、最近の結果であると、一年草の野菜については、不検出かもしくはごく微量しか検出されていないのである。鬼子母神境内で販売されていた野菜も、基本的には健康に支障がないと考えられる。何も、小出裕章氏のように、悲壮な決意をもつこともなく、福島県産の野菜は食べられるのである。

ある意味では、すごく不条理である。カタログハウスで販売されている野菜は、市価よりもむしろ高めに販売されているのに、鬼子母神境内でJA福島が販売されている野菜は市価を大きく割り込んだ値段で販売されているということになるのである。そして、福島県産であっても市価を大きく割り込んだ価格の野菜をあまり気にせず買うのは、少しでも安い価格の商品を買わなくてはならない低所得者ということになろう。割り切れないが……。

根本的には、消費者が納得できる基準で、より厳格に検査すること。そのことによって、カタログハウスがそうしているように、「ブランド」化すること。福島県産の野菜を売るということについては、それがベターかもしれない。

しかし、それでも、釈然としない思いは残る。結局、生産者の目線ではなく、消費者の視線を考慮した流通側のセンスがそこでは優先されているともいえるのである。宮城県の水産特区でも同じ問題があろう。結局、ある意味では消費者のセンスを熟知した流通側の思惑で、生産者が組織されなくてはならないのであろうか。

20日、たまたま通りかかった、東京都北区滝野川のスーパーの店頭で、ピーマンが売られていた。1袋(たぶん5個入り)で60円。いやに安いと思ってみたら、袋には「JAたむら」と表示されていた。つまり「福島県産」なのである。どうも、福島県産の野菜は、一般的にはこのような価格で売られているようである。

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本ブログで、カタログハウスの店・東京店において「福島さん」野菜を販売する試みを以前紹介した。

その時は、カタログハウスの店・東京店を実際に見ていなかったので、2011年10月15日に実際にいってみた。

本来は写真撮影は遠慮すべきだったのだが、結局、ブログに使うということで、写真を結果的に使えることになった(ありがとうございます)。

カタログハウスの店・東京店は、新橋駅前にある。一般的には「都心」といえるであろう。ビルの一・二階が店舗になっている。それほど大きくはない。基本的に通販であり、その一部を販売しているという感じである。食品などより、枕などの生活用品が目立つ印象がある。二階には講演会場もある。たぶん、『通販生活』のアンテナショップなのであろう。

カタログハウスの店・東京店(2011年10月15日撮影)

カタログハウスの店・東京店(2011年10月15日撮影)

「福島さんの野菜」コーナーは、1階入口付近の、かなり目立つところにあった。ここでも「ウクライナの基準合格」を強調していた。カタログハウスとしては、力を入れている企画だと感じた。

「福島さんの野菜」コーナー(2011年10月15日撮影)

「福島さんの野菜」コーナー(2011年10月15日撮影)

店舗の入り口には、このような看板がたっている。販売する野菜・果物の放射性セシウム含有値をそれぞれ示しているのだ。ほとんどが10ベクレル未満になっている。つまりは検出限界ということなのであろう。ただ、ぶどうの一部は23ベクレル・17ベクレルとやや検出されている。果物は比較的セシウムがあることが多いことは承知していたので、これも想定通りであった。もちろん、野菜は40ベクレル、果物は70ベクレルという「ウクライナの基準」以下ではある。

放射性セシウム検査値をしめす看板(2011年10月15日撮影)

放射性セシウム検査値をしめす看板(2011年10月15日撮影)

実際の売り場は、このようになっている。値札をみてほしい。ミニきゅうり280円、ピーマン210円、ニンジン220円、ナス230円…。そんなに安くはない。比較的高級食材を売ることがメインであるスーパーマーケットなみの値段といえるのである。

野菜売り場(2011年10月15日撮影)

野菜売り場(2011年10月15日撮影)

ここでの商品は、基本的に生産者特約で買い入れている。それも明示している。

生産者を明示する掲示板(2011年10月15日撮影)

生産者を明示する掲示板(2011年10月15日撮影)

そして、極め付きは、店舗内に鎮座している放射能測定器である。本体の上にかなり大きなディスプレイがあり、検査結果がわかるようになっている。出荷している福島県側でも測定しているとされている。普通は、店舗内におくようなものではない。まさに、この放射能測定器が、「安心」を強調する、最大の宣伝アイテムとなっているのである。

放射能測定器(2011年10月15日撮影)

放射能測定器(2011年10月15日撮影)

放射能測定器のディスプレイ(2011年10月15日撮影)

放射能測定器のディスプレイ(2011年10月15日撮影)

店内には、「福島さんの野菜」を推奨する有名人の看板もあった。西田敏行・田部井淳子・永六輔・山本太郎・小泉武夫・鎌田實という面々である。

「福島さんの野菜」を推奨する有名人(2011年10月15日撮影)

「福島さんの野菜」を推奨する有名人(2011年10月15日撮影)

実際に、ナス(230円)を購入してみた。1袋に3個。やはり高級スーパーなみの値段である。ただ、それぞれが大きくて、肉が多いと感じた。たぶん、特約生産者による注意深い農作業のたまものであろう。

福島県産ナス(2011年10月17日撮影)

福島県産ナス(2011年10月17日撮影)

一言でいえば、かなり頭のいいという意味での、スマートな売り方だといえる。「放射能測定器」というアイテムを使用し、さらには、現行の暫定基準よりも厳しい基準を採用することで、「安全」という付加価値をつける。一度「安全」ならば、被災地福島県産の野菜を買うという積極的な購買意欲を掘り起こすことができる。それゆえ、ある意味で、かなり高い値段で売ることが可能となるのである。

といっても、それほど、カタログハウスとしては、この「福島さんの野菜」販売で大きな利益は見込んでいないであろう。むしろ、「安全な福島県産の野菜」を売ることで、カタログハウス全体のイメージをアップさせる、いわば「広告塔」のような役割もたぶん想定していると思われる。もちろん、カタログハウスとしての「信念」でもあろうが。ある意味では、企業戦略なのであろう。ただ、それは悪い意味ではない。ソフトバンクの孫正義社長が自然エネルギー導入を推進するということは、単に信念だけでなく、イメージアップという企業戦略もからんでいるであろうが、それ自体は評価すべきことである。それと同じような意味で、カタログハウスの試みも評価すべきなのである。

といっても、このような、イメージとしては成功(採算がとれているかいないかは不明だが)している売り方は、残念ながらたぶん少数であろう。そのことは、また別個に考える必要があるといえる。

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