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Archive for 2011年10月

東日本大震災においては、津波に襲われた各地の被害状況をリアルタイムに記録した動画が数多く残されており、youtubeなどの動画サイトにアップされていいる。本ブログでも、津波被災の状況を示すものとしていくつか引用している。

しかし、このように、リアルタイムの動画が数多く残され、社会に流通するということは、非常に新しいことである。

まず、考えてほしい。基本的に、何か事件が起きているとき、それにまきこまれている当事者は、記録機材ーそれこそカメラ程度でもー持ち歩いていないのが普通である。基本的に、動画ないし写真などは、今までは、メディア関係者が事件の行われている場に赴き、そこで撮影され、テレビ・新聞・雑誌などのメディアを通じて発信され、最終的には記録されるというものであったといえる。その意味で、短時間で終わってしまう津波などの「現場」がリアルタイムで撮影されることは、たまたま、撮影機材をもったメディア関係者もしくは学術関係者がその「現場」にいたという「偶然」がなければ、ありえないことであったといえる。

東日本大震災の起きた今日、あまりにも一般的になっているのでほとんど指摘されていないのだが、このような状況は大きく変わったといえる。現在、多くの人が携帯電話を持ち歩いている。日雇派遣の際、求人のためのアイテムとなっているなど、たぶん、携帯電話は人びとの生活において必須なものになっているといえる。この携帯電話は、単に電話機能だけでなく、写真・動画撮影のカメラ機能をもつものが普通である。そして、メール機能やインターネット接続機能がついている。つまり、携帯電話をもつということは、出来事を撮影するカメラをもつということであり、さらに、撮影した動画・写真などをインターネットを通じて発信できるということなのである。

通常は、このような機能は、比較的他愛のないことに使われている。例えば、「今日、どこに行った」とか「夕食でステーキを食べた」とかなど、それぞれの個人が体験したことを伝え合っているにすぎない。しかし、日常時でも、「当事者が経験しつつあることを当事者自身の視点で記録し発信する」ということが行われている。

東日本大震災において、多くの動画が残されているのだが、大部分は携帯電話によるものではないかと推察している。もちろん、なにがしかデジタルカメラ・デジタルビデオによるものもあると思うが、津波より避難している人びとの多くが、わざわざデジタルカメラ・デジタルビデオなどを持参しているとは思えない。多くは携帯電話で撮影されたものであろう。津波をリアルタイムに記録している動画をみると大抵は避難している当事者たちによって撮影されたものである。事件を体験している当事者自身が、当事者の視点でリアルタイムで動画・写真を記録したということは、類を見ないことである。

携帯電話で撮影された動画・写真は、メールによって転送されることができ、youtubeなどの動画サイトに投稿できる。すべての動画を直後にアップしたとは限らないが、それこそ、リアルタイムに出来事を伝える速報性を、携帯電話で撮影された動画・写真は可能性としては有しているといえる。当事者自身が体験ししている出来事を、当事者自身の視点で、情報伝達するーこれは、例えば速報性を有するとされていたテレビもできなかったことである。

その例として、たまたまyoutubeで発見した動画をみておこう。南相馬市における津波被災を写したこの動画は、2011年3月11日、たぶんFNN(フジテレビ)のニュースで流されたものである。テレビで流しているのだが、テレビ局や通信社で撮影した動画ではない。福島テレビを介して「視聴者」から提供されたものである。この「視聴者」とはだれか。この動画の後の方の電話インタビューでわかるのだが、南相馬市に襲来した津波から避難した「当事者」なのである。

テレビ局もしくは通信社が「当事者」たちを撮影し、それをマスメディアとして情報発信しているのではない。当事者自身が当事者の体験しつつある「出来事」を記録し、情報発信しているのである。そして、テレビ局は、そのような「当事者」たちに依拠して、ようやく「速報性」を確保しているのである。

このことをせんじつめていくと、かなり大きな変化が起こっているということができる。メディアは、出来事の「当事者」たちを「客体」として記録・撮影し、そして、「主体」として情報発信していた。しかし、東日本大震災では、当事者たちが記録し、情報発信している。それに依拠しなければ、メディアは情報発信できないのである。その意味で、メディアと「当事者」たちの間の位相が大きく転換しているといえるだろう。

そして、メディアを介さず、「当事者」たちがyoutubeなどのサイトに投稿することも多い。実は、資料的には、ネット掲載の動画のほうが、価値が高いといえる。テレビ局などで流されている動画は、結局のところステロタイプな「津波像」を表現するように編集されることが多く、津波のすごさは強調されるが、一体全体、どういうところで具体的にはどのような状況で津波がきたのかがわからなくなっていることが多い。早い話、石巻でも気仙沼でも、似たような動画が流されている。しかし、ネット掲載の動画は、それぞれの当事者にいた場に即して記録されており、具体的な状況がわかるのである。

そのような意味で、東日本大震災で、多くの津波の動画が残されたということは、多いというばかりではなく、携帯電話とネットを介して、当事者とメディアの関係が変わったことを意味しているのである。それは、もちろん、東日本大震災だけに限られない。つい最近、リビアのカダフィ大佐を殺害した動画が流された。わざわざ戦闘現場にカメラ(従軍記者は別だが)をもってくるものがいるとは思えない。もちろん、断定はできないが、携帯電話での撮影ではなかろうか。いずれにしても、あの動画は、プロのカメラマンが撮影したものとは思われない。「当事者」が自ら体験していることを記録して情報発信し、それに依拠してメディアが報道するという時代が到来したということができよう。

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前のブログで、私が所属している歴史学研究会発行の雑誌『歴史学研究』10月号の「東日本大震災・原発事故と歴史学」の緊急特集の中から一部紹介した。ここでは、歴史資料保存活動を中心にみてみよう。下記に目次をあげておく。

『歴史学研究』10月号(884号)
緊急特集 東日本大震災・原発事故と歴史学

特集によせて………………………………… 歴史学研究会委員会(1)
[論文]
東日本大震災と歴史の見方 …………………………………平川新(2)
地震・原発と歴史環境学-9世紀史研究の立場から……保立道久(8)
東日本大震災と前近代史研究……………………………矢田俊文(12)
災害にみる救援の歴史-災害社会史の可能性…………北原糸子(16)
東日本大震災と歴史学
 -歴史研究者として何ができるのか-…………………奥村弘(21)
[史資料ネットワークから]
歴史遺産に未来を
 -東日本大震災後の歴史資料レスキュー活動-……佐藤大介(27)
「茨城史料ネット」の資料救出活動
 -3・11から7・2へ-………………………………… 白井哲哉(30)
ふくしま歴史資料保存ネットワークの現況と課題……阿部浩一(32)
[論文]
原発と地域社会-福島第一原発事故の歴史的前提-…中嶋久人(34)
マンハッタン計画の現在…………………………………平田光司(40)
原子力発電と差別の再生産-ミネソタ州プレイリー
 ・アイランド原子力発電所と先住民-………………石山徳子(48)
記録を創り,残すということ……………………………三宅明正(54)
言論の自由がメルトダウンするとき
 -原発事故をめぐる言説の政治経済学-……………安村直己(59)

全体でいうと、一番大きい比重をしめているのが、歴史資料の保存活動ということができる。津波や地震に被災した歴史資料を救出する活動である。一般的には、津波や地震に被災した地域に、歴史研究者たちがボランティアでおもむき、おもに文書を中心とした歴史資料を救出し、破損していた場合は修復するという活動である。本特集では「史資料ネットワークから」というコーナーに、宮城・茨城・福島三県における活動報告がのせられている。また、平川新さんの「東日本大震災と歴史の見方」も、半分くらいは平川さんが中心になって進められている「宮城資料ネット」の活動が紹介されている。さらに、奥村弘さんの「東日本大震災と歴史学ー歴史研究者として何ができるのか」という論文も奥村さんが関わってきた阪神・淡路大震災における被災歴史資料保全活動についての経験を前提としたものである。

東日本大震災の際、私の周囲の歴史研究者でも、歴史資料の保存ボランティア活動に従事した人たちが多かった。行かないまでも、福島第一原発事故の話題の次に歴史研究者たちが話したことは、歴史資料保存活動であった。それこそ、阪神淡路大震災において奥村弘さんなどの被災資料保全活動は、災害において歴史研究者が行うことと、強く印象付けられていたためということができよう。宮城などは、今回の震災前から活動が組織されたときいている。その意味で、阪神・淡路大震災の経験は、歴史研究者の災害における実践活動の型として結実していたといえる。ある意味での、歴史研究者の、職業的関心から行うところの社会参加ということができよう。

そして、それは、単に、歴史資料の物理的な保存活動にとどまるものとしてはいけないだろう。奥村さんは、前述の論文の中で、このようにいっている。

地域の歴史の中で生きてきた被災者にとって、生活再建はその歴史的な現在の上にしかない。にもかかわらず、そのような視点は阪神・淡路大震災時にはほとんど顧みられることがなかった。

このことは、今回の大震災でもとわれていると、奥村さんは述べる。その上で、歴史研究者のなすべき課題として、このような提言を行っている。

歴史の深さにささえられて、豊かなイメージを持って現在を語りうる、そのような市民社会を形成する点において、歴史に関わる専門家は、現代社会に対して大きな役割を担っている。歴史的に考えるということが、被災地での生活再建において焦点となっているということは、具体的イメージをもって日本社会の未来を捉える際、歴史学が重要な位置にあること、社会的に大きく期待されていることを示している。その意味で、震災においてなすべき責務が今、私たちに問われているのではなく、私たち歴史研究者が、歴史的イメージをもって未来を考えていくことを社会通念にまで高めえたかどうかが、大震災の中で厳しく問われているのである。

単に、歴史資料を保存しているだけではないのである。歴史を前提として、未来を考えていくことが歴史研究者の責務であると、奥村さんは主張している。

私自身が、「東日本大震災の歴史的位置」と題して、必ずしも専門ではないことを本ブログで述べていることも、そのような思いからである。そして、このような実践を行うことで、必ずしも社会的分業の中で十分な地歩を占めているとはいえない歴史研究者の存在を少しでも固めていくことになると考えているのである。

一見、現状からみれば迂遠のような歴史的過去、それを前提として未来を考えていくこと、それが歴史研究者の課題なのだと、私もいいたいのである。

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今、福島第一原発の周辺はどうなっているのだろうか。福島第一原発事故の処理にかかわっている東電関係者、放射線の影響を調べる研究者、境界周辺にいるであろう警察官など、とりあえず、「関係者」以外の立ち入りが許されない土地になっている。津波被害を受けなかったところでも、人の影はこの土地から消えた。森や野原、渓谷などには、放射線の影響を受けつつも、動物・植物は存在している。しかし、恒常的に人をみることはない。そして、人がこの土地に住んだあかしといえる、家屋、田畑などは、時の経過とともに朽ちていく。放置すれば、森や野原になっていくであろう。

もちろん、すべての周辺地域がそうなるというわけではない。福島第一原発事故は、とりあえずチェルノブイリ事故ほど大きな事故ではなく、チェルノブイリ周辺ほどの大きな「強制移住区域」は必要ではないかもしれない。より精密に放射能の検査をし、大規模に除染をすれば、とりあえず住める土地もあろう。しかし、確実に、ある程度長期にわたって、人が住めない土地がいくばくかはあるだろう。

そして、もし戻れたとしても、放射能による健康被害の不安と背中合わせの生活が続くことになる。このことは、何も福島第一原発周辺だけではなく、ある程度は、首都圏なども同様なのである。

ある意味では、まるで、「人類滅亡後の地球」をみているようである。放射能をまきちらす原子炉跡や核廃棄物貯蔵所を背景にして、放射能で傷つきながらも、ある程度は適応して、緑の木や草がしげり、鳥が飛び、獣が走り、虫がはっている。海や川には魚が群れをなしている。しかし、そこには「人」だけがいない。

戦時期に日本の原爆開発に協力させられ、戦後は平和運動を担った原子物理学者の湯川秀樹は、1947年に、このように語っている。

原子爆弾が文明の破滅に導くか否かは、これが出現した地球的世界に人類が全体として適応するか否かにかかっている。…自然科学だけでなく、人文科学も社会科学も含めた人類の持っている知識の全体としての学問の進展こそ、本当の意味で人類を救済するものである。万一原子爆弾が人間を戦争にかり立て破壊ー自滅へと導くことになってならば、それは物理学のうちたてた高度の文明世界に生物としての人類が適応しなかった証拠になるといえるのかも知れぬ。(湯川「科学の進歩と人類の進化」、『京都日日新聞』1947年8月14日)

この文章については、新しく創刊された歴史学の雑誌『史創』創刊号の特集「『想定外』と日本の統治ーヒロシマからフクシマへー」に掲載された、田中希生「<特殊な>知識人ー湯川秀樹と小林秀雄」で知った。この特集については、また、別に議論しなくてはならないと感じている。しかし、この言葉が、一番、ずっしりと胸にこたえた。田中さんは「科学の見出した知ーたとえば原子力ーだけが、人類不在の場所で運動をつづける世界。人類不在の地球の空にも、月は昇り日もまた昇る」と書いている。

冷戦終結まで、日本でも「核戦争」というかたちで湯川のいうような危機感をもっていた。しかし、冷戦が終結すると、とりあえず全面的核戦争の脅威は意識されなくなった。ある意味で、イデオロギーとしての「原子力の平和利用」を前提として、原子力のもつ危険性から、日本の人々ー私も含めてー目をそらしていたのである。

結局、「物理学のうちたてた高度の文明世界に生物としての人類が適応しなかった」ことになるのだろうか。田中さんが本稿を書かれた意図とは別に、そのような感慨をもたざるをえなかった。もちろん、地球温暖化など、すでにそのような意識はよくみられている。しかし、福島第一原発事故は、「人のいない大地」が存在しうることを、いわば実証してしまったといえるのである。

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私が所属している歴史学研究会発行の雑誌『歴史学研究』10月号は、「東日本大震災・原発事故と歴史学」の緊急特集であった。下記に紹介しておこう。

『歴史学研究』10月号(884号)
緊急特集 東日本大震災・原発事故と歴史学

特集によせて………………………………… 歴史学研究会委員会(1)
[論文]
東日本大震災と歴史の見方 …………………………………平川新(2)
地震・原発と歴史環境学-9世紀史研究の立場から……保立道久(8)
東日本大震災と前近代史研究……………………………矢田俊文(12)
災害にみる救援の歴史-災害社会史の可能性…………北原糸子(16)
東日本大震災と歴史学
 -歴史研究者として何ができるのか-…………………奥村弘(21)
[史資料ネットワークから]
歴史遺産に未来を
 -東日本大震災後の歴史資料レスキュー活動-……佐藤大介(27)
「茨城史料ネット」の資料救出活動
 -3・11から7・2へ-………………………………… 白井哲哉(30)
ふくしま歴史資料保存ネットワークの現況と課題……阿部浩一(32)
[論文]
原発と地域社会-福島第一原発事故の歴史的前提-…中嶋久人(34)
マンハッタン計画の現在…………………………………平田光司(40)
原子力発電と差別の再生産-ミネソタ州プレイリー
 ・アイランド原子力発電所と先住民-………………石山徳子(48)
記録を創り,残すということ……………………………三宅明正(54)
言論の自由がメルトダウンするとき
 -原発事故をめぐる言説の政治経済学-……………安村直己(59)

基本的には、①震災(津波)を歴史学でどのようにとらえれてきたか、②資料保存活動の重要性、③原発問題、という三つの問題にわかれている。実は、私も「原発と地域社会-福島第一原発事故の歴史的前提-」という形で書かせてもらっている。この特集全体については、機会があれば、議論していきたい。

ここで、紹介したいのは、平田光司さんの「マンハッタン計画の現在」である。この論考では、原発問題を考える上での基本的事項が整理されていると思う。

この論考の冒頭で、平田さんは、このようにいっている。

 

マンハッタン計画は原爆製造のために第2次世界大戦中に実施された総経費20億ドル(当時)の超巨大プロジェクトであった。計画の成功は戦後の国際政治に大きな影響を与えたが、その直接の影響のもとに、核兵器、原子力、素粒子物理学が誕生した。

そして、平田さんによれば、もともと「原子炉」というものは、長崎型原爆の主要な原料であるプルトニウムを生産するためのものとして開発された「黒鉛炉」(1941年初めて連鎖反応が実現)が源流なのであると説明している。原子炉は、核兵器をつくるためのものであったのだ。

そして、今、日本で一般的に原発で使われている軽水炉も、そもそもが軍事技術であった。平田さんは、たぶん皮肉交じりなのだろうが、このように指摘している。

 

「平和利用」が最初に実現したのは原子力潜水艦であった。潜水艦に乗せるためには、小型で安定した原子炉が必要であったが、水を減速材および冷却材として用いる軽水炉が開発された…1954年には初の原子力潜水艦ノーチラス号が完成した。これにはウェスティングハウス社とゼネラル・エレクトリック社(GE)が協力したが、軽水炉は後に民需用原子炉のモデルとなった。

そして、平田さんは、このように述べている。

 原子炉は、もともと原爆製造のために作られたものであり、軽水炉も原子力潜水艦の動力源として開発された。
 原子力の平和利用は、兵器の製造過程を多少変えて、一般にも役立つようにしたものである。このため、原子力で発電する装置は即軍事に転用できる。…原子力は核兵器と同じ体系のものである。原子力が広まれば、核武装の可能性も同じように広まる。

つまりは、原子力と核兵器は同根であり、いわゆる「平和利用」といっても、容易に核兵器に転用できるのである。その例として、黒鉛炉や高速増殖炉で生産されるプルトニウムを使った原爆製造や、核廃棄物を使った劣化ウラン弾があげられている。

さらに、平田さんは、福島第一原発事故における地震・津波対応に対する、日本の原子力業界の当事者能力のなさを指摘した。結局、、「反語」として、このようにいっている。

 

アメリカ、フランスなど原子力を進めようとしている国は核武装しており、国防という経済性を無視した聖域のなかで核兵器および原子力の開発を一体として進めてきた…この観点からすると、導入の経緯が問題なのではなく日本の原子力は最初から平和利用のみだったため、輸入技術に依存したひよわな産業構造しか持てなかったのかもしれない。危機管理能力も備えた本格的な原子力利用のためには、日本は再軍備し、核武装するべきだ。もちろん、これは反語として書いていることであって、日本は原子力からの撤退を真剣に考えるべきである。

この指摘は重要である。結局、日本においては、「原子力の平和利用」は、同根である「核兵器」と切り離されて意識され、導入された。そして、原子力の危険性においては「核兵器」の危険性のみが強調され、同様の危険性を有していた「原子力の平和利用」のそれについては考えなかった。それゆえに、核兵器をもつがゆえに核の危険性を想定していたであろう、アメリカ・フランス・ロシアなどの諸国からみてもお話にならない対応になった要因の一つとして考えられるのである。

その意味では、前のブログでも述べたが、1955年体制において、本格的な再軍備(核武装も含む)がなされなかったことと「原子力の平和利用」の導入はつながっているのではないかと考えさせられるのである。

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1954年の第五福竜丸事件がもたらした原子力への恐怖は、当時の資料をみていると、現在の風評被害を思いおこすものがある。かつて、私は、本ブログで、このように書いた。

……第五福竜丸事件は、マグロ漁船が被曝し(なお、被曝した漁船は第五福竜丸だけではない)、被曝したマグロ(水爆マグロ・原爆マグロとよばれた)が市場に流通し、さらに水爆実験により多くの放射性物質がまきちらされたため、より身近に放射線への恐怖をうむことになった。そして、今日と同様、水産物(被曝とは無関係なものも含めて)は買い控えられた。https://tokyopastpresent.wordpress.com/2011/06/19/%E3%80%8C%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%88%A9%E7%94%A8%E3%80%8D%E3%82%92%E8%82%AF%E5%AE%9A%E3%81%97%E3%81%A6%E5%87%BA%E7%99%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E5%8E%9F%E6%B0%B4%E7%88%86/

第五福竜丸事件の直後は、多くの水産物が買い控えられた。ニュース映像などをみていると、「原爆マグロ」にガイガーカウンターをあてている姿を発見できる。それをみていると、複雑な気持ちになる。なぜ、あのとき、食品の放射能汚染対策を検討しなかったのかと。

もちろん、何も起きなかったわけではない。第五福竜丸事件は、日本における原水爆禁止運動の発火点となった。本ブログで、このように私は書いた。

また、広島・長崎の原爆投下も思い起こされ、原爆・水爆などの核兵器を禁止しようとする原水爆禁止運動が展開した。 この原水爆禁止運動は、保守層も含めた多様な人々に当初賛成されていた。例えば、1954年4月1日には、衆議院本会議で、当時の自由党幹事長であった佐藤栄作によって「原子力の国際管理に関する決議」が提案され、全会一致で可決された。「全会一致」といえば、あの中曽根康弘も賛成したことになる。決議は下記のようなものである。 「本院は、原子力の国際管理とその平和利用並びに原子兵器の使用禁止の実現を促進し、さらに原子兵器の実験による被害防止を確保するため国際連合がただちに有効適切な措置をとることを要請する」(丸浜江里子『原水禁署名運動の誕生―東京・杉並の住民パワーと水脈』、2011年より引用)。 参議院でも4月5日に「原子力国際管理並びに原子兵器禁止に関する決議」が提案され、全会一致で可決された。

ここで、この衆議院の「原子力の国際管理に関する決議」をみておこう。もちろん、主眼が原子兵器の使用禁止とその実験による被害の防止にあることはあきらかだ。しかし、本ブログでも強調していたように、この決議では「原子力の平和利用」が促進されていたことにもなるのである。つまりは、原子力兵器の使用禁止と原子力の平和利用促進ということが、この決議では中心になっていたのである。

このような不思議な意識は、中曽根康弘みたいな保守系政治家がイニシアチブを握っていた衆議院だからおこったことではない。今、みている1954年当時の資料にはたびたびでていることである。ここでは、以前、このブログで紹介した中野区議会の例をだしておこう。1954年5月28日に、中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が提案され、これも全会一致で可決した。提案者近藤正二は、決議の趣旨について、次のように語っている。

(前略)  今般のビキニにおきますところの伝えまするところの実況と申しますものは、そのビキニ環礁におきますところの爆発点におきましては、地下百七十五フィート半径一マイルの大きな穴を起しまして、そこの噴火口から爆発いたしました所の珊瑚礁の飛沫というものが富士山の三倍の高さまで到達し、それが今日見ますような空から灰が降る、あるいはもらい水であるところの雨水にまでもその放射能によるところの被害というものが感ぜられるわけでございます。  翻って考えまするに、原子力の破壊力というものは、七年前に比べますると、その力は一千倍の惨害を呈するところにまで至っておりまして、今日の日進月歩の科学の力をもっていたしまするならば今後その猛烈な破壊力の到達するところは、これを戦争目的あるいは破壊的な形において実験するならば、人類は真に破滅に瀕するということは、もはや明瞭な事実でございます。しかるに人類は現在この原子力を持ちましたことによりまして、かつて人類の歴史に見なかったところの光栄ある未来を築き、精神的にもまた物質的にも偉大な繁栄が、この原子力の平和的な利用ということにかかって存在し得るのでありまして、逆な形で今申したごとく、これを破壊目的に使用するならば、人類は破滅に瀕するという、まことに人類の歴史にとって、かつてない重大な危機に立っておると言っていいのであります。 (後略 『中野区史』昭和資料編二 1973年)

前もいったが、近藤正二は、当時無所属であったが、後に社会党に入っている。その意味で、彼は保守層ということもできないのだ。原子力の平和利用に対するある種の幻想がそこにあるといえる。原子力に対する恐怖と幻想がここにないまぜになっているのだ。

このような意識をもっていたのは、区会議員たちだけではない。前回紹介したように、当時『中野新報』というローカル紙が、アンケートを実施した。アンケートに答えて大和住宅共同組合理事長渡辺潜は、次のように語っている。

一、水爆実験に対する非難の声、今後実験中止を要求する声は世界的に起こって来た。日本は被害体験者だけに憤りや恐怖心の入り交じった混乱した気持は一番激しいのは当然である。
一、水爆実験の結果は原子力の前には戦争は不可能になったという事を実証したと思ふそこで
(一)原子力の超国家機関による管理、(二)原子力の平和利用(既に各国によって進められつつある。例えば発電所の建設、医学的な応用等無限にその分野は開拓されつつある。新しい産業革命は原子力によってもたらされるであろう)について世界的な運動が必要である。広島や長崎又ビキニなどで被害を受けた最初のそして最大の犠牲者を出した日本こそは堂々と世界の与論を喚起しなければならないと思う。原子力の国外に立っている、まことにあわれな政治の姿ではあるが又それならばこそすぐれた政治家の奮起を待望してやまないのである。

原子力兵器への恐怖と原子力の平和利用への幻想が、ここでもないまぜになっている。

前のブログでは、とりあえず「科学信仰」ということに、このような意識をもつ原因をもとめた。それは間違っていないとは思うが、それだけなのだろうか。そういった思いが、その時も禁じえなかった。

その後、必要があって、雨宮昭一さんの『占領と改革』(2008年、岩波新書)を読んだ。本書は、雨宮さんの年来の主張である、戦後体制の源流を戦時体制にもとめるという主張が、非常にわかりやすく語られていた。

その中で、1950年代の政治状況を、雨宮さんはこのように総括している。

 

しかし、それ(講和直後日本の大規模な再軍備が阻止されたこと)は日本の戦後体制にとって大きな意味をもった。まず大規模な再軍備による経済の軍事化をおこなわなかったがゆえに、その後、民需中心の経済が展開され、憲法改正を阻止することにもなった。
 また経済問題では、共産党を含めたほとんどの政党が経済自立など生産の近代化、効率化を主張したことにも注目しておきたい(日本社会党本部「完全雇用を目標とする経済自立四ヶ年計画(第四次修正案)」、日本共産党中央委員会『日本共産党綱領集』)。こうして改憲が不可能になり、五五年共産党が武装蜂起を放棄するなどして憲法秩序に参入したこともあって、法体制としての日本国憲法体制がつくられ、経済においても民需産業中心の体制ができていった。国際体制としては前述のように、戦勝国体制としてのポツダム体制のうえにやがて戦争責任と植民地責任に「寛大」な片面講和によって日米安保体制が形成されていく。
 安保体制を認めるのか否定するのか、改憲か護憲かをめぐって政治における五五年体制が形成される。そこでは、守られた憲法第九条が戦争責任の免責とかかわっており、戦争責任問題や社会主義・資本主義とは異なって福祉国家へつながる協同主義などが冷戦体制の中で封印された。

それこそ、戦後形成された五五年体制は「安保体制を認めるのか否定するのか、改憲か護憲かをめぐって」対立するものであった。しかし、それをこえて「民需中心」とするということに、主要な政治勢力は反対していなかったことに注目しなくてはならない。そして、結果的に、本格的再軍備は、少なくともこの時点では阻止された。つまりは、民需中心の体制に転換していったのである。

その意味で、1954年当時、多くの人々が、核兵器に反対しつつ、「原子力の平和利用」に多大な幻想をもったということは、このような民需中心への体制転換を象徴することではなかったのかと思うのである。

しかし、一方で、これは、原子力の「軍事利用」を「平和利用」におきかえただけにも思えるのである。結局、「平和利用」ということで、原子力のもっている危険性には目をふさいだのではなかろうか。核兵器だけが危険なのではない。それにもかかわらず、「平和利用」という名目がつくことによって「原子力」を認めてしまうーいや、さらなる発展を期待してしまうのである。

五五年体制は民需中心の体制といったが、それこそ、経済発展それ自体を「国策」として最大限推進する体制である。そして、このことには、財界だけでなく、官僚・政党・マスコミも異議はなかったであろう。「原子力の平和利用」はーとりあえず核兵器と違ってー経済発展の中で把握されている。そして、たぶん、今でも「原子力の平和利用」を否定することは「国策」としての経済発展を否定するというように、財界・官僚・政党・マスコミは意識していると考えられる。「原発」の擁護は、単に東電の顔色をうかがってのことではない。むしろ、それこそ五五年体制以来の「国策」としての「経済発展」に支障がないようにすることのほうが強く意識されているのではないかと、仮説的には考えるのである。

このように「国策」を第一義的に考えることーそれこそ、戦前から引き継いだ体質のように思えるのである。

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2011年10月16~18日、東京都豊島区雑司ヶ谷(池袋の南側にあたる)において、今年もお会式の万灯行列が行われた。このお会式について、本ブログでは、このように説明している。

単純化すると、地域(豊島区南部)と宗教(日蓮宗)がコラボーレションしたような現代的都市祭典である。鬼子母神は、日蓮宗の法明寺に属している。日蓮宗では10月13日の日蓮の命日を追悼するためにその前後に「お会式」(おえしき)が行われる。最も有名なのは、日蓮がなくなった池上本門寺で行われている。雑司ヶ谷鬼子母神では、10月16-18日の三日間に行われている。基本的には、それぞれの講社が、うちわ太鼓や太鼓などを集団でたたきながら、まといなどをもって踊り、日蓮の事績や題目などが描かれた万燈を持参して、池袋駅東口(西武池袋)からパレードし、雑司ヶ谷鬼子母神・法明寺に参詣するというものである。

雑司ヶ谷鬼子母神お会式の万灯(2011年10月17日撮影)

雑司ヶ谷鬼子母神お会式の万灯(2011年10月17日撮影)

お会式について、よりご興味があれば、このブログで詳述しているので参照されたい。

今年のお会式においては、福島県を支援する試みがみられた。

その一つが、NPO法人「元気になろう福島」による「うつくしま子ども未来塾」基金への協力依頼をよびかけるブースの設置である。募金を集めるとともに、会津の牛のアイテムの販売を行っていた。場所は、鬼子母神堂のすぐ前で、屋台などが多く出されている鬼子母神境内の中では、かなり優遇されているといえる。

NPO法人「元気になろう福島」のブース(2011年10月18日撮影)

NPO法人「元気になろう福島」のブース(2011年10月18日撮影)

もう一つが、JA福島による「特産品販売」のブースである。野菜、漬物などが販売されていた。これも、鬼子母神堂のすぐそばにあり、かなり優遇されているといえる。

福島県JA復興特産品販売のブース(2011年10月18日撮影)

福島県JA復興特産品販売のブース(2011年10月18日撮影)

福島県産物の忌避は各地で起きている。例えば、9月には、福岡市で「ふくしま応援ショップ」を開催する予定が、抗議のメールや電話が殺到しているということでとりやめになったことが報じられた。

東京電力福島第1原発事故後の風評被害に苦しむ福島県の農家を支援しようと、福岡市内で17日に予定されていた「ふくしま応援ショップ」の開店が7日、取りやめになった。企画者側によると、計画発表後に「福島のトラックが来るだけで放射能を運んでくるだろう」といったメールや電話が相次いだことが原因という。新たな出店先を探すが、被災地を応援しようという試みに水を差された。

 「応援ショップ」は福岡市西区の商業施設「マリノアシティ福岡」内の農産物直売所「九州のムラ市場」の一角約20平方メートルに開設する計画だった。ムラ市場関係者によると、メールや電話は約20件で「出店をやめないなら不買運動を起こす」や「危ないものを売るとはどういう了見だ」などの内容も含まれる。ショップの運営主体で生鮮品宅配などを行っている「九州産直クラブ」(福岡市)にも同様のメールが約10件送られているという。

 ムラ市場によると、産直クラブは国の暫定規制値の10分の1まで放射性物質量の基準を厳格化し検査結果は店頭で開示。生鮮品の取り扱いはやめ、震災前の原材料を使った加工品だけを販売する方針だったが、7日に関係者で協議し異論も出たため見送りを決めた。

 産直クラブは「こんな事態になるとは予想していなかった。安全性は検査した上で消費者に判断してもらいたかったが、非常に残念」。ムラ市場側は「メールの内容はいわれのない話で、とんでもないことだが、他のテナントに迷惑を掛けるリスクがあった。違う形で支援したい」と説明した。

 ムラ市場と産直クラブは正式な店舗使用契約は結んでおらず、ムラ市場に出資しているマリノアシティ運営会社の福岡地所は「出店の合意形成ができていたとはとらえておらず、メールなどの苦情は判断材料ではない。被災地支援は企業としてこれまでも行ってきた。収益性の観点からもムラ市場は九州の生産者支援に力を注ぐべきだ」としている。

=2011/09/08付 西日本新聞朝刊=
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/262245

このような「忌避」は、かなり極端な事例として報じられる場合、福島第一原発事故の影響が少ないとみられる西日本のほうが多いように見受けられる。東京の鬼子母神境内では、普通に販売ブースが設置された(ただ、鬼子母神内部で議論があったかもしれない)。そこそこ購入者もいた。全体として、存在自体を忌避しているようには見られなかった。

ただ、価格であるが…写真に写っている小松菜は100円、ブロッコリーは100円、トマトは250円である。今の市価はよくわからないが、最近野菜の値段が上がっているようで、この間購入したブロッコリーが200円を超えていたことは記憶している。トマトは比較的高価な野菜で、一般的に300円は超えているのではないかと思う。

ここでは、ピーマンも販売されていた。写真ではラベルがみえないが…1袋50円である。このピーマンを購入してみた。

鬼子母神境内で売られていた福島県産ピーマン(2011年10月19日撮影)

鬼子母神境内で売られていた福島県産ピーマン(2011年10月19日撮影)

少々小ぶりではあるが、6個入りであった。翌日、前に買い置きしたピーマン(茨城県産である)とあわせてチンジャオロースにしてみたが、もちろん、何も変わらず、普段よりも甘く感じた。

販売担当者が別の客に説明しているのを聞いたのだが…普段だったら、とてもこんな値段では販売しないそうだ。前回紹介した、カタログハウス東京店では、ピーマンは210円で販売されている。カタログハウスで売られている野菜全体が比較的高く、大体200円はこえていたことと著しい対照をなす。

福島県では、放射性セシウムの検査を他県よりきめ細かく行っているが、最近の結果であると、一年草の野菜については、不検出かもしくはごく微量しか検出されていないのである。鬼子母神境内で販売されていた野菜も、基本的には健康に支障がないと考えられる。何も、小出裕章氏のように、悲壮な決意をもつこともなく、福島県産の野菜は食べられるのである。

ある意味では、すごく不条理である。カタログハウスで販売されている野菜は、市価よりもむしろ高めに販売されているのに、鬼子母神境内でJA福島が販売されている野菜は市価を大きく割り込んだ値段で販売されているということになるのである。そして、福島県産であっても市価を大きく割り込んだ価格の野菜をあまり気にせず買うのは、少しでも安い価格の商品を買わなくてはならない低所得者ということになろう。割り切れないが……。

根本的には、消費者が納得できる基準で、より厳格に検査すること。そのことによって、カタログハウスがそうしているように、「ブランド」化すること。福島県産の野菜を売るということについては、それがベターかもしれない。

しかし、それでも、釈然としない思いは残る。結局、生産者の目線ではなく、消費者の視線を考慮した流通側のセンスがそこでは優先されているともいえるのである。宮城県の水産特区でも同じ問題があろう。結局、ある意味では消費者のセンスを熟知した流通側の思惑で、生産者が組織されなくてはならないのであろうか。

20日、たまたま通りかかった、東京都北区滝野川のスーパーの店頭で、ピーマンが売られていた。1袋(たぶん5個入り)で60円。いやに安いと思ってみたら、袋には「JAたむら」と表示されていた。つまり「福島県産」なのである。どうも、福島県産の野菜は、一般的にはこのような価格で売られているようである。

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本ブログで、カタログハウスの店・東京店において「福島さん」野菜を販売する試みを以前紹介した。

その時は、カタログハウスの店・東京店を実際に見ていなかったので、2011年10月15日に実際にいってみた。

本来は写真撮影は遠慮すべきだったのだが、結局、ブログに使うということで、写真を結果的に使えることになった(ありがとうございます)。

カタログハウスの店・東京店は、新橋駅前にある。一般的には「都心」といえるであろう。ビルの一・二階が店舗になっている。それほど大きくはない。基本的に通販であり、その一部を販売しているという感じである。食品などより、枕などの生活用品が目立つ印象がある。二階には講演会場もある。たぶん、『通販生活』のアンテナショップなのであろう。

カタログハウスの店・東京店(2011年10月15日撮影)

カタログハウスの店・東京店(2011年10月15日撮影)

「福島さんの野菜」コーナーは、1階入口付近の、かなり目立つところにあった。ここでも「ウクライナの基準合格」を強調していた。カタログハウスとしては、力を入れている企画だと感じた。

「福島さんの野菜」コーナー(2011年10月15日撮影)

「福島さんの野菜」コーナー(2011年10月15日撮影)

店舗の入り口には、このような看板がたっている。販売する野菜・果物の放射性セシウム含有値をそれぞれ示しているのだ。ほとんどが10ベクレル未満になっている。つまりは検出限界ということなのであろう。ただ、ぶどうの一部は23ベクレル・17ベクレルとやや検出されている。果物は比較的セシウムがあることが多いことは承知していたので、これも想定通りであった。もちろん、野菜は40ベクレル、果物は70ベクレルという「ウクライナの基準」以下ではある。

放射性セシウム検査値をしめす看板(2011年10月15日撮影)

放射性セシウム検査値をしめす看板(2011年10月15日撮影)

実際の売り場は、このようになっている。値札をみてほしい。ミニきゅうり280円、ピーマン210円、ニンジン220円、ナス230円…。そんなに安くはない。比較的高級食材を売ることがメインであるスーパーマーケットなみの値段といえるのである。

野菜売り場(2011年10月15日撮影)

野菜売り場(2011年10月15日撮影)

ここでの商品は、基本的に生産者特約で買い入れている。それも明示している。

生産者を明示する掲示板(2011年10月15日撮影)

生産者を明示する掲示板(2011年10月15日撮影)

そして、極め付きは、店舗内に鎮座している放射能測定器である。本体の上にかなり大きなディスプレイがあり、検査結果がわかるようになっている。出荷している福島県側でも測定しているとされている。普通は、店舗内におくようなものではない。まさに、この放射能測定器が、「安心」を強調する、最大の宣伝アイテムとなっているのである。

放射能測定器(2011年10月15日撮影)

放射能測定器(2011年10月15日撮影)

放射能測定器のディスプレイ(2011年10月15日撮影)

放射能測定器のディスプレイ(2011年10月15日撮影)

店内には、「福島さんの野菜」を推奨する有名人の看板もあった。西田敏行・田部井淳子・永六輔・山本太郎・小泉武夫・鎌田實という面々である。

「福島さんの野菜」を推奨する有名人(2011年10月15日撮影)

「福島さんの野菜」を推奨する有名人(2011年10月15日撮影)

実際に、ナス(230円)を購入してみた。1袋に3個。やはり高級スーパーなみの値段である。ただ、それぞれが大きくて、肉が多いと感じた。たぶん、特約生産者による注意深い農作業のたまものであろう。

福島県産ナス(2011年10月17日撮影)

福島県産ナス(2011年10月17日撮影)

一言でいえば、かなり頭のいいという意味での、スマートな売り方だといえる。「放射能測定器」というアイテムを使用し、さらには、現行の暫定基準よりも厳しい基準を採用することで、「安全」という付加価値をつける。一度「安全」ならば、被災地福島県産の野菜を買うという積極的な購買意欲を掘り起こすことができる。それゆえ、ある意味で、かなり高い値段で売ることが可能となるのである。

といっても、それほど、カタログハウスとしては、この「福島さんの野菜」販売で大きな利益は見込んでいないであろう。むしろ、「安全な福島県産の野菜」を売ることで、カタログハウス全体のイメージをアップさせる、いわば「広告塔」のような役割もたぶん想定していると思われる。もちろん、カタログハウスとしての「信念」でもあろうが。ある意味では、企業戦略なのであろう。ただ、それは悪い意味ではない。ソフトバンクの孫正義社長が自然エネルギー導入を推進するということは、単に信念だけでなく、イメージアップという企業戦略もからんでいるであろうが、それ自体は評価すべきことである。それと同じような意味で、カタログハウスの試みも評価すべきなのである。

といっても、このような、イメージとしては成功(採算がとれているかいないかは不明だが)している売り方は、残念ながらたぶん少数であろう。そのことは、また別個に考える必要があるといえる。

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東日本大震災によって顕著なことの一つとして、さまざまな地域、レベルにおいて、いろいろな形での「棄民」が顕在化してきたことがあげられる。

すでに、21世紀に入る頃から開始された、新自由主義的「改革」は、さまざまなレベルでの「棄民」の出現を促進してきたといえる。農業自由化や財政改革における補助金削減は、地方経済ーすでに大阪などの大都市圏にも及んでいるがーの弱体化を促進させてきた。私が福島県浜通り地域に通っていたのは2000年頃であったが、すでに当時の原町市(現在の南相馬市)では常時シャッターが閉鎖された店舗が目立つ商店街ーいわゆる「シャッター」街を頻繁に目撃するようになった。そして、それは、いわゆる「地方都市」で頻繁にみかけるようになった。

他方、東京などの大都市では、一見大規模な都市再開発やベンチャー企業の叢生によって、経済活動が活性化したようにみえた。しかし、それは、それこそ「1%」の繁栄に過ぎなかった。他方で、同じく新自由主義改革が推し進めた相次ぐ労働者派遣法の改正など、正規雇用から非正規雇用への切り替えが進んだ。非正規雇用といえば、まだ聞こえがよい。そのほとんどが「生活保護」水準ーそれ以下の場合も多いーの賃金しか得られていないのである。そして、それは、正規雇用自体の労働条件悪化にも及んでいる。「非正規雇用」との潜在的な競争により、賃金は引き下げられ、サービス残業や休日出勤が今まで以上に強いられるようになった。

しかし、これらの「棄民」の拡大は、東日本大震災以前においては、「局所化」されていた。まずは、一般的に「自由」「小さな政府」「自己責任」などの新自由主義のイデオロギーが、それぞれの場面における「自由競争」の極大を正当化していたことが大きな要因としてあげられるであろう。特に「自己責任」は、まさしく、近代初頭の小経営者=「個人」の自立志向に起因するもので、日本では「通俗道徳」にあたるといえよう。もはや、経営どころか「家族」ですら、より公共的に支えられないと存立不可能であるのだが、新自由主義は、そのような「公共性拡大の必要性」を逆手にとって、それを恐怖の対象とする。その上で、公共性の介在しない、市場中心で維持する「社会」を夢想する。このような社会は「自己責任」をもつ個人によってささえられるのであり、社会保障の必要な弱者ー今や99%なのだーは事実上排除する。弊害が目に見えているのに労働者派遣法は「改悪」され、生活保護は「窓口規制」され、年金支給年齢は引き上げられた。一方、地方では、自主性尊重の掛け声のもとに、補助金は引き下げられ、能率性重視を目的として、大規模な自治体合併が強制された。

東日本大震災の被害は、まず、地方における「棄民」のあり方を顕在化させたといえるであろう。もちろん、地震による津波被災は「新自由主義」に起因するものではない。しかし、現状においても、本質的には公的な意味では放置されているといえる津波被災地のあり方は「棄民」そのものといえるであろう。都市部を中心として被災した関東大震災や阪神淡路大震災と、東北太平洋側の沿岸部を襲った津波被災が中心とする東日本大震災は、様相をことにしている。地方空洞化のただ中でおきた東日本大震災においては、そもそも、区画整理などを実施することで「再開発」し、その利益によって地域社会を再建するというそれまでの「復興」のパターンを十分機能させることができない。新自由主義のもとに地方の経済活動が弱体されてきたという「棄民」状況が、ここで明るみに出たといえるのである。

そして、このような「棄民」状況にたいして、新自由主義を体現してきた政府は、十分対処する能力をもたない。結局は、財政出動の「圧縮」と財政負担の将来へのつけまわしを議論するしか能がないのである。さらに、村井宮城県知事などは、阪神淡路大震災的な都市再開発をもくろんで市街地建築制限を導入し、被災地の「復旧」のさまたげとなっている。さらに、彼は、沿岸漁業への一般企業の参入を促す水産特区構想を持ち出し、津波被災地に混乱をまきおこした。村井の発想は、まさに新自由主義的復興構想といえるのであるが、逆に、被災地の自主的な復旧を阻害しているのである。

一方、福島の状況であるが……。この状況を「棄民」という範囲すらこえているといえる。そもそも、福島県浜通りという人口の少ない地域に原発が建設されたということ自体、「棄民」状況が潜在していたといえる。そして、福島第一原発事故後、周辺の町村からは、地域社会全体が根扱ぎにされた。民だけではなく、地全体が、現状では「棄てられている」のである。それぞれの町村という、生活の場すべてが奪われた「民」がそこにはいるのだ。

他方で、とりあえず、避難指示はされていないその他の地域でも、「棄民」状況は続いている。比較的高い放射線量ーチェルノブイリ事故では自主避難が認められた線量をこえる地域もあるーにおいても、「日常生活」を続けられている。部分的な除染と、あまりにも高い土壌放射線量での農産物の作付の制限はなされているが、それ以外は十分進んでいるとはいいがたい。そして、自主的に避難する人々がいる一方、避難をしない人々との間の意識の断絶がうまれている。特に、乳幼児をかかえる女性たちの避難が目立っている。これもまた「棄民」なのである。このことは、すでに、福島県だけの問題ではない。福島県なみの汚染状況を示している地域は、北関東の地域さらに、千葉県の柏市地域や東京の奥多摩地域にも及んでいるのだ。

汚染地域などでの「日常生活」の維持のため、そこから産出される「農水産物」も「正常化」されなくてはならない。そして、それは、農地除染や、農水産物の検査体制の強化という形ではなく、放射性物質の許容限界を平常時の5倍に引き上げるという「暫定基準」の設定で行われた。そして、問題を表面化しないように穴だらけの検査体制がそのまま維持される。政府の「直ちに健康に影響がない」というのは、短期的にはその通りかもしれない。しかし、長期間に維持すべきものではなく、その意味で「暫定」なのだ。しかし、その暫定基準は、そのまま「安全」という言説が福島県知事などより言明される。これは、いわゆる、象徴的な意味での「棄民」といえるであろう。そして、そのことの意味をもっとも強く考えるのが、現状では女性たちであるということも指摘しておかねばならない。

そして、他方、都市内外に存在する「非正規雇用」の労働者ー「非正規労働者の予備軍」としての大学生たちも含めてーもまた、「棄民」といえる。すべてを、還元してはいけないと思うが、労働組合などと離れた形で「脱原発」デモが行われてきた背景としては、彼らの存在があるといえる。全体的な「棄民」状況からの「解放」が、そこには希求されているのではなかろうか。このことついては、もっと深めて考えていかなくてはならない。

東日本大震災以前では、「棄民」の存在は「局所化」されていた。東日本大震災により、このような多様な「棄民」が顕在化した。その一方で、「棄民」を作り出し、隠蔽してきた、新自由主義的資本主義システムへの「無意識的な信頼感」は大きく揺らいだのである。

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本ブログでは、専門外ながら、放射性ヨウ素、放射性セシウムの暫定基準の問題もとりあげてきた。

2011年10月12日、日本記者クラブでの会見で、チェルノブイリ事故への対応を行ってきたベラルーシの民間研究機関のウラジーミル・バベンコは、「日本の放射性物質に対する暫定基準は甘すぎ、全く理解できない。現実的な基準とすべきだ」と語った。それを伝えるMSN産経ニュースのネット記事を下記にあげておく。

日本の食品基準は甘すぎ ベラルーシ専門家が批判
2011.10.12 20:28 [放射能漏れ]

チェルノブイリ原発事故後の住民対策に取り組んできたベラルーシの民間の研究機関、ベルラド放射能安全研究所のウラジーミル・バベンコ副所長が12日、東京都内の日本記者クラブで記者会見した。東京電力福島第1原発事故を受け、日本政府が設定した食品や飲料水の放射性物質の基準値が甘すぎ、「まったく理解できない」と批判、早急に「現実的」な値に見直すべきだと述べた。

 例えば、日本では飲料水1キログラム当たりの放射性セシウムの暫定基準値は200ベクレル。一方、ベラルーシの基準値は10ベクレルで、20倍の差があるという。

 ベラルーシでは内部被ばくの影響を受けやすい子どもが摂取する食品は37ベクレルと厳しい基準値が定められているが、日本では乳製品を除く食品の暫定基準値は500ベクレルで、子どもに対する特別措置がないことも問題視。「37ベクレルでも子どもに与えるには高すぎる。ゼロに近づけるべきだ」と指摘した。(共同)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111012/erp11101220300003-n1.htm

たぶん、日本であると、より緩和した基準にするほうが現実的であるといわれるであろう。バベンコは、より厳しい数値こそが「現実的」というのである。

以前、本ブログで、福島県産野菜を販売するカタログハウスの試みをとりあげ、その中でウクライナの基準をとりあげた。もう一度、引用しておこう。

【ウクライナ規制値】
チェルノブイリ事故から12年過ぎた1998年1月からウクライナ保健省が実施している基準。「この基準内の食品(複数)を標準的な量で摂取していった合計が年間1ミリシーベルトを超えない」を保証する規制値です。住民の内部被ばくの拡大を反映して、何回も改定をくり返していった結果が厳しい現在の規制値になったそうです。

そして、具体的には、次のような基準であるとしている。

ウクライナ規制値 :野菜40 果物70 パン20(米も準用)  卵6  肉200  魚150 飲料水2 牛乳・乳製品100  幼児食品40(単位はBq/kg)

それでは、ベラルーシの放射性物質対策とは、どのようなものなのだろうか。そのことについて、すでにNHKが、8月4日にBS1の「ほっと@アジア」(17時台の番組で紹介している。YouTubeに本番組がアップされていたので、まず紹介しておきたい。

(http://www.youtube.com/watch?v=fMaqzvb2HWoより)

内容は、NHKが「解説アーカイブズ」として、ネット配信している(http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/450/91326.html)。まず、解説委員の石川一洋は、この番組の意図をこのように語っている。

石川)ベラルーシはチェルノブイリ後、飛来した放射能が雨によって土地に沈着して広大な土地が汚染されました。その状況は今回の事故後の原発から北西方向、そして福島県の中通り、さらには関東など各地に点在するホットスポットの状況と似ています。放射性のセシウムが主要な汚染源であるという点も似ています。
ベラルーシではもっとも汚染の酷い土地からは移住させました。しかし汚染地帯には多くの住民が住み、農業などそこでとれる作物を利用しています。
住民の健康を守るため厳格な食物の放射性物質の検査などを行っています。
汚染状況が似ていること、もう一つは住民の健康を守るためにベラルーシが取っている対策が日本の今後の指標となるからです。
私はベラルーシで子供の健康調査や食物の放射性物質の検査を続けている研究所の所長に話を聞きました。

取材を受けたベルラッド研究所アレクセイ・ネステレンコ所長は、次のように語っている。

ベルラッド研究所アレクセイ・ネステレンコ所長
「日本ではソビエトと同じように情報の隠蔽が行われている印象があります。重要なのは、まず食料を厳重に検査し管理することです。次に住民、特に子供たちの体内にどのくらい放射性物質が取り込まれたのか、検査を続けることです。そして住民に食物から放射性物質を除去する方法など放射性物質の影響を少なくする情報を教えることです」

その上で、石川一洋が以前取材した同研究所の活動も紹介しながら、ベラルーシの放射性物質対策について、この番組では、次のように指摘している。

ベラルーシは日本と比較しても、国も広範な検査を実施しています。
しかしネステレンコ所長は国だけでなく民間の研究所や食品会社や市民自身が並行して食料の中の放射性物質を検査することが重要だと指摘しています。
「国家機関は場合によっては都合の悪い情報は隠すものです。従って国の機関の検査結果に対しては住民の不信が高まります。こうした不信を取り除くためにも民間が独自に検査することは重要です。私たちは学校に検査機器をおいて実施していますが、そうしますと教育的な効果もあります。子供たちが放射性物質を詳しく知ることになるのです」。

その上で、日本の暫定基準とベラルーシの基準を比較している。(なお、吉井はアナウンサー)

吉井)日本も食品については暫定基準を定めていますよね、ベラルーシの基準はどのようなものですか。

石川)まず日本の基準です。
日本は食品については放射性物質の基準が無かったために暫定的な基準を三月に急遽定めました。今現在は問題となるのは半減期の長い放射性セシウムです。ほとんどの食品で1キログラムあたり500ベクレル、飲用水と牛乳やミルクなど乳製品は200ベクレルとされています。

しかしネステレンコ所長は基準が甘すぎると批判しています。
「日本の基準はベラルーシに比べてあまりに緩すぎて、酷いと言っても良いくらいです。
ベラルーシではたとえば3歳児までの子供用の牛乳など食物の許容限度は放射性セシウムで37ベクレルです」

日本が飲料水と乳製品については200ベクレルとしていますが、その他は一律に500ベクレルという大雑把な基準となっていますが、ベラルーシでは、食品の種類ごとに細かく基準が定められています。表をご覧ください。

3歳児までの乳幼児用の食品は1キログラムあたり37ベクレル、飲料水は10ベクレル、牛乳は100ベクレル、パンは40ベクレル、牛肉は500ベクレル、豚肉、鶏肉は200ベクレルなど食品ごとに基準値が細かく定められ、全般的に日本よりもかなり厳しめになっています。

吉井)でも日本よりも甘いものもありますね。

石川)そうです。たとえば乾燥キノコやお茶は日本よりも甘くなっています。お茶の葉にはこれだけのセシウムがあってもお茶自体にはセシウムはすべて溶け出しませんし、また乾燥キノコなども国民が食べる量は限られている、その代り、水や主食のパン、牛乳、ジャガイモなどは大変厳しい値になっています。国民の食生活の実態に合わせて細かく基準を定めているのです。

ネステレンコ所長も、日本の基準は甘すぎるといっている。ベラルーシの基準は、実際の食生活に配慮しつつ、日本よりも全体として厳しいものになっているのだ。特に、水・牛乳や、主食のパン・ジャガイモが厳しくなっていることに注目されたい。

この基準の違いを石川は、次のように解説している。

吉井)なぜ日本とベラルーシの基準値がこんなに違うのですか。

石川)ベラルーシの基準値の考え方は、内部被爆・外部被爆併せて1ミリシーベルトを超えないという基本方針からそれぞれの食品の基準が定められています。一方日本の場合も平常時は1ミリシーベルトが基準でしたが、福島第一原発の事故を受けて、現在は事故後の緊急状況であるとして暫定基準を定めるときに5ミリシーベルトまでは許容しようと食品に対する考え方を緩めたわけです。しかも5ミリシーベルトの中には放射性セシウムとストロンチウムによる被ばくのみです。ヨウ素などは別枠です。
5ミリシーベルトと1ミリシーベルトという基本方針の違いが基準値の差となって現れています。

ただ厚生労働省では、もしも暫定基準値の値の食物を食べ続けた場合に5ミリシーベルトになるという値であり、実際の内部被ばくの値ははるかに小さくなり、健康には影響は無いとしています。また現在は事故後の緊急時であり、あまり厳しい値を定めることは被災地の農業や水産業を破壊することになりかねず、安全と経済のバランスを取ることが必要だとしています。

いずれにしてもあくまで緊急時であり、平時の1ミリシーベルトに戻さなければならないでしょうし、日本の食生活に合わせたさらに細かな基準づくりというものが必要になってくるでしょう。

つまりは、日本の現行の暫定基準は、事故後の緊急時であり「安全と経済のバランスを取る」ということから、平常時の5倍の被ばく量を想定して設定しているというのである。そして、石川は、「いずれにしてもあくまで緊急時であり、平時の1ミリシーベルトに戻さなければならないでしょうし、日本の食生活に合わせたさらに細かな基準づくりというものが必要になってくるでしょう」としているのである。つまりは、その意味で日本の暫定基準は「暫定」なのである。

そして、番組の最後のほうでは、児玉龍彦の国会での発言も紹介しながら、このような言葉で結んでいる。

吉井)ベラルーシではいろんな努力をして、放射性セシウムなど放射性物質から子供たちを守ろうとしているのですね。日本でもこうしたことは可能でしょうか。

石川)食生活で言えばベラルーシと日本は異なるわけですから、日本に合わせた基準を作れば良い、主食のコメなどは厳しくするとか、日本に合わせた基準が必要でしょう。
また食品の検査についても今は一品、一品時間をかけて検査する方法ですが、日本の高度な技術を使えば、流れ作業のような形で検査するシステムが開発可能だという提言も出ています。

東大アイソトープセンター長 児玉龍彦教授
「流れ作業的に沢山やれるようにしてその中で、はねるものをどんどんイメージで、画像上でこれが高いと出たらはねていくような仕組みを、これは既存の技術ですぐできますものです。そういうものを全力を上げてやっていただきたいと思っております」

日本の高度な技術を食品管理に活かすということです。
ベラルーシは国家予算の二割がチェルノブイリ事故の対策に費やされています。
ベラルーシに比べますと日本は国家予算で100倍という大国です。
ベラルーシの国家予算の二割というのは1200億円ほどで日本の国家予算にすれば0.1パーセントほどの額です。後は国民の健康と安全を守るという政治的意思が日本政府にあるかどうかということだと思うのです。
ベラルーシなどで何が起きて、どのような対策が取られたのか、日本の今後を考える上でも、今度は我々がベラルーシなどから学ばなければなりません。

まさに、「後は国民の健康と安全を守るという政治的意思が日本政府にあるかどうかということだと思うのです。」ということなのである。

このような対応をとっているベラルーシは、どのような国なのか。ウィキペディアは、次のように伝えている。現在、ベラルーシは、ルカシェンコ大統領が強権政治を行っている国とみられているようである。

一方、2010年12月の大統領選挙では、選挙後に野党の候補者が政権により拘束されたという[5]。このため、EUとアメリカが制裁を決定する[6]など、現在のベラルーシは国際社会からの孤立を深めている。
ルカシェンコが四選を果たした直後から2011年7月現在に至るまで、ベラルーシ国内は深刻な経済危機に陥っている。そんな中、SNSなどでの呼びかけで、市民の間でルカシェンコ政権への抗議運動が発生し始めている。政権に抗議する市民たちは無言で拍手をしながら街を練り歩くと言う静かで平和的な抗議運動を行っているが、治安当局はデモ隊の徹底した弾圧を実行している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7

つまりは、強権政治を行っているとみられているベラルーシのほうが、より国民の健康と安全を配慮した対策を施しているのである。

一方で、日本は、どうか。朝日新聞は、10月13日、次のような記事をネット配信した。

コメの放射性物質検査を進めていた福島県は12日、今年の県産米の検査を終え、すべてで放射性セシウムが国の基準値(1キロあたり500ベクレル)を下回ったと正式に発表した。これでコメを作付けしている全48市町村で出荷が可能になり、佐藤雄平知事は「安全宣言」をした。

 県は8月下旬、原発事故で作付けが禁止された双葉郡などを除く48市町村で検査を開始。収穫前に汚染の傾向をつかむ予備検査と、収穫後に出荷の可否を判断する本検査の2段階で実施した。

 一般米の本検査の対象となった1174地点のうち、放射性セシウムが検出されなかったのは82%にあたる964地点。100ベクレル未満が17%の203地点、100ベクレル以上は0.6%の7地点だけだった。

 ただ、予備検査で1キロあたり500ベクレルを検出した二本松市の旧小浜町地区では、この日判明した本検査でも470ベクレルを検出。県はこの水田と、隣接する水田の計3枚(9アール)で収穫したコメ約400キロをすべて買い上げ、市場に流通しないようにする。
http://www.asahi.com/national/update/1013/TKY201110120767.html

さすがに、暫定基準値すれすれの米は市場に出回らないようにしたようであるが……。暫定基準を下回ったとして、福島県の佐藤雄平知事は「安全」といっている。実際、検査結果をみると不検出や極微量検出の米が多いのだが、平常時の5倍に緩和した基準をたてに「安全」といっている。これでは、政府が「安全」だと決めたから「安全」であるということになってしまう。あくまでも「緊急時の暫定」であり、今後はより基準を厳しくしていく必要があると考えられるのに、このような「安全宣言」は不穏当である。そして、それは、より厳しい基準を設定していく営為を阻害していくものといえよう。

結局、「民主主義」国家と形式的にはいわれる日本は、「強権国家」と批判されるベラルーシよりも、はるかに劣った放射性物質対策を行っているのである。そして、日本では、たぶん「緩和する」ことが「現実的」と言われるであろうが、ベラルーシでは、より厳しい基準を設定することが「現実的」なのである。「現実」について、日本とベラルーシには違った認識があるといえよう。

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2011年10月9日夕方、渋谷で「怒りのドラムデモ」が行われた。「怒りのドラムデモ」ととは、どのようなものなのか。単純にいえば、脱原発を求めて、ドラムー打楽器を打ちながら、街路を行進するものである。まず、主催者側の呼び掛け文をみておこう。

もうすぐ原発事故から7ヶ月が経とうとしています。しかし問題は全く解決されておらず、依然収束の見込みは立っていないままなのに、「解決の方向なんでしょ?」という空気が東京でも漂い始めています。
私たちは、稼働している原発に可能な限り早期の停止と廃炉を求めます。

これまで様々な場所で原発に対する抗議のデモが行われてきました。デモのなかで、鳴りもの「太鼓」をはじめ楽器を持つ人が多くいる事がわかってきました。シュプレヒコールの代わりにドラムを叩き付けるがごとく、渋谷の街を抗議の音で満たしましょう!

スネア、ジャンベ、タム、和太鼓、シンバル、空き缶、その他打楽器持っているひと集合!!!
その他の管楽器・弦楽器・笛・盆踊りの和太鼓・自転車のベル・ブブゼラ・カズー・ドラム缶・一斗缶・クッキー缶・なべ・フライパン・ゴミ箱・ダンボール・ラジカセ・バケツ・洗濯板・風鈴・その他楽器の方も、楽器持ってない人も、プラカードで参加の方も、手ぶらでの参加も、もちろん歓迎です!!
反原発/脱原発に直接関わりのない旗やプラカードはご遠慮ください。 

怒りのドラムデモ実行委員会 (a.k.a.ドカドカうるさいマーチングバンド)
(http://protestofdrum.blogspot.com/p/blog-page_7152.htmlより)

このドラムデモに、私も参加した。このデモ開催はフェイスブックを通じて伝えられた。アラブ・・アメリカなどで行われたデモはツイッターやフェイスブックなどを通じて広められたというが、日本の脱原発デモも同じような連絡方法で伝えられたのである。

デモは16時45分から開始された。出発地点は恵比寿公園である。恵比寿公園に集まっている人たちをみると、お互い同士それほど話し合いをしていなかった。私のように、一人で来ている人も多いようであった。基本的に大組織を背景に動員されているようにはみえなかったのである。

その中で、一際目立ったのは、道化師の仮装をした人たちだった。後で雨宮処凛のブログでいわれていたのだが「クラウンアーミー」というらしい。彼らは、さかんに輪になって踊るなど、パフォーマンスのリハーサルを行っていた。

小太鼓などをもっていた人たちもいたのだが、最初それほど多くいるようにはみえなかった。
(なお、プライバシーを考慮して、写真において個人が特定できると考えられたものは、眼に線を入れた。仮装や遠望などで特定できないと思うものは修正しなかった。)

出発地点の恵比寿公園

出発地点の恵比寿公園

福島県の教師も参加していたようだ。

福島からの参加者

福島からの参加者

出発直前に、クラウンアーミーを中心に、ドラムをもっていた人々が集まって、ドラムを打ち鳴らした。かなりの迫力であった。

出発直前の景況

出発直前の景況

そして、デモは恵比寿公園を出発した。

恵比寿公園出発

恵比寿公園出発

デモが始まってみると、多くの人が何らかの打楽器をもっていたことに驚いた。呼び掛け文には「これまで様々な場所で原発に対する抗議のデモが行われてきました。デモのなかで、鳴りもの「太鼓」をはじめ楽器を持つ人が多くいる事がわかってきました。」といわれている。さらに、もう一度、このサイトをみてみると、次のように、楽器が無償で貸し出されていたことがわかる。ただ、大きなものはそれほど貸し出されていないので、かなり自前でもってきたのであろう。

追記1 
HUMAN RECOVERY PROJECT / PINPRICK PUNISHMENTの穴水さんからの申し出で、楽器をお借りする事が出来ます。
以下をお読みください。

▼ANAFUZZ MasahikoAnamizu
10/9怒りのドラムデモ。私が運営している楽器・音響.com が全面的にサポートします!
タンバリン・シェーカー・カウベル等の小物から全て無料で提供します!
他に在庫はスネア,バスドラム,ハイタム,ロータム,フロアタムが全て2つずつ。
※ストラップ(ヒモでOK)とスティックは各自ご用意ください。
利用希望者は14時~15時半にこちらまでお越し下さい
※通常のレンタル契約同様、携帯番号、住所、氏名等を控えさせていただき、身分証を確認させていただきます。
10/9怒りのドラムデモはこれまでデモ参加を躊躇していたバンドマンに是非とも参加してほしい。
ただ、黙ってプラカード掲げるだけの行進じゃつまらないし、シュプレヒコールも運動っぽくて照れくさい。
何か叩いてリズムとってれば周りとの一体感も感じるし、慣れない「恥ずかしさ」も吹き飛ぶさ。(2011年10月7日のツイート)

デモもかなり、今までとは異なったものであった。デモ隊の先導車はなく、拡声器もなかった。個人的に「原発やめろ」などと怒鳴っている人はいたが、集団でメッセージを唱和することはなかった。集団で出されていたのは、ドラムの音であった。まさに、「ただ、黙ってプラカード掲げるだけの行進じゃつまらないし、シュプレヒコールも運動っぽくて照れくさい。何か叩いてリズムとってれば周りとの一体感も感じるし、慣れない「恥ずかしさ」も吹き飛ぶさ。」ということなのだろう。私のいった脱原発デモでは、よく「サウンド・デモ」といって、先導車にミュージシャンがのって、「脱原発ソング」などをうたっているものが目立っていたのであるが、その発展型といえるであろう。シュプレヒコールを拡声器に従って唱和するのではなく、個々人が「ドラム」をたたくことでメッセージを発信するということと解釈できる。

ドラムの音は大きい。単独でもかなりのものだが、集団で叩いているならなおさらのことだ。特に、高架線をくぐるときなどはとりわけ大きくなる。歩道橋の下ですら反響がよくわかる。

恵比寿駅高架下をくぐるドラムデモ

恵比寿駅高架下をくぐるドラムデモ

ドラムによるメッセージを補完するものは、プラカードや旗であった。さまざまな「脱原発の主張」がそこには書き込まれている。

恵比寿周辺を行進するドラムデモ

恵比寿周辺を行進するドラムデモ

プラカードその1

プラカードその1

プラカードその2

プラカードその2

プラカードその3

プラカードその3

プラカードその4

プラカードその4

中には、右翼的な思想に基づくと思われるプラカードもあった。ただ、日の丸をうちふるということはみられなかった。

プラカードその5

プラカードその5

普段のデモならば先導車がいる、先頭のところにいたのは、前述のクラウンアーミーである。彼らは、無言で(いや、何か発してもわからないが)デモの先頭でおどり、行き過ぎる人々の目をひきつけた。

デモの先頭で踊るクラウンアーミー

デモの先頭で踊るクラウンアーミー

歩道橋の上は、写真撮影する人で鈴なりだった。もちろん、デモ参加者や取材陣もいると思うが。

歩道橋から撮影する人びと

歩道橋から撮影する人びと

写真では、なかなか音を伝えるのは難しい。下記の動画は、少々長いが、よく全体をとらえている。恵比寿公園を出発したドラムデモは、恵比寿駅前から明治通りを通り、渋谷駅東口を通過し、さらに北上してから山手線の高架をくぐって、一度渋谷公会堂前にいき、そこから公園通りに入って、渋谷駅西口にいき、再度明治通りを北上して、神宮橋公園でフィニッシュした。見ていると、その経過がよくわかる。撮影者は、たぶん、出発時には、デモの後のほうにいたらしい。ここでは、タンバリンや手持ち管楽器などの「ドラム」ではない音が多いようである。そして、だんだん前のほうに移動したらしい。動画の後のほうでは、デモ先頭附近の、「ドラム」隊やクラウンアーミーのパフォーマンスが撮影されている。

(http://www.youtube.com/watch?v=3iCLUoyqxSkより)

ドラムデモのコース

ドラムデモのコース

ドラムの音であるが、一見何げなく叩いているようであるが、それなりにリズムがあっていたことがわかってきた。それは、上記の動画にも表現されているであろう。てんでに叩いているようであるが、だんだん集団としての調和がとれてくるのである。その意味で、ある意味では、先導者がいなくても集団としてのまとまりを作り出していた、このデモのあり方全体を象徴するものといえるだろう。

このドラムの音は、だんだん人をひきつけてくる。私は年齢が年齢なので、それほどドラムの音が好きというわけでもないのだが、最後のほうでは、私自身が手拍子でこのドラムの音にあわせようとしていた。集団でのドラムの音は、人びとの自発性を引き出し、自立した主体を促す。シュプレヒコールに唱和する主体のような、ある意味では受動的な主体参加ではなく、能動的な主体参加を促進していくものであるといえる。

このドラムデモは、街行く人の目を引き付けた。写真は公園通りのものである。さらに渋谷駅のハチ公前でも多くの人がデモをみていた。

公園通りでデモをみつめる人びと

公園通りでデモをみつめる人びと

最後については、上記の動画の最後のほうみてもらったほうがよくわかる。解散地点の神宮橋公園では、クラウンアーミーたちが、ポールのようなものを中心として輪になって踊り、その周りでドラムが、それこそリズムをあわせて打ち鳴らされていた。そして、古いたとえで恐縮だが、三々七拍子のような形でドラムが打たれ、まわりも手拍子その他であわせることでフィニッシュした。最初、恵比寿公園で行っていたクラウンアーミーのリハーサルはそのためのものであった。演出意図に納得した。つまり、一つの「始まり」と「終わり」をもった、どちらかといえば、コンサートの乗りであるパフォーマンス・デモであったといえるのである。

最後に、主催者が10月22日にもドラムデモをしないかといわれていると話しながら、「皆がそれぞれドラムを持ち寄ればいいんですよ」と話していた。そういう心意気なのだ。

主催者側では1000人程度、警察側の発表では600人と、最近は万を超える参加者がある「脱原発デモ」としては、少数の参加者であった。しかし、参加者とそれをみている人びとに「デモは楽しい」と思わせることで、このデモの意義は大きいだろう。

それに対して、非常に脱原発デモ報道に消極的な、朝日新聞も10月10日付朝刊の二面で大きくとりあげて報道した。なお、次に掲げるものは、ネット配信した記事であるが、二面にも同内容の記事が出されている(ただ、二面の記事は、識者の発言やらも入っているが)。

脱原発デモが各地で続く。今まで社会運動に参加してこなかった「アマチュア市民」たちが、インターネットでゆるやかにつながる。組織を持たない人々の怒りを新たなメディアが束ね、路上へと押し出す風景は、米国や中東で起きている若者のデモと相似形だ。
■動員なし、届け出上回る600人行進
 ドンドン、ブブーッ、コンコン。9日夕方、東京・渋谷の公園通りを、太鼓やトランペット、フライパンなど、思い思いの「楽器」を奏でながら、デモ隊が練り歩いた。
 街宣カーの連呼も、シュプレヒコールもない。にぎやかな音を聞いてレストランから出てきた男性店員は「お祭りかと思ったら、デモなんですね」。
 先頭付近で、腰にドラムを下げて行進した河野亜紀さん(39)は普段、ウェブデザインの仕事をしている。4月にデモに初参加し、「こんなに楽しい世界があるんだ」とはまった。
 震災前、デモに対して、学校で苦手なマラソン大会に出るような「動員」のイメージを抱いていた。でも原発へのもやもやした不満を何とかしたい。ツイッターで知ったデモに足を運び、「みんな同じように怒ってたんだ」と分かった。
 IT企業で働く古賀真之介さん(32)は、妊娠中の妻と参加した。「子どもと妻のことを思うと、危険な原発はすぐにも廃止してほしい」。予備校生の下西あす夏さん(19)は「デモは逮捕されそうで怖い」と思っていたが、「自分にできることを」と参加した。友人の多くは無反応だが、ツイッターでデモのことをつぶやき続けている。
 この日、デモを呼びかけた井手実さん(31)は、今回初めて主催側になり、警察への届け出など手続きをした。内装業の傍ら趣味でパンクバンドを組む。常に線量計を持ち歩くなど、脱原発の思いは本物だが、これまで社会運動を担ってきた労組や団体を「プロ市民」とすると、「自分たちはアマチュア」と感じる。
 組織も動員もなく、告知はネットや口コミに頼る。参加者100人と届け出たが、ふたを開けると600人が集まった。予告ホームページの一つには、米ニューヨークの路上で人々が楽器を打ち鳴らすネットの映像がリンクされている。
 硬質な社会問題でも、お祭りのように楽しむノリ。東京で脱原発デモの先駆けとなった4月のデモは、高円寺のリサイクル店「素人の乱」が主催した。店長の松本哉(はじめ)さん(36)は就職氷河期に大学を出たロスジェネ世代だ。放置自転車の撤去に抗議する「オレの自転車を返せデモ」といった遊び心を入れた活動を仲間と続けてきた蓄積が生きた。企業や組合など従来型の組織からはみ出した存在だからこそ、自由なスタイルでデモができる。
 松本さんは、韓国やフランスなどに出かけ、連携を模索する。脱原発デモの映像をネットに流すと、台湾から同じようなデモをしたいと反応があった。米国でのデモも、学生や失業者がネットでつながり、ゲリラ的に活動している点に共感を抱いている。(西本秀)
http://digital.asahi.com/articles/TKY201110090392.htmlより

記事内容も、それなりに、デモの内容を伝えている。デモ参加者の声を出していることは貴重だ。

この「ドラムデモ」は、3.11以後の状況が作り出した、ある種の新しい政治文化だといえるであろう。「怒りのドラムデモ」と名付けられているが、まず、「怒り」を自分自身で「表現」することが最初の一歩なのだと思う。叩いているのはドラムではない。3.11を作り出したものすべてを叩くべきなのだ。直接的には、政府であり東電であるが、さらにいえば、そのような状況を作り出した自分自身も「叩き直す」必要があるのだ。そして、自らの生を拒んでいるのは原発だけではない。アラブ・イギリス・アメリカでの行動が示しているように、状況すべてなのだといえるのだ。

私の個人的な研究でいえば、「公共圏」における言説の場における葛藤を検討してきたのだが…今や、それに先行して、「怒り」の感情を自分自身で表現することが必要な時なのではないかと思う。まさに、直接的なメッセージではない、ドラムを打つことによって怒りを表現し、リズムをあわせることで、見も知らない人びとが調和し、結びつく。そして、自己を表現すること、それが共同性を喚起することで人びとは「楽しい」と感じる。一方通行ではない、個と全体との関係。それを今までめざして、戦後社会は存在したきたし、今後ともそれを求めていかねばならないだろう。

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