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さて、1923年の関東大震災において、被災者が自力で被災地にバラックー仮設建築物を建設したこと、そして、それが生活者としての被災者それぞれにとっての復興の開始であったことを述べてきた。当時の政府は、バラック建設を容認しただけではなく、用材供給という形で支援していたといえる。そして、帝都復興区画整理事業でも、減歩による道路・公共用地の確保という全体的な方針は維持しつつも、被災者が地域で再び生活することを考慮していたことを指摘した。

当時のバラックの景況について、震災・戦災について展示している東京都復興記念館が写真を展示している。ここであげておこう。実際に焼け跡のかなりの部分がバラックで埋め尽くされていたことがわかる。

震災直後のバラック(東京都復興記念館にて展示。2011年9月17日撮影)

震災直後のバラック(東京都復興記念館にて展示。2011年9月17日撮影)

1924年1月に、本建築建設も許可されるようになった。また、それ以降は、バラック建設も地方長官の許可制となった。しかし、区画整理が遅延しており、区画整理前に現実に本建築建設が認められることはきわめて少なかったと、田中傑の『帝都復興と生活空間』(2006年、東京大学出版会)は語っている。

結局、バラック建設に頼らざるを得なかった。バラック建設の着手は、1924年2月に延長された。さらに1924年8月には、区画整理の換地処分決定までバラック建設ができるようになった。そして、撤去期限も通常1933年8月となった。

そして、バラック自体も掘建小屋以上のものが建てられるようになった。そういう状況において、1925年1月に政府は「本建築以外ノ工作物築造物願処理方針」をだし、よりバラックについての規制を強めた。そこでは、換地処分が決まっている場合は換地予定地以外にはバラック建設は認めない、換地が決まっていない場合においては、煉瓦造、石造、鉄骨造、RC造以外で、建坪合計50坪以下もしくは建築延坪当たり平均単価120円を超えないという制限がかけられた。基本的に、換地処分以前においては、簡易に除去・移転できる構造で、建築費用も安価なものがバラックとして建築が認められたのである。

結果的に、バラックは約23万戸建設された。区画整理の障害になったそれらのバラックはどうなったのだろうか。撤去されてしまったのであろうか。撤去されたものもあるのだが…大半はそうではなかった。

大半のバラックは、区画整理による換地先に移転されたのである。これは、かなり大がかりなものであった。まず、軍の偵察機を借りて、復興事業を担当する復興局は、詳細な航空写真をとって、バラック移転計画を作成した。移転先も、また移転経路にもバラックが建設されていることが予想されるので、これは、大変な作業であった。そして、田中によると「多くの場合、バラックは部分的に除去して小さくした後、ジャッキアップし、轆を用いて換地先へ曳家された」(田中前掲書p165)としている。区画整理は、いずれにしても公共用地確保のために減歩するので、前の敷地において建設されたバラックは、小さくしないと移転できない。そこで、部分的にバラックを除去して小さくしてから、そのバラックを曳家して、移築するのである。

このような建物移転は、1927年から本格化し、最盛期の1928年8月には一日当たり500棟、合計1万5252坪の建物が移転したという。東京市では総計20万3485棟のバラックが移築された。戸と棟とは多少違いはあるが、まず大半のバラックは区画整理の換地先に移転されたのである。

バラック移築中、被災者は、国と東京市が用意した臨時収容家屋に住んだ。また、移転工事費・動産移転費・休業損失費など1坪当たり43円20銭が支給された。バラック建築費が120円以下と規定され、それに比べると被災者それぞれには家屋新築費にもならない金額であったが、移転したバラック建築面積が340万坪であり、総額では1億円かかった計算となった。当時の国家予算が約17億円弱であり、かなり大きな財政負担となったといえよう。

結局、区画整理事業で、街路は拡幅されたが、建てられた建築物の多くはバラックであったというのが、関東大震災の復興事業であったといえる。関東大震災は火災によって被害が拡大したのであるが、結局のところ、建物の不燃化率は、震災前よりも低下した。田中は「この間、建築物の不燃性能の点では、神田区、日本橋区、京橋区で1920年時点の棟数比で17~27%という水準から3~4%程度へと著しく低下した」(田中前掲書p116)と述べている。

バラックを改築して本建築にすることも進まなかった。そして、本建築といっても、木造建築物が多かったと思われる。次にあげるのは、現中央区築地に1930年に建設された商家である浜野家住宅である。

浜野家住宅(2011年1月15日撮影)

浜野家住宅(2011年1月15日撮影)

中央区のホームページでは、次のように紹介されている。

濱野家住宅
  区民有形文化財・建造物
  所在地:中央区築地七丁目10番8号
地図はこちら(電子マップ「ちゅうおうナビ」へ)

 濱野家は、海産物を扱う商家として、昭和5年現在地に建てられました。
 入口には、人見梁という背の高い梁がかけられ、軒は出桁造 という形式になっています。また、以前は、家に入ってすぐの場所が広い土間になっていて、鰹節 を入れた樽が山のように積まれていたといいます。
 濱野家住宅は東京の古い商家の造りを今に伝える貴重な建造物です。(内部非公開)
http://www.city.chuo.lg.jp/info/bunkazai/bunka002.html

つくりからみて、バラック建築とは思えない。本建築であろう。しかし、それでも、木造二階建てで、むしろ江戸的な家屋なのである。港区愛宕、中央区築地、中央区月島など、戦災をまぬがれた震災復興期の市街地は多少残っている(ただ、いまや再開発でほとんどが消滅していこうとしている)が、多くの建物は、銅版張りやモルタルで防火をしている建物はあるものの、それらを含めて、ほとんどが木造なのである。

このような震災復興のあり方は、防災上大きな課題を残した。ほとんどが木造家屋の町並みでは、空襲による戦災を免れえなかったのである。ある意味で、市街地の建築物のあり方は、バラックの移転などを認めるなど、被災者の生活を配慮したものであった。しかし、それは、将来の災害を防ぐという観点からは、問題をはらんでいた。それは、現在の津波被災地における、将来の防災のために住宅の高台移転を促進しようとする動きと、仮設店舗建設など早急に住民生活を再建させなくてはならないとする動きとの相克をある種先取りしていたとみることができる。

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前述のように、関東大震災後においは、焼け跡ー被災した市街地は、被災者が自力で建設したバラックー仮設建築物で埋め尽くされていた。このような中で、1924年より、帝都復興事業として、帝都復興区画整理が開始された。

帝都復興事業についての詳細は、別の機会について述べたい。ここでは、当初の計画が、帝国議会においてかなり予算が減額されたことを述べるにとどめておく。

帝都復興区画整理事業について、前回のブログで前述した田中傑の『帝都復興と生活空間』(2006年、東京大学出版会)が、最初に開始された第6区画整理地区(神田区駿河台)をもとにその特徴を述べている。この地区では15本の道路が新設され、8万坪の宅地より新たに1万坪が道路用地に編入されたが、用地買収は行われなかった。

区画整理は、地権者や住民がそれぞれ敷地を出しあい(減歩)、それを公共用地にあてるという仕組みであるので、用地買収をしなかったのは当然である。しかし、減歩される地権者や住民は反対した。そこで、帝都復興区画整理事業においては「価格換地の原則」が打ち出されていた。つまり、同じ面積の換地を与えるのではなく、同一価格の換地を与えるということである。そうしなければ、買収せずに新たな道路用地を捻出することはできないのである。この仕組みは、現在の区画整理にも受け継がれている。

しかし、田中傑は、実際の運用は違っていたと述べている。

…ところが実際の換地交付では、従前の所有地面積を勘案しての換地(面積換地)も行われた。それに加え、本来は換地を交付せずに金銭整理されるべき極小な土地に対しても換地をなるべく交付した。換地設計の原則から逸脱したこれらの措置は、住民が区画整理後も地区内に残ることができるように配慮した結果である。第6地区区画整理委員会の審議過程においても、地区内にあった開成中学校を地区外へと転出させたり、地区内の土地を買収して公共用地に充てる(潰地の充当)ことで減歩率を下げるなど、地権者の不満をかわすための措置がみられる。
 以上のように、区画整理の実施にあたっては事前に定めた換地設計の原則には必ずしも縛られておらず、居住者への臨機応変な配慮がなされていた。…(本書p162~163)

このように、現実には、公共用地を買収せず減歩で捻出するという区画整理の仕組みは守りつつ、地権者や住民の反対も念頭におきながら、住民が少しでも居住地に住むことができるように配慮して、帝都復興区画整理事業はなされたのである。

なお、参考のために『港区史』下巻(1960年)に掲載されている、「第25地区換地位置決定図」をここであげておく。ここは、現在の港区愛宕ー虎ノ門の南側、東京タワーの北側ーを中心とした地区である。黒く塗りつぶされた土地が減歩によってあらたに道路となったところである。

第25地区換地位置決定図(1926年)

第25地区換地位置決定図(1926年)

さて、この区画整理事業の実施にあたり、焼け跡に立ち並んでいたバラックー仮設建築物は、どのようになったのであろうか。これについては、次回以降のブログでみておこう。

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