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Archive for 2010年10月

蘭学事始地碑

蘭学事始地碑(2010年8月27日撮影)


慶応義塾発祥の地碑

慶応義塾発祥の地碑(2010年8月27日撮影)


近世後半から幕末にかけて、聖路加国際病院を中心としたこの地域には、豊前中津藩奥平家の中屋敷が所在するようになった。中津藩医だった前野良沢は、この地で杉田玄白らとオランダの解剖書を翻訳し、『解体新書』を1774年に編んだ。さらに、時代が下った1858年、中津藩の出身であった福沢諭吉は、この地で慶応義塾の前身の蘭学塾を開いた。今、聖路加国際病院南側の道には、「蘭学事始地」碑と「慶応義塾発祥の地碑」が並んでたっている。中津藩における洋学理解の伝統ということが前提にはなるが、ただ、この地においてこの二つの出来事があったということはおそらく偶然である。しかし、近代化=欧米化であった近現代の日本において、この二つの出来事は結びつけられ、近代化の源流としての意義をもたされるようになったといえよう

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浅野内匠頭邸跡プレート

浅野内匠頭邸跡プレート(2010年8月27日)


浅野内匠頭邸跡碑

浅野内匠頭邸跡碑(2010年8月27日撮影)


近世、築地・明石町界隈で多くの面積を占めていたのが武家地であった。これは、築地・明石町だけではなく、江戸ー東京全体の特徴である。例えば、丸の内が示すように、近代になって、不用になった武家地が多かったことが、東京の近代都市化の前提となったといえよう。武家地を、近代的な施設として読み替えることで、近代都市化が比較的に容易にすすめられたといえる。ここ明石町では、武家地が外国人居留地に読み替えられたのだ。聖路加国際病院敷地を元禄期まで遡ると、忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野内匠頭邸が所在していた。忠臣蔵とキリスト教系病院とはミスマッチに一見見えるかもしれない。しかし、このような近世都市構造の読み替えが、近代都市の前提となったのだ。

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聖路加ガーデン緑地

聖路加ガーデン緑地(2010年8月27日撮影)

聖路加国際病院の内外には、アメリカ公使館の石造物、トイスラー記念館の他、非常に多くの記念碑やプレートが所在している。そして、少なくとも聖路加国際病院敷地にあるものについては、聖路加国際病院と聖路加ガーデンの開発にともない、容積率獲得のために設けられたと思われる公開空地の中に点在している。実際、聖路加国際病院や聖路加ガーデンは、庭園化された緑地帯に囲まれており、町中とは思えない。さらに二階部分にも屋上庭園が造られている部分もある。そのような緑地帯の中にある記念物や記念碑を探すのは容易ではない。これらは、もちろん、「過去」とのつながりを保とうという意志に基づいて作られたといえるであろう。しかし、一方では、都市開発のデザイン上のオブジェとしても機能しているといえる。このような都市開発という「現在」の営為の中に「過去」を取り込むということは、聖路加だけではない。より大規模に、港区における森ビルの開発でみることができる。

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トイスラー記念館

トイスラー記念館(2010年8月27日撮影)


トイスラー記念碑

トイスラー記念碑(2010年8月27日撮影)


聖路加国際病院の宣教師館として1933年に建設。一見木造にみえるが、二階部分までは鉄筋コンクリートで、一部木造。1989年に解体され、1998年に移築復元された。現在の所在地は、聖路加国際病院旧館南側の緑地帯の中にある。聖路加国際病院の「過去」をイメージするオブジェとして機能しているといえよう。

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聖路加国際病院(旧館)

聖路加国際病院(旧館、2010年8月27日撮影)

聖路加国際病院は、築地居留地の中心を「継承」した施設といえる。この病院は、1900年に来日したアメリカ聖公会の宣教師兼医師ルドルフ・トイスラーが、ヘンリー・フォールズのツキジ・ホスピタル跡の病院施設を買い取り、1902年に聖路加病院として開業したのがはじまりである。1923年の関東大震災で病院は倒壊するが、仮設病院を建設して医療を継続し、皇室・アメリカ聖公会・アメリカ赤十字の寄付により、1933年病院を再建し、聖路加国際病院と改称した。1933年の再建の病院は、アントニン・レーモンドら3名のチェコ人建築家によって設計されたネオ・ゴシック様式の建物で、 創立者トイスラーの出身地であるボストンのマサチューセッツ総合病院をイメージしてデザインされたとのことである。この病院は、1943年に大東亜中央病院と改称された。1945年の東京大空襲を免れ(一説では、この病院があるために、築地・明石町は空襲を免れたと言われている)、敗戦後は聖路加国際病院にもどったが、占領期には占領軍に接収された。1992年には新館が建設されたが、旧館の歴史性が評価され、チャペルを含む主要部分を残した形で改築されたのである。築地居留地の「現在」をもっともよく現す施設といえる。

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聖路加ガーデンと聖路加国際病院の位置関係について確認しておこう。聖路加ガーデンは一番隅田川よりの場所で、北が聖路加タワー、南が東京新阪急ホテル築地。そのとなりの街路には聖路加国際病院新館が所在。なお、南側には、中央区立郷土天文館がある。画面では区立福祉センターとなっている(実際福祉センターもある)。新館のとなりの街路に聖路加国際病院の旧館があり、今は教会や聖路加看護大学として使われている。聖路加の敷地はかなり広く、隅田川から出発して旧館の街路の外側に行くと、築地居留地を出てしまうことになる。

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ヘンリー・フォールズ住居の跡

ヘンリー・フォールズ住居の跡(2010年8月27日撮影)

聖路加ガーデンには、多くの碑がある。「ヘンリー・フォールズ住居の
跡」の碑もその一つだ。ヘンリー・フォールズ(1843-1930)は、イギリスの長老教会派の宣教師兼医師として、1874-1886年の間、この地に住んだ。そして、居留地外ではあるが隣接した南小田原町(現築地)に、健康社(ツキジ・ホスピタル)という病院を開き、日本人相手に医療活動を行っていた。
彼が名を残したのは、個人識別に指紋が使えることを発見したことである。彼は、エドワード・モースと親しく、大森貝塚などの発掘に従事した。その際、縄文土器に残された古代人の指紋に興味をもち、指紋研究をはじめた。1880年、フォールズはダーウィンに論文を送り、結果的にはダーウィンの紹介でネーチャーにフォールズの論文が掲載されることになった。いろいろ問題があって、存命中には指紋の発見者という名誉は認められなかったが、今は認められるようになっている。
フォールズは、聖路加国際病院の間接的な祖でもある。彼が帰国後、荒廃していた病院施設を1900年に来日した医師兼宣教師のトイスラーが買い取って、聖路加国際病院は始まったのである。

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アメリカ公使館跡(聖路加ガーデン前)

2010年8月27日撮影


アメリカ公使館跡(聖路加国際病院前)

2010年8月27日撮影


築地居留地には1875年よりアメリカ公使館が麻布から移転し、1890年までこの地にあった。まさしく、現在の聖路加ガーデン所在地である。現在、アメリカ公使館の遺品として、星・盾・鷲など石造物が残されている。星と盾の石造物は聖路加ガーデンの隅田川沿いの敷地に、星・鷲・盾の石造物は、聖路加国際病院(旧館)前に残されている。アメリカ公使館は、聖路加ガーデンの南側に所在していたから、いずれにせよ以前の場所から移動されたと思われる。この石造物がどのように使われたはわからない。アメリカ合衆国を象徴することが目的であっただろう。
このように、過去の層の上に、現在の層が積み重なっていく。いわば、「過去」と「現在」の層位の露頭といえよう。

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明治神宮外拝殿

2010年10月23日撮影

本日、明治神宮国際神道文化研究所主催の「明治神宮造営をめぐる人々ー近代神社における環境形成の転換点」というシンポジウムに参加した。報告は、青井哲人 氏「明治神宮創建から復興までー神社建築設計の系譜」、畔上直樹 氏「明治神宮内苑造営と「その後」ー近代林学・造園学の「鎮守の森」論」、藤田大誠氏 「近代神苑の展開と明治神宮内外苑の造営ー「公共空間」としての神社境内」 で、コメンテーターは山口輝臣氏であった。なかなか興味深かった。
いわば、明治神宮はモダン(近代)の神社モデルとなったということが全体のコンセプトになる。青井報告は、明治神宮は、神社建築のスタンダートになったとし、伊東忠太の進化論にもとづく新様式創出論が後退して「最も普通な」流造が採用される一方で、祭祀における機能的な空間創出をめざして、社殿の複合化がなされていくと論じた。これだけ聞いているとよくわからないかもしれないが、実際、明治神宮をみていると、回廊に囲まれ、拝殿も外拝殿と内拝殿の二カ所あり、思った以上に複雑な建築である。青井氏の聞き取りによると、このほうが、神社祭祀に都合がよいそうである。
畔上報告は、もともと庭園学において、鎮守の森とは杉や檜などの針葉樹林をイメージしていたが、都市において針葉樹の枯死に直面したため、常緑広葉樹林に転換せざるをえなかった、それを前提に、まさに後付けの論理として、鎮守の森=常緑広葉樹林(極相林)のイメージが植え付けられたと論じていた。
藤田報告は、神社の神苑が神宮外苑の建設により、公園的な公共空間のイメージに転換したと(まとめていえば)述べていた。山口氏は、明治神宮がなぜ東京で建設され、しかもなぜ東京色を脱しなくてはならなかったか、また、神社を議論するためには信仰の問題を考えなくてはならないなどとコメントしていた。
畔上氏は、この明治神宮における神社イメージの転換には、近代化=西欧化という動きによるきしみが背景にあると述べていた。明治神宮については、「過去」の創造という意味でも、東京の「現在」を語る意味でも、重要な課題であり、山口氏の『明治神宮の出現』(吉川弘文館)、青井氏の『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館)、畔上氏の『「村の鎮守」と戦前日本』(有志舎)などを読んでから、このブログでも論じていきたい。

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築地駅入口

2010年10月16日撮影

築地駅の入口である。どこにでもありそうな風景だ。実際、築地にきても、全くここが地下鉄サリン事件の現場の一つであることは自分でもわからなかった。むしろ、初めてみた聖路加国際病院のほうに関心があり、この病院から築地駅はすぐ歩いていけると認識しただけだった。
聖路加国際病院のウィクペディアにおける記述を読み、この病院が地下鉄サリン事件被害者の救護にあたったことを知った。そして、築地駅に近接していることを想起した。そのことで築地駅が地下鉄サリン事件の現場であることを再認識した。
それから、また築地駅を再訪した。街路・駅をみていると、被害者が街路に転々と寝かされている光景が喚起されてきた。
そして、撮影した写真には歩道橋が写っている。この写真をみていると、そういえば街路に転々と寝かされている被害者を上から撮影したアングルが多かったことを想起した。そう、ようやく私にとっての地下鉄サリン事件の記憶がよみがえってきた。
かつて浅野内匠頭邸や築地居留地などが所在し、現在も浜離宮や築地市場が所在する築地には、あまり戦災を受けなかったこともあって、さまざまなものが保存・記念・慰霊され、記憶の場に満ちている。しかし、この地で地下鉄サリン事件の記憶を喚起することは容易ではない。記憶の場から排除された記憶ともいえるのか。

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