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画像左側は、石川島に建築された大川端リバーシティとよばれる超高層マンション群、右側は近世に造成された佃島である。この場所は、東京が新旧の建築が混在している町であることを端的に示している。(2010年10月6日撮影)

さて、現在進行形で熊本では大地震が続いている。九州などの西南日本は、関東・東北・北海道などの東北日本と比べ、相対的には地震が少なかったと言われている。しかし、歴史的には、大地震がないというわけではない。国立科学博物館のサイトでは、「熊本地震」と題され、次のように記述されている。

1889(明治22)年7月28日、熊本県西部を強い地震が襲いました。震源は熊本市の西、マグニチュードは6.3と推定されています。死者20名、建物の全潰239棟の被害がありました。この地震は地震学会が1880年に日本で発足してからはじめて都市を襲ったものとして調査が行われ、また、遠くドイツのポツダムの重力計に地震波が記録され、遠い地震の観測のきっかけとなったといわれています。ここに掲げた写真は、わが国の地震の被害を写したもっとも古いものかもしれません。http://www.kahaku.go.jp/research/db/science_engineering/namazu/index.html

このサイトによると、いろいろな意味で熊本地震は科学的地震調査の契機となったとされている。そして、被災した地域の写真も掲載されているが、その中には熊本城の石垣が崩れた写真が何枚かあげられている。このサイトによると、日本で最も古い地震被害の写真なのかもしれないとされている。

この熊本の地震については、ウィキペディアでも紹介されている。特に興味深いのは、この熊本城の被災の記録をあげているところだ。

『防災くまもと資料 恐怖におののいた明治22年の大地震』[2]によると、五野保萬(ごのやすま)は、日記で次のように記している。

7月28日。夜大地震の事。さて、夜11時30分に地震起こり、一時は家も倒れる如く揺れ出し、実に稀なる大地震にて恐怖甚だし。8月4日 今度の大地震の原因は飽田郡金峰山より発せんと、もっぱら風評の談、山噴火の籠り居る由。8月7日、今日も震動一度をなす。今に熊本及近傍の人民は、山鹿町諸方に逃げ、家財を運搬して、身の要心をなす。熊本より山鹿町迄運送する車力人力等の賃銭六円も取り、実に滅法の賃金。(中略)急迫の場合は、やむをえないこと右の如し。(中略)熊本城百閒石垣古より大変ありといえども少しも動くことなし。今度の震動に合う長さ五間余崩落、城内の大なる石垣所々崩れ、依って鎮台兵も城内を出て、山崎練兵場或いは、川尻付近に出張あり。城内には哨兵のみ残しあり。皆28日の震動には鎮台兵死人負傷人多くあり。周章狼狽硝子石垣より落、身を傷くもあり、丁度大砲の音ぞなしずば、又合戦発せしと驚き誤りて死傷せりとぞ。

五野保萬は明治元年(1868年、数え年15歳)から昭和5年(1930年)に77歳で逝去するまで日記を残した。五野家は熊本県菊水町(現:和水町)にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9C%B0%E9%9C%87_(1889%E5%B9%B4)

熊本城は西南戦争における激戦地の一つであり、その後も軍隊が駐屯していた。この熊本城が地震によって被災したが、単に地震被害だけではなく、戦争の記憶がよみがえり、そのための誤認攻撃もあって、駐屯していた軍隊に死傷者が出たというのである。

今回の地震は、1889年の地震よりもかなり大きい。しかし、100年程度のスパンで考えると、城の石垣が崩れるような地震は熊本ではないことではないのである。

このようなことは、かなり時代をさかのぼっても見ることができる。古代史研究者の保立道久は自著『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)の内容を紹介する「火山地震103熊本地震と中央構造線ーー9世紀地震史からみる」という記事をネットであげている。保立は、いわゆる東日本大震災と同等の規模だったとされる貞観地震(869年)は、大和などの地震と共に、肥後(熊本県)の地震を誘発したとsて、次のように指摘している。

 

より大きな誘発地震は、陸奥沖海溝地震の約二月後の七月一四日、肥後国で発生した地震と津波であった。その史料を下記にかかげる。 

 この日、肥後国、大風雨。瓦を飛ばし、樹を抜く。官舍・民居、顛倒(てんとう)するもの多し。人畜の圧死すること、勝げて計ふべからず。潮水、漲ぎり溢ふれ、六郡を漂沒す。水退ぞくの後、官物を捜り摭(ひろ)ふに、十に五六を失ふ。海より山に至る。其間の田園、数百里、陷ちて海となる。(『三代実録』貞観一一年七月一四日条)

 簡単に現代語訳しておくと、「この日、肥後国では台風が瓦を飛ばし、樹木を抜き折る猛威をふるった。官舎も民屋も倒れたものが多い。それによって人や家畜が圧死することは数え切れないほどであった。海や川が漲り溢れてきて、海よりの六郡(玉名・飽田・宇土・益城・八代・葦北)が水没してしまった。水が引いた後に、官庫の稲を検査したところ、半分以上が失われていた。海から山まで、その間の田園、数百里が沈んで海となった」(数百里の「里」は条里制の里。六町四方の格子状の区画を意味する)ということになろうか。問題は、これまで、この史料には「大風雨」とのみあるため、宇佐美龍夫の『被害地震総覧』が地震であることを疑問とし、同書に依拠した『理科年表』でも被害地震としては数えていないことである。

 しかし、この年の年末にだされた伊勢神宮などへの願文に「肥後国に地震・風水のありて、舍宅、ことごとく仆顛(たおれくつがえれ)り。人民、多く流亡したり。かくのごときの災ひ、古来、いまだ聞かずと、故老なども申と言上したり」とあったことはすでに紹介した通りで、相当の規模の肥後地震があったことは確実である。津波も襲ったに違いない。これまでこの史料が地震学者の目から逃れていたため、マグニチュードはまだ推定されていないが、聖武天皇の時代の七四四年(天平一六)の肥後国地震と同規模とすると、七.〇ほどの大地震となる。ただ、この地震は巨大な台風と重なったもので、台風は海面にかかる気圧を変化させ、高潮をおこすから被害は大きくなる。それ故にこのマグニチュードはあくまでも試論の域をでないが、それにしても、一〇〇年の間をおいて二回も相当規模の地震にやられるというのは、この時代の肥後国はふんだりけったりであった。
http://blogos.com/article/172078/?p=2

この保立の指摘については、いわゆる貞観地震が肥後国地震を誘発したのかなど、まだ検討すべき課題が残っているように思われる。ただ、保立の主張に従うならば、8世紀と9世紀、ほぼ100年間隔で熊本地方は大地震に見舞われたことになる。

よく、地震を引き起こす断層については、少なくとも数百年もしくは数千年単位でしか動かないとされる。多分、断層の一つ一つはそうなのだろう。しかし、断層が多く集中する地域ではどうなのだろうか。熊本地方は、日本最大の断層帯である中央構造線が通っているとされている。個々の断層が別々に地震を引き起こしたとしても、それぞれの断層が地震を発生する周期よりも短い間隔で地震は起きてしまうだろう。さらに、実際、今回の熊本地震がそうであるように、隣接した断層の地震を誘発する場合もあろう。

このように、100年を超えたスパンで考えるならば、熊本での地震はないことではなかったのだ。そして、それは、熊本など中央構造線に限らず、多くの断層帯があり、その断層の活動によっても形成された日本列島に所在している社会にとって、地震は逃れ得ない問題なのである。

2016年4月18日現在、九州の熊本地方に地震が襲っている。4月14日夜、マグニチュード6.5、最大震度7の地震が起こり、16日未明にはマグニチュード7.3、最大震度6強の地震が発生した。16日以後、震源域は東側の阿蘇地方・大分地方にも拡大しつつ、最大震度6・5クラスの地震が相続いている。最大震度5以上の地震は4月14日に3回、15日に2回、16日に9回発生した。17日に大きな地震はなかったが、4月18日の夜、本記事を書こうとした際、最大震度5強の地震が発生したという報道に接した。

この地震については、地震の専門家である気象庁が「観測上例がない」と困惑を見せている。次の毎日新聞のネット配信記事を見てほしい。

<熊本地震>気象庁課長 観測史上、例がない事象を示唆
毎日新聞 4月16日(土)11時21分配信

<熊本地震>気象庁課長 観測史上、例がない事象を示唆

 ◇熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象に

 気象庁の青木元(げん)地震津波監視課長は16日午前の記者会見で、熊本、阿蘇、大分へと北東方面に拡大していく地震現象について「広域的に続けて起きるようなことは思い浮かばない」と述べ、観測史上、例がない事象である可能性を示唆。「今後の(地震)活動の推移は、少し分からないことがある」と戸惑いを見せた。

 また、14日の最大震度7の地震を「前震」と捉えられなかったことについて、「ある地震が発生した時に、さらに大きな地震が発生するかどうかを予測するのは、一般的に困難だ」と述べた。

 熊本地方などを含む九州北部一帯は低気圧や前線の影響で、早い所で16日夕方ごろから雨が降り始め、16日夜から17日明け方にかけては広い範囲で大雨が予想されている。青木課長は「揺れが強かった地域は土砂災害の危険が高い。さらに雨で(地盤が)弱くなっている可能性があるので注意をしてほしい」と呼びかけた。【円谷美晶】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160416-00000052-mai-soci

気象庁に言わせれば「観測史上例がないこと」なのだろう。しかし、本当に未曾有のことなのだろうか。熊本地震の報道に接しながら、地震学者石橋克彦著の『大地動乱の時代』(岩波新書、2014年)を想起した。本書の冒頭部分は「幕末ー二つの動乱」と題されている。嘉永6年(1853)にペリーの黒船艦隊が来航し、それ以来、日本は幕末の動乱を迎えていくことになる。石橋によると、この時期は日本列島で地震活動が盛んになった時期でもあった。ペリー来航より少し前の嘉永6年2月2日(1853)、マグニチュード7の「嘉永小田原地震」が発生した。
 
翌嘉永7年(1854)にペリーは再来航し、日米和親条約が締結される。この年の6月15日に、伊賀上野・四日市・笠置山地でマグニチュード7.2、6.7、6.8の地震が相次いで発生し、桑名から京都・大阪までの広い範囲で震度5以上の揺れとなり、1000人以上が死亡したという。11月4日には、駿河ー南海トラフを震源としたマグニチュード8.4の「安政東海地震」が発生した。東海地方の多くの地域が震度6以上の揺れとなり、さらに伊豆半島から熊野灘まで海岸に津波が襲来した。場所によっては津波は10m以上に達したという。
 
 そして、「安政東海地震」発生の約30時間後の11月5日、紀伊半島・四国沖の南海トラフを震源とするマグニチュード8.4の「安政南海地震」が発生した。紀伊半島南部と四国南部は震度6以上の揺れに見舞われ、伊豆半島から九州までの沿岸には津波が襲来した。大阪にも津波は及んだのである。そして、黒船来航、御所焼失とこれらの一連の地震を考慮して、11月27日に年号は「安政」に改元されたのである。

しかし、改元されても、地震は止まなかった。安政2年10月2日(1855)、安政江戸地震が発生した。マグニチュードは6.9であったが、都市直下型地震であったため、江戸市中を中心に震度6以上の揺れになった。火事も発生し、1万人以上が死んだとされている。そして、これらの地震活動は、石橋によると1923年の関東大震災にまで継続していったとされている。

このように、3年あまりの間で、日本列島は5回もの大地震に遭遇したのである。石橋は次のようにいっている。

江戸時代末の嘉永6年(1853)、日本列島の地上と地下で二つの激しい動乱が口火を切った。二つの激動は時間スケールこそ多少ちがっていたが、ともに、そのご十数年から数十年のあいだに日本の歴史を左右することになる。(石橋前掲書p4)

確かに、このような短い時期に大地震が集中したのは希有のことだっただろう。しかし、日本列島で、大地震が連続して発生することは未曾有のことではないと歴史的に言える。

石橋は次のように指摘している。

黒船に開国を迫られた幕末の動乱期、関東・東海地方の大地の底では、もう一つの「動乱の時代」が始まっていた。嘉永小田原地震を皮切りに、東海・南海巨大地震がつづき、安政大地震が江戸を直撃する。そして、明治・大正の地震活動期をへて、ついに大正12年の関東巨大地震にいたる。
 それから71年。東京は戦災の焦土の中から不死鳥のごとくに蘇り、日本の高度経済成長と人類史上まれにみる急速な技術革新の波に乗って、超過密の世界都市に変貌した。しかし、この時期は、幸か不幸か、大正関東地震によって必然的にもたらされた首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)にピタリと一致していた。敗戦による「第二の開国」のあと日本は繁栄を謳歌しているが、首都圏は大地震の洗礼を受けることなく、震災にたいする脆弱性を極限近くまで高めてしまったのである(石橋前掲書p1)

日本の戦後復興・高度経済成長・技術革新の時代は、石橋によれば首都圏の「大地の平和の時代」(地震活動静穏期)でもあった。「技術革新」の中には、地震科学の発展も含まれるであろう。気象庁などによる精緻化された「地震科学」は、「大地の平和の時代」における経験の産物なのであり、幕末のような「大地動乱の時代」にはそのままの形では対応しきれないのではなかろうか。

『大地動乱の時代』出版の翌年である1995年に阪神淡路大震災が発生した。2011年には東日本大震災が起きた。これ以外にも様々な地震が起きている。そして、今回の熊本地震の発生である。「大地動乱の時代」の再来を意識せざるをえない。そして、とにかく確認しなくてはならないことは、日本列島に住むということは、現状の科学で把握できるか否かは別として、このような地震の発生を覚悟しておかねばならないということである。

前のブログで、足尾鉱毒によって山林も含めて荒廃し廃村に追いやられた旧松木村の現況について紹介した。この足尾鉱毒による山林の荒廃について、公害研究者である宇井純は1970年11月16日の自主講座公害原論(宇井純『合本公害原論』、亜紀書房、1988年)で、足尾鉱毒事件の概要を述べた後、「足尾の鉱毒事件は決して過去ではない。足尾は現に鉱毒を流しています」とし、1970年当時の足尾の山林荒廃について話した。足尾の鉱毒が流失している最大の原因は山林の荒廃であると宇井純はいう。彼は、このように言っている

 

 ところが足尾の山では何十年かかって、この木を全部枯らしたのですから、土はどんどん雨の中に出てきまして結局ハダカと変らない。ここへ亜硫酸ガスが降りそそぎ酸化されて硫酸の雨になる。この中には砒素も含まれています。そうするとタネをまいたぐらいでは草も生えないのですね。いま、一生懸命植生板という堆肥の板のなかにタネを埋め込んだものを張りつけます。これは実に骨の折れる作業です。しかし、ちょっと根がついても、それはそのまま草木として安定せずにまた次の雨で洗い流される。
 それから芽の出た草は亜硫酸ガスで枯れてしまいます。そうすると、持って上って張りつけただけですからいずれは川へ出る。銅も少しずつ流れ出る。砒素やなんかが山の肌にぶちまけられていますから苔も生えない。

そのようになった足尾の山々について、宇井純は次のように叙述している。

 

 生物がまったくいない山というものはこんなに不安定なものかということを、足尾に行くと感じますね。冬になりますと、岩の破目に水がしみこみまして凍ります。そうしますと凍った時の膨張で岩はどんどん割れていきます。
 生物が発生する前の地球というのはこんなふうにして山がけずられ風化していった。その何億年か前、陸上の植物が発生する前の地球の風化のしかたを足尾ではみることができます。そうな利ますと割合風化というものは早いものですね。ずい分硬い石ですけれども、どんどんヒビが入ってガラガラ崩れていきます。

宇井純によると、荒廃した足尾の山々は、陸上が植物に覆われていない、生物発生前の地球を彷彿させるという。このような中、砂防ダムを設置したり、斜面に網をかけて土砂流出を喰い止め用としたりすることも効果はないとされる。宇井純は「現代の技術が自然に対していかに無力であるかという実例を見るのには、足尾にいくのが一番いいと思います。私も土木屋のはしくれですけれど、できないものはできないと答えるほかはないのです」と述べている。

足尾銅山の鉱山部門は1973年に閉山され、煙害の現況の一つである足尾製錬所は1978年に比較的煙害が出ない自溶製錬法に転換、1989年には製錬所自体が事実上閉鎖された。足尾製錬所近くにある龍蔵寺の住職は「境内に草が生えるとは、夢にも思わなかった。草木が育つようになったのは自溶製錬になって亜硫酸ガスが減ってきてからです」(布川了『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』改訂版、随想舎、2009年)と語っている。現在、足尾製錬所周辺も含めて、表土のある箇所では草ぐらいは生えている。しかし、基盤岩が露出しているところは草も生えない。そして、露出している岩自体が銅鉱石であって、そこから鉱毒が流失している恐れもあるのだ。

荒廃した足尾の山林(2016年2016年2月27日)

荒廃した足尾の山林(2016年2016年2月27日)

さらに、廃棄物を捨てた堆積場も植生を破壊した。宇井純は次のように言っている

 

 それから天狗沢とか原とかこういった古い選鉱の捨て方をみますと、山のてっぺんに索道を使って、てっぺんからバケツをひっくり返すようなかたちでどんどん投げ捨てていきます。これは山の斜面を覆ってやはり完全に植生―山に生えている木や草をこわしてしまいます。これもどうにもならないのですね。大体ケーブルで持っていくようなところですから、人間が行けるような楽なところではなくて、一辺ぶちまけたものをシャベルでいちいちすくってなんてということはとてもできないのです。

この状況も、松木堆積場に行けば理解できる。確かに廃棄物を山の上に運搬し、斜面にぶちまけるというやり方でないと、堆積場の景観はできないのだ。そして、そのようなことをすれば、斜面全体が砂漠のようになり、植生が破壊されることになるのである。

松木堆積場(2016年2月27日)

松木堆積場(2016年2月27日)

単に乱伐で山林がなくなっただけでなく、煙害によって草すらも生えることが許されなかった足尾の山々。それこそ、生物発生前の地球の景観への「回帰」であり、生物がいなくなった後の地球を「幻視」させるものであったといえる。そして、これは、自然の「摂理」などではなく、人間の「作為」でもたらされた「黙示録」なのである。人間の作為によって壊された「環境」は、人間の技術で速やかに回復できるものではないのである。足尾の山々が元のような山林に回復するには1000年はかかるだろうと言われている。そして、このようなことは、足尾で終わったわけでない。水俣でも福島でも繰り返されている。100年以上前に足尾であったことは、今の問題なのである。

2016年2月16日、足尾銅山の上流にあり、鉱毒で1902年に廃村された旧松木村を訪問した。明治期の足尾鉱毒で廃村になった村としては、渡良瀬川の下流にあり、鉱毒沈殿池とされた旧谷中村が有名であるが、旧松木村をはじめとした渡良瀬川上流部の地域も著しく荒廃した。そもそも、足尾銅山の坑木などに使うために周辺の山林は乱伐され、沢などには廃鉱などの廃棄物の堆積場が数多く造成された。さらに、足尾製錬所による亜硫酸ガスなどの煙害によって、より広範な地域の山林が枯死していった。足尾周辺の山々は、山林が枯れていったことによって保水力を失い、渡良瀬川はたびたび大洪水を起こすことになっていく。そして、堆積場からは大量に鉱毒が流出し、渡良瀬川の中・下流域を汚染していった。足尾銅山周辺こそ、足尾鉱毒の源なのである。

まずは、旧足尾製錬所の写真を掲載しておく。そもそも、足尾製錬所の煙突はかなり低く、製錬所のばい煙は山中を漂わざるをえなかった。足尾鉱毒の反省もあって、日立銅山では高い山の頂上に高煙突を作って、煙を上空で拡散させるという方法をとって効果が上がったのだが、足尾ではそのような改良もなされなかったのである。

旧足尾製錬所(2016年2月27日撮影)

旧足尾製錬所(2016年2月27日撮影)

次に1953年の煙害区域図を示しておく(布川了『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』改訂版、随想舎、2009年より)。渡良瀬川最上流部は「植物育成不能」「森林経営不可能」とされていたのである。

煙害区域図(1953年版)

煙害区域図(1953年版)

足尾銅山における採鉱は1973年に終わった。足尾製錬所の煙害も1978年に製錬方法が自溶製錬法に改善され、1989年には製錬自体が事実上停止された。足尾製錬所近傍にある龍蔵寺の住職は「境内に草が生えるとは、夢にも思わなかった。草木が育つようになったのは自溶製錬になって、亜硫酸ガスが減ってきてからです」(布川前掲書)と語っている。この時期以来、ようやく、足尾でも草木が育つようになったとされている。

実際、すでに煙害はなくなったので、多少なりとも草木は育っているようだ。緑化作業も行われている。しかし、何よりも困難なことは、緑化以前に長年の荒廃によって表土が失われ、斜面が著しく侵食されているということである。下記の写真の上部では、段々畑のように階段状に土留めがなされ、そこに植林などの緑化作業がなされている。しかし、下部では基盤岩がむき出しになっており、そういうところでは木はおろか草も根をおろすことはできない。いくら上部を土留めによって植林しても、下部が風化によって侵食されれば、いずれは斜面全体が崩壊していくことになろう。

足尾周辺の山々の緑化と斜面崩壊(2016年2月27日)

足尾周辺の山々の緑化と斜面崩壊(2016年2月27日)

工事広告板には工事前と工事後の写真が掲載されているが、ほとんど景観が変わっていない。つまりは、毎回同様の作業を繰り返さざるをえないのだ。

工事広告板(2016年2月27日)工事広告板(2016年2月27日)[/caption]

1955年には砂防ダムとして足尾ダムが建設された。作られて30年間は水面が広がっていたというが、荒廃した上流部から土砂・岩石が流失し、それらによって埋め尽くされてしまった。現在、その土砂を砂利として再利用している。

足尾ダム(2016年2月27日)

足尾ダム(2016年2月27日)

足尾ダム上部(2016年2月27日)

足尾ダム上部(2016年2月27日)

砂利選別場(2016年2月27日)

砂利選別場(2016年2月27日)

旧松木村の中に入っているみると、公共事業としての緑化作業だけでなく、さまざまな団体・学校などによるボランティア活動としての植林を随所で見かけることができる。しかし、概して、よく育っていない。もともと、気候・地質があっていないのではないかと思われる。さらに、シカの食害もある。植林された箇所は、基本的に柵などで覆われていた。

植林(2016年2月27日)

植林(2016年2月27日)

実際、シカを見かけた。人や車が近寄っても遠くまで逃げない。ニホンザルも見かけた。シカの駆除日が公示されていた。シカの食害は日本全域で深刻である。しかし、ここ足尾に限っては、足尾銅山による環境破壊のほうがはるかに深刻で、シカの食害は、その結果もたらされた副次的なものに過ぎないのではなかろうか。そして、駆除も問題をはらむ。この地域は2011年の福島第一原発事故により放射能汚染されており、シカにも蓄積されている。駆除されたシカを安易に食べることもできないのである。

ニホンジカ(2016年2月27日)

ニホンジカ(2016年2月27日)

ニホンザル(2016年2月27日)

ニホンザル(2016年2月27日)

シカ駆除日の公示(2016年2月27日)

シカ駆除日の公示(2016年2月27日)

やや上流部に行くと、松木堆積場が見えてくる。松木村廃村後の1912年から1960年までの間、製錬所のカラミを廃棄し続けたところで、文字どおり、山全体に廃棄物が遺棄されている。近寄ってみると、黒い砂でしかなく、とても植物が生えそうもない。砂漠にしか見えないのだ。これでも、土木工事用に搬出されて往時の面影は薄れているようなのだが。近くには、旧松木村民の墓標が立っていた。

松木堆積場と旧松木村民の墓標(2016年2月27日)

松木堆積場と旧松木村民の墓標(2016年2月27日)

松木堆積場(2016年2月27日)

松木堆積場(2016年2月27日)

足尾周辺にはこのような堆積場が十数箇所あり、松木堆積場は大きい方だが最大というわけでもない。このような堆積場では、雨が降ると、大量の鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、下流の地域を汚染したのである。

上流に行くと、基盤岩が露出していて、何も着手していないように見える山腹が広がっていた。基盤岩の割れ目に草木が生えている。下に道路のないところはそうなっているところが多い。それでも、表土が残っていたと考えられるところは草や潅木が生えている。

基盤岩が露出している山腹(2016年2月27日)

基盤岩が露出している山腹(2016年2月27日)

皮肉なことに、谷の下で、比較的平坦で、廃村以前には農地や宅地などとして人が使用していた形跡があるところのほうが、木や草が生え、緑化が早かったように見える。下の写真はそういうところを写した。この祠は、文化9年(1812年)3月に建造されたと刻まれている。以前、この地がどのように使われていたかはわからないが、比較的平らになっており、山腹のように近づくことも困難というわけではない。周辺には表土がまだ残っているようで、草が生え、潅木なども生え出している。植林にしても、このような地の方が、一応林を形成するにいたっているようだ。

旧松木村の祠と生え出した草木(2016年2月27日)

旧松木村の祠と生え出した草木(2016年2月27日)

どの本だったかは忘れてしまったが、この足尾の山野を、陸上植物が上陸した古生代以前の地球の陸地にたとえている文章を読んだことがある。植物に覆われていない大地には基盤岩が露出し、風雨や太陽熱などの風化に直接にさらされていた。煙害のため、植物が生えることのできなかった足尾の山野は、同様のところであった。このような陸地に、植物は長い時間をかけて上陸していった。足尾の場合、まさかそれほどのことではなかろうが、富士山・浅間山・三原山などの火山から流れ出した溶岩地域に森が形成されるくらいの時間はかかるのではなかろうか。

比較的平坦なところに、アセビが群生していた。このアセビは、シカなどの草食動物が有毒のため食べない木で、シカが群生している奈良公園に多いそうである。足尾もそうなるのではなかろうか。

旧松木村のアセビ(2016年2月27日)

旧松木村のアセビ(2016年2月27日)

ここまで荒廃してしまった旧松木村を元に戻す術はない。治山・治水にせよ、緑化にせよ、人間の思うようにはいかないだろう。治山・治水、緑化、シカの駆除、さまざまな「自然回復」作業が現在なされ、それなりの事業となっている。しかし、文字通りの「シーシュポス」の神話になっているといえないだろうか。そういうことが無駄だというのではなく、これ以上の災害を防ぐためにも、「自然回復」作業は必要である。とはいえ、風雨によって表土が流失し、岩壁が崩れ、川が土砂で埋まるという風化・堆積作用や、そして、苦労して植えた木々をシカが食べるというのも、まさに「自然」の摂理であろう。田中正造的にいえば、その流れに寄り添うことが必要なのではなかろうか。

そして、このような結果をもたらしたのは、古河財閥が経営した足尾銅山なのである。そのことを忘れてはならないのだ。

    前回のブログでは、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』の全体テーマについて紹介した。ここでは、『沈黙の春』を読んでみて気づいたことを述べていこう。

    あまり言及されていないが、『沈黙の春』における農薬などの化学薬品についての印象は、核戦争における放射性物質についてのそれを下敷きにしているところがある。例えば、レイチェルは

    汚染といえば放射能を考えるが、化学薬品は、放射能にまさるとも劣らぬ禍いをもたらし、万象そのものー生命の核そのものを変えようとしている。核実験で空中にまいあがったストロンチウム90は、やがて雨やほこりにまじって降下し、土壌に入りこみ、草や穀物に付着し、そのうち人体の骨に入りこんで、その人間が死ぬまでついてまわる。だが、化学薬品もそれに劣らぬ禍いをもたらすのだ。畑、森林、庭園にまきちらされた化学薬品は、放射能と同じようにいつまでも消え去らず、やがて生物の体内に入って、中毒と死の連鎖をひき起していく。(本書pp22-23)

    核戦争が起れば、人類は破滅の憂目にあうだろう。だが、いますでに私たちのまわりは、信じられないくらいおそろしい物質で汚染している。化学薬品スプレーもまた、核兵器とならぶ現代の重大な問題と言わなくてはならない。植物、動物の組織のなかに、有害な物質が蓄積されていき、やがては生殖細胞をつきやぶって、まさに遺伝をつかさどる部分を破壊し、変化させる。未来の世界の姿はひとえにこの部分にかかっているというのに。(本書p25)

    と、言っている。レイチェルにとっては、放射性物質も化学薬品も、自然を破壊する、人間の手に入れた「新しい力」なのである。彼女は、化学薬品による白血病の発症について広島の原爆の被爆者の問題から説き起こし、急性症状による死亡者についても第五福竜丸事件で死亡した久保山愛吉を想起している。

    彼女によれば、合成化学薬品工業の勃興は、核兵器と同様に、第二次世界大戦のおとし子だと言っている。次の文章を紹介しておきたい。

     

    なぜまた、こんなことになったのか。合成化学薬品工業が急速に発達してきたためである。それは、第二次世界大戦のおとし子だった。化学戦の研究を進めているうちに、殺虫力のあるさまざまな化学薬品が発明された。でも、偶然わかったわけではなかった。もともと人間を殺そうと、いろいろな昆虫がひろく実験台に使われたためだった。
     こうして生まれたのが、合成殺虫剤で、戦争は終ったが、跡をたつことなく、新しい薬品がつくり出されてきた。(本書pp33-34)

    このような、農薬などの化学薬品による「殲滅戦」について、「私たち現代の世界観では、スプレー・ガンを手にした人間は絶対なのだ。邪魔することは許されない。昆虫駆除大運動のまきぞえをくうものは、コマドリ、キジ、アライグマ、猫、家畜でも差別なく、雨あられと殺虫剤の毒はふりそそぐ。だれも反対することはまかりならぬ」(本書p106)と彼女は述べている。そして、「私たち人間に不都合なもの、うるさいものがあると、すぐ《みな殺し》という手段に訴えるーこういう風潮がふえるにつれ、鳥たちはただまきぞえを食うだけでなく、しだいに毒の攻撃の矢面に立ちだした。」(本書p108)と指摘し、「空を飛ぶ鳥の姿が消えてしまってもよい、たとえ不毛の世界となっても、虫のいない世界こそいちばんいいと、みんなに相談もなく殺虫剤スプレーをきめた者はだれか、そうきめる権利はだれにあるのか。いま一時的にみんなの権利を代行している官庁の決定なのだ。」(本書p149)と、彼女は嘆いている。

    この「みな殺し」=ジェノサイドこそ、農薬大規模散布の根幹をなす思想ということができよう。「不都合とされた」害虫・雑草(ある場合は害鳥)は根絶しなくてはならず、そのためには、無関係なものをまきぞえにしてもかまわないーこれは、合成化学薬品工業の源流にある「化学戦」においても、無差別空襲においても、ユダヤ人絶滅計画においても、核戦争においても、それらの底流に流れている発想である。これらのジェノサイドは、科学・技術・産業の発展によって可能になったのである。まさに、二度の世界大戦を経験した20世紀だからこそ生まれた思想である。そのように、大規模農薬散布による生態系の破壊と、核兵器は、科学・技術・産業の発展を前提としたジェノサイドの思想を内包しているという点で共通性があるといえよう。レイチェル・カーソンが、農薬などの化学薬品の比較基準として「核兵器」を想定したことは、そのような意味を持っているのである。

最近、必要があって、環境関係の書籍を乱読している。その中で、最も感銘深かったのは、原著が1962年に出版されたレイチェル・カーソンの『沈黙の春』(青木簗一訳、新潮社、2001年)であった。レイチェル・カーソンは、本書執筆中に癌を発病し、1964年に亡くなっているので、事実上彼女の遺著でもある。

『沈黙の春』の内容について、ごく簡単にまとめれば、第二次世界大戦後において顕著となった、DDTなどをはじめとした殺虫剤・除草剤などの農薬を飛行機などを利用して大規模に散布することについて、それは、ターゲットとなった害虫や雑草だけでなく、無関係な昆虫・魚類・哺乳類・鳥類・魚類・甲殻類や一般の植物をも「みな殺し」にして生態系を破壊するものであり、その影響は人間の身体にも及ぶのであって、他方で、ターゲットとなった害虫や雑草を根絶することはできないと指摘しているものである。よく、『沈黙の春』について農薬全面禁止など「反科学技術的」な主張をしたものといわれることがあるが、カーソン自身が「害虫などたいしたことはない、昆虫防除の必要などない、と言うつもりはない。私がむしろ言いたいのは、コントロールは、現実から遊離してはならない、ということ。そして、昆虫といっしょに私たちも滅んでしまうような、そんな愚かなことはやめよーこう私は言いたいのだ。」(本書p26)、「化学合成殺虫剤の使用は厳禁だ、などと言うつもりはない。毒のある、生物学的に悪影響を及ぼす化学薬品を、だれそれかまわずやたら使わせているのはよくない、と言いたいのだ。」(本書p30)というように、殺虫剤一般の使用を禁止してはいない。彼女は、農薬散布よりも効果ある方法として、害虫に寄生・捕食する生物の導入や、放射線・化学薬品その他で不妊化した昆虫を放つことなどを提唱しているが、それらもまた科学技術の産物である。

このように、彼女の主張は「科学」的なものである。ただ、一方で、倫理的なものでもある。彼女は、マメコガネ根絶のために行われたアメリカ・イリノイ州などでの農薬散布について叙述し、次のように言っている

 

イリノイ州東部のスプレーのような出来事は、自然科学だけではなく、また道徳の問題を提起している。文明国といわれながら、生命ある、自然に向って残忍な戦いをいどむ。でも自分自身はきずつかずにすむだろうか。文明国と呼ばれる権利を失わずにすむだろうか。
 イリノイ州で使った殺虫剤は、相手かまわずみな殺しにする。ある一種類だけを殺したいと思っても、不可能なのである。だが、なぜまたこうした殺虫剤を使うのかといえば、よくきくから、劇薬だからなのである。これにふれる生物は、ことごとく中毒してしまう。飼猫、牛、野原のウサギ、空高くまいあがり、さえずるハマヒバリ、などみんな。でも、いったいこの動物のうちどれが私たちに害をあたえるというのだろうか。むしろ、こうした動物たちがいればこそ、私たちの生活は豊かになる。だが、人間がかれらにむくいるものは死だ。苦しみぬかせたあげく、殺す。…生命あるものをこんなにひどい目にあわす行為を黙認しておきながら、人間として胸の張れるものはどこにいるのであろう?(本書pp120-121)

本書では、それぞれの農薬、そして、それらが大規模に散布された結果としての生態系の破壊、さらには、散布された農薬が人間の身体を害し、遺伝的な影響を与えていくことが科学的に叙述されている。そして、その科学を前提にして、このような問題を放置していてよいのだろうかという、倫理的な課題が提起されている。多くの生物は、結果まで考えて生きているわけではない。人間は、ある種の結果を想定して行為することによって生きている。自らの営為による生態系の破壊、人類の破滅が科学的に想定された場合、それを避けるということは、人間の倫理的な責任ということができよう。その意味で、本書は、一般化するならば、科学を追求した結果として人間の倫理的な問題が問われていくことを示した書といえるのである。

最近、日本において国民国家批判を提唱した故西川長夫の晩年の著作を読んでいる。晩年の西川は、「植民地主義」という言葉をキーワードにして現代世界を考察していた。その一つが『〈新〉植民地主義』(平凡社、2006年)である。この中で、西川は、9.11の映像を見て、「平和研究」で著名なヨハン・ガルトゥング(安倍晋三とは全く違う意味で「積極的平和主義を提唱した)の次の文章を想起したと回想している。

しかしながら、ますます相互依存が深まる世界にあって、他国で行使される暴力が、たとえばテロ行為という形で、自国にもたらされる傾向は強まるであろう。そしてそのことは、搾取と抑圧という構造的暴力の二つの基本形態にもあてはまる。自然を搾取すれば、生態系が破壊される。人々を搾取すれば、アル中や麻薬、犯罪、自殺などの深刻な社会的病が発生する。国全体を搾取すれば、債務問題や貿易問題が起こってくる。そこには宿命的なものがある。「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」(「まえがき」、『構造的暴力と平和』日本語版、中央大学出版部、1991年)

西川長夫によれば、この文章は東欧とソ連の崩壊直後に書かれたもの(1990年代初頭だろう)だということだが、西川は次のように指摘している。

いまでは9・11の予告のように思えます。だが、同時にこの文章はグローバリゼーションの見事な定義になっているのではないでしょうか。キーワードは「相互依存」ですが、それは必ずしも調和的な関係ではなく、そこには「搾取」と「抑圧」という「構造的暴力」が働いている。

3.11を経験し、その淵源の一つであった福島への原発立地ということを自分なりに検討してみて、この文章は、9・11だけでなく、3・11の予告にもなっていたと思う。なぜ、福島に原発が集中して立地していたのか。それは、単純化すれば、破滅的な原発事故の可能性を前提として、東京や大阪などの日本社会の「中心」をなすところではなく、それらから遠く離れており、人口や経済も集中しておらず、事故が起きたとしても日本社会総体への影響が小さいと考えられた「過疎地」であるために建設されたのだ。しかし、3・11をふりかえってみれば、原発事故の被害は、原発があった地元にとどまるものではない。もちろん、原発がある福島地域が最も大きいのではあるが、放射性物質は、福島だけにふりかかったわけではない。本来は影響がないようにしたはずの「首都圏」でもかなりの放射性物質が降下し、ある程度の被曝が余儀なくされた。さらに、地球全体の大気や海洋も放射性物質により汚染された。そして、今でも放射能汚染は続いている。結局、ガルトゥングにならって「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」としかいいようがないのだ。

そして、今、パリで起きた連続テロ事件の報道に接してみると、またもや、ガルトゥングの先の文章が想起される。「他国で行使される暴力が、たとえばテロ行為という形で、自国にもたらされ」ているのであり、「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」としかいいようがない。私たちは、眼前から暴力や放射能のようなものを遠ざけ、自分たちとは関係がないと考えられてきた「辺境」の地にその矛盾をおしつけてきた。しかし、やはり「あなたのいうこと、なすことはすべて、いずれ自分に帰ってくる」宿命は存在しているのである。

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