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Archive for 2010年12月

大正期における雑司ヶ谷のお会式においては、近世―明治期までのように、生人形などの陳列はされていなかったようである。ただ、遊興的雰囲気は残っていた。日本女子大学発行『江戸時代における庶民信仰の空間―音羽と雑司ヶ谷―』(2010年、八文字嘉子による記録)では、

法明寺山門から鬼子母神堂までの道は、五十基ほどの日蓮聖人一代記が描かれた行灯形の灯明が立てられていた。また、昭和十四年頃までは鬼子母神境内には見世物小屋やサーカス(大型鳥篭の中のオートバイの曲乗りなど)、レントゲン(入ると女性の着物が消え裸になり、骸骨になる)という見世物、ツノ女といって、体中どこにでもツノが生えている人間、首だけの女(首が長く伸びる)や、おばけ屋敷もあって見物したものだった。 (同年<平成二十二>六月三日 矢島勝昭氏)

という回想がなされている。たぶん、行灯形の灯明というものが、それまでの人形の系譜を引き継ぐものであろう。もちろん、今はなされていないと思われる。このように行灯による日蓮一代記の展示に加えて、見世物小屋・サーカス・おばけ屋敷のようなものも出ていたのである。
このような見世物小屋などの出店は、前述した「御会式新聞」第8号(1978年10月16日)に掲載された「座談会・お会式について」(9月5日開催)においてもさかんに語られている。岡田藤太郎(雑司ヶ谷在住、当時77歳)は、

今の鬼子母神病院のある場所に曲馬団やオートバイの曲芸をやる小屋がかかったり、安国様迄の道にロクロ首や猿まわしの舞台がかかったのが思い出されます。沿道には露店の屋台がビッチリ並び、現在とは全く雲泥の人出だった。

と述べている。その他の座談会参加者も同じような回想をしている。
また、講社の参加者にも、一種の遊興的雰囲気があった。大沢巻太郎(雑司ヶ谷在住、当時79歳)は、

―大沢 私の記憶で今だに忘れられないのは、万灯行列の中で五十人位の団体が、子育ての鬼子母神にちなんでやった事でしょうが、全員が人形の赤ん坊をおんぶして太鼓を叩いてきたのには感心させられました。

と回想している。ある種の遊興的雰囲気をもっていることーこれは、他のお会式でもそういう要素はあると思われるが、雑司ヶ谷において強く表れた特徴ということができよう。

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近代に入り、最も雑司ヶ谷お会式が盛んだったのは大正期(1912-1926)とされている。日本女子大学発行の『江戸時代に生まれた庶民信仰の空間―音羽と雑司ヶ谷―』(2010年,八文字嘉子による記録)には、次のような証言が掲載されている。

護国寺を出発した先頭の講中が目白坂を登って鬼子母神に到着しても、最後の万燈はまだ護国寺を出ることが出来なかった。百三十本もの万燈がでた。 (平成二十二年六月二日、尾上多喜雄氏、戸張晥司氏)
御会式の人出も境内を埋め尽くし、万燈も日本橋・浅草・池上など、地元はもちろん近在からも十七・十八日両日護国寺門前に参集し、音羽通り目白通りを経て鬼子母神境内に練り込んで来る。万燈三百本、人出二十万人、三十万人、見世物小屋も法明寺境内まで三十以上、こうした賑やかな御会式は昭和の始めころまで続いた。  (昭和四十八年十月十五日付、尾上多喜雄氏発行責任おえしき新聞四号より)

前から引用している「御会式新聞」第8号(1978年10月16日)に掲載された「座談会・お会式について」(9月5日開催)でも、目白在住で当時83歳であった新倉留吉が、大正期の景況を概括的に回想している。

―新倉(留吉)
私の記憶で一番このお会式が盛んだったのは大正三、四年頃だと思いますが、百三十本の万灯が出た事です。護国寺から出発して、先頭が目白坂を上って鬼子母神についても未だ一番最後は護国寺にいたそうです。戦争が苛烈になる前迄は五十~七十本の万灯がでていましたが戦災で万灯の資材の欠如と人がいなくなった為に衰微していった訳です。(後略)

現在、お会式の中心的講社は、雑司ヶ谷・高田・目白・南池袋などの近隣地域である。立正佼成会の渋谷支部なども参加しているが、それらは少数派であるといえる。つまり、この時期では、日本橋や池上などの近隣とはいえない地域の講社も参加していたのである。それが100-300本の万灯や30万人の人出となった原因であるといえる。
一方、行列のルートも、現在とは異なっている。現在、17日は清土鬼子母神(護国寺近傍)-不忍通りー目白通りー鬼子母神表参道―鬼子母神・法明寺というルートであり、18日は池袋駅東口―明治通りー千登世橋―目白通りー表参道―鬼子母神・法明寺というルートをとっている。この時期は、両日とも、護国寺から音羽通りを下って目白通りに回るというルートをとっている。このルートは、不忍通りを通るよりもかなり長くなっている。それゆえに、先頭が鬼子母神に到着しても護国寺を出られなくなったという表現が意味をなしているわけである。
 さて、この後、「御会式新聞」などに依拠して、大正期―昭和戦前期のお会式をみていきたい。

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池上本門寺の公式ホームページ(http://honmonji.jp/05topic/05event/oeshiki/2010/oeshiki.html)には、次のような記載がある。

お会式12日夜の万灯行列の華やかさと講中の威勢の良さは、安藤広重の版画にも描かれているように、江戸の昔から有名で、一晩で30万人を超える参詣者で賑わいます。そして、この夜の大堂は、僧侶の大太鼓とご信者達の団扇太鼓が一体となって、お堂が震動するほどの音と唱題の声で満たされ、13日の明け方まで続きます。そして、午前8時に法要を営み、七百二十八年前のこの朝、多くの弟子信者が見守る中、日蓮聖人のご入滅を告げる鐘を日昭聖人が打ち鳴らされたように、「臨滅度時の鐘」を鳴らして、ご遺徳を偲び、法華経を弘め伝える誓いを新たに致します。
 これこそは、池上のお会式でしか味わうことのできない法悦です。是非とも、臨滅度時法要にご参列下さい。
 お会式中の参籠(宿泊)、団体参拝(10月12日のみ)を只今募集中です。
 お会式報恩料はお一人9000円(宿泊代・開帳料等を含む)です。300名まで参籠(さんろう)可能です。全国各寺院のご参拝をお待ちしております。
本年の団体参拝の受付は定員に達しましたので終了させていただきました。(2010/09/25)

近世における池上本門寺のお会式の特徴は、参籠を伴うというところにあるといえる。その伝統は、現在にも引き継がれているといえよう。

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谷中領玄寺会式桜(『東都歳時記』)

谷中領玄寺会式桜(『東都歳時記』)

お会式桜(2010年12月28日撮影)

お会式桜(2010年12月28日撮影)

池上本門寺の公式ホームページ(http://honmonji.jp/05topic/05event/oeshiki/2010/oeshiki.html)
には、次のように記載されている。

日蓮聖人が亡くなられた時、庭先の桜(お会式桜)が時ならぬ華を咲かせたという故事から、万灯は紙で作った造花で灯明輝く宝塔を飾っています。

日蓮の逝去は旧暦の10月13日であり、晩秋か初冬の頃である。少なくとも近世には、谷中領玄寺や池上本門寺には、この故事に従ってお会式桜が植えられていた。もしかすると、池上本門寺のものは日蓮逝去時から存在していたのかもしれない。これは、いわゆるフユザクラと考えられる。斎藤月岑の『東都歳時記』(1838年)には、次のように記載されている。

○〔日蓮宗谷中領玄寺に桜ありて十月に花咲く、この故に会式ざくらといふ。当寺は甲州身延山の隠居寺なり、身延三十三世日亨上人自植る所にして、宝暦三癸酉年(1753)十一月廿二日上人三十三回忌の刻始て花咲くといふ、今にいたり例年十月花さき、春に至りて花さくこと又余木に同じ、亨師ざくらともいへり。池上本門寺にも是に等しき桜ありて、此頃花咲こと当寺にかはらず

斎藤は、お会式桜について、池上本門寺ではなく、谷中領玄寺を中心に記載している。そこには、日蓮逝去時の挿話は語られていない。長谷川雪旦が描くお会式桜も、谷中領玄寺であり、日亨上人の墓の前に所在している。斎藤や長谷川にとって、いまだ池上本門寺は遠隔地であり、「お会式桜」といえば、谷中領玄寺がまず思い浮かんだのであろう。
 ホームページでみてみると、谷中領玄寺や池上本門寺にはお会式桜が現存しているようである。雑司ヶ谷の法明寺には、元来お会式桜の伝承はないが、現在、法明寺近傍の児童施設「子どもスキップ南池袋」園内にお会式桜が植えられ、開花していた。新たな伝統の創造といえよう。

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雑司谷法明寺会式詣(『東都歳時記』)

雑司谷法明寺会式詣(『東都歳時記』)

堀の内妙法寺会式(『東都歳時記』)

堀の内妙法寺会式(『東都歳時記』)

「御会式新聞」第8号(1978年10月16日)の、同年9月5日に開かれた「座談会・お会式について」の中で、当時83歳であった新倉留吉は、次のように雑司ヶ谷のお会式を位置づけた。

―新倉 鬼子母神のお会式は信心家のお祭りではなく、う合の衆の行事だからね…だから鬼子母神のお会式はマンガ的で、自由奔放なんだが、池上、堀の内は信仰的で、まじめで宗教行事としての自覚が強いと思うね。

夜、万燈や太鼓をもって行列し、参詣するというスタイルは、明治期以降、雑司ヶ谷も池上本門寺や堀の内妙法寺と共通であったと思われる。しかし、それでも、そのような違いがあったといえる。

近世においては、雑司ヶ谷のそのような性格は、より鮮明であったといえる。斎藤月岑の『東都歳時記』(1838年(天保9))において、雑司ヶ谷法明寺の「会式詣」が描かれているが、その舞台は鬼子母神であり、それも境内に酒や土産物を売る露店が密集し、そこに着飾った男女が集まっているところが描かれている。

『東都歳時記』の本文の記述もそのような側面が強調されている。一部引用したが、もう一度あげておこう。

雑司が谷法明寺〔法会中開帳あり、音楽邌供養等法会厳重なり。十二日のころより支院飾り物あり、大行院を首とす。年ごとに種々の機巧をなす、何れも宗祖御一代の記によりて其さまを造りなせり。境内見せものかるわざ等出で、廿三日迄諸人群集し繁昌大かたならず。鬼子母神の境内には、茶店拍戸(れうりや)檐(のき)をつらね、行客を停て酔をすゝむ、川口屋の飴、麦藁細工の角兵衛獅子、風車等を土産とす。寺中其外飾り物をなす寺院は、観乗院、玄浄院、真浄院、知足院(以上支院なり)、清立院、宝城寺(十八日会式)にも会式修行飾物あり○今日(十月八日)同所鬼子母神更衣あり〕

開帳による法会のことも言及されているが、ほとんどが飾り物・見世物・軽業・飲食などの遊興的なことを述べている。これらの遊興は、能動的に参加するというよりも、受動的に拝観するという面が強いといえよう。

堀の内妙法寺のお会式について、『東都歳時記』は、「堀の内妙法寺。〔当月中参詣稲麻の如く、宝前供物等山の如し、会式中開帳あり、法会の次第左のごとし。〕としており、この後に8日より13日における法会の式次第が記載されている。挿絵においても、前面に法会を執行する僧侶たちが描かれ、その後ろ側に祈祷に参加する群集が配置されている。妙法寺のお会式では、より真摯に、より能動的に一般民衆がお会式に参加しているといえる。
池上本門寺のお会式について、『東都歳時記』は、「○池上本門寺会式、今日(十日)より十三日迄修行。〔十二日十三日開扉あり。十二日の夜通夜の人多し、夜中説法あり、十三日十四日には門前笊籠の市が立つ。当寺は宗祖上人入寂ありし霊跡にて大伽藍なり、今日祖師御更衣あり〕と記載している。挿絵はないが、比較的遠方の池上本門寺に泊まり込みで参加し、夜中の説法まで聞いたというので、かなり真摯かつ能動的に一般民衆はお会式に参加したといえる。
今日のお会式は、どちらかといえば池上本門寺の影響が強いのではないかと議論してきた。ただ、雑司ヶ谷のお会式においては、比較するならば、その後も遊興的な側面が残存していたのではないかといえよう。

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「堀の内祖師堂の図」(「東京近郊名所図会」)

「堀の内祖師堂の図」(「東京近郊名所図会」)


「池上本門寺会式の図」(「東京近郊名所図会」)

「池上本門寺会式の図」(「東京近郊名所図会」)

雑司ヶ谷鬼子母神お会式における万燈は、雑司ヶ谷において自生的に生まれたというよりも、幕末期頃から始まる池上本門寺などの影響を受けているのではないかと前述した。「御会式新聞」第8号(1978年10月16日)には、同年9月5日に開かれた「座談会・お会式について」が掲載され、当時の古老が過去のお会式を回想している。その中で、当時79歳で、往時鬼子母神境内で茶店を開いていた大沢巻太郎が「万灯の事で、私が母親から聞いた話しでは、明治の末に、牛込の石松と言う石屋さんが万灯を山車にのせて鬼子母神にもって来たのが万灯の流行のはじめで、それから段々ふえだしたと言う事です。」と回想している。
 ここで、もう一度読売新聞の記述をみておこう。1892年10月4日号では「本月八日より廿三日まで…毎夜数十本の万燈練り込み等ある由」と述べている。1896年10月9日号では「夜ハ数十本の万燈を出し…近町村を始め牛込小石川四ツ谷麹町等の各信徒ハ何れも意気込み居るとの事」としている。少なくとも、新聞によると、明治中期から万燈は出ていたようである。
 ただ、万燈がお会式に加わったのは外部の人の影響ということは読売新聞の記述からも読み取れる。1911年10月19日号では、「市内信者講よりなれる万燈はその数二百余箇、一旦護国寺に集りて勢揃ひをなし各種の仮装をこらして午後九時頭目の声勇ましく女子大学通りを練り行き十時頃境内にくり込みて参堂礼拝等あり」とある。当時、雑司ヶ谷地域は東京市の外部に属しており、「市内信者講」というのは、雑司ヶ谷近隣ではない。東京市からの参詣者によって万燈は導入されたといえるのでなかろうか。その点で牛込の石松という石屋が万燈を山車に乗せてから始まったという大沢の回想は首肯できるのである。
 この時期の鬼子母神お会式の画像は残っていない。ここでは、1911年に出版された「東京近郊名所図会」(『明治東京名所図会』下所収)より「池上本門寺会式の図」と「堀の内(妙法寺)祖師堂の図」を参考のためにあげておく。集団で太鼓をたたき、万燈を持参する現在のお会式のあり方がすでに確立されていることがわかるであろう。特に池上本門寺のお会式では、万燈が巨大化しており、現在の万燈に近づいているといえる。ただ、まといについては、少なくとも明治期には、新聞史料・画像資料ともそれに言及しているものは未見である。

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おえしき新聞第一号

おえしき新聞第一号

豊島区立郷土資料館に収蔵されていた、「おえしき新聞」を入手した。いくつか欠号があるが、この新聞が刊行された1970年以降の雑司ヶ谷お会式の状況を検討する好資料である。さらに、大正期までさかのぼる回想が載せられており、今のお会式のあり方を分析する根本史料であると考えている。豊島の地域紙である『豊島新聞』のお会式の資料も入手しつつあるので、現代のお会式について、より分析を深めていきたいと考えている。下世話な言い方では「乞うご期待」というところかな。
高田若睦発行「おえしき新聞」第一号(1970年10月15日)

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書房深谷克己先生から『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』(山川出版社、2010年11月20日 定価800円)をいただいたので、このブログで感想を記しておきたい。本書は、いい意味で、表題からくるイメージを裏切っている。こういう表題を見ると、近世の幕府政治家であった田沼意次の生涯を時系列的におった「評伝」をイメージするのが普通であろう。しかし、本書は、田沼意次が1786年に老中を辞職してから、1788年に失意のうちに死去するまでの2年間を中心に描いている。その中では、1877年の降魔祈祷願文、同年の家中教諭、さらに同年の遺訓を中心に描いている。最初の降魔祈祷願文で、田沼意次は、自身の失脚を嘆きつつも、自らには覚えがないとし、将軍お目見えの再開など、再び幕府政治家としての再起を祈願している。しかし、その直後に天明のうちこわしがあり、それを契機に政敵である松平定信の寛政改革が本格的に開始されることになった。そこで、田沼は、幕府政治家として生きていくのではなく、譜代大名の一人として生きることを決意して、家中に大名家として生きることを教諭した。しかし、同年中にも彼の悲運が続き、田沼意次は隠居を命じられ、大名として最低限の1万石に減封された。その際の心得として嫡孫意明に書き残したのが「遺訓」である。
田沼意次このような、最晩年の三つの資料から、深谷先生は、田沼意次の人間像を描き出し、さらに、大名としてのあり方を、田沼への批判も含めて議論している。時系列的な評伝よりも、より的確に田沼の人間像が理解できるといえよう。ある意味では、フラッシュ・バックを含めた映画的手法といえる。人生の最後に行った田沼の回想と遺志に焦点をしぼりつつ、その説明のために、彼の人生を振り返っている。降魔祈祷、家中教諭、孫への遺訓など、それぞれの場面で語る田沼意次の肉声が聞こえてくるようだ。本書を、映画のシナリオとしてみたらという、想像にかられるのである。
ただ、実際には、本書は、深谷先生の為政者としての藩主論を前提とし、そこを前提として田沼の大名としての不十分さを批判していることも忘れてはならない。このような、学問として深めていく読み方のほうが正当であろう。しかし、このような本書の構成が、テクスト的というよりも、イメージ的なものであるということも看過できないことである。そして、このような構成をとったことで、多くの語を費やすよりも、深谷先生の議論がわかりやすくなったともいえると思う。
短い本なので、多くの人に読んでもらいたいと思う。もし、田沼意次の伝記をもっと知りたければ、藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房)がある。

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[明治中期の新聞を読んでいるとお会式の思わぬ姿が浮かび出てくる。『二六新報』1902年10月11日号には、池上本門寺のお会式について、「当夜は読経の了ると▲御籠 と称し男女老幼暗き処に打集ふを例とし、此の機に乗じて風俗壊乱の挙動に及ぶ者年々歳々夥しきより、今年は同所に無数の点灯をなし如上の弊風を一掃せん筈なり」と書かれている。まあ、いろいろ評価はあろうが、男女交際の場でもあったといえる(もちろん、公式的ではないが)。
参籠はなかったと考えられる雑司ヶ谷鬼子母神のお会式にも、男女関係を暗示させるものが出ている。『読売新聞』1910年10月18日号の高木敏雄「鬼子母神の会式に就て」は、鬼子母神がユノやヴィーナスのような子孫繁栄の母神を出自にしていることを論じているが、その中で「雑司ヶ谷の会式にも、矢張此風俗の一部が保存されて、道路の両側に樹てられる多くの燈籠には必ず男女の情交に関係した絵が描かれている。而も此祭日に限って、此風俗壊乱的の絵画が公然許されているのは、必ずや相当の理由がある事と思ふ」と書かれている。鬼子母神という神格のためなのか、遊興的雰囲気のためなのか、池上本門寺の参籠の影響なのかはわからないが、男女関係が暗示されるような燈籠が陳列されていたとはいえるであろう。
ただ、現代の雑司ヶ谷鬼子母神のお会式を見る限り、そのようなことを暗示させる万燈などは存在していない。新聞でみる明治末年の状況とは大きくかわっているといえる。
ただ、男女なかよく行列に参列するという意味では、今もそのようななごりはあるだろう。

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さて、近代のお会式について、国家権力はどのように対応したのであろうか。当時の新聞である『二六新報』1902年10月11日号は、池上本門寺のお会式について、次のように伝えている。当時の池上本門寺のお会式は、東京全市から講社が参詣する場であり、そのために、大森駅までの臨時列車が出ていた。そのことについて、『二六新報』は、「当日は例の如く各講中隊を為し列を作り人波打て景気よく押しかくべければとて、品川芝の両署にては非番巡査を召集し新橋品川の両停車場を警戒し、本山上長栄堂前の掛茶屋は其の休息所に当て、又警視庁第三部よりも医員出張し病者負傷者の応急手当に備へ、又▲本山下 の池上小学校も同じく巡査休息所に当て、大森停車場脇病院は根年々休息場に当てられしも、同病院は今年癩病患者多き為同所を駐在所に変更し遺失物迷子等を茲処にて取扱ふ」と報じている。国家権力の末端としての警察は、まずは人混みを規制し、急病人を介護し、遺失物を預かり、迷子を保護するものとして立ち現れてくるといえる。いわば、お会式に集まる民衆を保護するものとして、国家は行動しているといえる。
他方で、『二六新報』は、「又例の肩にして狂ひ廻はる万燈は、先頃の府令に基き市内の祭礼等には此の挙を許さざりしも、同所は郡部の事とて大目に見のがすとの事、但し万燈を振り廻し或は通行人の妨害と認めらるる時は差止めらるること勿論なり」と伝えている。この一文は、なかなか微妙である。府令において、市内祭礼で万燈を振りかざすことは禁止されていたが、「郡部」ということで、特別に許可されているのである。しかし、それも、警察のまなざしで、目に余るという行為は規制するとしているのである。ここでの、警察の振る舞いは、「府令」を根拠にした民衆の行為を規制する権利を保有しつつ、ケースバイケース(ここでは「郡部」という理由で)で許容するというものであった。ここでは、国家は、民衆の行為を規制するものとして立ち現れているといえるのである。
もちろん、このような国家の二面性は、現代のお会式でもみることができる。現在でも、警備を理由に、警察は大動員をかける。実際、車道を行列する際、警官が保護している。一方で、行列の経路は、警察側が認可してはじめて可能となっている。民衆を保護することと、民衆を規制することの二面性―国民国家としての近代国家権力の特徴ということができる。

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