大正期における雑司ヶ谷のお会式においては、近世―明治期までのように、生人形などの陳列はされていなかったようである。ただ、遊興的雰囲気は残っていた。日本女子大学発行『江戸時代における庶民信仰の空間―音羽と雑司ヶ谷―』(2010年、八文字嘉子による記録)では、
法明寺山門から鬼子母神堂までの道は、五十基ほどの日蓮聖人一代記が描かれた行灯形の灯明が立てられていた。また、昭和十四年頃までは鬼子母神境内には見世物小屋やサーカス(大型鳥篭の中のオートバイの曲乗りなど)、レントゲン(入ると女性の着物が消え裸になり、骸骨になる)という見世物、ツノ女といって、体中どこにでもツノが生えている人間、首だけの女(首が長く伸びる)や、おばけ屋敷もあって見物したものだった。 (同年<平成二十二>六月三日 矢島勝昭氏)
という回想がなされている。たぶん、行灯形の灯明というものが、それまでの人形の系譜を引き継ぐものであろう。もちろん、今はなされていないと思われる。このように行灯による日蓮一代記の展示に加えて、見世物小屋・サーカス・おばけ屋敷のようなものも出ていたのである。
このような見世物小屋などの出店は、前述した「御会式新聞」第8号(1978年10月16日)に掲載された「座談会・お会式について」(9月5日開催)においてもさかんに語られている。岡田藤太郎(雑司ヶ谷在住、当時77歳)は、
今の鬼子母神病院のある場所に曲馬団やオートバイの曲芸をやる小屋がかかったり、安国様迄の道にロクロ首や猿まわしの舞台がかかったのが思い出されます。沿道には露店の屋台がビッチリ並び、現在とは全く雲泥の人出だった。
と述べている。その他の座談会参加者も同じような回想をしている。
また、講社の参加者にも、一種の遊興的雰囲気があった。大沢巻太郎(雑司ヶ谷在住、当時79歳)は、
―大沢 私の記憶で今だに忘れられないのは、万灯行列の中で五十人位の団体が、子育ての鬼子母神にちなんでやった事でしょうが、全員が人形の赤ん坊をおんぶして太鼓を叩いてきたのには感心させられました。
と回想している。ある種の遊興的雰囲気をもっていることーこれは、他のお会式でもそういう要素はあると思われるが、雑司ヶ谷において強く表れた特徴ということができよう。