前述のように、関東大震災後においは、焼け跡ー被災した市街地は、被災者が自力で建設したバラックー仮設建築物で埋め尽くされていた。このような中で、1924年より、帝都復興事業として、帝都復興区画整理が開始された。
帝都復興事業についての詳細は、別の機会について述べたい。ここでは、当初の計画が、帝国議会においてかなり予算が減額されたことを述べるにとどめておく。
帝都復興区画整理事業について、前回のブログで前述した田中傑の『帝都復興と生活空間』(2006年、東京大学出版会)が、最初に開始された第6区画整理地区(神田区駿河台)をもとにその特徴を述べている。この地区では15本の道路が新設され、8万坪の宅地より新たに1万坪が道路用地に編入されたが、用地買収は行われなかった。
区画整理は、地権者や住民がそれぞれ敷地を出しあい(減歩)、それを公共用地にあてるという仕組みであるので、用地買収をしなかったのは当然である。しかし、減歩される地権者や住民は反対した。そこで、帝都復興区画整理事業においては「価格換地の原則」が打ち出されていた。つまり、同じ面積の換地を与えるのではなく、同一価格の換地を与えるということである。そうしなければ、買収せずに新たな道路用地を捻出することはできないのである。この仕組みは、現在の区画整理にも受け継がれている。
しかし、田中傑は、実際の運用は違っていたと述べている。
…ところが実際の換地交付では、従前の所有地面積を勘案しての換地(面積換地)も行われた。それに加え、本来は換地を交付せずに金銭整理されるべき極小な土地に対しても換地をなるべく交付した。換地設計の原則から逸脱したこれらの措置は、住民が区画整理後も地区内に残ることができるように配慮した結果である。第6地区区画整理委員会の審議過程においても、地区内にあった開成中学校を地区外へと転出させたり、地区内の土地を買収して公共用地に充てる(潰地の充当)ことで減歩率を下げるなど、地権者の不満をかわすための措置がみられる。
以上のように、区画整理の実施にあたっては事前に定めた換地設計の原則には必ずしも縛られておらず、居住者への臨機応変な配慮がなされていた。…(本書p162~163)
このように、現実には、公共用地を買収せず減歩で捻出するという区画整理の仕組みは守りつつ、地権者や住民の反対も念頭におきながら、住民が少しでも居住地に住むことができるように配慮して、帝都復興区画整理事業はなされたのである。
なお、参考のために『港区史』下巻(1960年)に掲載されている、「第25地区換地位置決定図」をここであげておく。ここは、現在の港区愛宕ー虎ノ門の南側、東京タワーの北側ーを中心とした地区である。黒く塗りつぶされた土地が減歩によってあらたに道路となったところである。
さて、この区画整理事業の実施にあたり、焼け跡に立ち並んでいたバラックー仮設建築物は、どのようになったのであろうか。これについては、次回以降のブログでみておこう。