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Archive for 2016年3月

前のブログで、足尾鉱毒によって山林も含めて荒廃し廃村に追いやられた旧松木村の現況について紹介した。この足尾鉱毒による山林の荒廃について、公害研究者である宇井純は1970年11月16日の自主講座公害原論(宇井純『合本公害原論』、亜紀書房、1988年)で、足尾鉱毒事件の概要を述べた後、「足尾の鉱毒事件は決して過去ではない。足尾は現に鉱毒を流しています」とし、1970年当時の足尾の山林荒廃について話した。足尾の鉱毒が流失している最大の原因は山林の荒廃であると宇井純はいう。彼は、このように言っている

 

 ところが足尾の山では何十年かかって、この木を全部枯らしたのですから、土はどんどん雨の中に出てきまして結局ハダカと変らない。ここへ亜硫酸ガスが降りそそぎ酸化されて硫酸の雨になる。この中には砒素も含まれています。そうするとタネをまいたぐらいでは草も生えないのですね。いま、一生懸命植生板という堆肥の板のなかにタネを埋め込んだものを張りつけます。これは実に骨の折れる作業です。しかし、ちょっと根がついても、それはそのまま草木として安定せずにまた次の雨で洗い流される。
 それから芽の出た草は亜硫酸ガスで枯れてしまいます。そうすると、持って上って張りつけただけですからいずれは川へ出る。銅も少しずつ流れ出る。砒素やなんかが山の肌にぶちまけられていますから苔も生えない。

そのようになった足尾の山々について、宇井純は次のように叙述している。

 

 生物がまったくいない山というものはこんなに不安定なものかということを、足尾に行くと感じますね。冬になりますと、岩の破目に水がしみこみまして凍ります。そうしますと凍った時の膨張で岩はどんどん割れていきます。
 生物が発生する前の地球というのはこんなふうにして山がけずられ風化していった。その何億年か前、陸上の植物が発生する前の地球の風化のしかたを足尾ではみることができます。そうな利ますと割合風化というものは早いものですね。ずい分硬い石ですけれども、どんどんヒビが入ってガラガラ崩れていきます。

宇井純によると、荒廃した足尾の山々は、陸上が植物に覆われていない、生物発生前の地球を彷彿させるという。このような中、砂防ダムを設置したり、斜面に網をかけて土砂流出を喰い止め用としたりすることも効果はないとされる。宇井純は「現代の技術が自然に対していかに無力であるかという実例を見るのには、足尾にいくのが一番いいと思います。私も土木屋のはしくれですけれど、できないものはできないと答えるほかはないのです」と述べている。

足尾銅山の鉱山部門は1973年に閉山され、煙害の現況の一つである足尾製錬所は1978年に比較的煙害が出ない自溶製錬法に転換、1989年には製錬所自体が事実上閉鎖された。足尾製錬所近くにある龍蔵寺の住職は「境内に草が生えるとは、夢にも思わなかった。草木が育つようになったのは自溶製錬になって亜硫酸ガスが減ってきてからです」(布川了『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』改訂版、随想舎、2009年)と語っている。現在、足尾製錬所周辺も含めて、表土のある箇所では草ぐらいは生えている。しかし、基盤岩が露出しているところは草も生えない。そして、露出している岩自体が銅鉱石であって、そこから鉱毒が流失している恐れもあるのだ。

荒廃した足尾の山林(2016年2016年2月27日)

荒廃した足尾の山林(2016年2016年2月27日)

さらに、廃棄物を捨てた堆積場も植生を破壊した。宇井純は次のように言っている

 

 それから天狗沢とか原とかこういった古い選鉱の捨て方をみますと、山のてっぺんに索道を使って、てっぺんからバケツをひっくり返すようなかたちでどんどん投げ捨てていきます。これは山の斜面を覆ってやはり完全に植生―山に生えている木や草をこわしてしまいます。これもどうにもならないのですね。大体ケーブルで持っていくようなところですから、人間が行けるような楽なところではなくて、一辺ぶちまけたものをシャベルでいちいちすくってなんてということはとてもできないのです。

この状況も、松木堆積場に行けば理解できる。確かに廃棄物を山の上に運搬し、斜面にぶちまけるというやり方でないと、堆積場の景観はできないのだ。そして、そのようなことをすれば、斜面全体が砂漠のようになり、植生が破壊されることになるのである。

松木堆積場(2016年2月27日)

松木堆積場(2016年2月27日)

単に乱伐で山林がなくなっただけでなく、煙害によって草すらも生えることが許されなかった足尾の山々。それこそ、生物発生前の地球の景観への「回帰」であり、生物がいなくなった後の地球を「幻視」させるものであったといえる。そして、これは、自然の「摂理」などではなく、人間の「作為」でもたらされた「黙示録」なのである。人間の作為によって壊された「環境」は、人間の技術で速やかに回復できるものではないのである。足尾の山々が元のような山林に回復するには1000年はかかるだろうと言われている。そして、このようなことは、足尾で終わったわけでない。水俣でも福島でも繰り返されている。100年以上前に足尾であったことは、今の問題なのである。

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2016年2月16日、足尾銅山の上流にあり、鉱毒で1902年に廃村された旧松木村を訪問した。明治期の足尾鉱毒で廃村になった村としては、渡良瀬川の下流にあり、鉱毒沈殿池とされた旧谷中村が有名であるが、旧松木村をはじめとした渡良瀬川上流部の地域も著しく荒廃した。そもそも、足尾銅山の坑木などに使うために周辺の山林は乱伐され、沢などには廃鉱などの廃棄物の堆積場が数多く造成された。さらに、足尾製錬所による亜硫酸ガスなどの煙害によって、より広範な地域の山林が枯死していった。足尾周辺の山々は、山林が枯れていったことによって保水力を失い、渡良瀬川はたびたび大洪水を起こすことになっていく。そして、堆積場からは大量に鉱毒が流出し、渡良瀬川の中・下流域を汚染していった。足尾銅山周辺こそ、足尾鉱毒の源なのである。

まずは、旧足尾製錬所の写真を掲載しておく。そもそも、足尾製錬所の煙突はかなり低く、製錬所のばい煙は山中を漂わざるをえなかった。足尾鉱毒の反省もあって、日立銅山では高い山の頂上に高煙突を作って、煙を上空で拡散させるという方法をとって効果が上がったのだが、足尾ではそのような改良もなされなかったのである。

旧足尾製錬所(2016年2月27日撮影)

旧足尾製錬所(2016年2月27日撮影)

次に1953年の煙害区域図を示しておく(布川了『田中正造と足尾鉱毒事件を歩く』改訂版、随想舎、2009年より)。渡良瀬川最上流部は「植物育成不能」「森林経営不可能」とされていたのである。

煙害区域図(1953年版)

煙害区域図(1953年版)

足尾銅山における採鉱は1973年に終わった。足尾製錬所の煙害も1978年に製錬方法が自溶製錬法に改善され、1989年には製錬自体が事実上停止された。足尾製錬所近傍にある龍蔵寺の住職は「境内に草が生えるとは、夢にも思わなかった。草木が育つようになったのは自溶製錬になって、亜硫酸ガスが減ってきてからです」(布川前掲書)と語っている。この時期以来、ようやく、足尾でも草木が育つようになったとされている。

実際、すでに煙害はなくなったので、多少なりとも草木は育っているようだ。緑化作業も行われている。しかし、何よりも困難なことは、緑化以前に長年の荒廃によって表土が失われ、斜面が著しく侵食されているということである。下記の写真の上部では、段々畑のように階段状に土留めがなされ、そこに植林などの緑化作業がなされている。しかし、下部では基盤岩がむき出しになっており、そういうところでは木はおろか草も根をおろすことはできない。いくら上部を土留めによって植林しても、下部が風化によって侵食されれば、いずれは斜面全体が崩壊していくことになろう。

足尾周辺の山々の緑化と斜面崩壊(2016年2月27日)

足尾周辺の山々の緑化と斜面崩壊(2016年2月27日)

工事広告板には工事前と工事後の写真が掲載されているが、ほとんど景観が変わっていない。つまりは、毎回同様の作業を繰り返さざるをえないのだ。

工事広告板(2016年2月27日)工事広告板(2016年2月27日)[/caption]

1955年には砂防ダムとして足尾ダムが建設された。作られて30年間は水面が広がっていたというが、荒廃した上流部から土砂・岩石が流失し、それらによって埋め尽くされてしまった。現在、その土砂を砂利として再利用している。

足尾ダム(2016年2月27日)

足尾ダム(2016年2月27日)

足尾ダム上部(2016年2月27日)

足尾ダム上部(2016年2月27日)

砂利選別場(2016年2月27日)

砂利選別場(2016年2月27日)

旧松木村の中に入っているみると、公共事業としての緑化作業だけでなく、さまざまな団体・学校などによるボランティア活動としての植林を随所で見かけることができる。しかし、概して、よく育っていない。もともと、気候・地質があっていないのではないかと思われる。さらに、シカの食害もある。植林された箇所は、基本的に柵などで覆われていた。

植林(2016年2月27日)

植林(2016年2月27日)

実際、シカを見かけた。人や車が近寄っても遠くまで逃げない。ニホンザルも見かけた。シカの駆除日が公示されていた。シカの食害は日本全域で深刻である。しかし、ここ足尾に限っては、足尾銅山による環境破壊のほうがはるかに深刻で、シカの食害は、その結果もたらされた副次的なものに過ぎないのではなかろうか。そして、駆除も問題をはらむ。この地域は2011年の福島第一原発事故により放射能汚染されており、シカにも蓄積されている。駆除されたシカを安易に食べることもできないのである。

ニホンジカ(2016年2月27日)

ニホンジカ(2016年2月27日)

ニホンザル(2016年2月27日)

ニホンザル(2016年2月27日)

シカ駆除日の公示(2016年2月27日)

シカ駆除日の公示(2016年2月27日)

やや上流部に行くと、松木堆積場が見えてくる。松木村廃村後の1912年から1960年までの間、製錬所のカラミを廃棄し続けたところで、文字どおり、山全体に廃棄物が遺棄されている。近寄ってみると、黒い砂でしかなく、とても植物が生えそうもない。砂漠にしか見えないのだ。これでも、土木工事用に搬出されて往時の面影は薄れているようなのだが。近くには、旧松木村民の墓標が立っていた。

松木堆積場と旧松木村民の墓標(2016年2月27日)

松木堆積場と旧松木村民の墓標(2016年2月27日)

松木堆積場(2016年2月27日)

松木堆積場(2016年2月27日)

足尾周辺にはこのような堆積場が十数箇所あり、松木堆積場は大きい方だが最大というわけでもない。このような堆積場では、雨が降ると、大量の鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、下流の地域を汚染したのである。

上流に行くと、基盤岩が露出していて、何も着手していないように見える山腹が広がっていた。基盤岩の割れ目に草木が生えている。下に道路のないところはそうなっているところが多い。それでも、表土が残っていたと考えられるところは草や潅木が生えている。

基盤岩が露出している山腹(2016年2月27日)

基盤岩が露出している山腹(2016年2月27日)

皮肉なことに、谷の下で、比較的平坦で、廃村以前には農地や宅地などとして人が使用していた形跡があるところのほうが、木や草が生え、緑化が早かったように見える。下の写真はそういうところを写した。この祠は、文化9年(1812年)3月に建造されたと刻まれている。以前、この地がどのように使われていたかはわからないが、比較的平らになっており、山腹のように近づくことも困難というわけではない。周辺には表土がまだ残っているようで、草が生え、潅木なども生え出している。植林にしても、このような地の方が、一応林を形成するにいたっているようだ。

旧松木村の祠と生え出した草木(2016年2月27日)

旧松木村の祠と生え出した草木(2016年2月27日)

どの本だったかは忘れてしまったが、この足尾の山野を、陸上植物が上陸した古生代以前の地球の陸地にたとえている文章を読んだことがある。植物に覆われていない大地には基盤岩が露出し、風雨や太陽熱などの風化に直接にさらされていた。煙害のため、植物が生えることのできなかった足尾の山野は、同様のところであった。このような陸地に、植物は長い時間をかけて上陸していった。足尾の場合、まさかそれほどのことではなかろうが、富士山・浅間山・三原山などの火山から流れ出した溶岩地域に森が形成されるくらいの時間はかかるのではなかろうか。

比較的平坦なところに、アセビが群生していた。このアセビは、シカなどの草食動物が有毒のため食べない木で、シカが群生している奈良公園に多いそうである。足尾もそうなるのではなかろうか。

旧松木村のアセビ(2016年2月27日)

旧松木村のアセビ(2016年2月27日)

ここまで荒廃してしまった旧松木村を元に戻す術はない。治山・治水にせよ、緑化にせよ、人間の思うようにはいかないだろう。治山・治水、緑化、シカの駆除、さまざまな「自然回復」作業が現在なされ、それなりの事業となっている。しかし、文字通りの「シーシュポス」の神話になっているといえないだろうか。そういうことが無駄だというのではなく、これ以上の災害を防ぐためにも、「自然回復」作業は必要である。とはいえ、風雨によって表土が流失し、岩壁が崩れ、川が土砂で埋まるという風化・堆積作用や、そして、苦労して植えた木々をシカが食べるというのも、まさに「自然」の摂理であろう。田中正造的にいえば、その流れに寄り添うことが必要なのではなかろうか。

そして、このような結果をもたらしたのは、古河財閥が経営した足尾銅山なのである。そのことを忘れてはならないのだ。

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