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Archive for 2011年5月

さて、東日本大震災は、どのように歴史的に捉えたらよいのであろうか。もちろん、東日本大震災の復興は緒に就いたばかりであり、福島第一原子力発電所の事故については、終息の途もみえない。ここで、評価することは、適当でないかもしれない。しかし、この段階で、ある程度の展望をすることは、実践的な活動を構想する一つの前提になるだろう。もし、事態の展開がかわれば、修正していけばよいのだ。

本ブログで「東日本大震災の歴史的位置」をとりあげた際、最初に①通常の地震・津波災害の面、②原発事故の面、③電力・水道などのインフラ災害の面という、三つの側面があるとした。現時点でみると、②・③は関連しあった問題であるといえる。しかし、①の側面とは相違した様相をみせているといえる。ゆえに、現在では、(1)地震・津波災害の側面、(2)原発事故の側面、という二面があると考察している。

この二つの側面は、共通した要素を有している。(1)地震・津波災害の側面は、天災の要素が強いのであるが、人災の要素もなくはない。宮城県平野部沿岸はともかく、岩手県・宮城県北部の三陸地方沿岸は、近代になり、明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年)、チリ津波(1960年)におそわれている。津波対策はまったくなされていないわけではないが、規模の比較的小さい昭和三陸津波をもとになされており、実施されていた場合も今回の津波被害にそなえるには不十分であった。しかし、言うまでもないことであるが、天災の側面がはるかに大きいのである。

他方、(2)の原発事故の側面は、地震・津波という天災が契機になっているともいえる。現在、原発事故発生の契機について、地震による配管破断なのか、津波による全電源喪失なのかという論争がなされているようにみえる。ここでは即断しないが、いずれにせよ、天災が契機とされている。しかし、はるかに人災の側面が強いだろう。そもそも、東京電力管轄外の福島県に原発を立地し、「安全神話」によりかかって安全対策を怠り、このような事故に対してのシミュレーションや訓練を怠ってきた政府・東電の責任は大きい。さらに、事故対応についても、そもそも状況把握すらあやしい状態で、責任回避のための情報統制に終始し、まともに必要な情報を公開しないーいや公開できないー状態であり、いまだ、責任主体すら不明である。

(1)の地震・津波災害では、青森から千葉という広汎な地域において、多くの生命・財産を失った。前述したように、多少は人災の面もあるのだが、天災の側面がはるかに大きい。その中では、だれかに責任をとらすということではなく、生き残った人々によって、生活を再建し、地域社会の復興を営々と行うことがめざされていく。そして、政府は、責任追及される対象ではなく、復興支援を求めていく対象となるであろう。もちろん、政府による支援の遅れ、不十分さは批判されていくであろうが、それも支援を求めるというスタンスが前提となっている。震災直後、「ニッポンは一つのチームなんです。ニッポン・ニッポン」という公共広告機構のCMが流れたが、先のような心性の立ち上りを期待してのことであろう。

(2)の原発事故の側面は、人災であり、加害者である政府・東電の責任を追及し、補償を求めていくことがまずなされていく。特に、放射線の問題は、単に原発が立地している福島だけでなく、東京を含めた東日本圏全体の脅威となった。さらに、関東圏においては、放射線の問題だけではなく、原発事故に起因する計画停電のため、ある種のパニックが引き起こされた。私も覚えているが、計画停電が実施される直前の3月12・13日は、スーパーでの商品不足はなく、鉄道も正常に動いていた。計画停電が開始された3月14日以後、しばらくはパニック状態であった。買い占めのため米・水・肉などの商品はなく、鉄道もどこまで行くかわからず、きても乗れない状態であった。テレビ・新聞では、刻々と原発の事故の深刻さが報じられていた。後で聞くと、かなり多くの人が西日本や外国に東京から避難したとのことである。政府・東電発の大パニックといってよい。もちろん、被災地に比べれば、なんということはないのだが、東京がパニックとなっても別に被災地がよくなるわけでもない。その中で、東京を中心とする関東圏内における政府・東電への批判意識は強くなったといえる。政府には支援ではなく、責任の所在をあきらかにし、直接被害を蒙った人々に補償し、つじつま合わせではない放射線対策を求めるということである。

そして、原発事故の側面は、放射線の問題として、直接東日本大震災の影響を蒙らなかった西日本の人々や外国でも共有可能な恐怖を引き起こした。国内外での反原発デモの発生は、まさに、そのことに起因している。原発が立地しているのは、何も福島ばかりではない。日本中いや世界中に存在している。ある意味で「恐怖を共有している人々の共同体」が、グローバルに出現してきたのである。

そして、実は(1)と(2)の側面には微妙な相克が生まれてきている。宮城のほうでは、停電によるテレビ報道を共有していないことも手伝って、福島原発が中心となる東京発の報道のありかたに対して、微妙な違和感があるといわれている。生活再建のために必死な宮城県などの被災地では、福島原発に対する責任追及などより、むしろ被災地復興を支援するような報道をしてほしいということなのかもしれない。

一方、東京のほうでは、まず放射線への恐怖が先に立っている。それが、政府・東電への批判につながり、反原発運動の契機となっている。それ自身は評価すべきだろう。しかし、一方で、福島県・茨城県産のものを忌避するという風評被害につながっていくことも否定できない。

福島や茨城では、より微妙な問題がある。福島第一原発にほど近いこの地域では、東京などよりも放射線量は高く、より強い恐怖感があると思われる。一方で、地域社会に根付いた生活を捨てることができないということもある。そして、宮城県以北のように、とにかく地域社会の復興にむけて努力したいという気持ちも強いといえる。しかしながら、放射線により、原発近接地には立ち入ることすら禁じられた。そして、周囲の地域でも、農産物・海産物はおろか工業生産物はては瓦礫まで風評被害にあい、生活再建をより困難にしている。

東日本大震災には、(1)地震・津波被害という面と、(2)原発事故という側面があり、両者は相克していると述べた。この相克がぶつかりあっている地が福島であり、東日本大震災のかかえている問題点をある種単独で体現しているといえるのではないか。

復興にいそしむ宮城県以北の人々は、放射線のため復興に十分着手できない福島県の人々をみて愕然とするであろう。一方、東京をはじめとした「放射線の恐怖を共有している人々の共同体」は、高放射線と地域社会の復興に悩む福島県の人々に接することで、ようやく被災地における「復興」への意欲を実感できるのではないか。今、私は、そう感じている。

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『現代思想』2011年6月号

『現代思想』2011年6月号

本ブログで福島原発問題をとりあげたことを期に、『現代思想』2011年6月号に寄稿することになった。

表題は「福島県に原発が到来した日ー福島第一原子力発電所立地過程と地域社会」である。

本ブログの福島第一原発関係の記事をもとにしながら、大幅に加筆・修正した。ご関心がある方は、お読みいただきたい。

本ブログをみなさんが読んでくれたことが、このような形でまとめることにつながったと思う。感謝したい。

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前述のように、5月24~25日にかけて福井県敦賀地方にいった。まず、24日に敦賀半島先端部にある24日に日本原子力発電敦賀発電所(敦賀原発)と日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「ふげん」―両者は隣接しているーをみた。その後、より先端部に所在している漁村の敦賀市立石にいった、その途中にある「猪ヶ池」というところに、「この辺で、小グマを見かけましたので、ご注意願います。!」という看板があった。

猪ヶ池の「小グマ注意」の看板

猪ヶ池の「小グマ注意」の看板

24日に宿泊した敦賀市のホテルで無料配布された福井新聞(2011年5月24日付)には、次のような記事が掲載されていた。

「もんじゅ」近く、成獣のクマ目撃 敦賀
 21日午後9時ごろ、敦賀市白木の日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」近くの海沿いで成獣のクマが歩いているのを警備員が目撃した。同日午前6時ごろにも、正門付近で成獣のクマ1頭が目撃された。
 敦賀市農務課は出没状況によって、おりの設置を検討するとしている。

つまり、敦賀市の原発4基(「ふげん」は廃炉中だが)は、クマが出没している地域に所在しているのである。観光地の軽井沢では、観光客の生ごみ目当てにクマが出没しているようだが、原発は、クマの餌になるようなものは出さないであろう。固定資産税や電源交付金ではクマは食えない。元来、クマが住み着いていたのであろう。むしろ、原発のほうが、クマの生息域に進出したといえる。ある意味での自然破壊である。

敦賀原発(奥に「ふげん」が所在)

敦賀原発(奥に「ふげん」が所在)

敦賀原発と「ふげん」(左が敦賀原発1号機、中央が2号機、右が「ふげん」)

敦賀原発と「ふげん」(左が敦賀原発1号機、中央が2号機、右が「ふげん」)

実際、敦賀市の原発にいってみると、敦賀半島先端部の、照葉樹林で覆われた山と、日本海の海に挟まれた、自然豊かな地に所在している。敦賀原発と「ふげん」は、敦賀半島東側にある入り江に面して建設されているが、周囲は全く山に囲まれている。豊かな自然で隠蔽されている「秘密基地」の観がある。

「もんじゅ」

「もんじゅ」

「もんじゅ」はさらに奥にある。「もんじゅ」のある敦賀市白木は、敦賀市に属しているが、敦賀市からは陸路で直行できない。まず、敦賀からは、敦賀半島を横断し、美浜原発のある美浜町丹生をぬけて、再度山をこえて、ようやく敦賀市白木につく。しかも、それから、「もんじゅ」トンネルをぬけて、ようやく「もんじゅ」に達する。ただ、すでに「もんじゅ」トンネルの入口で、一般車の進入は制限されている。

「もんじゅ」は、むしろ、人の立ち入りを頑として拒む中世の古城のようにすらみえる。とにかく、まともな工業施設の立地とは思えない。このような立地では、電源交付金・固定資産税・原発(被曝)労働者としての雇用以外の波及効果があるとは思えない。

一般の「軽水炉」と比べても、「もんじゅ」の危険性は大きい。高速増殖炉は、プルトニウム239とウラン238を燃やし、さらにウラン238をプルトニウム239に転換させるというものだ。「燃やせば燃やすほど燃料が増える」という、いわばエネルギー保存則を無視したキャッチフレーズが使われている。いわば、国家・資本にとっての「永久機関」「賢者の石」なのである。錬金術というところであろう。しかし、半減期の長いプルトニウムがそもそも核燃料として使われている。

その上、冷却材として液体ナトリウムが使われている。「もんじゅ」にいって知ったのだが、まず、原子炉内の一次冷却系ナトリウムを循環させ、二次冷却系のナトリウムに熱交換し、さらに三次冷却系の水に熱交換して蒸気を発生させてタービンを回すというものだ。さらに、三次冷却系の水も海水と熱交換して、水に戻している。

そもそも、ナトリウムというものが、水や酸素に接触すると激しい化学反応を起こすというものである。「もんじゅ」は1995年8月に発電を開始したが、同年12月には二次冷却系からナトリウムが漏洩し、火災となってしまった。その後、長らく休止していたが、2010年5月に試験運転で臨界となった。ところが、8月には、核燃料を燃料交換時に仮置きする炉内中継装置の落下事故をおこしてしまった。まともに動いたことがないのである。

炉内中継装置の落下事故への対応自体は、機械的な問題だが、ナトリウムを空気にふれさせないことが必要のため、とにかく大がかりな作業が要されている。私が敦賀地方を訪れた5月24日は、炉内装置の回収作業に着手した日であった。

福井新聞(2011年5月24日付)は、次のように報道している。

初日(23日)の検査を終えて記者会見した保安院の原山正明新型炉規制室長は「回収作業は、保安規定に基づく特別な保全計画で行われる。炉内に空気を混入させない対策や重量物の落下防止を中心に文書や現場で確認した。いつ地震が起きるか分からず、早く抜いた方がいい」と説明した。

つまり、現在のところ、「もんじゅ」は地震に対して備えが万全でないことを原子力安全・保安院自体が認めているのである。

その他、「もんじゅ」は緊急冷却装置がない(ナトリウムの沸点が高いため、冷却材喪失は想定できないとのこと)など、とにかく、かなり、危険なものである。人が立ち入らないようなところに立地するということは、そのような危険性を想定しているとも考えられるのである。

敦賀市白木

敦賀市白木

といって、人が住んでいないわけではない。「もんじゅ」は、漁村である白木集落からよく見える位置にある。それは、遮蔽物がなく、放射線が到達するということだ。人が少ないからといって、いないわけではない。人々の生活と、危険な「もんじゅ」が共に在るということ。困るのは、クマだけではないのである。

美浜原発や敦賀原発のような軽水炉のほうが多少危険性が少ないとはいえるが、それは程度問題でしかない。福島第一原発のようなことは、どこの原発でも起こりうるだろう。前述したように、美浜原発では、事故が起きれば、遮蔽物なく放射線が丹生集落に達しうる。海陸ともに丹生集落の入口に原発にあるので、逃げ道は白木に行くしかない。そして、白木は陸路をたたれ、船で避難するしかなくなる。

敦賀市立石

敦賀市立石

敦賀原発も同じようなものだ。敦賀原発よりさらに先端部に属している立石集落も、事故があれば陸路をたたれ、海路で避難するしかないであろう。

このようなことは、起こりえないといわれてきたし、私自身も無意識で考えてきた。福島第一原発・第二原発について無関心でいられたのも、そのためだろう。しかし、以下に人口が少なくても、そのようなことがあれば、地域社会は壊滅的な打撃を受けるのである。

もはや、福島第一・第二原発の地を訪れることは、少なくともしばらくはできない。しかし、他の原発をみることで、地域社会に原発のあることの意味を想像することはできよう。そのような目で、他の原発もみていきたい。

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5月24日~25日、福井県敦賀地方の原発(日本原子力発電敦賀発電所、日本原子力研究開発機構「ふげん」「もんじゅ」、関西電力美浜発電所)を見に行った。ここでは、まず、5月25日にいった関西電力美浜発電所の様子についてみておこう。

関西電力美浜発電所―美浜原発は、敦賀発電所(営業開始1970年)、福島第一原発(営業開始1971年)とほぼ同時期の1970年11月に営業を開始した。福島第一原発建設にかかわった豊田正敏(元東電副社長)は、「関西電力が同時期をつくっていて、そっちが早く運転開始しそうだという情報があったので、それとの競争になったんですよ」(『週刊現代』2011年5月28日号)と語っている。いうなれば、福島第一原発のライバルであった。

美浜原発は、福島第一原発とは、設計が異なっている。軽水炉であることは同じだが、福島第一原発は沸騰水型軽水炉(BWR)といって、原子炉本体の冷却水が沸騰して蒸気となり、それがそのまま蒸気タービンを回す。このBWRは、東電―東芝・日立側の原子炉仕様となっている。美浜原発は、加圧水型軽水炉(PWR)といい、原子炉自体を冷やす一次冷却水は加圧して沸騰させないで液体のまま蒸気交換機まで循環させ、そこで二次冷却水と熱交換して二次冷却水を蒸気にして、蒸気タービンを回すというものである。このPWRは、関西電力―三菱側の原子炉仕様となっている。

美浜原発1号機と2号機

美浜原発1号機と2号機

美浜原発3号機

美浜原発3号機

PWRは、二次冷却水が蒸気タービンを回すもので、BWRよりは効率が悪いが、より放射線漏れが少ないといわれている。しかし、重大事故が起きなかったわけではない。美浜原発には、1号機(営業開始1970年)、2号機(営業開始1972年)、3号機(営業開始1976年)と、三つの原発があるのだが、2004年、もっとも新しい3号機で二次冷却系の復水配管から蒸気がもれ、5人が死亡し、6人が負傷するという死亡事故が起きている。

この事故は、高温高圧の冷却水によって配管が摩耗して破損したことが原因とされている。それ自体は、火力発電所でも起こりうることで、二次冷却系のため、放射線もれはなかった。しかし、この配管は営業開始以来28年間、一度も点検されなかったという。杜撰である。

丹生・奥浦から田ノ口を望む

丹生・奥浦から田ノ口を望む

この美浜原発の立地については、前述してきた日本原子力産業会議編『原子力発電所と地域社会』(1970年)が、福島第一原発と比較しつつ、詳細な考察を行っている。ここでは、詳しく述べることを差し控えるが、美浜原発が立地した丹生地区は、部落規制の厳しい漁村であり、半数近く反対意見があったが、部落会での多数決により受け入れを決めている。

さてはて、ここでは、美浜原発のイメージをみておこう。広瀬隆の著作に『東京に原発を』というものがあるが、それを借りていえば、『漁村に原発を』という感じがする。若狭地方は、対馬暖流の影響で、比較的温暖であり、背後の山は照葉樹林である。そのような山を後ろにして、海岸線には、丹生の漁村が連なっている。敦賀半島には、このような漁村が多い。水を覗くと、透明度が高く、そこに生えている海藻がよくみえる。そして、少し離れた場所には砂浜があり、海水浴場が広がっている。海はエメラルドグリーンで、まるで南国のようである。

丹生・奥浦からみる美浜原発

丹生・奥浦からみる美浜原発

そのような風景の中に、美浜原発が所在している。丹生からみると、美浜原発の所在地は小さな半島にあるのだが、美浜原発への往還のために丹生の入り江の入口に大きな丹生大橋が建設されている。丹生の集落からは、多少遠近の差があるが、どこからでも入り江の向こう側にある美浜原発をみることができる。いやでも、美浜原発の存在を意識せざるをえない。丹生からいえば、まさに中心的な位置に美浜原発は所在しているといえる。

このような原発立地があるだろうか、と思った。福島第一・第二原発は、もはやフィールドワークもままならないが、どちらも町の境界線上にあり、集落の中心ではないと思われる。東海村の原発も、浜岡原発も、近くに人家がないというわけでもないが、そもそも砂丘のあったところにあり、集落の中心ではなかったと思われる。日本原子力発電敦賀発電所・日本原子力研究開発機構「ふげん」(実は両者は同じところにある)や「もんじゅ」も、既存の集落の中心部からは外れているところに立地していると思われる。

丹生・田ノ口からみた美浜原発

丹生・田ノ口からみた美浜原発

水晶浜海水浴場からみた美浜原発

水晶浜海水浴場からみた美浜原発

もし、福島第一原発の同様の事故があれば、丹生はどうなってしまうのだろうか。山や林などで、隔てられているわけでもない。集落と原発の間には、丹生の入り江という、海しかないのである。丹生周辺の海水浴場もまた同じである。海水浴場と原発を隔てているものは、海しかないのである。

広瀬隆の『東京に原発を』は、ブラックジョークがきいたパロディである。しかし、いかに過疎で関係する人口が少ないとはいえ、集落の中心部に原発があるというのは…。変に風景に溶け込んでいるが、事故が起きてしまえば、放射線に対するなんらの遮蔽物もないわけで、目も当てられない。なにせ、この原発は、死亡事故まで起しているのである。

丹生で写真撮影をしている途中で、ある老人に、丹生内部の小字にあたる「田ノ口」はここですかと私は尋ねた。「田ノ口」は、立地過程で反対者が比較的多いところで、ほとんどが賛成した「奥浦」と対照をなしている。小字名を聞かれることは珍しかったらしく、何か研究しているのかと逆に尋ねられた。今の所、美浜について研究しているわけではないので、私はとりあえず写真撮影をしていると答えた。そうすると、この老人は「それなら、もう少しいて、この原発が爆発するのを写真にとればいいよ」と言った。もちろん、それは、冗談なのだが、単なる冗談ではない。よく聞くと、この原発は、トラブルがあって結構停止することがよくあるそうである。その時は、大体原発から蒸気が立ち上っているそうである。そして、逆にいえば、蒸気が立ち上っていると、原発でトラブルが起きたと判断できるとのことなのである。

まあ、こうも思うのだが…原発とはそもそもそういうものだったのだ。

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いわき市立美術館前のヘンリー・ムーアの彫刻

いわき市立美術館前のヘンリー・ムーアの彫刻

<緑濃きいわきにおける反原発集会>

さて、5月15日、いわき市の海岸部の久之浜、四倉、豊間を車で巡った後、いわき市中心部の平地区に向かった。

こんなに美しい街だったのか…まず、そんな思いにかられた。ほぼ10年前、ここにきた時は、雨にぬれ、なんか淋しい街だった。今日は晴天で、まさに新緑の頃、街路樹や公園の木々は青々としていた。街路も広々としていた。いわき市立美術館の前には、ヘンリー・ムーアの「横たわる人体・手」(1979年)という彫刻があった。

私は、いわき市平地区の中心部にある「平中央公園」に向かった。あまり大きな公園ではないが、真ん中に芝生の広場があり、そのまわりには大きな木が植えられていた。東京などと違って、芝生も木々も傷みがなく、青々としていた。

しかし、公園の前にある、「いわき芸術文化交流館」は被災し、ところどころ壊れ、その前の地面には、亀裂が走っていた。

この公園に来たのは理由がある。その日、この公園を出発点として「NO NUKES! PEACE DEMO in Iwaki, FUKUSHIMA☆ さよなら原発 放射能汚染のない平和な未来を求めるパレード」が開催されるということになっていた。前々から、福島県の被災地をみてみたいという希望があったのだが、こういうことがあるのならば、参加してみたいと思った。そこで、この日に福島県浜通りにくることにしたのだ。

それ以前、5月3日に東京新宿で行われたデモにも出ていたのだが…。こういうデモやパレードへの参加は、私が個人的にできる、本当にささやかな意思表示かと思ったので。

なお、この集会の趣旨は、このようなものだ。一言でいえば、福島第一原発における放射能汚染から、「子供たち」を守ろうということが目的となっているといえる。

〜子供たちを守りましょう!〜
2011年3月11日に発生した東日本大震災により引き起こされた、東京電力福島第一原子力発電所の大事故をきっかけに、私たちの生活や環境が大きく変化してしまいました。地震や津波の被害、余震への心配の上に、「放射能汚染」という更なる被害が私たちに覆いかぶさってきています。
日本全国、福島県全域はもとよりいわき市でも、行政の放射線量に関しての「安全キャンペーン」により正確な情報が市民に行き届いていない、または遅れ遅れの対応での被害拡大など、特に最近の小中学校に対する行政からの指示などは、子供を持つ多くの父母に甚大な不安を与えています。また、このままのやり方を行政に許していくことで、更なる環境汚染と健康被害を市民、とりわけ未来を担う子供たちへもたらすことは一目瞭然です。子供たちを守ることは、私たち大人の「責任範囲」です。
開催地いわき市の人々だけではなく、福島県全域または全国からの脱原発を望む人々、不安を抱えながらどうすることもできないと思っている人々、避難所でこの不条理な状況に憤っている人々、すべての人々が集い、元気を与え合い「私たちは無力ではない、私たちにも変えられる」という意識を持って帰れる、そんな場を一緒につくりましょう!(http://nonukesmorehearts.org/?page_id=462)

集会の中央にそびえるメタセコイア

集会の中央にそびえるメタセコイア

パレードに先立って、緑の濃い平中央公園で集会が開催された。通常演説壇が置かれることになる集会の中心は、一本のメタセコイアの木の根元であった。なんというか「自由の木」を思わせる。そして、その前の芝生広場に人が集まっていた。数百人ほどであろうか。警察の規制もあまり厳しくない。東京のギスギスした感じとは大違いであり、まるで、テレビでみる欧米の集会のようであった。趣旨が趣旨だけに母子づれが目立った。

このパレードは、「いわきアクション!ママの会」といういわき市の団体と、「No Nukes More Hearts」という東京に事務局のある団体の共催で行われ、「脱原発福島ネットワーク」という福島県の団体が協賛する形で行われていた。地元の団体と全国ネットワークがある東京の団体という共催の形である。司会者は「いわきアクション!ママの会」から出し、主催者挨拶は「No Nukes More Hearts」が行っていた。なお、どちらも、「母親」ということであり、その意味で趣旨通りであるといえる。「No Nukes More Hearts」の主催者挨拶は、福島県の人々にかなり気を遣っており、日本いや世界のために、福島県の人々こそ反原発で頑張ってほしい、その応援にきたのだという論調であった。

演説する福島県議会議員

演説する福島県議会議員

まず、福島県議会議員が挨拶を行った。その他にも、いわき市会議員も挨拶しており、自治体議員の参加が多かったようだ。

<福島ー東京の間における亀裂の露呈>

ただ、東京への微妙な思いが交錯していた。先に、パレードが地元の団体と全国ネットワークがある東京の団体という共催の形であると述べたが、東京などの他県の人々の協力は大きかったようある。集会スピーチも、他県の人が多かった。しかし、東京の電力供給のために福島が犠牲になったことへの憤りは強く、最初に挨拶した福島県議会議員は、「地産地消、東京の電力は東京でまかなってほしい」といって、拍手されていた。

さらに、次のようなことがあった(なお、この一件についてはメモをとっていなかったので、ニュアンスを違って記憶しているかもしれないことを付記しておく)。東京出身で、放射線への恐怖のため子どもとともに関西地方に転居した一人の母親が、涙ながらに「福島の原発の電力を、今まで享受してきたことを反省する」旨のスピーチをしていた。放射線の脅威から子どもを守るというのが集会・パレードの趣旨であるので、それにそっている発言といえる。

しかし、会場から、「川崎市民が福島県の瓦礫を受け入れないということをどう考えるのか」という発言があった。その発言をした人は、まあ初老の老人といえる人で、後でよくみたら、背中に「南相馬市」という文字を付けている衣服を着用していた。津波で大きな被害を受けた上に、多くの部分が「警戒区域」「計画的避難区域」「緊急時避難準備区域」に指定され、復興事業が遅れている南相馬市の人だったらしい。

スピーチをしている女性は「福島県の放射性物質に汚染されたものは、20km圏以内から動かさないようにしてほしい」などと答えたのだが、そこで論争になってしまった。ああいう場で論争する光景は、はじめてみた。

しばらくして、「東京の方からわざわざ来ていていただいて、感謝します」などという発言が会場からあって、とりあえず、収拾された。しかし、そのスピーチをしていた人と、会場で疑問をなげかけた人は、その後も檀上をおりて議論していた。

いわき市久之浜地区の瓦礫

いわき市久之浜地区の瓦礫

川崎市の話については、説明を必要としよう。川崎市長が福島出身で、好意で福島県の瓦礫(別に放射性廃棄物というわけではない)を引き受けて処理しようとしたら、市民より反対のメールが殺到したということだ。いわば、まさに「風評被害」なのだ。その結果はわからない。切ないなと思わなくもないが、今や、郡山市の校庭の土でも市内すら引き受け手がない状態になっていると聞いている。

16日付けの朝日新聞朝刊には、「警戒区域」「計画的避難区域」を除く福島県中通り・浜通りの瓦礫は、県内に焼却処分場を新設し、放射性物質を除去する装置をつけて、処理する方針を環境省が固めたという報道がなされている。技術的には可能ではあろうが、建設するだけでも日時がかかる。それに、このような施設の立地には時間がかかるのが通常である。

南相馬市鹿島地区の津波被災(4月9日撮影)

南相馬市鹿島地区の津波被災(4月9日撮影)

南相馬市では、福島第一原発事故のため、津波被災における瓦礫の片付けはすすんでいない。南相馬市においては、単に放射線への恐怖だけでなく、津波被災からの生活再建が進んでいないということもあるのだ。そして、それもまた、福島第一原発事故のためなのである。

南相馬市の人の発言の意味を考えると、その苦しみを、福島県で生産された電力を享受してきた関東圏の人々に少しでも分かち合ってほしいということであろう。

しかし、そのような真意と全く逆に、「福島県の放射性物質に汚染されたものは、20km圏以内から動かさないようにしてほしい」とスピーチ者の女性は応答してしまった。福島県内より低い放射線量の東京からでも、子どものために関西へ避難した彼女の応答は、素朴に考えるならば、理解できる。「放射能汚染から子どもを守る」というのが、今回の集会・パレードの目的でもあり、東京圏内の多数の子どもたちを守りたいということが、彼女の心情であろう。

だが、これは、東京などへの放射線汚染を防ぐために福島県内に放射性物質を封じ込めておくということであり、それは、そもそも福島県内に原発を建設した東電の意図に重なっていくことになろう。警戒区域などの福島県内は、どうするのか。論争になるのも当然である。

ここで、そのように答えたこの女性を批判するつもりはない。ここで考えなくてはならないことは、福島の地に原発が建設された時に前提とされた中央―地方からなる社会構造は、反原発運動の中における言説のあり方も規定しているということなのだ。本ブログの中で、どのように福島に原発が建設されたかということを問題にしてきたが、それは、それぞれの人の主体的意思をこえて、私たちを拘束しているのである。これは、全くのアポリアである。そして、これは、このブログを書いている私の問題でもある。

<和解の契機としての「共苦」>

このように露呈されてしまった亀裂はどのように解決されるのであろうか。「たぶん主催者側の人だと思うが、『東京の方からわざわざ来ていていただいて、感謝します』などという発言が会場からあって、とりあえず、収拾された。」と私は書いたが、そのことの意味を考えなくてはならない。子どもも連れて関西に避難したというならば、かなり放射線について恐怖しているであろうとこの女性については考えられる。それにもかかわらず、東京より放射線量が高いいわき市にきていたただいてありがとうといっていると解釈すべきなのだろう。

この発言を行った人の属性は、中年の男性ということしかわからなかった。内容からみて、会場進行の責任を担う発言であり、主催者側の人であろうと推測される。さらにいえば、この発言は、当事者の福島県の人でなければ意味をなさないといえる。こういうようにいえるのではないか。私たちもあなたも、放射線の脅威を感じている。あなたは、わざわざ放射線の脅威をおして、わざわざいわき市にきて運動に参加してくれた。そのことにわれわれ福島県民は感謝すると。

「放射線の脅威」にさらされながら共に在るということ、それが、社会構造に起因する亀裂を乗り越え、お互いの連帯を可能にさせているといえる。つまりは「共苦」の意識が人々をつなげているのである。それが、私にとっての、この集会で得られた意義であった。

<パレードに出て>

平中央公園を出発するパレード

平中央公園を出発するパレード

さて、ここで、もう一度、集会・パレードの光景にもどろう。パレードつまりデモなのだが、かなり牧歌的で、子どもも参加していた。東京のデモでは、車線はみ出し規制など警察が暴力的に行っていたが、ここでは主催者が行っていた。もちろん、警察も規制しないわけではないが、信号待ちのようなことに終始し、早く歩けなんていわない。

パレードの参加者たち

パレードの参加者たち

デモ文化もかなり変わりつつあるようだ。最初、年長の人が「シュプレヒコール」なんていっていたが、いまいちのりが悪い。一方「素人の乱」も参加しており、リズミカルな音楽をベースとして「原発やめろ」「原発いらない」「子どもを守れ」というコールをしていたが、最終的にはそちらの方が主流となった。どうやら、いわき市でデモが行われたのはひさしぶりらしい。猫が窓から顔を出して、デモ見物をしていた。

デモの際の市民向けのコールで、「今、私たちの体には放射線が貫いています」というのがあった。それはそうで…。感じ入った。いわき市のその日の放射線量は、0.25マイクロシーベルト。福島や郡山は1.3マイクロシーベルトを超えているので、それよりは低いのだが、東京の0.06マイクロシーベルトよりは高いのだ。

人のいい人が多かった。ある方から「どこから来たのですか」と聞かれ、「東京です」と答えたら、いわき市のいろんなことを教えてくれた。いわき市では今までデモなんてなかったそうである。主催者発表によると500名くらいが参加していたようだ。

また、途中で、平市体育館の前を通ったら、中から手を振ってくれた。避難所らしい。後日聞くと、福島第二原発のある楢葉町からの避難民であった。

デモ解散地点がいわき駅で、そこに近づくと、別の方が、「いわき駅から東京に帰るのですか」と心配してくれた。解散地点で「遠くから応援にきてくれた方々に感謝します」と主催者側がコールしていた。

まさに、優しい、美しい光景であった。「共苦」している人々への感謝。しかし、ずっと放射線量の高い地域で生活するということと、たまたま、短期間来訪したということは、レベルの違う話なのだ。そのことを、私は心に刻んでおかねばならない。そう思いつつ、車にて、東京への帰途についた。

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歴史研究者の会である東京歴史科学研究会の大会が下記のように5月28日(土)・29日(日)に開かれる。私も、29日に「自由民権期の都市東京における貧困者救済問題―貧困者の差別と排除をめぐって―」というテーマで大会報告を行うことになっている。

この大会は、本来4月に開催されることになっていたが、震災と計画停電のために、一か月開催が延期された。

私のテーマは、三新法で生まれた地方議会が、減税や民業圧迫さらには惰民論などを主張して、当時の貧困者救済機関であった東京府病院や養育院の地方税支弁を中止させ、民間に事業を委託していったということである。これは、日本において初めて自由主義が主張された時代を対象としているが、現代において新自由主義が主張される歴史的前提となったと考えている。

しかし、震災・原発事故・計画停電にゆれた3月頃、このような報告をしていいのかと真剣に思い悩んだ。ある意味、ブログで「東日本大震災の歴史的位置」という記事を書き出したのは、そういう思いもあった。

今は、逆に、今だからこそ、深く考えるべきことだと思っている。東日本大震災は、大量の失業者を生んだ。その意味で、一時的でも、雇用保険や生活保護にたより、地域の復興にしたがって、だんだんと雇用を回復していくべきだと思う。そうしないと、被災地域から、どんどん人が流失してしまうだろう。にもかかわらず、マスコミは、「雇用不安」をあおるだけで、生活保護などには言及しない。そして、新聞記事などをみていると、厚生労働省などは、生活保護をより制限することを検討しているようだ。

復興についても、声高に増税反対が叫ばれている。財源があればいいのかもしれないが、聞いている限り、まともな財源ではない。このままだと、関東大震災の復興の際、後藤新平のたてた計画案を大幅に帝国議会が削減したことが再現されてしまうのかもしれない。

もちろん、このようなことは直接報告できない。しかし、今の現状も踏まえつつ、議論できたらよいかと思っている。

とりあえず、ブログでも通知させてもらうことにした。

【第45回大会・総会】開催のお知らせ〔5月28日(土)・29日(日)〕
【東京歴史科学研究会 第45回大会・総会】

●第1日目 2011年5月28日(土)
《個別報告》 13:00~(開場12:30)
•佐藤雄基「日本中世における本所裁判権の形成―高野山領荘園を中心にして―」
•望月良親「町役人の系譜―近世前期甲府町年寄坂田家の場合―(仮)」
•加藤圭木「植民地期朝鮮における港湾「開発」と漁村―一九三〇年代の咸北羅津―」
個別報告レジュメ(報告要旨)
準備報告会日程

●第2日目 2011年5月29日(日)
《総会》 10:00~(開場9:30)
《委員会企画》 13:00~(開場12:30)
■「自己責任」・「差別と排除」、そして「共同性」―歴史学から考える―
•中嶋久人「自由民権期の都市東京における貧困者救済問題―貧困者の差別と排除をめぐって―」
•及川英二郎「戦後初期の生活協同組合と文化運動―貧困と部品化に抗して―」
•コメント 佐々木啓
委員会企画レジュメ(報告要旨)
準備報告会日程
【会場】立教大学池袋キャンパス マキム館M301号室
(池袋駅西口より徒歩7分/地下鉄C3出口から徒歩2分)
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/direction/

【参加費】600円

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美しき土地福島県浜通りを襲ったのが地震・津波・放射線であった。5月15日、山側の常磐自動車道から下りて、海岸線にそっている国道六号線を車で走ってみると、まず目に付くのは、津波の被害である。

いわき市久之浜というところで、海岸線に出た。ここは、厳密にいえば福島第一原発から30km以内であり、一時期は屋内退避圏であったが、4月12日に外された。なお、いわき市の北側の広野町は「緊急時避難準備区域」である。

車から降りて、海岸まで歩いてみた。そこは砂浜で、震災前は海水浴場であったらしい。防潮堤もあったようだが、それを乗り越えて、津波が襲来し、多くの家が被災していた。

いわき市久之浜地区の砂浜

いわき市久之浜地区の砂浜

いわき市久之浜地区の遠望

いわき市久之浜地区の遠望

ここで、写真撮影してきたら、くわえ煙草の老人が話しかけてきた。「ここは、まだ大したことはないよ」と言うのだ。「向こうの方に、海のそばに山がみえるだろう。あの山の麓に津波が襲来し、さらに火事になったんだ。津波が襲来して、家にいたままで流された人もいたと聞いている」と話してくれた。

「ここにも堤防があったんだが、こんなに低いじゃねえ、福島第一原発で15mというでしょう、この辺だって10m以上の津波だった」というのである。

老人は、運送業か漁師かわからないが、昔いろいろなところに仕事で行ったことがあるらしく、夏になったら、三陸のほうに行ってみるつもりだと言っていた。そこで、私も、4月に行った相馬市松川浦周辺では、国道六号線ぞいまで津波が襲来し、松川浦と水田が見分けがつかなくなっていたと述べた。老人は、「国道六号線まで津波が来たのか」と目を丸くしていた。

ここで、私は尋ねた。「ご近所の方ですか」。老人は答えた。「そうだよ。隣の四倉。ここは30km圏内、四倉は32km。今は避難所で暮らしている。家は海沿いにあって、津波で全壊した」とこともなげに話すのである。

どうも、いろいろと東日本大震災のことを目に焼き付けておきたいらしい。いわき市で他に多大な被災にあった場所として、塩屋崎灯台の近くの豊間という集落をあげていた。今はようやく通れるようになったとのことである。いろいろと親切に道順を教えてくれたが、「豊間」という集落自体を知らないので、よくわからなかった(最終的に行き着くことはできたのだが)。

最後に老人は、このように言った。「今朝のラジオで、(いわきの)放射線量が0.25マイクロシーベルトと聞いた。確かに、福島や郡山よりは低い。しかし、長く浴びていたらどうなるか、だれにもわからない」。私は、「そうですね」と言うより他はなかった。

老人と別れを告げて、その勧めにより、久之浜の中心部にいってみた。小さな町場となっていて、沿道の人家は、津波や地震によって壊れていた。ボランティアか業者か自衛隊かはわからないが、白い防護服をきた集団が、復旧作業にあたっていた。よく覚えていないが、ガスマスクもつけていたのではないかな。そのそばで、地元の人たちが、ランニングシャツ姿で、やはり復旧事業にあたっていた。地元と、それ以外の意識の落差が垣間見えていた。

いわき市久之浜地区の焼失跡地

いわき市久之浜地区の焼失跡地

いわき市久之浜地区の焼けた郵便ポスト

いわき市久之浜地区の焼けた郵便ポスト

いわき市久之浜地区への津波被災と防潮堤

いわき市久之浜地区への津波被災と防潮堤

さらに行くと、焼けただれた家屋が目立つようになった。焼けた郵便ポストが目に痛い。、建築物を中心とした瓦礫の山がそこにはある。はるか遠くに見える防潮堤が空しい。

ここ久之浜は、津波だけでなく、火災にも襲われたのだ。町場の津波被災地をこの目で見るのは初めてだ。相馬市周辺のように、広大な面積が津波で一掃されたというのではないが、生活の場を一瞬で破壊されたということは、久之浜のほうが強く感じられる。

ここは、30km圏内で、一時期は屋内退避圏であったことも忘れてはならない。二か月以上たった5月15日時点においても、いまだ瓦礫の撤去が進んでいないのは、そのためだ。前述のように、現在でも人によっては防護服着用で作業している有様である。それ[に、福島県内で、放射線を浴びたと想定される瓦礫をどう扱うかは問題になっている。環境省は、県内に放射性物質を回収できるような装置を設置した焼却処分場をつくるという。しかし、そもそも焼却処分場を一から作るのにもそれなりの時間がかかる。それに、どの自治体が立地を許容するのだろうか。

破壊された四倉港の港湾施設と残置された漁船

破壊された四倉港の港湾施設と残置された漁船

四倉港から船で運び出される漁船

四倉港から船で運び出される漁船

老人の住んでいる、南隣の四倉にもいってみた。確かに、大きな火災にはあっていないようだが、久之浜と同じくらい津波で被災していたと思った。漁港の周囲にはいまだ漁船が置かれている。ただ、瓦礫がまとめておかれていたり、被災した漁船を運び出す船が入港していたり、屋内退避圏ではなかったため、久之浜よりは復旧作業が進んでいた。

老人のいっていた豊間にもいってみた。多少迷ってしまい、次の用事があるので、通り過ぎただけだ。ただ、それでも、町場に瓦礫がまだ散乱していた。

いわき市の河畔

いわき市の河畔

最後に、たぶん「夏井川」だと思うが、いわき市の川べりの写真を掲載する。このように、福島県浜通りは非常に美しい土地なのである。ここに地震、津波(いや火災も)さらに放射線が襲ったのであった。

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湯の岳PAからみた常磐自動車道

湯の岳PAからみた常磐自動車道

湯の岳と湯の岳PA

湯の岳と湯の岳PA

「電気の要らない自動ドア」のある無人トイレ

「電気の要らない自動ドア」のある無人トイレ

湯の岳PAで咲く藤

湯の岳PAで咲く藤

湯の岳PAに咲く山吹

湯の岳PAに咲く山吹

少しでも福島県浜通りをみておこうと思って、昨日5月15日、常磐自動車道を経由して、いわき市周辺にいった。常磐自動車道は、前よく自治体史編さんで通った道である。茨城県東海村あたりまでは関東平野を行き、日立市周辺で山地に登って、たくさんのトンネル群を抜ける。このトンネル群を通過すると、いわゆる高原状の土地を常磐自動車道は通っている。

トンネル群をぬけて驚いた。こんなに緑の濃い土地であったとは、記憶していなかったのである。西側が山地で、東側は海だが、あまり海はみえない。まさに緑の大地である。

常磐自動車道には、震災の爪痕はそれほどみえない。必死に修復したのであろう。時々、路面が凸凹になっており、高速で走行するとかなりゆれるが、それくらいである。このような道が、浜通りの南側のいわき市周辺まで続いている。

途中、湯ノ岳パーキングエリアで休憩をとった。無人のパーキングエリアで、トイレと飲料の自動販売機しかなく、ここで食料を買い足そうと思ったので、多少困った。ただ、トイレが「電気の要らない自動ドア」であったことは笑えた。

それにしても、周囲の美しさは筆舌に尽くしがたい。写真をここで掲載するが、とても、あの緑の美しさは再現できなかった。藤や山吹が花盛りであった。

何も、湯ノ岳パーキングエリアだけではない。日立市以北の常磐自動車道は、ずっとこうなのである。まさか走行中に写真をとるわけにいかないので、湯ノ岳パーキングエリアで紹介しているだけだ。そう、福島県浜通りは、美しい土地なのだ。しかし、いまや、その多くの土地に立ち入ることはできない。

追憶によれば、この常磐自動車道を抜けると、国道六号線か平行する県道三五号線を使って、北に向かう。丘陵地には緑の濃い山林が広がり、その間の小河川沿いには水田が広がる。富岡町・浪江町といった小さな町をいくつか通過する。国道六号線を使えば、その道沿いに、東電広野火力発電所、福島第二原子力発電所、福島第一原子力発電所の入口が並んでいる。

2007年の双葉ばら園(ホームページより)

2007年の双葉ばら園(ホームページより)

一方、より山側の県道三五号線をいくと、「双葉ばら園」というばら園があった。ばらが好きだったので、十年ほど前に二度ほどいったことがあるが、いつも花盛りの頃は外れていていた。同園のホームページをみると、あれからかなり整備されたらしい。しかし、しばらくは、このばら園のばらをみることはできないだろう。

そして、国道にせよ、県道にせよ、北上すると、当時の原町市、現在の南相馬市に達する。そこは、相馬野馬追祭場が所在する台地であった。

富岡町夜の森公園(富岡町ホームページより)

富岡町夜の森公園(富岡町ホームページより)

十年前は、いつも先をせいていて、途中の場所によることはほとんど考えなかった。それこそ「双葉ばら園」くらいである。火発も、原発もわざわざおりて見学しようともしなかった。また、富岡町には「夜の森公園」という名所があるが、そこもみていない。そのことへの悔いは、私の中にある。

ブログで、福島第一原発、福島第二原発のことを書いているのだが、私自身が覚えていることは雰囲気だけである。それすらもあやふやで、あれほど緑の美しい土地であったことすら、今回いって再認識したくらいである。

いわき市あたりで、ちょっと浜通りをのぞき、その美しさを再認識しただけであるが…。避難を余儀なくされた人々は心苦しいであろう。あれほどの美しい土地から強制的に出ざるを得なかった人々がそこにはいるのだ。それは、今までの生活の場をすべて失ってしまうということでもある。もちろん、生活の場をすべて失ってしまうことのほうが、重大である。しかし、「美しい土地」への哀惜の念もそこにはあろう。

そればかりではない。東京に電源を供給していた福島第一原発の事故によって、東京ではなく福島浜通りの人々が生活を根こぎにされてしまった。そのことが胸に痛い。

今の所、しばらくは、圏外に残されている資料を通じてしか、浜通り中心部はアクセスできない土地である。そのような営為は、現状を認識しつつ、資料を使って事態を再現するトレーニングを受けた歴史研究者の責務であろうとも思う。そして、それは…それ自体残念なことだが、現地での資料収集(浜通りだけでなく福島市でもということであるが)が難しい。文献へのアクセスが比較的容易な、東京だから今できることでもあろう。

さて、次は、この美しい土地浜通りに襲った地震・津波・放射線の爪痕について、現状をみていこう。

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さて、原発立地自体は、地域社会にとって多大な利益を与えるのか。以前、本ブログで『富岡町史』を紹介し、福島第二原発によって獲得したものとして、固定資産税、電源交付金、雇用の場(といっても多くは原発定期点検中の臨時かつ被曝する恐れのある労働力のようだが)、明るい商店街などをあげているのをみた。

その問いは、実は福島第一原発の用地交渉を統括した、福島県企画開発部開発課長横須賀正雄からも発せられていた。横須賀は、日本ダム協会編『用地補償実務例(Ⅰ)』(1968年)に、「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」という文章を寄稿している(なお、この資料の存在はウィキペディアにより知った)。横須賀は最後の「7.今後の原子力発電所建設の見通しと問題点」で、まずこのようにいっている。

 

昭和41年に着工された1号機40万kwは、45年10月に営業運転が開始される予定であり、2号機75万kwは、現在、通産省等に対し許可申請中である。この敷地の中に、3号、4号という計画をもっているが、福島県としては、用地の広さからみて、4号のみではなく、8号程度まで建設できるのではないかと考えている。
 さらに、太平洋海岸線に沿って、このほかにも原子力発電所建設基地があるという判断のもとに、幾つかの原子力発電所建設誘致したいと考えている。

このように、福島県を代表して、横須賀は福島第一原発を8号機まで増設する(実際には6号機まで)ことを期待し、さらに他にも太平洋岸に原発を誘致する意向を表明していた。それが、東電の福島第二原発建設、東北電力の浪江・小高原発計画につながっていくのである。

にもかかわらず、横須賀は、発電所建設単体では多くのメリットが地域社会に下りると思っていなかった。次のように、横須賀は語っている。なお、ここであげている固定資産税は、減価償却によって毎年減じていく性格をもっている。まして廃炉になれば、税収減は著しい。

 

しかし、ここで問題になることは、かっての只見川電源開発の過程では、何万人もの労働者が集まり、長期間にわたり工事が行われたが、工事完了とともに田子倉、滝発電所50万kwのための運転要員がわずか残った程度で、電力は東京なり、仙台に送られるということにより、地元に対するメリットとしては、固定資産税程度しか残らなかったということである。横須賀によれば、工事中は多くの労働者が集まったが、工事終了後は運転要員しか残らず、電力もすべて大都市に送られてしまい、地域社会には固定資産税しか残らなかったというのである。

そして、横須賀は、次のように、地域開発への期待を物語るのである。

 

そこで県としても、単に原子力発電所建設のみでなく、地域全体の産業全般につき再検討を加え、生産業を主体とした工場の誘致をはかり、地域的開発を促進していきたいと考え、今後の方向等について調査を行なっているところである。

『福島県史』第五巻(1971年)は、1970年に発表された「福島県勢長期展望」を引用し、原子力発電所建設を契機とした地域開発を提示している。それによると、大規模重化学工業の展開、動力炉・原子力船の開発、原子核エネルギー利用開発のための研究機関の設置、冷却水を熱源とした温室栽培や養殖漁業の展開などを予想される地域開発の成果としている。福島県としては、原子力発電所建設単体では大きなメリットはなく、このような地域開発の契機となってはじめて原子力発電所建設は恩恵になるとしていたのである。

しかし、現実には、このような地域開発は難しかった。また、建設された原発はたびたび事故をおこし、元来からあった原発への不安を増幅させた。そのため、中曽根康弘が通産相であった1974年に成立した電源三法による電源交付金が必要になったといえる。

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 豊田正敏の回想でみたが、とにかく福島第一原発一号機は、トラブルの多い原発であったようだ。そして、このトラブルは、放射線漏れに結びつくおそれがあるもので、環境に流出しないまでも、作業員が被ばくすることになった。

池亀亮は、「初号機の誕生」(樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』、2002年所収)で、福島第一原発一号機のトラブルについて語っている。池亀は、GE社との契約担当者で、一号機の運転開始の責任者として、1969年に発電準備事務所次長として赴任している。その彼が、とにかく福島第一原発一号機のトラブル続出について語っているのである。

読んでいると、私が読んでいても信じられないものがあった。配管などの資材の運搬・保管方法が不備で、据付け後大量の錆が流出し、その錆が放射化されたうえ、再循環により管壁に付着し、作業場の放射線バックグランドを上昇させたというのである。さらに、池亀は「加えてこの一号機には運転当初から燃料の破損があり、これも補修作業時の放射線被ばくを増加させる要因となった」と述べている。

また、そもそもスペインの仕様でつくったため、原設計では耐震設計基準を満たせず、結局支持構造物の補強が必要となって、結果として内部空間が狭隘になり、作業員が構造物の間をすり抜けていくため、無駄な時間・被ばくが増大するということもあったとしている。

池亀は、このようなトラブル続出の要因として、本来、先行するスペインの同型炉の建設が遅れ、1号機が同型1号炉となってしまったこと、GE社とターン・キイ契約をしたことにより、かえって、同社と意思疎通ができなかったことをあげている。

池亀は、回想の最後に、次のようなエピソードを語っている。

-営業運転開始

 初期トラブルに悩まされながら、なんとか試運転の試験項目をこなし、一号機は昭和46年3月26日営業運転に入った。
 しかし、試運転責任者である私から見れば、プラントは青息吐息。いつダウンしてもおかしくない状態にあった。本店に運開の報告に行った時には、プラントの状態を正確に認識して貰う必要があると思っていた。
 ところが、本店ではどこへ行っても「よくやった」と言われた。とくに財布の紐を預かる、今は亡き長島副社長からは「100%出力をキープしているのはまことに立派」とお褒めの言葉を頂いた。
 一号機の建設は予算超過の連続で、長島副社長からは常々「原子力は金喰い虫」と叱られていたからこのお言葉は嬉しかった。一方、実は何時ダウンするか分からない状態ですと言い出すきっかけを失ってしまった。
 その後も発電所は何とか全出力で運転継続でき、そのうちに初期故障も次第に少なくなって、プラントの運転状態も安定に向かった。こうして初期故障はなんとか収まりかけてきた頃、次の問題、応力腐食、SCCが起こった。このSCC問題はBWRにとって死活の問題だったが、これはまた別に語られるべき主題である。

もちろん、何事も初めというものはあり、初期トラブルもあろう。しかし、「安全神話」の原発は、「いつダウンするかわからない」という状態で営業運転するものではなかろう。それに、結局トラブルはへったわけでもなく、また「応力腐食」という問題に直面したのである。

原発とはそもそもそういうものであったようだ。

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