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Archive for 2012年10月

ここで考えておきたいことは、「原子力の平和利用」の「平和」ということである。原発などの原子力の産業的利用において、特に日本では、常に「平和利用」ということが強調される。1951年に制定された原子力基本法には「平和の目的に限り」と原子力研究・開発が限定されている。

しかし、そもそも、原子力の利用・開発は、核兵器開発の「軍事利用」として、本格的に開始されたといえる。特にそのことを示しているのが、原爆製造のためにアメリカが第二次世界大戦中に実施したマンハッタン計画である。このマンハッタン計画については、平田光司「マンハッタン計画の現在」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)が要領よく整理しているので、これに依拠してみていこう。

ウラン (U235)の核分裂反応が発見されたのは1938年であった。この発見は、ドイツのベルリンにおいて、O・ハーンとF・シュトラスマンによって行われたが、そのことは1939年にはアメリカに伝わった。アメリカでは、カリフォルニアの E・ローレンスのもとで最新鋭の粒子加速器サイクロトロンがつくられており、すぐにウランの核反応の詳細が調べられた。1940年には、サイクロトロンを使った連鎖核分裂反応をおこすプルトニウム(Pu239)の生成にバークレーのG・シーボーグ等により成功した。しかし、プルトニウムの発見・合成はすでに兵器開発の一環とされ、公表されることはなかった。

そして、1941年には、元マサチューセッツ工科大学副学長V・ブッシュが科学研究開発部長になり、原爆の本格的開発をめざしたマンハッタン計画の実施が決定された。この時期想定された原爆製造方法としては、ウラン(U235)とプルトニウム(Pu239)の二つを用いる方法が考えられた。周知のように、天然ウランにおいては、核分裂反応を起こす U235は0.7%しかなく、ほとんどはU238である。原爆としてU235を使うためには、純度を90%以上にする必要があった。これがウラン濃縮である。大量にウラン濃縮をすることは難しく、ガス拡散法やサイクロトロン用に開発された巨大磁石を使う(電磁分離法)などの大規模施設が必要であった。このウラン濃縮施設はテネシー州オークリッジに建設された。
 
他方、プルトニウムの場合は、E・フェルミやL・シラードによって考案された原子炉を使うことが構想された。原子炉(黒鉛炉)の中で天然ウランを「燃焼」させ、天然ウラン中のU235を核分裂させて中性子を発生させ、中性子がU238にあたってPu239に転換になる反応を利用してプルトニウムを生産させるという方策がとられた。シカゴ大学に世界最初の原子炉CP−1(シカゴパイル)がつくられ、1941年12月には連鎖反応が確認された。そして、安全性を配慮して、人口の少ないワシントン州ハンズフォードにプルトニウム生産炉は建設された。このように、原子炉とは、まず原爆製造のためのプルトニウム生産の装置であったのである。
 
このようにして生産されたウランとプルトニウムを原爆に製造する施設として、1943年、ニューメキシコ州にロスアラモス研究所が作られ、所長に理論物理学者のオッペンハイマーが就任した。1945年7月16日、ロスアラモス南方のアラゴモードでプルトニウム原爆の核実験(トリニティ実験)が行われた。そして、周知のように、8月6日には広島にウラン原爆が、8月9日には長崎にプルトニウム原爆が投下されたのである。

第二次世界大戦後、原子力エネルギーの管理は、軍部ではなく、文民の原子力委員会( AEC)に移された。AECは、(1)核兵器の開発、(2)核エネルギーの利用(原子力)、(3)核(素粒子)物理学を管轄した。つまり、アメリカにおいては、第二次世界大戦後も、核兵器の開発と、核エネルギーの利用、核物理学研究は一体のものであった。

そして、いわゆる核エネルギー(原子力)の利用自体も、兵器生産と結びついて開始されたのである。前述したように、そもそも原子炉は原爆材料としてのプルトニウムを生産するために設置されたが、原子炉のエネルギーを動力源とすることをはじめて行ったのは原子力潜水艦であった。原子力潜水艦に搭載するために、水を減速材および冷却材として使い、濃縮ウランを燃料とする軽水炉が開発された。1954年には初の原子力潜水艦ノーチラス号が完成した。原子力潜水艦開発にはウェスティングハウス社とゼネラル・エレクトリック社が協力したが、原子力潜水艦用の軽水炉は民需用原子炉のモデルとなり、両社は、二大原発メーカーとして成長していくのである。

他方で、プルトニウム生産炉としての原子炉は、高速増殖炉計画へとつながっていく。高速増殖炉においては、U235の核分裂反応によるエネルギーによって発電するとともに、放出される中性子により、U238がPu239に転換し、核燃料がより増加していくことになる。プルトニウム生産炉としての原子炉のそもそもの性格を発展させたものといえる。しかし、ここで生産されるプルトニウムは、単に原発の燃料となるだけでなく、原爆・水爆などの核兵器の材料ともなるのである。
 
平田は、次のように指摘している。

原子炉は、もともと原爆製造のために作られたものであり、軽水炉も原子力潜水艦の動力源として開発された。原子力の平和利用は、兵器の製造過程を多少変えて、一般にも役立つようにしたものである。このため、原子力で発電する装置は即軍事に転用できる。…原子力は核兵器と同じ体系のものである。原子力が広まれば、核武装の可能性も同じように広まる。(平田前掲書91頁)

まず、原子力の本格的利用を開始したアメリカにおいて、原子力を原発などの民需に使う「平和利用」とは、核戦争のための軍事利用と一体のものとして位置づけられて開始されていたことに注目しておかねばならない。

その上で、平田は、このように述べている。

アメリカ、フランスなど原子力を進めようとしている国は核武装しており、国防という経済性を無視した聖域のなかで核兵器および原子力の開発を一体として進めてきた。原子力におけるマンパワーも豊富である。軍が基本的な開発をおこなって、ある程度のノウハウが確立してから民間を参入させている。リスクが莫大で事実上計算不能であり、投資が回収できる保証のない原子力の技術とは、国家が国防のために開発するしかないものではなかろうか。この観点からすると、導入の経緯が問題なのではなく日本の原子力は最初から平和利用のみであったため、輸入技術に依存したひよわな産業構造しか持てなかったのかもしれない。(平田前掲書98頁)

高速増殖炉や核燃料再処理などのプルトニウム生産にこだわる日本の原子力政策が「平和利用」目的だけかは疑問の余地があるが、その主流が軽水炉をつかった原発開発という「原子力の平和利用」であることは相違ないといえる。そもそも、核兵器開発と一体として開始された「原子力の平和利用」であり、名目としては「平和利用」に限定せざるをえない日本の「原子力研究・開発」は、そもそも矛盾をかかえていたといえるのである。

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2012年10月24日、原子力規制委員会は、現状で防災の目安とした原発から半径30kmより広い地域でも避難の基準となる積算被爆量を越える地域が出る可能性があることを公表した。そのことを伝えた朝日新聞の2012年10月25日付ネット記事を下記に示しておきたい。

4原発、30キロ圏外も避難線量 全原発の拡散予測公表

 原子力規制委員会は24日、全国16カ所の原発で東京電力福島第一原発事故のような深刻な事故が起きた場合の放射性物質の拡散予測を公表した。関西電力大飯原発(福井県)など4原発が、規制委が新たに防災の重点区域の目安とした原発から半径30キロより広い地域で、避難の基準となる積算被曝(ひばく)線量に達した。原発によっては従来の想定を超えた広い範囲を重点区域にした防災計画づくりが迫られる。

 国が全国の原発で大事故を想定した被害を予測し、公表したのは初めて。目安の範囲を超えたのは、大飯原発のほか、東電柏崎刈羽原発(新潟県)、福島第二原発(福島県)、中部電力浜岡原発(静岡県)。重点区域の対象市町村が増えることで、計画づくりが困難になることなどから、原発を再稼働させるのは一層難しくなる。

 規制委はこれまで重点区域としていた原発から半径8~10キロを、福島の事故を受けて国際原子力機関(IAEA)の基準に合わせて30キロに拡大。これを受け、自治体は来年3月までに防災計画を見直す。

 さらに、重点区域を指定するには、外部被曝と内部被曝を合わせて人が1週間に浴びる放射線被曝量が100ミリシーベルトを超える場合には避難を検討するというIAEAの基準も参考にする。今回の予測は道府県が重点区域の範囲を具体的に決めるための参考として示された。

 今回、福島の事故と同規模の事故が全国の原発で起きたと仮定し、各地の原発の基数や出力に応じて放射性物質の拡散を予測。その結果、大飯原発など4原発で、30キロを超える地点が積算被曝線量100ミリに達した。

 全国で唯一稼働中の大飯原発は、南南西から南東方向に放射性物質が広がりやすく、県境を越えて南に32.2キロ離れた京都市内でも積算被曝線量が100ミリに達した。隣接する関電高浜原発の予測では、大飯原発が避難基準値に達する地域に入る。高浜原発で事故が起きれば大飯原発も影響を受ける結果となった。

 全国で最も広範囲に放射性物質が広がると予測されたのは柏崎刈羽原発で、東南東方向に40.2キロ離れた新潟県魚沼市内でも避難基準値に達した。全国最多の7基が集中立地し、合計出力も最大。このため、予測上の放出量が最大になった。

 規制委が示した原子力災害対策指針案の重点区域で対象となる自治体数は、これまでの15道府県45市町村から30キロ圏内に拡大するのに伴い21道府県135市町村に増える。対象人口はのべ約480万人におよぶ。今回の予測で30キロ超の地域でも避難基準値に達したことを受け、原発によっては対象市町村がさらに増えることもある。http://www.asahi.com/national/update/1024/TKY201210240130.html

実際、この公表により、原発事故の際の避難区域が拡大され、より広範囲を対象にした防災計画が必要になったことは確かであるといえる。

しかし、この公表について、原子力情報資料室では、次のように批判している。

注意点1)このシミュレーションは福島原発事故で放出された放射能(1~3号炉の合計)が一度に放出されたと仮定しているが、事故想定でこれが最大とは言えない。
福島原発事故は水素爆発だった。最悪の事故を想定するのなら、水蒸気爆発による放射能の拡散を想定するべきではないか。

注意点2)シミュレーションの被ばく線量は7日間で100ミリシーベルトを想定しているが、これは規制緩和である。
原子力規制委員会はIAEA基準に合わせようとしているので、素案では、防災対策の範囲として半径30kmが導入される。正確には「緊急時防護措置を準備する区域(UPZ: Urgent Protective action Zone)のことで、避難および屋内退避を必要とする範囲である。これまで半径10kmだったので、規制強化には違いないが、単純に強化と言えないからくりがありそうだ。
 素案では避難の際の基準は「検討し、本指針に記載する」として、示していないが、シミュレーションでは7日間で100ミリシーベルトを想定している。これがこのまま基準になってしまう恐れが高い。また、これはIAEAの推奨する避難基準である(素案では、避難の際の基準について「運用介入レベル(OIL: Operation Intervention Level)」という用語を使っている)。
 現行の防災指針では、全身50ミリシーベルトなので、この点では規制緩和となる。さらに言えば、100ミリシーベルトを基準にするのはとうてい容認できない高い線量基準だ。これでは健康への悪影響は必至となってしまう。また、素案に従えば、例えば、飯舘村の村民のような高い線量の被爆後の避難が繰り返されることになる。
(後略)
http://www.cnic.jp/4757

この試算でも事故の規模を過小に見積り、避難基準を緩和しているというのである。

さて、ここで、原発創設期の問題に立ち帰って考えてみよう。前回のブログで、1959年、イギリスのコールダー・ホール型原子力発電所の導入による東海第一原発(電気出力約16万kw)建設が決められたが、その安全審査の際、事故の際の公衆被曝線許容量が約20Svから250mSvに引き上げられたことにあわせるため、事故の際放出される放射性ヨウ素の量を、1万キュリー(約370兆ベクレル)もしくは60万キュリー(約2京2200兆ベクレル)から、まず、250キュリー(約9兆2500億ベクレル)、最終的には、25キュリー(約9250億ベクレル)にまで引き下げたことを指摘した。つまり、想定される事故の規模を小さく見積もることによって、避難すべき区域を小さくし、原発事故の影響を小さくしたのである。

しかし、このような原子炉の安全性審査の背後で、実際の原子炉過酷事故についての試算が行われていた。

すでに、アメリカの原子力委員会は、1957年の「公衆災害を伴う原子力発電所事故の研究」( WASH-740)において、「最悪の原発事故の場合には、急性死者3400人、急性障害者4万3000人、要観察者380万人、永久立退き面積2000平方㎞、農業制限等面積39万平方㎞」(今中哲二「原発事故による放射能災害—40年前の被害試算」 『軍縮問題資料』223号、1999年5月所収。http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/genpatu/gunshuku9905.htmlに転載)と試算している。この試算結果により、アメリカでは、原発事故の賠償責任を一定額で打ち切るプライス・アンダーソン法が制定された。

他方、本格的な原発建設が開始されようとされた1950年末、日本においても、同様の法律を制定することが検討されていた。そのため、科学技術庁は、日本の原子力企業の業界団体である日本原子力産業会議(現日本原子力産業協会)に、WASH-740を手本にして原発事故の際の被害状況を試算する研究を行うことを委託した。日本原子力産業会議は1960年に「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」という報告書をまとめた。

この試算結果を、今中前掲書や武谷三男編『原子力発電』(岩波新書 1976年)に依拠しながらみておこう。この試算のモデルとしては、熱出力50万kw(電力約16万kw)の原子炉が海岸に所在し、原子炉から敷地境界まで800m、そして炉から20kmのところに10万人、120kmのところに600万人の都市が存在しており、これらの都市のほうに風が吹いていたと想定している。今中によると、東海第一原発の現実の立地条件(電力16万kw、20km地点に10万人の水戸市、120km地点に人口600万人の首都圏)にあわせていたとしている。その想定モデルは、次のようなものであった。

武谷三男編『原子力発電』107頁

武谷三男編『原子力発電』107頁

炉内には5億キュリー(約185京ベクレル)の放射性物質がたまっており、それが、2%(1000万キュリー、3京7000兆ベクレル)と0.02%(10万キュリー、3700兆ベクレル)放出されるという二つの場合を想定して試算された。たとえ、前述した東海第一原発の安全審査では、最終的に放出される放射性物質を25キュリー(9250億ベクレル)としていたが、それとは全くかけ離れた規模で原子炉事故が想定されていたのであった。

ここでは、1000万キュリー放出された場合の試算結果をみておきたい。下記の表によると、最も人的被害の大きいのは、気温逆転層がある状態でほぼ原子炉内の放射性物質と同じ構成のもの(全放出、なお揮発性放出とは揮発性成分のみ放出のこと)が粒度小(1μm)で放出された場合で、死亡540人、障害2900人、要観察400万人に達するとしている。なお、この死亡・障害は急性障害のみで遺伝や晩発性障害はカウントしていない。『原子力発電』では「要観察者」は25〜100レム(250〜1000mSv)の照射をあびており、この人びとのガン発生率は大人では2倍に、胎児・小児では約10倍になるだろうと指摘している。いずれにせよ、原発事故の場合、首都圏も含んだ多くの人びとに影響が及ぶであろうことが試算されていたのである。

武谷三男編『原子力発電』109頁

武谷三男編『原子力発電』109頁

一方、物的損害が大きいのは、雨天で全放出・粒度小で放射性物質が放出された場合とされていた。まず、物的損害の基準となる立退基準は、 A、12時間以内に全員立退き、B、1ヵ月以内で全員立退き、C、都市では半年退避、農村では立退き、D、一ヵ年農業制限となっていた。その表は下記に示す。なお、単位は1Sv=100レム(1レム=10mSv)、1キュリー=370億bqとして換算されたい。

武谷三男編『原子力発電』110頁

武谷三男編『原子力発電』110頁

そして、避難人数9万9000人(A+B)、耕作禁止(農村)・半年退避(都市)対象者が1760万人(C)、農業制限面積が15万㎢(D)、全損害金額が3兆7300億円となっている。1960年当時の国家予算が1兆7000億円であり、その2倍をこえている。その試算結果は下記の表に示しておきたい。

武谷三男編『原子力発電』108〜109頁

武谷三男編『原子力発電』108〜109頁

今中は、この試算による物的損害について、「10万人の早期立退き、1760万人の退避・移住、15万平方㎞に及ぶ農業制限といった数字に匹敵するようなことは、戦争にともなう壊滅的被害しか思い浮かばない。」と指摘している。つまり、東海村第一原発の認可で安全が強調される一方で、原発の推進者側は、原発事故の過酷さをそれなりに認識していたといえるだろう。このような原発の危険性についての認識は、1964年の原子炉立地審査指針の策定の前提になったと思われる。

しかし、このことは、ながらく隠蔽されてきた。「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」は、その試算結果については表で示すのみで、試算結果の意味については全く語っていない。この報告書は、1961年の「原子力損害の賠償に関する法律」の国会審議において概要のみが示されただけで、全体はマル秘とされた。1973年前後にはコピーで出回っていたようだが、科学技術庁は1989年の国会答弁で存在すら否定し、ようやく1999年になって国会に提出されたのであった。

この試算結果自体、電気出力16万kwという今からいえば小規模な原発を想定したものであり、ガンや白血病などの発生を想定していないものである。武谷三男編『原子力発電』では、電気出力100万kwの発電所を想定した1974年のラスムッセン報告を使ってさらに詳しく述べている。

ただ、、ここで確認しておきたいのは、日本で初めての商用原発(東海第一原発)の1959年の安全審査においては、非常に過小な原発事故規模の見積りをしておきながら、ほぼ同時期の1960年には、より大規模で広範囲な原発事故被害の試算を政府・原子力委員会・日本原子力産業会議は把握していたということである。このような原発被害の試算が、低人口地帯に原発立地を限定することになる1964年の原子炉立地審査指針の成立の前提にあったといえる。しかし、この試算結果は隠蔽され、原発立地において「安全」であることが強調されたのである。

すでに1960年という段階で、原発事故の広範囲で深刻な被害は想定されていたといえる。つまり、現在の福島第一原発事故とは、この段階から想定可能だった。そして、この想定結果が隠蔽されて、福島をはじめとする各地の原発立地はすすめられたのである。

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さて、このブログで述べてきたように、関西圏では、1957〜1960年にかけて関西研究用原子炉設置反対運動が惹起され、原子炉の立地問題が浮上していた。並行して、関東においては、商用原子力発電所第一号として建設されることになった東海発電所設置につれ、その安全性が問われる事態となっていた。政府・産業界が進めようとした原子力発電所建設計画は、湯川秀樹などの反対を押し切った形で1957年に承認され、その受け皿としての日本原子力発電株式会社(日本原電)が同年11月に発足した。そして、イギリス型のコールダー・ホール型発電所(電気出力約16万kw)が導入されることとなり、1958年6月にイギリス側と調印した。なお、イギリスのコールダー・ホール型発電所が導入される大きな要因として、この発電所に使われる原子炉が、元来天然ウランを燃焼してプルトニウムを生産する軍用プルトニウム生産炉であり、この発電所によって、電力だけではなくプルトニウムを得ようとした原子力担当大臣兼原子力委員長である正力松太郎らの意向が働いていたことが、有馬哲夫「日本最初の原子力発電所の導入過程」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)で紹介されている。この東海発電所が、日本最初の商用原発である東海第一発電所(東海第一原発と略称。現在は廃炉作業中)となっていく。
 
この東海第一原発の設置については、1959年3月より設置許可申請が出され、安全審査が開始された。しかし、それ以前からさまざまなかたちで安全性がとわれた。その背景になったことは、コールダー・ホール型原子力発電所原子炉の原型となった軍用プルトニウム生産炉であったウィンズケール原子炉が1957年10月10日に火災によりメルトダウン事故を引き起こしたということであった。このメルトダウン事故は、原子炉構内だけでなく、周辺にも放射能汚染を引きおこした。周囲の500㎢内で生産された牛乳は約1ヵ月間廃棄された。その意味で、原子炉—原発事故が、周辺にも放射能汚染を惹起することを明瞭に示した事例となった。

このコールダー・ホール型原子力発電所の安全性については、すでに1958年2月に、日本学術会議・日本原子力研究所・原子力燃料公社ほか主催で開かれた第二回日本原子力シンポジウムで議題となった。このシンポジウムの最終日2月9日に行われた「原子力施設の安全性をめぐる討論」において、電源開発株式会社の大塚益比古は、次のような指摘を行っている。

むすびに東海村のある茨城県の地図に、アメリカ・アイダホ州にある国立原子炉試験場の広大な敷地を重ねた図と、先日事故を起したウィンズケール周辺の地図をならべて示し、発展途上の原子力の現在の段階では、敷地の広さも一つの安全装置であり、一旦事故が起れば、公衆への災害を皆無にすることは不可能であることを考えれば、そのように広い面積を得ることは不可能なわが国では、たとえ原型にコンテーナーのないイギリス型の炉にも必ずコンテーナーを設けるなど、可能な限りの努力を安全性にそそがない限り、従来の技術では可能だった試行錯誤のできない原子力では、その発展を逆に大きくひき戻す結果にさえなりかねないことを強調した。(椎名素夫「原子力施設の安全性をめぐる討論」 『科学朝日』1958年4月号 36頁)

この図を、下記にかかげておく。アメリカの国立原子炉試験場にせよ、ウィンズケール原発による牛乳使用禁止区域にせよ、かなり広大であり、東海村にあてはめれば、人口密集地域である水戸市や日立市も含まれてしまうことに注目しておきたい。

『科学朝日』1958年4月号

『科学朝日』1958年4月号

特に、東海第一原発の安全性については、コールダー・ホール型原子力発電所の原子炉が黒鉛炉であって黒鉛ブロックを積み上げただけで、格納容器(コンテナー)をもたない構造であり、日本において耐震性は十分であるのかなどが中心的に問われた。この安全性問題の総体については、中島篤之助・服部学の「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅰ・Ⅱ」(『科学』44巻6〜7号、1974年)を参照されたい。ここでは、この研究を中心に、立地問題に限定して議論していきたい。

日本第一号の商用原発の立地について、当時審査基準がなかったため、敷地選択で紛議になることをおそれ、安全性を新たに検討することなく、すでに既成事実となっていた日本原子力研究所構内に建設することになっていた。そして、原発事故の際、最大規模で放射性ヨウ素が1万キュリー(約370兆ベクレル)もしくは60万キュリー(約2京2200兆ベクレル)流出すると想定し、アメリカ原子力委員会が公衆に対する許容線量としていた2000ラド(2000レム、シーベルトに換算すると約20シーベルト)を採用し、最大規模の事故の際でも立退きする必要がないとした。

しかし、ウィンズケール原子炉事故以後、イギリスの原子力公社原子炉安全課長ファーマーは、1959年6月にイギリスの新しい立地基準についての論文を発表した。中島・服部は、その骨子を次のようにまとめている。

同論文は立退きを要する放射線被曝量として25レムをとり、また敷地基準として次のようにのべていた。
(イ) 原子炉から450m(500ヤード)以内にほとんど居住者がないこと。
(ロ) 角度10°、長さ2.4km(1.5マイル)の扇型地域をどの方向にとっても、その中に500人以上の人が住んでいないこと。同じく子どもの大きな集団がいないこと。
(ハ) 8km(5マイル)以内に人口1万以上の都市がないこと。(同上Ⅰ、377頁)

このファーマー論文によって示された立退基準25レム(シーベルトに換算すると約250ミリシーベルト)は、設置者側にとっては大きな問題となった。もし原電のいう事故時の放射性ヨウ素の放出量1万キュリーを前提として、立退基準を8レム(約80ミリシーベルト)と規定した場合、風向きによっては100kmの範囲まで事故の際に立ち退く必要が出てくると、1959年7月31日に開催された原子力委員会主催の公聴会で藤本陽一が指摘した。他方、同じ公聴会で、設置に賛成する公述をした西脇安大阪大学助教授(関西研究用原子炉建設を推進した一人)は、立退基準25レムを認めた上で、放射性ヨウ素放出量についてはファーマー論文にしたがって250キュリー(約9兆2500億ベクレル)に引き下げて安全性を主張した(『科学朝日』1959年10月号参照)。

さらに、8月22日に学術会議の要請で開かれた討論会において、原電の豊田正敏技術課長(東京電力からの出向者であり、後に東電にもどって福島第一・第二原発の建設を推進、東電副社長となる)は、「申請書の内容あるいはそれまでの原電の言明を全く無視して、想定放射能量を25キュリー(約9250億ベクレル)とし、地震その他のどんな想定事故でもこれ以上の放射能がでることはありえない」(中島・服部前掲論文378頁)と述べた。いわば、安全基準は25レムとして、想定された事故時の放射能汚染を最終的には大幅に引き下げて帳尻をあわせたのである。

一方、ファーマー論文の基準によれば、東海第一原発は敷地基準の(ロ)と(ハ)を満足させていなかった。原子炉から1.3kmの所に小学校(子どもの集団)があり、さらに角度の取り方によれば、当時人口389人であった東海村居住区の大部分が入るが、その中に急増しつつあった原研職員は含まれていなかった。また、北方3.7kmの地点には人口11000人の日立市久慈町が所在していた。

まず、設置側の日本原電は、小学校は移転予定であると述べた。また、ファーマーは扇型は角度30°、長さ1.6kmとしてもよい、8km以内に1万人以上の都市がないということは直接危険を意味するものではなく、必ずしも守らなくてよいと述べ、自説を崩した。結局、この場合は、基準のほうを緩和したのである。

加えて、黒鉛炉のため格納容器がないので格納容器をつけるべきである、隣接して米軍の爆撃演習場があるなど、さまざまな安全上の問題が提起されていた。しかし、東海第一原発の安全審査にあたった原子力委員会の原子炉安全審査専門部会は、11月9日に安全と認める旨の答申を出した。そして、12月14日、内閣は正式に東海第一原発の設置を許可したのである。1960年に東海第一原発は着工し、1965年に臨界に達し、1966年より営業運転を開始した。しかし、この東海第一原発の建設はトラブル続出で、予定よりかなり遅延したのである。

このように、日本最初の商用原発である東海第一原発の安全審査については、原発事故時における放射線量の許容量が厳格になるにしたがって、原発周辺の居住を制限するなどとという当たり前の形ではなく、原発事故の規模を小さく見積もることによって、原発事故時の放射線量を許容量以下に抑えたのである。つまり、この原発の「安全性」とは、原発事故のリスクを小さく仮想することによって保たれていた。まさしく、仮想の上の「安全性」であったのである。

そして、この時期、通産省は、より実情に即した原発事故の想定を秘密裏に行っていた。それによると、東海村近傍の水戸市などはおろか、場合によっては東京にすら被害が及ぶ試算結果となったのである。このことについては、次回以降、みてみたい。

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関西研究用原子炉交野町設置案が挫折し、その後も立地に苦労している状況の下、福井県が研究用原子炉設置に乗り出すことになった。以前、本ブログでこの問題にふれたが、あまり十分に検討したとはいえない。ここで、もう一度、この過程をみておこう。

  • 関西研究用原子炉四条畷町設置案の帰趨
  • その前に、交野町設置案挫折後の関西研究用原子炉設置問題の帰趨をみていこう。交野町設置案挫折後、その南にある大阪府四条畷町に設置する案が浮上した。広重徹『戦後日本の科学運動』や門上登史夫『実録原子炉物語』を参考として、この経緯を追ってみることにする。1959年12月7日の大阪府原子力平和利用協議会において、四条畷町を原子炉設置候補地にすることが正式に決定された。そして協議会会長の田中副知事が京大・阪大両学長を伴い、四条畷町及隣接の大東市に協力を申し入れた。そして、12日には四条畷町で説明会が開かれ、その際は中曽根科学技術庁長官や阪大・京大総長も出席したが、表立った反対はなかった。しかし、12月15日には住民が設置反対を叫んで四条畷町役場におしかけ、翌16日には四条畷町議会全員協議会が開かれ、町議会議員全員が大阪府原子力平和利用協議会に反対陳情に行くことが決められ、17日には町議会議員全員が住民200人とともに府庁に赴いた。この日、大阪府庁への陳情後、四条畷町議会が開催され、設置反対が決議された。20日には大東市で説明会が開かれたが、激しい野次で混乱し、流会となった。27日には四条畷町で関西原子炉設置反対期成同盟の決起大会が開かれ、デモ行進が行われた。

    ただ、四条畷町・大東市とも、反対派ばかりではなく賛成派もいて、地域内で対立しあう状態となった。しかし、1960年3月23日にも大東市議会は四条畷町設置案を白紙に戻せとする決議を行い、翌24日には、四条畷町の反対規制同盟400人が府庁に陳情に行くという状態であり、反対意見は根強く主張されていた。そして、四条畷町では、反対意見を表明しなかった町長が6月にリコールされることになったのである。
     

  • 福井県における関西研究用原子炉誘致運動の開始
  •  
    このように、宇治・高槻・交野・四条畷などへの関西研究用原子炉設置案が住民の反対運動で挫折していった中で、関西圏外の福井県より、関西研究用原子炉設置を誘致しようという動きがみられるようになった。美浜町の『美浜町行政史』(1970年)によると、福井県では1957年に「原子力の開発及び平和利用を目的とした福井県原子力懇談会」(会長福井県知事)が設立され、誘致活動を開始したとされている。1957年は、関西研究用原子炉建設計画が具体化した時期であり、かなり早期から、誘致活動に乗り出したといえる。

    そして、1960年には、関西地域における設置が難航していた関西研究用原子炉を福井県に誘致する運動が惹起された。福井新聞朝刊1960年3月16日号には、次のような記事が載せられている。

    研究用原子炉 ぜひ本県へ 県原子力懇が運動 北知事にも協力要請

    県原子力懇談会は十五日福井市人絹会館で幹事会を開き、研究用原子炉を福井県へ誘致するための運動を起こすことを決め、県の方針としてこれを打ち出すよう同日北知事へ申し入れた。

     “立候補せば有力”

    土地の買収でいま問題になっている関西研究用原子炉の建設見通しが行き詰まってきたので、県原子力懇談会ではこの際思い切って福井県へ誘致してはとかねてから準備をすすめていた。実情調査のため京都大学にある関西研究用原子炉設置準備委員会へ派遣した小野寺福井大学助教授(懇談会幹事)の調査結果がこのほどまとまったので、それを検討したうえで誘致運動を起こすことにしたもの。
    小野寺助教授が関西炉設置準備委員の藤本、丹羽両京大教授、川合同大学事務官らにあって聞いたところによると、大阪府下では候補地がなく、最近では淡路島へでもという情勢にあるようで、福井県が候補地として名乗りをあげればかなり有力になるだろうとのこと。さらに放射能の危険度は極めて低く、炉が設置されると産業、観光、教育面でのプラスが大きい点などが明らかにされた。
    具体的な誘致運動については県と原子力懇談会が話し合って決めてゆくが、一部革新勢力、民主団体などの反対も予想されるので、運動するに当っては県民各層の意見を十分聞いたうえで行なうことを申し合わせた。
     中西原子力懇談会副会長の話 知事へ申し入れたところさっそく実情を調べて努力すると約束した。候補地については県内に二、三ヵ所あるが、十分調べて決めたい。これからの産業も文化も原子力をおいて考えられないからぜひ本県へ誘致したいと思っている。
     小野寺福大助教授の話 八月になると政府が出す土地買収収用の補助金千五百万円が失効するので、それまでに決めなければならないわけだ。土地の広さは三十三万平方メートル(十万坪)あれば十分で、よく水の出る井戸一本、それに下流に飲料用の水源地のないことが条件だった。放射能による川水や海水の汚染はほとんど考えられず、そういった心配はないと私は確信している。

    このように、前述の福井県原子力懇談会が中心となって、関西研究用原子炉を福井県に誘致しようという運動が惹起されたのである。特に、この中で、国立大学である福井大学の教員が積極的な役割を演じ、河川や海における放射能汚染はほとんど考えられないと主張していることは注目される。

  • 第一候補地であった福井県上中町(嶺南)
  • そして、福井県遠敷郡上中町長(現若狭町)が、関西研究用原子炉誘致を当時の中曽根康弘科学技術庁長官に、原発誘致を陳情した。そのことを詳細に伝えている福井新聞朝刊1960年3月18日号の記事をここで紹介しておく。

    研究用原子炉 上中町(膳部)に誘致を 玉井町長がすでに政府と折衝 全町あげて促進 中曽根長官も熱意示す

    玉井上中町長はさきに上京して首相官邸で中曽根科学技術庁長官に会い、研究用原子炉を同町新道地区膳部に誘致する話し合いを行なった。科学技術庁ではいま関西に研究用原子炉の設置を計画、大阪、京都府下に候補地を選定している。しかし各地区で土地買収がうまくゆかず最終候補地である大阪府北河内郡四条畷は地元民の反対にあい難航をきわめている。最近では淡路島九州方面に土地を求めて誘致する気配もみえている。このような情勢から上中町では関西に地の利を得た膳部を選定、中曽根長官に申し入れたもの。

    膳部は上中町中心部から約五キロの地点で滋賀県と県境にあり、国道二十七号線と同京都ー小浜線との中間にはさまれている。ともに約二時間で京都、敦賀に出ることができる。候補地は四方を山で囲まれた盆地で清水がわき出ている。昔は若狭藩主酒井侯の隠し田といわれ、総面積五十万平方メートル、研究用原子炉敷設の条件といわれる、三十二万平方メートルの平たん地、水利の二点では申し分なく、しかも関西に近いという地理的条件にも合致している。中曽根長官は膳部の建設に非常な熱意を示したといわれ、四条畷に建設が不可能な場合、本格的な調査を行うことを伝えた。すでに上中町会でも誘致を了承、また地元膳部では署名で玉井町長あてに誘致促進方を陳情する動きも出ており、今のところ全町あげての熱意を示している。なお同町長は中曽根長官と会見後東海村の原子力研究所の立地条件を視察した。

    玉井町長の話 中曽根長官は関西原子力研究所を九州に誘致しなければならないと心配していたところなので大変喜んでくれた。条件としては申し分ないといっていた。今後は県原子力懇談会と同調してぜひ誘致を実現したい。

    この上中町というところは、いわゆる「嶺南」地域にあった。沿海部というよりも、小浜市より南側の山間部に所在していた。この記事の中で、すでに中曽根康弘科学技術庁長官(当時)に陳情していること、先進地の東海村を視察していることに注目しておきたい。

  • 二番手で手をあげた福井県川西町(嶺北)
  • さらに、福井新聞朝刊3月19日号に、次の記事が掲載された。この記事では、福井県坂井郡川西町(現福井市)も関西研究用原子炉誘致に立候補したこと、そして、福井県の原子力誘致機関である福井県原子力懇談会では、川西町も含め、複数の地点を候補地として、関西研究用原子炉誘致をはかっていこうとする意向があったことが報道されている。

    原子炉の誘致運動 川西町も名乗りあげる

    鷹巣か三里浜に 北会長(県原子力懇談会)に申し入れ

    関西研究用原子炉を誘致しようと上中町では積極的に運動を起こしているが、川西町でも同町鷹巣地区か三里浜砂丘地に誘致するよう働きかけてくれと、十八日同町の小林助役が非公式に県原子力懇談会長の北知事へ申し入れた。

    県懇談会 現地調査始む

    一方北会長は最近県内へ原子炉を誘致しようとする運動が起こっているので、十七日長谷川福井大学長と会い、学術上の意見を聞いた。この結果「たとえ誘致しても付近の人畜に与える危険はない」との見解を得たので同懇談会では県内候補地の現地調査にとりかかった。川西町の候補地へは十八日、県原子力懇談会事務局の係員が山田町長、長谷川産業課長らの案内で下検分し、資料を持ち帰った。

    同候補地は海岸沿いの鷹巣地区糸崎台地区、石橋、白方の三ヵ所。糸崎では糸崎山付近を中心に約三十二万平方メートルの敷地があげられる。海岸線まで約五百メートル離れており、糸崎山から流れる水を十分使用できる。付近には松蔭、蓑浦、糸崎、和布の四区があるが原子炉の中心から三百メートル以上も離れているのでまず危険性がないといわれる。一方三里浜海岸の白方、石橋は必要な水源地確保問題に難色があり糸崎よりは条件が悪い。同町では今後、地元との土地買収に力を入れるが、地元ではいまところ深い関心を示していない。山田同町長は「今後地元との話し合いを進め、ぜひ同町に原子炉を誘致したい。半農半漁地帯なので、設置されれば、地元の繁栄はもちろん本県の文化向上にも大いに役立つので、県に近く正式に陳情書を提出して本格的な誘致運動をしたい」といっている。
    このほか候補地として北潟湖の近くの国有地(芦原ゴルフ場付近)もあげられているので、懇談会では政府や原子炉を建設する京都大の意向を聞いて、もし本県に設置してもよいということになれば、県、県会、有識者などの代表で用地選定委員会をつくりたいようである。

    この川西町は、いわゆる福井県の「嶺北」地方にあたっている。福井市の北西で、沿海部であった。この記事の中でも、福井大学長が危険性がないと明言している。しかし、原子炉の中心から300m以上人家が離れているから危険性がないとしているが、これは、交野町設置案でも推進側が主張した意見である。そして、交野町周辺の住民は1kmも離れていないことを設置反対の理由としていたのである。

    上中町については、『福井県史』通史編6(1996年)で「上中町は住民の合意が得られず誘致運動は進展しなかった」(同書716頁)と述べられている。しかし、福井新聞朝刊3月26日号では、川西町における最有力候補地の糸崎地区の周辺の、松蔭、蓑、糸崎、和布の四区長が建設に同意したことを伝えており、川西町では住民の合意は得られたのである。

  • 原子炉設置反対の声
  • しかし、福島県などとは異なって、福井県では原子炉設置に反対する主張がみられた。福井新聞朝刊1960年3月18日号では「県会で原子爐誘致を追及」という見出しで、17日の福井県議会の総務委員会で社会党の斎藤敬一県議が原子炉誘致方針を追及したことが報道されている。この記事では「斎藤氏の主張によれば『どこの県でも受け入れないものをなぜ県が積極的に誘致しようとするのか』というもの。なお社会党議員団ではもしこの誘致運動が具体化されれば、全組織を動員するといっている。」と述べている。福井県の社会党は、誘致に反対であったといえる。

    4月には、福井県レベルの総評系労働組合のセンターであった福井県労働組合評議会(福井県労評)も、原子炉誘致に反対の姿勢をとった。福井新聞朝刊1960年4月5日号には、次のような記事が掲載されている。
     
     

    誘致には反対 県労評、態度を決める 関西原子炉

    県労評は四日福井市の労働会館で執行委員会を開き、研究用の関西原子炉を県内に誘致する問題について協議した結果「いまの段階では自主、民主、公開の三原則が守られない恐れがある」などの理由から誘致には反対の線を打ち出し近く県にこの旨を申し入れることを決めた。
    研究用原子炉の誘致についてはすでに上中町と川西町が名乗りをあげているので、県労評としては何らかの態度をとるよう考えて、総評の大阪地評などと連絡をとって検討していた。
    この結果①研究の成果が軍事的に利用される恐れがある②上中、川西いずれの場合にも近くの川や海が放射能で汚染される恐れがある③誘致は全県民的な問題なのに、誘致運動は議会や理事会などが勝手に進めているなど自主、民主、公開という原子力研究の三原則をおかしているというもの。
    県労評では、こんご強い誘致運動が行なわれる場合は、関西の民主団体とも連絡して全県的な誘致反対運動を始める考えでいる。

    このように、福井県では、社会党・福井県労評などにおいて、関西研究原子炉設置反対の主張がみられた。この前提には、京都府・大阪府の各地で行われた関西研究用原子炉設置反対の住民運動の影響があったと思われる。

  • 福井県における関西研究用原子炉誘致活動の歴史的意味
  • 結局、関西研究用原子炉は、1960年末に大阪府熊取町に建設が決定され、福井県に研究用原子炉が建設されることはなかった。しかし、その後も福井県により原子力施設誘致の運動は継続され、1962年、日本原子力発電株式会社は、東海村に建設されている東海原発の次の商用炉建設の候補地を福井県川西町として調査を行った。川西町は原発建設の前提となる堅固な地盤が存在しないため候補地から外されたが、日本原電は福井県内で調査を続け、敦賀半島の二地点を候補地とすることになった。この二つが、いまの原電敦賀原発と、関西電力美浜原発となった。つまり、関西研究用原子炉誘致運動は、それ自体としては挫折したが、その後、福井県嶺南地方で集中的に原発建設が行われる契機となったのである。

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    ここで、「原子力の平和利用」の歴史的問題に立ち帰ってみよう。このブログで、以前、京都大学・大阪大学の研究者たちが中心となって関西に研究用原子炉設置が進められ、1957年に宇治市に設置されることになったが、宇治市の住民の反対運動で宇治設置案が撤回されていったことを述べた。その次に関西研究用原子炉設置の候補地となったのは高槻市阿武山であったが、これもまた隣接の茨木市を中心とした住民の反対運動が惹起され、理論物理学者武谷三男らも反対運動に協力し、撤回されざるをえなかった。このことについては、別の機会に検討してみたい。関西研究用原子炉高槻設置案の挫折を受けて、新たな設置候補地が検討されることになった。その候補地として検討されたところが、大阪府交野町星田地区(現交野市)であった。まず、どのような場所かをみておこう。

    京都府と大阪府の中間で、淀川の南岸である。生駒山地の北端にあたるといえる。ちなみに、高槻市も京都・大阪の中間であるが、淀川の北岸に位置している。いろいろ調べてみると、この星田地区には星田火薬庫があるようで、そうなると火薬庫などが所在していた宇治と同じような条件である。この交野町設置案については、隣接の水本村議会議員であり、反対運動の中心であった中西清太郎が『廃墟の中からーわが水本村の闘い』(1988年)という回想録の中でとりあげ、さらに「『ヒロシマ』『ナガサキ』は訴えなかったー三十年前の『反原子炉』闘争(『部落解放』1988年11月号)でも回想している。また、樫本善一「初期原子力政策と戦後の地方自治」 『人間社会学研究集録』2006年2号、2007年)でも分析されている。これらに依拠して、交野町設置案の帰趨についてみていこう。

    交野町に原子炉を設置することについて、交野町の隣接自治体である水本村関係者に内々の打診があったのは、1959年2月19日であったと中西清太郎は回想している。交野町などにも同様の打診があったと思われるが、詳細はわからない。ここで大阪府側から説明にあたったのは、大阪府原子力平和利用協議会小委員会委員長であり、大阪府議会副議長(日本社会党所属)であった高橋重夫である。高橋は関西電力の社員でもあった。つまり、関西電力の組合出身の議員であるといえる。高橋は、高槻市阿武山が第一候補としつつ、星田地区にゴルフ場建設計画がもちあがり、ゴルフ場を建設するくらいならば原子炉のほうがいいという声があがって、交野町星田が候補地となったとした。そして、原子炉の安全性を強調しながら、関連産業が集中し、工場誘致になるとして、原子炉設置のリターンをあげた。また、高槻市については設置困難の状況も認めているのである。

    そして、1959年3月26日、大阪府原子力平和利用協議会は、大阪府交野町星田地区(現交野市)を関西研究用原子炉設置の候補地として検討していることを正式発表した。その理由として、毎日新聞は次ぎのように報じている。

    同協議会の話によると、新候補地は阿武山以上に恵まれた立地条件にあるうえ、地元に対し道路網整備、関連産業誘致など有利な条件の提示もしているので新らしい進展が期待されるという…有利な条件とは
    ① 生駒山系の北端に当たり、地盤が強固で洪水の恐れがない。
    ② 原子炉の廃液は地下のパイプを通じて付近を流れている寝屋川に落されるが、宇治、阿武山のように上水道源に関係がない。
    ③ 付近に有力な産業はなくこれをきっかけに発展が期待される。
    などである。(『寝屋川市史』第六巻688〜689頁)

    重要なことは、ここで「有利な条件」として「付近に有力な産業はなくこれをきっかけに発展が期待される」があげられていることである。製茶業のある宇治市、醸造業がさかんだった茨木市と異なって、ここには有力な産業は存在していなかった。ゆえに、原子炉設置と引き換えに行われる「発展」は、この地域にとって切実なものであった。この毎日新聞報道によると、道路網整備、小公園設置、国鉄片町線の複線化などのプランが地元に示され、さらに、関連産業として電器メーカーが研究所を設置する意向があることも伝えられていたという。原子炉というリスクのあるものと引き換えに、地域開発というリターンを提示するという、その後の原発立地で繰り返されていたパターンが、ここで初めて明示的に行われたといえよう。

    しかし、交野町周辺でも、地域住民の反対運動に直面した。寝屋川市議会が1959年4月2日に、枚方市議会が4月4日に反対決議を出した。最も強固に反対したのは、前述した、交野町星田地区に隣接した水本村(現寝屋川市)の住民たちであった。水本村には被差別部落があり、その団結力は強かった。5月14日、水本村議会は、関西研究用原子炉交野町設置案に反対する決議を行った。この決議では、安全性について前年発表した日本学術会議の意見に依拠して、その理由を述べている。その部分をここで紹介しておこう。

    一、 関西研究用原子炉設置計画に対する日本学術会議の意見として「設置場所の選定にあたっては、人家の密集した市街地、地盤に対する安全性の期し得ない土地、浸水の恐れのある場所は避けるべきである」と述べられているが、交野町設置予定地より半径一粁以内に本村の全住民が居住している。伝えられるところによれば、寝屋川市太秦が候補地として検討されたとき、人家の密集と、地盤の問題で不適格となったとのことである。
    太秦と星田地区は僅か一粁の距離であり、人家の密集状況、地盤問題で大なる相違は考えられず、日本学術会議の意見と反するものである。(樫本善一「初期原子力政策と戦後の地方自治」 『人間社会学研究集録』2006年2号、2007年、91頁)

     
     これに対し、京大・阪大の研究者を中心にして組織されていた原子炉設置準備委員会は、5月26日に反論した。この反論も日本学術会議の意見を正当性の根拠としている。

    1、 関西研究用原子炉設置計画に「設置場所の選定にあたっては、人家の密集した市街地、地盤に対する安全性の期し得ない土地、浸水の恐れがある場所は避けるべきである」と記載されてある意見は、原子力委員会原子炉安全審査専門部会において慎重審議の結果発表され、日本学術会議原子力問題委員会がこれを確認したものである。
    2、 原子力委員会原子炉安全審査専門部会が発表している「人家の密集した市街地」とは、繁華な市街の中心地を指すものであって、そこに原子炉を避くべきである。と述べたもので、現在候補地となっているような環境の所を指しているのではない。
    3、 関西研究用原子炉は、設計上万全の措置を講じ、安全を確保しており、事故が起こらないように装備されている。
    したがって、事故の起こることは実際上予想する必要はないが、念のため、事故が起こったと仮想して、炉体からこれ以上の距たった地点では障害がないと推定されるような距離をとることとしている。
    (中略)
    これらについて、最悪の条件の下で計算した場合でさえ、われわれが設計している関西研究用原子炉の場合では、隔離距離は三百米以内と算定される。
    設置予定地は、住家から三百米以上距たった地点を選んでいる。更に現地のの地形を考えれば、自然の防護措置がなされているため、隔離距離はこれよりなお短くてよいこととなり、貴村に対して危険を及ぼす恐れはない。(樫本善一「初期原子力政策と戦後の地方自治」92頁)

    同じく、日本学術会議の意見に依拠しながら、全く別の結論が導かされているのである。結局、人家の有無ではなく、人家の密集がポイントであると、原子炉設置準備委員会の学者たちは答えたのである。そして、人家からの距離も、住民は1km以上としているのに、学者たちは300mでよいとしたのである。

     しかし、住民らの反対はますます高まっていった。水本村では、関西研究用原子炉設置反対期成同盟が結成され、本部長に村長の木下喜代治が、副本部長に村議会議長の田中周造と村議会議員の中西清太郎が就任し、団体として村議会議員他、河北再生資源取扱業者組合、消防団、青年団、農業協同組合、農事実行組合、部落解放同盟、4 Hクラブ(農業青年クラブ)、婦人会、職員組合、教職員組合、小中学校PTA代表者が参加した。水本村内には「関西研究用原子炉星田地区設置反対」の横幕やビラなどがはられ、枚方、寝屋川、大東、四条畷、交野をはじめとした北河内の各地を宣伝車がまわったと中西清太郎はかきとめている。

    村内に張られたビラの文面について、中西は次のように記録している。

    「危険きわまる原子炉を 安全論で押しつける 甘い言葉に耳かすな」
    「税金を 湯水のごとく費して 危険な原子炉押しつける 金ない吾らは団結だけ」
    「操り人形の学者たち 操る財界ヒモ引けば 口の中から二枚舌」
    「各国の爆発事故を見逃して 安全であると太鼓判 日本の学者も苦しかろ」
    「あちらこちらでいやがられ 行く先定めぬ原子炉も メンツにかけても置くという 学者の口にも舌二枚」
    「貧乏町村につけ込んで 危険な原子炉押しつける 学者の良心鬼になる」
    (中西『廃墟の中から』p153

    6月13日には、関西研究用原子炉設置反対村民決起大会が水本村で開かれ、「水本村の名において、いかなる説得も排除し、われわれの生存権と平和な生活を確立するため、関西研究用原子炉交野町設置案に断固として反対する」(中西前掲書p163)旨の決議がなされた。そして、次のような「宣言」が出された。

       

    宣言
     われわれは関西研究用原子炉の設置が、わが国の原子力平和利用による文化の向上、産業の発展に寄与し、関西経済を振興させる任務を持つことを十分に認識する。さらに研究用原子炉を設置することにより、地元北河内の発展を期待する心境も理解する。
     しかしながら、現段階においては原子炉はまだ完全ではなく、世界の各地では動力用原子炉はもちろん、研究用原子炉においてさえ事故が頻発する状況にある。
     関西研究用原子炉のスイミングプール型では、長期的に空気汚染があることは米国原子力委員会も警告しており、さらに、この原子炉設置には日本学術会議は「人家の密集した市街地を避けること。排水が上水道源に流入しないようにしよう」との意見を付しているが、現在の予定地の半径1キロ以内には村民が居住し、20キロ以内には約1万人が居住している。
     われわれは、宇治案における設置反対理由や阿武山案における学者・地元関係者の反対理由を知るにおよんで原子炉の危険性を深く認識し、なおかつ星田火薬庫の近くに原子炉が設置されることに脅威を抱くものである。
     国会は、現在、わが国の原子力科学技術の低さを認識し、政界は地元居住者の生存に影響する原子炉の危険性を確認している。星田案を撤回して人道主義の立場から科学的、民主的に設置案を基準の討議から再出発さるべきである。
     右宣言する。
      昭和三十四年六月十三日
                                   関西研究用原子炉交野町設置反対村民決起大会

    この宣言については、原子力の平和利用の必要性や地域開発の重要性を指摘しながらも、現状の科学技術では安全性を保証しえないとしている点に注目すべきであろうと思う。それまで、反対運動総体の基調としては、他に設置すればよいのではないかということが反対理由となっていた。それは武谷三男も変わらない。この宣言では、他に設置すればいいという表現は明示されず、現状においては設置すべきではないということが強調されているといえる。被差別部落をかかえている水本村では、結核療養所が立地されていた。ある意味で、条件の悪い地域に他で引き取り手がない施設が立地される悲哀は水本村民たちは了解していたといえる。それが、他に設置すればいいという表現をさけることにつながったといえる。

    6月18日には、近隣の寝屋川市議会が、同市を貫通する寝屋川の上流水源地域に設置され、最終的には廃液が大阪市の重要河川である堂島川や土佐堀川に注がれることになるとして、設置反対の決議を再度行った。しかし、6月29日には、大阪府原子力平和利用協議会より交野町長に設置協力を依頼する文書が手渡され、近隣の寝屋川市や水本村などにも依頼状が送られた。それでも、住民の反対はおさまらなかった。特に、水本村では、建設予定地の強制測量を阻止するため、「強制立入り調査監視所」を設置した。中西によると、監視所には竹槍が常備され、強制測量調査団が来た場合には小型サイレンと半鐘で水本村民に知らせ、村民が集まって、調査団を追い出すということになっていたそうである。

    水本村民の働きかけで星田地区の住民も原子炉設置反対運動に参加するようになった。8月中旬には、当初設置受け入れに傾いていた交野町・交野町議会も慎重姿勢をとらざるを得なくなった。

    そして、8月15日、前述した大阪府原子力平和利用協議会小委員会委員長であり、大阪府議会副議長(日本社会党所属)であった高橋重夫が交野町と交渉するために交野町役場に入ろうとするが、水本村・交野町星田地区・寝屋川市の住民2000人からなるデモに妨害され、そこで暴力を受けるという傷害事件が発生した。そして、8月17日に、交野町は、大阪府に正式に設置撤回を申し入れた。結果的に、曲折はあったが、10月頃には、交野町設置案の挫折は明白になったのである。

    なお、この傷害事件発生について、水本村側は不本意であるとして、記者会見でも反省の弁を発している。そして、8月17日の交野町からの抗議を受けて、水本村は謝罪している。さらに、最終的に9人が逮捕され、全員有罪となった。中西は「しかし、不覚にも原子炉設置推進派の挑発にひっかかって傷害事件を引き起こしてしまった。これが部落差別の再生産に悪用されるのではないかという点が気がかりでならない。この事件は、『部落であるがために』起こったものでは絶対にない。このことについて、とくに強調し、理解を求めたいものである」(中西前掲書p194 )と主張している。

    中西は、部落に立脚した運動の強味をこのように回想している。

     

    村民が団結して、みんなで村を守ろうということだったのです。よそから入ってきた人たちが原則論を並べて訴えても村の人たちはついてはいかなかったでしょう。やはり、顔を知った者同士が声をかけ合うなかでの反対論というのがよかったのではないでしょうか。やっぱり、村のもん同士の話のほうが納得するんですね。運動の指導者と一般村民という関係ではなく、みんなが同じ場所で語り合ったということです。
     このなかで私たちは、被差別部落独特の強みを発見しました。それは、あの公衆浴場です。わしらの村の人は大部分は銭湯に行った。そこは唯一の交流の場所でもあります。この反対運動の最中に銭湯の風景を見ていると、あっちでもこっちでも原子炉問題の話です。裸になったままやり合っている。着物を着ても帰らずに集まって語り合っている。新しい情報がすぐに伝わる。ステテコ一つで二.三人の人が私の家へ「これ、どういうこっちゃ」と聞きに来る。毎日毎日、公衆浴場で原子炉問題の研究会が開かれているようなもんで、それが団結を固めるのに大きく役立ったように思います。原子力のゲも知らなかった人たちが、そういう話のなかで勉強していったのです。専門家はだれもいませんでした。(中西「『ヒロシマ』『ナガサキ』は訴えなかったー三十年前の『反原子炉』闘争」、『部落解放』1988年11月号、p100)

    このように、被差別部落の共同性に依拠しながら、関西研究用原子炉設置反対運動が展開していったといえる。中西は、被差別部落である水本村の過半数は生活に困窮しており、大阪府の施策で豊かにするいうような切り崩し工作があったということにふれながら、このように述べている。

     

    だが、私たちは、一時的によくなるような交換条件を飲んで自分の住んでるところをダメにするわけにはいかん。わしらは長い間、貧乏に慣らされてきてるから貧乏でもいい。それよりも子孫に安全な、暮らしよい郷土を引き継いでいくのが専決じゃ、と頑張ったわけです。(中西「『ヒロシマ』『ナガサキ』は訴えなかったー三十年前の『反原子炉』闘争」p97)

    このような運動の論理は、1960年代末から1970年代かけてにさかんになる一般的な反公害の住民運動の中でもみることができる。原発建設反対運動も含めた住民運動の課題について、政治学者の高畠通敏は、このように提起している。

    しかし、住民運動の主張が、資本主義的な意味での私権の論理ではなく、生活権としての基本的人権に属するものとしての私権の主張へと向かっていることを了解しておくことは、共同体的シンボルや伝統的心情の動員と重ねて理解する上で重要である。共同体や地域社会における生活権の擁護を、工業化や機械化による所得や便益の全体的上昇より優先させるという思想は、結局、日本社会が経済の低成長を受け入れ、公害の少ない知識集約産業を中心に産業構造を変換し、所得や便益よりも生活の質を重視する方向へ全体として体系的に移行することを前提としている。その移行が起こらないかぎり、住民運動は、結局、孤立的・散発的な抵抗として、今後も生起しつづけるに違いない。住民運動を連合して一つの大衆運動としての力を形成しようという試みは、なされているが、それは数としては、未だ一部に止まっている。個別的問題にこだわる住民運動の性質上、そういう運動の横断的組織化は行われにくいのである。」(高畠通敏「大衆運動の多様化と変質」 『55年体制の形成と崩壊』 1979年)

    まさしく、1959年の関西研究用原子炉交野町設置への被差別部落による反対運動の論理は、1960年代末から1970年代の反公害の住民運動の中にも受け継がれていくといえる。そして、これは、私たちの現状の課題でもあるのだ。

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    前回は、柏市で4月初め時点で0.50μSv/h程度の比較的高い放射線量が計測されたにもかかわらず、柏市に所在する国立の専門機関である東京大学と国立がん研究センターが身体に直ちに影響がないなどのコメントを出していたことを述べた。そして、柏市もそのコメントに当初従うしかなかった。

    それが変わってくる契機となったのは、2011年5月27日に文部科学省が学校における子どもの被ばく線量につき年間1mSv以下にすることを目標とすると発表したことであったといえよう。周知のように、文部科学省は4月19日に子どもの被ばく許容線量を年間20mSv以下とすることを発表した。かなり後のものであるが、文部科学省の考え方がわかるものとして、次のサイトの記事をここであげておこう。

    「福島県内の学校等の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方」等に関するQ&A

    1.「福島県内の学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」とは、どのような内容なのでしょうか。

    「福島県内の学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」(以下「暫定的考え方」という。)は、福島県や文部科学省が、福島県内の学校等で行った放射線モニタリングの結果を踏まえ、学校等の校舎・校庭の利用判断に関する目安を示したもので、4月19日に政府の原子力災害対策本部が原子力安全委員会の助言を得てまとめたものです。
    具体的には、年間1から20ミリシーベルトを学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的目安とし、今後できる限り、児童生徒等が受ける線量を減らしていくことが適切であるとしています。
    また、毎時3.8マイクロシーベルト(1年間365日毎日8時間校庭に立ち、残りの16時間は同じ校庭の上の木造家屋で過ごす、という現実的にはあり得ない安全側に立った仮説に基づいた場合に、年間20ミリシーベルトに相当)の空間線量率を校舎・校庭等の利用判断における暫定的な目安とし、校庭等の空間線量率がこれ以上の学校等では、校庭等での活動を1日当たり1時間程度にするなど、学校の内外での屋外活動をなるべく制限することを求めています。4月19日時点でこれに該当する学校は13校ありましたが、現在では、この目安以上の学校はありません。
    さらに、文部科学省は、児童生徒等の受ける線量が実際に継続的に低く抑えられているかを確認するため、原子力安全委員会の助言を踏まえ、

    学校等における継続的なモニタリングを実施し、その結果を原子力安全委員会に報告する
    学校等に積算線量計を配布して、教職員に携帯して頂き、実際の被ばく状況を確認する
    こととしています。

    また、今回の「暫定的考え方」は、モニタリングの結果等を踏まえ、おおむね8月下旬を目途に見直します。
    「暫定的考え方」は学校の校舎、校庭の利用の判断基準となる考え方であり、「年間20ミリシーベルトまで放射線を受けてよい」という基準ではありません。

    2.「暫定的考え方」の毎時3.8マイクロシーベルトというのは、どの程度の放射線量だと考えればいいのでしょうか。

    放射線防護の国際的権威である国際放射線防護委員会(ICRP)は、緊急時や事故収束後等の状況に応じて、放射線防護対策を行う場合の目安として「参考レベル」という考え方を勧告しています。緊急時は年間20~100ミリシーベルト、そして、事故収束後の復旧時は年間1~20ミリシーベルトの幅で対策を取るべきとしています。
    「暫定的考え方」では、いまだ福島第一原子力発電所の事態が収束していない状況ではありますが、児童生徒等を学校に通わせるという状況に適用するため、緊急時の参考レベルではなく、復旧時の参考レベルである年間1から20ミリシーベルトを暫定的な目安とし、これをもとに、毎時3.8マイクロシーベルトという校舎・校庭の利用判断の目安を導いたものです。
    具体的には、児童生徒が放射線の強さが毎時3.8マイクロシーベルトの校庭に1年365日毎日8時間立ち、残りの16時間は同じ校庭の上の木造家屋で過ごす、という現実的にはあり得ない安全側に立った仮説に基づいた場合に、年間20ミリシーベルトになることになります。
    実際には、放射性物質は時間の経過とともに減衰します。実際にその後放射線レベルが下がっていることが確認されています。仮に3月10日以前の生活パターン(校舎内5時間、校庭2時間、通学1時間、屋外3時間、屋内(木造)13時間。3月11日以降はより屋内中心の生活となっていると想定される。)に基づく、より現実的な児童生徒の生活パターンに当てはめて試算すると、児童生徒が受ける線量は4月14日時点の校庭で毎時3.8マイクロシーベルトの学校の場合でも、多くてもICRPの参考レベルの上限である年間20ミリシーベルトの半分以下であると見込まれます。(後略)
    http://www.mext.go.jp/a_menu/saigaijohou/syousai/1307458.htm

    細かな試算については、上記の文部科学省のサイトをみてほしい。文部科学省は、福島県の学校を対象として、児童・生徒の被ばく線量を年間20mSv以下におさえることとし、それ以上になる場合は校舎・校庭の使用を制限するとしたのである。具体的には3.8μSv/hを基準としいていた。文科省としては、3.8μSv/hでも年間20mSvにはならないとしている。この基準では、最高0.74μSv/h程度が計測されていた柏市の放射能汚染は問題にならなかったといえる。

    しかし、この年間20mSvという基準は、5月27日に文科省によって事実上見直され、1mSvを目標とすることになった。これは、福島県内の学校や保護者の声など世論の力が大きかったといえる。朝日新聞朝刊2011年5月28日号は、このように伝えている。

    子どもの被曝量年1ミリ以下目標 文科省

     放射能の子どもたちへの影響が不安視されるなか、対応を迫られた文部科学省は、学校での児童・生徒の年間被曝量を1ミリシーベルト以下に抑えることを目指す方針を打ち出した。校庭の土壌処理の費用を支援するほか、専門家の意見を参考に被曝量の低減に向けた方策を探るという。
     文科省は、校庭利用の制限を巡る年間20ミリシーベルトの基準はひとまず変えない考えだ。しかし、福島県内の学校や保護者から「基準値が高すぎる」「子どもの健康に影響があるのではないか」との声はやまず、文科省として放射線量の低減に積極的に取り組む姿勢を示した。
     毎時1マイクロシーベルト以上の学校の土壌処理の費用について、国がほぼ全額を負担。今月末からは放射線防護や学校保健の専門家を対象にヒアリングを重ね、学校や家庭生活でさらに被曝量を下げることが可能かどうか検討するという。

    また、ここで、前述の文科省のサイトから、5月27日の方針変更について述べているところをみておこう。文科省は、年間20mSvという基準はかえないが、年間1mSvを目標とし、除染などを実施するとしている。文科省としては、この期に及んでも年間20mSvを基準とすることにこだわっていたといえる。

    7.5月27日「福島県内における児童生徒等が学校等において受ける線量低減に向けた当面の対応について」は、どのような内容なのでしょうか。

    福島県内における学校等の校庭等の土壌対策に関しては、5月17日に、原子力災害対策本部において「原子力被災者への対応に関する当面の取組方針」を策定し、教育施設における土壌等の取扱いについて、早急に対応していくこととされました。
    また、第1次補正予算により、福島県内の全幼稚園、小中高等学校、高等専修学校等に、携帯できる積算線量計を配布することとし、5月27日に配布しました。これにより、各学校等における、年間の積算線量の測定が可能となりました。
    これを機に、「暫定的考え方」で示した、今後できるかぎり、児童生徒等の受ける線量を減らしていくという基本に立ち、今年度、学校において児童生徒等が受ける線量について、当面、年間1ミリシーベルト以下を目指すこととしました。具体的施策として、文部科学省または福島県による調査結果に基づき空間線量率が毎時1.0マイクロシーベルト以上の学校等を対象として、校庭等の土壌に関して児童生徒等の受ける線量を低減する取組に対して、学校施設の災害復旧事業の枠組みで財政的支援を行うこととしました。

    7-1.5月27日に基準を20ミリシーベルトから1ミリシーベルトに引き下げたと聞きましたが、従来の「暫定的考え方」を変更したのでしょうか。

    4月19日に示した「暫定的考え方」は、児童生徒等が学校内外で受ける放射線量について、年間1から20ミリシーベルトを暫定的目安とし、今後できる限り減らしていくことが適切であるとしています。
    5月27日に示した「当面の対応について」は、この「暫定的考え方」を実現するため、その方針に沿って、今年度、学校内における線量低減の目標を掲げるとともに、目標実現のための方策を示したものです。
    具体的には、今年度、学校内において受ける線量について、当面、年間1ミリシーベルト以下を目指すとともに、土壌に関する線量を下げる取組に対し、国として財政的な支援を行うこととしました。
    今回の措置における年間1ミリシーベルト以下というのは、「暫定的考え方」に替えて屋外活動を制限する新たな目安を示すものではなく、文部科学省として、今後、まずは学校内において、できる限り児童生徒等が受ける線量を減らしていく取組を進めるにあたり、目指していく目標です。
    したがって、年間1ミリシーベルト以下を目指すことによって、学校での屋外活動を制限する目安を毎時3.8マイクロシーベルトからその20分の1である毎時0.19マイクロシーベルトに変更するものではありません。
    http://www.mext.go.jp/a_menu/saigaijohou/syousai/1307458.htm

    この学校における子どもの被曝量を年間1mSv以下とするという方針が、その後の除染基準となっていく。その意味で、この方針の意味は大きい。しかし、この方針が、いわば福島県の人びとを中心とした世論の力で文科省に押しつけていったことは注目しなくてはならないといえる。

    そして、本来、子どもの被曝量問題は、放射能汚染が顕著な福島県の問題であった。もちろん、首都圏でも、柏市に限らず放射線量は平常値よりも高く、健康に対する不安を訴えていた人が多数存在し、避難していた人びともいた。しかし、それまで、文科省などの政府側が年間20mSvを基準としており、公的な問題にすることは難しかったといえる。ここで、文科省がしぶしぶながらも福島県の子どもたちの被曝量を年1mSvを目標とする方針を打ち出したことにより、首都圏でも放射能汚染問題を公的に問題にすることが可能になったといえよう。

    実際、その効果はかなりすぐ現れてきた。2011年6月6日、柏市のサイトに「放射線量に関する市長・秋山浩保から市民の皆様へのメッセージ」が発表された。その中では、

    そのような状況の中で、「他より数字が高いから、とにかく不安」、「皆が不安になっていると、自分も同じ気持ちになる」という不安の連鎖が広がっており、今までのように、東大等のメッセージを引用しているだけでは、その不安を解消することが難しいという認識を持ちました。
     そこで、より専門性の高い機能を持ち、今回のような広域的な課題に対処すべき千葉県に、測定およびその結果と考え方の提示を、5月17日に東葛6市で要請しました。また、複数の専門家による指導のもと、6市でも専門業者による測定を行っていく準備を進めています。http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/020300/p008483.html

    とされている。

    また、6月13日には、「東京大学環境放射線情報を問う東大教員有志」が、健康に支障がないなどとする東京大学のサイト「東京大学環境放射線情報」に対する申し入れを行っている。

    次回以降、より詳しく、この二つの動きと、それらに対する東大の対応をみていくことにしたい。

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    さて、前回は、3.11以後の柏市の放射線量についてみてきた。比較的高い放射線量であり、ようやく福島第一原発事故から1年以上すぎた2012年春頃より、環境省が除染の基準としている0.23μSv /h(年間1mSv)未満になってきたといえる。しかし、それでも首都圏では高い放射線量と感じられており、人口流出があとをたたず、柏市としては環境省の基準未満でも除染事業を行うことを要請している。

    この柏市の放射線量について、柏市所在の専門機関であり、放射線の測定もしていた国立がん研究センターや東京大学柏キャンパスはどのような対応していたのであろうか。

    まず、国立がん研究センターは、4月と思われる時点で『(放射線被ばくについての科学的な理解1)「福島第一原発事故による放射性物質放出による低線量被ばく」』という文書を公表している。その中では、「しかし、このような低い線量による長期の放射線被ばくが人体にどのように影響するかについては、明らかにされていません。このため、判明しているいくつかの事実から、その影響を予測せざるを得ないのが現状です。」としながらも、自然に放射線をあびていることを指摘し、さらには高い放射線量をあびて腫瘍が発生することが低放射線量被ばくにあてはまるわけではないと述べた上で、次のようにいっている。

    このように、今回の福島第一原発事故で、直近の地域以外で報告されている放射線量は、少なくとも俄に人体に悪影響を及ぼす値ではなく、また、いくつかの事実はこのような低い放射線量を持続的に被ばくしたとしても、悪影響を及ぼす可能性はとても低いことを示しています。
    http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/080500/p008644_d/fil/rikai1.pdf

    今考えると、この時期は0.50μSv /h程度の放射線量を示していた時期であり、現状の基準ならば除染対策が必要になるであろう放射線量である。しかし、専門機関である国立がん研究センターは、「俄に人体に悪影響を及ぼす値」ではないと主張したのである。

    この国立がん研究センターに隣接して、東京大学柏キャンパスがある。このキャンパスには、大学院新領域創成科学研究科があり、核融合・宇宙科学・生命科学・環境学などが研究されている。宇宙線研究所もあり、まさに専門機関である。ここでも国立がん研究センターと同様に放射線量の測定を行い、東京大学環境放射線情報というサイトで公開していた。隣接しているから当たり前だが、国立がん研究センターの測定値と同様に高い放射線量が計測されていた。このことに対して、東京大学では「環境放射線情報に関するQ&A」で次のように述べている。

    Q:本郷や駒場と比較すると、柏の値が高いように見えますが、なぜですか?

    A:測定点近傍にある天然石や地質などの影響で、平時でも放射線量率が若干高めになっているところがあります。現在、私たちが公表している柏のデータ(東大柏キャンパス内に設けられた測定点です)は、確かに、他に比べて少々高めの線量の傾向を示しています。これは平時の線量が若干高めであることと、加えて、福島の原子力発電所に関連した放射性物質が気流に乗って運ばれ、雨などで地面に沈着したこと、のふたつが主たる原因であると考えています。気流等で運ばれてきた物質がどの場所に多く存在するか、沈着したかは、気流や雨の状況、周辺の建物の状況や地形などで決まります。結論としては、少々高めの線量率であることは事実ですが、人体に影響を与えるレベルではなく、健康にはなんら問題はないと考えています。
    (http://megalodon.jp/2011-0521-2238-09/www2.u-tokyo.ac.jp/erc/QA.htmlより一部転載。後日変更されたため)

    このように、東京大学も「人体に影響を与えるレベルではなく、健康にはなんら問題はないと考えています」と主張したのであった。

    専門機関である東京大学・国立がん研究センターが健康に影響がないと宣言しており、柏市としても当初は追随するしかなったのである。2011年5月18日の柏市のサイトには、次のような文章がアップされていた。

    東京大学・国立がん研究センターにおいて、定期的、継続的調査が実施されており、この測定結果に対し「少々高めの線量率だが、人体に影響を与えるレベルではなく、健康に問題はありません」とのコメントが出されています。
    (https://sites.google.com/site/utokyoradiation/home/municipalitiesより転載。柏市のサイトからは削除されているので、ここから転載した。)

    政府見解が「直ちに健康に影響がない」ということになっていたから、専門機関である国立がん研究センターも東大柏キャンパスも追随するしかないともいえる。ただ、東大柏キャンパスは、除染基準が0.23μSv /h(年間1mSv)になった今でも、併設されている院生・職員のための保育園以外本格的な除染を行った形跡がないので、ここの専門家自体が「無害」であると信じ込んでいるのかもしれない。

    しかしながら、この両機関の動向は、高い放射線量に怯えていた柏市民の意向に反していたといえる。その中で、この状況がおかしいということは、柏市という自治体の中でも、東大の中でも、しだいに自覚されていくようになった。次回以降、紹介したい。

    (付記:https://sites.google.com/site/utokyoradiation/home/developmentsを参照した。)

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