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Archive for 2011年3月

とりあえず、まず、初めて震災を伝えた『朝日新聞』3月12日朝刊をみておこう。この新聞は特別紙面となっていて20面と通常より少ない紙面となっている。
第一面は、「東日本大震災 M8.8 世界最大級津波 震度7 死者・不明850人超」という記事が大きな活字の見出しで掲載され、ヘリコプターで撮影された津波で被災した福島県いわき市の写真と、東日本全体の地図で表示された「各地の主な震度」が掲載された。これは、震災の「全体」を、まさに外部から見下ろした形で把握しようとしたものといえる。外部からみた視点による「全体」を把握しようという動きは、第二面が「津波にのまれ町炎上」(炎上する気仙沼市内の写真添付)・「政府、補正予算を検討」、第三面が「断層600キロ破壊か」・「津波速度 ジェット機並み」という記事にも受け継がれている。そして、第三面の常設社説欄では「東日本大震災 国をあげて救命・救援を」という社説が出され、「政府は今こそ国民を守れ」というスローガンのもとに、「まずは、首相や閣僚が国会対応に手をとられずに、対策に専念できる環境をつくることだ。経済や社会の動揺を抑えなければならない。今後必要になるだろう補正予算への対応も含めて、各党が協力することが、大災害を乗り切る力になる」と主張した。そして、次の第四面の政治・政策面で「地震対応 与野党急ぐ」という記事が掲載され、「自・公『全面的に協力』」とされた。同面には「統一選一部延期を検討」や阪神大震災時の官房副長官石原信雄の談話である「人命最優先 挙国一致で」という記事も掲載された。見事に外部からの視点で震災の「全体」を描き、それに対処するために「われわれ」の団結を計ろうとすることが、紙面から演出されているといえる。この外部からの視点は、第六面の国際面の「ツナミ 世界が速報」にも受け継がれている。この時期(現在でもだが)リビア情勢が深刻な局面を迎えていたが、それよりも世界各国での震災報道の方に力点が置かれていた。次の第七面の経済面でも「産業・物流大打撃」・「東証急落 179円安」という、震災が日本経済全体に与えた影響が報道されている。ここまで、外部からの視点で全体を報道し、いわば国難に対処するという形で、政治休戦も含めた「われわれ」-国民の団結をはかるという志向が、『朝日新聞』の紙面構成に表出していたといえる。
 一方、原発報道についてはどうであろうか。第一面には、あまり大きくない形で「福島原発、放射能放出も」という記事が掲載された。この記事は、福島原発1・2号機が、炉心の緊急停止はしたものの、停電で緊急冷却装置が作動せず、原子炉格納容器の圧力を下げるために内部の放射能を含む蒸気を外部に放出することを検討せざるをえなくなったとして、「原子力緊急事態宣言」を発令したというものである。このことについては、第五面で詳しく伝えている。「原発 想定外の事態 空だき防ぐECCS動かず」という記事が掲載されている。この記事は、全体を提示したともいえず、とにかく起こっている事態のみの説明に終始している印象がある。後の経過でいえば、3・4号機も事故に向かっていくのだが、そのことに特に言及していない。一方、後に述べるように、当事者たちの経験など細部を叙述するという語りの手法があるが、そのようなことも行われない。そして、編集委員竹内敬二の論説「地震国と原発 どう共存するのか」が掲載されている。これは「地震国日本でどこまで原発を増やすのか、原発の安全は確保できるのかという『振り出しに戻る議論』が必要だろう」と主張したもので、原発政策に対する批判的見方といえる。社説とかなり位相が異なっているといえよう。
さて、後半の紙面をみていこう。第一一面のスポーツ面にも、プロ野球オープン戦やJリーグが中止になったことや、リンク・射撃場が被害にあったことが出されている。第一四面の東京面では、「都内で死者三人 震度5強、帰宅の足大混乱 鉄道運休、駅に人波」という記事が出されている。ここで、ようやく、全体を見通す外部からの視点に基づいた記事ではなく、当事者の経験を含む事件の内部からの視点で細部を描く記事をみることができる。掲載されている写真も、高みからみた鳥瞰的なものではなく、倒壊したスーパーマーケット駐車場、渋谷駅のハチ公口で高層ビルを見上げる人々、さらにJR運転見合わせになり駅前にあふれる人々が、当事者の目線ー成田さんは虫瞰とよんでいるーで撮影されている。その意味で、当事者の視点がまず示されているといえる。しかし、確かに、東京の人々も「被災経験」を蒙ったといえるが、今になって考えると、それは外部からみた全体的認識と見合ったものだろうかと思えるのだ。
そして、第一五面・第一六面は、ほぼ東日本大震災の写真が掲載されている。それぞれ4枚ずつ、8枚の写真が掲載されている。高みからみた鳥瞰的写真、当事者の目線で撮影した虫瞰的写真がそれぞれ配置されている。しかし、このうち5枚が関東地域の写真で、3枚のみが東北の写真である。もちろん、関東地域もかなりの被害を蒙ってはいるが、東北地域とは被害の規模が違うといえる。
次の第一七面の社会面では、「帰宅難民 不安な夜 駅前・道路・あふれる人」とあり、写真も含めて、東京地域で鉄道の停止により帰宅できなかった人々のことが虫瞰的に描かれている。まさに、それぞれの当事者体験がここでは出されているが、第一四面などと同様に、「全体」で描き出された規模と、それぞれの当事者体験が見合っていないという感じを受けるのである。
第一八面の社会面では、「激震 インフラ寸断」では、再び、東北・関東を通した震災被害の全体を展望しようとする記事が掲載されているが、ここでも掲載写真3枚のうち2枚は関東地域のものである。さすがに次の第一九面の社会面は、全体として東北地域の津波被害を扱う「大波 人・家さらう」という記事が掲載され、仙台市若林区・相馬市・いわき市などにおける被災した当事者たちの体験が語られている。
しかし、最後の第二〇面、スポーツ新聞ならば裏一面として重視される面では、またもや関東地域重視の報道となっている。この第二〇面は、全体が「家族は 仲間は」と題され、右側に「避難時は防寒対策を 余震に注意」という記事が、左側に「自治体などの連絡先」が掲載されている。この「自治体などの連絡先」は、ほぼ関東地方しか掲載されていないのである。もちろん、東北地方の『朝日新聞』は別の掲載をしているのかもしれない。
今になってみると、あまりにも関東地方を重視した報道の仕方に思える。もちろん、この新聞の作成時に東北地方固有の情報が入手しえなかったことに一因があるだろう。しかし、もう一つに、東北地方の情報が入らないにもかかわらず、「震度7」の巨大地震という全体の細部を叙述するにあたり、多くは関東地方ー首都圏の住民であろう朝日新聞記者の当事者体験に基づいて記述するしかなかったということに起因していると思える。成田さんは、関東大震災では、東京自体の新聞社が壊滅的な被害を蒙ったため、阪神地域を中心とする東京外部の新聞により、外部の視点から全体を描くことがなされ、復活した東京の新聞は、その外部で出来上がった全体認識を前提として「内部」から描きだそうと試み、両者が相互に補完していると述べている。しかし、今回の場合、東京は「外部」なのか「内部」なのか。実は、かなり微妙である。全く被害を受けていないとはいえない。多くの人が「帰宅難民」「停電」などを経験した。しかし、それは、東北の被災地のように苛烈な経験とはいえまい。にもかかわらず、記者たちは、震災全体の埋めらるべき細部として、確かに印象深くはあるが、苛烈とはいえない自身の体験に基づいて取材し、記事を書かざるを得なかったといえないだろうか。
「外部」の視点からみて今回の震災全体は「大事件」である。しかし、首都圏の多くの人々の体験は、実際のところ個人で対処可能な程度のものであった。しかし、ここで、そのような体験が国民全体の危機として認識されていったのではないか。首都圏の場合、個々のささやかな困難に対する、危機感の過剰、被災意識のインフレというものが起きたといえないだろうか。
まあ、このようなことは、東北地方の被害の実情が理解されれば、本来薄まり、東北地方を中心として、関東大震災と同じような「われわれ」の共同性を打ち出すような語りになっていったのかもしれない。その時、東京は、全体としては非当事者として「外部」に位置付けられていったのかもしれない。すでに3月12日の夕刊では、そのような兆候がみられる。この夕刊は、12面で構成されているが、第一面は「東北沿岸 壊滅的 陸前高田や相馬、街全体が水没」という記事がトップ記事である。第二面・第三面は東北地方の被害状況写真であり、第四面・第五面は東北地方全体の被害状況を展望している。そして第一〇面・第一一面は、津波におそわれた東北地方の状況を「内部」の当事者の視点もまじえながら描いている。首都圏のことは第九面で「徹夜難民 重い足 区役所で一夜、駅は大混雑」という記事が掲載されている程度であり、それも長野の震度6の地震報道と抱き合わせである。この程度が妥当かと思える。
しかし、事態は、そのような形での推移を許さなかった。すでに、夕刊の最終面である第二〇面では「放射能放出 5万人避難 福島第一原発 1号機、燃料棒露出 第二原発も緊急事態宣言」という記事が掲載され、原発事故の悪化が伝えられていた。そして、避難指示が出され、「10キロ圏外へ避難急ぐ 『とにかく西へ』焦り」と報道されていた。そして、この面の最後の部分には「発電機の作動ができなくなったのは、津波による海水が原因だった場合、津波被害を防ぐ想定が妥当だったのかどうか問われることになる」と書かれており、東京電力・政府に対する批判的見方が打ち出されていた。原発報道が、これまでのような震災報道のあり方を今後揺さぶっていくことになる。

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さて、もう少し丁寧に、過去の大震災報道を扱った研究も視野に入れながら、東日本大震災(将来的には東北関東大震災となるかもしれないが)に対する『朝日新聞』報道について検討してみよう。近代史研究者の成田龍一さんには「関東大震災のメタヒストリーー報道・哀話・美談―」(『思想』866号初出、1996年。『近代都市空間の文化経験』再録、2003年)という研究がある。この中で、成田さんは、関東大震災が「われわれ」の体験として語られていくという見込みの中で、まず、報道が鳥瞰的視点・虫瞰的視点を駆使しつつ「全体」を創出し、そして哀話と美談という語りによって「全体」が当事者をまきこんで共有していくと述べている。

成田さんの見方は、今の『朝日新聞』報道をみるにも参考になる。ベネディクト・アンダーソンは、出版資本主義が、読者共同体ともいうべき「想像の共同体」(これが成田さんのいう「われわれ」である)を創出し、ナショナリズムの一つの源流になったと論じている。大規模な出版(新聞のような)は、確かに意識を共有する読者共同体を創出するだろう。しかし、今の『朝日新聞』報道は、単一の「われわれ」を創出しているのだろうか。

すでに、『朝日新聞』の表裏一面のトップ記事について、被災地報道と原発事故報道との間に不協和音を示しているのではないかと指摘しておいた。確かに『朝日新聞』の読者は、両方の記事を見ることになるだろう。しかし、それは単一の「われわれ」意識を創出しているのであろうか。

あまり、新聞などに出てこないが、テレビなどをみていると、被災者側から福島原発報道について冷やかな声が聞こえてくる。また、被災地でもあり福島原発事故で大きな被害を蒙った地域の人々からは、原発報道についての不満が出てきている。地域の危機的な状況は伝えるが、好転した状況はあまり報道せず、風評被害が拡大しているというのである。

被災地報道と原発事故報道、それはまったく創出すべき「われわれ」のターゲットが異なっており、そして、紙面の状況では両者は融合せず、むしろ食い合いを演じているのではなかろうか。

まあ、そのような方法的考察を前提として、『朝日新聞』報道を丁寧にみていくことにしたい。

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朝日新聞報道2

次に、この東日本大震災(ただ、このように呼称しているのは『朝日新聞』が中心のようであるが)について、どのような点が強調されて報道されているか、『朝日新聞』一面のトップ記事からみてみよう。通常『朝日新聞』は、最終面をテレビ欄にしているが、3月12日朝刊以来、最終面も記事欄にしている。たぶん、これは、いわゆるスポーツ新聞の「裏一面」という扱いで、中にある一般的社会面や政治面よりも強調して伝えたいことなのであろうと判断した。典拠は自宅に届いた新聞であるが、新聞世論の動向を一瞥することはできるであろう。基本的には『朝日新聞』が公衆に強調して伝えたいということであるが、それが読者の意識に影響しているとみることができる。

*3月19日夕刊・3月26日夕刊のデータを3月27日に追加・加筆した。

さて、時間軸を中心にみていこう。3月11日午後に起こった地震であり、その日の夕刊にには間に合わず、3月12日朝刊から震災報道が開始された。まず、最初の表一面トップ記事は、震度・マグニチュードなどを伝える報道である。そして裏一面は、自治体などの連絡先が掲載されているが、ほとんど関東地方ばかりで、東北地方は掲載されていない。また、3月14日朝刊には輪番停電の予告が裏一面に掲載されている。

福島原発事故報道は、3月12日朝刊の表一面で「福島原発、放射能放出も」という記事が出されたが、トップ記事ではない。しかし、同日夕刊の裏一面では「放射能放出」という記事がトップ記事になっている。3月13日朝刊の表一面では「福島原発で爆発」という記事がトップとされ、同日には「3号機も冷却不全」が表一面のトップ記事である号外が出された。原発事故は、1号機・3号機・2号機・4号機と冷却不全による爆発などをおこしているが、3月14日夕刊以後は、ほとんど福島第一原発の事故とそれに対する対応、さらに放射能放出への対処方法などの記事がトップをしめるようになっていく。特に3月15日夕刊から3月17日朝刊までは、表裏とも一面のトップ記事は原発事故なのである。もちろん、中の社会面などには被災地の状況やそれに対する支援の記事も数多く掲載されているが、この時期の『朝日新聞』の報道の重点は、原発関連にあったといえる。

ただ、3月17日朝刊表一面の「原発冷却へ機動隊」の記事から雰囲気がかわっていく。それまでは、ほぼ原発事故への対応は、東京電力や原子力安全・保安院まかせという感じであったが、原子炉・燃料プールの冷却のため、警察・自衛隊・消防隊が放水を開始すると、それなりの安堵感が生まれたようである。

そして、3月17日夕刊では裏一面に被災地状況の写真が掲載された。3月18日夕刊から3月19日朝刊までは、原発記事がトップ記事にならないという状況であった。そして、3月19日朝刊の表一面では「被災者の遠方避難」という記事が、3月21日朝刊の表一面には「80歳の孫 9日ぶり救出」という記事が被災地状況・支援を伝える記事としてトップとなった。実は、これは、『朝日新聞』では、非常に珍しいことで、3月14日朝刊以来なのである。さらに、3月19日朝刊の裏一面では「生きている 待っている 今伝えたい 被災者の声」という記事がトップに掲載された。これは被災者の声を取材によって集めて掲載するもので、その後、トップ記事ではないが、裏一面の常設欄のようになった。3月20日朝刊の裏一面では、「医療チーム駆け巡る ニッポンみんなで」という、被災地の支援事業を伝える記事がトップとなった。「ニッポンみんなで」と題された支援事業を伝える記事は、その後もたびたび掲載されている。また、「ニッポンみんなで」が掲載されていない場合も、裏一面は、基本的に被災者の状況を伝える面として認識されたようで、3月25日夕刊以外は、被災地状況が主に報道されている。

原発報道では、3月19日夕刊表一面では「自己原発冷却の命脈 電源きょうにも復旧」という記事が、3月20日朝刊表一面では「福島原発 通電可能」という復旧に向けた記事がトップに掲載されている。しかし、3月22日朝刊の表一面では、「首相、出荷停止を指示」という記事がトップとなった。そして、3月22日以降、表一面のトップ記事は、原発関連報道の指定席のようになった。その中では、原発の復旧状況、原発近隣地の避難、野菜・牛乳・水道への放射能汚染とそれへの対応が主に語られるようになった。この中では、関東地方他の人々が摂取する可能性がある食品・水道水についての放射能汚染が強く意識されており、原発事故の進行だけに注目されているわけではないことがそれまで大きく違っているといえる。そして、3月25日朝刊の表一面では「福島第一、レベル6指定 スリーマイル超す」(なお、現状では政府はレベル5としており、レベル6としたのは朝日新聞の独自の判断である)とした記事がトップとなり、再び原発事故の深刻さが意識されているのである。

このようにみてみると、この度の震災に対する『朝日新聞』の報道では、意外と被災地の状況が強調されていなかったことがわかる。もちろん、意識してのことではないだろう。そして、圧倒的に原発事故関連の記事が強調されて報道されていることがわかる。多少の揺れ戻しがあり、原発事故の状況が好転されたと判断されると、多少は被災地報道が多くなる傾向がある。ただ、好転すると報道の比重が下がるのでは、好転するために現場で努力している人々には気の毒な気がするが。その意味では、パセティックな記事のほうが原発関連では強調されているといえる。そして、関東地方外への放射能の危険性が意識されると、再び原発報道の比重が大きくなった。

3月26日現在では、表一面が原発関連報道で、裏一面が被災地状況報道という住み分けになっているようである。裏一面の被災地報道では、基本的には支援状況や被災民の声が重視されており、その意味では「ヒューマン」(としかいえない)な側面が強調されて報道されているといえる。ただ、原発報道の「パセティック」と被災地報道の「ヒューマン」は、ある意味で不協和音を出しているといえる。

もちろん、これは、大体の見取り図に過ぎず、より細かな分析が必要であろう。

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さて、ここで、過去の震災などの自然災害や戦災などと、今回の東日本大震災を比較してみよう。東日本大震災の死亡者数・安否不明者数は、3月24日の現在でも、もちろん確定していない。ただ、目安として、本日の『朝日新聞』朝刊に掲載されていた数字をみると、死亡者数は9532名、安否不明者数は18834名で、合算すると28357名となる。
過去の自然災害・戦災(これも、思いつくままで網羅しているわけではないが)、の人的被害と比較すると、阪神淡路大震災や伊勢湾台風などよりもかなり多いことがわかる。最も多いのが戦災であって、これも確定した数はわからないのだが、約50万名以上であった。それに次ぐのが関東大震災で、約14万名ということになる。現在のところ、関東大震災に次ぐ規模ということになる。なお、三陸地域を中心にしたという点と、津波をちゅうしんにしたという点で、1896年の明治三陸津波が今回の大震災に類似しているが、人的被害も27122名と比較的近かったといえる。もちろん、今回の大震災の人的被害の数字は、まだ確定しているわけではない。ただ、現在の数からいえば、関東大震災や戦災をこえるとは思えない。大体、近現代史上の災害では三番目に大きな人的被害を与えたといえるのではなかろうか。

地震の人的被害

続いて、物的被害についてみてみよう。3月23日、政府は、東日本大震災で損壊した道路・港湾・住宅などの直接的被害額の試算を公表した。報道した『朝日新聞』3月24日付朝刊によると、対象地は、宮城・岩手・福島・北海道・青森・茨城・千葉の7道県となっており、(1)工場や民間住宅などの建築物、(2)電気・ガス・水道などの基礎インフラ、(3)道路・港湾・空港などの社会資本の三つの資産を中心にまとめたとしている。そして、試算では直接損害額16~25兆円となり、7道県におけるそのような資産175兆円の9~14%が失われたとしている。なお、過去の被害額では、戦災がやはり第一位であり、全国の資産の25.4%が失われたという。次に多いのが、関東大震災であり、全国の資産の10.5%が喪失したことになる。意外と被害が大きいのが伊勢湾台風であり、全国の資産の1.7%に及んでいる。東日本大震災はそれに次ぐ規模であると、政府は想定している。もちろん、この直接的損害額は、工場における操業停止などの被害は含んでいない、『朝日新聞』の報道によると、内閣府では2011年度のGDPの実質成長率は0.2~0.5%押し下げられ、前半はマイナス成長の可能性があるとしている。

地震の物的被害

このように、従来の震災や戦災などと比較してみると、今回の震災の被害規模のおおまかなところがつかめるのではないか。戦災や関東大震災よりは被害規模は小さい。しかし、阪神淡路大震災よりは大きい。匹敵するのは、伊勢湾台風や明治三陸津波ということになろう。

ただ、これは、東日本大震災の特徴としての第一の局面として措定した、通常型震災の側面のみ比較したにすぎない。第二の局面として措定した原発事故という側面と、第三の局面として措定したライフライン型震災の側面については、別個の比較が必要である。

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2011年3月11日、東日本大震災が起きた。本ブログでは、しばらく、都市史研究者としての特性をいかし、過去の震災などの経験と比較することで、現在の震災についてしばらく考えることにしたい。

今回の東日本大震災は、三つの局面が複合しているとみられる。まず、第一の局面は、もちろん地震・津波やそれに伴う火災などによって、多くの人命が失われ、市街・村落が壊滅し、工場・農地・港湾・道路・ライフラインが喪失したということである。これは、今までの震災でよくみられたことで、通常型の震災ということができる。第二の局面は、この地震・津波によって、福島第一原子力発電所が被災し、原子炉自体は緊急停止したものの、主に停電によって原子炉を制御する電力が失われ、そのために原子炉や使用済み核燃料プールを冷却することができず、原子力発電所の設備が破損することなどによって、放射線や放射性物質が周辺に出ていることである。これは、いうまでもないことであるが、チェルノブイリやスリーマイル島などの先例もある、原発事故ということになる。第三の局面は、第一・第二の局面と関連するが、福島第一原子力発電所を含めて、主に東北・関東地方の発電所が被災したため、東北・関東地方において通常のように電力を供給することができないということである。この局面には、生産設備・輸送手段への被災や買い占めによってガソリンが供給されず、自動車交通が維持できないということや、放射性物質の混入のため水道水の安全性が保障しがたいということも含まれるといえよう。その意味で、この局面は、ライフライン型震災とでもいうことができる。
 これらのことは、単独では、もちろんそれぞれ起きている。阪神・淡路大震災や関東大震災のように、震源地を中心とした地震・津波が直接的な被害を与える通常型震災は、日本でも世界でもたびたび起こっている。原発事故も、チェルノブイリやスリーマイル島のような大事故だけでなく、より小規模な事故も過去には存在している。電力・ガソリン・水道の供給に支障があるということは、もちろん、通常型震災の際にもみられるが、それぞれ夏場の電力・水道供給の危機やガソリン価格の高騰などの単独の事象としてはみることはあった。しかし、これが、複合的に現れるということは、これまでなかったのではないか。
 このように、まず、今回の震災の特徴としては、三つの局面が複合して現れているということを指摘できるであろう。

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江戸郷周辺図(『新編千代田区史』通史編より)

江戸郷周辺図(『新編千代田区史』通史編より)

江戸―東京の通史は、それこそ、この地域に人類が居住を開始した旧石器時代まで遡ることができる。しかし、都市としての江戸―東京の始まりは、「江戸」と名付けられた地域に遡及することができるだろう。古代律令制の時代、後の江戸―東京の中心部は、武蔵国豊島郡湯島里と武蔵国荏原郡桜田里に所属していたとみられる。中世になってはじめて、武蔵国豊島郡江戸郷が成立した。そこから江戸が始まったのだ。

といっても、「江戸郷」とは、どこか。近世の江戸は、始まりの「江戸」から著しく拡大している。そもそも、「江戸」はどこかが問題なのだ。そのためには、「江戸」という言葉が、何をさしているかを考えてみなくてはならない。

『新編千代田区史』通史編は、「江戸」の語源について、「入り江(江)の口(戸)」、「アイヌ語の岬・端(ハナ)のetu」、「江所」などの諸説を紹介した上で、「入り江の口」とするのが最もよく理解できるとしている。

「江戸」の語源が「入り江の口」とした場合、その入り江とはどこかとなるのだが、現在、その入り江は、皇居前から日比谷公園にかけて存在していた日比谷入江に比定されている。

そして、「江戸」は、日比谷入江に臨んでいた、現在の江戸城本丸・二の丸・三の丸・北の丸地域を中心にしていると考えられるのである。

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日比谷公園心字池(2011年2月23日撮影)

日比谷公園心字池(2011年2月23日撮影)

今回から、しばらく江戸―東京の通史を語っていきたい。まず、なぜそのようなことをするのかを述べておこう。現在の東京は、江戸という歴史的過去の上に成立している。いや、むしろ、過去は、現在の東京の骨組みをなしているのだ。例えば、日比谷公園をみてみよう。
まず、日比谷公園のこの写真をみてみよう。この写真は、日比谷公園の東北部にある心字池を写したものである。この池は、日比谷見付(門)から続く江戸城の堀をもとにしたもので、江戸城の石垣も残っている。今や、都心のいわゆるオアシスである。
しかし、なぜ、ここに日比谷公園が作られたのであろうか。実は、ここは、近世以前においては海であり、日比谷入江と呼ばれていた。大体、丸の内・日比谷一帯は日比谷入江なのであるが、日比谷公園のあたりは日比谷入江の中心であった。近世において日比谷入江は、排水路であり運河でもあった堀を除いて埋め立てられ、規模の大きな大名屋敷が建築された。日比谷公園のあたりも大名屋敷となった。近代になって、大名屋敷が必要なくなると、市区改正計画や官庁建設計画によって、大名屋敷跡地には官庁やビジネスビルが建てられていく。ただ、日比谷公園の地は、日比谷入江の中心の低湿地で、地盤が軟弱のため、近代建築を建てることができなかったのである。そのため、日比谷は公園にされ、日比谷見付の堀と石垣が心字池とされたのである。
このように、現代の東京の都市景観の枠組みは、近世以前にすら遡る歴史的過去によって構成されている。そして、このことは、今後の都市東京の未来をも拘束しているといえるのである。
私たちは、現在さらに未来の都市東京を考えるにあたって、過去をみなくてはならない。例えば、今までみてきた築地・雑司が谷・愛宕山でも、歴史的過去は、現在のありようを規定していた。これから、時間軸にそいながら、現代の東京を規定する江戸という歴史的過去をみていきたい。

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