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Archive for the ‘お会式の現在’ Category

18日は、前述のように、西武池袋前から鬼子母神に向かう。雑二講の行動を中心に編集されている。撮影されているのはまといを中心にしている。鬼子母神堂前で、ハイテンションすぎて、題目を唱えることを主導する僧侶が困惑気味であることが印象的だ。

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10月17日は、護国寺前から、不忍通り・目白通りをへて鬼子母神堂に向かうことになっている。大正期頃は、そちらがメインコースであった。一応、護国寺ルートとなっているが、実際の出発地点は、護国寺門前ではなく、護国寺のところより、ちょっと不忍通りを上った地点である。ここは、清土鬼子母神(お穴の鬼子母神)といわれ、田の中にあった鬼子母神像が最初に掘り出された場所であった。
集合した講社の名前がわかるように編集されているので、非常に都合がよい。多くは地縁的な結合をもとにしていることが理解できよう。
このビデオの編集においては、「まとい」が中心に描かれている。万燈よりも、「囃子」と「まとい」の踊りが中心となっている。
ビデオには、どう見ても欧米人が鐘をたたいている姿が撮影されている。あまり関係ない人も取り込む魅力がこの祭りにはある。
翌日と同様、鬼子母神堂と法明寺での参拝で、行列はしめくくられている。

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10月16日は、お会式の町内回りの日にあてられている。夕方、雑二講では、雑司ヶ谷二丁目をまわっている。まずは、弦巻商店街(昔の弦巻川流路)から出発し、北側の雑司ヶ谷墓地近辺の御獄山清立院(日蓮宗寺院)に行き、南側の廃校になった高田小学校跡地に行き、また、弦巻商店街に戻るという経路のようである。万燈は運ばれず、電飾され、太鼓を載せれられたリアカーと、まとい二基、あとは太鼓などをもった「囃子」方である。子どもが多く、まといをもって踊る人々も少年少女が中心のようである。清立院では、花吹雪で迎えられている。この清立院にも万燈があるようだが、雑二講のものなのかどうかはわからない。最後の場面で、子どもには菓子が配られていた。

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雑司ヶ谷二丁目講(雑二講)という講社のお会式への参加を撮影していた動画がyoutubeに引用されていたので、ここで一つずつ紹介したい。
雑二講とは、雑司ヶ谷二丁目を中心とする講社である。雑司ヶ谷墓地の裏側といってよいだろう。地縁的な講ということができる。いわば、町内会的な講である。
雑司ヶ谷二丁目町会のサイトでは、「9雑司が谷の一番の行事は、9月の大鳥神社の祭礼と10月の鬼子母神の御会式(雑司が谷二丁目講があり万灯、まといを出します)が盛大に行われ、参加者は、約200人位になります。」とあり、実際は町内会の行事であるといえる。

この動画では、お会式の準備過程を撮影している。造花は「婦人部」の手作りであり、それを針金に通して万燈を作るのである。発電機を載せるリアカーも手で作っている。
まといの練習光景もある。ほとんどが少年少女だ。実際のお会式では、それほど少年少女は目立たなかったが、この講社では多いのだろう。

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案内をする僧侶(2010年10月18日撮影)

案内をする僧侶(2010年10月18日撮影)

お会式当日夕刻の法明寺(2010年10月18日撮影)

お会式当日夕刻の法明寺(2010年10月18日撮影)

安国堂への参拝が終わると、僧侶の案内で、法明寺本堂に参拝する。これが、講社の「行列」の終点である。

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安国堂参拝(2010年10月18日)

安国堂参拝(2010年10月18日)

お会式当日夕刻の安国堂(2010年10月18日撮影)

お会式当日夕刻の安国堂(2010年10月18日撮影)


法明寺境内に入った講社の行列は、まず日蓮をまつる安国堂(祖師堂)を参拝する。この安国堂は、普段とじられているが、お会式の時は開いている。参拝方法は、鬼子母神と同様で、まといもちと万燈もち以外の人々が石段をあがり、題目を唱えるのである。

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法明寺境内(2010年10月18日撮影)

法明寺境内(2010年10月18日撮影)


威光山法明寺は、創建を810年と伝えられる寺院であり、鎌倉時代に日蓮宗寺院となった。近世においては不受不施派として弾圧されたこともあった。かなり大きな寺院で、境内には参道があり、その左右には子院が所在している。近世期までの子院をかかえる大寺院の「過去」を彷彿させる風景であるといえよう。また、周囲には、日蓮宗寺院が散在しており、この地域の日蓮宗のセンターといえる。

鬼子母神は、この周辺(実際には護国寺の近く)の深田から1561年に掘り出された「異像」で、1578年に村人に現在の地に草堂が作られてまつられ、1664年に、前田家息女で広島藩主(浅野家)夫人であった自昌院によって本殿が造営された。法明寺末寺である大行院(東陽坊)が別当を勤めた関係で、法明寺に属するようになった。

近世期のお会式は、法明寺を中心として日蓮命日の10月13日前後に行われていたといわれている。
参考文献:『江戸時代に生まれた庶民信仰の空間ー音羽と雑司ヶ谷』(日本女子大学発行 2010年)

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鬼子母神から法明寺への道(2010年10月18日撮影)

鬼子母神から法明寺への道(2010年10月18日撮影)


講社の行列は、鬼子母神堂の参拝で終わるわけではない。鬼子母神堂での参拝が終わった講社は、第二の目的地である法明寺にむけて、鬼子母神の境内を出ていく。

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鬼子母神堂への参拝(2010年10月18日撮影)

鬼子母神堂への参拝(2010年10月18日撮影)

鬼子母神堂前の万燈(2010年10月18日撮影)

鬼子母神堂前の万燈(2010年10月18日撮影)


この行列の目的地である鬼子母神堂に行く。ここで行列は、それぞれの講社ごとに鬼子母神堂に参拝する。行列の主役であった「まとい」と「万燈」は、鬼子母神堂の前で待機するように言われ、「囃子方」などと表現してきた人々だけが鬼子母神堂にあがり、題目「南無妙法蓮華経」を唱えて参拝した。

つまりは、この行列は、日蓮追慕の参拝行列であったのだ。そして「囃子」と表現してきた人々は、日蓮宗の大寺院でよくみかける、集団でうちわ太鼓をたたいて行列する人々がもとになっていると考えられる。これが本来の形で、「まとい」や「万燈」のほうが、まさに祭典の「飾り」なのだろう。日蓮追慕という「過去」ー「歴史」が、この祭典のテーマをなしていることを、この場面はよくしめしている。

もちろん、それは、寺院や講社側の考える本来の形ということであるが。

一方、講社によって、参拝のあり方も違ってくる。比較的地縁が中心とする講社は、参拝時間が短く、日蓮宗の信仰を中心とする講社は長い傾向があるように感じられた。

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鬼子母神境内(2010年10月18日撮影)

鬼子母神境内(2010年10月18日撮影)

鬼子母神境内は、屋台・露店でうずめつくされ、さらにその隙間には人々がひしめいている。さほど広くはない境内はさらに狭くなり、そこに「囃子」「まとい」「万燈」からなる行列が練り歩く。ずっと、ついて歩いていると、観察者の自分も「行列」に参加しそうな気になってきた。ただ、写真撮影をしているだけだったはずだが、いつのまにか、見物客の前でまるで参加者の一人のごとく行列について歩いている自分がいた。同化する自分を恥じて、ここで行列を離れ、屋台や露店の陰にひっこみ、裏道から鬼子母神堂前に行くことにした。

このような情況は、いろんな祭典を観察した者たちに過去にはなかったのだろうか。そんなことを思った。

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