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Archive for 2014年1月

最近、福島第一原発の状況について、あまり注目されることがなくなっている。しかし、福島第一原発は、人びとが意識していようがいまいが、厳然と存在している。確かに、1号機・2号機・3号機は水で冷却され、直近に爆発する可能性は少なくなっている。4号機の燃料プールからの燃料棒の取り出しも始まった。しかし、福島第一原発からの汚染水の流出は止まっていない。また、原子炉を冷却した後の汚染水も鉄製貯蔵タンクにためこまれている。

さらに、この鉄製貯蔵タンク自体が問題となっている。1月9日付の次の読売新聞の報道をみてほしい。

汚染水タンクからX線、対策怠り基準の8倍超

 福島第一原子力発電所で、汚染水タンクから発生するエックス線の影響を東京電力が軽視し、対策を講じないままタンクを増設し続けていることが9日わかった。

 国が昨年8月に認可した廃炉の実施計画では、原発敷地境界の線量を「年1ミリ・シーベルト未満にする」と定めているが、12月には一部で年8ミリ・シーベルトの水準を超えた。

 現在、周辺に人は住んでいないが、作業員の被曝ひばく量を増やす要因になっている可能性がある。原子力規制委員会は10日に東電を呼び、対策の検討に入る。

 タンク内の汚染水から出る放射線は主にベータ線で、物を通り抜ける力が弱い。しかし、ベータ線がタンクの鉄に当たると、通り抜ける力の強いエックス線が発生し、遠方まで達する。

 東電によると、様々な種類の放射線を合わせた敷地境界での線量は、昨年3月には最大で年0・94ミリ・シーベルトだったが、5月には同7・8ミリ・シーベルトに急上昇した。汚染水問題の深刻化でタンクが足りなくなり、敷地の端までタンクを増設したため、エックス線が増えたらしい。

(2014年1月9日18時20分 読売新聞)

つまり、汚染水タンク自体が鉄製のため、汚染水が発するベータ線があたると、より透過力の強いX線が発生し、そのため、福島第一原発敷地内の放射線量が急上昇しているというのである。

ベータ線が鉄などにあたるとX線が発生するということは、一般的に知られていたことのようである。例えばWikipediaの「ベータ粒子」(ベータ線)の遮蔽に関する記述をみてみよう。

遮蔽

ヘリウム4の原子核であるアルファ粒子は一枚の紙で遮蔽できる。ベータ線の実体である電子では 1 cm のプラスチック板で十分遮蔽できる。電磁波であるガンマ線では 10 cm の鉛板が必要となる。
透過力は弱く、通常は数 mm のアルミ板や 1 cm 程度のプラスチック板で十分遮蔽できる。ただし、ベータ粒子が遮蔽物によって減速する際には制動放射によりX線が発生するため、その発生したX線についての遮蔽も必要となる。
遮蔽物に使われる物質の原子番号が大きくなるほど制動放射が強くなることから、ベータ線の遮蔽にはプラスティックなどの低原子番号の物質を使い、そこで発生したX線を鉛などの高原子番号の物質で遮蔽する、という二段構えの遮蔽を行う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%BF%E7%B2%92%E5%AD%90

汚染水タンクについては、鋼材をボルトでつないだだけのボルト締め型では水漏れのおそれがあるといわれていた。このようにみてみると、溶接型も含め、そもそも汚染水と鉄を直に接触させているタンク自体が欠陥品であったことになる。鉄製タンクの場合は、内部をプラスチックなどで遮蔽すべきだったのである。

この記事でも出ているように、この鉄製汚染水タンクの使用は、無用に放射線を増大させている。これが、福島第一原発の労働者に意味もない被ばくを強いていることはあきらかである。1月10日時点では、原子力規制委員会もこの問題について東電を呼び出して、協議するとしていた。

しかし、14日には、原子力規制委員会の事務局である原子力規制庁は、次のような態度表明を行った。

ALPS性能不良、稼働のメド立たず…福島第一

 東京電力が福島第一原子力発電所で試験運転中の新型浄化装置「ALPS(アルプス)」について、原子力規制庁は14日の記者会見で、目標通りの性能が出ておらず、いつ本格稼働できるか分からないことを明らかにした。

 汚染水に含まれる63種類の放射性物質のうち、62種類をほぼ完全に除去できるはずだったが、ヨウ素など一部の物質の除去性能が目標を下回り、改良を加えているという。

 同庁はまた、汚染水タンクから出るエックス線によって、敷地境界の放射線量が基準を大幅に超えている問題について、当面はタンクの設計変更などを求めずに増設を認める姿勢を示した。同庁の担当者は、設計変更の具体案がまだないとして、「(アルプスで汚染水中の)ストロンチウムなどを除去するのが一番」と説明した。

(2014年1月14日21時08分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20140114-OYT1T01083.htm

まず、前段は、放射性物質浄化装置(「ALPS(アルプス)」)が性能不良で、本格稼働のめどがたたないということを告白している。ALPSは、トリチウム以外の放射性核種の多くを除去できるといわれているもので、稼働すれば、汚染水におけるベータ線の主な発生源であるストロンチウム90なども除去できることになる。しかし、ALPSについてのニュースは、いつも故障その他で本格稼働できないというものばかりであった。2014年1月時点でも、やはり、本格稼働できないのである。

しかし、後段は、ALPSの本格稼働のめどがたたないにもかかわらず、その稼働を期待するとして、X線の発生源になっている鉄製タンクの設計変更を求めないと主張している。確かに、本格稼働すれば、ストロンチウム90を除去することによって、ベータ線の発生をおさえ、鉄製タンクでもX線は生じないことになるだろう。しかし、そもそも、ALPS自体の本格稼働のめどが立たないのであり、ゆえに、鉄製タンクにストロンチウム90を含んだ汚染水を貯蔵しつづけるしかない。現状において、X線の発生を防ぐ措置は全く講じられないのである。福島第一原発自体の廃炉処理のように、手段自体が現時点の科学技術で考えられないわけではない。タンク自体の設計を変更すればいいのである。そのような指示をすることすら、原子力規制庁は放棄したのである。

そして、東電は、そもそも水漏れの恐れボルト締め型タンクの「延命」すらはかるようになった。東京新聞の次の報道をみてほしい。

欠陥タンク 延命図る 福島第一 漏水不安のボルト締め型

2014年1月22日 朝刊

 東京電力は、水漏れの不安を抱える福島第一原発のボルト締め型タンクに、漏水防止の延命策を施し、数年の間は使い続ける方針を決めた。漏水しにくく耐久性が高い溶接型タンクに早急に置き換えるとしていたが、増設が急速には進まず当初の方針から後退した。置き換えは来春以降にずれ込む見通しで、当面は弱点の底板の接ぎ目を止水材で補強し、だましだまし使い続ける。 (清水祐樹)
 タンク内の水は、溶け落ちた原子炉内の核燃料を冷やした後の水。放射性セシウムはおおむね除去されているが、高濃度の放射性ストロンチウムなどが残る。昨年八月には、一基から三百トンの水漏れが発覚し、周辺の土壌や地下水、さらには排水溝を伝って外洋も汚染した。
 東電が調べたところ、五枚の鋼板をボルトでつなぎ合わせた底板の止水材がはがれたことが水漏れの原因と判明。東電は、国からの指示もあり、全てのボルト締め型を溶接型に置き換えることを決めた。
 ただ、溶接型の増設には一基当たり二カ月前後かかる上、増設用地も不足しているため、東電は場所をとる割に容量の少ない小型タンクを撤去し、そこに溶接型を増設していく方針。ボルト締め型タンクを置き換えるだけの容量の余力ができるのは、早くても来年四月半ばになる見込みだ。
 このため東電は、ボルト締め型タンクの弱点である底板を二つの手法を併用して補修し、延命させてしのぐことにした。一つはタンク天板に穴を開け、そこから止水材を塗った鋼材を入れ、底板の接ぎ目にかぶせる方法。もう一つは、底板の接ぎ目とコンクリート基礎のすき間に止水材を注入する方法だ。いずれもタンクに汚染水が入ったままでも作業できるというが、ボルト締め型の根本的な弱点がなくなったわけではない。鋼材をかぶせる手法では、事前に作業員が水中ポンプを使って接ぎ目周辺の沈殿物を掃除する必要がある。高濃度汚染水のすぐ近くでの作業だけに、細心の注意が必要になる。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014012202000128.html

汚染水タンクを「溶接型」にするということ自体、「反故」にされていく勢いである。ボルト締め型についても「延命」措置をして、「数年」は使うとのこと。これでは、「緊急措置」とすらいえない。ボルト締め型のタンクの場合、「漏水」と「放射線発生」という二重の欠陥をもっている。しかし、そのことは、当面、放置されるのである。本格稼働のめどがたたないALPSの稼働をあてにして…。

このようなことは、他でも見られる。多少、人びとの目が向かなくなったことを好機として、東電・原子力規制委員会・原子力規制委員会は、好き放題なことをしているのである。

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さて、今度は、元空幕長であり、石原慎太郎(日本維新の会共同代表)より推薦を受けて都知事選に立候補を予定している田母神俊雄がどのような原発論をもっているかみておこう。彼の原発論については、本ブログでも一部紹介した。しかし、部分的に紹介しても、彼の原発論総体が伝わらないと思われる。また、これは、原発推進派が原発や放射能についてどのように考えているのかを知る一つの材料にもなるだろう。ここでは、「第29代航空幕僚長田母神俊雄公式ブログ 志は高く、熱く燃える」に2013年3月20日に掲載された「福島原発事故から2年経って」を中心にみていこう。

田母神は、まず冒頭で、このように述べている。これが、全体のテーマといってよいだろう。

東日本大震災の福島原発の事故から2年が経過して、テレビなどではまたぞろ放射能の恐怖が煽られている。あの事故で誰一人放射能障害を受けていないし、もちろん放射能で死んだ人もいない。2度目の3月11日を迎え、原発反対派は鬼の首でも取ったように反原発運動を強化している。
http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11494727117.html

まず、田母神は、チェルノブイリでは原子炉自体が爆発して当初30人の死者が出てその後も多くの放射線障害を受けた人がいたが、福島では地震で原子炉自体は自動停止したが、津波により電源供給が絶たれて冷却水が送れないために水蒸気爆発を起こしたと、その違いを強調している。福島第一原発事故の主要原因が地震なのか津波なのかは議論のあるところだ。ただ、それはそれとして、田母神は「だから電源を津波の影響を受けない高台に設置すれば安全対策完了である。マグニチュード9の地震に対しても日本の原発は安全であることが証明されたようなものだ」と言い放つ。かなり唖然とする。日本の原発は海辺にあることが普通であり、もともと、津波被害には脆弱な構造を有しているのだが。

続いて、彼はこのようにいって、2012年末の総選挙で「脱原発」を掲げた政党を批判する。

原発がこの世で一番危険なものであるかのように騒いでいるが、我が国は50年も原発を運転していて、運転中の原発による放射能事故で死んだ人など一人もいない。それにも拘らず原発が危険だと煽って、昨年末の衆議院選挙でも脱原発、卒原発とかを掲げて選挙を戦った政党があった。しかし、日本国民もそれほど愚かではない。原発さえなければ後のことは知ったことではないという政党は選挙でボロ負けをすることになった。
http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11494727117.html

田母神によれば、「人間の社会にリスクがゼロのものなど存在しない…豊かで便利な生活のためにはリスクを制御しながらそれらを使っていくことが必要なの」であり、脱原発を主張する人は、飛行機にも車にも乗るべきではないとする。そして、原発新規建設計画がある米中韓で原発反対運動をすべきと揶揄しているのである。

田母神は、現在の福島第一原発は危険ではないと主張している。復旧作業をしている人がいるのだから、危険はないというのだ。福島第一原発の作業員において、今の所急性症状が出ていないのは、東電なりに法的規制にしたがって、作業場所や作業時間を管理した結果であり、人が入れないところは、ロボットが作業しているのだが、そういうことは考慮した形跡がない。

福島原発周辺で放射能的に危険という状況は起きていない。東京電力は、周辺地域に対し放射能的に危険であるという状況を作り出してはいない。福島原発の中では今でも毎日2千人もの人が入って復旧作業を継続している。そんなに危険であるのなら作業など続けられるわけがない。
http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11494727117.html

そして、福島第一原発は危険ではないにもかかわらず、住民を避難させて、損害を与えたのは、当時の菅政権の責任だとしている。彼によれば、年間20ミリシーベルトという基準でも厳しすぎるのである。年間100ミリシーベルトでよかったのだと、田母神はいう。ここで、私は、除染の基準は年間1ミリシーベルトであり、たとえ、住民が帰還しても、そこまで下げる義務が国にはあるということを付言しておく。田母神のようにいえば、避難も除染も一切ムダな支出となる。

しかし危険でないにも拘らず、ことさら危険だと言って原発周辺住民を強制避難させたのは、菅直人民主党政権である。年間20ミリシーベルト以上の放射線を浴びる可能性があるから避難しろということだ。国際放射線防護委員会(ICRP)の避難基準は、もっと緩やかなものに見直しが行われるべきだという意見があるが、現在のところ年間20ミリから100ミリになっている。これは今の基準でも100ミリシーベルトまでは避難しなくてもいいということを示している。100ミリを採れば福島の人たちは避難などしなくてよかったのだ。
(中略)
強制避難させられた人たちは、家を失い、家畜や農作物を失い、精神的には打ちのめされ、どれほどの損害を受けたのだろうか。一体どうしてくれるのかと言いたいことであろう。
(中略)
政府が避難を命じておいて、その責任を東京電力に取れというのはおかしな話である。繰り返しになるが福島原発の事故によって、東京電力は放射能的に危険であるという状態を作り出していない。危険でないものを危険だとして、住民を強制避難させたのは菅直人なのだ。
http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11494727117.htm

田母神は、原子力損害賠償責任法で異常な天災・地変によって生じた損害については、電力会社は責任をとらなくてよいことになっているが、にもかかわらず、巨額の賠償金支払いが義務付けられたと述べている。それは、東京電力が戦わなかった結果であるとし、「社長は辞めたが、残された東京電力の社員は経済的にも、また精神的にも大変つらい思いをしていることであろう」と、東京電力に同情している。

そして、田母神は、放射能は塩と同じで、なければ健康が維持できないが、一時に取りすぎると真でしまうものだと述べている。

放射能は、昔は毒だといわれていた。しかし今では塩と同じだといわれている。人間は塩分を採らなければ健康を維持できない。しかし一度に大量の塩を採れば死んでしまう。放射線もそれと同じである。人間は地球上の自然放射線と共存している。放射線がゼロであっては健康でいられるかどうかも実は分からない。放射能が人体に蓄積して累積で危険であるというのも今では放射線医学上ありえないことだといわれている。放射線は短い時間にどれだけ浴びるかが問題で累積には意味がない。
http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11494727117.htm

その論拠として、自然放射線の100倍の環境にいるほうが健康にいいという説(ミズーリ大学のトーマス・ラッキー博士が提唱しているとしている)、DNAが放射線で壊されてもある程度なら自動修復されるという説、年間1200ミリシーベルトの放射線照射は、健康によいことはあっても、それでガンになることはないという説(オックスフォード大学のウェード・アリソン教授が提唱したものとされている)をあげている。これは、いわゆる放射線ホルミシウス論というものであろう。

そして、結論として、田母神は、このように述べている。

我が国では長い間歴史認識の問題が、我が国弱体化のために利用されてきた。しかし近年では多くの日本国民が真実の歴史に目覚め始めた。そこに起きたのが福島原発の事故である。左向きの人たちは、これは使えるとほくそ笑んだ。そして今ありもしない放射能の恐怖がマスコミ等を通じて煽られている。原発なしでは電力供給が十分に出来ない。電力が不足してはデフレ脱却も出来ない。不景気が今のまま続き学校を卒業してもまともな就職も出来ない。放射能認識は第二の歴史認識として我が国弱体化のために徹底的に利用されようとしている。
http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11494727117.htm

田母神の「原発論」は、いってしまえば、日本の原発は、地震によって停止し、津波対策もされている(?)ので安全であり、放射線による健康障害などはありえず、それらを理由にした脱原発は、日本を弱体化させる陰謀であり、それにのってしまえば、電力不足、デフレによる不景気、就職危機が継続してしまうということになる。

田母神俊雄は、福島県郡山出身である。福島県あたりで、このような議論をされていると考えるとうそ寒くなる。

さらにいえば、田母神は、元航空幕僚長であった。航空自衛隊ではトップの役職である。一応、自衛隊は、よくも悪くも、核戦争や核物質テロへの対処を考えているはずだと思っていた。しかし、放射能を塩と同じという田母神のような認識で、まともな核戦争やテロへの対策がとれるのかと思ってしまう。さらにいえば、彼らから見れば都合の悪い情報は、こちら側を弱体化させる敵の悪宣伝でしかないのである。このような人が、どうして、航空幕僚長を勤めることができたのかとすら思えてしまう。

田母神俊雄のサイトに都知事選の政策が出ているが、原発については全くふれていない。しかし、このような原発認識を抱いている人物が、今や都知事に立候補しようとしているのである。

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さて、猪瀬都知事の辞任を受けて、2月9日に都知事選が行われることになった。脱原発などを公約に掲げた前日弁連会長の宇都宮徳児がいち早く立候補を表明、共産党・社民党が推薦した。また、石原慎太郎個人の応援を受けた形で元空幕長の田母神俊雄も立候補の記者会見を行い、元首相の細川護煕も脱原発を旗印に掲げて立候補を検討していると伝えられている。他方で、元厚相・元参議院議員舛添要一も無所属で立候補し、自民党などの推薦を受けることになると報道されている。

今回の都知事選の一つのテーマは、原発問題である。宇都宮・細川は「脱原発」を標榜している。そして、田母神は、自身のブログで、2013年3月20日に、低線量放射線は有害ではなく、むしろ有益だなどとしながら、次のように指摘している(田母神の原発論については、機会をみて紹介したいと考えている)。

我が国では長い間歴史認識の問題が、我が国弱体化のために利用されてきた。しかし近年では多くの日本国民が真実の歴史に目覚め始めた。そこに起きたのが福島原発の事故である。左向きの人たちは、これは使えるとほくそ笑んだ。そして今ありもしない放射能の恐怖がマスコミ等を通じて煽られている。原発なしでは電力供給が十分に出来ない。電力が不足してはデフレ脱却も出来ない。不景気が今のまま続き学校を卒業してもまともな就職も出来ない。放射能認識は第二の歴史認識として我が国弱体化のために徹底的に利用されようとしている。
http://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-11494727117.html

他方、自民党の推薦を受けるとされる舛添はどうなのだろうか。彼が当時代表を勤めていた新党改革の公約集「新党改革約束2012」(2012年11月27日発表)では、次のように宣言している。

改革その3 原発に依存しない社会の構築

福島の原発事故をしっかりと反省し、原発に依存しない社会を構築します。近い将来には、原発をなくすためエネルギー政策の大転換を図ります。そのために、地域が主体となる再生可能エネルギーの開発を進め、個々人の意識改革と社会全体や生活の仕方の構造改革等を行い、実現します(後略)。
http://issuu.com/shintokaikaku/docs/manifest/14?e=1872444/2703599

漸進的な「脱原発」とでもいえるであろう。しかし、舛添は、3.11以前から、このように主張していたわけではない。舛添要一は、1996年に『諸君』1996年10月号に寄稿した「巻原発『住民投票』は駄々っ子の甘えである」という文章を発表している。。この当時、東北電力は、新潟県巻町(現新潟市)において原発建設計画を進め、町当局に工作していた。しかし、反対運動は、推進派町長のリコール運動や住民投票実施を求める運動などを展開して対抗した。その結果、1996年8月4日に原発建設の是非を問う住民投票が実施され、原発反対派が約60%の得票を得た。2003年12月に東北電力は巻原発建設撤回を正式に表明するが、その一つの契機となっている。

この、巻町の住民投票について、舛添は、表題において「巻原発『住民投票』は駄々っ子の甘えである」としている。そして、リード文では「住民投票を礼賛する世論が衆愚政治を生み、大衆民主主義をおぞましい独裁に変えるのだ」と主張している。

舛添は、そもそも「住民投票」について、不満をあらわにしている。次の文章をみてほしい。

 

町民によって正当に選挙された町議会が、そして町民が直接選挙によって選んだ町長が決定したことには、たとえそれに反対であっても従うのが民主主義のルールというものである。その手続きが住民投票によって無視されるとすれば、それこそ巻町の民主主義は危機に瀕していると言ってよい。町民の直接選挙によって選ばれた町長の正統性はいわずもがな、町議会が多数決原理にもとづいて決めたことが軽んじられ、住民投票のほうが正統性に上であるのような錯覚を持つとしたら、代議制民主主義は成り立たない。

そして、住民投票の制度化を真剣に検討すべきとした朝日新聞朝刊1996年8月5日号の社説「巻町の住民投票が示した重み」を批判しながら、こう指摘する。

…そのような考え方こそが、衆愚政治を生むのであり、大衆民主主義をおぞましい独裁に変えるのである。
 20世紀のドイツにおいて、「選挙では味わえない充実感」(前述の朝日新聞社説中の表現…引用者注)を求めて、大衆がたどり着いた先は、天才的デマゴーグ、ヒトラーである。ニュルンベルクのナチ党大会において、「ハイル、ヒトラー!」と叫ぶ何十万という大衆は、確かに「選挙では味わえない充実感を感じとった」であろう。しかし、この現代の独裁の帰結は、ユダヤ人の大量虐殺であり、戦争であった。直接民主主義は独裁に正統性を与える危険性がある。そのリスクを回避する知恵のひとつが、間接民主主義、代議制民主主義なのである。

さらに、舛添は、フランスのルイ・ナポレオンが1851年のクーデター後、翌年の人民投票によって憲法を改正して帝政を復活し、ナポレポン三世になっていったことをあげ、「人民投票が第二帝政を誕生させたことを忘れてはなるまい。ナポレオン三世を生んだフランスの大衆もまた、人民投票に参加することによって、「選挙では味わえない充実感」に浸ったに違いないのである」と述べている。

ただ、舛添は、住民投票による世論の表明の力を軽視していたわけではない。投票結果について法的拘束力はないとしながらも「しかしながら、これはあくまで形式論であり、住民が投票によって決めたことを、首長や議員が覆すことは不可能と考えてよい。実質的には、住民投票は拘束力を持たざるをえないのである」と指摘している。

このように論じた上で、舛添が住民投票による世論の表明の力を無化するために持ち出しているのが「国のエネルギー政策の一環としての原発」である。舛添は、次のように主張する。

 

原発建設は国のエネルギー政策の一環であり、ある特定の地域の意向に左右されるべきでものではない。基地問題についても同様で、国の防衛政策に関わる問題なのである。一地域の住民が、住民投票という手を使って国の政策の根幹を覆すことができるとすれば、そのような国はおよそ国家とは言いがたいのである…人口三万人の町が住民投票によって国の政策を拒否することができるとすれば、残り1億2500万人の日本国民はどこでどのように自らの意思を表明すればよいのだろうか。国会や国会議員は何のために存在しているのであろうか…ある地域が国の政策に対して反乱を起こすときは、最終的にはその国から独立する覚悟がなくてはならない。国からの補助金は懐に入れる、しかし国の政策には反対するというのでは筋が通らないし、それは駄々っ子の甘え以外のなにものでもない。

そして、住民投票賛成派が持ち出してくると舛添が想定する「人権・自然権」について、「人権や自然権は自分以外の他の日本国民にもあることを忘れている。電気のある快適な文明生活を送ることも、外敵の侵略から生命や財産を守ることも、人権であり、自然権である。これら相対立する人権や自然権を調整することこそ政治の仕事なのである」と反論している。ここでは明示的に書いていないが、そのような「調整としての政治」が「間接民主主義」の課題なのであろう。

舛添は、原発建設の是非を問う巻町の住民投票について、巻町だけでなく、国のエネルギー政策の根幹に関連する問題なのだという。ウラン・化石燃料などの天然のエネルギー資源には限りがある中で、舛添は、再生可能エネルギーにもました日本で生み出すことができるプルトニウムに期待をかける。そして、すでに、日本の電力の34%が原子力により生産されているとした上で、このように述べている。

 

このような日本のエネルギーをめぐる状況を考えると、あえて議論を単純化して言えば、電力の約三分の一を供給している原子力発電所を、(1)拒否するならば、省エネに心がけて電力消費量を三分の一減らす、(2)今のような多電力消費型生活を続けるために受け入れる、という選択肢しかないはずである。

最後に、舛添は、原発反対派の人びとにこのように呼びかける。

 

もし巻町の原発反対派の人たちが、住民投票に向けての運動の中で、同時に省エネ運動を実行していたら、はるかにその主張は説得力を増したであろうし、また地域エゴという非難にさらされることもなかったであろう。エネルギー問題は国民全体の関心事でなければならない。
(中略)
 「地方の反乱」が地域エゴと非難されないためには、少なくとも反乱のリーダーが、自分たちの主張を国の政策とどう調整させていくのかという視点を欠いてはなるまい。そして、そのようなリーダーシップは、マスコミ向けのパフォーマンスからは生まれないのである。

1996年の舛添は、まず第一に、住民投票のような人びとが直接に民意を表明することについて、ナチズムやポナパルティズムのような「独裁」につながっていくと述べている。このような考え方は、舛添だけではない。東京大学法学部教授長谷部恭男も『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)の中で同様の意見を述べている。彼らにすれば、選挙代表によってなされる間接民主主義だけが民主主義なのである。

第二に、舛添は、国策全体にかかわることは、自治体だけで決めるべきではないとする。ここで行われた住民投票は、巻町に原発を設置するかどうかということであり、日本全国において原発を建設するかどうかを問うたものではないのであるが。ここでは引用しなかったが、随所で舛添は1995年の沖縄米兵少女暴行事件後に激しく展開された沖縄の反基地運動についても同様の論理で批判している。その上で、国策に反するような運動は、補助金の停止など、相応の覚悟が必要であるとしている。彼によれば、そのような覚悟のない運動は「駄々っ子の甘え」なのである。

第三に、舛添は、資源の乏しい日本において、プルトニウムは貴重なエネルギー源であるとしつつ、最早電力の三割以上にもなった原子力発電については、徹底的な節電をするかしないか二者択一だとしているのである。

1996年の舛添要一はこのように考えていた。舛添は、考え方を変えたのであろうか。舛添が推薦を取り付けようとしている自民党の安倍政権は、原発再稼働を進めようとしている。例え、現時点で舛添が「脱原発」を掲げたとしても、エネルギー源確保としての原発が国策として維持されるならば、自治体レベルで異論をさしはさむことはできないことになるだろう。そして、そのような原発政策に対する反対運動は、彼にとっては、公選首長や議会の正統性を脅かし、間接民主主義を破壊し、ナチズムやボナパルティズムのような独裁へ導いていくものとして認識されることになるだろう。脱原発は、ただ、それを政策として掲げればよいというものではない。民意を少しでも反映し、それぞれの地域の自立性を尊重して政治を進めていくという、民主主義と地方自治の課題が横たわっていることを、1996年の舛添の議論は逆説的に示しているといえる。

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日本のマスコミは、世界各国で日本人が活躍していることを探し出し、称揚することにやっきになっているようにみえる。オリンピック、サッカーW杯、スポーツ選手、ノーベル賞受賞候補者、アメリカアカデミー賞ノミネートなど、枚挙に暇がない。そんな中、世界各国で上映され、評価も得ているのに、日本国内ではまったく報道も上映もされなかったアニメがある。3.11以後の福島の状況を描いたアニメ「Abita」である。あまり長いものではないので、まずはみてほしい。

このアニメは、次のことをテーマにしている。題名の「Abita」はラテン語で暮らしとか生命とかを意味するそうである(なお、
後で 辞書にて確認してみたところ、「abita」は、イタリア語動詞の「abitare」の直説法現在三人称単数であるようである。「住む」「暮らす」「棲息する」という意味であった。また、日本語の「(放射能を)浴びた」とかけているのではないかと友人から指摘があった)。

福島の子供たちが、放射能のため外で遊ぶことができない。
彼らの夢と現実について。

内容は、テーマそのものである。水墨画のタッチで描かれた画面のなかで、家に籠もっている少女はお絵描きをしながら福島の山林を飛び回ることを夢見ている。しかし、一歩外に出てみると、福島の山林は放射性物質で汚染されており、少女は飛び回ることはできず、防護服を着用した大人に連れ戻され、マスクを強制される「現実」があった。

この作品は、Shoko Haraという在独日本人学生がPaul Brennerという学生とともに、バーデン=ヴュルテンベルク・デュアルシステム大学レーヴェンスブルグ校の卒業作品として制作したものである。海外では、次の二つの賞を受けた。

Best Animated Film, International Uranium Filmfestival, Rio de Janeiro, 2013
Special Mention, Back-up Filmfestival, Weimar, 2013

上記のうち、国際ウラニウムフィルムフェスティバルは、核問題を焦点にしたものであるといえる。バックアップ・フィルムフェスティバルは、ドイツのバウハウス大学が主催するものである。

このアニメは、世界各地で上映された。下記は、上映リストである。

Screenings:
International Festival of Animated Film ITFS 2013, BW-Rolle
Japanese Symposium, Bonn, 2013
Nippon Connection, 2013
International Uranium Filmfestival, Rio de Janeiro, 2013
International Uranium Filmfestival, Munich, 2013
International Uranium Filmfestival, New Mexico, 2013
International Uranium Filmfestival, Arizona, 2013
International Uranium Filmfestival, Washington DC, 2013
International Uranium Filmfestival, New York City, 2013
Back-up Filmfestival, Weimar, 2013
Mediafestival, Tübingen, 2013
zwergWERK – Oldenburg Short Film Days, 2013
Konstanzer Filmfestspiele, 2013
Green Citizen’s Action Alliance GCAA, Taipei, Taiwan, 2013
Stuttgart Night, Cinema, 2013
Yerevan, Armenien, ReAnimania, 2013
Minshar for Art, The Israel Animation College, Tel Aviv, Israel, 2013
IAD, Warschau, Gdansk, Wroclaw/Polen, 2013
IAD (BW-Rolle, Best of IC, Best of TFK) Sofia, Bulgarien, 2013
05. November 2013: Stuttgart Stadtbibliothek (BW-Rolle) , 2013
PISAF Puchon, Southkorea, (BW-Rolle, Best of IC, Best of TFK) , 2013
Freiburg, Trickfilm-Abend im Kommunalen Kino (BW-Rolle), Freiburg, 2013
Zimbabwe, ZIMFAIA (BW-Rolle, Best of IC, Best of TFK), Zimbabwe, 2013

Upcoming Screenings:
18. Dezember 2013: Böblingen – Kunstverein Böblingen (BW-Rolle)
21.-22. Dezember 2013: Schorndorf – Kino Kleine Fluchten (BW-Rolle, Best of IC, Best of TFK)
27. August 2014: Künzelsau – Galerie am Kocher (BW-Rolle)
Movie Night for the anniversary of the Fukushima desaster,Zurich, 2014

このリストでは、ドイツの地名が多い。アメリカのワシントンやニューヨークなどでも、国際ウラニウムフィルムフェスティバルが開催された関係で上映されている。アルメニア・ポーランド・イスラエル・ジンバブエも上映地である。台湾や韓国でも上映されている。しかし、日本では一回も上映されていないのである(Japanese Symposium, Bonn, 2013はボンで開催されており、Nippon Connection, 2013は、フランクフルトで開催されたドイツの日本映画祭である)。

通常であれば、「日本人学生の快挙!」などといって報道しているだろう。しかし、このアニメに関しては、報道もされていないし、映画祭などに招待して上映することもなかったのである。そして、このアニメに関する限り、日本の人びとよりも、ドイツ・アメリカ・韓国・台湾の人びとのほうがより認識するようになったといえる。

背景には、原発再稼働をねらう政財界の動向があるだろう。ただ、それ以上に、3.11はなかったことにしたいという一般的な意識があるといえる。アニメであるがゆえに直接的な表現ではないが、3.11直後、福島だけでなく、放射性物質が拡散されたとされる東北・関東地方において、子どもたちが外で遊ぶことは避けられていた。その後、「復興」の名の下に、放射性物質の影響はないものとされ、福島において、今度はマスクを着用することが避けられるようになった。そして、福島第一原発事故は克服されるべき課題というよりも、日本の弱さをさらけだす直視しがたいものとして意識されてきているのである。そのような中、福島第一原発事故における子どもの問題を扱っているこのアニメについては、報道も紹介もされないことになってしまったといえる。結局、日本人の活動であっても、日本の弱さを現していると考えられるものは「見たくない」のである。現状の政治動向の裏側には、そのような日本社会の意識があるだろう。

他方で、世界各国の日本についての関心は、福島第一原発事故へのそれが大きな部分をしめている。このアニメが制作されたドイツだけでなく、欧米、アジア、アフリカの各地では、日本については福島第一原発事故から考えようとしている。それゆえに、このアニメが国際的に評価・紹介されることになったといえる。このような日本の内と外との認識のギャップは、福島第一原発事故だけではなく、靖国参拝や従軍慰安婦問題でもみることができる。

そして、2014年時点でみると、福島第一原発事故における子どもの問題は、より複雑で、深刻さをましている。確かに、2011年時点からみれば、相対的に放射線量は下がっている。しかし、除染については、学校・住宅地・農地などが主であり、効果自体が限定的である。山林を面的に除染する試みはなく、結局、自然の減衰・流出をまつしかない。そのような中、マスク着用すら忌避された福島の子どもたちの半分程度は甲状腺に異常があり、通常よりも多く、甲状腺がんが発生する状況になっている。福島の子どもたちの悲惨を描いた本アニメよりも厳しい状況なのである。

*制作者側の情報については、下記サイトによった。

*なお、本アニメについては、下記サイトに紹介されている。
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-1519.html

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2013年12月6日、経済産業省は、同省の諮問機関である総合資源エネルギー調査会の基本政策分科会を開き、「新しいエネルギー基本計画」の素案を提示した。産経新聞がネット配信した次の記事で概要をみてほしい。

エネルギー基本計画案に当局が「原発再稼働進める」と明記 民主政権のゼロ政策転換
2013.12.6 20:10 [原発・エネルギー政策]
 経済産業省は6日、総合資源エネルギー調査会(経済産業相の諮問機関)の基本政策分科会を開き、政府の中長期的なエネルギー政策の指針となる「エネルギー基本計画」の素案を提示した。原発を「重要なベース電源」と評価したうえで、「原子力規制委員会によって安全性が確認された原発について再稼働を進める」と明記した。

 東日本大震災後に民主党政権が掲げた「原発ゼロ」政策を転換する。

 素案では、原発について「優れた安定供給性と効率性を有しており、運転コストが低廉で変動も少なく、運転時に温室効果ガスの排出もない」と評価。その上で「エネルギー需給構造の安定性を支える重要なベース電源である」とし、安全性の確保を前提に引き続き活用するとの方針を明記した。

 原発の新増設については具体的な記述を見送った。民主党政権が昨年9月にまとめた革新的エネルギー・環境戦略では「新増設は行わない」としていたが、将来的な新増設の可能性については含みを持たせた。

 将来の原発を含む電源の構成比率(総発電量に占める比率)についても明示せず、原発の再稼働状況などを見極めて「速やかに示す」ことを盛り込んだ。

 再生可能エネルギーの拡大などで、エネルギーの原発依存度は「可能な限り低減させる」とした。

 茂木敏充経産相は6日の記者会見で「実現可能でバランスの取れた責任ある計画としてまとめることが必要だ」と強調。12月中旬に計画を策定し、来年1月に閣議決定する方針を示した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/131206/plc13120620130028-n1.htm

実際、経済産業省の出した文書でみてみよう。「エネルギー基本計画に対する意見(とりまとめ)」と出された文書(実際には12月6日の素案を基本政策分科会の意見によって修正したものとみられる)において、原発については、次のように指摘されている。

大きく変化する国際的なエネルギー需給構造の中で、深刻なエネルギー制約を抱える我が国が、エネルギー安全保障の強化、経済性のあるエネルギー源の確保、温室効果ガス排出の抑制という重大な課題に対応していくためには、多様かつ柔軟な電源オプションを確保することが必要である。
原子力発電は、燃料投入量に対するエネルギー出力が圧倒的に大きく、数年にわたって国内保有燃料だけで供給が維持できる準国産エネルギー源として、優れた安定供給性と効率性を有しており、運転コストが低廉で変動も少なく、運転時には温室効果ガスの排出もないことから、安全性の確保を大前提に、エネルギー需給構造の安定性を支える基盤となる重要なベース電源として引き続き活用していく。
原発依存度については、省エネルギー・再生可能エネルギーの導入や火力発電所の効率化などにより可能な限り低減させる。その方針の下で、我が国のエネルギー制約を考慮し、安定供給、コスト低減、温暖化対策、安全確保のために必要な技術・人材の維持の観点から、必要とされる規模を十分に見極めて、その規模を確保する。
いかなる事情よりも安全性を最優先し、国民の懸念の解消に全力を挙げる前提の下、世界で最も厳しい水準の新規制基準の下で原子力規制委員会によって安全性が確認された原子力発電所について再稼動を進める。
また、万が一事故が起きた場合に被害が大きくなるリスクを認識し、事故への備えを拡充しておくことが必要である。
さらに、原子力利用に伴い確実に発生する使用済核燃料は、世界共通の悩みであり、将来世代に先送りしないよう、現世代の責任として、その対策を着実に進めることが不可欠である。

クリックしてreport-1.pdfにアクセス

原発依存度を低減させるといいながらも、結局のところ、安全性が確認された原発を再稼働させるというところが主要な主張になっている。全体において矛盾した、わかりにくい文章である。詳細な内容については、ご一読してほしい。

さて、同日(12月6日)、2014年1月6日を期限として、エネルギー基本計画策定に向けてパブリックコメントが募集された。正式には「新しい『エネルギー基本計画』策定に向けた御意見の募集について」と題されており、あて名は資源エネルギー庁長官官房総合政策課となっている。募集のサイトについて、下記に示しておこう。

http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=620213015&Mode=0

このパブリックコメントに、本日(2014年1月2日)に応じてみた。その内容を次に示しておこう。

骨子:エネルギー供給減としての原子力発電は即刻廃止すべきである。

2013年3月11日の福島第一原発事故は、原子力発電の危険性を如実に示した。それまでも、放射能もれ、被曝労働、実現性のない核燃料サイクル計画や放射性廃棄物処分など、原子力発電の問題性は露呈していたが、福島第一原発事故は、原子力発電における過酷事故が、周辺地域社会全体の存立を脅かし、さらには国家や地球全体にも多大な影響を与えることを提示した。原子力発電によって得られるとされるいかなるリターンも、想定される過酷事故のリスクには見合わない。さらに、原子力発電は、実際に原子力発電に携わる労働者や立地している地域社会への構造的差別の上に成り立っている。ゆえに、エネルギー供給としての原子力発電は廃止し、それに携わってきた人員・施設・予算は、福島第一原発事故の処理を中心として、今までの原子力発電によってもたらされきた問題の解決へ振り向けられるべきである。以下、原子力発電の問題性を箇条書きで示しておく。
1、現在のエネルギー基本計画案の基調は「経済負担の最小化を図りつつ、エネルギーの安定供給と環境負荷の低減を実現していくことは、既存の事業拠点を国内に留め、我が国が更なる経済成長を実現していく上での前提条件となる」(「エネルギー基本計画に対する意見」)という観点が中心となっていると考えられる。つまり経済成長のためには多くのエネルギーを供給しなくてはならないとする高度経済成長期と変わらない意識が前提とされているといえる。それゆえに、原子力発電も必要とされることになっている。しかし、前述してきたように、原子力発電のリスクは、どのような経済成長の可能性でも補えないものである。これは、単に、原子力発電だけではない。中国におけるPM2.5による大気汚染のように、経済成長のためにやみくもにエネルギーを確保することは、深刻な環境破壊をひき起こし、人間社会を破壊することになるだろう。それは、地球温暖化全体がそうである。新しいエネルギー基本計画の基調は、環境破壊を惹起しない程度のエネルギー供給はどの程度であるかを示し、それに見合った省エネルギー的な経済成長を促進していくということでなくてはならないと考える。
2、「エネルギー基本計画についての意見」では、「シェール革命 」によって低コストのエネルギー源が見いだされる可能性に言及しながらも、海外依存率を低めるという名目のもと、現在輸入済み核燃料があまっているとして「準国産」のエネルギー源として原子力発電を推奨している。長期的にいえば、ほとんど輸入に頼っているウランを燃料としている原子力発電は「国産」とよぶことはできない。短期的には、低コストとされるシェールガスにエネルギー源を転換しつつ、中長期的には再生可能エネルギーによる供給をめざすべきであろう。
3、核燃料サイクル計画は、その核である高速増殖炉もんじゅは事故によってほとんど稼働せず、六ヶ所村核燃料再処理工場の竣工も遅れている状況であり、頓挫しているといえる。高速増殖炉開発については世界のほとんどの国で断念されており、その場合、再処理工場が本格稼働しても、ウラン燃料よりもコストが高く、核兵器への転用のおそれがあるプルトニウムが蓄積されるだけになるだろう。すでに破たんした核燃料サイクル計画は他に先駆けて廃止し、それらに費やしてきた予算・人員・施設・技術は、福島第一原発事故処理などに転用すべきである。
4、高レベル放射性廃棄物処分については、現在、地層処分をもっとも有効なものとして検討されている。しかし、地層処分の安全性について十分信頼されているとはいえず、特に、日本においては、万年単位で安全な地層が得られる保証は得られない。現時点における高レベル放射性廃棄物は当然なんらかの形で処分されなくてはならないが、原発の再稼働によりより放射性廃棄物を増やすべきではない。
5、原子力発電は、従事する労働者や立地する地域社会に対する構造的差別の上で成り立っている。原子力発電において、なんらかの被ばく労働はさけられないが、それらの被ばく労働は、長期的に働く社員ではなく、待遇の悪い下請け労働者や日雇労働者によってなされている。また、原発は、近代的産業の中心地ではなく、人口が少ない地域に立地されており、事故の際には、立地地域の人びとの犠牲によって社会的・経済的影響を小さくさせている。労働者や地域間における構造的差別を是正していくことはエネルギー対策の観点からのみできることではないが、原子力発電を維持することで、このような構造的差別を温存・助長すべきではないと考える。

このパブリックコメントは2000字が限度とされている。私のコメントは1900字を超えているので、分量的には限界に近い。「エネルギー基本計画に対する意見」へのコメントであり、その内容ついて項目ごとに反論していく手法もあるとは思ったが、字数が限られており、さらに、かなり専門的内容に反論していくことは、かなり困難だと考えた。そして、結局、「骨子:エネルギー供給減としての原子力発電は即刻廃止すべきである」として、その理由をあげていくことにした。今考えると、他にも書くことがあったなと思ったりもする。ご参考になれば幸いである。

前述したように、期限は1月6日である。こんなに長文でなくても、ほんの少しの文章でもかまわないそうである。なるべく、コメントしてほしいと思う。

なお、本パブリックコメントを呼びかけているサイトを最後に紹介しておきたい。

http://publiccomment.wordpress.com/

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私の幼少時(1960年代)、「日の丸」は祝日のシンボルだった。カレンダーでは祝日には日の丸が印刷されていた。また、祝日は「旗日」といわれていた。特に正月元旦は、「旗日」の中でも筆頭であった。

もちろん、1960年代であっても、各家庭が祝日になると日の丸を掲げていたわけではない。今思えば、各町内に数軒ぐらいだったかもしれない。とはいっても、探すのに困るほどではなかった。正月元旦などの祝日に、町を少し歩いていれば、日の丸を掲げている家は簡単に見つけられた。

幼い頃の私は、なぜ自分の家で日の丸を掲げないのか親に聞いたことがある。親は、「日の丸はお金持の家がかかげるもの」と答えた。今、思えば、それだけではなく、いろんな思いがあったのだろうと考える。一方、私自身について反省してみると、たぶん日の丸を掲げる家が羨ましかったのだろう。よくも悪くもであるが、「日の丸」については「ハレの日」における「祝祭」のイメージが刷り込まれていたのである。もちろん、今はそう思っていないが、そのような感覚は今でも残っている。

本日(2014年1月1日)、運動のために、自宅のある練馬区から多摩湖までサイクリングしてみた。ルートは千川上水沿いから多摩湖自転車道で、大体片道20キロ弱である。自治体では、練馬区・武蔵野市・西東京市・小平市・東村山市・東大和市を通ることになる。

しかし、行ってみて、驚いた。私の記憶では元旦は「旗日」であり、かなりの家庭が日の丸を掲げていると考えていた。しかし、日の丸を掲げていたのは、ほんの少数だった。ほとんどの地域は、日の丸など掲げていないのである。次の写真は練馬区内のものだが、大体、どこにいっても、日の丸を見ることは難しかった。

練馬区内の正月風景(2014年1月1日撮影)

練馬区内の正月風景(2014年1月1日撮影)

そもそも、日の丸というだけでなく、祝祭気分のあふれた正月風景とすらいえないように思える。しめ飾りすらない家が多く、半分ぐらいはありそうだった。あっても、非常に小さいものが多い。拙宅でも「形ばかり」として、500円くらいの小さなしめ飾りをつるしている。その時は、なるべく小さいものを選んだ。しかし、本日見たら、大体、どの家のしめ飾りも多くは拙宅程度のものだったのである。

拙宅のしめ飾り(2014年1月1日撮影)

拙宅のしめ飾り(2014年1月1日撮影)

門松になるともっと少ない。そして、門松がある家庭ではしめ飾りがない場合が多かった。といっても、日の丸ほどではない。何軒かみていると、門松をかざる家は発見できた。

結局、片道20キロ弱のサイクリングで、日の丸が掲揚されていた箇所は、9箇所しかなかった。そのうち、一般家庭は4軒で、内訳は練馬区1、西東京市2、東村山市1であった。その他の掲揚個所は、新興宗教の「真光正法之会」(練馬区)、消防署(練馬区)、武蔵野大学(西東京市)、小平駅前稲荷神社(小平市)、村山貯水池駐在所(東大和市)の5箇所である。そのうち、近所の練馬区の消防署は常時日の丸を掲揚しており、駐在所などはどうかわからないが、最近、公的機関で日の丸が掲揚されていることが多いので、その一環であろう。「真光正法之会」と稲荷神社は、それぞれの宗教的見地から日の丸を掲揚しているのだろうと思う。武蔵野大学はなぜかわからない。ただ、校旗らしき旗も門前に掲揚していた。ここでは、これらの掲揚されていた日の丸の代表として、武蔵野大学の「日の丸」写真をアップしておこう。

武蔵野大学の日の丸(2014年1月1日撮影)

武蔵野大学の日の丸(2014年1月1日撮影)

結局、片道20キロ弱のサイクリングで日の丸の掲揚は9箇所しか発見できなくなかったのである。幼少の時、もちろんそれほどは多くないといっても、各町内に数軒は掲揚していた。しかも、一般家庭で掲揚しているのは4軒だけだ。もちろん、見落としはあるかもしれない。しかし、以前ならば、それほど苦労せずとも日の丸を見つけることはできた。今回は、ある程度意識してやっとこれだけ発見できたのである。日の丸は驚くほど激減したのである。

この祝日における日の丸掲揚激減の理由としては二つ考えられる。一つは、正月などの祝日を「ハレの日」として地域社会全体が祝う意識の減退である。しめ飾りや門松も相対的に少なくなり、小さくもなっている。また、以前であるとよく見かけた和装ー晴着の人もほとんど見かけなかった。このサイクリングの中で見かけたのは、覚えている限り、一組だけだった。途中で寄り道して石神井神社に行き、参拝客をみたが、その中にも晴着の人はいなかった。正月を「ハレの日」として祝う意識は、着実に減退している。1980年代末のバブル期には、結構晴着の人もみかけたので、長期におよぶ不況もその原因の一つなのかもしれない。

もう一つ考えられるのは、国旗国歌法(1999年成立)などにより、日の丸が日本国家と日本に対するナショナリズムを象徴する側面が強まり、「ハレの日」の祝祭の象徴として地域社会で受け取られなくなっているのではないかということである。現在、学校現場で日の丸掲揚を事実上強制する動きが強まっているが、それだけでなく、前述した消防署などの公的機関や、国会の議場、記者会見の場においても日の丸が持ち込まれている。これは、たぶん、アメリカにおける星条旗の扱いを模倣したものだと思われるが、日の丸を「ハレの日」の祝祭の象徴として感覚的に刷り込まれてきた私としては、ナショナリズム以前に違和感を感じる。それこそ、ビジネスライクな「ケ」である公的な場所に「ハレ」を持ち込むのかという感じなのである。そして、このような扱いが一般化していくことによって、「日の丸」における祝祭的イメージは減退していると考えられる。

そして、在日特権を許さない会などが、在日朝鮮人などへのヘイト・デモなどの場において、日の丸を持ち出すことも、日の丸の祝祭的なイメージを減退させている一因になっているのだと思う。もちろん、ヘイト・デモの内容自体が問題だが、それだけではなく、日の丸はそのような政治的スローガンを一般社会の押しつけようとする集団のみの象徴とされることによって、より広くもたれていた「ハレの日」の祝祭的なイメージを減退させることにつながっていったと考えられる。結局、日の丸の祝祭的なイメージは、スポーツ応援の場を中心に残存するしかないのではなかろうか。

私自身は、幼少期の感覚とは違った形で日の丸について認識している。しかし、私がどうこういうよりも、日の丸を日本国家やナショナリズムの象徴として一般社会に押しつける国家やナショナリストの営為そのものが、一般社会から日の丸を敬遠させている一因になっているのではないかと考えている。

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