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Archive for 2012年4月

さて、福島市は前年6月にも放射線測定調査を行った。以下にかかげておこう。

福島市全市一斉放射線測定マップ(2011年6月)

福島市全市一斉放射線測定マップ(2011年6月)

クリックして6804.pdfにアクセス

このように、本年3月の調査と違って、地点ごとの放射線量しかわからないものである。その意味で、放射性物質から「自衛」することに十分役立たないかもしれない。前回、情報を適切に公開しなかったと書いたが、ある意味では、人員・機材・予算を調査に回せなかったことが主因だったかもしれない。ただ、自力救済に必要な情報が与えられなかったことは結果的にいえると思う。

2011年6月においては、地点ごとしかわからないものの、やはり放射線量は3月に比べ高い。最大放射線量において、毎時3.4マイクロシーベルト以上になるところが6箇所もあった。また、後に除染の対象となる1マイクロシーベルト以上の地点は全体の72.5%である。調査値点数が違うので、単純な比較はできないのだが、3月時点では全体の28%となっているので、2011年6月と比べ全体では低下しているとはいえる。

このマップにおいて特徴的なことは、市の南部・東部・北部に2マイクロシーベルト以上のかなり高い放射線量を示す地域が広がっていることである。この線を結んでいくと、その延長線上に福島第一原発がある。想像するに、南東風にのって放射性物質が到来したといえるのではなかろうか。

前回のブログにおいて紹介した本年3月の調査においては、その形跡は残されているが、おおむね放射線量は下がっている。特に福島市北部ではかなり下がったといえる。ただ、東部の山間地に近い渡利などはそれほど下がっていないのである。

また、2011年6月の調査では、県庁近傍と思われる地点に2.5マイクロシーベルト以上の放射線量を示す地点が所在するなど、市街地中心部においても1マイクロシーベルトをしめすところが広がっている。しかし3月の調査では多くの地点で下がっているのである。

私自身は、毎時1マイクロシーベルト未満の放射線量においても人体に影響するかどうかわからないと思っている。その意味で、1マイクロシーベルト未満でもなんらかの除染などが必要であると考えている。ゆえに、楽観的な見通しはいえないのだが、昨年と本年を比較するならば、数字の上ではやや改善したといえるのかもしれない。

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福島民報2012年4月25日号によると、福島市は3月に市内全域で測定した空間放射線量測定マップを公表した。マップその他、関係記事は次の通りである。

福島民報2012年4月25日号

福島民報2012年4月25日号

この記事によると、居住地は500メートル四方、山間部は1キロメートル四方で測定したとのことである。しかし、福島市は、このマップよりも広大であり、特に山間部の多くはまだ測定されていないのである。

一応、市としては、2011年6月の調査で毎時平均1.33マイクロシーベルトであったのに対し、今回は0.77マイクロシーベルトとなり、約42.1%低下したとしている。市としては除染の基準を1マイクロシーベルトとしているが、それ未満の区画が約72%、それ以上が28%としている。そして2マイクロシーベルト以上の放射線量を示すところとして、渡利と大波の2区画をあげている。どちらも、市の東部にある。

これでもかなり下がったようで、その要因として、福島市は「物理的減衰や風雨などの自然現象、除染の効果があった」(福島民報)としている。

このマップをみていると、福島駅周辺の中心部と、東北自動車道福島西 ICのある市の南西部には比較的低い地点が面として存在するが、福島飯坂IC周辺の市の北西部から東部、南部と1マイクロシーベルト以上の比較的高いところが続いていることがわかる。特に、東部の渡利、大波周辺では、かなり高い放射線量を示している。市の中心部に近い、信夫山の北東にもかなり高い場所がある。かなり高いはずの東部の山間部は十分測定されておらず、この地域を測定すれば、よりリスクが大きい箇所が出てくるだろう。

前回ブログでとりあげた福島県庁のある杉妻町は、0.5マイクロシーベルトで比較的低く、市の基準では除染の対象外とされている。他方で、隣接する渡利地区(どこの部分かは不明)では1.24マイクロシーベルトで除染が必要とされている地域となる。

この地域の放射線量の平常値は0.04マイクロシーベルトであり、それに多少は近いだろうと思われる0.23マイクロシーベルト未満の地区は、29箇所にとどまる。このことについて安全性に問題があるかどうかは見解の分かれるところであろう。ただ、やはり震災前の「平常」は戻っていないのである。

特に考慮せざるをえないのは、比較的放射線量が高く、市の基準でも除染が必要とされているところは、決して、比較的低いところと隔絶して存在せず、むしろ混在していることである。自宅や職場が比較的低くても、ほんの少しでも出外れてしまえば、高いところに入ってしまう可能性があるのである。

それにしても、このようなメッシュ形式の放射線量マップを公開するのは初めてらしい。より放射線量の高い時期に公開して、市民に利用してもらうべきだっただろう。近年、自助努力が主張され、社会保障が削減されてきている。しかし、このような情報を適切な時期に公開せず、放射線防護に対する自助努力を許さないことが、ここでは行われている。

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ここに、1枚の写真がある。サクラやチューリップが咲く中で、幼稚園の園庭で園児が遊んでいる。いかにも日常風景という感じである。

ふくしま南幼稚園(2012年4月24日撮影)

ふくしま南幼稚園(2012年4月24日撮影)

この写真は、実は福島県庁の前にあるふくしま南幼稚園を2012年4月24日に撮影したものである。

この場所をgoogleマップで確認してみよう。この地図ではでてこないが、この幼稚園は県庁の北側に隣接している。

福島県庁は、高放射線量で有名になった渡利地区と、実は隣接したところにある。阿武隈川の西岸が県庁であり、東岸が渡利地区なのである。確かに比較的山に近いところに渡利地区はあるのだが、福島の中心市街地の町並びにある。この地理関係は、今回福島にいってはじめて実感した。

2012年4月25日付の福島民報によると、24日の福島市の環境放射線量は0.62~0.71マイクロシーベルト/毎時である。平常値は0.04とのことである。そして郡山市が0.6程度、会津若松市が0.12程度、南相馬市が0.35程度、白河市が0.26程度、いわき市が0.11程度であり、県内主要都市の中では一番高い。飯館村の0.94に近接しているのである。

もちろん、除染はしているのであろうが…。このような幼稚園児が外から遊んでいる日常こそ、異常にみえる。たぶん、この幼稚園児の親たちには強い葛藤があったと思われる。避難すべきかいなか。そして、幼稚園児が「日常的」に外で遊ぶことにリスクはないのか。除染したとして、それでも「安全」と言い切れるのか。

異常を異常と思わせない「日常」がそこにはあるといえる。そして、それは、県庁前という、地方権力が所在し、たぶん、最もリスクから守られているはずの場所に顕然しているのだ。

郡山市議会において、ある議員が、放射線量の高低によって、都市計画をやり直すべきではないかと質問していた。それは、県全体にいえるだろう。多くの人びとが集まざるをえない県庁が、主要都市で最も高い土地にあっていいのだろうか。そういう疑問がでてくるだろう。

福島県庁(2012年4月24日撮影)

福島県庁(2012年4月24日撮影)

そういう疑問を、たぶん、県知事・首長・議員・経営者たちは押し隠しているのだろう。それゆえに、山下俊一の下記のような意見をありがたがる。山下が洗脳しているというよりーそういう面もあるがー、そのように信じ込んで、既存の地域秩序を維持しようとし、根源的な解決を模索することを回避しているのではなかろうか。自分たちも信じたいし、県民にも信じさせたいのだと思う。そして、異常を異常として感じさせず、それを日常としてしまっているのではないか。

「異常を異常と感じさせない日常」、それが福島にある。

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2012年4月24日から25日にかけて、南相馬市を訪れた。南相馬市では、最近、20km圏内であった小高区が警戒区域指定を解除され、一般人も立ち入ることができるようになっていた。小高とはどのようなところか。Googleマップで位置を確認しておこう。南相馬市の南部であり、海岸線にそったところである。


東日本大震災の被害状況は、それぞれ違う。相馬市松川浦や仙台市周辺では、広大な農地が津波におそわれ、流木、ごみ、自動車、漁船、漁網などが一面に散乱し、すべてが泥に使っている状況が印象的であった。

石巻市や気仙沼市では、それなりに大きな港湾都市が津波に襲われ、市街地・埠頭・工場などが広範囲に破壊されたことをまざまざと見せつけられた。

いわき市久が浜では、津波によって起こされた火災が、それこそ空襲後のように、周囲を黒こげにしていた。

女川や牡鹿半島の漁村では、小規模な漁村がそれこそねこぎにされ、津波の及んだ範囲では、何も残っていなかったことが印象づけられた。喪失感は最も大きかった。

小高は、これらとも違う。はっきりわからないのだが、国道6号線周辺まで津波が襲来した模様である。たぶん、6号線からとったと思われる、南相馬市(これだけでは小高かどうかはわからない)の津波映像が残されている。津波が海岸線に到達した時に津波が爆発したように盛り上がり、海岸線の家や自動車を飲み込んでいく。かなり海岸線から離れた国道6号線に津波は到達し、自動車が流されていく。

国道6号線ぞいには、津波で流された自動車、窓などが破壊された家屋、浸水した形跡のある農地が広がっていた。

小高に残された津波跡(2012年4月25日撮影)

小高に残された津波跡(2012年4月25日撮影)

それよりも内陸側の家屋においては、津波よりも地震動による被災が目立った。小高の高台にあり、相馬氏の城館跡である小高神社では、鳥居・記念碑・石灯籠などの石像物が地震によって壊れていた。小高神社においては、復旧の手が入ったようで、大工などが作業していた。

小高神社(2012年4月25日撮影)

小高神社(2012年4月25日撮影)

国道6号線の海側に入ってみると、そこにはみたことがない風景が広がっていた。広大な農地であったはずのところが、すべて水没していたのだ。そこには、鷺や鵜が多数生息していた。この写真でも小さく鷺が写っている。

水没した小高の農地(2012年4月25日撮影)

水没した小高の農地(2012年4月25日撮影)

道路は、水の中を走っていた。撮影した25日は霧で、撮影にはよくなかった。特に、水面上の霧は濃い。道路の先行きはみえなかった。

水の中を走る道路(2012年4月25日撮影)

水の中を走る道路(2012年4月25日撮影)

まるで、海辺にあるようにみえるが…。家の向こうにあるのは、本来は農地であったところである。まるで、アニメ『千と千尋の神隠し』に出てくるような光景である。

水に浸かった集落(2012年4月25日撮影)

水に浸かった集落(2012年4月25日撮影)

むしろ、海岸線のほうが水没していなかった。たぶん、この場所は過去砂嘴にあたるのだろう。しかし、津波の襲撃を受けて、家屋は基礎しか残されていなかった。霧の中に瓦礫の小山が点々とあった。まるで家の墓標のようにみえる。

津波で壊滅した集落跡(2012年4月25日撮影)

津波で壊滅した集落跡(2012年4月25日撮影)

Googleマップの航空写真をみて、全体状況をみておこう。ここは小高の南部で、宮田川という川の流域である。本来は農地であったところに、緑色のところが広がっている。このことごとくが水面である。

福島県は二級河川宮田川水系河川整備計画(http://www.pref.fukushima.jp/kasen/kikaku/seibihousin/miyatakeikaku.pdf)を2005年に出している。それによると、1908年測量の地図では、この地域に井田川浦という広大な水面が広がっている。

「ふくしまの歴史と文化の回廊集」というサイトでは、このように説明されている。1919〜1929年にこの地域は干拓され、農地となった。しかし、この干拓農地のほとんどの部分がもとの「浦」にもどってしまったといえる。もちろん、これは、津波の被害というだけではない。東日本大震災による地盤沈下の影響でもある。

井田川浦干拓地
井田川浦干拓は小高区での大事業であり、相馬郡石神村太田秋之助らによって大正8年(1919)に立案、同10年に工事が着工され、9年後の昭和4年(1929)春に排水開田に成功した。(赤線部分)
■所在地:南相馬市小高区浦尻地内
http://www.pref.fukushima.jp/bunka/kairou/si/49minamisouma.html

2011年12月1日、朝日新聞は次のような記事をネット配信している。それによると、この「浦」の水深は3mに達するところもあるという。

倒壊そのまま 警戒区域の南相馬・小高区に入る

 浦に戻ってしまったような干拓地、潰れたままの民家……。桜井勝延・南相馬市長の視察に同行し、東京電力福島第一原発から20キロ圏の警戒区域にある同市小高区に入った。立ち入り禁止のため地震と津波に遭った当時のまま時が止まったかのようだ。なのに、放射線量は原町区の市役所周辺とほとんど変わらない。
 バスは国道6号から離れ、海岸線へ向かった。見渡す限り茶色の世界が広がる。枯れた雑草の平原だ。水田の基盤整備が完成寸前だったという。
 最初にバスを降りたのは塚原地区。119世帯のうち約50世帯が流失・全壊し、16人が津波で亡くなった。海岸近くに、高さ18メートルほどの松がポツンと立っていた。津波はそれを超えて襲ってきたという。
 道路の海側に、アスファルトが板状のまま転がっている。100メートル以上にわたって壊れた防潮堤は、海側に倒れている。引き波の強さを物語る。
 かろうじて残る海岸に沿った道路を南下する。途中の白鳥の飛来地には、一羽も見当たらない。同行した市職員は「今年は稲作をしなかった。落ち穂がないから来なかったのかな」。
 水がたまった井田川地区が見えてきた。原発まで約11キロで、今回の視察では最も原発に近いが、放射線量は毎時0・18マイクロシーベルト。市役所前(同0・29マイクロシーベルト)より低い。東西約2キロ、南北約1キロにわたって水がたまっている。大正終わりから昭和初めにかけて干拓し農地と集落ができた。それがまったく元の浦に戻っている。深いところで水深3メートルはあるという。
 桜井市長は「住宅は移転するしかないだろう。そう簡単に復旧が進まないことは、ここに来てもらえばすぐ分かる。放射線量は低いのだから、早く作業を始めさせてほしい。そうしないと、住民が『もう戻れない』と思ってしまう」。
 バスは小高区中心部へ。津波被害を免れたが、震災後もほとんど手つかずだ。塀が倒れたままになっていたり、窓ガラスがすっかり割れていたり。JR小高駅通りに差し掛かると、2階建ての洋品店の1階がグシャリと潰れていた。
 仲町で下車した。豪壮な屋根が1階を押しつぶした黒壁の建物が見えた。明治終わりごろにできた蔵造り民家だという。3軒おいた先の民家も壊滅的に崩れている。傾いて隣家に寄りかかっている商店も数多い。
 帰りの車中、隣に座った市職員の言葉が印象的だった。「火災が心配。泥棒は家の中の物を持って行くが、火事は家そのものを持っていくから」。彼の自宅も警戒区域内にある。(佐々木達也)=2011年12月1日朝刊
http://digital.asahi.com/articles/TKY201203290358.html

「滄海(そうかい)変じて桑田(そうでん)となる」となるということわざがあるが、その逆に「桑田(そうでん)変じて滄海(そうかい)なる」となってしまったといえよう。これほど苛烈な印象を与える被災地はなかったと思う。

近辺には「浦尻貝塚」(小高区浦尻字南台地内)という縄文時代の遺跡がある。この貝塚は高台にあり、津波の直撃は避けられた模様である。この写真で、青いシートで保護されているところが発掘現場であろう。貝塚とは、所詮ごみ捨て場であり、たぶん、集落自体は高台にあって、その斜面に設けられたのではないかと思われる。その麓に現在の民家があり、その前の農地がことごとく水没したのである。

浦尻貝塚(2012年4月25日撮影

浦尻貝塚(2012年4月25日撮影

ある郷土史研究者は、「南相馬市小高区の縄文時代 (津波で縄文の海に戻った)」とブログ「相馬郷土史研究」で表現している。

今回の津波の驚きは縄文時代の海の状態を再現したことである。一番驚いたのは八沢浦だった。あれだけ満々と水をたたえた入江になっているのに驚嘆した。それだけ凄い津波だったのである。六号線も津波は越えてきた。井田川(浦)は大正時代に開拓されたとなると遅い。丸木船など残っているからここでの漁労生活はずっとつづけられていた。ともかく浜通りは松川浦しか入江がないと浦がないと思っているけどいかに浦が多いか入江が多い場所だったか知るべきである。太平洋の東北でもこの浦伝いに航行すれば船も使える。外海は無理にしてもこれだけ浦があるということは浦伝いに遠くまで行けることになる。瀬戸内海はそうだったが太平洋でも浦が多かったのである。日本は浦だらけだった。そこが牡蠣の養殖の場になり今日につづいている。その浦が今回の津波にのまれた。海に接して集落を形成した所は壊滅した。それは弥生時代から始まった青松白砂の光景はそもそも海だったところを開拓してできたものでありその海だったところは松をなぎ倒して再現された。田や米作りの文明を破壊したのである。液状化で苦しんだところももともと海だったり沼だったりした軟弱な地盤だった。これも自然条件に見合わない作り方でそうなった。人間は自然条件に逆らい生活圏を拡大した。それが大津波で破壊されたのである。原子力発電だって自然に逆らうものでありそれが自然の力で破壊された。

自然はやはり何か人間に対して復讐するということがありうるのか?そういう大きな自然の力を感じたのが今回の津波だった。
http://musubu2.sblo.jp/article/45596335.html

小高を視察した平野復興相は、小高排水機場なども含めたインフラ整備を急ぐことを21日に表明した。小高排水機場は、この水没した農地の排水を担ってきたところである。しかし、排水機場復旧程度で、広大な農地の復旧が可能になるのか。そんな気持ちになった。

東日本大震災:視察の平野復興相「小高のインフラ整備を急ぎたい」 /福島
毎日新聞 2012年04月24日 地方版

 平野達男復興相が21日、浪江町と南相馬市小高区の被災状況を視察した。
 今週初めに警戒区域が解除された小高区について、平野復興相は「上下水道など生活インフラ整備を急ぎたい。どれぐらいの方が帰ってこられるか、把握をお願いしたい」。桜井勝延市長は「住民が住めるようになるまでに、最低でも1年や2年はかかる。意向調査をして、戻れるように環境作りを急ぎたい」と応じた。
 平野復興相は、JR常磐線小高駅に近い小高浄化センターと沿岸部の小高排水機場2件に足を運んだ。浄化センターは海岸から約2・5キロ。4000人分の下水処理能力があったが、津波と地震で損傷した。排水機場は集落とともに津波にのまれ、周囲の水田は水没したままだ。市の工程表では、両施設は13〜14年度に復旧の見通し。【高橋秀郎】
http://mainichi.jp/area/fukushima/news/20120422ddlk07040110000c.html

南相馬市が2011年9月に作成した「緊急時避難準備区域解除に係る復旧計画」によると、次のように農地などが被害を受けている。これは、南相馬市全域であり、小高だけではなく、北側の原町区、鹿島区の農地も含んでいる。浸水した農地は総計で2722ヘクタールに及んでいる。単独の市町村では、これほど広い面積が浸水したところはないようである。まさに、大自然の脅威を実感した。これほど、人の無力さを感じたところはない。

・浸水した農地 対象面積 2,722 ヘクタール
・除染すべき農地 対象面積 8,400 ヘクタール
・除染すべき森林 対象面積 21,947 ヘクタール
http://www.city.minamisoma.lg.jp/mpsdata/web/5220/fukkyuukeikaku.pdf

しかし、後段の数字をみてほしい。8400ヘクタールという、浸水農地の約3倍の農地が除染すべきとされている。さらに森林を加えれば、約11倍の農地・森林が除染すべき土地としてされているのである。これは南相馬市だけの数字だ。南相馬市は、比較的放射線量が低いとされている。それでも、津波被災をはるかに凌駕する広大な土地が原発災害で被災しているのである。

農地を「浦」にもどし、縄文時代の環境を再現してしまった津波。しかし、その被災地をはるかに凌駕する広大な土地を被災させた原発災害。そもそも、これほどの大自然の脅威に人の手が容易に打ち克つわけはない。しかも、人の手で作られた原発が、大自然の脅威よりも深刻な形で、私たちの生存を脅かしているのである。

東日本大震災による大自然の脅威と、それを凌駕する広大な土地を被災させた原発災害。2011年の脅威をもっとも体現しているのが、この南相馬市小高だと思う。想像を絶する脅威と、想像すら許されない脅威に直面した地が、小高なのである。

最後に、小高・浪江の境界付近にある、検問所をしめしておこう。この向こうに福島第一原発がある。

立ち入り制限の検問所(2012年4月24日撮影)

立ち入り制限の検問所(2012年4月24日撮影)

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2011年は、人びとの「生存」が、三つの面で日本社会において問われたといえる。一つは東日本大震災における地震・津波の側面である。もちろん、人は何人であっても死は免れ得ない。しかし、近代化の過程において、ある程度、人為によって自然を制御し、地域社会の多くの人びとの生存を保障しようと努力を続けてきた。例えば、古代・中世においては、東北の海辺において恒久的な都城は作り得ず、古代の多賀城や中世の石巻城のように高地が選択されていた。近世・近代においては、自然をある程度制御し、より海辺の地域を干拓し、防潮堤や排水路などを作りながら、可住域を拡大していった。日常的には、確かに自然は制御され、それらの地域社会の人びとの生存は保障され、生活は発展していった。しかし、東日本大震災による地震・津波は、人為によって自然を制御し、人びとの生存を保障することの限界をまざまざとみせつけた。過去の津波データから予想された以上の津波が、海辺の集落、港湾、農地を遅い、古代・中世の都城である多賀城・石巻城などの麓を洗った。むしろ、日常的に、自然を制御することによって、リスクのある地域を開発してきたことが、震災被害をましたということがいえよう。
東日本大震災による原発災害は、ある意味では、一般の津波・地震災害と重なりつつも、別の側面を有している。原発災害は、人の手で作り出したものだ。そして、すでに1950〜1960年代の原子力開発の初期から、原発被害が立地する地域社会の人びとの生存を脅かすものであることが想定されていた。1986年のチェルノブイリ事故は、地域社会どころか世界全体の人びとの生存を脅かすものであった。人の手で作り出した災害は、人びと総体の生存を脅かすことになったのだ。しかし、チェルノブイリ事故の契機は、ヒューマンエラーとされてきた。その意味で、人の努力によって抑止できるものと認識されたといえる。チェルノブイリ事故が起きたソ連自体がかかえていた体制の問題もあって、より安全運転を心がけていると称しているー歴年の事故隠しをみているとそれ自体が怪しいがー日本では起こりえないものとされてきた。しかしながら、今回の原発災害の直接の契機は、ヒューマンエラーではなく、地震動もしくは津波による施設水没とされている。いくら努力しても、原発災害は避け得ないのだ。もちろん、これは火力発電所やその他の工場でも同様である。ただ、原発については、一度大規模事故が起きてしまえば、局所的に影響を封じ込めるという意味ですら、人為によって制御することが不可能という側面を有している。そもそも、人びとの生存に脅威を与えるものが原発であったが、事故を防止することも、事故後の事態を制御することも、不可能であることが露呈してしまった。事故後の備えはいくらあっても不十分であり、もっとも効果的なことは、東海村で構想されたように、無人地帯を設けることぐらいである。そのために、原発は低人口地帯に設置されてきた。人の手で作り出したものが、制御もできず、人自体の生存を脅かしているのである。
もう一つ、震災とは別に、2011年の日本社会において、「生存」が問われてきた。利潤を極大化しようという目的のもとに、労働者は正規雇用と非正規雇用に分断された。また、グローバリズムの名の下に、いわゆる先進国と後進国の「格差」が作り上げられ、さらに「格差」を前提として、資本輸出を通じて、労働者への所得分配が切り捨てられている。さらに、TPPなどの自由化交渉によって、大資本の生産物が押し付けられ、農民や中小企業の経営は破滅に追いやられている。そして、この過程を正当化する哲学として、「自力救済」を旨とし、このことをレッセフォールによる「自然的過程」とする新自由主義が唱えられている。資本主義的利潤の極大を人為によって社会におしつける仕組みとして、これらの枠組みは洗練されているといえる。しかし、これらの枠組みは、人びとの「生存」を保障するものでは全くなく、むしろ、人びとの生存を脅かすことによって作動しているものといえる。そのことがまた、新自由主義的な意味での社会への介入の限界をなしているといえる。生存を脅かされた人びとは、そもそも生産物への需要を喚起しない。そして、労働力の直接の再生産すら難しい所得においては、家族を構成できず、人口が減少していく。個々人の生存が危険に脅かされていることが、まわりまわって社会全体の生存の脅威となる。その中では、経済成長どころか経済衰退が生じ、資本主義的な利潤をまっとうに確保することすら難しくなる。数年おきに、ほとんど詐欺のようなバブル投機が生じるのはそのためだ。安定した投資先すら確保できないのである。
これら三つの面は、それぞれ違った位相をもつであろう。ただ、一ついえるのは、たぶんにこれまでの人為による自然・社会の制御が限界を有しているということだ。地震や津波の脅威は、人びとの生存を保障する自然の制御自体がいかに困難であるかを示しているといえる。他方、新自由主義的な社会への介入は、資本主義的利潤の極大化を目的とし生存を保障しない人為がいかにそれ自体の基盤を掘りくずしているかを示していると考えられる。その二つの交点として、原発災害がとらえられるであろう。
もちろん、自然にせよ社会自体にせよ、限界はありながらも今後ともなんらかの「人為」による制御は必要であると考えられる。しかし、それは人びとの生存それ自体を目的したものでなくてはならないといえる。そのことを、今後、より精緻な形で考えていこうと思う。

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福島第一原発事故以後、よくいわれることは、日本は広島・長崎に原爆投下されて、原子力の危険性はよくわかっているにもかかわらず、なぜ、原発開発を全面的に押し進めたということである。

このことについては、さまざまな要因が考えられるであろう。日本人といっても、一概には概括できない。原子力予算を1954年にはじめて提起した中曽根康弘らは、保守党の中でも本格的な再軍備を指向したグループ(改進党)だった。一方で、1955年の原子力基本法の制定については、彼らだけでなく、この時点での本格的再軍備を望まなかったといわれている吉田茂に近いグループ(自由党)や、再軍備に反対していた日本社会党の人びとも参画していた。このことについては、また、詳論しなくてはならない。

ただ、総じていえば、これらの人びとに共通して、「原子力の平和利用」へのあこがれがあったといえるだろう。それは、例えば、1954年に成立した原水爆禁止運動においても通底していた。このブログでも前に紹介したが、1954年5月28日に中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が提案され、これも全会一致で可決した。提案者近藤正二は、決議の趣旨について、次のように語っている。

(前略)
 今般のビキニにおきますところの伝えまするところの実況と申しますものは、そのビキニ環礁におきますところの爆発点におきましては、地下百七十五フィート半径一マイルの大きな穴を起しまして、そこの噴火口から爆発いたしました所の珊瑚礁の飛沫というものが富士山の三倍の高さまで到達し、それが今日見ますような空から灰が降る、あるいはもらい水であるところの雨水にまでもその放射能によるところの被害というものが感ぜられるわけでございます。
 翻って考えまするに、原子力の破壊力というものは、七年前に比べますると、その力は一千倍の惨害を呈するところにまで至っておりまして、今日の日進月歩の科学の力をもっていたしまするならば今後その猛烈な破壊力の到達するところは、これを戦争目的あるいは破壊的な形において実験するならば、人類は真に破滅に瀕するということは、もはや明瞭な事実でございます。しかるに人類は現在この原子力を持ちましたことによりまして、かつて人類の歴史に見なかったところの光栄ある未来を築き、精神的にもまた物質的にも偉大な繁栄が、この原子力の平和的な利用ということにかかって存在し得るのでありまして、逆な形で今申したごとく、これを破壊目的に使用するならば、人類は破滅に瀕するという、まことに人類の歴史にとって、かつてない重大な危機に立っておると言っていいのであります。
(後略 『中野区史』昭和資料編二 1973年)

核戦争には恐怖を示す一方で、「原子力の平和利用」には多大な期待をもっていたのである。

このような意識は、戦前核兵器を開発していた科学者にもみられた。このブログでもとりあげた武谷三男は、京都帝国大学を卒業し、湯川秀樹、朝永振一郎などと素粒子論を研究していた。戦時期においては、反ファシズムを主張した雑誌『世界文化』『土曜日』などに関係して検挙される一方で、原爆開発研究にも関与していた。そして、戦後においては、民主的科学者として数々の発言を行った。

その武谷は、「原子力を平和につかえば」という文章を『婦人画報』1952年8月号に寄稿している。この文章は、武谷の『戦争と科学』(1958年1月刊)に収録されている(なお、引用は『武谷三男著作集』3、1968年より行った)。

この文章が掲載されたのは、サンフランシスコ講和条約が1952年4月に発効した直後のことであった。GHQは日本における原子力研究を禁止していたが、講和条約においては原子力研究を禁止しておらず、講和条約発効後は、原子力研究・開発は可能になった。その時点で、武谷は、「原子力の平和利用」を主張したのである。中曽根らの原子力予算提起よりも2年近く前のことである。

武谷は、まず、核戦争の脅威と悲惨を、このように述べている。

 

原子力という名が、われわれ日本人にあたえる感じは、決してよいものではない。広島、長崎の無残な記憶がますます心のいたみを強くしているのに、ふたたび日本をもっとすさまじい原子攻撃の標的にしようという計画がおしすすめられている。そのような計画は権力と正義の宣伝によって行われるので、国民の多数がこれはいけないと気がついたときには、手おくれになるかも知れない。
 キュリー夫人、ジュリオ=キュリー夫人、マイトナー女史、このような平和主義的母性の名をもって象徴される原子力が、このような、人類の破滅をも考えさせるものにどうしてなったのだろうか。原子力は悲惨を生むためにしか役立たないのだろうか。
 初期の原子爆弾の1発だけで高性能火薬2万トンのエネルギーをもっている。今日研究が進められている水素爆弾1発で関東地方全域に被害をおよぼすことができる。(『戦争と科学』p129)

この武谷の考えを図像化したものが、次の図の左側部分である。キュリー夫人らの原子物理学の発展が原子工場をへて、原水爆投下につながっていくことがここで描かれている。図の中には「水素爆弾一発で関東地方全滅」というキャプションも挿入されている。

武谷三男『戦争と化学』p,p130-131

武谷三男『戦争と化学』p,p130-131

しかし、ここで、武谷は、次のように主張する。

 

このような大きなエネルギーを、人類の破滅のためにではなく、人類の幸福のために使えないのだろうか。そうだ! 原子力はほんとは人類の幸福のために追求され、また人類の将来の幸福を約束している それを現実化するためには、戦争をほっする人々に権力を与えないだけで十分なのだ。(『戦争と科学』p129)

武谷は、原子力は本来人類の幸福のために使うものであると、ここで提起したのである。武谷は、地上の自然力、水力も風力も、石炭も石油もすべてみなもとは太陽の光であり、その根源が原子力であることを研究者は解き明かしたとした。「そして、間もなく、地球上で原子の奥ふかくひそむ巨大なエネルギーを解放することに成功したのであった」(『戦争と科学』p134)と述べている。このことを示しているのが、先の図の右側部分である。たぶん、上の方に描かれているのが太陽である。それは、石油、水力、石炭などのエネルギーの源泉なのだ。さらに、もう一度左側部分にもどれば、この太陽の光は、原水爆とも通底していることになろう。

その上で、武谷は、原爆製造をしているアメリカの原子炉では、100万キロワットの電力に相当する熱を冷却水を通じて捨てている、このような原子炉を使った発電所が10基あれば、当時の日本の発電総量(700万キロワット)は凌駕することになる、ウラニウム40トンで日本の1年間の電力をまかなうことができる、飛行機で運べる程度の燃料しか要しないので、全世界どこでも発電所が建設可能になると述べている。

その上で、下図に示すような、「原子力の平和利用」がもたらす、「明るい未来」を提示した。

武谷三男『戦争と化学』p.p132-133

武谷三男『戦争と化学』p.p132-133

武谷は、次のように述べている。

 

だから原子力が利用されるようになると北極や南極のような寒い地方、絶海の孤島、砂漠などが開発され、そういう地方にも大規模な産業が行なわれ、大都市を作ることができるようになる。また、ロケットで地球外にとび出すこともできるようになろう。全く太陽に相当したものを人間が手に入れたのだから当然だろう。(『戦争と科学』p.p134-135)

今や、なにかめまいのしそうなほど、楽天的な未来予想図である。これらについては、先の図の中に、ロケットや原子力による砂漠開発として描かれている。

そして、日本についても、武谷は、このように主張している。

 

日本なども電力危機は完全に解消されるだろう。そして電力をもっと自由に家庭に使用することができる。今日の日本の一般家庭では電灯とラジオ位にしか使われていないが、台所の電化はもちろん、煖房、冷房、洗濯、掃除もすべて電力で行われることになるだろう(『戦争と科学』p135)

このような家庭電化は、原発だけのことではないが、実現している。さらに、次のような電力の農業利用を主張している。これも戦後日本で実現したことであった。これは、先の図の中にも出ている。

 

農業にも電力がふんだんに使われると、これまでできにくかったことができる。大規模な温室、太陽灯を使って、いつでも新鮮な野菜や果物ができるだろう。また、砂漠や水のない地方にも、地下水を深い所からどんどん汲みだして、農業を行なうことができるだろう(『戦争と科学』p135)

武谷にとっては、放射性廃棄物も有効利用されるべきものなのである。次のようにいっている。

 

原子力の副産物として、大量にそしていろいろな種類の放射性元素が得られる。これも軍事的には恐るべき放射線戦争に使おうと考えられている。しかし、平和的に使うならばいろいろな化学変化の研究や医学に使われる。例えば、植物が行なっている同化作用もこれを使って大分明らかになった。しまいに澱粉の人工合成ができるようになるかも知れない。
 また人体の新陳代謝の機構も放射性元素で明らかにされつつある。きっと近い中に肥った人がやせたり、やせる人が肥ることも自由になるだろう。また皮膚が美しくするような化粧法も実現するだろう。(『戦争と科学』p.p135-136)

もちろん、その後の放射線医療などには放射線元素などが使われているのだが…。先の図の「アトミック整形医院」などはそれにあたるだろう。

基本的に、原子力のリスクは軍事利用のものとし、「平和利用」については、放射性廃棄物までプラスのものとしてみているのである。その上で、将来の近代化の願望を実現するものとして、「原子力の平和利用」をとらえているのである。

武谷は、このような近代化を実現する「原子力の平和利用」は、被爆国日本の権利であると、『改造』1952年11月号に掲載した「日本の原子力研究の方向」(『武谷三男著作集』2、1968年、p471より引用)で提言している。

 

日本人は、原子爆弾を自らの身にうけた世界が唯一の被害者であるから、少くとも原子力に関する限り、最も強力な発言の資格がある。原爆で殺された人びとの霊のためにも、日本人の手で原子力の研究を進め、しかも、人を殺す原子力研究は一切日本人の手で絶対に行なわない。そして平和的な原子力の研究は日本人は最もこれを行う権利をもっており、そのためには諸外国はあらゆる援助をなすべき義務がある。
 ウランについても、諸外国は、日本の平和的研究のために必要な量を無条件に入手の便宜を計る義務がある。
 日本で行う原子力研究の一切は公表すべきである。また日本で行う原子力研究には、外国の秘密の知識は一切教わらない。また外国と秘密な関係は一切結ばない。日本の原子力研究所(なお、この時点では日本原子力研究所は設置されていない)のいかなる場所にも、如何なる人の出入も拒否しない。また研究のためいかなる人がそこで研究することを申込んでも拒否しない。

武谷は、被爆国日本であるからこそ、原子力の平和利用をすすめる権利があるとしている。そして、それは、軍事目的で行うアメリカなどの研究から秘密情報を得ることなく自主的に進めるべきであり、研究自体公表すべきものとした。さらに、どのような人が日本の研究所に立ち入っても拒否しないとしている。これらの原則は、軍事利用に転用せず平和利用に日本の原子力開発は限定しなくてはならないというところからたてられているといえよう。この提言は、最終的に、「公開」「民主」「自主」からなる原子力三原則という形でまとめられた、1954年の日本学術会議声明の源流となった。そして、この原子力三原則は、1955年に策定された原子力基本法にも取り入れられたのである。

さて、もう一度、武谷の議論に立ち返ってみよう。一方で「原子力の平和利用」への大きな願望があり、他方で被爆国としての核兵器・核戦争への忌避観が、この武谷の議論の二つの柱であったといえる。そして、この段階での武谷の議論は、原子力のリスクをもっぱら軍事利用に即してとらえ、平和利用においてはリスクをほぼ無視しているといえるのである。

武谷自身は、このブログでも多少ふれたように、1950年代後半には原子力のリスクを認識し、原子力開発のあり方を強く批判していくようになる。その意味で、武谷について、ここで批判するつもりはない。ただ、一つ、言いたいことは、この時点での武谷の議論は、武谷個人のものというよりも、この当時の日本社会の原子力に関する意識構造をある意味ではクリアにみせているのではないかということである。被爆国であるがゆえに、核兵器としての軍事利用には強く反対しつつ、その反対物として平和利用を称揚し、被爆国の権利としてしまう。そして、「原子力の平和利用」においてもさけることができないリスクを無視する。これは、武谷に限定できることではなかった。そして、このような意識が、日本の原子力開発・利用の根底に流れているのではなかろうか。そのような思いにかられるのである。

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福島第一原発事故を契機に、再び、電力の自由化が議論されている。北海道、東北、東京、中部、北陸、関西、中国、四国、九州の九つの電力会社がそれぞれの地域電力供給を独占している状態を打破し、電力を自由化しようというのである。

電力供給が独占されていることは、かなり前から始まっている。1938年の電力国家管理法に基づいて、1939年に日本発送電株式会社が成立し、1941年の配電統制令によって国内すべての電気事業者を傘下に統合した。戦時国家統制によって電力の独占が開始されたとみてよいだろう。

戦後、GHQの発したボツダム政令によって、1951年5月、日本発送電株式会社は解体され、九つの民間電力会社が成立した。これが今の電力会社体制である。しかし、この時も、特定の会社が電力供給を地域独占することは変わらなかった。

このように、電力が自由化されていた時代はかなり前である。その時の状況は、どのようなものであっただろうか。福島県総合産業審議会が1950年4月に発表した福島県産業綜合振興計画は、国家統制以前において電力が豊富に得られたことが福島県の工業化の一因であったと、次にように指摘している。

第一に本県が水力電気の生産県であること。
これは他の如何なる条件にも増して本県の非常な強味であり、特に電気料金に国家統制がなく、原価によって地域差があり、就中余剰電力を生じる場合には極めて有力な工場誘致条件をなすものである。本県の発電所は関東への送電のため開発されたと云われるけれども、大正末期以来、磐梯山麓、郡山付近、浜にかけて電力利用の工場が幾つか建設され、それが本県の化学工業及電気炉利用工業の主力をなしている。これらの工場の多くは、その電力料金が東京の二分の一又はそれ以下で、余剰電力の利用については地元としての利点を充分に発揮出来るか、又は自家発電を持ち得た時代に設けられたものである。若しこの電力利用上の強味がなかったならば、他県から原料を持込み、または製品は他県に持ち出しているような電気炉精錬工場及び電解法工場は本県に設置されなかったであろう。(『福島県史』第14巻、1969年、p78)

もちろん、過当競争など、自由化による弊害もあったと思う。しかし、ここでは、戦前の福島県では、地域における水力発電を生かして、低コストで安定的に電力が得られたことを、電力多消費型の工業を誘致し得た要因としているのである。

これは、現代の自由化においても、参考になることだと思う。地域独占している電力会社の域内の電力料金は、基本的に同じである。発電所が多数設置されていても、その地域の電力料金が安くなることはない。特に、福島県内では、東京電力に電力を供給する多くの発電所があるにもかかわらず、割高な東北電力から電力が供給されるため、東京電力管内よりも電力料金が高い場合さえある。しかし、戦前においては、水力発電など多くの発電所を擁していた福島県では、その電力を利用して、工業化が行われた。このようなことは、現代の電力自由化でもありえることである。現代において、必要以上に電力を消費することは問題であろうが、低コストの電力供給によって、地域開発をささえることは、現代の電力自由化でも考えられるであろう。

しかし、戦時国家統制により電力事業が独占されると、このメリットはなくなった。そのため、この計画では、「電力の地元使用」を主張している。

 

電力の利用については、原価主義により電力料金に地域差を設け、極力近距離の送電範囲内にて使用することが、国家資源としての電力活用上最も合理的であり、殊に本県の産業振興上極めて重要であるので、この方針の徹底を期成する。
 元来本県は有力な水力発電県でありながら、発生電力の大部分を関東方面に供給し、地元の利用は比較的僅かであった。…併し電力はこれを遠距離に送電すればロスもあり、亦巨額の送電設備費を必要とするので、電力を多量に消費する工業はこれを発電地帯付近に設けるのが電力経済上最も合理的である。況んや本県下の電力利用工業の現状を見るに、電力地元県であり乍ら電力不足のため、折角の工場設備を充分稼働し得ない状況にある。従って、少なくとも今後開発される電力については極力地元消費の充足を第一義的に実現するよう促進すべきである。(『福島県史』第14巻、1969年、p.p70-71)

いわば電力の「地産地消」を求めたといえる。この計画では、水力発電を中心とする奥只見電源開発についても言及されているが、その電力はまず地元消費に向けられるべきものとしている。

そして、福島県議会も当時の福島県知事大竹作摩も、地元に優先して配電することを主張した。九電力会社が成立した後であるが、大竹は1951年6月の福島県議会定例会で、このように発言している。

只見川流域で発生した電力のすべては小名浜、塩釜など東北工業化のために使わねばならない。(『福島県史』第15巻、1968年、p1357)

福島県は、奥只見電源開発に積極的であったが、その背景には、電源開発により、その電力を使っての地域開発を望む意識があったといえるのである。それは、ある意味では、電力の地域独占により阻害された地域開発を継続していこうということであった。そして、このような意味で電源開発を望む意識は、後の原発誘致の底流にも流れていたと思われる。

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本日(2012年4月21日)、配達された朝日新聞の1面をみて驚いた。そこには、次のような記事があった。

放射能「独自基準やめて」 農水省通知 スーパーなど
 
 食品の放射性物質検査をめぐって、農林水産省は20日、スーパーや食品メーカー、外食産業などの業界団体(270団体)に対し、国が設けた放射性物質の基準を守るよう求める通知を出した。国よりも厳しい独自基準を設けて自主検査を実施し、「『不検出』の食品しか売りません」などとする動きに歯止めをかけるのが狙いという。(朝日新聞朝刊2012年4月21日号)

食品中の放射性物質については、昨年このブログでも論じたが、放射性セシウムで、飲料水=1リットルあたり200ベクレル、牛乳・乳製品=1kgあたり200ベクレル、野菜や肉、それに卵や魚などそのほかの食品=500ベクレルという(放射性ヨウ素などにもあるがここでは省略)暫定基準が昨年3月に定められた。しかし、あまりに緩すぎるのではないかと批判され、4月から、放射性セシウムで一般食品は1kgあたり100ベクレル、牛乳と乳児用食品は50ベクレル、飲料水は10ベクレルという新たな基準が実施された。しかし、この基準でも懸念する消費者の声に答えて、一部スーパーなどでは、独自に厳しい基準で自主検査し「不検出」などという名目で売り出す動きがみられた。このことに歯止めを設けることを意図しているとのことである。

朝日新聞の記事では、この背景を、次のように指摘している。

 

新基準施行後、農水省には生産者らから、「不検出の農水産物以外は買えないと言われた」といった訴えが相次ぎ、国の基準を守らせるように求める声が上がっていた。

 背景の事情は理解できないではない。しかし、この「通知」は、結局のところ、放射性物質で汚染された食品を摂取するように、人びとに強制することになるだろう。

暫定基準の500ベクレルは高すぎるが、100ベクレルであっても摂取したくないという声はあるだろう。国は安全であるとしているが、それを信用するしないは、それぞれの人の自主的判断である。基準値以上の汚染を示す食品の流通は取り締まるべきであるが、基準値以下の放射性セシウム含有量を明示して販売することの規制は、どのような法理で可能なのであろうか。

「自主規制」などで含有量を明示して販売することを規制することが可能であるとしても、その場合はより深刻なことになる。比較的汚染されていないと考えられる西日本産や外国産の食品が求められ、東日本産の食品は買い控えられることになる。これは、暫定基準の時にも起こったことである。放射性セシウムの「自主規制」は、産地によって買い控えが起こりやすい東日本の生産者側の「営業努力」という面もあると考えられるのだ。

この措置は、いわば「無農薬野菜」を、一般の野菜は国の残留農薬の基準をクリアして安全であるから「無農薬野菜」とラベリングして売ってはならないとすることと同じなのだ。

そもそも、食品の規制値も今の知見によるものである。そして、微量の放射性物質は、がんや白血病に罹患する率をほんの少し高めるだけかもしれないが、それでも摂取したくないという意見もあるだろう。「不検出」などの食品は、そうでない食品よりも高く売ることができる。一方で、高い食品を買うよりも、他のことに使いたいという意識もあるだろう。その意味で、消費者、生産者、流通業者が構成する「市場の自由」にまかせるべきことである。

政府の行うべきことは、政府の設定した基準以上の汚染度を示す食品の流通を取り締まることである。そして、努力目標をいえば、放射能汚染された食品は少なければ少ないほどよいのだから、一般に流通する食品の汚染度を低めていくことであろう。

全く、逆なのだ。農水省は、まるで配給時代のように、食品の基準値を決めた上で、それをクリアした食品ーといっても放射性物質が含有されていないわけではないーを、自主的に調査することを禁止することによって、人びとに摂取を強制する。これは、自由主義・資本主義の原則にすら抵触していることである。

農水省の食品小売サービス課は、朝日新聞の取材によると、次のようにいっている。

「国の基準は十分に安全を見込んだ数値。異なる基準がばらばらにあると混乱する。『うちの方がより安全』と競い合うような状況もあり、独自基準に対して指導が必要と判断した」

どうして、ここまで農水省は国の基準を信頼できるのだろうか。1年間、その5倍の暫定基準を強制し、それを安全と言いつのってきたのに。また、ここに現れる「愚民観」は著しいものがある。

このように、国の基準を「絶対安全」とする姿勢、そして、より安全なことを求める人びとを「愚民」とする意識、これは、大飯原発再稼働問題にも現れているといえよう。

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さて、これまで、1956年以降、最初の原発が放射性物質による被ばくリスクを考慮して「低人口地帯」である東海村に立地したことをみてきた。また、1957年のウィンズケール原発メルトダウン事故を前提として、1964年に原子炉立地審査指針が定められ、隣接地区は非居住区域であること、その外側は低人口地帯とすること、原子炉敷地は人口密集地帯から離れていることが条件とされた。同時期に原子力委員会が東海村周辺を対象とした原子力施設地帯整備の方針案においては、

(1) 施設地帯の住民の安全の確保と福祉の増進を前提として、人口や各種施設の配置とその規模の適正化を期しつつ、この地帯の健全な発展を図ることを目標とする。
(2) 具体的には、施設地帯を3段階に分け、原子力施設隣接地区(施設からおおむね2km未満)にはつとめて人口の増加を生じないよう、原子力施設近傍地区(おおむね2km以上6km未満)には、規模の大きい人口集中地区が存在しないようにし、また、その他の周辺地区(おおむね6km以上)には、人口の増加が正常に行われるよう留意する。
(3) したがって、原子力施設地帯の理想像は、白亜の施設を、公園、緑地などのグリーンベルト地帯がとりまき、その周囲には工場その他居住用以外の諸施設は配置され、さらに、その外側には住宅が整備され、また、これらを結ぶ道路、衛生施設などが整備されている。(後略)
(『原子力開発十年史』p.p333-334)

と、されていることをみてきた。原発周辺2km未満の範囲は居住制限を行うグリーンベルト地帯に、その外側の6kmまでの範囲は人口の集中を抑制する地帯とすることが構想されていたのである。

このような原発立地の方針は、原発事故を前提に、放射性物質の被ばくが多くの人びとにふりかかるリスクをさけるために、低人口地帯に立地させようということに基づいている。もちろん、福島第一原発事故の経験は、周辺6kmの人口増を抑制するという措置では、緩衝地帯を設けるという目的を十分はたせないことを示した。福島第一原発事故の警戒区域は原発周辺20km以内の区域であり、その外側にも飯館村のように計画的避難区域が存在している。より外側にも、放射線管理区域以上の汚染を示す地域が広がっている。

しかし、問題なのは、原発事故によって被ばくがあると想定されている地域においても、「低人口地帯」であるが人びとが住み続けているということなのだ。例えば、東海村の場合をみておこう。下図のグーグルマップにおいて、県道284号と県道62号線の交差点付近までが2km圏内であるが、その内部にも人びとが住み続けている。そこには、豊受大神宮という神社もある。

原発周辺6km圏内ではどうか。より大きな航空写真でみていこう。「運動公園陸上競技場」というあたりが原発より6kmの距離にあるようだが、その範囲であると、東海村役場、常磐線東海駅、常磐道、日立港、常陸那珂湊港などが入ってしまう。もちろん、ここには、人びとが住んでいるのである。1957年のウィンズケール原発事故によって作られた、今日からみれば不十分である1964年の基準からみても、被ばくのリスクをおう人びとが住み、生産活動に従事しているのである。

さて、もし、「福島第一原発事故の知見」をいかして、原発より20kmの範囲を被ばくのリスクがあるとしてみたらどうか。グーグルマップでみると、東海村はもちろん、近隣の日立市・常陸太田市・那珂市・水戸市・ひたちなか市が入ってしまうのである。

現在、再稼働が問題となっている福井県の大飯原発ではどうか。確かに大飯原発は、若狭湾に突き出した大島半島の突端にある。しかし、そこに人が住んでいないわけではない。一番近くの人家は、「宮川興業」とあるあたりのようだが、そこまでの距離は1km程度である。被ばくのおそれがあると原子力委員会が認定している範囲でも、少数ながら人たちは住んでいるのだ。

事故によるリスクを考えるならば、原発の近くに人は住むべきではないと原子力委員会すら認めている。しかし、そこに居住し、さらなる地域開発を求める地域住民は、そのようなことは受け入れないであろう。言葉だけの「安全」を叫びつつ、人口増加ーある意味では地域開発ーを抑制する。そして原発が立地する「低人口地帯」を「低人口」として維持しつつ、そこに住む人たちの「安全」は事実上切り捨てられ、多くの人びとが住む東京などの大都市の「安全」をはかる。これが、原子炉立地審査指針などに示される原発立地方針の論理なのだ。

ここで、広瀬隆の『東京に原発を!』の中の一節を思い出した。

いかなる人間も、他人の生活を侵害することは許されない。これが人間の生存原理である。現在、わが国で原子力発電所が運転されている土地では、ほとんどの住民が不安を抱き、しばしば恐怖心に襲われながら、それを口にすることによって地場産業が殺されることを怖れ、自分ひとりの胸に包んでおくという、という日々が続いている。
建設されるまでは激しい反対運動がありながら、一度建設されてしまうと死んだように黙りこくるのは、そのためである。だが、これら現地の人が知っておかなければならないことがある。東京の人間は次のように語っているのだ。
「五十人殺すより、一人殺したほうがいいではないか」(日本テレビ・ドキュメント’81”東京に原発がやってくる”、1981年10月25日放映)
おそろしい言葉である。現地の人びとが殺されることを前提に、いまの原子力発電所が運転されている。これは原発問題に源があるのではない。わが国のジャーナリズムの大きな流れが、すべて東京を中心に発想し、行動し、それぞれの町や村の人びとを一顧だにしない狂気のうねりとなって、静寂の生活を許さない空気をつくり出してしまった結末である。東京に住む者だけが、人間として認められるのだ。(広瀬隆『東京に原発を!』 集英社 1986年。なお、広瀬隆は1981年に同書をJICC出版局から出版しているが、チェルノブイリ事故直後に改版して出版した。本引用は集英社版からである)

放射性物質による汚染、被ばくのリスクがあるから「低人口地帯」に原発を立地するということは、「五十人殺すより、一人殺したほうがいいではないか」という論理を内在させているということなのである。原発労働者の問題とともに、このことを忘れてはならないだろう。

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これまで、放射線被ばくのリスクを少なくするため、原発ー原子炉の立地は低人口地帯ー過疎地に立地することが原子力委員会として原則とされることをみてきた。そして、東海村を事例にして、原発周辺地域を低人口地帯にすることは、原発立地以後も追求されていたことを述べてきた。東海村では、原発より2km以内はグリーンベルト地帯にするなど極力居住を制限し、2〜6km圏内も工場地帯などにして、人口集中を避けることが求められていた。

それでは、福島第一原発周辺地域はどうだったのだろうか。1968年3月、「双葉原子力地区開発ビジョン調査報告書」という報告書が出された。これは、福島県企画開発部の依頼により、早稲田大学教授の松井達夫を委員長として、建設省・農林省・通産省の官僚や東京電力・東北電力社員などを構成員とした双葉原子力地区調査委員会が結成され、福島第一原発周辺地域である双葉郡の開発構想を記したものである。これをもとに、福島第一原発周辺地域の開発構想はいかなるものであったのかをみていきたい。(なお、現在、この報告書自体を入手できず、日本科学者会議編『東電福島第2原発公聴会『60人の証言』資料追録』(1974年1月10日発行)に掲載された抜粋に依拠していることをここでことわっておく。)

まず、まえがきにおいて、双葉地区について、ほとんど開発されておらず、広大な原野や平地林が残され、零細な第一次産業が地区産業の過半をしめ、人口密度も平均して低く、住民の開発意欲も積極的ではなかったと指摘した。そのような地に、原発が立地されたことは住民に大きなショックを与えたであろうとし、次のように述べている。

低開発地域として取り残された感じを抱いていた地域住民が、この大きなショックを契機として、飛躍的な発展を期待することは当然であろう。地区内関係町村はいち早く協力して、地域開発の推進に当たろうとしている。

原発立地を契機に地域住民の開発意欲が高まったと指摘しているのである。そのような住民の要望に答えるために、この報告書が編集されたと続けて述べている。

そして、第一章「原子力地区としての立地条件」で、次のように原発の立地条件を述べている。

一般に、火力発電所は、電力消費の中心地に近く立地することが希望され、原子力発電所においてもこの面からは明らかに都市立地が要望される。
しかし、一方原子炉の立地条件については、諸外国において既に相当安全性が立証され、次第に都市立地の傾向に移りつつあるとはいわれるが、原爆被災国としてのわが国の特殊な国民感情等を考慮すれば、現状においては、どうしても僻遠地立地を中心に考えざるを得ない。つまり、原子力発電所の立地としては、送電コストを含めた発電原価の許す範囲で、人口密度、産業水準の低い地域を求めて立地するということである。

さらに、具体的に、(1)周辺に大都市がなく、人口密度の低いこと、(2)冷却水入手のための海浜立地、(3)消費地から離れすぎないこと、(4)地質・地盤が強固であること、(5)その他、土地造成などの土木工事費が低廉であること、という条件を提起している。これらの諸条件は、基本的には1964年の原子炉立地審査指針などで提起されていることと共通しているといえよう。まずは、低人口地帯であることが求められていたのだ。

そして、双葉地区をこのように位置づけている。

以上がその概要であるが、この双葉地区を原子力地区としての立地条件の面からみれば、人口密度が低いこと、地形は標高30m程度で比較的平坦であり、かつ地盤も十分な強度を有していることからいって、わが国においても原子力発電所の立地条件に恵まれた地域に属している。…さらに県をはじめ、地元一般が原子力発電所に対して極めて協力的であり、これが他の自然的・社会的条件にまさる最大の条件である。

現在になると、地形も地盤も「恵まれていなかった」ことが判明するのだが、それはよしとして、第一にあげられているのが、人口密度の低いことであるのだ。

さらに、第二章「地区適正産業の開発計画」の2−4の「地区開発は原子力を中心に」では、このように述べられている。

当地区は、前述したように、生産性の低い山林原野が多く、しかも都市的な集積が少なく、今後も急速に都市化、工業化が進展することもないと考えられる。一方、前述した諸条件と相俟って、本地区は原子力発電所、あるいは原子力産業の適地であると考えられる。

つまりは、今後とも、都市化・工業化が進展することはないとしているのである。その上で、この報告書では、福島第二原発、浪江・小高原発の建設計画があることに言及して、将来的には、「わが国有数の原子力発電地帯」「特色あるエネルギー供給基地」になるだろうとして、次のように主張した。

したがって、当地区は、原子力発電所、核燃料加工等の原子力関連産業、放射能を利用する各種の産業、原子力関連の研究所、研修所などが集積したわが国原子力産業のメッカとしての発展を指向することが最も適当であると考える。

都市化・工業化が急速に進展することのない双葉地区の発展は原子力産業のメッカとなることだと力説しているのである。ある意味では、東海村のような地域開発をめざせということなのだろう。

しかし、「むすび」で、まさに東海村の事例をあげながら、たとえ、周辺の相馬・いわきなどに巨大な工業集積がなされても「原子力地区という一種の土地利用上の規制的意識によって、近接地区における原子力産業関係以外の工業が、しめ出されるのではないか」と懸念を示している。原子力産業以外の産業は、隣接地域からの波及効果にしても、立地は難しいということなのである。そして、そもそもの原因は、そこが「原子力地区」だからなのだ。

さらに、このように述べている。

最後に、原子力施設に内蔵されている放射性物質が、人智をこえた事故の発生によって放散される恐れはないかという点である。原子力施設の設置に当たってはもちろん、この点を考慮に入れて技術的見地からは考えられない事故を仮想し、その場合においても安全性が確保されるよう、技術的解明と法的な規制が加えられているが、安全性を更に高める意味で、施設の周辺を整備することは望ましいことである。このような施設周辺の整備方策は、一般的な地震や火災の発生に対しても有効であり、地域開発と両立するものでなければならない。
施設周辺の整備計画には、道路、鉄道をはじめとして重量物運搬のための港湾、上下水道、住宅団地、ショッピングセンター、医療施設、通信施設、緑地等を考慮し、原子力開発と関連しての地域開発のモデルケースになることを期待する。

ここでも、結局、原発事故による放射性物質の被ばくというリスクが意識され、周辺地域の整備事業の実施が主張されているのである。ここでは、はっきり書いていないが、たぶん東海村の開発構想のようなものを考慮しているのだと思う。原発の隣接地域にはグリーンベルト地帯を設け、その外側でもなるべく住宅は立地させないというようなことが想定されていると考えられる。人口密度が低いことは、原発立地において、アルファでありオメガであった。

原発というもののリスクは、結局のところ、人口増加を抑制し、他産業の立地を阻害するものであったということになる。そして、「原子力産業のメッカ」ー原発モノカルチャーとしての開発に行き着かざるをえなくなっていくといえよう。それは、福島第一原発周辺地域でも同様のことが想定されたといえるのである。

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