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Archive for 2013年8月

福島第一原発からの汚染水漏れで影に隠れてしまった感があるが、福島からまた一つ重大な報道があった。福島県の児童を対象とした甲状腺検査で、甲状腺がんもしくはその疑いのある患者が増加しているというのだ。

まず、8月20日にこのことをネット配信した朝日新聞の記事をみてほしい。

福島の子どもの甲状腺がん、疑い含め44人に 16人増

 【大岩ゆり、野瀬輝彦】福島県は20日、東京電力福島第一原発事故の発生当時18歳以下だった子どものうち、44人が甲状腺がんやその疑いがあると診断されたと発表した。6月から16人増えた。県は「被曝(ひばく)の影響は考えられない」とした。ただし、県の検査や説明に対して県民の間に疑問や不安の声もあるため、県は、専門家による新たな部会を作り、検査に問題がないか検証することになった。

 6月以降に新たに診断された16人のうち、がんは6人、疑い例は10人だった。累計ではこれまでに結果が判明した約19万3千人のうち18人が甲状腺がん、25人が疑いありと診断された。1人は疑いがあったが良性だった。この44人は原発事故時に6~18歳。がんの直径は5・2~34・1ミリ。がんは進行のゆっくりしたタイプだった。

 事故後4カ月間の外部の全身被曝線量の推計調査を受けた人は44人のうち4割だけだが、全員2ミリシーベルト未満だった。

 チェルノブイリでは4~5年後から甲状腺がんが増えたほか、今回の44人は複数回の検査でがんやしこりの大きさがほとんど変わっていないため、県は「事故以前からできていたと考えられる」と分析した。

 しかし、県民の間には被曝影響に関する解釈や、検査の精度、情報公開のあり方などに批判がある。

 このため県は、検査に関与していない専門医らによる専門部会を新設して、これまでの検査結果の判定や、がんと診断された人の治療、事故による被曝の影響などを改めて検証する。事故当時18歳以下だった約36万人に対し生涯にわたり継続する甲状腺検査のあり方も改めて議論する。
http://www.asahi.com/national/update/0820/TKY201308200364.html

他紙の報道も、それほど、大差がない。福島県の甲状腺検査では、このブログでもふれたが、小児甲状腺がん患者がすでに発見されていたが、それがさらに増え、18人が甲状腺がん、25人が疑いがあるとされ、計44人ががんもしくはその疑いがあると判定された。しかし、福島県は、相変わらず、チェルノブイリ事故では4〜5年後から甲状腺がんが多発した、見つかった甲状腺がんは進行が遅いタイプなので事故前からあったと考えられるなどとして、福島県は被曝の影響を否定したということである。

このブログでも以前に紹介したが、そもそも小児甲状腺がんの平常の発生率は100万人に1〜3人といわれている。この検査が実施された児童は19万3000人である。この検査を100万人に実施されたとするならば、がん患者だけで約93人、疑いのある者を含めると約227人になるという計算になる。いろいろ、全員検査した事例がないなどといっているが、到底、平常の数とはいえないのである。

そして、全く報道されていないが、この甲状腺がん患者増加が報告された福島県の第12回「県民健康管理調査」検討委員会(2013年8月20日開催)の配布資料をみていると、甲状腺がん患者だけでなく、甲状腺異常の児童が年々増加していることが読み取れた。まず、次の資料をみてほしい。

甲状腺検査(一次検査)判定区分集計表(2013年6月7日まで)

甲状腺検査(一次検査)判定区分集計表(2013年6月7日まで)


http://www.pref.fukushima.jp/imu/kenkoukanri/250820siryou2.pdf

福島県では、A1・A2を二次検査を要さないとしているが、実はA1のみが健全で、A2は結節や嚢胞などの甲状腺異常があるのである。ただ、それらが小さいからという理由で二次検査を要さないとしてしまっているのだ。確かに、それらの多くが甲状腺がんにつながるとは現状ではいえないが、甲状腺異常があることには変わりない。

2011年度では、大雑把にみてA1(健全)は63.4%、A2(小規模異常)は36.0%であった。これでも多いと思う。しかし、2012年度には、A1(健全)は54.7%、A2(小規模異常)は44.6%と、あきらかに増加した。さらに、2013年度には、A1(健全)は40.9%、A2(小規模異常)は58.4%と、健全な児童の方が少数になっているのである。年々状態は悪化しているとしかいえないだろう。

そして、今までの検査済みの児童全体では、A1(健全)は55.4%、A2(小規模異常)は44.0%となっている。半分近くの児童が小さなものでも甲状腺異常を抱えており、時がたつにつれ増加しているというのが現実なのだ。

まさしく、チェルノブイリ事故では4〜5年先から甲状腺がんが増加したので、これは原発事故の影響ではないと遁辞をいっている状態ではないのだ。原発事故の影響であろうとなかろうと、甲状腺がん・甲状腺異常の児童の増加がとめられないというのが、福島の現状なのだ。

足尾鉱毒反対運動の指導者であった田中正造が、百年前に死去する直前に遺した言葉の一つに「現在を救い給え、現在を救い給え、ありのままを救い給え」がある。4〜5年先ではない。「現在」を、「ありのまま」を、救わなくてならないのである。

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さて、今まで何度となく述べてきたが、東電は福島第一原発に対する処理能力を失っているようにみえる。それならば、国が責任をもって福島第一原発を処理していかねばならないといえるだろう。しかし、その場合、東電が現在の体制のまま、存続することの当否が問われることになるだろう。

そもそも、東京電力が民間会社のまま存続することになったのは、3.11後の菅政権の政治判断によるものである。すでに2011年3月末、震災によって被害を受けた発電所の修理、原子力にかえて火力にするための燃料費、既発行の社債償還などのため東電は資金不足に陥っていた。特に、信用力が低下したため、社債の新規発行ができず、金融機関から2兆円もの借金をすることになった。さらに、原発事故に対する多額の補償金支払いがこの当時から予想されていた。

東電は、原子力損害賠償法における「異常に巨大な天災地災」などによって生じた場合、事業者ではなく政府が損害を補償するという特例条項の適用を求めた。しかし、当時の菅政権はそれを認めず、東電が全額補償するという建前を崩さなかった。しかし、多額に及ぶと見積もられていた補償金の支払を東電が行えば、それだけでも債務超過となり、東電はつぶれるしかなかった。そのため、菅政権としては、東電救済のシステムを造らざるを得なかった。

そのために造られたのが原子力損害賠償支援機構であった。元々の案は大手銀行が作成したといわれている。原子力損害賠償支援機構を新設し、そこに他の電力会社や政府が資金を提供し、東電はそこから借金して、賠償金にまわすという仕組みがつくられた。もちろん、東電は、この借金を返さなくてはならない。政府としては、一時資金を融通するが、最終的には東電が返済するので税金は投入されないとしたのである。

この機構の新設を定めた原子力損害賠償支援機構法は2011年8月3日に成立したが、その直後の2011年8月4日に出された朝日新聞朝刊では、「政府支援の前提となるのは東電のリストラだ」と述べられている。つまり、まずは、大幅なコストカットが東電に義務付けられたのである。しかし、同紙では「最終的な負担は電気料金に回る可能性が高い」としている。実際、2012年に東電の電力料金は値上げされた

他方で、同紙は「東電の株主や金融機関など、利害関係者の責任追及は先送りされた」と報道している。倒産や破産などの法的破たん処理においては、株主や貸し手の金融機関なども損害を蒙ることになるが、破たん処理されなかった東電では、それらに直接的な損害は及ばなかったのである。結局、株主や金融機関の利益は保護されるとともに、政府は税金を投入するという責任をとらず、それらのつけは、リストラと料金値上げにまわされることになったのである。そして、今の時点で回顧してみると、この「リストラ」は、福島第一原発の廃炉費用にも及んでいたと考えられる。

そして、この矛盾は、野田政権下で2012年7月31日に決定された東電の実質国有化においても解消されなかった。東電の国有化は、前述の原子力損害賠償支援機構が1兆円もの株式投資を行う形で行われた。しかし、2012年7月31日付の朝日新聞朝刊は、まず、原子力損害賠償支援機構による東京電力救済を批判して、次のようにいっている。

 

普通なら会社更生法の適用を申請するなどして、つぶれる。「つぶさない」と決めたのは民主党政権だ。
 昨年8月、原子力損害賠償支援機構法をつくり、政府が東電に賠償のための資金を貸したり、出資したりして支える仕組みをつくった。政府が賠償の責任を持ちたくないので、東電に賠償をすべて負わせるためにつぶさなかったのだ。
 この結果、つぶれれば、「債権放棄」で貸したお金が返ってこない銀行や、株が何の価値もなくなる株主が守られ、ほとんど損をしなかった。逆に、東電の生き残りのために利用者や国民が負担を強いられる。

そして、次のように主張している。

 

さらに、賠償費用や除染費用が予想よりふくらめば、東電がつぶれるなどして政府の出資金や賠償のための支援金が返ってこないおそれもある。その時は国民の税金で穴埋めすることになる。

加えて、東電の実質的国有化は、新たな矛盾をうむことになった。前述の朝日新聞朝刊では、「一方、政府は、電力会社を監督する立場と、東電の筆頭株主という立場になり、大きな矛盾を抱える」と指摘している。そして、東電が予定している柏崎刈谷原発の再稼働を事例にして、「政府は本来、原発が安全かどうかをしっかり審査し、再稼働を認めるかどうかを決めなくてはならない」という立場と、「原発が動けば、火力発電の燃料費が抑えられるという。筆頭株主としては東電再建に黄信号がともるため再稼働しなくては困る」という立場が矛盾していることを示すのである。その上で、同紙は、東電の言い分を認めて電力料金の値上げを認可した枝野経産相(当時)の態度をあげながら「政府はこれから、常に東電の側に立つのではないか。そんな疑念を抱かせた」と述べている。つまり、この段階で東電の筆頭株主となった政府は、東電を存続させ、経営を安定させたいという意識が強まったといえる

このような形で東電が存続しているのは、菅・野田という民主党政権の責任である。しかし、その後継となった自民党の安倍政権も、他の分野でさかんに民主党政権の政策見直しを主張しているにもかかわらず、民主党政権が定めた形で東電を維持している。補償費用、除染費用、廃炉費用など、全く利益にならない支出が何兆円(いや十兆円こえて…それより多くとも不思議はない)もあると想定される東電は、到底自分で資金をまかなうことができるとは思えない。長期間かけても、返済することは難しいだろう。実質的には破たんしているのだが、この会社はいまだ「原子力損害賠償支援機構」のもとに存続している。しかし、東電のやっていることは、補償金支払い一つとっても、被災者の意にそったものとは思えない。東電の救済が、被災者への補償金支払いの形で行われているのである。どの道、税金で、補償費用、除染費用、廃炉費用などをまかなうことになるであろうが、営利会社の形をとることで、政府は税金投入の責任を免れ、さらに補償費用、除染費用、廃炉費用などを「安上がり」で行わせることができる。さらに、表面上の責任を東電にとらせることで、株主や金融機関への責任追求をかわせるということになる。

福島第一原発の汚染水漏れは、そのような矛盾の中で発生しているのである。急ごしらえの汚染水のタンクや、先送りされた遮水壁建設などは、しょせん、コストをカットして、国などへの返済金を確保するという意識が背景になっているといえる。もはや、東電自体の当事者能力はないが、その責任は株主でもあり規制者でもある政府がとらなくてはならない。そして、福島第一原発の危機は、当面、コスト意識を捨てて考えなくてはならない。そのような形での税金投入は、民主党政権で免罪された、東電の株主や金融機関にも責任をとってもらうことにもつながっていくといえよう。

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このプログでも何度もとりあげている福島第一原発の汚染水流失について、8月23日、原子力規制委員会の更田豊志委員が現地視察を行った。このことについては、実はあまり報道されていない。また、テレビなどで報道されても、その動画はあまりアップされていない。

NHKの全国ニュースをみていても、福島第一原発についてはほとんど出て来ない。しかし、福島放送局の「福島県のニュース」として、ある程度、動画つきでネット配信されている。それは、次のようなものである。

http://www.nhk.or.jp/lnews/fukushima/6053805851.html?t=1377292675313

なお、このような記事は、早期にすべて削除される恐れがあるので、記事部分だけをここで引用しておこう。

原子力規制委が現地視察

原子力規制委員会の更田豊志委員は、23日、タンクから300トンあまりの汚染水が漏れ出た東京電力福島第一原子力発電所を視察し、東京電力に対し、点検がずさんだと指摘した上で「人手の問題などでできないことがあれば国などに対して声を上げてほしい」と呼びかけました。
原子力規制委員会の事務局によりますと、更田豊志委員は、23日午前、福島第一原発を訪れ、今月19日に300トンの汚染水が漏れ出ていることが分かったタンクの周辺などを見て回ったということです。
視察の後、取材に応じた更田委員は、「タンクから漏れることを前提とした準備がとられていたとは思えない。異常に気づくには、小さな変化も見逃せないが、そのために必要となるタンク周辺の通常の放射線量の記録などが残されていないのは、点検に対する姿勢を疑わざるをえない」と東京電力の対応を批判しました。
その上で、東京電力側からは、「点検を強化するには4倍の人員が要る」などと説明があったということで、これに対して更田委員は、「できないことがあれば声を上げてほしい」と呼びかけたということです。
また更田委員は「万全を尽くしていると言うことより、やりたい対策ができない現状を言うことの方が大事だ。事業者が言えないという難しい事情は分かるが、ぜひ勇気を持って声を上げてほしい。お金や人手の問題があれば、資源エネルギー庁などに対して要望を言わなければならない」と話しました。
08月23日 19時14分

実際、この動画をみて驚いたのだが、高濃度汚染水が漏洩したと思われる貯蔵タンクのまわりに「土のう」が積まれていた。そして、それをみて、更田委員と思われる人物が「これでさ、水が止まっていると思うか」とつぶやいていた。

福島第一原発の高濃度汚染水の流失を抑えようとして、東電は、最早「土のう」を積むしかなかったのである。「土のう」は、もちろん、ある程度の水を抑えることはできる。しかし、完全に「漏洩」を防ぐことはできない。そもそも、「土のう」は洪水対策に使うものであって、放射能防護対策に使うようなものではない。どうみても不十分な対策だが、この「土のう」を積む作業でも、作業した労働者は、かなりの被ばくをしたと考えられる。

また、動画をみてみよう。更田委員とおぼしき人物が「排水溝」のほうをみにいき、まるで自然の小川のように流れている排水溝をみて、東電側の説明をうけながら、「これなあ、これ海にいっているじゃない。このまま、ジャーンと合流してこのまま…」と述べている。東電は、汚染水の海への流出を認めたがらなかったが、結局、原子力規制委員会としては、汚染水が海に流失した可能性を認めたのである。

そして、現場で、更田委員が通常の放射線量の記録をとっているかと質問し、東電側が残していないと答えたやりとりが残されている。なお、この動画では残されていないが「点検を強化するには4倍の人員が要る」と東電は弁解したそうである。

その後で、更田委員が記者会見している動画が挿入されているが、それは、ほぼ記事内容通りである。

そもそも、300トンもの汚染水が流失したにもかかわらず、その汚染水の大半が残されていないのは、タンクの周りにあった堰の排水弁が開けられていたというミスのためである。このこと自体ズサンなのだが、「土のう」を積んで汚染水漏洩を防ごうとする、海に流れている排水溝があっても汚染水の海洋流出を認めようとはしない、通常の点検時の放射線量の記録をとっていないなど、私のような素人がみても東電の対応はおかしい。

そして、更田委員が、「万全を尽くしていると言うことより、やりたい対策ができない現状を言うことの方が大事だ。事業者が言えないという難しい事情は分かるが、ぜひ勇気を持って声を上げてほしい。お金や人手の問題があれば、資源エネルギー庁などに対して要望を言わなければならない」と東電によびかけている。しかし、これだけでは、最早、問題解決にならないだろう。原子力規制委員会は、8月14日、汚染水対策にはさらなる検討が必要としながらも、東電の福島第一原発の廃炉計画を認可した。だが、「高濃度汚染水」の放射線量の点検記録をとっていないことすら、「4倍の人員がいる」と弁解した会社が東電なのだ。コスト増になろうとなるまいと、点検などまっとうな管理作業に必要な労働者は確保しなくてはならず、そのことによって、破たん処理を免れたことの正当性が確保できるのが東電の置かれた立場である。にもかかわらず、コスト増になることを恐れてズサンな管理をしているのが東電の現状なのである。コスト減に努力するのは、民間の営利会社の本性といってよい。しかし、東電は、営利会社という自己の本性に忠実であればあるほど、自己の立場を失っていくであろう。

とにかく、この動画は、福島第一原発の管理を東電に任せておけないことを雄弁に物語っているといえよう。そして、それがゆえに、NHKなどは、この報道を抑制していると考えられるのである。

なお、ネット記事配信が削除される可能性があるので、Youtubeにアップされていた、TBSとFNNのニュース動画もここでは紹介しておく。原子力規制委員会の現地視察は、今回漏れた貯蔵タンクだけではない。原子炉建屋の汚染地下水対策も検討しており、このタンクとは違った溶接型のタンクについても漏洩対策が不十分であることを指摘している。

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福島第一原発の危機は、日々拡大・深化している。あまりにも、多方面で、さまざまなレベルの異常事態が頻発しており、ブログでの整理が追いつかないほどである。

今回は、汚染水貯蔵タンクから300トンもの汚染水がもれたというのである。まず、その第一報をみてみよう。東京新聞は、2013年8月20日、次のような記事をネット配信した。

福島第一タンク周辺 100ミリシーベルト超汚染水漏れ

2013年8月20日

 東京電力は十九日、福島第一原発で、高濃度汚染水から放射性セシウムを除去した処理水をためるタンク周辺で、水が漏れていたと発表した。処理水には放射性ストロンチウムなどが含まれており、周辺に漏れた水の表面近くで毎時一〇〇ミリシーベルトを超える非常に高い放射線量が計測された。 
 敷地内には千基近いタンクがある。漏れが見つかったのは二十六基がある海側のエリアで、鋼板をボルトで張り合わせるタイプのタンクが使われていた。同日午前九時五十分ごろ、見回り中の東電社員が、タンク周りにある高さ〇・三メートルのコンクリート製の堰(せき)の排水弁から水が流れ出ているのを見つけた。堰の内側に二カ所、外側に二カ所の水たまりができており、一〇〇ミリシーベルト超の放射線量は外側の水たまりの真上約五十センチで計測された。
 この場所に一時間いれば、一般人の年間被ばく線量限度(一ミリシーベルト)の百年分に達することになる。前夜の見回りでは、水漏れはなかったという。
 通常は堰の内側に雨水がたまらないよう、弁は開けっ放しになっているが、漏れが見つかり、弁を閉めた。堰の外側には土のうが置かれているが、少なくとも百二十リットルが外部に漏れ、地中にも染み込んだとみられる。
 ボルト締めタイプのタンクは、鋼板の間をパッキンでふさぐ簡易構造。東電は漏れた原因を調べようとしているが、土のう近くの空間でも毎時二〇ミリシーベルトの線量があるため調査は難航。漏れた水や周辺の汚染土の回収が先決となる。漏れは続いている可能性もある。
 原子力規制委員会は国際的な事故評価尺度のレベル1と暫定的に評価。八段階のうち下から二番目の「逸脱」に当たる。規制委は東電に、漏えい場所の特定とモニタリング監視の強化、汚染土の回収を指示した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2013082002100003.html

東京新聞によれば、この汚染水が、調査が難航するほどの高い放射線量であることがわかる。しかし、この時の報道では120リットル以上ということであり、小規模なものという印象を受けた。ゆえに、原子力規制委員会も事故評価尺度をレベル1(逸脱)としたのであろう。

しかし、第二報で、その印象は一変する。漏洩した汚染水は300トンにのぼるというのである。東京新聞で次のネット記事をみてみよう。

福島第一 タンク漏水300トン 高濃度、限度の数百万倍

2013年8月20日

 東京電力福島第一原発の地上タンクから高濃度汚染水が漏れた問題で、東電は二十日、一つのタンクの水位が大幅に下がっていたことから、漏れた汚染水は三百トンにのぼるとの推計値を発表した。十九日の段階では、タンク群を取り囲む堰(せき)外に百二十リットルの水たまりがあり、土にも染み込んでいるとしていたが、ずっと多かった。まだ漏れた場所は特定できておらず、現在も漏れが続いている可能性がある。
 東電によると、漏れたのは、原子炉建屋地下などにたまる高濃度汚染水から放射性セシウムを除去した処理水をためるタンクの周辺で、海側に二十六基あるエリア。十九日夜から堰の内側にたまった汚染水の回収を開始。その際、うち一基の周辺の水量が多かったため、タンクの水位を確認したところ、本来の水位より三メートル近く低くなっていた。タンク容量は約一千トンあり、うち約三百トンが漏れたとみられる。三百トンは、一般的な二十五メートルプール(四百~五百トン)の水量に近い。
 漏れた汚染水を分析したところ、セシウム134は一リットル当たり四万六〇〇〇ベクレル、セシウム137は同一〇万ベクレルが検出された。法令で放出が認められる濃度限度の千倍を超える。放射性ストロンチウムなども同八〇〇〇万ベクレルと極めて高い濃度が検出された。同じく濃度限度の数百万倍に達する。
 水面から五十センチ離れた地点での放射線量は毎時一〇〇ミリシーベルトで、この場所に一時間いれば、がんが発生するリスクが明らかに上昇する値。一般人の年間被ばく線量限度(一ミリシーベルト)の百年分になる。
 海への漏出が懸念されるが、海につながる近くの排水溝周辺の放射線量は低く、海まで五百メートルほどあることから、東電は今のところ海への漏出はないとみている。
 問題のタンクは鋼板をボルトでつなぎ合わせ、樹脂製のパッキンで止水した簡易構造で耐久性の問題が指摘されてきた。他のタンクが漏れているかどうかは確認されていない。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2013082002100007.html

タンクの1基の水位が3mも下がっており、そこから逆算して300トン流出したというのである。そしてまた、漏れ出した汚染水の汚染濃度もあきらかになった。放射性セシウムを除去したはずだが、それでも放出限度濃度の1000倍もあった。放射性ストロンチウムにいたっては、放出限界濃度の数百万倍もあるということである。

しかし、この時点で、東電は、海への漏出はないとしていた。後に、この情報もひっくり返ることになるのだが…。

さて、もう少し、この汚染水漏れ報道を東京新聞で時系列にそって追ってみよう。21日に、東京新聞は次のネット記事を配信した。

福島第一汚染水300トン タンク底から漏れる?

2013年8月21日

 東京電力福島第一原発のタンクから三百トン(東電の推計)の高濃度汚染水が漏れた問題で、東電は原因調査を進めたが、ボルト締め型タンクの弱点である側面の鋼板の継ぎ目に、水が漏れた痕跡は確認できず、底部から漏れた可能性が高まった。大量の漏れが確認され、原子力規制委員会は、国際的な事故評価尺度で下から二番目のレベル1としていた暫定評価を、引き上げる方向で検討に入った。 
 問題のタンクは三百五十基あり、原子炉の冷却後に出る汚染水をためる主力となっている。鋼板の間に樹脂製パッキンを挟み防水性を保っているが、パッキンの耐用年数は五年。同型のタンクで、四回の水漏れが起き、いずれも鋼板の継ぎ目からの漏出だった。
 十九日に漏れが見つかるまで、タンク周辺の見回りでは異常に気付かなかった。二十日にタンクの水位が本来の水位より三メートル下がっていたことを確認。短期に一般的な二十五メートルプール(四百~五百トン)の水量に近い汚染水が漏れたことになる。
 東電はタンク側面を中心に漏れた痕跡を探したが、見つからなかった。タンクは下部ほど水圧がかかり、汚染水はタンクの各方向に漏れていた。タンク底部の可能性が残る。
 汚染水は、放射性セシウムの大半は除去されているが、放射性ストロンチウムなどは一リットル当たり八〇〇〇万ベクレルと極めて高い濃度で残る。法令で放出が認められる濃度限度の数百万倍に達する。ストロンチウムなども除去する新装置の導入が検討されているが、トラブルで止まっている。
 汚染水の放射線量は水面から五十センチ離れた地点で毎時一〇〇ミリシーベルトあった。この場所に一時間いれば、がんが発生するリスクが明らかに上昇する値。
 今のところ海まで流れ込んだ可能性は低いとされる。ただ、高濃度のため、東電はタンク群の周囲に設けられたコンクリート製の堰(せき)内にたまった汚染水が拡散しないよう、汚染水の回収や土のうを積み増す対策に追われた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2013082102100003.html

ここでは、原子力規制委員会が事故評価尺度を引上げることを検討していることと、タンク側面ではなく底部から漏れ出したのではないかと推測されていることが、新たに報じられている。

そして、これは当たり前だが、漏洩したタンクから汚染水を移送することに着手されたことも、次のように、東京新聞は報じている。

東電「依然、漏えい」 別タンクに移送

2013年8月21日

 福島第一原発の地上タンクから高濃度の汚染水が漏れた問題で、東京電力は二十一日、依然として漏えいが続いているとの見解を示した。既に隣接する別のタンクへの汚染水移送を始めており、二十一日中にも完了するとの見通しを明らかにした。
 東電によると、移送は二十日午後十時ごろ開始。移送量はポンプ二台で一時間当たり計約四十トン。漏えいがあったタンク(容量千トン)は鋼鉄製の部材をボルトでつないで組み立てる構造で、移送先のタンクも同じ構造。東電は「(移送先の)安全は確認した」としている。
 漏えいがあったタンクは二〇一一年十月に設置された。漏えい箇所は特定できていない。東電は原因を調べるとともに、これまで一日二回だった周辺のパトロールを三時間ごとに増やし、汚染が拡大していないか警戒を強める。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2013082102100014.html

そして、他の記事でも前述されているが、原子力規制委員会が事故評価尺度を二段階引き上げてレベル3(重大な異常事象)にすることを検討していることを、8月21日に東京新聞はネット配信している。

タンク汚染水漏れ レベル3に引き上げへ 規制委、評価見直し

2013年8月21日

 東京電力福島第一原発のタンクから三百トン(東電の推計)の高濃度汚染水が漏れた問題で、原子力規制委員会は二十一日の定例会で、国際的な事故評価尺度で下から二番目のレベル1としていた暫定評価を、レベル3に二段階引き上げる可能性があるとの見解を示した。
 規制委は、汚染水にベータ線を出す放射性ストロンチウム90(法定基準は一リットル当たり三〇ベクレル)などが一リットル当たり八〇〇〇万ベクレルと、放出が認められる濃度限度の数百万倍に達する極めて高い濃度であり、三百トンの漏出量から数千テラベクレル規模(テラは一兆)の漏出があると推定。規制委事務局は放射線の管理上、レベル3の重大な汚染に相当するとしている。
 汚染水漏れが発覚した十九日の段階では、漏れた汚染水の量がはっきりしなかったため、規制委は暫定的にレベル1と評価していた。その後、東電が漏れた量を三百トンと推定したことから、評価を見直すことにした。
 ただし、国際基準は通常の原発での事故を評価対象にしている。すでに福島第一原発事故自体は最悪のレベル7と認定されており、それに関連して起きた今回のタンク事故を個別に評価することが適切なのか、基準を所管する国際原子力機関(IAEA)に確認するとしている。
 国内でのレベル3事故は、一九九七年に起きた動力炉・核燃料開発事業団(当時)東海アスファルト固化処理施設爆発事故がある。
 国際評価尺度(INES) 原発など原子力施設で発生したトラブルの規模や深刻度を示す世界共通の物差し。国際原子力機関(IAEA)などが設定した。レベル1~3は「異常な事象」、レベル4~7は「事故」に区分。評価基準は施設内の汚染度合いや安全設備の状態などで、レベル2は相当量の汚染、安全設備の重大な欠陥などが該当し、レベル3は数千テラベクレルの放射能の放出、安全設備が残されていない事故寸前の状態などが該当する。最終的な判断は、IAEAに意見を聞く場合もあるが、各国の規制機関が評価する。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2013082102100015.html

そして、8月22日になると、次のことが報道された。このタンク群の周りに汚染水が広がらないように堰が設けられているが、汚染水漏れを発見する便宜をはかって、雨水がたまらないように排水弁が開放されていたため、排水溝をつたって汚染水が海に流出した可能性が高いことが判明したのである。さすがに、原子力規制委員会でも問題となり、「更田豊志(ふけたとよし)委員は、弁が開いていたことに関し、『何のための堰なのか。たまった水が雨水だと確認できてから弁を開けるのが、まっとうなやり方だ』と厳しく批判した」と東京新聞はネット記事で伝えている。

タンク汚染水漏れ 堰の排水弁すべて開放 海に流出可能性大

2013年8月22日

 東京電力福島第一原発のタンクから三百トンの汚染水が漏れた問題で、東電は、ほとんどのタンク群の周りに水を食い止めるコンクリート製の堰(せき)を設けたのに排水弁をすべて開けていたことが分かった。今回の漏出事故では、大量の汚染水が排水弁から堰の外に漏れ、土のうを越え、近くの排水溝から海に汚染が広がった可能性が高い。 
 汚染水漏れが起きたタンク群には、二十六基のタンクがあり、これを囲む堰の二十四カ所に弁が設置されている。東電は、汚染水が漏れても広がらないよう堰を設けたが、堰内に雨水がたまると汚染水漏れが発見しにくくなるとして、弁を開いたままにして雨水が抜けるようにしていた。
 しかし、弁が開いていたことで、漏れた汚染水は簡単に堰の外に出た。外部には土のうが積んであったが、土に染み込むなどしてその外側に漏れ出した。
 二十一日には、問題のタンク群から排水溝に向かって水が流れた跡が見つかったほか、排水溝内でも汚染水が土砂とともに流れた跡が見つかった。放射線量も毎時六ミリシーベルトと高かった。排水溝は海に直結していることから、汚染水が海に流れた可能性は低いとしていた東電も、海洋汚染があることを前提に対応していく考えを示した。
 排水弁が閉まり、コンクリート堰内に汚染水がたまる運用をしていれば、三百トンのうち半分以上は堰内にとどまった上、水が漏れているのを早期に発見できた可能性が高い。
 原子力規制委員会は今回の事故を国際的な評価尺度で上から五番目のレベル3と評価することを検討しているが、その大きな理由として「安全防護層が残されていない」ことを挙げている。二十一日夜に開かれた汚染水対策を検討する同委の作業部会で、更田豊志(ふけたとよし)委員は、弁が開いていたことに関し、「何のための堰なのか。たまった水が雨水だと確認できてから弁を開けるのが、まっとうなやり方だ」と厳しく批判した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2013082202100006.html

その上、本日(22日)、このブログを書いている時、別のタンク2基にも新たな汚染水漏れがあった可能性が報道されている。産經新聞のネット配信記事をみておこう。

タンク2基で新たな漏えいか 福島第1原発
2013.8.22 19:11
 福島第1原発で地上タンクから約300トンの高濃度汚染水が漏れた問題で、東京電力は22日、敷地内にある同じタイプのタンクを点検した結果、2基の底部表面に最大毎時100ミリシーベルトの高線量の箇所があるのを確認した。微量の汚染水が漏えいした可能性もあるとみて調べている。

 東電によると、新たな漏えいの可能性があるのは「H3」というタンク群にある2基で、いずれも原子炉を冷却した後の高濃度汚染水が貯蔵されている。

 高線量が計測された底部の接合部付近は乾燥した状態で、周辺に水たまりなどはなかった。タンク内の水位に目立った変化はないという。

 第1原発では19日に4号機山側の「H4」タンク群にある1基から汚染水が漏れているのが確認された。漏えい量は約300トンで、原子力規制委員会は国際的な事故評価尺度(INES)の暫定評価を8段階の下から4番目のレベル3(重大な異常事象)とする方向で検討している。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130822/dst13082219120015-n1.htm

この報道経過をみていても、いら立つ。最初、汚染水は120リットル程度として、結局、翌日には300トンになってしまう。海に漏れていないとしていたが、結局は、むしろ汚染水を閉じ込めておくべき排水弁が開けられていて、対策自体が不備であったということである。東電のやっていることは、情報隠蔽と事態の過小評価だけである。300トンの水が流出しているのに、それだけの水はない。ならば、どこかに流出していったはずである。例え、直接、海に流れ込まないとしても、地下にしみ込んだ汚染水はいつか海に流れ出る。そういう常識はどうやらなく、目に見えるものだけの情報を提供して、想像可能なことはなかったことにしてしまう。甲状腺がん患者が普通よりも多く発生しているのに福島第一原発事故の影響はなかったことにしたがっていた福島県と同じだ。もちろん、情報隠蔽が前提であるが、この情報隠蔽が契機となって、目に見えること以外、都合の悪いことは想定できないという意識構造になっているのではないかとさえ疑われる。

諸外国の報道をみていると、日に400トンは流出しているという汚染地下水の方に強く関心をもっているようである。確かに、この方が規模は大きい。しかし、現状では、汚染地下水も含めて、汚染水貯蔵タンクにためておかなくてはならない状態である。そのタンクが水漏れではどうにもこうにもしようがない。そして、産經新聞がネット配信した記事では、他のタンクも少量とはいえ汚染水漏れを起こしているものがあるようである。タンクすべてが信用できなくなれば、汚染地下水処理以前にお手上げだ。最早、文字通り、汚染水問題は「底なし」になっているのである。

福島第一原発の現状について触れるたびに思うのであるが、最早、民間会社の東電にまかせておけない状況になっている。結局、政府が乗り出さざるをえないのであるが、原発再稼働や原発輸出には乗り気の安倍政権であるが、福島第一原発の管理や廃炉作業は今の所東電まかせである。しかし、このまま、汚染水問題に対処できないでいると、海洋に未処理の汚染水を放出せざるをえなくなるだろう。このようになってしまえば、放射能汚染は拡大し、福島だけでなく多くの人々の不満をかい、さらに、諸外国の反発を買うことになるだろう。加えて、放射性物質による汚染の拡大は、日本産品の買い控えをよぶことになろう。東京オリンピック誘致どころの騒ぎではなくなるだろうと思う。

いくらコストがかかっても、阻止しなくてはならない、眼前の危機。それこそ、「空想上の対外的危機」よりもはるかに深刻な危機が、今、ここにあるのに、そのことは目に入らない。このような、危機感のなさが、本当の危機なのである。

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昨日(2013年8月20日)、スタジオジブリが製作したアニメ映画『風立ちぬ』(宮崎駿監督)を見に行った。この映画については、すでに多くの報道がある。ただ、まったく知らない方もいるかもしれないので、映画「風立ちぬ」のサイトにある「ストーリー」を、まず紹介しておこう。

かつて、日本で戦争があった。

大正から昭和へ、1920年代の日本は、
不景気と貧乏、病気、そして大震災と、
まことに生きるのに辛い時代だった。

そして、日本は戦争へ突入していった。
当時の若者たちは、そんな時代をどう生きたのか?

イタリアのカプローニへの時空を超えた尊敬と友情、
後に神話と化した零戦の誕生、
薄幸の少女菜穂子との出会いと別れ。

この映画は、実在の人間、堀越二郎の半生を描くー。

堀越二郎と堀辰雄に
敬意を込めて。

生きねば。
http://kazetachinu.jp/story.html

この映画は、零戦の設計者で知られる堀越二郎と、『風立ちぬ』『菜穂子』などの小説で知られる堀辰雄を重ね合わせて描いている。基本的には、戦闘機設計者としての堀越二郎の半生が中心なのであるが、妻との恋愛、結婚については、堀辰雄の小説のエピソードがアレンジされて用いられている。

この『風立ちぬ』については、私の周辺で、賛否両論が渦巻いていた。かなり多くの人が、戦闘機設計者としての堀越二郎について、戦争責任問題があまり取り上げられていないことに不満を持っていたようである。戦闘機という兵器設計について、そもそも、少年の「夢」のように描かれてよいものだろうかという批判もあった。それに、堀越二郎と堀辰雄の人生を重ね合わせる自体に無理があるという意見もあった。他方で、この映画の美しさについてかなり高く評価する人もいた。

とにかく、周囲がそんな状態で、飲み会の度に喧々諤々議論している有様なのである。あまり、私は、映画館でジブリ作品を見ない(後でレンタルするほうが多い)のだが、とりあえず、私も、見てみることにした。

そして、見た感想をいえば、…これは議論百出するだろうなと、やはり思った。この映画は、一言でいえば、「美しさ」をあくまで追求した映画である。それは、戦闘機設計者である堀越二郎についても、恋愛小説を書いた堀辰雄についてもそうである。堀越二郎については、兵器である戦闘機の設計者であるというよりも、「美しい飛行機」を作りたいという創造者の側面が強調されていた。他方で、堀辰雄の小説をモデルとした妻との関係では、結核患者である妻に結果的に無理をさせてしまうことになっているが、それもまた、「美しい物語」として完結してしまうのである。そして、この映画では、この「美しさ」の結末は明示的な形では語られない。そのように見てみると、例えば、戦争責任問題などは、十分とりあげていないようにみえるのである。

ただ、丹念にみていると、その中に、背後に隠れた形で、戦争の問題なども書き込まれていることがわかる。そもそも、飛行機は、第一次世界大戦と第二次世界大戦という戦争を契機として兵器として開発されたものである。そのことは、映画の中にも描かれている。確かに、この映画の堀越二郎は「美しい飛行機」を作ることに熱中しており、それが兵器であることにあまり意識していないようにみえる。しかし、最初から飛行機は兵器であることが示されており、映画の中でも多くの戦闘機の残骸の中で、「地獄かと思った」「一機も帰還しなかった」「国を滅ぼした」ことは言及されているのである。

では、監督の宮崎駿はどのように考えているのだろうか。先ほどの「風立ちぬ」のサイトに。2011年1月11日付の宮崎の企画書が載せられている。それによると、まず、宮崎は、「飛行機は美しい夢」とし、次のように述べている。

零戦の設計者堀越二郎とイタリアの先輩ジャンニ・カプローニとの同じ志を持つ者の時空をこえた友情。いくたびもの挫折をこえて少年の日の夢にむかい力を尽すふたり。
 大正時代、田舎に育ったひとりの少年が飛行機の設計者になろうと決意する。美しい風のような飛行機を造りたいと夢見る。(後略)
http://kazetachinu.jp/message.html

まず、「美しい風のような飛行機を造りたい」と夢見た少年として堀越二郎が紹介されている。その上で、まず、零戦の設計者となった堀越二郎の半生が語られ、さらに、彼が生きた時代が「今日の日本にただよう閉塞感のもっと激しい時代だった」として書かれている。その上で、映画全体について、このように言っている。

私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。
 自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生をたちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きんでていた人間である。それを描こうというのである。
 この作品の題名「風立ちぬ」は堀辰雄の同名の小説に由来する。ポール・ヴァレリーの詩の一節を堀辰雄は“風立ちぬ、いざ生きめやも”と訳した。この映画は実在した堀越二郎と同時代に生きた文学者堀辰雄をごちゃまぜにして、ひとりの主人公“二郎”に仕立てている。後に神話と化したゼロ戦の誕生をたて糸に、青年技師二郎と美しい薄幸の少女菜穂子との出会い別れを横糸に、カプローニおじさんが時空を超えた彩どりをそえて、完全なフィクションとして1930年代の青春を描く、異色の作品である。

そして、この企画書の最後にも、「リアルに、幻想的に、時にマンガに、全体には美しい映画をつくろうと思う」と宮崎は主張している。

この宮崎の企画書は、この映画のねらいをほぼ描き尽くしているといえる。「自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物」を描く「美しい映画」、これが、『風立ちぬ』のコンセプトなのである。

しかし、それだからといって戦闘機でしかなかった「美しい飛行機」を造るということの矛盾も宮崎は自覚していた。「夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない」といっている。「美しさ」を追求することの「狂気」の「毒」、そして、その「代償」もまた、「美しさ」の中で描かれなくてはならなかったのである。結局、「美しい飛行機」(堀越二郎)にせよ、「美しい物語」(堀辰雄)にせよ、その「美しさ」は、ともに人の死を代償にしていることがいろんな場面で暗示されているといえる。宮崎にしては、毒のある映画だと思う。このような「毒」を前提とした「美」の強調に反発する人も多くなることは当然である。しかし、ある種の創造において、この「毒」は必要なことだと宮崎はいいたいのだと思う。

何かを代償にしてしか成立しない「夢」を追求する狂気をはらんだ人生、その「毒」を書き込むことによって成立する「美しい映画」。このような意味で「創造する」ということの問題性は、堀越二郎や堀辰雄のことだけでなく、アニメーターの宮崎駿のことでもある。また、堀越二郎役の声優として参加した、「新世紀エヴァンゲリオン」のアニメーターである庵野秀明のことでもあっただろう。

そして、このような「狂気」は、もちろん、技術や小説、アニメーターだけのことではなく、何らの意味での作品を「創造」している人たちに共通しているといえる。このような「美しさ」は、宮崎が企画書で書いているように、「人生の罠」であり、別なところで「狂的な偏執」と表現されている。私が表現するならば「呪い」というだろう。この「美しさ」は「呪い」でもあるのである。

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  • 「彼女の旋律」
  •  ここで、実際にみた「シュレディンガーの猫」と「彼女の旋律」について語っていこう。「シュレディンガーの猫」と「彼女の旋律」、この二つが取扱っているテーマは、双方とも、「会津地方」の「高校生」の日常生活と、震災・原発の被災者との、「ディスコミュニケーション」をめぐる葛藤といってよいといえる。

    まず、はじめにみた「彼女の旋律」(サベリオ学園高校演劇部)からみておこう。このテーマをもっとも単純にいえば、高校の演劇部が避難所にいる被災者の慰問を頼まれた話といえる。しかし、象徴的なことは「避難所」という言葉も「被災者」という言葉も、ほとんど明示的には発話されていないのである。つまり、もともと、「慰問」においても、「被災者」に向き合うという構えがないことが表現されているのである。

    この「慰問」において、高校の演劇部としては、「シンデレラ」を「寺の小僧が盆踊りに出たい」という形にアレンジしたものを出すことにした。元々「シンデレラ」なのだが、部員の個性(どじょう踊りが踊りたいなど)や能力にあわせて、そういう形にしたのである。つまりは、「内部事情」から、そういうナンセンスなものが演じられることになったといえる。ナンセンスさでは、シェクスピアの「夏の夜の夢」の劇中劇として素人が「ピラマスとシスベー」という悲恋物語を結婚式の余興として演じていることに匹敵する。

    ところが、この慰問を主催しているボランティアの思いつきで、被災者の女の子をギター演奏で出演させることになった。ボランティアとしては、ただ与えるだけでは被災者は満足しないという思いがあったようだ。しかし、もともと、内部事情からナンセンス劇しか構想していない高校生たちは困ってしまった。被災者の女の子も出演したいわけではなく、さらに、こんな内容では「慰問」にもならないとして、ほとんど話をせず、ギターの奏でる旋律で自分の感情を表現する始末である。そして、逆に高校生たちからは、反発をみせるもの、逆に風評被害に苦しむ親たちのことを想起してこれでは慰問にならないと思い直すものが出るなど、混乱をみせていく。

    結局、高校生の一人が、自分の過去の「いじめ」体験を引き合いにしてこの被災者の境遇に「共感」することで、ようやく信頼を得て、とにかく協力して「慰問」をすることはできた。しかし…それは、単に被災者側が「共感」することによって得られたもので、それが真に「楽しい」ことかどうかはわからないままで終っている。

    この題名が「彼女の旋律」となっている通り、この劇では、被災者はほとんど会話せず、ギターを中心に自らの感情を語る。徹底的に外部にいる存在なのである。他方、高校生の側も「内部事情」に起因するナンセンス劇しか演じられないのである。

    私の感想をいえば、ここでは、日常生活の「内部事情」で「ナンセンス劇」を演じている高校生のほうがおかしいのだ。それは、日常生活の外部にいるしかない被災者には通じないのである。そして、たぶん、被災者にとっては、「ナンセンス劇」自体ではなく、それを演じる高校生の心情をおもんばかって、ようやく、「相手にしてくれる」。しかし、それは、日常生活への過剰適応を被災者に強いることでもあるといえよう。

  • 「シュレディンガーの猫」
  • さて、「シュレディンガーの猫」(大沼高校演劇部)についてみておこう。「シュレディンガーの猫」は、原発事故や震災にあって福島県浜通りから避難し、会津地方の高校に避難してきた転校生(女子)二人と会津地方の高校生たちとの葛藤を描いた作品である。題名となった「シュレディンガーの猫」は、物理学者シュレディンガーの量子の不確定性を示す思考実験であるが、ここでは、より単純に「シュレーディンガーの猫は物理学の思考実験の呼称だ。箱に入れられた猫が放射性物質に生殺与奪権を握られ、外からは生きているのか死んでいるのか分からない状態を指す。劇では「生きている状態と死んでいる状態が50%ずつの確率で同時に存在している猫」と説明する。」(『河北新報』)として理解しておこう。この「シュレディンガーの猫」は、被災してきた転校生の一人にとって、自分たちの心情を示すものとして表現されている。

    そして、この演劇では、「シュレディンガーの猫」と同じように、放射性物質に運命を握られながらも、対照的な態度を示す二人の転校生が存在している。一人は、震災と原発事故で家族すべてを失い、常に「死にたい」と考え、同級生たちから孤立していた。

    もう一人は、やはり震災と原発事故で避難せざるをえず、さらに、「生き残ったこと」を罪とすら感じながらも、そのことを「悔しい」と思い、一生懸命生き直そうとしている。彼女は、活躍できる部活があるところと思って、郡山のサテライトではなく、会津の高校に転校してきた。そこで、彼女はダンス部に入った。被災者の転校生が活躍しているということで、かっこうのネタとなり、マスコミが報道することで、ダンス部の知名度もあがっていったのである。

    つまり、ここに「シュレディンガーの猫」の意味があるだろう。放射性物質に運命を握られながらも「生」と「死」が同じ確率で存在している。「彼女の旋律」においては、この二つの傾向が、一人の人格の中にあった。「シュレディンガーの猫」では、この側面が二つの人格に分け持たれているのである。

    しかし、「生」を選んだといっても、それは軋轢なく、高校の日常生活に受け入れられることを意味しなかった。被災者である彼女の活躍は、彼女の友達でもあった元々のダンス部員の怒りをかってしまった。そして、高校の中で、孤立していくことになる。

    そして、彼女は決断した。父親の九州移住についていって、卒業式前に、この高校を離れることを。

    彼女のクラスでは、放課後にお別れ会をしようとするが、みんな帰ってしまって、10人弱しか残らない。残った生徒も、多くは早く帰りたがっている。そして、その余興で行われたのは「仲間はずれゲーム」である。

    最初は、本当に、ただのゲームで「広島県・島根県・福島県の中でどれが仲間でないか」ということをあてるものだったのだが、しだいに、自分の属性をあげて多数派であるか少数派であるかで勝ち負けを競う、いわば少数派を排除するゲームになってしまうのである。実際の演劇は、全編このお別れ会における「仲間はずれゲーム」がほとんどをしめていて、前述した背景は、「仲間はずれゲーム」の中の会話や、挿入される回想シーンからおぼろげに提示されている。ある意味では、この「仲間はずれゲーム」が、お別れ会にもかかわらず、より孤立感を深めていくのである。

    しかし、この「仲間はずれゲーム」が、逆に、もう一度連帯を確認させていく契機になっている。最後のほうで、転校生の一人が、「同情はいらない」、「それでも、他人にはやさしくしたい」、「絶対に忘れない」などと叫びはじめる。最初は、もう一人の転校生だけが応じているのだが、だんだん、他の高校生も応じていくようになる。少数派を排除するゲームが、多数派を獲得するゲームになったのである。そして、最後は「どんなことがあっても負けない」という叫びに、ためらいながら、死のみを考えていた転校生が応ずることで、この劇は終わるのである。

    このように、「シュレディンガーの猫」のテーマも「彼女の旋律」と同様、被災者と一般的な高校生との「ディスコミュニケーション」であるといえよう。ただ、「シュレディンガーの猫」では、被災者は同じ学校の転校生であり、より内部で接している存在として描かれている。しかし、それでも、彼女たちの心情は、一般高校生には伝わらない。それは、必死にまわりに受け入れてもらおうと努力しても、その努力自体が、孤立感を深める結果に終ってしまうのである。

    ただ、それでも、救いになったのは「仲間はずれゲーム」なのだといえる、少数派を排除するゲームを、自分の心情を主張して、多数派を形成し、合意を獲得する手段としたこと、これは、たぶんに演劇だからこそできることなのだと思う。しかし、それは、実生活でも必要なことなのだ。

    まず、ディスコミュケーションを認めること、そして、それから「共感」を得ることを必死に考えていくこと、これは、この二つの演劇だけでなく、だれにとっても必須なことであるといえよう。

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  • なぜ、下北沢で福島県の高校演劇が上演されたのか
  • 2013年8月15日、東京・下北沢の小劇場・楽園で、原発・震災被災者と日常的な高校生活との葛藤を扱った高校生の演劇「シュレディンガーの猫」(福島県立大沼高校演劇部)と「彼女の旋律」(会津若松ザベリオ学園高等学校演劇部)の演劇公演が行われ、見に行った。

    まず、なぜ、下北沢で福島県の高校生たちの演劇が上演されたかを紹介しておかなくてはならない。この演劇公演をプロデュースしたNPO法人大震災義援ウシトラ旅団は、「大震災義援ウシトラ旅団は東日本大震災を機に結成されたボランティア団体です。ウシトラ旅団とは、本営のある東京から、東北(艮の方角)に向かって支援の旅に出るの意味を込めた団体名です。任意のボランティア団体として2011年4月に誕生し、地震・津波と福島第一原発事故による被災者、避難者を支援する活動を行って来ました」(ウシトラ旅団サイト)という避難者支援のボランティア団体である。そのボランティア事業の一環として、下北沢における高校演劇公演を行ったのである。

    ウシトラ旅団のサイトには、次のように、この演劇公演について語られている。

    福島県立大沼高等学校演劇部 東京公演を成功させよう

    ★福島の高校生たちの演劇成功に力をかしてください 
     あの忌まわしい地震、津波、原発事故とそれによって故郷を追われた人々。彼らにも私たちと何ひとつ違わない生活がある。食う寝る働く、学校へ通う。新しい命が生まれるし、永久の別れもやってくる。そうした当たり前の日常を彼らはどうやっておくっているのか。
     狭く不便な仮設住宅で、家族バラバラの借上げ住宅で、故郷から遠く離れた見知らぬ土地で……、 一方彼らの今の「日常」は避難先の人々の「日常」と重なりあって、ひと言では言い表せないマダラ模様になっている。
     ここに福島の高校生たちが感じたこと、言いたいこと、彼らのマダラな日常―「シュレーディンガーの猫」があります。その真直ぐな問いかけを大人たちは正面から受け止めなくてはいけない!そう思い東京公演を開催することになりました。
    8月15日~18日の公演期間の内、8月15・16日の二日間は、大沼高校のライバル校である会津若松市のザベリオ学園による松本有子作・演出『彼女の旋律』(福島県高校演劇コンクール第1席 東北地区高校演劇発表会優良賞)との二本立てで上演いたします。こちらも、高校生が被災者の避難所を訪れて起こる出来事を演劇にしたものです。
    高校生の芝居を通して、福島の想いを「演劇の聖地」下北沢で大きく叫んでもらいます。福島からの声をより多くの人々、とりわけ首都圏に住む人々に届けたいと思います。

    ★高校生の体験から誕生した『シュレーディンガーの猫』
     この作品は、震災・津波の被害、そしてそれに続いた福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染から逃れるために、会津美里町の県立大沼高校に転校してきた女生徒たちが演劇部に入部したことをきっかけにして生まれました。
     原発事故による避難者である彼女たちの気持ちと、受け入れた学校の生徒の気持ちは、すんなりと一致するようなものではありませんでした。体験をもとに演劇にすることの是非も含めて、多くの葛藤を抱え込みながら、被災者生徒と顧問の先生との共同作業で脚本が書き上げられました。

     二年間、自分の体験について口を閉ざしてきたというSさんは稽古に入って「そんなんじゃ、被災者の気持ちは伝わらない」と、ようやく自らの経験と心の傷を涙ながらに語ったといいます。それを聞いた部員の生徒たちもまた、涙を流しながら彼女(被災者)の心を受け止め、「そこから劇はガラリと変わった」(大沼高校演劇部顧問・佐藤雅通先生)という、本音のぶつかり合いによって成立した演劇です。
     これらの過程が作品の中では見事に表現されています。劇中の「私、生き残ったんじゃない。死ななかっただけ」、「悲しいんじゃない、悔しいんだ」、「箱の中で放射能物質に運命を握られている猫。私達(生きているのか死んでいるのか)どっちなんだろう・・」という独白は、被災者の心のうちの止むことのない動揺、答えの出ない問いかけです。

    ★共に生きていく勇気を呼び起こすために
     クライマックスで畳み掛けられていく、「同情はいらない」。「どんなことがあっても負けない」。「それでも、他人にはやさしくしたい」。「絶対に忘れない」といった台詞は、苦悩を乗り越えようとする被災者と、それに寄り添おうとする生徒たちが共に生きていこうとする勇気の表明です。自然な感情の高揚によって、被災者と本当に手を結んで生きていこうとすることを観客に訴える芝居なのです。
     地元の応急仮設住宅で行われた公演では、涙をにじませた避難者に「私たちの心の中をよく言ってくれた」「生徒たちが避難者の気持ちをここまで感じてくれていた。励まされる思いがした」と感想をもらい、生徒たちもまた「これまででいちばんの拍手をいただいた。(演技者の)みんなも泣いていた。(被災者のS)先輩の気持ちを伝えたかった。(東京公演でも)震災を忘れない、いつまでも心に残る劇にしたい」と語っています(朝日新聞福島版・5月9日付)

     福島のことが忘れ去られようとしている。そんな危惧の声を聞きます。
     私たちはそのような嘆きより、この高校生たちの演劇を通して、被災者とのしっかりとした関係を創っていこう、一緒に生きていくあり方を創っていこう、と呼びかけることを目指します。
     どうか意をお汲み取りのうえ、ご支援・ご協力をお願い申し上げます。
    http://www.ushitora-ryodan.org/311/modules/housing/

    この「シュレディンガーの猫」は、福島県の高校演劇コンクールでは最優秀賞をとった作品だった。しかし、東北大会での評価は低く、全国大会で上演される機会を逸した作品であった。それでも、いわき市で行われた演劇大会に地元枠として推薦され、上演された。それを見たウシトラ旅団のメンバーが感動して、下北沢公演をはかってくれたのであった。この経過を伝える、河北新報の記事を紹介しておこう。

    演じる/同情ではなく伝える「忘れない」/大沼高演劇部3年・増井結菜さん=福島県会津美里町

     「同情は、いらない」
     「どんなことがあっても、負けない」
     「それでも、他人には、優しくしたい」
     福島第1原発事故で避難区域から福島県会津地方に避難した高校生、絵里を演じる。
     劇「シュレーディンガーの猫」は絵里ら2人の転校生、2人を迎えた同級生6人の心の葛藤と友情を描く。15日から4日間、演劇の本場、東京の下北沢で公演する。
     「絵里は悲しみを胸に閉じ込め、努めて明るく生きようとする。言い回しの裏にある感情を表現しなければならない」
     これまでの役で最も難しいと思った。同県富岡町から避難した1年先輩の女子生徒から体験談を聞き、気持ちをつくった。
     同県会津美里町に生まれた。原発から西に約100キロ離れ、被災者ではない。地元の大沼高の演劇部に所属する。
     昨年11月、県高校演劇コンクールで最優秀賞を射止め、12月の東北大会に駒を進めた。上位に入ったら全国大会への道が開ける。
     「重すぎる」
     「見ていてつらい」
     東北大会での評価は厳しかった。入賞を逃し、全国行きの切符は手に入らなかった。
     ことし3月、全国規模の別の高校演劇大会がいわき市で開かれ、地元枠で出た。
     東北大会で受けた評価を教訓に脚本と演出を練り直した。転校生同士で言い争う場面など深刻なシーンを減らす。
     本番では好評を博した。公演を見た東京の被災者支援団体「ウシトラ旅団」のメンバーが気に入り、東京公演の道筋をつけてくれた。
     5月、会津美里町の仮設住宅で演じた。同県楢葉町の住民が暮らす。
     拍手が鳴りやまなかった。観客の一人が避難者の気持ちを代弁してくれたと握手を求めてきた。
     「役が自分のものになったと感じた」
     シュレーディンガーの猫は物理学の思考実験の呼称だ。箱に入れられた猫が放射性物質に生殺与奪権を握られ、外からは生きているのか死んでいるのか分からない状態を指す。
     劇では「生きている状態と死んでいる状態が50%ずつの確率で同時に存在している猫」と説明する。家を追われる実害を受けた避難者、風評被害の憂き目に遭う県民。原発事故が直接的、間接的に影を落とす福島県の現状を表す。
     裏方を含めて19人の部員で取り組む。稽古では劇中と同様に本音をぶつけ合い、駄目出しを繰り返した。
     「みんなで作り上げた舞台。避難者の思い、福島県の思いを伝えたい」
     絵里は同情から特別扱いされ、同級生の反発を買う。触れ合いを深めて次第に分かり合い、最後はお互いに力強く生きようと誓う。
     絵里が言う。
     「(原発事故を)絶対に忘れない」
     同級生が手を挙げて賛意を示し、幕は下りる。
    (阿部信男)

    2013年08月14日水曜日
    http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1109/20130814_01.htm

    ウシトラ旅団のサイトでは、より詳細に、背景事情を語っている。

    ★『フェスティバル2013 全国高校演劇研究大会』(いわき市)
    3月23日・24日に高校生たちの演劇を見に行って来ました。 いくつかの作品を見させてもらったのですが、お目当ては開催県の枠で、最後に上演された福島県立大沼高等学校の『シュレーディンガーの猫~Our Last Question~』でした。

    実はこのフェスティバルは地方ブロックの予選で最優秀を取れずに、夏の全国大会へ行けなかった作品の内から推薦されて、上演が行われるものなのだそうです。
    会津美里町の大沼高校演劇部がいわば全国大会への道を絶たれた時の「講評や批評」について、「東北でも震災被害が風化しつつある」と報じた新聞記事に、ウシトラ旅団の数人が怒りまくったのでした。 むろん、その怒りは、この作品が一等賞を取れなかったという結果についてではなく、生徒たちが福島の問題に正面から立ち向かった演劇に対して、評価する側が「正面から」向きあおうとしなかったらしいことについてでありました。

    事の結果を報じた福島民報はこう書いていました。 『震災と原発事故を題材にした大沼高(会津美里町)の演劇に対し、他校から「重いテーマを重くやられた感じ、疲れる」「(震災を)見せ物にしている」などの講評が寄せられた。審査員の一人も「疲れた」と感想を漏らしたという。結果は本紙既報の通り最優秀でも優秀でもなく、優良賞だった。  審査がある以上、優劣がつくのは当然で、結果についてとやかく言うつもりはない。残念なのは、被災地の視点で問題に真正面から取り組んだ姿勢に対し、冷ややかな見方があった点だ。講評者名は伏せられているが、関係者は「被災しなかった地域の生徒の意見ではないか」と推測している。思いを共有してくれていると信じていた東北での否定的な反応に、部員は落胆している。心を占めているのは悔しさより悲しみだろう』

    旅団長は、怒っておりませんでした。 嫉妬で目が濁る、んな連中はいるだろうし、風化なんていえば「絆」やらのごたくで塗りたくった支援や心持ちは、すぐに風化するに決まっている。
    そんなことより「共感の回路をどう作るか」を考えねばなりませぬ。 というわけで、例のごとく喚いてしまうもんね。 「この演劇、東京でやっちまおうぜ! 評価はそこで見てくれる人にやってもらえばいいじゃん」(後略)
    http://www.ushitora-ryodan.org/311/modules/housing/index.php?page=article&storyid=1

    なんというか、後述するように「シュレディンガーの猫」(『彼女の旋律』もだが)は、被災者と会津地方の一般高校生との「ディスコミュニケーション」を扱っている作品である。しかし、「シュレディンガーの猫」それ自体も、「重いテーマを重くやられた感じ、疲れる」「(震災を)見せ物にしている」「疲れた」などと言われ、「被災地を真っ正面に扱うこと」に対する「ディスコミュニケーション」のはざまで排除されたといえるだろう。

    それに対して、「共感の回路をどう作るか」ことを目的として、東京で(もちろん、東京は「全国」ではないが)上演させたのが、プロデュースした「ウシトラ」旅団だったといえよう。その意味で、今回の公演それ自体が、被災者との間に生じている「ディスコミュニケーション」をどのように対応するのかということに対する一つの取り組みであったのだ。今回の公演自体が、大きな「出来事」であったといえるだろう。
    (続く)

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