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Archive for 2013年2月

今回は、柏市行政において、年間被曝線量を1mSvにする除染基準が確立した経過について、まとめておこう。柏市民の、放射線量低減を求める声に後押しされた形で、2011年8月頃より柏市行政の放射線対策は本格化していく。8月19日に、柏市は放射線対策室を設置し、その頃より、各学校での除染作業も開始された。

しかし、柏市行政の方針は、当初不十分なものであった。柏市などの東葛六市は、2011年7月8日の第1回東葛地区放射線量対策協議会において被曝線量限度を年間1mSvとすることをめざすとした。しかし、柏市の場合、実際の学校などの除染対象の基準は、文科省が補助するとした毎時1μSvとなっていた。だが、すでに始まった学校の除染作業において、実際に作業を担当した教職員や住民は、毎時0.3μSvでも高すぎると考え、市の基準よりも低い放射線量の場所も除染作業対象としていた。自発的に、年間1mSv未満をめざす動きが地域社会に定着していったといえよう。

そして、同時期には、年間1mSv未満に被曝線量をおさえることをめざした除染作業を行う自治体もあらわれてきた。朝日新聞夕刊2011年9月3日号では、東京都足立区で小学校・幼稚園・砂場などにおいて被曝線量毎時0.25μSv以上の場所を対象とする除染作業が8月10日より開始され、葛飾区でも同じ基準で除染することにしていると報道されている。そして、同記事には、千葉県北西部に隣接し、放射線量も比較的高い、茨城県守谷市で、次のような動きがあったことを伝えている。

 

茨城県守谷市は8月22日から、市内の公立小学校や保育所11カ所でグラウンドの土を入れ替えた。文部科学省が主に福島県内の学校向けに示した除染基準の毎時1マイクロシーベルトを超える地点はなく、当初、本格的な除染はしてこなかった。
 しかし6月、市民ら1千人余から文科省基準より低い放射線量でも対応できるよう、「子供の被曝を年間1ミリシーベルトに近づける」ことを求める請願が出され、市議会が採択した。
 橋本孝夫副市長は「少しでも放射線量を下げてほしいと思う親たちが安心してくれるのであればと考え、方針転換した」。土の入れ替えの費用は私立幼稚園などへの補助も含め約6千万円かかったという。

このように、住民たちの請願という形で示された要望に依拠して、守谷市は、年間1mSvを被曝線量限度にすることをめざした除染作業を自治体独自で行うことになったのである。

他方、政府においても、8月には除染推進方針が定められた。8月26日に開催された政府の原子力災害対策本部は、「除染推進に向けた基本的考え方」を決定した。その中では、次のように規定されている。

東京電力株式会社福島第一原子力発電所の事故から 5 ヶ月が経過しましたが、発電所の事故を原因として発生した放射性物質による汚染によって、今なお、多くの方々は、不便な避難生活、不安な日常生活を強いられています。
この放射能による不安を一日でも早く解消するため、国際放射線防護委員会(ICRP)の考え方にのっとり、国は、県、市町村、地域住民と連携し、以下の方針に基づいて、迅速かつ着実な除染の推進に責任を持って取り組み、住民の被ばく線量の低減を実現することを基本とします。

① 推定年間被ばく線量が20ミリシーベルトを超えている地域を中心に、国が直接的に除染を推進することで、推定年間被ばく線量が20ミリシーベルトを下回ることを目指します。
② 推定年間被ばく線量が20ミリシーベルトを下回っている地域においても、市町村、住民の協力を得つつ、効果的な除染を実施し、推定年間被ばく線量が1ミリシーベルトに近づくことを目指します。
③ とりわけ、子どもの生活圏(学校、公園等)の徹底的な除染を優先し、子どもの推定年間被ばく線量が一日も早く1ミリシーベルトに近づき、さらにそれを下回ることを目指します。

上記の方針を基本としつつ、この度決定する「除染に関する緊急実施基本方針」は、今後2年間に目指すべき当面の目標、作業方針について取りまとめるものです。
今後、国は、当面の対応として、「緊急実施基本方針」にのっとり、県、市町村、住民と連携しつつ、迅速かつ効果的な除染を推進してまいります。http://www.kantei.go.jp/jp/singi/genshiryoku/dai19/19_03_gensai.pdf

この日は、菅直人首相の辞意表明報道と重なり、あまり、この内容は報道されていないが、少なくとも除染基準線量を定めた点で画期的なものであった。特に②が重要である。ここで、年間20mSv未満の被曝線量地域でも、年間1mSvをめざして除染を推進することが決められたのである。すでにみてきたように、いわゆる「専門家」の多くは、年間1mSv未満を被曝線量限度とした除染作業の必要性を認めようとはしなかった。しかし、柏市などの地域住民は、せめて年間1mSvにすることを要望していた。この中で、地域住民サイドにそって、除染の基準(実際の除染作業は、当初住民のボランティアにたよるなど不十分なものであったが)が定められたのである。

そして、9月1日には、それまで毎時1μSvを除染作業の基準としていたが、ここで、年間1mSvを除染作業の基準とする方針を柏市行政は決めた。現在の基準であると毎時0.23μSvになる。そのことは、前述した朝日新聞夕刊2011年9月3日号の記事の中で、次のように報道されている。

 

政府の原子力災害対策本部は8月26日、除染の方針を示した。福島の避難対象地区以外でも「推定年間被曝線量が1ミリシーベルトに近づくことをめざす」とした。市町村の除染は国が支援するとしているが、福島県外のどこが対象になるのかは、はっきりしていない。
 局所的に放射線量が高くなる「ホットスポット」現象が起きた千葉県北西部。柏市はこれまで、近隣の5市と歩調を合わせ、文科省基準の毎時1マイクロシーベルトで側溝や雨どいなどの局所的な除染を進めてきた。
 だが、原子力災害対策本部の方針を受け、9月1日に年1ミリシーベルトに基準を引き下げて、表土を削るなど本格的な除染を進めることに決めた。
 同市放射線対策室の松澤元・担当リーダーは「安全の基準を探すのに注力してきたが、100%の安全は証明できず、多くの市民が不安に思っている」。今後、国の補助が受けられるかどうかを確認し、学校や公園など市全域を対象にした除染計画を作るとしている。

このように、2011年8〜9月、柏市行政において被曝線量年間1mSvという除染基準が確立されていったのである。しかし、対照的に、2011年9〜10月、柏市内において高い放射線量を示す地域が発見され、柏市行政は対応におわれていくのである。

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以前、福島第二原発建設反対運動において、建設予定地の富岡町毛萱などの地権者ー農民たちの抵抗が1970年に終息した後、むしろ一般住民の反対運動が展開されるようになったことを、本ブログで論じた。

その後、平工業高校教員であり、後に原発・火発反対福島県連絡会事務局長となる早川篤雄の「福島県楢葉町・富岡町の事例について」(『東北地方の「地域開発」政策と公害』、1973年)という論文を入手した。この早川の論文は、日本科学者会議福島支部などが主催してが973年2月3日にいわき市で開いた『東北地方「地域開発と公害」』シンポジウムにおける報告の一つである。この中で、多分、自身も当事者として参加したと思われる「公害から楢葉町を守る会」について詳述している。この会も一般住民の反対運動の一つといえる。

早川によれば、楢葉町の一般住民の反対運動は、地権者たちの抵抗が終息した後に開始されている。まず、早川の回想をみておこう。

 

「公害から楢葉町を守る町民の会」は、火発・原発の建設が本決まりとなって?、ブルの音が聞かれるようになって、ようやく生まれました。町長選挙が来年の夏に迫った、46年12月、“第1回「町長を囲む懇談会」”が楢葉町南地区(6日)と北地区(7日)で開催された。町長の町政説明の後で質問、意見を述べた者は85名(2日間)のうち28名であった。そのうち火発・原発の不安について訴えを述べた者は3名であった。この時の町長・町側の答弁に疑いと不安を深くした1人、松本巻雄氏(いわき中央高校)が住民運動を呼びかけたのである。(『東北地方の「地域開発」政策と公害』17頁)

 この論文より、一般住民における反対運動の端緒は、原発(福島第二原発)、火発(広野火力発電所)の建設が本決まりになったことであることがわかる。福島第二原発は1968年に建設計画が発表され、富岡町毛萱を中心とした地権者ー農民の反対運動が起きたが、1970年には地権者ー農民の反対運動は終息した。他方、東電の広野火力発電所は、1971年に広野町議会が誘致決議をし、その年のうちには、建設予定地の85%が確保されたといわれている。この時期の火力発電所は、煤煙処理施設などの公害防止施策が十分ではなく、原発以上に公害源と目されていた。そして、1971年末に表明された原発、火発問題についての町側の対応に疑惑と不安を持った、いわき中央高校教員の松本巻雄によって、住民運動を起こすことが提唱されたのである。

早川によると、1972年1月15日には松本他10名によって準備会が開催されたという。そして、2月11日には、会員130名で「公害から楢葉町を守る町民の会」が結成された。

「公害から楢葉町を守る町民の会」結成時の決議文が『楢葉町史』第三巻に収録されている。すでに、本ブログで紹介していているので、概略だけ紹介しておこう。この会は「美しい自然の山河と町民の平和な暮らしと、我々の子孫を守る」ことを目的とした。自然、町民生活、町民の子孫を守ることが、この会の目的であったのである。そして、活動内容としては、

一町民各位への啓蒙、宣伝活動
一公害の科学的調査、研究会、資料の蒐集
一楢葉町の自然保護
一各種公害の予防、防止対策と補償要求運動
一機関紙の発行
一全国各地の公害反対組織運動との連携
一その他公害から楢葉町を守る仕事に関すること

であった。町民への啓蒙・宣伝活動や、公害の科学的調査・研究に力点がおかれていたといえる。いわば、市民運動としての原発反対運動なのである
 
早川によると、この会は、環境庁長官、楢葉町長、楢葉町議会、福島県などに陳情をするとともに、楢葉地区労などと共闘して楢葉町有権者を対象にして火発・原発建設即時中止を求める署名運動を展開し、さらに“公害を知る講演会”を実施しているのである。

そして、早川は、「福島県楢葉町・富岡町の事例について」の中で、次のように一年間の活動を回顧している。

1年間の活動から得た?、もう一つはー大企業があって国があって県があって町がある。その大前提は当地域のようなもの言わぬ住民である。ーこれは私個人のおそすぎた目覚めである。
 41年12月に、福島原発1号機の建設が始められたこと、42年5月に、浪江・小高両町に東北電力の原発誘致問題が起こったこと、43年にはわが町にも原発が誘致されるらしいこと、そして浪江町の地権者や富岡町の毛萱地権者が猛烈な反対運動を繰り広げていたこと等々、私はそれぞれの時点からよく知っていました。電力開発は公共事業なんだから、これはやらねばならんだろうし、又これからのこの地域のためにもある程度の犠牲は仕方ないだろうぐらいに、正直なところ、そんなふうに考えていました。そして46年4月に、広野町に火発が誘致されるらしいと知ったときに、これは大変なことになる、下手にしたら住めなくなると、はじめて自分のこととして驚きました。それで、二、三の知人あるいは隣近所の人達と困ったことになったと、話し合ったりしているうちに、みんなも自分と同じくらいな考えと心配をしていることが判った時、重大な誤解をしていることに気づきました。誤解でなく、気付かなかったのである。火発で驚いてはじめて気が付いたのです。ところがそれでもまだ“これからの世の中”と“誰か”に賭けていました。ーあれは、アカだ。ーの殺し文句が未だに生きている地域でもあるからです。こうした情況が、昭和版「谷中村事件」の再演をここでも一つ許していたー毛萱にも広野にも地を吐くような思いで、土地を手放した?人がいたのである。『県勢長期展望』を見ると、ー本展望のメーンテーマは「人間尊重」であり……「福島県に住んで良かったとしみじみ思う社会」ーの建設を試みたとあります。どこの、だれが住むでしょうか。

・ 原発の不安=どういうことか漠然としてわかりにくい。(原子力なんて、われわれにはとても理解できない科学・技術である、と考えているので)
・ “原発反対”は、住民の立ち上がりだけでは相当困難である。
・ “双葉地区の特殊性”から一番先頭に立つのは、まず小・中・高の教職員以外にないと思われる。(『東北地方の「地域開発」政策と公害』18〜19頁)

まず、早川は「大企業があって国があって県があって町がある。その大前提は当地域のようなもの言わぬ住民である。ーこれは私個人のおそすぎた目覚めである。」と述べている。これは、1973年時点の発言だが、現在でもー3.11以後でもー変わらない状況が続いているといえよう。

そして、早川は、福島第一原発の建設、浪江・小高原発の建設計画、福島第二原発の建設計画、そして、地権者たちの反対運動があったことは承知していたが、「電力開発は公共事業なんだから、これはやらねばならんだろうし、又これからのこの地域のためにもある程度の犠牲は仕方ないだろうぐらいに、正直なところ、そんなふうに考えていました。」と、率直に反省している。

そのような早川の認識を変えたのが、広野火力発電所建設計画であった。早川は「46年4月に、広野町に火発が誘致されるらしいと知ったときに、これは大変なことになる、下手にしたら住めなくなると、はじめて自分のこととして驚きました。それで、二、三の知人あるいは隣近所の人達と困ったことになったと、話し合ったりしているうちに、みんなも自分と同じくらいな考えと心配をしていることが判った時、重大な誤解をしていることに気づきました。誤解でなく、気付かなかったのである。火発で驚いてはじめて気が付いたのです。」と述べている。広野火力発電所建設計画が表面化し、ようやく「下手したら住めなくなる」と、自分のこととして驚いたと早川は告白している。そして、それは、早川だけでなく、知人や隣近所の人びとが共有している思いだったのである。

これは、現在、日本全国の多くの人びとが考えている意識と共通するものがあるといえる。3.11の福島第一原発事故があり、「下手したら住めなくなる」という意識がうまれ、それによりやっと原発問題を自分のこととして考えはじめた人は多いのではなかろうか。私も、その一人であることを、ここで告白しておこう。

しかし、それでも、自分自身の行動により、異議申立をしようとする人びとは少なかった。早川は、「ところがそれでもまだ“これからの世の中”と“誰か”に賭けていました。ーあれは、アカだ。ーの殺し文句が未だに生きている地域でもあるからです。こうした情況が、昭和版「谷中村事件」の再演をここでも一つ許していたー毛萱にも広野にも地を吐くような思いで、土地を手放した?人がいたのである。」と述べている。

冷戦終結後、異議申立を「アカ」=共産主義者として抑圧することは少なくなったといえる(ただし、むしろ、今は「非国民」などとレッテル張りされているのかもしれない)。しかし、2012年末の総選挙にあるように、「“これからの世の中”と“誰か”に賭け」ることは横行している。その上で、公害のために村を犠牲にした「谷中村」事件は、今や、村落レベルをこえた形で「再演」されてしまっているのである。

その上で、早川は、当時の福島県の『県勢長期展望』に「福島県に住んで良かったとしみじみ思う社会」の建設を試みたとあることに、このように切り返す。ー「どこの、だれが住むでしょうか」と。

そう、いま、楢葉町において、どこの、だれが住んでいるのであろうか。そして、だれが「福島県に住んで良かったとしみじみ」と思っているのであろうか。今から40年前の、1973年の発言が、まるで予言のように思えてならないのである。

もちろん、そのような未来を実現させないことが「公害から楢葉町を守る会」の目的であった。当時において、懸命に活動していたといえる。しかし、結果的には、このような未来が実現してしまった。このことについて、私たちは、もっと深く考えていかねばならないと思う。

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さて、前回は、1968年に建設計画が発表した東北電力の浪江・小高原発が、地元の浪江町棚塩の地域住民の反対運動によって、3.11直前まで着工が阻止されてきたことを述べつつ、最終的に福島第一原発事故によって、同地域が居住困難な地域になってしまったことを述べた。

この棚塩地区の現状はどのようなものであろうか。まず、Googleによる3.11以後の航空写真をみてほしい。

この航空写真は、棚塩地区の原発建設反対運動の指導者であった舛倉隆が住んでいた中舛倉を中心としたものである。中舛倉は、南棚塩に属し、水田に囲まれていた。しかし、この航空写真をみればわかるように、3.11の津波襲来により、ほとんど集落は原型をとどめていない。中舛倉の海側には、南棚塩のいくつかの集落が点在しているが、それらの多くも、ほとんど原型をとどめていないのである。そして、周辺に広がっていた水田も、津波によって泥の海となっている。

この棚塩地区の状況について、風船によって空中から2011年4月16日に撮影された動画がある。撮影者である「義援バルーン空撮」は「撮影位置は海岸線から1kmの地点」(http://www.t01.com/11041603z.html)と解説している。中舛倉よりもやや陸側の地点ではないかと推定される。しかし、この地点でも津波が押し寄せ、水田に瓦礫が散乱しているのである

他方、浪江・小高原発の建設される予定地であった北棚塩のほうをみておこう。この地図の三枚岩というところを中心に浪江・小高原発は建設される予定であった。この地域は標高20m以上ある台地にあり、山林や畑が多い地域であった。航空写真だけからみるならば、津波の直撃はさけられた模様である。

このように、原発建設反対運動の根拠であった南棚塩の土地や家屋は、東日本大震災の津波によって大きな被害を受けたのである。

なお、放射線量は、2013年2月18日21時において棚塩集会所のモニタリングポストの値が0.110μSv/hであり、とりあえず、年間1mSvをこえる線量となる0.23μSv/hを下回っている。浜通り各地の海側の放射線量は比較的低いが、この地域もそうなのだといえる。この地域だけならば、隣接する南相馬市小高区浦尻地区のように、立入りはできるが居住はできない避難指示解除準備区域になることも可能かもしれない。実際、2013年1月25日、浪江町は、棚塩地区などを避難指示解除準備区域にする方針を示した。しかし、浪江町の山側の放射線量は非常に高い。この棚塩地域が避難指示解除準備区域となっても、水道他のインフラを整備するのはかなり困難であろうと思われる。

そして、津波で壊滅した低地の集落や水田を復旧することにも困難が予想されるのである。

このように、浪江・小高原発建設反対運動の拠点であった浪江町棚塩地区は、東日本大震災による津波と福島第一原発事故によって大きな打撃を蒙ったのである。この両方で、浪江町棚塩地区を含めた福島県浜通りが被害を受けたということ、そして、単に原発事故だけでなく、津波被害からの復旧という課題もこの地域にあることを忘れてはならないのである。

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ここで、福島県浪江町・小高町(現南相馬市)に建設される予定であった東北電力浪江・小高原発建設反対運動についてみておこう。このことについては、反対運動の指導者舛倉隆への取材に基づいたルポルタージュである恩田勝亘『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』(七つ森書館 1991年)が克明に記載している。同書に依拠しながら、成立期の反対運動の論理をみていこう。

東京電力の福島第一原発が立地するにあたり、浪江町も候補地の一つとなり調査された。そして、東北電力労組出身で民社党所属の福島県議浜島隆の示唆により1967年5月26日に浪江町議会が原発誘致促進の決議をあげ、福島県や東北電力に陳情するにいたった。そして、1968年1月4日、木村守江福島県知事により、東京電力の福島第二原発建設計画とともに浪江町棚塩地区・小高町浦尻地区にまたがって東北電力によって原発を建設することが発表された。

しかし、浪江・小高原発建設計画は、浪江町議会で誘致決議があげられているにもかかわらず、建設される地点付近の住民にも、一般町民にも、1968年1月4日の知事発表までふせられていた。そのため、建設される地点付近(浪江町棚塩地区、小高町浦尻地区)の住民は強く反発し、反対運動が結成されるようになった。すでに、1968年1月21日には、「浪江原子力発電所建設誘致反対決議」が出されている。ここで、まず、紹介しておきたい。

浪江原子力発電所建設誘致反対決議
 東北電力株式会社は、昭和四十三年一月五日早々に、相馬郡小高町浦尻地区の一部を含む双葉郡浪江町棚塩地区一円を原子力発電所建設予定地として内定した旨の正式発表をし、去る一月十三日、浪江町長を通じ、用地の確保について関係地域民に対する協力方の説明がなされたが、関係地域農民としては事前に何らの話し合いも説明会もないままに建設予定地として内定されたことは、まさに、農民の権利と利益を無視し、工業優先、地域開発の美名のもとに、我々農民の多年に渉る努力によって培われてきた土地を収奪し、生活権を侵害する以外のなにものでもない。
 我々は、あらゆる圧迫に屈することなく、いたずらな言動に迷わされることなく、農民自身の利益を守るため、あらゆる力を結集して断固反対するものである。
 おもえば当該地域には水田、畑、採草地、放牧地、山林、入植増反地及び墓所など様々の形態を示し、そのほとんどが約五百戸に及ぶ地域農民の所有地である。特に、戦後に於ける農地改革によって山林の三分の二はすでに入植地や代替地として解放され、一戸当りの山林所有面積が平均化し、所有地の減少をみるに至っている。加えて、その後農業基本法の立法化に伴い農業の選択的拡大を図り水田酪農による経営の安定を目指して、解放後の限られた山林を改良しつつ、家畜の粗飼料を確保、これを活用して畜産振興への途を拓いたのである。とりわけ、水田単作地帯である当地区は、必然的に畑地が少なく、個々の所有地は零細化され、僅かに自給野菜を生産するに止まる状態である。
 また、農業近代化を推進する農林省並に県の強力な指導助言により四十年度には、第二次開拓営農振興法に基づく入植地の耕土改善事業に着手、水田酪農を基本とする飯米自給農家の育成に力を注ぎ過去三年間の努力によって開田作業が急ピッチで進められ、漸次経営安定に向いつつある農家も少なくない現状である。
 しかも、全戸が農家であり、水田単作地帯であるために、これら地勢的条件を生かして農業の近代化を図り、格差のない豊かな生活を保証していくためには、海岸線一帯に展開されている山林の開発により、開田、開畑、及び牧野改良による自給飼料の確保がどうしても必要であることはいうまでもない、これらの豊かな自然条件を電源基地として失うことは、農民としてまことに忍び難いものがある。
 例えこれらの見返りとしての補償金を得たとしても、いったん手放した農地は再びわれわれの手には還らない。農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとである。いわんや、祖先以来営々として、生きかわり死にかわりしつつ、絶ゆることなく耕してきた貴重な遺産である。
 今後、営農の規模拡充のため、益々山林はその必要性を増し、且つ高度利用化に専心すべき時期に来ている。養蚕経営と併せて昭和四十二年一月より逐次開田または開畑による耕地の増反が年次計画として第一歩をふみ出している矢先でもあり、金ヶ森の堤の改修ならびに掛け入れ耕土の構造改善を計画し、基盤整備をすすめようとしている現状にある。一方すでに開発された農免道路の新規開通によって果樹園形成の第一候補地として、若い農業後継者たちの期待もきわめて大きいものがある。特に波浪による山林の浸蝕を防ぐため護岸推進もそのためである。
 以上のような土地利用上の特殊事情にある当地域としては仮りに東北電力のいうような広大な土地を必要とする原子力発電の用地として転用された場合は、今まであらゆる努力を傾注して築き、且つ夢みてきた繁栄する地域農村のビジョンは一場の夢と消えさるのみか、土地を提供することによって徒らに耕地が細分化され生産意欲は減退し、農林省のいう生産基盤の拡大はおろか、益々小規模農家が増えることは必至である。なかんずく開拓農家に至っては完全な失業者に転落することは明白な事実であると言わねばなるまい。
 我々は、このような自滅への道を辿る愚さをお互に戒しめ相共に固い団結の力によって財産権の不可侵を主張し、働らく農民の利益を守るため、あらゆる障害を排除して、この土地を守り抜くことを誓うものである。従って、我々の土地を東北電力の原子力発電基地にすること及びこれを誘致しようとする町当局のあらゆる措置に対し、慎重で且つ良識ある反省を促しながら断固反対するものである。
右、決議する。
 昭和四十三年一月二十一日
            浪江原発建設絶対反対棚塩・浦尻地域住民
            小高・浪江一般町民反対者決起期成同盟町民大会
(恩地『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』)29頁

この決議文は、いくつかの特徴を有している。まず、この決議文は、農地解放後の農政の展開を前提として、山林も漸次開拓したり畜産飼料の採取地とするなど将来的に利用することによって、それぞれの農家が経営を安定させ、その上で、「地勢的条件を生かして農業の近代化を図り、格差のない豊かな生活を保証」することをめざしてきたとしている。そして、原発建設による大規模な用地買収は「今まであらゆる努力を傾注して築き、且つ夢みてきた繁栄する地域農村のビジョン」を消し去るものとしているのである。このような反対運動の論理は、原発建設が工業化推進を前提とすることと大きく違っているのである。

このような論理は、同時期の福島第二原発建設に対する富岡町毛萱地区の反対運動にもみてとれるが、この決議文では、より鮮明にあらわれているといえよう。浪江町・小高町の周辺住民にとって、原発建設とは「農民の権利と利益を無視し、工業優先、地域開発の美名のもとに、我々農民の多年に渉る努力によって培われてきた土地を収奪し、生活権を侵害する」ものなのであった。

さらに、「農民にとって土地は生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさとである。いわんや、祖先以来営々として、生きかわり死にかわりしつつ、絶ゆることなく耕してきた貴重な遺産である。」とまで指摘している。まずは、祖先以来の土地を守っていくこと、それが彼らの心情の基礎にあったといえる。

これは、ある意味で、この棚塩地区のあり方にねざしたものであった。棚塩地区は、浜通りでは数少ない水田耕作が盛んな地域であった。農業だけでも経営が安定できる条件を有していたのである。原発敷地予定地の大半は山林・桑畑であったが、この時期は、そのような土地に対しても、開田・開畑や家畜飼料採取地として利用することによって、農業経営を安定化させようとしていたのであった。そのようなことが、この決議文の背景にあるといえるのである。

他方、この決議文では、かなり長文でありながら、原発固有の、放射能問題が全くふれられていないことにも注目しておかねばならない。恩地前掲書では、広島の原爆体験を有する住民もいて、放射能の問題について発言していたようであるが、この決議文には反映していないのである。ただ、恩地前掲書によると、しだいに反対運動側も放射能問題について学習していったのである。

この運動の後の経過については、別の機会にまわしたい。しかし、この浪江・小高原発建設反対運動の端緒となったこの決議文を読んでいると、複雑な感慨にとらわれる。この浪江・小高原発建設反対運動は、原発建設反対運動の中では成功した部類であるといえる。運動の指導者舛倉隆の死後も、東北電力は浪江・小高原発建設着工はできず、3.11を迎えた。しかし、3.11以後、この地域も含めて、浪江町一帯は福島第一原発事故のために、居住が困難な地域になってしまった。そして、結局、「農民にとって生きるすべてであり、農民のいのち、こころのふるさと」であった「土地」は、この地域の反対運動の帰趨とは無関係に失われてしまったのである。そこには「歴史」の「残酷さ」が表出されているといえよう。

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昨日である2013年2月11日、「歴史の逆流を許さず憲法を力に未来をひらこう」ということをテーマにして、「建国記念の日反対2・11集会が日本橋公会堂ホールで開催された。講演は渡辺治氏(一橋大学名誉教授)の「新段階の日本政治と憲法・アジア」であり、その他、反原発の運動、東京の教科書問題、沖縄と基地・安保についての現場からの発言があった。参加者は約450名であり、NHKテレビのニュースにも報道された。なお、2・11集会は、東京だけでなく、全国各地の都市でも開催されている。ここでは、NHKがネット配信した記事をあげておく。

建国記念の日 各地で式典や集会
2月11日 18時6分

建国記念の日の11日、これを祝う式典や、反対する集会が、各地で開かれました。

このうち東京・渋谷区では、神社本庁などで作る「日本の建国を祝う会」が式典を開き、主催者の発表でおよそ1500人が参加しました。
主催者を代表して、國學院大学教授の大原康男さんが、「建国記念の日を日本再生に向けた確実な一歩とすべく、改めて決意したい」とあいさつしました。
そして、「新政権は、憲法改正など国家の根本に関わる問題に着手しつつある。誇りある国造りへ向けて、尽力することを誓う」などとする決議を採択しました。
参加した40代の女性は、「領土問題をきっかけに、若い世代を中心に国の在り方を議論すべきだと感じるようになりました。憲法を改正し、子どもたちが安心して暮らせる世の中にすべきだ」と話していました。
一方、東京・中央区では、歴史研究者や教職員など主催者の発表でおよそ450人が参加して、建国記念の日に反対する集会が開かれました。
この中で、一橋大学名誉教授の渡辺治さんが、「総選挙で、改憲を志向する政党が勢力を大きく伸ばすなか、平和憲法を守ることの意味を改めて考えるべきだ」と述べました。
そして、「国防軍設置が主張されるなど憲法は戦後最大の危機にある。歴史の逆流を許さず、憲法を力として、平和なアジアと日本社会の未来を開こう」などとする宣言を採択しました。
参加した高校3年生の女子生徒は、「平和を守るうえで、憲法の存在は非常に大きいと考えています。私はまだ有権者ではありませんが、もし憲法改正が問われれば、きちんと考えて判断したいと思います」と話していました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130211/k10015437921000.html

現在、私は東京歴史科学研究会という団体の代表をつとめており、この団体は「建国記念の日に反対し思想・信教の自由を守る連絡会」(2・11連絡会)という本集会の主催団体の事務局団体の一つであったため、この集会の開会あいさつをすることになった。2・11集会の開会あいさつを行うにあたって、ある程度、この集会が開始された際の状況を調べた。もちろん、あいさつには一部しか利用できなかった。そこで、このブログで、もう少し、東京の2・11集会が開始された状況についてみておこう。

「建国記念の日」の源流は、1872年に明治政府が定めた「紀元節」である。この「紀元節」の日取りは、初代神武天皇が即位した日を2月11日と比定して定められた。戦前においては、四方節(元日)、明治節(明治天皇誕生日)、天長節(当代の天皇誕生日)とならんで、学校の場で、教育勅語がよみあげられ、御真影(天皇の画像)への遥拝が行われており、天皇制教育の一つの柱であった。しかし、戦後、GHQの指令により「紀元節」は廃止された。

この紀元節が「建国記念の日」として復活したのが、高度経済成長期の1967年である。前年の1966年、佐藤栄作政権によって祝日法が改正されて「建国記念の日」が設けられることになった。そして、学識経験者からなる建国記念日審議会に諮問するという形をとって、「建国記念の日」が2月11日に定められ、1967年から設けられることになった。

この建国記念の日については、当時の歴史学界ではおおむね反対していた。そして、実際に1967年2月11日の第一回建国記念の日において、全国各地で抗議行動が行われた。東京では、有力な歴史学会の一つである歴史学研究会が「『建国記念の日』に反対する歴史家集会」を開催した。歴史学研究会の機関誌である『歴史学研究』324号(1967年5月)には「『建国記念の日』に反対する歴史家集会」記事(松尾章一文責)が掲載されている。まず、その状況をみてみよう。

 

 当日の東京の朝は、前夜からふりつづいた何年ぶりかの大雪のために、白一色にうずまっていた。いぜんとしてはげしくふりしきるふぶきにもかかわらず、集会のはじまった午前10時半には、200名をこえる参集者で会場となった全逓会館の9階ホールはほとんど満員となった。
 集会は歴研委員会の会務幹事である江村栄一氏の開会の挨拶ではじめられた。まず議長団に土井正興、松尾章一の両名が選出されたあと、石母田正氏の講演が行われた。(『歴史学研究』324号p71)

なお、石母田正の講演のあと、太田秀通歴研委員長が集会の世話役として運動の経過と今後の決意を述べた。さらに歴史教育者協議会の佐藤伸雄が、

紀元節復活反対運動は、歴史家がもっとも早くからとりくんできた。しかしながら、マスコミなどによってこの問題は、歴史家や宗教家の問題であるかのようにいわれる傾向がつよかったために、反対運動をすすめてゆく革新陣営の側にも弱さがあった。このことが運動の発展にとって大きな障害となった。これは歴史家が反省するより以上に、歴史学界以外の各界の人々の側にも責任がある。今後はさまざまな分野の人々との連けいによる反対運動を組織する必要がある。
(『歴史学研究』324号p72)

と指摘した。

その後、各地での集会の状況などが報告され、活発なーというかかなり激しい討論が行われた。その上で、建国記念の日に反対する声明が提案され、採択された。

なお、重要なことは、この集会は「歴史家の集会」であって、一般の人びととは分離された形で行われたことである。記事では、次のように説明されている。

 

この集合の最初の予定は午前10時から12時までで、その後、同じ会場でおこなわれる国民文化会議主催の「『建国記念の日』ー私たちはどう考えるか」というシンポジュームがおこなわれることになっており、この集会にわれわれ歴史研究者、歴史教育者を中心とするこの集会に参加した全員が、軍国主義、帝国主義、天皇制の復活に反対し、これと対決してたたかう日本人民の1人として午後からの集会に合流することになっていた。そのために、国民文化会議のお骨折りで、われわれの集会を同じ会場で午前中におこなうことができるようにご援助をいただき、そのうえ、午後の集会の時間をずらして、われわれの集会を1時間ほど延長させていただいたご好意に厚く感謝したい。
 最後に、第1回の「建国記念の日」反対集会(今後、廃止される日まで毎年続けていくべきである)は、成功裡に終り、かつ今後のわれわれのたたかいにとってきわめて有意義なものであったことを記して、この簡略にして不十分な報告を終わらせていただくことにする。
(『歴史学研究』324号p72〜73)

このように、歴史学研究会主催の「歴史家の集会」と、労働組合のナショナルセンターであった総評などが結成した国民文化会議主催のシンポジウムは、会場こそ同一だが、時間をわけて実施されたのである。この状況は、それこそ、佐藤が指摘しているような、歴史家と「革新陣営」全体が十分連携していないことの象徴にもみえるといえよう。

しかし、1967年中にも、この状況はかえられていくことになった。これもまた有力な歴史学会の一つである歴史科学協議会が発行している『歴史評論』210号(1968年2月)には、次のような記事が載せられている。

 「

明治百年祭」「靖国神社法案」反対の集会開かれる!
 「建国記念の日」反対のたたかいをおしすすめてきた紀元節問題連絡会議(総評、日教組、憲法会議、日本宗平協、歴教協など広汎な団体が参加)は、昨年十一月九日、東京銀座の教文館で、「明治百年祭」と「靖国神社法案」反対の研究集会をもちました。
 集会は、松尾章一氏から「明治百年祭をめぐる問題」、芳賀登氏から「靖国神社創設の問題」の二つの報告をうけたあと、強まる反動攻勢にたいしどう対処していくべきかという問題を中心に熱心な討議がおこなわれました。たとえば、不服従の姿勢のよりどころをどこにおくか、民主的な憲法や強固な労働組合組織をもっているとはいえ、具体的にみれば、悲観的な材料がけっしてすくなくないこと、伊勢神宮に海上自衛隊が集団参拝した事例などが提起・報告されました。
 なお、同会議がよびかけ人となり、実行委を結成、来る二月十一日全電通会館(東京お茶の水)において、「紀元節復活・靖国神社国営化・明治百年祭に反対する中央集会」が開かれることになりました。(平田)
(『歴史評論』210号p69)

この「紀元節問題連絡会議」こそ、現在の2・11集会の主催団体である「『建国記念の日』に反対し思想・信教の自由を守る連絡会」の源流である。現在の集会でも都教組が参加しているが、この時は、総評・日教組・憲法会議(憲法改悪阻止各界連絡会議)・日本宗平協(日本宗教者平和協議会)・歴教協が参加しており、労働組合の比重が大きいといえる。議論の中でも「強固な労働組合組織」があることが前提となっている。単に「紀元節復活」反対だけでなく、靖国神社国家護持問題や、1968年に予定されていた「明治百年祭」など、より広汎な歴史的な問題に対する国家の「攻勢」に対処していくことがめざされていた。そして、ここから、一般の人々と歴史家がともに集まる、「2・11集会」のスタイルが作り出されたといえるのである。

1968年2月11日に開催された、東京の「2・11集会」について、『歴史評論』212号(1968年4月)において、次のように叙述されている。

戦争準備の思想攻勢を告発するー「紀元節」復活、靖国神社国営化、「明治百年祭」に反対する中央集会ー
 二月十一日、第二回「建国記念日」を迎え、「『紀元節』復活・靖国神社国営化・『明治百年祭』に反対する中央集会が東京全電通ホールで開催された。主催は「紀元節」問題連絡会議で、総評・日教組・国民文化会議ほか三十団体がこれに結集した。歴科協は歴研・歴教協とともに新たに加盟し、集会の成功のため積極的に働いた。
 集会は、権力側が急ピッチに進めている戦争準備の思想攻勢に加えて、エンタープライズ「寄港」、プエブロ事件、南ベトナム諸都市における解放軍民の決起、倉石農相憲法否定発言など緊迫した内外情勢を反映し、定員四百四十名の会場に千三百名が溢れ、届出六百名のデモに千名が参加するという盛りあがりを見せた。
 十二時半、京都府作製の護憲スライド「この樹枯らさず」上映で幕をあけ、家永三郎、高橋磌一両氏の講演が行われた。家永氏は「教科書問題と明治百年」と題し、教科書問題に露呈されたところの、政府の意図する歴史の軍国主義的偽造を告発し、高橋氏は「明治百年と国防意識」と題して、「紀元節」も「明治百年」も、教育・思想・文化の軍国主義化、さらには七〇年安保改定に向けての権力側の布石であると強調した。ついで別に女子学院で千六百名の大集会を成功させたキリスト者の集会を代表して日本キリスト教団総会議長鈴木正久氏のメッセージ、「紀元節」復活反対の声明を出した日歴協(日本歴史学協会)を代表して副会長林英夫氏の挨拶のあと、社会党猪俣浩三、共産党米原いたる、宗平協中濃教篤、教科書訴訟全国連絡会四位直毅、マスコミ共闘上田哲の諸氏から報告と決意表明があり、主催団体を代表して国民文化会議日高六郎氏が総括を行った。最後に倉石農相罷免要求の決議と集会アピールが採択され、午後四時閉会した。
 散会後、明大および東京教育大の学内集会を成功させ、会場まで行進してきたデモ隊と合流し、十数年来はじめて許可をかちとった日本橋の目抜き通りを東京駅八重洲口まで、力強いデモ行進が行われた。
   決議文
 アメリカのベトナム侵略戦争が、ますます狂暴化するなかで、これに対する佐藤政府の加担は、昨年十一月の「日米共同声明」いらい、内外の多くの人々の反対にもかかわらず急速に深まってきています。すなわち、佐藤政府はアメリカの原子力空母エンタープライズの日本寄港をゆるし、沖縄復帰の国民の念顧をうらぎり 沖縄の「核つき返還」を促進し、日本全土の核基地化を公然とすすめようとしています。
 また外国人学校制度法案の国会上提をもくろみ、東京都私学審議会における朝鮮大学校の認可問題に不当な圧力をかけるなど在日朝鮮公民の諸権利の抑圧をおしすすめ、北朝鮮帰国を一方的に打切り、さらに、日本を基地として出発したプエブロ号の朝鮮民主主義人民共和国に対する挑発行動をゆるしています。それは政治的・軍事的な面ばかりではなく教育・文化・思想の領域においてもはげしくおしすすめられております。「自分の力で自国を守らなければならない」という佐藤首相の発言、「小学校から防衛意識を植えつけなければならぬ」という灘尾文相の談話、「憲法は他力本願で……こんなばかばかしい憲法をもっている日本はメカケのようなもの……日本にも原爆と三十万の軍隊がなければだめだ」という倉石農相の発言などに、端的に示されています。
 政府・自民党は、さらに、「建国記念の日」の制定つまり旧紀元節の復活、社会科教育への神話のもちこみや公民教育の復活などにくわえて、国会に靖国神社の国営化法案の提出の準備を急いでいます。これらは、ベトナム侵略戦争に積極的に加担している政府が、軍国主義をもりあげ、「国家愛」の美名のもとに国民を戦争にかりたてようとするものです。そのため、政府は、教科書の事実上の検閲をさらにつよめ、放送法の改悪をたくらむなど、さまざまな形で思想統制を強化してきています。
 今年は、これらにつづいて「明治百年祭」の一大カンパニアを展開しています。明治いらい「大日本帝国」政府は、国民の平和と民主主義を求める希望を裏切り、そのための努力をねじまげ、朝鮮、中国をはじめアジア諸国に対する残虐な侵略をおこない、国民にもはかりしれない犠牲をおわせました。政府は、そのようなような事実をおおいかくし、過去の軍国主義の道を栄光化する歴史解釈を、「明治百年祭」のお祭りさわぎのなかで国民におしつけてきています。
 これはまさに、日本国憲法の平和と民主主義の原則を真向から否定しようとするものであり、憲法改悪への道にそのまま通ずるものであります。心から祖国を愛し、真の独立と平和と民主主義とをもとめてやまないわたしたちは、このようなたくらみをだんじてゆるすことはできません。
 旧「紀元節」が復活されて、二度目の二月十一日をむかえ、ひろく各界から「紀元節」復活・靖国神社国営化・「明治百年祭」に反対する中央集会に結集した私たちは、全国いたるところでまきおこっている反対運動と呼応しながら、これら一連の戦争準備の反動思想攻勢を断固として告発し、力をあわせて、あくまでもそれに反対してたたかいぬくことを誓います。
   1968年2月11日
            「紀元節」問題連絡会議
大塚史学会 大塚史学会学生部委員会 映像芸術の会 「紀元節」問題懇話会 「紀元節」に反対する考古学者の会 教科書検定訴訟を支援する会 憲法改悪阻止各界連絡会議 憲法擁護国民連合 国民文化会議 駒場わだつみ会 社会主義青年同盟 新日本婦人の会 東京都教職員組合連合会 日本科学者会議 日本キリスト教団 日本教職員組合 日本高等学校教職員組合 日本子どもを守る会 日本児童文学者協会 日本宗教者平和協議会 日本戦没学生記念会 東京地区大学教職員組合連合会 日本婦人会議 日本民主青年同盟 日本労働組合総評議会 婦人民主クラブ マスコミ産業労働組合共闘会議 歴史科学協議会 歴史学研究会 歴史教育者協議会
(『歴史評論』212号p62〜63)

このことから、次のようなことがわかるといえる。まず、総評(日本労働組合総評議会)や日教組、都教組などの労働組合が大きな比重をもつ形で「紀元節問題連絡会議」が結成されたということができる。その上で、構成団体として、社会党系団体(憲法擁護国民連合、社会主義青年同盟、日本婦人会議など)と共産党系団体(新日本婦人の会、憲法改悪阻止各界連絡会議、日本民主青年同盟など)が共存しているのである。そして、集会自体でも社会党員と共産党員がともにあいさつをしている。総評は、全体的には社会党系といえるが、反主流派として共産党系の人々もいた。その意味で、内部抗争がたえなかったといいうるが、逆に、労働組合の組織力を基盤とし、さらに社会党系の人々と共産党系の人々を結びつけて大きな運動を展開しうる可能性を有していた。その可能性が発揮されたのが、この「紀元節問題連絡会議」だったといえる。1967年2月11日の「歴史家の集会」では200名しか参加していなかったが、1968年2月11日の集会では1300名が参加し、1000名のデモ行進まで行われたのである。ある意味で、1960年の安保闘争にも類似しているといえる。総評や日教組もいろいろ問題を抱えていたといえるが、社会運動において、生活の場に拠点を有する労働組合の存在は大きいといえる。現在の2・11集会においても、労働組合である都教組の存在は大きい。このように、現在においても社会運動における労働組合は重要な存在なのである。

他方で、この場が、当時の歴史家たちの「社会参加」の「場」にもなったといえる。1968年の集会では、「建国記念の日」反対だけでなく、当時の佐藤政権のさまざまな問題に言及しながら、それらを「戦争準備」の動きとし、建国記念の日設定、靖国神社国営化、明治百年祭実施などを「戦争準備の思想攻勢」として総体として批判するというスタンスをとった。ある意味で、狭義の「歴史問題」だけではなく、そのような「歴史問題」を、労働組合も参加した集会において社会全体の動向をふまえて把握し、訴えていくことになったといえる。そのような意味で、当時の歴史家たちの「社会参加」の場でもあったといえよう。

わたしのあいさつでも話したが、今や、佐藤栄作の時代よりもはるかに強い形で、「思想攻勢」は進められている。そして、抵抗の拠点となった総評はもはや存在しない。それでも、いまだに1960年代の社会運動の伝統は、「2・11集会」という形で生き続けている。そして、創立された1960年代の時よりも、今のほうが、大きな意義をもつようになっているのである。

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さて、また、首都圏のホットスポットとなった千葉県の状況を、柏市の動向を中心にみていくことにする。以前、本ブログで前述したが、学校施設の除染基準を年間20mSvから1mSvに事実上かえた文科省の措置、市民からの不安の声、東京大学内部での批判により、2011年5〜6月より、柏市、我孫子市、野田市、松戸市、鎌ヶ谷市、流山市の東葛6市は、独自に空間放射線量を測定するなど、独自の放射性物質対策を実施しはじめた。しかし、いまだ、「専門家」たちは、この地域の首長たちが開催した7月8日の「東葛地区放射線量対策協議会」で放射性物質対策は必要はない、測定もこまめに行う必要がないと主張し続けた。

しかし、首長たちは納得せず、同日、今後とも放射線量測定などの独自の対策を講じること、費用対効果を考慮しつつも、学校施設については、年間1mSv以下にすることをめざすことなどが決められたのである。

柏市で月2回発行されている柏市民新聞2011年7月22日号によると、柏市としては、次のような対策を講じることになっていた。

 

また、6市のうち松戸市と野田市と野田市を除く4市では、今後の対策として、積算可能な測定機を購入し、全小学校と保育園、幼稚園に各1機を配備する方針を決めた。8月中に揃え、9月から現場の線量を年間通じて測っていく予定。2市については検討中だという。
 また、柏市では、夏休み中に市内の各小学校で細かい測定を行う。学校ごとに線量を図面に落とし、高い数値の場所については、教職員らで清掃する。限られた時間で、きめ細かく清掃するため、保護者らの協力を仰ぎたいとしている。
 ごみ処理場の基準値を超える放射性セシウムについては、秋山浩保市長が15日、環境省に早期対応の緊急要望を提出したが、21日の時点で国の回答はなく、進展はみられていない。

つまり、学校・保育園・幼稚園ごとに測定機を備え付けるともに、小学校では夏休み中にきめ細かく線量を測定し、高い場所では教職員らで「清掃」ー除染することになっていたのである。そして、小学校の測定・除染については、保護者らの協力を仰ぎたいとしている。教職員・保護者らの、いわばボランティアによる線量測定、除染が提起されたといえる。

しかし、すでに、放射性物質の問題は、学校施設の問題に限定されるものではなくなっていた。先の記事の中にも述べられているが、柏市の二つある清掃工場の焼却灰などより、環境省の基準である1kgあたり8000bqをこえる放射線量が検出されたのである。基準をこえる焼却灰などは、最終処分場に埋め立てて一時保管することになっているが、その準備が整うまで工場に仮保管されることになっており、基準以下の場合は、通常通り最終処分場で埋め立てることになっていた。しかし、柏市民新聞が「いずれの措置にしても、工場付近の住民の理解は得難く」といっており、柏市長としては、環境省に早期対策を要望した。結局、第一清掃工場は操業停止となり、第二は稼働を継続したが、もし国・県の対策が遅れた場合、1〜2月程度で双方とも保管限度をこえて操業停止となるという状態だったのである。なお、この問題は、現在もこの地域に重くのしかかっているのである。

さらに、柏市は、7月28日から市内農産物の放射性物質調査を開始した。柏市民新聞2011年8月12日号には、その目的として、「柏市産の安全性を確認し、風評被害を防ぐこと」としている。農産物の放射性物質調査は千葉県が実施していたが、柏市の調査は簡易調査と位置づけられており、この市の検査で200bqをこえた場合、厚労省の登録検査機関に送って、暫定基準値を超えていた場合は、出荷停止となるというシステムになっている。柏市民新聞2011年8月12日号によると、ブルーベリーにおいて、セシウム134が40.9bq、セシウム137が44.6bq検出された事例があったが、いずれにしても暫定基準値をこえたものがないとしている。なお、千葉県も、柏市産を含めた千葉県産の早場米の検査を8月から開始している。

加えて、1kgあたり500bqという暫定基準値をこえた牛肉が発見されたことから、8月より学校給食の食材に対する放射線セシウムの検査を開始することを決めた。

このように、柏市では、2011年7〜8月から放射性物質対策がとられてようになってきたが、市民の目からみれば、まだまだ不十分なものであった。朝日新聞朝刊2011年8月11日号には、次のような記事が掲載されている。

千葉の幼稚園 独自に土除去
 福島第一原発から約200キロ離れている千葉県の柏市や松戸市などは市の発表で毎時0.3〜0.4マイクロシーベルト前後になる場所がある。福島県発表のいわき市(同0.2マイクロ程度)を上回る。千葉県が発表する市原市の同約0.04マイクロに比べ1桁高い。放射性物質が他よりも多く降り注いだ「ホットスポット」と呼ばれる場所だ。
 千葉県柏市の私立みくに幼稚園で8日、杉山智園長らが花壇の表土をはがして古い浄化槽の中に埋める作業をした。花壇は毎時約0.4マイクロシーベルトだった。
 園庭の放射線量は0.1マイクロシーベルト。これは5月の測定で0.4〜0.5マイクロシーベルトだったので表土の入れ替えをしたためだ。杉山園長は「子どものために実行可能なことはやらざるを得ない」という。
 柏市など6市は対策協議会を開き「低減策が国の財政支援の対象になる毎時1マイクロシーベルトを上回る地点は確認されなかった」などとの中間報告を7月にまとめた。柏市は小中学校などで線量を細かく測定し、線量の高い場所は清掃や草の除去をするというが、校庭の表土の入れ替えなど大規模な工事の計画はない。
 子どもの被曝を心配する親らが約1万人の署名を集め校庭や公園で土砂の入れ替えなどを求める要望書を6月に柏市に出した。その一人、主婦の大作ゆきさん(33)は「市の動き方は鈍い」と批判する。大作さん自身は10日、1歳と3歳の2人の子どもとともに大分県に一時避難した。(編集委員・浅井文和)

このように、市立の小中学校においても大規模な除染を行うことは想定されておらず、「市の動き方は鈍い」と批判される状況であったのである。そして、私立幼稚園としては、独自に除染作業を開始したのであった。

しかし、朝日新聞の報道後、柏市の放射性物質対策はやや進展をみせる。8月19日には、職員4人の「放射線対策室」が環境部内に設置された。柏市のサイトでは、このように設置目的が説明されている。

福島第一原子力発電所の事故に伴い、市民の皆さんから放射線に対する不安の声が多く寄せられていました。現在、空間放射線量の低減対策については、子どもを対象とした部署を中心に関係各課が行っているところです。今後は、今まで以上に子どもに関連する部署間の連携を強化するとともに、それ以外の部署(通学路や農作物、給食食材関連など)との連携も必要となってくることから、次のとおり環境部内に新たに「放射線対策室」を設置することとしました。
http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/080500/p009165.html

そして、8月には、多少とも、小中学校の除染活動も進んだようである。柏市民新聞2011年8月26日号では、次のような記事が掲載されている。

地域住民 学校で除染作業 放射線量低減に安堵の声

 市内の幼稚園と小中学校で放射線の除染作業がはじまった。夏休み期間を利用し、敷地内で1マイクロシーベルトを超える地点や側溝などの高い数値が予想されるポイントを対象としている。教職員のほか、保護者らも参加して実施。一部の校(園)庭では、表土を削るなどの低減策もとられている。その効果は、毎時0.3マイクロシーベルトを測定した校庭が同0.2未満になるほどで、参加者からは喜びと安堵の声が挙がっていた。
 20日には、富勢小学校と松葉第二小学校などで作業が行われた。松葉第二小では、教職員のほか、保護者や地域住民など126人が作業に参加。校庭の大半の表土を削った。大勢の参加者が集まったため、開始時刻を早めてスタート。それでも、前日から降った雨が地中にしみ込んだため、その重量に参加者は悪戦苦闘。用意した土嚢袋の半分程度の量で成人男性がやっと持ち上げるほどの重みに。当初の土嚢袋800袋では不足し、さらに、800袋を追加。表土をわずか2センチ程度削っただけにもかかわらず、校舎からもっとも離れた校庭隅に土嚢の山が築かれた。
 当日は午後4時前から開始。気温は真夏日を下回ったが、マスクと軍手、長袖長ズボンの参加者は汗でぐっしょり。それでも「子どもに安心して運動会をしてほしい」との思いから作業に集中。学校職員が配備された測定機で測り「0.3マイクロシーベルトだったところが、0.2を切りました」と報告すると、喜びの声が挙がった。職員によると、松葉第二小は、6月以降、毎時0.3マイクロシーベルトの地点が非常に多く、今回の除染結果には笑顔が溢れた。参加者からも「子どもたちが安心して校庭で遊べる日がくるなら、がんばろう」との声が挙がり、多くの参加者が希望を持った作業結果となった。
 現在、市内の学校施設(幼稚園など含む)の放射線量測定は、全校で終了。私立園とも連携を図っており、放射線対策室によると、今後各学校が地域と連携し、2回目を含めた除染作業を行っていくとしている。 

この記事は、非常に興味深い。まず、指摘すべきことは、すでに述べているように、柏市などは年間1mSv以下とするとしているにもかかわらず、結局毎時1μSv以上の地点しか除染作業の目標としていなかったことである。年間1mSv未満とするならば、現在の基準では毎時0.23μSv未満にすべきなのだが、そのような地点は本来は対象としていなかったのである。これは、実質的には「専門家」の意見に引きずられていたといえるのである。「市の動き方は鈍い」と批判されるのも無理はないだろう。

しかし、この基準は、市民の求める基準ではなかった。ここで扱っている松葉第二小学校では、毎時0.3μSvでは高すぎるという意識があり、校庭の大半の表土を削り取るという大規模な除染が行われた。そして、この作業が、「教職員のほか、保護者や地域住民など126人が作業に参加。」とあり、いわば地域のボランティアを動員して行われたとみられることに注目しておきたい。この校庭の表土を削り取るという作業が、どのような形で意志決定されたかは不明だが、市の方針としては一部の高線量地点のみ除染ということであったから、それをこえた除染作業の実施は教職員も含めて自発的な形で決められたのではないかと想定される。そして、その究極の目的は「子どもに安心して運動会をしてほしい」「子どもたちが安心して校庭で遊べる日がくるなら、がんばろう」ということであった。真夏日ではなかったようだが、それにしても、夏の日にこのような重労働を地域の人びとは自発的に行ったのである。こういう活動を通して、年間1mSvにするという柏市のかかげた目標は、柏市当局の意図を超えて、定着していったのである。これは、住民自治ともいえるであろう。

しかし、他方で、このような除染活動の実施は、そもそも、このような事態を引き起こした東電なり国なりが行うべきことであることも指摘しておかなくてはならない。そして、この除染活動によって、市民自身がいわば無用の被曝を強いられることにもなったといえる。このような矛盾は、福島県郡山市の除染活動で、より深刻な形で露呈されているのである。

そして、また、2011年9月以降、柏市の放射線物質汚染状況がより明らかになってくるにつれ、市行政自体がより責任をもった放射能対策の必要性が提起されるのである。

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