3.11から2周年が過ぎた。直接的被災地を除いて、福島第一原発事故のことを社会は忘却したがっているようにみえる。ネズミによって引き起こされたとされる3月18日の福島第一原発の停電事故ですら、マスコミはさほど関心をもたなくなっているようにみえる。もちろん、まったく、報道がないというわけではない。しかし、危機感のなさは否めない。福島県では、福島第一原発事故はいまだ収束することがなく、いまだ多くの人びとが故郷に帰れず、首都圏も含めた多くの高線量地域では、多くの人びとが不安をかかえているにもかかわらず、だ。
最近、とみに、この「忘却」が気になっている。もちろん、3.11直後のような「危機意識」が2年後まで同じ強度であり続けるわけはない。しかし、前述したように、福島などでは、ほとんど問題は解決していないのである。さらに、早期「復興」を推進しようとする政府や福島県は、結局は高線量地域への住民の「帰還」を促そうとしており、問題をかえって深刻化させている。このような状況がありながらも、直接的被災地以外では、そのことを忘れたがっているようにみえる。
さらにいえば、昨年末登場した安倍政権は、さらなる原発再稼働をめざしていることを全く隠さないのであるが、そういうことにも無関心になっているようにみえる。この原発再稼働は、原発所在地だけでなく、広範な地域全体を危険にさらすものであるのにもかかわらず、である。
そんな折、『世界』2013年4月号の特集1「終わりなき原発災害ー3・11から2年」に接した。全部読んでいないが、その中で、二つの論文を興味深く読んだ。一つは、首都大学東京所属で富岡町からの避難住民の団体「とみおか子ども未来ネットワーク」に関わっている山下祐介執筆の「原発避難問題の忘却は何をもたらすのかー新たな『安全神話』とナショナリズムを問う」である。もう一つは、中国社会科学院文学研究所所属の孫歌が書いた「『ノーマル・パラノイア』と現代社会」である。
ここでは、まず、より包括的に、福島第一原発事故の「忘却」を扱っている孫歌の「『ノーマル・パラノイア』と現代社会」をみていこう。この論文は、2012年7月に執筆され、雑誌「天涯」(2013年)に掲載されたものである。孫歌は、まず、人は、常に、エネルギーの消費を最小限に抑え、無意識の習慣によって形成される反復型の行為を選びがちであるとしている。孫歌は、「ノーマルな感覚を維持するとは、思考や選択をせずに、反復的に、ある種の秩序の中で生活することを意味する」(p154)と指摘している。そして、精神と体力をもっとも節約するために、非常事態の時間をできるかぎり短くすること、非常事態の時間をできるだけ排除すること、それは人類の生命の弁証法だと孫歌は述べている。
しかし、孫歌は、ここで疑問を発する。ノーマルな状態が健康で合理的ならば、自分をノーマルな状態におくことは正常であるが、ノーマルな状態が健康で合理的でないならば、ノーマルな感覚を保持することは、自分を麻痺させる有害なことではないだろうか、と。
そして、孫歌は、3.11によって、日本人は二つのグループにわかれたと指摘している。一つは、個人によってさまざまであるが、危機感の中で生活し、脱原発デモに参加したり、放射性物質の知識を懸命に学んだり、被災者を支援するなどの多様な行動に身を投じた人びとである。もう一つは、それなりに対策は講じてはいたが、福島原発事故以前の感覚と秩序の中で生活し、以前の生活に回帰しようとしている人びとである。孫歌は、前者の人びとが生まれたことを日本社会が部分的にでも変わったことを示していると評価しつつも、後者の人びとが多数であると言っている。
孫歌は、ノーマルな状態への回帰は人類の自己防衛本能であるが、3.11のような後遺症を除去しがたい事件が発生した場合、それは、
危機的な真実の状態を、虚偽の「ノーマル」で覆い隠す危険性をはらんでいないだろうか? 「ノーマル」に対するパラノイアに近い依存と執着は、眼前に突きつけられた危機から目をそらされる。生活を日々繰り返し、続けられさえすれば、たとえ危機が存在していても、人は相変わらずもとどおり生活できる。もとはエネルギーの消耗を抑えるためだった生命の本能が、社会生活の中で、後先を考えず目先の渇きをいやす惰性のメカニズムに転化しうる。(p156)
ではないかと主張している。そして、この問題は、経産省前テントひろばの人びとが議論していた問題であるとしつつ、「日本の民衆の迅速な回復への欲求には、心理学で言うところの『ノーマル・パラノイア』が示されているのではなかろうか?」(p156)と孫歌は述べている。
孫歌は、人類は通常、危機を通じてしか、自己と社会の真の姿を省察できないとし、日本社会は、3.11という巨大な危機において、真の社会構造形態を露にしたという。それは、次のようなものである。
このとき、日本人はほんとうの意味で知った。彼らが信用してきた政府と行政システムは、この重大な危機に当たって、普通の日本の民衆を守ること、とくに危険な地域にいる福島の住民、なかでも児童の安全を守ることを考えないで、いかにしてすばやく秩序を回復するかばかり考え、そのため真相の隠蔽をいとわないことを。(p157)
このような「真の社会構造形態」が危機の時に露呈されたのであり、脱原発デモなどの日本社会の変化に帰着した。しかし、いまだ「沈黙の大多数」によって秩序は整然として存在していると孫歌は指摘している。孫歌は、非常事態を維持するという要求はできないとしながらも、「人類は、ノーマルな状態によってではなく、危機を通じて、学び、調整することである。危機をチャンスに、とはこのことである」(p158)と主張しているのである。
そして、現実には、「福島」が提起した問題が隠蔽されていく中で、釣魚島/尖閣諸島の主権をめぐる争いが過熱し、日本社会はまた、新たな危機に直面したことを、沖縄における運動を評価しながら、この論文の中で縷々述べている。この問題については、別の機会にみてみたいと思う。
さらに、孫歌はノーマル・パラノイアの様々な形態を提示している。もっとも直接的なノーマル・パラノイアとして、現状を変えることを望まないがゆえに、そのような可能性のある情報を受け入れないことをあげている。さらに、非直接的なものとして、ノーマルが打ち破られたとき、できる限りノーマルな感覚に基づいて、危機の中で「ノーマル」を築くことを孫歌はあげている。孫歌は次のように言っている。
そしてすべて元どおり、今までの生活を続ける。依然として不安は感じているものの、できるかぎり不安を見ないようにする。情報が爆発し、誘惑にあふれる現代社会において、「健忘」は普遍的な習慣である。注意をそらすことができ、危機意識からくる焦慮を緩和することもできる。「ノーマル」に対するパラノイアのおかげで、平常な心境で非常な現実を生きることができ、しかも何の矛盾も感じなくてすむ。(p161)
加えて、孫歌は、「常識」への依拠をノーマル・パラノイアの隠された形態とし、「日本政府は常識に依拠して、放射能漏れに大きな危害はないという虚像を作り上げた。多くの日本人は信じることを選んだ。なぜならば、その選択は自分の『常識』を壊さなくてすみ、慣れ親しんだ生活のやり方を変えなくてすむからである」(p162)と述べている。
最後に、孫歌は、3.11以後、放射能汚染から島嶼の主権争いまで一つの問題が解決しないまま別の問題に取って代わられながら、世論はそれぞれの問題に熱狂してきたとし、「こうした、まやかしの危機意識に満足し、自己の責任感を欠いた状態は、もっとも隠蔽された『ノーマル・パラノイア』であると言うべきである。世論が作り出し続けるホットな話題に執着し、その執着を『ノーマル』にしている」(p163)と指摘している。
そして、本論文の終わりで、孫歌は、ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」を典拠にしながら、こう述べている。
歴史はいつも危機の瞬間にほんとうの姿を立ち現す。心に充分な力を持っていなければ、その瞬間をとらえて歴史に分け入ることはできない。そうしたら、歴史家は歴史とすれ違うことになるだろう。
私たちはまさにこのような危機が飽和しつつある歴史的瞬間にいる。それをとらえ、効果的に歴史に分け入ることができるかどうか、それは私たちがノーマル・パラノイアの精神構造と習慣を克服できるか否かにかかっている。今日、それは歴史家だけの課題ではない。いたるところに危機が潜伏する時代において、それは思考を引き受けるすべての個人に突きつけられている。まやかしの認識の自己複製を極力避け、私たちの生存状態そのものを変革すること。それは私たち誰もが逃れられない責任なのだ。(p164)
孫歌は、「ノーマル」な状態への回帰を望むことは、人類の自己保存本能だといっている。しかし、「ノーマル」な状態が「健康的・合理的」なものでなかったならば、それへの執着は、危機感を麻痺させるといっているのである。
翻って、現状を考えてみるならば、福島第一原発事故を引き起こした「ノーマル」な状態が、「健康的・合理的」なものといえるだろうか。福島第一原発事故は、そのことをあきらかにしているのでないか。そして、今までの「ノーマル」状態への回帰を望むがゆえに、不都合なものはみないようになってきているのではなかろうか。
ある意味では、早期の「復興」は必要なものであろう。しかし、孫歌のいうように、福島第一原発事故に早期の復興などありうるのだろうか。それは、福島第一原発のもたらした深刻な被害を「ないもの」としてしか考えられないのではなかろうか。冒頭、私が縷々述べた、福島第一原発事故の「忘却」は、ここに起因していると思われる。まさに、孫歌が「ノーマル・パラノイア」と指摘する状況がそこにはあるといえよう。
孫歌が、こういう危機によってこそ、体制の真の姿が露にされると述べているが、これは正当なことである。福島第一原発事故があって、それにより、福島第一原発が存立していた「ノーマル」な社会秩序が健康的でも合理的でもないことがあきらかになったといえよう。
それでも、この「ノーマル」への回帰を望む意識は強いといえる。孫歌が執筆した時期よりもあとになるが、このような「ノーマル・パラノイア」が、2012年末の自民党政権への回帰の一因にあったと思われる。そして、さらに、福島第一原発事故への「無関心」を呼び起こしているのであるといえよう。