前回、2018年11月1日に豊洲市場を訪れたことを記した。同日、「市場前」駅でゆりかもめに乗り、築地場外市場に向かった。ゆりかもめから見ると、隅田川の豊洲側では、空虚な印象を与える広大な埋立地の中に、やたら近未来的な建築物が立っているという状況で、未来都市ー豊洲市場とそれほどかわらない。とにかく、歩いて生活できる場所ではない。たぶん、2020年の東京オリンピックの際には、この土地も使われるのだろうが、外国から来ている人々に対して、いまだ20世紀後半の「未来の夢」に耽溺している21世紀の東京の意識状況をみせつけるようで、何だか気恥ずかしかった。まあ、この点については、別途調べてみたいと思う。
隅田川を渡って、築地側に入ると、近現代的な超高層ビルが林立してはいたが、それぞれの建物は比較的近接しており、豊洲と比較すれば、一応、「街」という感じはした。もちろん、日照権などの問題はあるだろうが、そもそも存在した街の構造が影響しているのであろう。この街の一角に、築地市場は存在してきたし、築地場外市場は現存している。
築地市場の解体作業は始まっていた。築地市場の解体は、建物調査もせずに拙速に行われており、このことへの抗議活動が進められている。このことについては、また別の機会にふれておきたい。
築地場外市場は、築地市場の隣にある。築地場外市場は、卸売市場ではなく、小売店や飲食店からなる、通常の商店街である。築地場外市場のサイトには、このように築地場外市場の歴史が綴られている。
現在、場外市場と呼ばれる地域(現:食のまちづくり協議会)は、異なる歴史的背景を持つ3つのエリアから成り立っています。1つは、築地六丁目南町会と海幸会(かいこうかい)のエリア(波除神社前から旧小田原橋)で、江戸時代の地図には南小田原町一丁目と記され、築地埋立て以来の町家だったといわれています。2つは、築地場外市場商店街振興組合のエリアで、本願寺の境内にあって本寺に付属する地中子院(小寺)58ヶ寺が集う寺町でした。3つは、共栄会を含む築地4丁目の西側のエリアで、明治維新で上地されるまでは武家屋敷でした。
町家と寺町と武家屋敷・・・この3つの地域が、大正12年の関東大震災後で全焼し、隣接する海軍用地に築地本場が開場したのを機に、場外市場が自然形成されていきました。当時、人々は暮らしながら商いを営み、市場でありながら、銭湯・床屋もあれば子どもらの賑やかな声も聞こえる町でした。やがて第二次世界大戦の敗色が濃くなり、食品は価格統制され、疎開する家族も多く、東京大空襲による全焼こそ免れましたが、戦争は町に暗い影を落としました。
戦渦を免れたこの町の復興は早く、戦後は繁栄の一途を辿ります。やがて、場外になだれ込むヤミ屋の横行に対抗する手だてとして、本願寺寺町跡地の商店主達は、昭和20年、築地共和会という商店会を作り、自治に乗り出します。この会が、平成5年に法人格を得て設立される築地場外市場商店街(振)の前身です。昭和23年、築地6丁目南の商店の有志は海幸会を結成、当初は気楽な無尽の集まりでしたが、時代の変遷とともに商業団体としての結束を強くします。戦後、築地4丁目交差点角の林医院の建物を買取り、営業をスタートさせた30数店舗は共栄商業協同組合を結成し、昭和63年には現在の共栄会ビルを建てました。
このように、築地に各々の歴史を刻んできた築地4丁目町会・築地6丁目南町会・築地場外市場商店街(振)・共栄商業協同組合・海幸会(かいこうかい)の5団体が集い、平成18年「築地食のまちづくり協議会」を発足させました。ともに手を携えて未来の場外市場の発展を目指すためです。http://www.tsukiji.or.jp/know/history/popup/history_records10.html
このように、築地場外市場は、近世では、築地本願寺の寺町、通常の町人地、武家屋敷跡地の3つのエリアからなっていた。関東大震災以後、築地市場が移転し、その隣のこれらのエリアに築地場外市場が自然発生的に形成されたということである。この地域は第二次世界大戦による空襲をまぬがれたのであったが、焼け残ったこの地域にヤミ屋が流入し、そのことに対抗して、地元の商業団体が結成されたということである。興味深いことに、築地場外市場のサイトにあるように、地元の商業団体は、近世以来の3つのエリアを基盤として形成されたのである。
11月1日、築地場外市場は賑わっていた。閑散とする豊洲とは対照的である。
ここでは、一般の人々が水産・青果などを買い求めるとともに、かなり多くの外国人観光客が集まっていた。この築地場外市場は、単に、そこにどんな店が営業しているということだけが魅力ではない。人々が賑わいを感じる近接した街路空間という要素も魅力になっていると思われる。広々した街路は寒々しさを感じるが、狭い街路には、人々に温もりを感じさせるのである。
この中には、建物の中を貫く抜け道もあり、そこにも店舗が営業していた。吉祥寺の「ハモニカ横丁」を思わせる。
なお、築地場外市場内に、築地本願寺の子院の円正寺が現存している。この寺は、関東大震災後に改築された。銅板葺きは、関東大震災直後の防火建築の証である。寺町であったことがよくわかる。
また、築地場外市場の一角にある波除神社では酉の市が行われ、熊手が売られていた。ここにも多くの人々が集まっていた。
この築地場外市場からは、築地本願寺が遠望できる。下記の写真の奥にみられる尖塔は、西欧の寺院建築を模した築地本願寺の一部である。これもまた、この地域が寺町であったことを示しているといえよう。
このように、築地場外市場は、「街」の一角において、それぞれの場所の歴史的記憶を前提にしながら、自然発生的に成立してきた。それは、機械ではなく、人間の空間である。豊洲では、商業観光施設としての「千客万来施設」の建設が予定されているが、それが実現したところで、あの機械的な空間のなかで、どれほど人々の賑わいを呼び込めることができるのであろうか。よしんば、それができたところで、豊洲が築地に追いつくには、築地市場が移転してきてから現在にいたるまで以上の歴史的時間が必要となるだろう。
その意味で、築地市場の豊洲への移転は、現実の人々の賑わいを無視した愚行にみえるのである。