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Archive for the ‘チェルノブイリ事故’ Category

さて、前回のブログで、ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックの『危険社会ー新しい近代への道』について部分的に紹介した。今回は、ベックの「危険」=「リスク」という概念について説明しておこう。

本書の翻訳者の一人である東廉は、本書の原題”RISIKOGESELLSCHAFT”の中の”Risiko”を英語の”Risk”にあたるものとしている。つまりは、『危険社会』とは「リスク社会」ということがいえるであろう。そして、東は、”Risk”を「誰かに何か(損害・不利益)を起こる可能性」としつつ、さらに「近代化と文明の発展に伴う危険」としている。(本書p.p462-463)

ベックによれば、現代社会における「危険」=「リスク」とは、近代化によって生み出された科学と産業の副産物としての環境破壊をさす。この環境破壊は、もちろん放射性物質から始まって、有害な工業廃棄物、農薬、大気汚染、酸性雨などが含まれている。このような科学と産業によって自然が作り替えられることによって、人びとの生活が危機に瀕している社会を「危険社会」とよんでいるのである。

しかしながら、ここから問題が発生する。環境破壊における「危険」=リスクは、少なくとも初期においては、目に見えるものではない。ベックは、このように言っている。

放射線や化学物質による汚染、食物汚染、文明病などといった新しいタイプの危険は多くの場合人間の知覚能力では直接には全く認識できない。それらは、しばしば被害者には見ることもできなければ感じとることもできない危険である。当人の存命中には全く気づかれず、子孫の代になってその弊害が顕著となる場合もある。この種の危険が一段と目立っている。いずれにせよ、危険を危険として、「視覚化」し認識するためには、理論、実験、測定器具などの科学的な「知覚器官」が必要である。(本書p.p35-36)

ある意味で、科学的な測定により、目に見えない放射性物質などを認識することが必要なのである。ベックは、それだけでは「危険」を承認することはできないとしている。まず、ベックは「危険であると言明するためには、事実だけでは十分ではない。それが近代的な工業生産方法の結果として生じた副産物であるという因果関係の確定が必要である」(本書p36)と述べている。さらに、ベックは、次のように主張している。

 

社会的に分離されている個々の現象の因果関係を決定しただけでは、危険であるというには十分ではない。身をもって危険を感じとるためには、安全性や信頼性が失われたという意味での規範的な見方が前提として必要である。危険が数値や数式の形で提示されても、その内容は基本的に個々人の規範的な見方次第で大きく違う。つまり生きるに値する生活への侵害が、数値や数式に圧縮され表現されているのである。そこで、危険の存在自体を信じることが必要となる。危険そのものは数値や数式の形では、身をもって感じることはできないからである。(本書p.p37-38)

そして、ベックは、次のように論じている。

そして、どのように生きたいのか、という古くて新しいテーマが浮上してくる。つまりわれわれが守らなくてはならない人間のうちの人間的なるものとは何か、自然のうちの自然なるものとは何なのかという問題といってよい。「破局的事件」の可能性をいろいろ語るということは、この種の近代化の進展を望まないという規範的な判断を、極端な形で述べることに他ならない。(本書p38)

いわば、危険ーリスクを承認するにあたっては、まずは測定し因果関係を確定するという意味での科学的認識とともに、そのような危険性に脅かされた生活は望まないという規範的価値観が必要であるとしているのである。

このように「危険」の認識には「科学」は不可欠である。しかし、実際に存在している「科学」は、放射性物質その他の有害な副産物を自ら生み出したものである。そこで、「科学的な合理性」と「社会的な合理性」の対立ということが生じてくる。このことをベックは、原子炉の問題を事例にして論じている。

危険についての科学的研究がこのように他分野の研究とかかわっている。この事実は、科学が合理性を独占しようとしている領域でいずれ明るみに出されよう。そしてそれは対立を引き起こすだろう。例えば、原子炉の安全性に関する研究は、事故を想定してはいるが、その研究対象を、数量化し表現することが可能なある特定の危険を推定することだけに限定している。そしてそこでは、推定された危険の規模は研究を開始した時点から既に技術的な処理能力に制約されてしまっている。これに対し、住民の大半や原発反対者が問題にするのは、大災害をもたらすかもしれない核エネルギーの潜在能力そのものである。目下事故の確率が極めて低いと考えられていても、一つの事故がすなわち破滅を意味すると考えられる場合には、その危険性は高すぎる。さらに、科学者が研究の対象としなかった危険の性質が大衆にとっては問題なのである。例えば、核兵器の拡散、人的なミスと安全性との矛盾、事故の影響の持続性、技術的決定の不可逆性などであり、これらはわれわれの子孫の生命をもてあそぶものである。言い換えるならばこうである。危険をめぐる討論のなかで浮き彫りにされるのは、文明に伴う危険に潜在する、科学的な合理性と社会的な合理性との対立なのである。(本書p.p40-41)

このように、「危険」=「リスク」を承認することは、複雑な問題を抱えている。「危険」=リスクは、近代の科学技術が生み出したものであるが、それを承認するためには「科学技術」によるしかない。しかし、そのことは、近代の科学技術の根本的基礎を疑うことになるのである。

なお、ベックの『危険社会』で環境破壊を扱った部分においては、科学技術が全面におかれて批判されているが、ベックは「危険を生産しておきながら、それを正しく認識できない大きな理由は、科学技術の合理性が『経済しか見ない単眼構造』にあるからである」(本書p94)としており、科学の背後にある経済もまた批判すべきものとしているといえるだろう。

この「科学的な合理性」と「社会的な合理性」の対立の諸相については、次回以降言及していきたい。

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ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックは、チェルノブイリ事故直後の1986年5月、『危険社会ー新しい近代への道』(法政大学出版局、1998年、原著は1986年)の中でこのように言っている。

このように、原子力時代の危険が有する原動力は境界を消滅させる。それは、汚染の程度にも、またその汚染の影響がどのようなものかということとも関係ない。むしろその逆である。原子力時代の危険は全面的かつ致命的なものである。いわば、あらゆる関係者が必ず死刑執行台へと送りこまれるのである。原子力汚染の危険性を告白することは、地域、国家、あるいは大陸の全域において逃げ道が断たれたという告白に他ならない。こうした危険のもつ宿命的特質は衝撃的である。(本書p.p1-2)

ベックは、放射性物質を含む有毒物質による汚染が当局の基準からみても進行したとしても、当局は呼吸したり飲食したりすることを禁止できないし、大陸全体を封鎖することはできないと指摘する。ベックは、このようなことを「『他者』の終焉」と表現する。ベックは「この危険の有する影響力は、現代における保護区や人間同士の間の区別を一切解消してしまう」(本書p1)と述べている。

ベックは、いわば「貧困」によって、放射性物質を含む有毒物質などによる近代化によって作り出された危険を蒙る程度が変わってくることは認めている。ベックは、住居、職種、飲食物、教育を選択する余地のない下層階級のほうが、より危険を蒙るであろうと指摘している。しかし、ベックは、このように述べている。

…一目瞭然なのは、誰もが吸っている空気の中の有毒成分の前では、階層を隔てていた障壁など霧散してしまうという事実である。このような状況下で実際に効果があるのは、食わざる、飲まざる、吸わざるだけだろう…近代化に伴う危険性の拡大によって、自然、健康、食生活などが脅かされることで、社会的な格差や区別は相対的なものになる。このことから、さらに、さまざまな結論が導き出される。とはいえ、客観的に見て、危険は、それが及ぶ範囲内で平等に作用し、その影響を受ける人々が平等化する。危険のもつ新しいタイプの政治的な力は、まさにここにある。(本書p51)

このような関係は、国際的な規模でも生じているとベックはいう。ベックは、まず、このように指摘している。

危険な産業は労働力の安価な国々へ疎開している。これは単なる偶然の成り行きではない。極度の貧困と極度の危険との間には構造的な「引力」が働いているのである。…このことは、働き口のない地方の人々が、職場を生み出す「新しい」テクノロジーに対して、「かなり許容度が高い」ことを証明している。(本書p59)

しかし、ベックは、このように主張している。

貧困の場合と異なって、危険がもたらす悲惨さは、第三世界のみならず豊かな諸国にも波及する。危険の増大は世界と小さくし、世界をして危険を共有する一つの社会に変えてしまう。ブーメラン効果が富める国々にも影響を及ぼすのである。これらの先進工業国は、危険性の高い工業を発展途上国に移転させることで危険を遠ざけたが、一方食料品をこれらの諸国から安く輸入している。輸出された農薬は、果物、カカオ豆、飼料、紅茶などに含まれて、輸出した先進工業国へ戻ってくる。ここに見られるように周辺諸国の貧しく悲惨な地域が、豊かな工場地帯の入り口まで押し寄せてきているのである。(本書p.p65-66)

ベックは、このような、いわば、階級・地域をこえた近代化によって生じた危険の共有は、最終的には「世界社会というユートピア」に行き着くことを必要とすると論じている。

…危険社会の発展の原動力は多くの境界を無にするものである。そして同時に底辺民主主義的なものでもある。このようなスケールの大きさから人類は皆同一の文明の危機に曝されるのである。
 この限りで、危険社会には対立やコンセンサスの新しい源泉があると見ることができる。危険社会の課題は、困窮の克服にあるのではなく、危険の克服に置かれる。…危険社会では客観的にみて「危険が共有されている」ので、最終的には世界社会というカテゴリーでしか危険状況に対処しえない。文明自体に潜在する危険が近代化の過程で増大することによって、世界社会というユートピアが一段と現実的になっている。少なくとも、そのようなユートピアを実現することが急を要する事態となっている。(本書p.p71-72)

本書全体は、チェルノブイリ事故前に書かれたものであるが、まるで、福島第一原発事故後の状況を予言しているかのようにみえる。福島第一原発事故の最も大きな被害は、原発が立地している福島県浜通りが蒙ったといえる。そして、原発事故後の対応により大量の被ばくを蒙らなくてはならないのは、原発労働者たちである。しかし、被害者は、地元地域だけではない。直接原発とは関わらない飯館村なども避難を余儀なくされた。そして、また、福島市や郡山市などの福島県中通りも放射性物質による多大な汚染を蒙った。そればかりではなく、首都圏などにも放射性物質の汚染は及んだ。さらに、食品などについては、日本全体から日本製品が輸出される世界各地域に汚染は及んでいる。加えて、福島第一原発事故において放射性物質は大気中・海中にも放出され、少なくとも東アジアもしくは環太平洋地域が汚染されたといえる。

つまりは、福島第一原発事故は、福島もしくは日本一国の問題ではない。この問題においては、「他者」はおらず、すべてが「当事者」であるといえるのである。例えば、2011年の脱原発デモがさかんに行われる契機となったのは、首都東京の人びとの運動であるといえるのであるが、それは、このようなことを背景にしているといえる。

といっても、いまだに、福島第一原発事故について、私たちは「分断状況」にある。このことを、まず、ベックの「危険」=リスクという概念を使って、今後検討していきたいと考えている。

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以前、本ブログで、チェルノブイリ事故(1986年)に直面した共産党の人びとが、政府の進める原発建設政策に個別の問題では反対しつつ、原発自体は認める姿勢をもっていたこと、そして、反原発の立場をとっていた日本社会党系の原水禁の人びとの対抗から、原発批判を強めていた広瀬隆に批判的になっていったことを述べた。

日本共産党の影響力の強かった科学者の団体である日本科学者会議も、共産党同様微妙な位置にあった。日本科学者会議の会員たちの一部は、日本各地の反原発運動を担っており、その機関誌である『日本の科学者』には、反原発運動への参加が語られている。他方で、日本科学者会議もまた、広瀬隆批判を行うようになった。

1988年5月22日、日本科学者会議は、東京の学士会分館で、「原子力をめぐる最近の諸問題」というシンポジウムを開催した。このシンポジウムでは、①広瀬隆『危険な話』は危険な本、②「非核」と「反原発」の違いは……、③新日米原子力協定をめぐる諸問題という三つがテーマとなった。①については、原沢進(立教大学)と野口邦和(日本大学)が報告した。このシンポジウムで、原沢は、広瀬隆の『東京に原発を』『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』などを分析し、「きわめて恣意的な引用などに基づく推定や結論でちりばめられており、科学的な検討に値するものは一つもない」(「科学者つうしん」、『日本の科学者』第23号第8号、1988年8月、p57)と結論づけた。また、野口は、「原発推進者を事実上免罪する『危険な話』の危険な結論、自然科学的な間違い、広瀬隆氏の用いている手法の矛盾点などを詳細に分析し、きわめてデタラメかつ危険な書物であると指摘」(同上)した。

このシンポジウムの野口報告は、『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に「広瀬隆『危険な話』の危険なウソ」と題されて掲載された。『文化評論』の本号には、本ブログで前述した、共産党の人びとによる「座談会・自民党政府の原発政策批判」もまた掲載されている。この座談会とあいまって、野口のこの報告は、共産党系の人びとによる広瀬隆への批判的な姿勢を強く印象づけるものとなったといえよう。

他方、野口の報告は、反共産党系な論調をもつ『文藝春秋』1988年8月号にも「デタラメだらけの広瀬隆『危険な話』」と題して掲載されている。『文化評論』掲載ヴァージョンと『文藝春秋』ヴァージョンは全く同じものではない。多くの文章が使い回されているが、構成は異なる。『文藝春秋』ヴァージョンのほうは、省略された部分が多い。そして、どの部分が省略されたのかということが問題なのだが、それは後述しよう。

ここでは『文化評論』ヴァージョン(文化評論版と略述する)をまずみていこう。ここで、野口邦和が日本大学の助手であったこと、専門が放射化学であったことがわかる。つまりは、専門家なのである。野口は、広瀬隆の「真の問題は、愚かな原子力関係者にあるのではなく、その先兵をつとめるジャーナリズムと知識人にあるのです」(広瀬隆『危険な話』p284)と述べているところをひいて、「つまり、ここには無謀な原発の大規模開発計画を推進する原発推進者を事実上免罪し、国民の批判の目をジャーナリズムと知識人に集中させることに躍起になっている広瀬隆氏の姿が見えるのではないか。これを危険と呼ばないで何と呼ぼうか」(文化評論版p115)と批判している。たぶん、広瀬の真意とかみ合っていないのであるが、それはそれとしておくとして、野口の広瀬に対する批判の眼目は、たぶんに「ジャーナリズムと知識人」を広瀬が攻撃していることにあるといえる。

ある意味で、野口が、共産党の人びとと同じ立場にたっていたといえる。野口は、自分自身の原発に対する姿勢について、原子力の平和利用に反対しないが、現状の原発の安全性には問題があるので、原発増設はやめるべきであり、既存の原発の運転も最低限にすべきと思っていると述べている。大きくいえば、「座談会・自民党政府の原発政策批判」で表明された、共産党の原発政策の枠内にあるといえる。そして、また、「多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している」(『危険な話』p137)という部分を引用して、「私の周囲にいる決して多くはないが、『反核運動に情熱を燃やし』ている人々は、『大部分が原子力発電を放任してい』ない。核兵器の廃絶と原発反対の課題とを対立させることはなく、非常に熱心に活動している」(文化評論版p138)と述べ、広瀬の先の主張は全然間違っていると断言した。この論理も、先の「座談会・自民党政府の原発政策批判」に出てきたものである。

しかし、野口の批判は、共産党の人びとの「座談会・自民党政府の原発政策批判」における批判よりも過激なものになっている。座談会では、広瀬への名指しの批判はさけている。また「座談会」での広瀬らへの批判の中心は、核兵器廃絶よりも原発撤廃を優先させているようにみえることにあり、広瀬の主張の妥当性については、端々で批判的な言辞がちらつくものの、正面から批判していたわけではない。野口の批判は、広瀬隆の主張を「ウソ」と判定することが中心であり、ある意味では政策的な違いに還元できる共産党の人びとの批判より辛辣なものであるといえる。

『文化評論』に掲載された野口の論考は、最初から最後まで、広瀬隆の『危険な話』の各部分を「ウソ」と断じることから成り立っている。正直いって、よくあきもせず批判できるものだなと思う。その中で、特に、重要なことは、チェルノブイリ事故後に出されたソ連の事故報告書を信頼して、チェルノブイリ事故を語ることができるかどうかということである。広瀬は、徹頭徹尾、ソ連の報告書は全世界的に原発を推進しているIAEAによって書かされたものであり、それに依拠して事故を論じることこそIAEAの思うつぼであるとして、断片的に伝えられた新聞報道から、事故の実態を推測するという手法をとっている。しかし、野口は、その問いには答えようとせず、「私が『ソ連の報告書』によって基づいてお教えしよう」(文化評論版p121)と、ソ連の報告書に全面的に依拠して広瀬に反駁している。あまつさえ、「もう少し『ソ連の報告書』をちゃんと読みなさい、広瀬さん」(同上p122)と説教までするのだ。

本ブログで、広瀬隆について述べたが、その際「科学史家の吉岡斉は『新版 原子力の社会史』(2011年)の中で、広瀬の指摘を先見の明のあふれるものとし、現在まで基本的に反証されていないものとしている。」と指摘した。吉岡は、さらに、野口邦和の批判について、次のように述べている。

そこには広瀬の文章のなかに少なからず含まれる単純化のための不正確な記述に対する執拗な攻撃がくり返されている。しかし野口の最も基本的な主張は、ソ連報告書をフィクションと断定する広瀬の主張は、広瀬自身がソ連報告書を反証するだけの解析結果を示さない限り、説得力がないという主張であった。つまり野口は事実上、ソ連報告書の内容の全面的な擁護をおこなったのである。ソ連政府による事故情報独占体制のもとで、広瀬がソ連政府の公式見解を反証する解析結果を示すことが不可能であることを承知のうえで、野口はソ連政府を全面的に擁護したのである。(『新版 原子力の社会史』p227〜228)

吉岡の主張は、野口への批判として、極めて要を得たものといえる。今の時点で付け加えさせてもらえば、今回の福島第一原発事故に関して、いかに政府の「公式見解」は、事態の隠蔽に奔走するものであることが了解できた。その意味で、吉岡の発言はより重く感じさせられたのである。

野口の批判は多岐にわたるが、ここでは、放射性ヨウ素と甲状腺障害との因果関係についての広瀬の文章を、野口が批判している部分をここではみておこう。野口は「 」において広瀬の文章を引用した上で、その何倍にもわたる量の批判を書いている。

③「㋐南太平洋のビキニ海域で核実験がおこなわれ、その一帯に住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている。㋑この住民を追跡してきた写真家の豊崎博光さんと先日会って話を聞いたのですが、この人たちがヨード剤を飲んでいたというのです。㋒危険な(放射性)ヨウ素を体内に取りこむ前に、ヨード剤を飲んで体のなかをヨウ素で一杯にしておけば、危険なものは入りこみにくい、という原理ですね。㋓ところが、それが効かなかった。㋔つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生す(ママ)。㋕もうすでに、兆候は出はじめているでしょう」(六〇~六一頁、㋐~㋕に記号と括弧内の挿入は私)
先ず、㋐の文章であるが、ウソである。甲状腺被曝により発生し得る疾病は甲状腺ガンおよび甲状腺結節である。一九七七年国連科学委員会報告書『放射線の線源と影響』(アイ・エス・ユー社)によると、被曝したマーシャル諸島の住民(ビキニ海域一帯の島の住民のこと)二百四十三人のうち七人から甲状腺ガンが発生している。甲状腺結節のデータはここには掲載されていないが、この数倍はあると思う。つまり大雑把に見積って、合計すると二百四十三人中三十~四十人から甲状腺ガンまたは甲状腺結節が発生していることになる。被曝したマーシャル諸島の住民の何と八分の一~六分の一が甲状腺ガンまたは甲状腺結節を患っているのである。これだけでも実は大変な状況なのである。しかし、一九七七年以降の甲状腺ガンまたは甲状腺結節の発生数について私は知らないが、それらを加えても「住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている」と言えないことは確かである。広瀬隆さん、それなのになぜあなたは「住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている」などと、すぐに分かるウソをつくのか。あなたのようなウソなど全然つかなくとも、被曝したマーシャル諸島の住民が大変深刻な状況にあることは容易に想像できることなのである。すぐに分かるウソではなく、被曝したマーシャル諸島の住民の状況をあるがままに伝えることのほうがずっとずっと大切なことであると思う。
(中略)
 ㋔の文章、「つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生する」中の「甲状腺ガンがすさまじい勢いで発生する」は、文学的表現であろうか。文学的表現であるならば、私としてはノーコメントである。何も言うことはない。しかし「稀にみる真実」であると主張するのであれば、このように情緒的な表現だけを用いるのは間違いの元で、避けるべきであると思う。チェルノブイリやヨーロッパの子どもたちの甲状腺の推定被曝線量はどのくらいか、将来発生し得る甲状腺ガン患者数(または死亡者数)はどの程度かを明記すべきである。さらに、自然発生甲状腺ガンの発生者数(または死亡者数)が分かるのであれば、それも付け加えるとなお一層よい。その上で、「甲状腺ガンがすさまじい勢いで発生する」と言いたければ、そう言えばよいと思う。私は常にそうするようにしている。
 ㋕の「もうすでに、兆候が出はじめているでしょう」も間違いである。ロザリー・バーテル女史の「放射能毒性事典」(技術と人間社)によると、甲状腺ガンおよび甲状腺結節の潜伏期はともに十年である。ただしバーテル女史によると、良性の腫瘍の場合には十年の潜伏期を経ずに発生することもあり得るという。いずれにしても、『危険な話』の第一刷が発行されたのはチェルノブイリ原発事故から一年しか経過していない一九八七年四月のことであり、それ以前から広瀬さんは「(甲状腺ガン)の兆候は出はじめている」(括弧内の挿入は私)とあっちこっちで講演して回っているわけだから、完全なウソ、作り話である。なお、先程の㋐のところに触れたことに関係するが、甲状腺結節は甲状腺ガンより三倍発生率が高いとバーテル女史は評価していることを、参考までに指摘しておく(文化評論』版、p142~144)

最初のほうは、大気中核実験が行われたマーシャル諸島の住民における甲状腺障害の問題である。広瀬はビキニ海域の住民に限定して「住民のほとんどが甲状腺障害をもっている」と語り、野口はより広範囲のマーシャル諸島全体を対象にした報告書から引用している。まずは、たぶん両者は同一のデータからみていないのではないかと推測される。その上、野口も、マーシャル諸島全体の統計でも甲状腺障害が平常よりかなり多いことは認めている。確かに、広瀬が「住民のほとんどに甲状腺障害がある」と主張しているのは誇張といえるかもしれない。ただ、広瀬としては、たぶんに核実験の死の灰による影響をアピールするためのレトリックだったとも思える。核実験の死の灰に起因する甲状腺障害の深刻さは決して「ウソ」とはいえないのだ。野口の批判では、広瀬の主張全体が「ウソ」となる。そして、それは、核実験の死の灰におけるマーシャル諸島の住民の苦しみを見過ごしていくことにつながってしまいかねないのだ。

後段のほうは、チェルノブイリ事故後、ヨーロッパやソ連で甲状腺ガンが子どもたちの間で多く発生するだろうと広瀬が予測している部分についてである。野口は、そのような推定データを広瀬はつけていないし、甲状腺ガンが発生するのは時間がかかるから、広瀬がそのように主張していることは「ウソ」であると断じている。

確かに、広瀬の主張に根拠があるのかといえば、形式的には野口のいう通りともいえる。しかし、現在、私たちは、チェルノブイリ事故後、実際にチェルノブイリ周辺の子どもたちに甲状腺ガンが発生したことを知っている。その意味では、専門家である野口よりも、野口によれば科学的とはいえない広瀬のほうが現実の事態を予見していたともいえる。いずれにしても「ウソ」とはいえないであろう。そして、このことを主張する広瀬を「ウソツキ」と断ずる以前に、とりあえず広瀬の主張を「仮説」としてとらえ、その真偽を自ら実証してみるべきではなかったかと思えるのである。

野口の批判は、これ以外も枚挙の暇がないほど続くのであるが、このあたりでやめておく。野口の広瀬隆批判は、確かに共産党の人びとの広瀬批判に触発されたものであろうと思えるのだが、実は、それとは別個の問題が提起されていると思う。野口の批判は、広瀬隆のジャーナリズムと知識人批判に対して、広瀬の主張総体を「ウソ」と断ずることによってなされる、「学知」の側からの反撃ともいえるのである。『文藝春秋』に掲載された版では、共産党や原水協などの原発政策に関わる部分は削除されているのだが、全体の印象は文化評論版とそれほど変わらない。そのことは、この野口の広瀬批判の眼目が「学知」の側からの反撃というところにあったからだと思われる。

この野口の広瀬批判をどうとらえるか。重要な問題なので、項をあらためて検討することにしたい。

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以前、本ブログにおいて『加藤哲郎氏の報告「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」を聞いてー東日本大震災の歴史的位置』(2011年12月10日)と題して、同日に加藤氏が行った講演につき、戦後の日本共産党が綱領などの政策文書の上では原発を容認していたとするという内容の紹介を行った。

ただ、綱領などの政策文書だけで、日本共産党の総体の原子力政策を論じることは、たぶんに一面的であるとも思う。実際に原発事故に直面した際の状況によって、日本共産党の人びとの行動もまた変わっていったと思われる。その揺れも含めて考えなくてはならないのではないか。

そして、このような共産党の対応は、私自身の意識の問題とも結びついていると思う。私自身は共産党員ではなかったが、ある意味で、私が育ってきた空間は、共産党の人たちと無縁なものではなかった。もしかすると、共産党の人たちを傷つける記述になっているかもしれない。その場合はお詫びしなくてはならない。ただ、私は、こういいたいのだ。私もまた、こういう問題を一部共有していると。私は、なぜ、自分が原発問題を意識しなかったのか、そのことを強く意識している。そのために、ここで、共産党の人たちのことをみてみるのは、その一環である。早い話、3.11以前ならば、このようなことを考えもしなかったのだ。

今回は、1986年のチェルノブイリ事故をうけて『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に掲載された「座談会・自民党政府の原発政策批判」をみておこう。この座談会には、中島篤之助(中央大学教授)、矢島恒夫(日本共産党衆議院議員)、柳町秀一(日本共産党科学技術局)、松橋隆司(「赤旗」科学部長)が参加した。中島は、原子力などを専攻しており、日本原子力研究所に勤務した経験をもち、共産党系の科学者が結成した日本科学者会議で原子力問題研究委員会委員長を当時勤めていた。座談会に出席したのはそのためであるといえる。もとより、この座談会はなんらの強制力もなく、共産党が正式に表明した方針ではない。しかし、逆に、共産党の人びとが、チェルノブイリ事故をめぐって、具体的にどのように認識し、行動しようとしていたのかを考える一つの材料となるだろう。

まず、中島篤之助は、「われわれがかねて言ってきたことですが、原子力発電の技術が決して成熟した技術ではないということを印象づけました」(p59)と指摘した。そして、日本の原子力安全委員会のチェルノブイリ事故調査特別委員会の最終報告書を批判して、次のように述べた。

 

要するに日本ではこういう事故が起きないということを強調することに終始していて、しかもその根拠が、たとえば、炉形が違いますから起きませんとか、あるいは検討はしました、しかしだいじょうぶです、というような調子で一貫している。繰り返し安全性を強調しているのですが、それをまた国民が全然うけつけていないという現実がある、両者の間のギャップが非常に大きい。(p59)

そして、衆議院議員の矢島恒夫も、チェルノブイリ事故については、国会でも取り上げられているが、政府側は「非常に非科学的な答弁しか行っていない」と述べ、「日本政府は、原子力発電を基軸エネルギーとしてやっていくという方針に固執しています」(p60)と指摘した。その他、チェルノブイリ事故における食品汚染問題、国内外での原発事故の続出、莫大な広告料を使っての原発安全PR、苛酷な炉心損傷事故を想定しないがための防災対策の遅れなどが、当時の原発をめぐる問題としてとりあげられた。基本的に、現在の原発においても、同様なことが指摘されているといえよう。

中島篤之助は、原子力発電は未成熟な技術ということについて、軽水炉は炉心溶融事故が起こりやすい不安定な原子炉であり、より安全な「固有安全炉」というものが必要であると指摘している。そして、中島は、「これ以上は軽水炉を増やしていくことはやっぱりよくない。それから既存の原発の古くなっているものは危ない。」(p73)と主張した。

また、原発は、産油国の資源主権論に対抗する先進工業国による「一種の新植民地主義的十字軍」であり、「日本の場合には、アメリカのビッグビジネスの商売の道具になって原発をつくったわけです」(p74)と中島篤之助は発言した。

このように、実際に建設された原発について、日本共産党の人びとは賛成していたわけではなく、むしろ問題点を指摘していたのである。そして、赤旗記者の松橋隆司は、このように指摘している。

日本共産党の不破(哲三…後に議長となる)副議長が、十数年前から、国会で原子力問題について先見的な警告を発しつづけてきたことは、振り返ってみると、いま問題になっているほとんどのことの根本を追及しており、非常に重要な意味をもっていることがわかります。」(p71)

つまりは、すでに共産党は、原発の個々の問題点を国会で追及していたというのである。現実の原発に直面した際、共産党においても、原発批判を行うようになったということができる。

しかしながら、この座談会では、反原発を反核運動の中心とすることに対する警戒感も強く表出されている。日本社会党系の人びとが組織していた原水爆禁止運動の機関である原水禁(原水爆禁止日本国民会議)は、1969年頃より反原発を運動の中にとりいれてきた。そして、共産党と共産党系の人びとが原水爆禁止運動の機関として結成していた原水協(原水爆禁止日本協議会)は、社会党ー原水禁と対抗関係にあった。

この対抗関係を前提にして、この座談会における発言をみていこう。共産党科学技術局の柳町秀一は「いま核兵器廃絶に「原発廃絶」を意識的に対置しようというグループは、その歴史的経過を無視して原発だけを大きく出そうとしているわけですね」(p75)と批判した。その上で、共産党の立場をこのように説明した。

さっきの「核絶対否定」の問題ですが、私たちのところに寄せられる意見や質問にもこの立場からのものが少なくない。共産党も見切りが悪すぎやしないか、いいかげんあきらめたらどうだ、廃棄物を考えたら研究だってだめじゃないかという言い方です。確かに、軍事の落とし子ということでの経済性の無視・安全性の無視を背負った原発が未成熟なまま実用化されている。これへの批判は当然ですが、だからといって、原子力のいっさいの平和利用を否定する見地はとらない。現在の原子力の平和利用の研究開発は、国際的には、核兵器開発にほとんど動員されていて、平和利用の道は、まだ端緒を開いたにすぎない。核兵器を廃絶して国際的英知を集めるのはこれからです。共産党の政策では「構造的に安全な原子炉」の開発をすすめることを強調しています(p76~77)

ある意味では、加藤氏の指摘したように、共産党の全体の政策文書によっていると思われるが、核兵器を廃絶することが原子力の平和利用につながるというロジックなのである。

他方、「反原発運動」は「ラッダイト運動」と同一視されていく。中島篤之助は、IMF条約(中距離核戦力全廃条約、1987年)で廃棄される核兵器からでるプルトニウムは、平和利用・原子力発電で使わないと、他の核兵器に転用される可能性があると指摘した。その上で、中島はこのように主張した。

だから日本の反核運動のなかには、実はプルトニウムをなくすことが核兵器をなくすことだみたいな誤解があるわけですね。プルトニウムがこわい、原発がこわい。だからいわば現代の「反原発運動」は、一種のラッダイト運動みたいなものです。機械ぶちこわしでは何事も変わらない。(p78)

その上で、中島は「ほんとの原子力の平和利用の展望は、核兵器がなくならなければ出てこない」(p78)と宣言したのである。

そして、松橋隆司は、チェルノブイリ事故後の総評・「原水禁」の「被爆四十一周年大会基調」について、このように言及した。

この「基調」には、その具体的な活動のなかには、どこにも核兵器廃絶を正面から要求するものがはいっていないかわりに、冒頭からソ連のチェルノブイリ原発事故を取り上げ、「核戦争の被害に匹敵する」などとのべ、核兵器も原子力発電も「核」ということでひとくくりにし、「核絶対否定」の立場を強く押し出しているのが特徴でした。
 「核絶対否定」論にもとづいた「原発反対」などを原水禁運動の目標に潜り込ませるなら、「原発反対」の立場以外の人は運動から離れざるをえず、運動は著しく切りちぢめたものにならざるをえないのは明らかです。結局、「核絶対否定」論は、核兵器固執勢力を助ける結果になり、客観的には反動的な役割を果たすことになりますね。(p80~81)

そして、その関連で、『東京に原発!』(1981年)、『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(1982年)、『危険な話』(1987年)で、原発や放射性物質の危険性を強く主張していた広瀬隆もまた批判された。松橋隆司は、このように述べた。

また「原発の危険性」という重大な問題を取り上げながら、原子力の平和利用をいっさい否定する立場から、「核兵器より原発が危険」とか、「すでに原発のなかで核戦争が始まっている」といった誇張した議論で、核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる傾向もみられます。(p80)

これは、言及はされていないが、広瀬隆の『危険な話』の一節を批判したものである。その部分をあげておこう。

多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している。奇妙ですね。核兵器のボタンを押すか押さないか、これについては今後、人類に選択の希望が残されている。ところが原子炉のなかでは、すでに数十年前にボタンを押していたことに、私たちは気づかなかったわけです。原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。いまやその容れ物が地球の全土でこわれはじめ、爆発の時代に突入しました。爆発して出てくるものが深刻です。(広瀬『危険な話』p54~55)

広瀬も『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』は、核実験の話を中心としており、広い意味で核兵器廃絶を主張していたといえる。しかしながら、松橋は、広瀬の議論を核兵器廃絶よりも原発廃絶を優先したものとして把握し、その観点から批判したのである。

このように、この当時の共産党は、原発問題について微妙なスタンスをとっていた。共産党は、既存の原発の問題点について確かに厳しく追及していたといえる。実際、日本科学者会議の機関誌である『日本の科学者』には、各地の反原発運動がかなり紹介されている。他方で、「反原発」を反核運動の中心におくということについては、社会党ー原水禁との対抗関係から強く警戒し、まさしく、原子力の平和利用が可能であるという共産党の立場を堅持した。そして、その意味で、原発廃絶を強く訴えていた広瀬隆などの論調を批判するようになったといえる。

そして、『文化評論』の同号には、野口邦和「広瀬隆『危険な話』の危険なウソ」が掲載された。これは、まさしく、「反原発」を反核運動の中心に置くことに対する共産党の人びとの警戒感に端を発しつつ、「学知」の立場で広瀬隆ーひいては「反原発運動」の真偽を「判定」するというものである。このことについては、次回以降検討していきたい。

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ここで、チェルノブイリ事故(1986年)の衝撃を日本社会はどのようにうけとめたのかをみておこう。チェルノブイリ事故においては、原発所在地周辺は住民の居住を許さないほど高濃度の放射性物質による汚染がみられ、その後、周辺住民の中で放射性物質に起因するとみられるガン・白血病が発生したことは、周知の通りである。他方、これは、あまり意識されていないことであるが、チェルノブイリ事故による放射性物質の汚染は、ソ連だけでなく、ヨーロッパを中心に広範囲にみられ(部分的には日本にも及んだ)、放射性物質による汚染に対する恐怖は、ヨーロッパ各国においてもまきおこった。このことについては、以前、本ブログの中でも、田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)に依拠して紹介した。

日本においても、チェルノブイリ事故を契機として、原発の危険性を警戒する声が高まった。このような動きの中心にいたのが、ジャーナリストであった広瀬隆であった。広瀬隆は、チェルノブイリ事故以前から原発や核実験の危険性を警告していた。『東京に原発!』(1981年)においては、過疎地に建設されていた原発を過密地である東京に建設するという想定をしつつ、原発の危険性を訴えた。『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(1982年)では、アメリカ・ネバタ州の原水爆実験場周辺において、ロケにきたハリウッドの俳優や住民においてガンが多発したことをとりあげ、単に核戦争だけではなく、原水爆実験自体も危険性を有していることを主張した。

チェルノブイリ事故直後、広瀬は日本各地で、チェルノブイリ事故にみられる原発の危険性を訴えた講演会活動を精力的に展開した。当時、広瀬隆の講演は広範囲に聞かれており、そのさまは「ヒロセ・タカシ現象」とよばれたとのことである。そして、この講演会活動で話した内容を『危険な話―チェルノブイリと日本の運命』(1987年4月26日、八月書院)という形でまとめた。

ここでは、本書の内容を紹介しながら、本書のもつ原発の危険性への「警告」の意義と、その「警告」を「実証」することの難しさをみていきたい。

本書の最初は、このような形ではじまっている。

御紹介いただきました広瀬です。司会者の方にお言葉を返すようですが、私は作家でも先生でもありません。これは、チェルノブイリの事故についての報道に関係することでもありますので、最初にお断りしておかねばなりません。
私はただ、自分の身を守る、と言うよりむしろ正直に申しあげれば二人の娘の命を守りたいという、父親としての生物本能から、このような所に立っています。ですから、おそらく今日ここに来られた皆さんは、この世ではかなり意識の高い人が集まり、ある人はジャーナリズムに係わり、ある人は環境問題や消費者問題を心配し、ある人は政治的な活動に関係するなど、さまざまな活動をしているのではないかと想像しますが、そのようなことは一切忘れて、今日はすべて過去の知識をいったん白紙に戻して話を聞いてください。
大切なことは運動ではありません。事実を知ることです。たった一人の自分個人に立ち返っていただきたいのです。日本人はすぐに運動をはじめますが、今は、もう運動だとかジャーナリズムだとか、そのような次元を超えた時代、つまり生きるか死ぬかの断崖に人類が立たされているのです。(p8)

ここで、広瀬は、自分を作家でも先生でもなく、二人の娘の命を守りたい父親の立場にたって、この講演を行っているといっているのである。いわば、作家・学者として、聴衆に啓蒙を行うのではなく、放射性物質による汚染を自分の娘のために防がなくてはならないという「当事者」の立場にたっていると宣言しているといえる。そして、聴衆にも、運動の立場なのではなく、「たった一人の自分個人」にたちかえれとよびかけているのである。つまりは、他者のための「運動」ではなく、当事者としての自分個人を自覚せよというのである。

 まず、チェルノブイリ事故について、いろんな意味で情報隠蔽がされていると、広瀬は述べている。それは、日本において、もっともはなはだしいと指摘している。

…いったいソ連でどのような事故が起こったのかということについて、テレビや新聞ではほとんど報道されていない部分があります。実は、重大な事実が秘密にされています。実は、私たちが今食べている食べ物の中に、チェルノブイリからまきちらされました大量の死の灰が現実に入ってきて、それを私たちが食べなければならないという状況が起きております。そのために食べ物を作っている人たちが全世界的に大打撃を受けております。
 それで、この事故をなんとか小さく見せようということで、ジャーナリズムもほとんどそれを報道しないできました。しかし、現実にはもっと怖いことが進行しています。特にこの日本ではジャーナリズムが原発問題ではひじょうに遅れていまして、…ですから日本人ほどほとんど何も知らされていない国民は世界でも珍しい、完全に世界から取り残されている、という状況に置かれているわけです。(p9)

 特に、広瀬は、1986年にソ連が発表したチェルノブイリ事故の報告書の信憑性に疑問を呈している。例えば、この通りだ。

ソ連はいまだに「炉心溶融は起こらなかった」と言っているが、さきほどのソ連のレポートには、「燃料の一部が下の部屋に溶け落ちている」と自分で書いている。ものは言いようですね。(p25)

この本を、福島第一原発事件以前に読んだことはなかった。しかし、今は…。そう、今にいたってもおこっていることなのである。

ソ連の報告書自体を信用しない広瀬は、むしろ、新聞に出ている情報を、彼なりの分析を行うことで、「事実」を把握しようとする。例えば、北欧で非揮発性のルテニウムなどが検出されたという新聞記事を根拠に、金属であるルテニウムの蒸発温度などを手がかりにして、広瀬は、チェルノブイリ事故で、炉心溶融―メルトダウンが起こっていたと結論づける。

わずかひとつの記事、「北欧でルテニウムなどが大量に検出された」という事実から、これだけの壮大な現実が透視できることを、知っておいてください。(p25)

その上で、彼は、チェルノブイリ事故におけるソ連やIAEAの情報操作について、このように指摘している。

ソ連が八月にIAEAに提出したレポートは、どこから解析しても嘘また嘘ですね。なぜこれほど嘘をつかねばならないか。ここで私の意見をひとこと述べさせていただきますが、報告書を書いたのはソ連でなく、IAEAが書かせたに違いありません。
(中略)
すべて嘘なのです。実はそれまで正常だった原子炉がいきなり異常になると、わずか四秒で爆発してしまった。一、二、三、四、ドカン。これでは全世界のいかなる緊急安全装置も爆発を防ぐことができない。アメリカだろうと日本だろうと、再びチェルノブイリと同じ大爆発を起こすという現実が暴露されてしまった。これは全世界の原子力産業にとってきわめて具合が悪い。そこでとんでもない“実験のシナリオ”を作り、「お前はこう言え」とソ連にレポートを書かせた。(p37~41)

そして、その情報操作の結果について、広瀬隆は、このように主張している。

学者の多くが、このレポートを中心に論争をたたかわせています。IAEAの思う壺ではないですか。(p43)

科学史家の吉岡斉は『新版 原子力の社会史』(2011年)の中で、広瀬の指摘を先見の明のあふれるものとし、現在まで基本的に反証されていないものとしている。ここでは、あまりふれないが、広瀬隆の指摘について、ある意味では「学術的な」ソ連の報告書に依拠しない非科学的なものであり「嘘」なのだという批判がなされたことがある。たぶん、私自身ならば、ソ連による「情報操作」それ自体を「実証」する史料が提示されていないと批判するかもしれない。

しかし、広瀬の主張は、少なくとも、合理的な推論もしくは仮説であり、「嘘」とはいえない。そして、すべての史料がその時点で手に入らないならば、その時点で入手可能な史料に基づいて結論をだし、その結論によって行動するということが必要であろう。そして、彼の推論もしくは仮説をふまえつつ、いわゆる専門的研究者は事後的に分析すればよいのではないだろうか。

たぶんに「学術的な」体裁をもつ報告書に依拠して議論するしかない、いわゆる科学者たちの「存在根拠」を、広瀬は厳しく追及しているともいえるのである。

さて、広瀬は、原発の放射性物質による汚染の深刻さをこのように指摘している。

 

チェルノブイリの事故は終った、もうソ連やヨーロッパでは正常な生活に戻っている、と皆さんは思っているでしょう。とんでもない。たった今、ヨーロッパ全土で莫大な数の人たちが、この被害に巻きこまれはじめたところです。食べ物のなかに、たとえば牛肉などにぞくぞくと危険なセシウムが入りはじめ、いよいよ逃げられない所まで大汚染が広がってきたのです。さあ、これから何が起こるでしょう。これについて、過去の悲しい人類の体験から、おそろしい未来を推理することができます。(p10)

 彼にとっては、核戦争という「将来の危機」だけでなく、「原発」による放射性物質の汚染という現実的危機に対応しなくてはならないということを「原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。」という卓抜なレトリックでこのように表現している。

多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している。奇妙ですね。核兵器のボタンを押すか押さないか、これについては今後、人類に選択の希望が残されている。ところが原子炉のなかでは、すでに数十年前にボタンを押していたことに、私たちは気づかなかったわけです。原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。いまやその容れ物が地球の全土でこわれはじめ、爆発の時代に突入しました。爆発して出てくるものが深刻です。(p54~55)

特に、彼は、放射性ヨウ素による甲状腺障害について、ビキニ環礁の事例をあげて説明し、チェルノブイリ事故においても甲状腺がんが多発することを「警告」した。

南太平洋のビキニ海域で核実験がおこなわれ、その一帯に住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている。この住民を追跡してきた写真家の豊崎博光さんと先日会って話を聞いたのですが、この人たちがヨード剤を飲んでいたというのです。危険なヨウ素を体内に取りこむ前に、ヨード剤を飲んで体のなかをヨウ素で一杯にしておけば、危険なものは入りこみにくい、という原理ですね。ところが、それが効かなかった。つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生する。もうすでに、兆候は出はじめているでしょう。(p60~61)

これは、いやなことだが、広瀬の「警告」通りとなった。ヨーロッパ全土ではないにせよ、チェルノブイリ周辺で甲状腺ガンが多発したこと、これは、現在は周知のことである。しかし、以前、本ブログで、児玉龍彦『内部被曝の真実』(2011年)において、そのことを実証するのに20年かかり、それから対処していたのでは患者の役に立てないと指摘していたことを紹介した。このように、広瀬のいう「警告」を「実証」するのは、そう簡単なことではないのである。

特に、彼が強調していたことは、放射性物質の摂取による内部被曝の危険性である。

プルトニウムの出す放射線は遠くまで飛びません。ということは逆にいいますと、近くにある細胞だけに全エネルギーを集中し、完全破壊してここに完全なガン細胞をつくる。これがプルトニウムのおそろしさです。そのガン細胞が幾つかできると、それが知らないうちにだんだん増殖してゆき、もちろんすぐに明日にも肺ガンになるわけではありません。何年かたってこのガン細胞が増殖します。そしてある日気がついたときには肺ガンに襲われて息もできない。しかもその因果関係はとうてい実証できないというような形で苦悶するわけです。まさに当局にとっては、何人殺そうが“安全”な基準ではありませんか。(p64~65)

この内部被曝は、現在、日本にいる多くの人たちが懸念していることである。しかし、ここで、広瀬がいっているように、その多くは「実証」されていない。ある意味では、かなり明確にみえた放射性ヨウ素と甲状腺がんの因果関係ですらも、「実証」するのに20年かかったのである。そして「実証」のないことは、それそのものが存在しないことになってしまうのである。結局、「実証」の欠如は対策の欠如を「正当化」する根拠になっていく。

その上で、広瀬隆は、日本の原発の危険性を強く主張する。「メルトダウンが起こってから、すべての事実に気づき、泣き叫ぶでしょう。」-私たちがいま経験していることである。

日本の技術は世界一、という話が通り相場になっていますが、これは壮大なトリックです。…メルトダウンが起こってから、すべての事実に気づき、泣き叫ぶでしょう。最初に申し上げておきます。日本の原発は、この数年以内に大惨事を起こします。いま最高の技術によって運転されているのではなく、いよいよ部品が寿命に近づき、危険な時代に突入しているのです。私たちが、たまたま生きているにすぎないことを、具体的に証明してみます。(p10~11)

 

彼は、茨城県にある東海原発が爆発したことを想定して、このように書いている。

 

レポートに書かれている“最も平均的な風速―毎秒七メートル”で計算すると、この絵で示したように放射能の雲はわずか五時間で都心の上空に姿を現わし、ガンマ線がすべての物を射抜いて私たちに襲いかかります。
 こうなると、四百万人どころではない。首都圏だけで三千万人。この人たちが全滅です。全滅と言ってもすぐコロリと死ぬわけではありませんよ。(p182)

その時の死の状況も、想像力豊かな筆致で、このように描き出している。

 

こうして私たちは、大事故のときにはどこへも逃げられず、政府の出してくれる安全宣言を耳にし、それを内心で疑いながら、食料は全滅と知りながらそれを口に入れます。腹が減れば、人間は何でも食べます。子どもを飢え死にさせるわけにゆかない。目の前には食べ物がある。危険と知りつつ食卓に並べる。ひと口食べてみる。すると意外なことに、体には何の異状も起こらない。大丈夫ではないか。なんだ、危ないという話は嘘だったのではないか。こうして食べ、やがて壮絶な未来が待ち受け、病室のなかでもがき苦しみながらバタバタと倒れてゆく。
 皆さんは今、これを空想の物語として聞いていらしゃいます。違うのです。これこそ今、ソ連とヨーロッパで実際に起こりつつある出来事なのです。(p184~185)

本書の最後の部分では、原子力開発をすすめた、世界や日本の財閥について分析している。

最後に、そう、これだけ大変な事実がなぜ隠され、誰がマスコミの口封じをしているのか、その裏の世界を暴露します。これがエネルギー問題や平和利用でないことは、人間と金の流れを追えばすぐに分ります。おそるべき無知な人間が、しかも旧軍閥に直結する人間たちが、われわれを地獄に招こうとしている、そのために欺かれてきた現実が見えてくるでしょう。(p11)

広瀬隆の『危険な話』をどのように評価すべきであろうか。私は、いわば自分自身の問題ではない専門家―非当事者たちの言説ではなく、自身も原発の危険性にさらされているという聴衆―いわば民衆一般と同じ運命をもつ当事者の立場に意識的にたつことを前提にした言説として本書を位置づけておきたい。そして、その観点から、合理的な推論によってソ連の報告書などの欺瞞をあばき、被曝の危険性を「警告」したものといえるだろう。

3.11以降、マスコミの論調でも脱原発の集会・デモにおいても個人的な会話でも、かなり広瀬隆と共通した主張がなされたといえる。政府・東電の情報隠蔽、内部被曝の危険性など、これはすでに広瀬が主張していたものだ。

しかしながら、広瀬の「警告」は、合理的ではあっても、推論・仮説であるといえるのである。ソ連・IAEAの情報隠蔽についても、内部被曝についても、現象的には承知できるのであるが、それを資料的に本書で「実証」しているかといえば、まだ、そうとはいえないように思われる。放射性ヨウ素と甲状腺がんの因果関係についても「実証」するのには20年かかった。広瀬に批判的な人びとからは、単なる不安感の醸成というかもしれない。

しかし、それでは、現実の課題には対処しえないともいえるのである。その意味で、直近の課題に対処するための推論・仮説の重要性を自覚しなくてはならない。現実の民衆がかかえている課題―不安を含めてーを聞き取り、そして、今入手できる資料で推論・仮説をたてながら、とりあえず対処方法を考えていくことの重要性を理解すべきなのだ。その点において、広瀬隆の『危険な話』を評価していかねばならないと思う。

そして、これは、広瀬隆だけの問題ではなく、現に、私たちがかかえている課題なのであることを痛切に自覚していかねばならないだろう。

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本ブログでは、専門外ながら、放射性ヨウ素、放射性セシウムの暫定基準の問題もとりあげてきた。

2011年10月12日、日本記者クラブでの会見で、チェルノブイリ事故への対応を行ってきたベラルーシの民間研究機関のウラジーミル・バベンコは、「日本の放射性物質に対する暫定基準は甘すぎ、全く理解できない。現実的な基準とすべきだ」と語った。それを伝えるMSN産経ニュースのネット記事を下記にあげておく。

日本の食品基準は甘すぎ ベラルーシ専門家が批判
2011.10.12 20:28 [放射能漏れ]

チェルノブイリ原発事故後の住民対策に取り組んできたベラルーシの民間の研究機関、ベルラド放射能安全研究所のウラジーミル・バベンコ副所長が12日、東京都内の日本記者クラブで記者会見した。東京電力福島第1原発事故を受け、日本政府が設定した食品や飲料水の放射性物質の基準値が甘すぎ、「まったく理解できない」と批判、早急に「現実的」な値に見直すべきだと述べた。

 例えば、日本では飲料水1キログラム当たりの放射性セシウムの暫定基準値は200ベクレル。一方、ベラルーシの基準値は10ベクレルで、20倍の差があるという。

 ベラルーシでは内部被ばくの影響を受けやすい子どもが摂取する食品は37ベクレルと厳しい基準値が定められているが、日本では乳製品を除く食品の暫定基準値は500ベクレルで、子どもに対する特別措置がないことも問題視。「37ベクレルでも子どもに与えるには高すぎる。ゼロに近づけるべきだ」と指摘した。(共同)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111012/erp11101220300003-n1.htm

たぶん、日本であると、より緩和した基準にするほうが現実的であるといわれるであろう。バベンコは、より厳しい数値こそが「現実的」というのである。

以前、本ブログで、福島県産野菜を販売するカタログハウスの試みをとりあげ、その中でウクライナの基準をとりあげた。もう一度、引用しておこう。

【ウクライナ規制値】
チェルノブイリ事故から12年過ぎた1998年1月からウクライナ保健省が実施している基準。「この基準内の食品(複数)を標準的な量で摂取していった合計が年間1ミリシーベルトを超えない」を保証する規制値です。住民の内部被ばくの拡大を反映して、何回も改定をくり返していった結果が厳しい現在の規制値になったそうです。

そして、具体的には、次のような基準であるとしている。

ウクライナ規制値 :野菜40 果物70 パン20(米も準用)  卵6  肉200  魚150 飲料水2 牛乳・乳製品100  幼児食品40(単位はBq/kg)

それでは、ベラルーシの放射性物質対策とは、どのようなものなのだろうか。そのことについて、すでにNHKが、8月4日にBS1の「ほっと@アジア」(17時台の番組で紹介している。YouTubeに本番組がアップされていたので、まず紹介しておきたい。

(http://www.youtube.com/watch?v=fMaqzvb2HWoより)

内容は、NHKが「解説アーカイブズ」として、ネット配信している(http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/450/91326.html)。まず、解説委員の石川一洋は、この番組の意図をこのように語っている。

石川)ベラルーシはチェルノブイリ後、飛来した放射能が雨によって土地に沈着して広大な土地が汚染されました。その状況は今回の事故後の原発から北西方向、そして福島県の中通り、さらには関東など各地に点在するホットスポットの状況と似ています。放射性のセシウムが主要な汚染源であるという点も似ています。
ベラルーシではもっとも汚染の酷い土地からは移住させました。しかし汚染地帯には多くの住民が住み、農業などそこでとれる作物を利用しています。
住民の健康を守るため厳格な食物の放射性物質の検査などを行っています。
汚染状況が似ていること、もう一つは住民の健康を守るためにベラルーシが取っている対策が日本の今後の指標となるからです。
私はベラルーシで子供の健康調査や食物の放射性物質の検査を続けている研究所の所長に話を聞きました。

取材を受けたベルラッド研究所アレクセイ・ネステレンコ所長は、次のように語っている。

ベルラッド研究所アレクセイ・ネステレンコ所長
「日本ではソビエトと同じように情報の隠蔽が行われている印象があります。重要なのは、まず食料を厳重に検査し管理することです。次に住民、特に子供たちの体内にどのくらい放射性物質が取り込まれたのか、検査を続けることです。そして住民に食物から放射性物質を除去する方法など放射性物質の影響を少なくする情報を教えることです」

その上で、石川一洋が以前取材した同研究所の活動も紹介しながら、ベラルーシの放射性物質対策について、この番組では、次のように指摘している。

ベラルーシは日本と比較しても、国も広範な検査を実施しています。
しかしネステレンコ所長は国だけでなく民間の研究所や食品会社や市民自身が並行して食料の中の放射性物質を検査することが重要だと指摘しています。
「国家機関は場合によっては都合の悪い情報は隠すものです。従って国の機関の検査結果に対しては住民の不信が高まります。こうした不信を取り除くためにも民間が独自に検査することは重要です。私たちは学校に検査機器をおいて実施していますが、そうしますと教育的な効果もあります。子供たちが放射性物質を詳しく知ることになるのです」。

その上で、日本の暫定基準とベラルーシの基準を比較している。(なお、吉井はアナウンサー)

吉井)日本も食品については暫定基準を定めていますよね、ベラルーシの基準はどのようなものですか。

石川)まず日本の基準です。
日本は食品については放射性物質の基準が無かったために暫定的な基準を三月に急遽定めました。今現在は問題となるのは半減期の長い放射性セシウムです。ほとんどの食品で1キログラムあたり500ベクレル、飲用水と牛乳やミルクなど乳製品は200ベクレルとされています。

しかしネステレンコ所長は基準が甘すぎると批判しています。
「日本の基準はベラルーシに比べてあまりに緩すぎて、酷いと言っても良いくらいです。
ベラルーシではたとえば3歳児までの子供用の牛乳など食物の許容限度は放射性セシウムで37ベクレルです」

日本が飲料水と乳製品については200ベクレルとしていますが、その他は一律に500ベクレルという大雑把な基準となっていますが、ベラルーシでは、食品の種類ごとに細かく基準が定められています。表をご覧ください。

3歳児までの乳幼児用の食品は1キログラムあたり37ベクレル、飲料水は10ベクレル、牛乳は100ベクレル、パンは40ベクレル、牛肉は500ベクレル、豚肉、鶏肉は200ベクレルなど食品ごとに基準値が細かく定められ、全般的に日本よりもかなり厳しめになっています。

吉井)でも日本よりも甘いものもありますね。

石川)そうです。たとえば乾燥キノコやお茶は日本よりも甘くなっています。お茶の葉にはこれだけのセシウムがあってもお茶自体にはセシウムはすべて溶け出しませんし、また乾燥キノコなども国民が食べる量は限られている、その代り、水や主食のパン、牛乳、ジャガイモなどは大変厳しい値になっています。国民の食生活の実態に合わせて細かく基準を定めているのです。

ネステレンコ所長も、日本の基準は甘すぎるといっている。ベラルーシの基準は、実際の食生活に配慮しつつ、日本よりも全体として厳しいものになっているのだ。特に、水・牛乳や、主食のパン・ジャガイモが厳しくなっていることに注目されたい。

この基準の違いを石川は、次のように解説している。

吉井)なぜ日本とベラルーシの基準値がこんなに違うのですか。

石川)ベラルーシの基準値の考え方は、内部被爆・外部被爆併せて1ミリシーベルトを超えないという基本方針からそれぞれの食品の基準が定められています。一方日本の場合も平常時は1ミリシーベルトが基準でしたが、福島第一原発の事故を受けて、現在は事故後の緊急状況であるとして暫定基準を定めるときに5ミリシーベルトまでは許容しようと食品に対する考え方を緩めたわけです。しかも5ミリシーベルトの中には放射性セシウムとストロンチウムによる被ばくのみです。ヨウ素などは別枠です。
5ミリシーベルトと1ミリシーベルトという基本方針の違いが基準値の差となって現れています。

ただ厚生労働省では、もしも暫定基準値の値の食物を食べ続けた場合に5ミリシーベルトになるという値であり、実際の内部被ばくの値ははるかに小さくなり、健康には影響は無いとしています。また現在は事故後の緊急時であり、あまり厳しい値を定めることは被災地の農業や水産業を破壊することになりかねず、安全と経済のバランスを取ることが必要だとしています。

いずれにしてもあくまで緊急時であり、平時の1ミリシーベルトに戻さなければならないでしょうし、日本の食生活に合わせたさらに細かな基準づくりというものが必要になってくるでしょう。

つまりは、日本の現行の暫定基準は、事故後の緊急時であり「安全と経済のバランスを取る」ということから、平常時の5倍の被ばく量を想定して設定しているというのである。そして、石川は、「いずれにしてもあくまで緊急時であり、平時の1ミリシーベルトに戻さなければならないでしょうし、日本の食生活に合わせたさらに細かな基準づくりというものが必要になってくるでしょう」としているのである。つまりは、その意味で日本の暫定基準は「暫定」なのである。

そして、番組の最後のほうでは、児玉龍彦の国会での発言も紹介しながら、このような言葉で結んでいる。

吉井)ベラルーシではいろんな努力をして、放射性セシウムなど放射性物質から子供たちを守ろうとしているのですね。日本でもこうしたことは可能でしょうか。

石川)食生活で言えばベラルーシと日本は異なるわけですから、日本に合わせた基準を作れば良い、主食のコメなどは厳しくするとか、日本に合わせた基準が必要でしょう。
また食品の検査についても今は一品、一品時間をかけて検査する方法ですが、日本の高度な技術を使えば、流れ作業のような形で検査するシステムが開発可能だという提言も出ています。

東大アイソトープセンター長 児玉龍彦教授
「流れ作業的に沢山やれるようにしてその中で、はねるものをどんどんイメージで、画像上でこれが高いと出たらはねていくような仕組みを、これは既存の技術ですぐできますものです。そういうものを全力を上げてやっていただきたいと思っております」

日本の高度な技術を食品管理に活かすということです。
ベラルーシは国家予算の二割がチェルノブイリ事故の対策に費やされています。
ベラルーシに比べますと日本は国家予算で100倍という大国です。
ベラルーシの国家予算の二割というのは1200億円ほどで日本の国家予算にすれば0.1パーセントほどの額です。後は国民の健康と安全を守るという政治的意思が日本政府にあるかどうかということだと思うのです。
ベラルーシなどで何が起きて、どのような対策が取られたのか、日本の今後を考える上でも、今度は我々がベラルーシなどから学ばなければなりません。

まさに、「後は国民の健康と安全を守るという政治的意思が日本政府にあるかどうかということだと思うのです。」ということなのである。

このような対応をとっているベラルーシは、どのような国なのか。ウィキペディアは、次のように伝えている。現在、ベラルーシは、ルカシェンコ大統領が強権政治を行っている国とみられているようである。

一方、2010年12月の大統領選挙では、選挙後に野党の候補者が政権により拘束されたという[5]。このため、EUとアメリカが制裁を決定する[6]など、現在のベラルーシは国際社会からの孤立を深めている。
ルカシェンコが四選を果たした直後から2011年7月現在に至るまで、ベラルーシ国内は深刻な経済危機に陥っている。そんな中、SNSなどでの呼びかけで、市民の間でルカシェンコ政権への抗議運動が発生し始めている。政権に抗議する市民たちは無言で拍手をしながら街を練り歩くと言う静かで平和的な抗議運動を行っているが、治安当局はデモ隊の徹底した弾圧を実行している
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7

つまりは、強権政治を行っているとみられているベラルーシのほうが、より国民の健康と安全を配慮した対策を施しているのである。

一方で、日本は、どうか。朝日新聞は、10月13日、次のような記事をネット配信した。

コメの放射性物質検査を進めていた福島県は12日、今年の県産米の検査を終え、すべてで放射性セシウムが国の基準値(1キロあたり500ベクレル)を下回ったと正式に発表した。これでコメを作付けしている全48市町村で出荷が可能になり、佐藤雄平知事は「安全宣言」をした。

 県は8月下旬、原発事故で作付けが禁止された双葉郡などを除く48市町村で検査を開始。収穫前に汚染の傾向をつかむ予備検査と、収穫後に出荷の可否を判断する本検査の2段階で実施した。

 一般米の本検査の対象となった1174地点のうち、放射性セシウムが検出されなかったのは82%にあたる964地点。100ベクレル未満が17%の203地点、100ベクレル以上は0.6%の7地点だけだった。

 ただ、予備検査で1キロあたり500ベクレルを検出した二本松市の旧小浜町地区では、この日判明した本検査でも470ベクレルを検出。県はこの水田と、隣接する水田の計3枚(9アール)で収穫したコメ約400キロをすべて買い上げ、市場に流通しないようにする。
http://www.asahi.com/national/update/1013/TKY201110120767.html

さすがに、暫定基準値すれすれの米は市場に出回らないようにしたようであるが……。暫定基準を下回ったとして、福島県の佐藤雄平知事は「安全」といっている。実際、検査結果をみると不検出や極微量検出の米が多いのだが、平常時の5倍に緩和した基準をたてに「安全」といっている。これでは、政府が「安全」だと決めたから「安全」であるということになってしまう。あくまでも「緊急時の暫定」であり、今後はより基準を厳しくしていく必要があると考えられるのに、このような「安全宣言」は不穏当である。そして、それは、より厳しい基準を設定していく営為を阻害していくものといえよう。

結局、「民主主義」国家と形式的にはいわれる日本は、「強権国家」と批判されるベラルーシよりも、はるかに劣った放射性物質対策を行っているのである。そして、日本では、たぶん「緩和する」ことが「現実的」と言われるであろうが、ベラルーシでは、より厳しい基準を設定することが「現実的」なのである。「現実」について、日本とベラルーシには違った認識があるといえよう。

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さて、1986年のチェルノブイリ事故において、母親たちを中心として、自然発生的に日常的な放射線防護対策をもとめる運動が生まれてきたことを、このブログではみてきた。このような動きは、当時の緑の党を中心とする反原発運動にも影響を与えた。田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)において、田代は、「放射能に対する人びとの不安感、とりわけ子どもたちを抱える親たちの気もちを受けとめようとする人びとは、運動内部で『ベクレル派』という区分をされた」と述べている。

田代は、自らも含めた「ベクレル派」の主張を次のように要約している。

 

私のアパートの管理人、町角の八百屋の主人夫婦、郵便配達人、この人たちを私はブロクドルフ(西ドイツの原発の一つ)に連れていくことなんかできっこない。けれどもかれらは住んでいるところで、また働いているところで原発に反対し、チェルノブイリの放射能の危険を防ぐために、行動する気もちを持っている。もし反原発運動がこの機会を逃すなら、77パーセントに達した原発推進反対の世論のなかで、反対運動は小さなエリートだけのものにとどまってしまうだろう。
 私たちがなすべきことは、長期的な水、土壌、食料などの測定。妊婦や子どもたちのための無汚染食料の供給。食品に放射能に関する品質表示をさせること。ECの食品在庫の放出。遊園地、屋外プール、公園などの除染。さらなる汚染を減らすために原発の放射能排出量を縮小すること、などである。こうした要求は、職場や居住地域や社会教育の場でいくらでも提起できる。そしてそのこと自体、日常的な抵抗運動になる。これは、チェルノブイリが西ドイツにもたらした被害を通じて、原子力施設が私たちの日常生活と将来に危険を投げかけ、ガン、遺伝的障害、死におびえた生活しか許さないということを、人びとに示す道でもある。

 田代のいう「ベクレル派」とは、単に、日常的な場を放射線防護対策を行うというだけでなく、放射能汚染におびえる一般民衆に寄り添いつつ、反原発運動を、エリートに限られない広いものにしていこうとするものであったといえる。

 しかし、田代によると、ベクレル派は、運動の中では少数派であった。多数派は、田代のいう「政治派」であった。政治派の主張を、田代は次のように要約している。

 

ー「放射線防護対策」というのは放射能の真の危険をごまかす手段にすぎない。なぜならそれは放射能の危険に対して、あたかも自衛が可能であるかのような印象をあたえるからだ。たとえば放射能が土壌に浸みこみ、食物連鎖に入ってくれば、それを防ぐ手だては見つからない。われわれは空気中の放射能だって、呼吸しないわけにはいかないのだ。
 チェルノブイリを無かったことにするわけにはいかない。私たちはその放射能とともに生きなければならないのだ。だからわれわれにとって唯一可能な予防対策は、さらなる放射能の汚染を防ぐことしかない。政治家や原発推進派に対する要求は、未来に向けたものしかあり得ない。すなわちすべての原発を停止させることである。これが最後の、そしてもっとも有効な放射能に対する予防措置であるー

田代の要約によるならば、政治派は、放射線防護対策は無意味であり、放射線に対する恐れ、怒りは、原発を停止させることにむけなくてはならないというものなのであった。

田代らのベクレル派の微妙な位置を示すものとして、次の写真をあげておこう。これは『チェルノブイリの雲の下で』であげられている写真だ。

妊婦たちもデモに参加

妊婦たちもデモに参加

この写真のキャプションは「妊婦たちもデモに参加」である。妊婦も反原発運動に参加しているという、いわば政治的メッセージがこめられているのである。しかし、田代自身は「反原発の運動は環境汚染の危険を知らせ、幼児や妊婦に外出したりデモに参加したりしないようにすべきであった。胎児はとくに放射能に敏感だ。ダハオにある分娩クリニックでは、チェルノブイリ事故から3カ月たってから流産があいついだ」とコメントしている。妊婦の政治的利用自体が、反原発運動においてすべきでないことと田代は考えていたのだ。田代自身が、妻ともども、生まれてくるかもしれない子どもを配慮して、集会に参加しなかったことも想起されよう。田代によれば、反原発の運動の中で、日常的な場における放射線防護対策を重視するか、反原発の政治を優先するか、のっぴきならない対立が生まれていたといえるのである。

このような、いわば日常生活における困難を除去しようという志向と、ラジカルに政治的な解決を求める志向との矛盾は、西ドイツの反原発運動に限られないといえる。いわば、そもそも社会運動ー民衆運動というものが、常に内在しているものなのだ。西ドイツの反原発運動は、そのことの一つの例としてみることができる。そして、これは、たぶんに、今の日本の「脱原発運動」も抱えている問題なのではなかろうか。

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さて、チェルノブイリ事故の際の西ドイツ社会において、放射能汚染という現状に対し、母親としても父親にしても、次世代に対する責任に直面させられたことを話してきた。

また、母親たちの行動に議論を移そう。チェルノブイリ事故からしばらくたって、このような状況が現出した。田代ヤネス和温は『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)で、このように述べている。

 しかし、あれから時間が過ぎてゆき、表面は何ごともなかったかのように平穏な日常に復帰した社会の中で、母親たちは孤立する。ある農家の主婦はこう語っている。
 「私たちの村ではおどろくほど早くいままで通りの生活が戻ってきました。私の家の前の畑には、草花しか残っていないというのに、隣り近所の畑ではいつものように野菜が育っています。回りの人たちに不安を打ち明けると、きまって『あまり大げさに心配しない方がいいよ』とか、『だって何か食べないわけにはいかんだろう』という答が返ってくるのです。」
 熱しやすく冷めやすいマスメディアの影響も見のがすことはできない。放射能の危険についての報道が下火になるにしたがって、人びとはストロンチウムとかセシウムなど、寿命の長い放射性物質が、人体に与える長期的な影響への関心もしだいに失った。誰もがいままでと同じように、平気で何でも食べている。

けれども その中でも、母親たちは行動するようになった。田代は、このように述べている。

それでもチェルブイリの後、原発社会における子どもたちの将来を案じて、「母親の会」や「両親の会」を名のる、数えきれないほどのグループが生まれた。新しい市民グループの参加者は、90パーセント以上が女性である。
 それは、これまでよくあった古いタイプの政治運動団体と、まったくちがう体質をもっていた。権力志向に首までつかった古い世界では、海千山千の男や女がたがいにかけひきに熱中し、競争相手の足をひっぱり、自分を目立たせ、高く売りこむことに生きがいを感じていた。新しく生まれてきたグループは、まるで反対の極にあるといえよう。

全国いたるところで、子供づれの親たちが原発停止を要求する

全国いたるところで、子供づれの親たちが原発停止を要求する

田代は、いくつか、このような母親たちのグループの活動を紹介している。まずあげられているのが、「原子力に反対する母親の会」ミュンヘン支部である。ミュンヘンのあるバイエルン州は、政治的に保守色が強かったが、放射能汚染の度合いも高かった。このグループは、1986年5月11日の母の日の行動をきっかけに生まれたと田代は述べている。

 

この日ミュンヘン市では1000人を超える数の母親たちがマリエン広場に集まり、母の日の記念に家族から贈られた花束をもち寄って、放射能のマークの形を作って歩道に並べた。それは、母親としてわが子を守ってやることのできない無力感と怒りを表現したものであり、その静かな行動はあたかも宗教的な儀式のように、祈りのこめられた感動的なものだった。ここにはカソリックの信仰の強い地方性が表わされているのかも知れない。

母親たちの活動は、伝統的な宗教行事とかさなるものであった。田代は、西ドイツ全般の母親たちの運動について、このように伝えている。

 

かの女たちの活動は伝統行事との接点を保っている。収穫感謝祭の日には、食物の汚染に抗議の気持ちを表し、十一月の死者の霊を慰める日には、放射能のマークの形にローソクの火をともして、チェルノブイリの犠牲者のために祈りをささげた。

その他、さまざまな活動を行っている。「放射能汚染の未来を憂慮する親たちの会」では、自力で放射能汚染測定器を買い込み、学校の校庭などを測定した。1万ベクレルを超えるビーズバーデン市では汚染の強い校庭の除染を強いられることになった。

このブログで紹介した、アニャ・ルゥールは「授乳中の母親の会」の世話役となり、子どもにあらわれるであろう後遺症を追う必要があるとして、子どもたちの統計的調査を行うことを呼びかけた。

もっとも西ドイツで大きな「親の会」になったのは、ドイツ北部のキール市に本部をおく「無汚染食品のための親の会」であると田代は述べている。この会は、政治問題ではなく、食物の問題を前面に押し出しており、1986年6月12日には、母親たちはシュレスヴィヒ・ホルンシュタイン州の社会省に妊婦や成長する幼児たちに汚染されていない特別食を求めて団交し、その直後にハンストに入った。田代は「母親たちはECがストックしている汚染されていない食品を提供させること、そのほかスウェーデンで実行したように、汚染された草を刈り、廃棄することを要求した。ハンストを続ける妻たちのために夫たちは飲物を差入れ、家で子どもらの面倒を見た」と指摘している。

このように、チェルノブイリ事故の際の西ドイツ社会において、母親たちがさまざまな取り組みをしていたことをみてきた。今、脱原発デモに出ると「子どもを守ろう」という声が鳴り響いている。そして、放射能測定をする母親たちは無数にいる。その人びとに、西ドイツでも同様であったことを実感してほしいと思う。

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前回はチェルノブイリ事故の際の西ドイツにおいて、放射線への恐怖に対して、ジェンダー的な差異があることを田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)を通じてみてきた。そして、福島第一原発事故の日本においても、自分自身の反省もふまえつつ、同じような状況があるのではないかと提起した。

ただ、あまりにも、ジェンダー的な差異のみを強調するのもどうかと思う。ある友人からも、そのような批判をされた。田代も「私はこの章でチェルノブイリの雲に対する男女の反応の差を、二分化法で性急に追い求める気はない。後章で触れるように、反応の差は両性の間で顕著だったが、また男女を問わず個人の間で顕著であることにも気づいたからだ」と述べている。

ここでは、男性である田代ヤネス和温自身が、夫人との間で「チェルノブイリの雲の下で子どもを産もう」とすることについて、どのように考え、行動したかを分析しなから、ジェンダー的差異をこえて、人としてどうこの問題に対面するべきなのかを考えてみたい。

本書の末尾による履歴によると、田代ヤネス和温(かずおみ)は、1950年に鹿児島県で生まれ、早稲田大学理工学部を中退し、1971年より西ドイツに在住した。肩書はフリージャーナリスト・市民エネルギー研究所員となっている。「エルケ夫人と反核運動に参加」とあり、夫人との共著で『ブロックを超えるー西ドイツの緑の党』(筆名遠藤マリヤ)などがある。チェルノブイリ事故時は36歳ということになる。本書によるとエルケ夫人は、西ベルリンの病院で勤務していた。最初、エルケ夫人は看護師かと思っていたが、そうではないようだ。

 1986年4月29日、西ベルリンで放射能の数値が上昇しているというラジオニュースを聞いたとき、田代は、次のように考え、行動した。

 「エッ、ついにそこまできたのか!」
 私は内心ギクリとした。私は瞬間、ちょうどこの日病院の当直で勤務に出ていた妻のエルケのことを思った。偶然にもそのころ、私たちは初めての子を得たいと願っていたのだった。この放射能の雲の下で、生まれてくる生命の将来はどうなるのか。母親になる人はどんな気もちで新しい生命の到来を待たねばならないのか。私の胸の中を暗い思い予感がよぎった。私の足は自然に妻が働いている病院の方向に向いていた。

 子どもをもちたいと思っている夫としての当然の心情といえるだろう。そして、妻の勤務する病院に田代は到着した。

 

私は当直中の妻を病院に訪ねた。私たちは診察室の窓を閉めてさわやかな外気を遮断した。これからは室内の古い空気を呼吸することでがまんするのだ。それから病院にあったヨウ素剤を服用し、看護婦さんたちにも服用をすすめた。

日本でも、妊娠していたかもしれない妻をこのように気遣いする夫はいるだろう。しかし、田代の気遣いは、妻に対するものだけではなかった。かなり微妙な問題なので、やや長い引用をしておこう。

 

当時五月一日にはメーデーのデモやピクニックがあり、翌々日には全国的な反原発行動が準備されていた。私とエルケは前記の知人たち(西ベルリンの反原発運動の活動家ベレーナ・マイヤーーこの人の手記はたびたび紹介したー、オルターナティブ・エルテ所属のベルリン市会議員レナーテ・ハイトマン、ノルトライン・ヴェストファーレン州の緑の党中央委員マーティン・パネンなど)に電話をかけ、五月三日にもし雨が降ったら野外集合やデモはただちに中止し、とくに妊婦や子どもは急いで帰宅させるように要請した。
 ベレーナとマーティンは、五月三日の集会に出てきて何か話してほしいと私たちに頼んだ。とんだやぶヘビになるところであった。いまになってみれば、そのとき私たちは子どもを欲しがっていたことを率直に言っておけばよかったと思う。けれども、そのときはなぜかうその言いわけのように思われるのではないかと案じたりして、言いそびれてしまった。私ひとりで集会へ出かけると言っても、おそらくエルケがとめたことだろう。
 私たちが子どもを得たいと願ってさえいなかったら、集会に出て放射線から身を守るためにどのような対策が必要かを話すべきだったと思う。いずれにせよその時点で私たちは私たちは人びとの対応の鈍さにやきもきしながらも、目に見えないところで少しでも事態を動かすことができないものかと試みていた。
 私たちの要請を受けたレナーテさんは、三日の行動を中止するのは無理だろうが、雨天の際はとりやめるよう説得してみようと言ってくれた。あとで聞いてみると、かの女の提案はほかの人たちから笑いものにされただけであったという。つまり臆病者か狂人あつかいされたのだった。ベレーナさんは最初私たちの要請を「神経質すぎる」と感じていたようだが、数日後には、降雨の際には三日の行動を中止にすると決定した提案の原動力のひとりになった。マーティン氏も雨天中止を決めるのがやっとだったといってきた。
  もし私とエルケがマーティンやベレーナの依頼を受けて、集会で発言したらどういうことになっただろうか。私は不必要な被ばくを避けることを訴え、したがって放射能の雲の下でデモをすることに反対を唱えていただろう。そうすれば私は確実に、集会の大多数の参加者たちから非難と抗議の的にされたにちがいない。たとえ少数の人たちが私のことばに耳を貸してくれたとしても……

要点をいえば、このようになるだろう。

①西ドイツの放射能汚染は深刻であり、なるべく野外集会やデモはさけるべきであり、特に、妊婦や子どもは参加させるべきではない。

②妻が今後妊娠するかもしれない田代ヤネス和温自身も集会への参加をとりやめた。

③放射能汚染が強い期間野外集会やデモを自粛するように主張した田代の主張は、緑の党などの環境保護運動団体には十分とりいれてもらえなかった。

③の論点は重要である。今後検討していきたい。しかし、ここでは、②の論点を中心に考えてみよう。

田代は、自身の子どもをほしいと願った。チェルノブイリからの放射能は、妻だけでなく、たぶん遺伝子を守るという形で、田代自身もそこから防護されなくてはならないものであった。田代の経歴からすると、集会で発言するということは、彼の信念の発露もであり、彼の仕事の一環でもあったと思われる。しかし、それを放棄しても、二人の間に生まれてくる子どもの健康と安全を守ろうとする意識が強かったといえる。

確かに、男は、女よりも放射線の影響を受けることが少ないのかもしれない。それでも、すべて、放射能防護対策を女まかせにしようと、田代は考えなかったのだ。生まれてくる子どもに対して、最善の対策を、男もとるべきである。それが、ジェンダー的差異をこえた、人としての、親としての責任の取りかたということができよう。

確かに、ジェンダー的差異は、女たちに放射能への恐怖をより感じやすくさせたかもしれない。しかし、その責任は、男もとるべきことなのであると、女たちは考えているのだ。田代は、『ターゲス・ツァイトゥンク』紙に載った「棺桶を買え」という投書を紹介している。

 

女たちは子どものことばかり心配している、ということを口実にして、男たちが家にでんと腰をすえて動こうとしないのを、私たちは認めない。母親でない大人たちはまるで死んだも同然であってよいのか。原発事故に対する関心の冷えこみぶりは信じがたいほどだ。だから私は、近いうちに棺桶を買って、上からの命令で一斉に中へ入る日を待っているんだと言われても、ちっともおどろきはしない。

この言葉は、今の私にも向けられているのだ。

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前回、西ドイツ社会において、1986年のチェルノブイリ事故における西ドイツ社会での意識の分裂について述べてきた。このような意識の分裂は、ある意味でジェンダー的な差異を介して、強く意識されることになった。

田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』は、このように語っている。

 

歴史を振り返ってみると、女はしょっちゅう男が引き起こしたことのしりぬぐいをさせられきた。もっぱら男たちが始める戦争がいい例だが……チェルノブイリは女たちの内部に眠っていた古い記憶を呼び起こした。愛する家族にガンのくじを引かせてはならないと、本能の声が呼びかける。けれどもかの女たちが迎えている破局的な状態は、これまで経験してきたものとどこかちがっていた。
 男たちが作り上げた原発社会は、破局なぞどこにも起こっていないと言い張っている。だが、女たちは家族に迫ってくる不安を体で感じている。この不安を取り除くには、不安の原因である危険な原発なぞない社会を選びたいと願う。これは女にとってごく自然な心のはたらきである。
 これまでも男の負っている役割と女が負っている役割との間には、ときどき摩擦が激しくなり、きしみ声を上げることがあった。男は社会全体に対する責任を優先させ、女は家を守り子どもを養育する役割に重きを置いた。チェルノブイリは両者の対立を、敵対的な矛盾にしてしまったとさえ言える。破局なぞどこにもないと主張する男と、破局を超えて原発のない社会を願う女との間には、埋めることのできない亀裂ができた。そして、その亀裂の底に、将来にむけての起爆剤が仕かけられていることに気がついた人は、まだそれほど多くない。

 この「女たちの不安」について、田代は、ベアルホフという人の手記「私は子どもらを犠牲にしたくない」を引用することによって、端的に示している。

 

地獄は、私たちが地下室にとじこもり、髪の毛を切り、住居をまるで手術室のように簡素にし、規律と清潔を完全に守り、母親たちがヒステリーを起こすことなしには子どもらが水たまりで遊べず、森で走りまわれず、砂場を掘り返せず、木に登れず、野原でかくれんぼ遊びができず、ひざ小僧をすりむいたりできないことに現れている。
 地獄は、何も感じないのに、目に見えないのに、常に最悪の場合を考えて暮さねばならないことにある。
 地獄は、女たちがあくせく動きまわっているときに、男たちが狂った進歩主義の終着点を見るのをいやがって、勝手に気ばらしをしたり、無力感にひたったりすることにある。
 地獄は、子どもたちが放射能の病気になったことについて、、それは母親が十分に清潔にしなかったからだとか、正しい食事をあたえなかったからだとか、責任を負わされることにある。
 地獄は、誰も検査なしに妊娠したり、出産したりできなくること。不適当と見なされた女たちに堕胎や不妊が強いられること、遺伝子操作の強要。出産に『適した』女たちが、汚染されていない貴重な精子で人工的に妊娠させられ、産む機械とさせられることにある。
 私が地獄を見たあの日、体が反応を始めた。寒気を感じ、体ががたがたふるえ始めた。ふるえているとき、恐怖感が不意に野獣のように私の首にとりつき、体をゆさぶった。それから私はしくしく泣いたり、泣きわめいていたりすることがますます多くなった。食欲がなくなり、しだいにやせ細った。
 …地獄を見たときの恐怖感は、しだいに子どもをみるときの心の痛みに変わっていった。私は結構年をとり、自分の人生を生きたじゃないの。私の恐れているのは自分のことじゃない、私のチビ(息子)はまだ四歳にもなっていない。

一方、男は、どのような対応であったか。田代は、『ターゲス・ツァイトゥンク』に投稿されたベーター・タオットフェストの「チェルノブイリが家庭に引き起こしたこと」を引用している。タオットフェストは、ヒロシマの被ばくも知っており、反原発運動には理解があるのだが、それでもこのように言っている。

 

台所から妻は、どこそこで今日はしかじかのベクレルが測定されたから、明日も子どもたちを外に出さない方がいいのじゃないかと聞いてくる。私たちの間の空気は冷え切っている。私は台所に行って、用心深くことばを選びながら、なぜ私が放射線防護対策を守りたくないかを話した。『新しい生活のルールが私にはヒステリーであるだけでなく、真の危険を過小評価しているように見えるのだ』
 ……私たちは簡単な対策で被ばくが防げるかのようにだまされているのだ……私たち緊急事態に少しずつ馴らされるつつあるのだ。だから私はサラダを食べなかったり、牛乳を飲まなかったりするかわりに、サラダを食べ牛乳を飲み、それから市役所の前に行って『こういう形では身を守れないぞ』と抗議すべきなのだ。
 ……夫たちが鈍感なのではない。そうではなくて妻たちの度が過ぎているのだ。危険に際会した反応として、こんなにも男女に差が生じるのはおかしい。危険の度合いについての知識に両性の差はゼロのはずだから。ならばやはりこれは男と女のちがいの問題なのだろうか。一方に冷静で恐怖感を持たない男がいて、他方に心配過多症の女がいる。私にはわからない。知ったかぶりはやめておこう。
 ただ気がついたのは、身のまわりに起こった危機は、必ず家庭内で表面化するということだ。五月の私たち夫婦の間に生じたいきちがいやいさかいは、危険が迫ってくると必ず起こる性質のものだ……

田代は、「生活の内部にまでいや応なく侵入してきた放射能は、根の深いところでの男と女の対応の違いをあらわにさせた。夫婦の間にもいさかいが生じ、それが昂じて離婚にいたったという話もまれではない」と述べている。

翻って、現在の状況をみてみよう。東京も含めてなのだが、福島第一原発事故で、かなり多くの放射性物質が降下した地域では、女性たちはベアルホフの手記にあるように感じ、かなり努力をして放射線防護対策をとっている。それは、家族全体を今まで住んでいた地域から移住する計画を企てるほどのものなのだ。他方で、男たちは、第一に職場などの生業の場を変えたくないという意識が強い。一時は、そのことで離婚が増加したと聞いている。今でも、夫などの男たちが放射線の強い福島県などで働き、女性・子どもが他府県に移住するというケースはざらにみかける。

私自身も、ある意味では、ここであげられている「男性」のように考えていたことを告白しなくてはならない。過度に放射線防護対策をとらねばならないということに違和感をもっていた。

しかし、今は多少違ってきた。一つに、田代の著作に出会ったことが大きい。チェルノブイリ事故の際の西ドイツ社会の状況は、今、私たちが目にしているものと同一の様相を示していた。田代の著作を読むことによって、自らの意識が相対化されたといえよう。それは、まさに「歴史」の効用といえるであろう。

そして、もう一度、自分の目で、セシウムなどの汚染状況をチェルノブイリ事故の際と今と比較してみると、愕然とした。専門家でないので、数字自体はよくわからないが、田代の著作にあるようなパニックとなった西ドイツよりも今の日本の状況は深刻であり、福島県にいたっては、チェルノブイリ原発自体が立地していたウクライナ・ベラルーシに匹敵する(もちろん面積などには違いがあるが)ものとして考えた方がよいのではなかろうか。

その意味で、現在、私自身の意識も変化していく最中なのである。

そして、私自身の中にもあった「男性的」な意識の背後には、ここでみてきたジェンダー的な差異があること、これも田代の著作から学んだことの一つである。

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