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Archive for 2014年3月

福島第一原発周辺においては、2つの基準が存在している。まず、居住制限区域と避難指示解除準備区域は年間20mSvが境界となっており、線量20mSv以下で、インフラの整備が完了すれば、帰還を認めることになっている。

しかし、除染の基準は年間1mSv以上であり、それ以下をめざして除染を行うことになっている。だが、除染事業の現状は、年間1mSv未満に線量を下げることは困難であることが判明している。

そこで、次のようなことが行われた。しんぶん赤旗が2013年11月13日に配信した次の記事をみてほしい。

帰還後「個人線量が基本」

規制委方針 「空間線量」から変更

 原子力規制委員会は20日の定例会合で、東京電力福島第1原発事故で避難している住民の帰還に向けた防護措置のあり方などについて、「基本的考え方」をほぼ了承しました。これまで専門家による検討会合が4回開かれ、11日に案がまとめられていたもの。

 「考え方」は、帰還後の被ばく線量管理について、個人線量計による測定を基本とすることなどが明記されました。個人線量計などを用いた個人線量は、ヘリコプターなどによる空間線量率から推定される被ばく線量と比べて低くなる傾向が指摘されています。
(後略)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-11-21/2013112115_01_1.html

つまり、今までの空間線量から推定される被ばく線量より低く測定される傾向がある個人線量計に切り替えることにしたのである。朝日新聞が2013年11月21日にネット配信した記事によると、次のように、約半分程度になるということである。

福島県伊達市は21日、全住民を対象に1年間実施した個人線量計(ガラスバッジ)による放射線被曝(ひばく)量の測定結果を発表した。国の推計方式で年1ミリシーベルトの被曝量があるとされた二つの地域で、住民の被曝量の平均が、いずれも0・5ミリ台だったという。
http://www.asahi.com/articles/TKY201311210369.html

しかし、年間線量1mSvという除染基準は、低線量被ばくの影響について確定したことがいえない中、20mSvなどなるべく高い線量を基準にしたいとする当時の政権と、少しでもゼロをめざして低くしたいという民意との間の中で決まった「社会的基準」というべきものである。空間放射線量は変わらないまま、約半分の測定値となる個人線量計の測定値に切り替えるということは、実質的には、今までの倍に基準を緩和するということにほかならない。

しかし、個人線量計に切り替えて測定していても、年間1mSvにならないところが出現していた。そのことについて、毎日新聞が2013年3月25日に次のようにネット記事を配信している。

<福島原発事故>被ばく線量を公表せず 想定外の高い数値で
毎日新聞 3月25日(火)7時0分配信
 ◇内閣府のチーム、福島の3カ所

 東京電力福島第1原発事故に伴う避難指示の解除予定地域で昨年実施された個人線量計による被ばく線量調査について、内閣府原子力被災者生活支援チームが当初予定していた結果の公表を見送っていたことが24日、分かった。関係者によると、当初の想定より高い数値が出たため、住民の帰還を妨げかねないとの意見が強まったという。調査結果は、住民が通常屋外にいる時間を短く見積もることなどで線量を低く推計し直され、近く福島県の関係自治体に示す見込み。調査結果を隠したうえ、操作した疑いがあり、住民帰還を強引に促す手法が批判を集めそうだ。

 毎日新聞は支援チームが昨年11月に作成した公表用資料(現在も未公表)などを入手した。これらによると、新型の個人線量計による測定調査は、支援チームの要請を受けた日本原子力研究開発機構(原子力機構)と放射線医学総合研究所(放医研)が昨年9月、田村市都路(みやこじ)地区▽川内村▽飯舘村の3カ所(いずれも福島県内)で実施した。

 それぞれ数日間にわたって、学校や民家など建物の内外のほか、農地や山林などでアクリル板の箱に個人線量計を設置するなどして線量を測定。データは昨年10月半ば、支援チームに提出された。一般的に被ばく線量は航空機モニタリングで測定する空間線量からの推計値が使われており、支援チームはこれと比較するため、生活パターンを屋外8時間・屋内16時間とするなどの条件を合わせ、農業や林業など職業別に年間被ばく線量を推計した。

 関係者によると、支援チームは当初、福島県内の自治体が住民に配布した従来型の個人線量計の数値が、航空機モニタリングに比べて大幅に低かったことに着目。

 関係省庁の担当者のほか、有識者や福島の地元関係者らが参加する原子力規制委員会の「帰還に向けた安全・安心対策に関する検討チーム」が昨年9~11月に開いた会合で調査結果を公表し、被ばく線量の低さを強調する方針だった。

 しかし、特に大半が1ミリシーベルト台になると想定していた川内村の推計値が2.6~6.6ミリシーベルトと高かったため、関係者間で「インパクトが大きい」「自治体への十分な説明が必要」などの意見が交わされ、検討チームでの公表を見送ったという。

 その後、原子力機構と放医研は支援チームの再要請を受けて、屋外8時間・屋内16時間の条件を変え、NHKの「2010年国民生活時間調査」に基づいて屋外時間を農業や林業なら1日約6時間に短縮するなどして推計をやり直し、被ばく推計値を低く抑えた最終報告書を作成、支援チームに今月提出した。支援チームは近く3市村に示す予定だという。

 支援チームの田村厚雄・担当参事官は、検討チームで公表するための文書を作成したことや、推計をやり直したことを認めた上で、「推計値が高かったから公表しなかったのではなく、生活パターンの条件が実態に合っているか精査が必要だったからだ」と調査結果隠しを否定している。

 これに対し、独協医科大の木村真三准教授(放射線衛生学)は「屋外8時間・屋内16時間の条件は一般的なもので、それを変えること自体がおかしい。自分たちの都合に合わせた数字いじりとしか思えない」と指摘する。

 田村市都路地区や川内村東部は避難指示解除準備区域で、政府は4月1日に田村市都路地区の避難指示を解除する。また川内村東部も来年度中の解除が見込まれている。【日野行介】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140325-00000008-mai-soci

つまり、避難指示解除準備区域で、避難指示解除が予定されている地域で予備的に個人線量計で内閣府の支援チームが測定したのだが、そのうち、大半が1mSv以下になると推定していた川内村の推計線量が、個人線量計でも2.6〜6.6mSvになってしまった。内閣府の支援チームは、この結果を公表せずに隠蔽した。そして、現在、農業・林業従事者の生活時間パターンを「屋外8時間、屋内16時間」から「屋内6時間、屋外18時間」などにかえ、より推計値が低くなるように計算しなおしているというのである。つまりは、測定値が高いから、より推計値が低くなるように数字を操作しているということになるのである。

測定方法を空間線量から個人線量計に変更するだけでも、約2倍に基準線量を緩和していることになる。それでも高いとなれば、推計の計算式をかえて、まだ下げようとしている。空間線量は全く変わらず、いわゆる「線量推計値」だけが下げられたのである。

福島第一原発事故後、東北・関東の諸地域は広範に放射性物質によって汚染された。そこで、空間線量からの推計で年間1mSvを基準として除染された。もちろん、現実には、除染作業を行っても1mSv以下にならなかった地域も多い。それでも、とりあえず、除染作業は実施されたのである。

ところが、避難指示解除準備区域においては、測定方法が空間線量から個人線量に切り替えられ、さらには推定値の計算式が変更されることになっている。そのために、従来の空間線量では1mSv以上と認定されて除染の対象になった線量のある地域が、除染の対象にならなくなるケースが出現することが想定されるのである。

現時点の除染基準1mSvとは「社会的」基準である。そして、この基準は、すでに他地域では適用されている。このように「科学」の名をかりて、実質的に緩和された基準を福島第一原発周辺地域に押しつけるという不公平なことが、平然となされているのである。

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    STAP細胞問題の社会的バックグラウンド

現在、理化学研究所所属の研究員で早稲田大学で博士号を取得した小保方晴子を中心として発表したSTAP細胞ー刺激惹起性多能性獲得細胞問題が大きな議論を巻き起こしている。1月29日、小保方らは、イギリスの科学誌『Nature』に、STAP細胞についての論文掲載が決定したことを記者会見で発表した。再生医療などへの利用が見込まれる多能性獲得細胞としては、すでにiPS細胞ー人工多能性幹細胞があり、その開発者である山中伸弥京都大学教授はノーベル賞を受賞している。そのような期待とともに、中心的な研究者である小保方晴子がまだ若い30歳の女性であることとあいまって、発表当時は、大きな好意的反響をよんだ。

しかし、その後、他機関でのSTAP細胞再現実験が成功しない中で、小保方個人の研究者としての資質、さらに小保方らの研究成果自体への疑惑がインターネットなどで深まっていった。

大きくいえば、2つのことが指摘されている。まず、小保方晴子は2011年3月に早稲田大学で博士(工学)号を取得したが、その博士論文「三胚葉由来組織に共通した万能性体性幹細胞の探索」において、既存の文章を引用と明記せず、そのまま載せているということである。具体的にいえば、冒頭部分の約20ページ分の文章が、アメリカ国立衛生研究所のサイト「Stem Cell Basics」からの文章をそのままコピーアンドペーストしているとされ、参考文献紹介も他者のそれを使い回しているという。また、その中で使われている画像も別の企業が出したものをそのまま使っているのではないかという疑惑がもたれている。早稲田大学は、小保方晴子の博士号取得について検証をすすめる意向を示した。

他方で、今回の小保方などが発表した『Nature』掲載論文自体にも疑問符がつけられている。この論文の中でも、実験の手順を記した部分の一部が過去の研究のコピーアンドペーストであるのではないかと疑われている。また、実験の成果として出されている画像の一部が切り貼りなどで加工されており、さらには、別のテーマを扱っている博士論文の画像が使い回されていることも指摘されている。画像の加工については、小保方自身が「やってはいけないことという認識がなかった」と話しているそうである。そして、現在(3月27日)、共同研究者若山照彦山梨大学教授がSTAP細胞作成のためマウスの細胞を提供したが、そこから発生させたのではない細胞をSTAP細胞として提供した疑惑も浮上している。理化学研究所は論文の不備を認め、3月14日に小保方を含む論文執筆者全員に論文撤回をよびかけた。

この問題は、小保方晴子個人や、それに直接関わった研究者や教育研究機関(早稲田大学・理化学研究所・ハーバート大学など)固有の問題と考えられがちである。もちろん、直接に関わった個人や機関が直接の責任を負わなくてはならないのは当然である。そして、対処療法としては、個別の問題への対応が中心になるだろう。しかし、この問題について、個別の議論を離れてみてみると、現時点での日本の学術研究政策の失敗が、如実に現れていると思われる。

    研究者養成の博士号取得者倍増政策の失敗

まず、研究者小保方晴子の養成について、近年の博士号取得者倍増政策の観点からみておこう。現在、ハーバード大学にて食事や遺伝子と病気に関する基礎研究に従事している医学博士の大西睦子は、3月17日、国際情報サイト「フォーサイト」において、STAP細胞問題について一通り紹介したうえで、次のように述べている。

■博士号を“乱発”してきた日本

 そもそも、米国と日本では、博士号の品質が大きく異なります。2011年4月20日付 の『Nature』誌に、日本を始め中国、シンガポール、米国、ドイツ、インド、など世界各国の博士号の問題点が論じられています。

【The PhD factory,Nature,April.20.2011】

 その中で、日本の博士号のシステムは危機に陥っていて、すべての国の中で、日本は間違いなく最悪の国のひとつだと書かれています。1990年代に、日本政府が、ポスドク(博士号を取得した後、常勤研究職になる前の研究者のポジション)の数を3倍の1万人に増やすという政策を設定しました。その目標を達成するために、博士課程の募集を強化したのです。なぜなら、日本の科学のレベルを一刻も早く 欧米と対等にしたかったからです。その政策で確かに 人数だけ は増えましたが、大学などのアカデミアでは、地位につける人数に制限がありますし、企業の就職には年齢の制限があるため、逆に、 ポスドクの最終的な職場がみつからないという状況に陥りました。さらに、博士号を取得する研究者 の質も低下しました。

 日本の場合、ほとんどの学生が、修士号取得後のわずか 3、4年で博士号を取得して卒業します。いわば、博士号の“安売り”とも言える状況です。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140317-00010000-fsight-soci

このように、1990年代以降、日本は政策的に博士を3倍にする政策に乗り出したのである。しかし、博士の就職先は確保しなかった。博士課程在籍者は増えたのであるが、大学教員の増員など研究指導体制の強化ははかられなかったのである。そのため、一般的に、それぞれの博士課程在籍者への研究指導は弱体化し、博士号取得者の研究者としての質が低下することになった。他方、数としては増えた博士号取得者の就職難は、それ以前より競争によって激化することになったのである。

もちろん、この問題については、小保方個人やそれに関わった教育者、さらには、在籍した早稲田大学や留学先のハーバート大学の固有の問題も大きく影響しているだろう。また、理系と文系との違いもあるだろう。しかし、いくらなんでも、公開論文において、引用を明記せずに記載すれば、「盗用」の指摘は免れえない。そして、研究指導というものは、学部段階、修士段階、博士段階を通じて、そのような論文の作法を学んでいくものでもあるのだ。このことは、教育研究の失敗である。そして、その背景として、博士課程入学者を倍増したにもかかわらず、大学教員などの教育研究スタッフを増員しなかった政策自体を問題にしなくてはならないのである。

    大学・研究機関における「競争主義」の高唱と学術研究体制の弱体化

他方で、幸運にも大学や研究機関に入ることができた研究者たちには、「成果」を競争しあうことが強制されている。鈴鹿医療科学大学学長であり、前国立大学財務・経営センター理事長、元三重大学学長であった豊田長康は、自身のブログの中で、主に国立大学を対象としながら、次のように述べている。

2004年から実施された国立大学法人化は、わが国における第二次世界大戦後の大学改革以来の大きな制度改革であるとされている。各大学には文部科学大臣が定めた中期目標を達成するための中期計画・年度計画の策定が求められ、その達成度が評価されることになった。予算面については中期目標期間(6年間)内については年度を超えた繰り越しが認められ、運営費交付金の学内配分が各大学の裁量で可能となった。また、ガバナンスの面では、学長と役員会の権限が強化されるとともに、経営協議会が設けられて外部委員が参画することとなり、監事制度も導入された。会計面では、民間の会計制度を参考にした国立大学法人会計制度が導入された。

ただし、運営費交付金については効率化係数がかけられ、総体としては年約1%程度の率で削減されることとなった。なお、法人化と交付金の削減は、制度上は必ずしも連動するものではないと説明されているが、現在までのところ国立大学法人の運営費交付金は削減され続けている。また、附属病院建設に伴う債務償還の補てんという意味合いを持つ“附属病院運営費交付金”については、法人化第1期において経営改善係数により急速に削減された。なお、法人化第2期には“附属病院運営費交付金”という区分は無くなった。

また、運営費交付金の種別については、主として職員の人件費や経常的な運営費等に使われる基盤的な運営費交付金が削減される一方で、国の定めるプロジェクトを競争的に獲得する運営費交付金が確保され、また、高等教育予算の中に国公私立大学が競争的に獲得する教育研究資金が確保された。

法人化によって、目標設定と評価によるマネジメント、競争原理の導入、ある程度の現場への裁量権の付与と民間的経営手法の導入、学長の権限強化と監視機構の導入等といった制度改革がなされ、それに伴い、各大学において様々な教学および経営面での改善・改革がなされ、今日に至っている。

法人化の大きな目的の一つは、国立大学の機能強化を図ることであると考えられるが、一方、経営の効率化も同時に求められている。基盤的な運営費交付金の削減は、この効率化に対応する政策であると考えられる。

しかし、運営費交付金の削減が、各大学の経営効率化の努力によってカバーできる範囲であれば大学の機能は低下しないが、その範囲を超えると機能が低下する。現在、少なくとも国立大学の研究機能については、運営費交付金の削減が、法人化によって期待される効率化を超えて“機能低下”を招いている状況であると推測される。

国立大学は、わが国の学術論文数の生産において大きな割合を占めているセグメントであり、その機能低下がわが国全体の学術論文数の停滞~低下を招き、その結果、世界の主要国が学術論文数を増やしている中で、わが国の研究面での国際競争力の急速な低下を招いているものと推測される。http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/2be2f339579a29b5f6bff219c24c45f5

豊田の主張は、国立大学法人化の中で、運営費交付金が減額されていくことで、学術研究体制が弱体化していっているということである。そして、その中で、競争的に獲得される教育研究資金が導入されていくことになるが、結局、そのように競争を強いても、学術研究体制の弱体化は免れないのである。結果として豊田は次のように指摘している。

また、主要15か国の比較では、日本以外の先進国が軒並み増加を示し、また、中国を初めとする新興国が急速に学術論文数を増加させているのとは対照的に、唯一日本だけが停滞~減少を示している。論文数については2001~04年にかけて、日本はアメリカ合衆国に次いで2番目の多さであったが、それ以後、イギリス、ドイツ、中国に追い抜かれ現在5番目となっている。
(中略)
これらのデータは、日本の学術論文数減少が、政治状況に大きな問題のある国以外には見られない、日本だけに起こった世界的に見て極めて特異な現象であることを示すものと考えられる。
(後略)
http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/3941ddc676f2625ee80c977d6740b448

以上より、日本は論文の数ばかりではなく、注目度(質)についても国際競争力が低下しており、特にイノベーションの潜在力を反映すると考えられる高注目度論文数(質×量)の国際順位が下がっていることは、今後の日本経済の国際競争力にも暗雲を投げかけるものと考える。
http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/f74e2e58c6531dc71ee8c19e772f4821

このような観点から、科学技術指標2013のデータにもとづき人口当りのTop10%補正論文数を計算し、その国際比較を示した。日本は科学技術指標2013にあげられている主要国の中では台湾、韓国に次いで21番目となっている。欧米諸国は日本の約2~10倍産生しており、台湾は日本の1.9倍、韓国は日本の1.4倍産生している。現在、日本の論文産生が停滞~減少していることから、この格差は今後さらに拡大すると想定される。
(中略)
このように、日本は先進国として、人口あるいはGDPに見合った論文数を産生しておらず、新興国と同じレベルになっている。今後、学術論文産生の停滞~減少状況が続けば、日本の順位はさらに低下し、イノベーションの「質×量」で他国を上回らなければ資源を購入できない国家としては、10~20年先の将来が危ぶまれる状況であると思われる。
http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/fd1b54eb1b8c903b2ff01b38a229ee77

数字や立論の検証については、上記ブログをみてほしい。豊田は、現時点において、日本の学術論文が数的にも停滞もしくは減少しており、注目度も下がっていると主張しているのである。「競争主義」が高唱される中で、日本の学術研究体制自体が、世界に比較して弱体化していることは、単に、国立大学だけでなく、日本全体に通底する問題であるといえよう。

    競争を強いられた理化学研究所とSTAP細胞問題

このような競争主義は、独立行政法人である理化学研究所も同じである。例えば、毎日新聞は、次のような報道をしている。

特集ワイド:巨額研究費、理研が落ちた「わな」 予算の9割が税金 iPS細胞に対抗、再生医療ムラの覇権争い
毎日新聞 2014年03月19日 東京夕刊

 「科学者の楽園」と呼ばれる理化学研究所(理研)は税金で運営される独立行政法人だ。新たな万能細胞「STAP細胞(刺激惹起(じゃっき)性多能性獲得細胞)」の研究不正疑惑が理研を激しく揺さぶっている。カネの使われ方から問題の背景を読み解く。【浦松丈二】

 寺田寅彦、湯川秀樹、朝永振一郎……。日本を代表する科学者が在籍した理研は日本唯一の自然科学の総合研究所だ。全国に8主要拠点を持ち職員約3400人。2013年度の当初予算844億円は人口20万人程度の都市の財政規模に匹敵、その90%以上が税金で賄われている。

 予算の3分の2を占めるのが、理研の裁量で比較的自由に使える「運営費交付金」。STAP細胞の研究拠点である神戸市の理研発生・再生科学総合研究センター(CDB)には年間30億円が配分される。研究不正の疑いがもたれている小保方(おぼかた)晴子・研究ユニットリーダーは5年契約で、給与とは別に総額1億円の研究予算が与えられている。

 英科学誌「ネイチャー」に掲載されたSTAP細胞論文の共著者、笹井芳樹CDB副センター長は、疑惑が大きく報じられる前の毎日新聞のインタビューで「日本の独自性を示すには、才能を見抜く目利きと、若手が勝負できる自由度の高い研究環境が必要」と語り、この10年で半減されたものの運営費交付金がSTAP細胞研究に「役立った」としている。理研関係者によると、小保方さんに「自由度の高い」研究室を持たせ、大がかりな成果発表を主導したのは笹井さんだった。

 「万能細胞を使った再生医療分野には巨額の政府予算が投下されている。そのカネを牛耳る“再生医療ムラ”内には激しい予算獲得競争、覇権争いがある」と指摘するのは近畿大学講師の榎木英介医師だ。学閥など医療界の裏を暴いた「医者ムラの真実」の著書がある。失われた人間の器官や組織を再生することでドナー不足や合併症などの解消が期待される再生医療分野に対し、政府は13年度から10年間で1100億円を支援することを決めている。

 榎木さんは言う。「現在、政府予算の大半がiPS細胞(人工多能性幹細胞)の研究に回されています。顕微鏡1台が数百万円、マウス1匹でも数千円から特殊なものでは万単位になる。予算が獲得できなければ研究でも後れを取ってしまう。追いかける側の理研の発表では、山中伸弥京都大教授が生み出したiPS細胞に対するSTAP細胞の優位性が強調され、ピンク色に壁を塗った小保方さんのユニークな研究室内をメディアに公開するなど、主導権を取り戻そうとする理研の並々ならぬ意欲を感じた」

 笹井さんはマウスのES細胞(胚性幹細胞)から網膜全体を作ることに成功した再生医療分野の著名な研究者。榎木さんは「山中教授がiPS細胞を開発するまでは、笹井氏が間違いなくスター研究者だった」と言う。だが、iPS細胞が実用化に近づいたことで、笹井さんら“非iPS系”研究者の間では「埋没してしまうのでは」との危機感が高まっていたといわれる。

 「こうした競争意識が理研の“勇み足”を招いたのではないか」(榎木さん)

 霞が関でも研究予算を巡ってのせめぎ合いが繰り広げられている。「民主党政権時代がそうだったが、本来の『国立研究所』は不必要だ、第1級(の研究レベル)でなくても2級3級でいいというのであればそれまでだ。しかし、必要だというなら現在の独立行政法人制度では全く不十分だ。手をこまねいていては欧米の一流研究所を超えることはなく、躍進する中国の国営研究所に一挙に追い抜かれるだろう」。昨年10月23日、中央合同庁舎4号館の会議室でノーベル化学賞受賞者の野依良治・理研理事長が熱弁をふるった。世界に肩を並べる研究開発法人創設についての有識者懇談会で意見を求められたのだ。トップレベルの研究者に高額の報酬を支払えるようにしたい、それには法律で給与などを細かく定められた独立行政法人の枠組みから出なければ−−との訴えだ。

 実際、米ハーバード大学など一流大学の教授年収は約2000万円。世界トップレベルの研究者で5000万円を超えることは珍しくない。一方、理研の常勤研究者の平均年収は約940万円。これでは優秀な頭脳が海外に流出したとしても責められまい。

 「科学者に科学者の管理ができるのか」。財務省関係者からはそう不安視する声が聞かれたが、理研関連の来年度予算編成が大詰めを迎えた1月末、理研はSTAP細胞論文を発表。政府は早速、理研を「特定国立研究開発法人」の指定候補にすることを発表し、野依理事長の訴えは実りかけた。ところが、論文に画像の使い回しや他論文からの無断転載が相次いで見つかり、政府は閣議決定するまでの間、理研の対応を見極める方針だ。指定の「追い風」として期待されたSTAP細胞は逆に足かせになってしまったのだ。

 有識者懇談会委員の角南(すなみ)篤・政策研究大学院大学准教授は「チェック体制は制度改革の論点の一つで、そこがクリアできないなら理研の新法人指定は簡単ではない」と言う。「研究不正疑惑はいつでもどこでも起き得る問題だが、この時期に新制度の旗振り役である理研で起きてしまったことが、科学技術振興を成長戦略の柱と位置付ける政権の推進力に悪影響を及ぼさないことを願いたい」
 (後略) 
http://mainichi.jp/shimen/news/20140319dde012040002000c.html

まず、理化学研究所も、一般の国立大学同様、運営費交付金が減額されていることに注目しておきたい。理化学研究所のサイトに掲載されている年度計画の各年度予算によると、2005年度に運営費交付金が711億200万円であったが、それ以降次第に減額されて、2013年度は553億3000万円となっている。しかし、予算総額は2005年度が867億6900万円から2013年度には905億3900万円となっている。このように、一般的経費にあてられる運営費交付金が減額される中で、それまでの研究費を確保するためには、競争的資金を導入せざるをえなくなっているのである。そして、再生医療の分野において、理化学研究所側は、京都大学教授山中伸弥のiPS細胞開発に遅れをとっていた。そこで、注目されたのが、小保方晴子の提唱していたSTAP細胞だったといえるのだ。理化学研究所は、小保方晴子を採用し、多額の研究費を与えたのは、そのような意図であったと思われる。

しかし、結局のところ、小保方の研究においては、研究成果の「証拠」である画像そのものに疑惑がもたれることになった。これが意図的であるかどうかははっきりしない。そもそも「画像の加工」自体に「やっていけないことという認識がなかった」という小保方に、どれほどの責任意識があるのかとも思う。だが、小保方は、いうなれば理化学研究所の期待に応えようとしていたともいえるのだ。競争主義にさらされ、「成果」をあげることが一般的に強制されており、その中で、「成果」をデコレーションしようという誘惑にかられることは研究者個人としてあり得るだろう。短期間に「成果」をあげないと研究者自身が職を失うことになるのである。

他方で、「成果」をあげたとする研究について、競争状態に置かれている理化学研究所側も、短期に発表し、特許などの優先権を確保し、予算を獲得したいという意識がはたらき、研究をチェックしようという意識が減退していくことも容易に想像できる。少々問題があっても、追試に成功すればよいということになるのだ。これは、理化学研究所の問題であるが、競争を強いられている日本全体の大学・研究機関のどこでも起こりうることなのである。競争主義の高唱がもたらす日本の学術研究体制の弱体化の象徴といえるだろう。

    安倍政権の新成長戦略に打撃を与えたSTAP細胞問題

さて、前述の毎日新聞の記事は、政府の新成長戦略の一環としての科学技術振興政策に、今回の問題が打撃を与える可能性を指摘している。より、直接的に産経新聞が下記のように報道している。

STAP論文 中間報告 出はなくじかれた新成長戦略
産経新聞 3月15日(土)7時55分配信

 政府は、「STAP細胞」の論文を発表した小保方晴子・研究ユニットリーダーが所属する理化学研究所の改革を、安倍晋三政権が重視する6月の新成長戦略の一環と位置付けていた。だが、今回の事態を受けて、理研を軸に描いていた技術立国構想は出はなをくじかれる形となり、第3の矢の成長戦略にも影を落としそうだ。

 政府の総合科学技術会議(議長・安倍首相)は12日、世界最高水準の研究を目指す新設の「特定国立研究開発法人」(仮称)の対象候補を、理研と産業技術総合研究所に決めた。だが、正式な決定は見送られた。政府関係者によると、論文の疑惑が浮上する前は、同日の会議で正式決定の運びだったという。

 小保方氏がSTAP細胞の存在を発表すると、政府は世界的なニュースとして歓喜した。首相は1月31日の衆院予算委員会で「若き研究者の小保方さんが柔軟な発想で世界を驚かせる万能細胞を作り出した」と称賛。下村博文文部科学相は同日の記者会見で「将来的に革新的な再生医療の実現につながりうる」と述べ、理研をはじめ基礎研究分野への予算配分強化の方針を打ち出した。

 14日、菅義偉(すが・よしひで)官房長官は記者会見で「理研は国民に一日も早く結果を示す必要がある」と述べるにとどめ、理研の対応を見守る方針だ。山本一太科学技術担当相は記者会見で「関心を払わずにはいられない。しっかり意見も言っていかなければいけない」と指摘した。

 政府としては、新成長戦略の当てが外れることになりかねないばかりか、論文に故意の不正があったと判断されれば、組織体制をただすなど理研に厳しい対応を取らざるを得ない場面も想定される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140315-00000093-san-soci

いうなれば、安倍政権は、新成長戦略の柱の一つに科学技術の振興をあげ、そのため、「特定国立研究開発法人」に理化学研究所を指定しようとしていた。つまりは、「競争主義」において「成果」を出したものたちを、これまで以上に優遇しようとしていたのである。しかし、その「成果」とは何だったのだろうか。STAP細胞問題は、安倍政権の新成長戦略の柱も揺るがすことになったのである。

だが、結局、それは必然的であったのだと思う。博士号取得者の倍増、競争的資金の導入、「成果」至上主義は、競争こそが進歩であるという新自由主義的な思い込みから出発したといえる。もちろん、ある程度、成果を出す競争にさらされるほうが効率的な研究分野もあるだろう。しかし、学術研究とは、単に「有効性」を早期に成果として出すだけのものではない。そもそも、文系・理系を問わず、学術研究とは、自らの主体を含めた「世界」とはどのようなものであり、どのような仕組みで成り立っているのかを問うでもあるのだ。そして、学術研究の「有効性」も、上記のような問いに支えられているのである。近視眼に「成果」を求めて競争させることを至上にした、近年の学術研究政策の失敗を象徴するものがSTAP細胞問題であったと考えられるのである。このように失敗した学術研究政策に立脚したのが、安倍政権の新成長戦略の一環としての科学技術振興であったといえよう。

追記:小保方晴子個人やSTAP細胞の概略については、Wikipediaの当該記事を参考とした。

 

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さて、増えつづける福島第一原発の汚染水処理の切り札として、ストロンチウム他多くの放射性物質を除去できる設備として、ALPS(多核種除去設備)が設置された。この設備ではトリチウムは除去できないが、その他の62種類の放射性物質は除去できるとされている。

しかし、現実はどうだったのだろうか。福島民報では、3月17日に次のように回想している。

汚染水処理期待外れ ALPS試運転1年
 東京電力が福島第一原発の汚染水処理の切り札として導入した「多核種除去設備(ALPS)」は試運転開始から30日で1年を迎える。一日平均の処理量は11日現在、約180トン。相次ぐトラブルによる停止などで、一日に発生する汚染水約400トンの半分にも満たない。東電は増設で、平成26年度内にタンクに貯蔵している汚染水約34万トンの浄化完了を目指している。だが、トラブルが起きないことが前提で、計画通りに進むかどうかは不透明だ。

■増え続けるタンク
 東電は昨年3月30日、3系統のALPSのうち、「A」と呼ばれる1系統で試運転を開始した。同年6月中旬に「B」、同9月末に「C」と呼ばれる系統の試運転を始めた。今年2月12日には初めて3系統同時の試運転がスタートした。
 ALPSの汚染水処理のイメージは【図上】の通り。一日当たりの1系統の処理能力は250トンで、3系統が稼働すれば750トンの処理が可能だ。しかし、試運転開始後にトラブルが相次ぎ、11日現在までに処理した汚染水の総量は6万2792トンにとどまる。一日当たりの処理量に換算すると平均約180トンで、一日に発生する汚染水約400トンの半分にも達していないのが現状だ。
 高濃度の汚染水を保管する地上タンクは増え続けており、16日現在、約1100基、貯蔵量は約34万トンに上る。東電は平成26年度内に全てのタンクの汚染水を浄化させる目標を掲げている。だが、目標達成には一日当たりの処理能力を1960トンまで上げる必要があり、処理能力の向上が急務だ。

■増設頼み
 東電は4月以降、試運転から本格運転に切り替え、3系統を常時稼働させる。10月に3系統を増設する。さらに政府は同時期に一日当たり500トンの処理能力を持つ高性能ALPS1系統を整備する。
 現在の処理態勢と10月以降の見通しは【図下】の通り。東電のALPS6系統と、政府が新設する高性能ALPS一系統がフル稼働すれば、最大で一日2000トンの汚染水を処理できると見込んでいる。
 ただ、あくまでもトラブルによる停止がないことが前提だ。ALPSでは、試運転開始から作業員のミスなどが原因での停止が相次いでいる。特に、昨年9月下旬には作業員がタンク内部に作業で使用したゴム製シートを置き忘れる人為ミスも起きている。増設後、順調に汚染水処理を進めるには、作業員のミスが原因のトラブルを防ぐ対策が不可欠だ。

( 2014/03/17 08:36 カテゴリー:主要 )
http://www.minpo.jp/news/detail/2014031714538

要約すると、このようにいえるだろう。現在、ALPSは3系統あり、その処理能力の合計は1日あたり750トンあることになっている。汚染水は1日あたり400トン発生しており、それらタンクに貯められた汚染水は34万トンに上っている。東電は2014年度中にすべての汚染水を処理する計画をたてており、そのために、現状のALPSを増設して1日1500トンの処理能力をもたせるとともに、国が1日あたり500トンの処理能力を有する高性能ALPSを設置し、総計1日約2000トンの汚染水処理を行おうとしているのである。

しかし、現実には、ALPSのトラブルによる停止が相次ぎ、結局1日あたり180トンしか処理できていないのが現状である。ALPSを増設しても、実際にはどれほどの汚染水処理ができるのだろうか。

皮肉なことに、このネット記事が配信された翌日の18日、トラブルによるALPSの運転停止が発表された。朝日新聞がネット配信した次の記事をみておこう。

福島第一のALPSまた停止 一部で浄化能力失う不具合
2014年3月19日01時10分

 東京電力は18日、福島第一原発で発生する汚染水から放射性物質を取り除く多核種除去設備「ALPS(アルプス)」で、試運転中の3系統のうち1系統で処理ができなくなっていたと発表した。汚染水が十分浄化されないままタンクに移されたことを確認した。

 ALPSは、汚染水から62種類の放射性物質を取り除くとされる装置。東電によると、ストロンチウムなどベータ線を出す放射性物質全体の濃度を10万分の1程度まで下げる能力がある。だが17日に3系統あるうちの「B」と呼ぶ系統の処理後の水を調べたところ1リットルあたり1千万ベクレル程度残っていた。14日には異常はなかったという。

 東電はB系統で処理ができなくなったと判断。三つの系統で処理された水は一つに集めて貯蔵タンクに移すため、装置全体を止めた。東電はB系統の異常がいつから起きたのか調べているが、浄化されなかった汚染水が貯蔵タンクに移された可能性がある。

 ALPSは昨年3月に試運転を始めたが、装置内で汚染水が漏れるなどのトラブルが相次ぎ、この1カ月間にも電気系統の不具合が2度発生。その度に一部の系統で処理を止めている。
http://www.asahi.com/articles/ASG3L5JM3G3LULBJ00P.html?iref=comtop_list_nat_n01

これは、単に停止というだけでなく、ALPSの除去能力が一部稼働せず、汚染水が未処理のまま、タンクに移されたことを意味する。しかも、この記事にあるように、それ以前の1カ月間に2度も停止しているのである。

そして、24日にようやく、故障が特定され、一部の運転が再開された。朝日新聞の次のネット配信記事をみてみよう。

福島第一のALPS故障、原因はフィルター 運転を再開
2014年3月24日17時42分

 東京電力福島第一原発で汚染水を処理する多核種除去設備ALPS(アルプス)が故障した問題で、東電は24日、3系統あるうち1系統のフィルターが働かず、放射性物質を含む泥が取れていなかったと発表した。残り2系統は問題ないとして同日午後、運転を再開した。

 ALPSは、高濃度の汚染水からストロンチウムなど62種類の放射性物質を取り除くとされる設備。前処理として、薬品を入れて吸着を妨げる物質を泥状にしてフィルターでこし取った後、吸着材で放射性物質を取り除く仕組み。東電によると、フィルターが機能せず、泥がそのまま吸着材に流れ込んでいたという。

 その結果、処理できなかった汚染水がタンク21基に送られた。タンクの汚染を調べたところ、このうち9基分で6300トン分が汚染されたという。

 このほか、ALPSとタンクをつなぐ配管も汚染された。このため、東電は運転再開した2系統で処理した水を配管などに流し、汚染を洗い流せるかどうか調べる。配管を通した水は、汚染された9基のタンクにためるという。
http://www.asahi.com/articles/ASG3S4RGLG3SULBJ00J.html

しかし、トラブルの原因が特定されたからよかった、というものではない。共同通信は、24日のネット配信記事で、次のように指摘している。

試運転中の東京電力福島第1原発の汚染水処理設備「多核種除去設備(ALPS)」が、汚染水から放射性物質を取り除けないトラブルで停止、東電が目指す4月中の本格運転は厳しい状況になった。敷地内の地上タンクにたまり続ける汚染水の浄化を来年3月までに完了するとの目標達成も一層困難になってきた。
 ALPSはトリチウム以外の62種類の放射性物質を除去でき、汚染水対策の切り札とされる。18日に発覚したトラブルでは、3系統のうち1系統の出口で17日に採取した水から、ベータ線を出す放射性物質が1リットル当たり最高1400万ベクレル検出。本来なら、数億ベクレル程度の汚染水が数百ベクレル程度まで浄化されるはずだった。
 (中略)
 敷地内の汚染水を来年3月までに浄化するとの目標は、昨年9月に安倍晋三首相が第1原発を視察した際に、東電の 広瀬直己 (ひろせ・なおみ) 社長が表明した。達成には汚染水を1日当たり1960トン処理しなければならない計算で、ハードルは極めて高い。
 (中略)
  尾野昌之 (おの・まさゆき) 原子力・立地本部長代理は「改善点を新しい設備に反映させる。今回の件が、ただちに計画に影響を与えるとは思わない」とする。だが今回のトラブルの原因究明や、設備の洗浄などにかかる時間は不明で、本格運転の見通しは立たない。
 3設備を合わせても処理量は1日約2千トンで、1960トンを維持するには綱渡りが続く。いったん今回のようなトラブルが起きれば、計画は破綻しかねない。
(共同通信)
2014/03/24 13:57
http://www.47news.jp/47topics/e/251668.php

つまり、現状のALPSの本格運転自体が難しいのである。2014年度中に汚染水処理を完了するというのは、東京オリンピック誘致時に東電が表明した方針であった。つまりは、安倍首相の「アンダーコントロール」というのは、2014年度末にすら達成は困難であるということなのである。

ALPSは、そもそもトリチウムを除去できないという構造的欠陥をもっている。しかし、それにしても、トラブル続きで、まともに汚染水処理をこなすことができないという現状は、いったい何なのだろうか。このALPSの惨状には、もんじゅや六カ所村再処理工場と同じようなにおいを感じる。軽水炉本体のようなマニュアルのあるものはそれなりに作れるといえるのだが、独自技術をうまく実用化することができない。そして、日々トラブルにみまわれた結果の反省というものを見いだすことができない。福島第一原発事故自体に反省がないのである。そして、有益かどうかわからない技術に多額の資金が費やされ、さらに作業員も被ばくせざるをえなくなっている。そして、このような惨状を放置したまま、文字通りの「机上の計算」にもとづき、トップダウンで汚染水処理計画が設定され、その計画に基づいて、東京オリンピック招致が正当化されているのである。

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さて、今回は、フランスの文学者ジャン・ジオノ(1895〜1970)の『木を植えた男』を題材にして、ディストピアからユートピアを作り上げる言葉の可能性について語ってみたい。本書は、荒廃したフランス・ブロヴァンス地方で、森を復興することを目的にして、後半生を通じて木を植えていった男の話である。以下のように、絵本として出版されている。私は旅先の旅館で本書に初めて接した。ただ、かなり有名な本で、大抵の公立図書館には収蔵されているようである。

http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%A8%E3%82%92%E6%A4%8D%E3%81%88%E3%81%9F%E7%94%B7-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3-%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%8E/dp/4751514318

話は、第一次世界大戦直前の1913年に遡る。本書の語り手である「わたし」は、フランスの地中海側にあるプロヴァンス地方の山間に足を踏み入れていた。そこは、「草木はまばら、生えるのはわずかに野生のラベンダーばかり」という、全くの荒れ地で、たどりついたところは「無残な廃墟」であり、泉もかれはてていた。「わたし」は水を求めて歩き、そこである羊飼いの男に出会った。羊飼いの男は、まず、「わたし」に皮袋にあった水を飲ませ、さらに、高原のくぼ地にあり深い湧き井戸がある自分の羊小屋につれていってくれた。「わたし」は次のように語っている。

男はほとんど口をきかなかった。孤独の人とはそうしたもの。
それでかえって、その存在を、つよく人びとに植えつけるものだ。
潤いのないこの地にあって、かれはまことに清涼な命の水とも思われた。

「わたし」はこの羊小屋に泊まることになった。元廃屋であった羊小屋はきっちりと修理が施され、部屋もさっぱりかたづいており、「犬も飼い主同様に、まことに静かな性格で、ごく自然になついてくれた」と「わたし」は記している。他方で、この地域全体については、次のように描いている。

そのあたりの四つか五つかの村々は、
車もかよわぬ山腹に、点在し、孤立していた。
村人は、きこりと炭焼きで暮らしていたが、生活は楽ではなかった。
冬も夏も気候はきびしく、家々はきゅうくつそうに軒を接して、
人びとはいがみあい、角つきあわせて暮らしていた。
かれらの願いはただ一つ、なんとかして、その地をぬけだすことだった。

男たちは、焼いた炭を二輪車で
都会に売りに出かけては、またとって返すのくりかえし。
まるで、水とお湯のシャワーを交互に浴びるようなもので、
どんなに堅い良心も、いつしかひびいってしまおうというもの。
どんなことにもめらめらと、競争心の火を燃やす。
炭の売上げをめぐっても、教会の陣どりをめぐっても、
争いのたえぬありさま。

おまけに吹きすさぶ強い風が、
たえず神経をいらだたせ、
自殺と心の病いとが
はやりとなって
多くの命をうばいさる。

この記述を見ると、この地域は、単に厳しい気候風土だけではなく、「炭売り」という形で行われる商品経済への従属によっても荒廃していたということができよう。まさに、「ディストピア」そのものである。

さて、再び、羊飼いの男についての話にもどろう。かれは、夜になると、袋の中からどんぐりを出し、よりわけて、100粒のどんぐりを選別した。そして、朝になると、羊のえさ場のかたわらにある小さな丘に登って、どんぐりを一つ一つ植え込んでいた。「わたし」は次のように語っている。

かれは、カシワの木を植えていたのだった。
「あなたの土地ですか?」と聞くと、「いいや、ちがう」とかれはこたえた。
「だれのものだか知らないが、そんなことはどうでもいいさ」と、
ただただかれは、ていねいに、100粒のどんぐりを植えこんでいった。

この羊飼いは、3年前から木を植え続けていた。すでに10万個の種を植え、そのうち2万個が発芽した。半分くらいは生き残るとして、この不毛の地に1万本のカシワの木が根づくことになるだろうとこの羊飼いの男は見込んでいた。

そして、「わたし」は、このように物語っている。

ところでそのとき、わたしは急に、男の年が気になりはじめた。
50以上には見えていたが、聞くと55歳だという。
名をエルゼアール・ブフィエといい、かつては、ふもとに農場を持って、
家族といっしょに暮らしていた。

ところがとつぜん、一人息子を失い、まもなく奥さんもあとを追った。
そこで世間から身をひいて、まったくの孤独の世界にこもり、
羊と犬を伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生に、ささやかな喜びを見いだした。
でも、ただのんびりとすごすより、なにかためになる仕事をしたい。
木のない土地は、死んだも同然。せめて、よき伴侶を持たせなければと
思い立ったのが、不毛の土地に生命の種を植えつけること。

「わたし」は、30年もすれば1万本のカシワの木が育っているのだろうといい、ブフィエは、神さまが30年も生かし続けてくれれば、今の1万本も大海のほんのひとしずくということになろうとこたえた。そして二人は別れた。

「わたし」は第一次世界大戦に従軍し、1920年に再び、この地を訪れた。ブフィエは、「戦争なんぞはどこ吹く風、と知らぬ顔して木を植え続けていた」。彼の林はすでに長さ11キロ、幅3キロにまでなっていた。「わたし」は「それはまさに、この無口な男の手と魂が、なんの技巧もこらさずにつくりあげたもの。戦争という、とほうもない破壊をもたらす人間が、ほかの場所ではこんなにも、神のみわざにもひとしい偉業をなしとげることができるとは」と語っている。

その後、「わたし」は幾度となくこの地を訪問した。ブフィエの植えた林は、「自然林」として国家によって保護されたり、戦時中の「木炭バス」の燃料にされかけたりした。しかし、ブフィエは「第一次大戦同様、第二次大戦中も、ただ、黙々と木を植えつづけた」のであった。

「わたし」が最後にブフィエにあったのは、第二次大戦が終結した1945年7月であった。まるで、見違えるようになったこの土地について、「わたし」は次のように語っている。

1913年ごろ、村には、11、2軒の家があったが、
住んでいたのは、たった3人だけであった。
みな、粗野な人間で、それぞれがいがみあいながら、生活をしていた。

未来への夢もなく
気品や美徳を育くむような環境でもなく、
かれらはただ、死を迎えるために生きていた。

いまはすっかり変わっていた。空気までが変わっていた。
かつてわたしにおそいかかった、ほこりまみれの疾風のかわりに
甘い香りのそよ風が、あたりをやわらかくつつんでいた。
山のほうからは、水のせせらぎにも似た音が聞こえてきたが、
それは、森からそよぎくる、木々のさざめく声だった。
いや、水場に落ちるような水の音も、どこからか聞こえてくる。
いってみると、なみなみと水をたたえた噴水がつくられていた。
さらに驚いたことには、そのすぐそばに、1本の菩提樹が立っている。
葉の茂りぐあいからすると、芽生えて4年にもなるだろう。
それはまさしく、この地の再生を象徴するものだった。

さらにそのうえヴェルゴンの村には、
未来への夢と労働の意欲がみなぎっていた。
廃屋は、あとかたもなくかたづけられ、
あらたに5軒の家が建てられていた。
村の人口の、28人にふえて
なかには4組の若夫婦もいた。

植生の復興は、社会の復興につながったと「わたし」は語っているのである。この地域では、村が続々と再興され、「平地に住んでいた人たちが、高く売れる土地をひきはらって移り住み、このいったいに若さと冒険心をもたらした…人びとは生活を楽しんでいる。それら1万を越える人たちは、その幸せを、エルゼアール・ブフィエ氏に感謝しなくてはならないはず」と「わたし」は述べ、さらに、次のような言葉で、ブフィエを称えている。

ところで、たった一人の男が、
その肉体と精神をぎりぎりに切りつめ、
荒れはてた地を、
幸いの地としてよみがえらせたことを思うとき、
わたしはやはり、
人間のすばらしさをたたえずにはいられない。

魂の偉大さのかげにひそむ、不屈の精神。心の寛大さのかげにひそむ、たゆまない熱情。
それがあって、はじめて、すばらしい結果がもたらされる。
この、神の行いにもひとしい創造をなしとげた名もない老いた農夫に、
わたしは、かぎりない敬意を抱かずにはいられない。

「わたし」は、次のようにこの物語をしめくくっている。

1947年、エルゼアール・ブフィエ氏は、
バノンの養老院において、
やすらかにその生涯を閉じた。

この『木を植えた男』は年代記風に書かれており、現実に生きた人の個人史を書いたと思われるだろう。実際、1953年にジオノへ執筆を依頼したアメリカの『リーダーズダイジェスト』誌の依頼の趣旨は、「あなたがこれまで会ったことがある、最も並外れた、最も忘れ難い人物はだれですか」ということであった。しかし、ジオノが描いたエルゼアール・ブフィエがバノンの養老院で亡くなったという事実はなかった。つまりはフィクションなのである。そのことを知った『リーダーズダイジェスト』誌は掲載を拒否した。そこで、ジオノは著作権を放棄し、この物語を公開した。英語原稿は『ヴォーグ』誌に1954年3月に掲載され、世界に広まった。だが、フランスでは、ジオノ死後の1983年にようやく出版された。しかし、これらの版でフィクションであることを明示することは積極的にはなされず、多くの読者はエルゼアール・ブフィエが実在の人物であったと思い込んでいた(この過程については②を参照した)。

1987年に『木を植えた男』をアニメーション化したカナダのアニメーション作家であり、翻訳本の絵を書いているフレデリック・バックも、エルゼアール・ブフィエを実在の人物と思い込んで感動した一人であった。しかし、バックは、アニメーション化の途中で、この物語がフィクションであったことを知った。しかし、それでも、バックはこのアニメーション化をやめなかった。このアニメーションは、1987年アカデミー賞短編映画賞を獲得した。しかし、それよりも、重要な影響があった。②において、日本のアニメーション作家である高畑勲は、次のように指摘している。

すでに述べてきたように、この物語は1954年に出版されて以来、何ヶ国語にも翻訳されて森林再生の努力を励ましてきた。そしてフレデリック・バックのアニメーションが放映されたカナダでは一大植樹運動がまき起こり、年間3000万本だったものがその年一挙に2億5000万本に達した。『木を植えた男』は、人を感動させただけでなく、人を具体的な行動に立ち上がらせたのだ。

このように、実在しなかったエルゼアール・ブフィエを扱ったこの物語は、多くの実在するエルゼアール・ブフィエを誕生させたといえるのである。

たぶん、ジオノのねらいもそこにあったのだと思われる。1950年代はいまだ世界的にみてもエコロジーには関心がなかった。そんな中で進行する環境破壊の中で、権力の手を借りず、独力で木を植えて自然を復興させていく人物は必要であったが、そういう人物は実在していなかった。ジオノは、そういう人物も生き生きと語ることによって、フィクションを作り上げ、そのなかで、このことの必要性を形象化したのである。

この物語は実話ではない。しかし、結局は、現実になっていく。構図としては「ヨハネ福音書」などのそれを借りているといえる。「ヨハネ福音書」においては「初めに言があった…万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった…言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた」とある。そして、洗礼者ヨハネはキリストの到来を主張したが、しかし、実際のキリストに対面した時、「わたしはこの方を知らなかった」といっている。ヨハネをジオノ、キリストをエルゼアール・ブフィエに置き換えれば、この構図がより明瞭になるだろう。

といっても、ジオノは、キリスト教の構図を借用しているだけで、キリスト教の教理そのものを主張しているわけではない。彼は、たった一人の無名の個人が、独力で、自然を甦らせ、社会を復興させていく可能性を言葉で提示することに賭けていたといえる。エルゼアール・ブフィエの営為にとって、権力とは攪乱要因でしかなかった。ジオノは農村アナーキストの思想をもち、1930年代にプロヴァンスの山中で「新しい村」を建設する運動を従事したとされている(③参照)。そして、エルゼアール・ブフィエの営為は、二度の大戦で破壊することしかできなかった多くの人びとのあり方と対比されている。ジオノにとって、エルゼアール・ブフィエの営為こそが神にも等しい「人間の尊厳」なのである。

エルゼアール・ブフィエの死が象徴しているように、「木を植える」ことには物質的な見返りは何もないことが想定されている。しかし、「そこで世間から身をひいて、まったくの孤独の世界にこもり、羊と犬を伴侶にしながら、ゆっくり歩む人生に、ささやかな喜びを見いだした。でも、ただのんびりとすごすより、なにかためになる仕事をしたい」とあるように、孤独であるがゆえの「ためになる仕事」なのである。そして、このようなブフィエのあり方は、「炭焼き」に従事し利己主義によって引き裂かれている周辺住民と対比されている。

最終的に、エルゼアール・ブフィエは、自分の住んでいた荒れ地を楽園の地にかえた。この物語では、ディストピアがユートピアになったといえる。しかし、エルゼアール・ブフィエが実在の人物でないと同様、この土地も実在していなかった。ユートピアの語源通り「どこにもない土地」なのである。しかし、実在しない人物によるどこにもない土地を作り上げるフィクションが、言葉によって語られ、アニメーションとして表現されて、人びとの心に火を灯し、現実の行動につながっていった。無数のエルゼアール・ブフィエが実在するようになり、ユートピアを実現しようとする努力をはらうようになった。言葉のもつ一つの可能性がそこにあるといえる。

*『木を植えた男』には多数の日本語訳がある。今回は、次の三つを参照した。
①ジャン・ジオノ原作、フレデリック・バック絵、寺岡襄訳『木を植えた男』、あすなろ書房、1989年(絵本版)
②高畑勲訳・著『木を植えた男を読む』、徳間書店、1990年
③ジャン・ジオノ著、フレデリック・バック絵、寺岡襄訳『木を植えた男』、あすなろ書房、1992年

①は絵本版で、たぶんそのことを意識して、訳者が短く意訳し、日本では一般的ではないキリスト教的な表現などを省略している部分がある。②で高畑はそのことを批判し、フランス語の原文を掲げるとともに、より逐語訳に近い形の訳文を掲載している。そして、③では、絵本という形態を脱して、より完全に近い形で翻訳されている。ここでは、一般的に普及していると思われる①を訳文として掲げた。

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  • 「私」にとっての2014年3月11日
  • 東日本大震災から3年たった2014年3月11日の朝、新聞やテレビは、東日本大震災の回顧報道一色であった。もちろん、この中には、有意義な報道もある。しかし、なんとなく違和感を感じていた。

    その後、仕事で武蔵野市立中央図書館に行った。この図書館前には、いつも、日の丸と武蔵野市旗(確認していないがたぶんそうだろう)が掲揚されている。この日は、この2つの旗がいつもより低い位置で掲揚されていた。つまり、弔意をあらわす「半旗」である。

    この「半旗」を見て、2つのことを考えた。まず、マスコミ・自治体・国家の側が押しつけてくる「鎮魂」なるものへの違和感である。もう一つは、それでは、私個人は、どうするべきかということである。この日、何もしないままでいいのだろうか。とりあえず、そんな思いがないまざって、もともと参加する予定がなかった下記の催しに参加することにした。

    忘れない「3・11」キャンドルプロジェクト~ 被災地に思いをはせ、日本社会を見つめなおす日に ~ 3月11日の夜に歩きます

    2011年3月11日14時46分、東日本を激しい揺れが襲いました。
    人も、建物も、あらゆるものを飲み込んでいく大津波。
    息をつく間もなく入ってくる福島第一原発事故のニュースと放射能の恐怖――。

    忘れることのできない3月11日から3年。家族や友人を失った被災者の無念の思いは癒えず、厳しい避難生活が続いています。放射能汚染という目に見えない命と健康の危機、原発事故の危険は今なお存在しています。

    大震災と原発事故が明らかにした社会のゆがみはなんだったのか。被災者の「いま」を、これまでの日本社会のあり方を、私たちはもう一度見つめなおさなければなりません。

    あの日から3年となる3月11日、私たちはキャンドルに灯りをともします。

    被災者の深い悲しみを分かち合う追悼の灯り。
    被災者とともに復興をめざす新たな決意の灯り。
    貧困を拡大し原発依存の日本社会をもたらした政治への怒りの灯りを。
    http://candle311tokyo.blog.fc2.com/

    この催し自体は、渋谷の町をキャンドルを片手にパレードし、上記のことを呼びかけるというものであった。出発地点の代々木公園のケヤキ並木に到着してみると、数十人ほどが集まっており、地面の上に、キャンドルが並べられていた。

    忘れない「3・11」キャンドルプロジェクトにおいて並べられていたキャンドル

    忘れない「3・11」キャンドルプロジェクトにおいて並べられていたキャンドル

    ここで、主催者の人びとは、キャンドルになっているビニールコップにメッセージを書くことを参加者に促していた。実際、多くのコップにはメッセージが書かれていた。しかし、何も書かれていないコップもまだあった。

    私は…どうしても、メッセージを書くことはできなかった。震災や原発事故で亡くなった人びと、そのために今なお苦しんでいる人びとに対して、どのようなメッセージを書くことができようか。「鎮魂」などと短く書くことはできる。しかし、それだけで、どのような意味があるのか。万言を費やしても、なお「その言葉」を発することの意義が問われているように思えたのだ。

    そして、パレードの前に、小さな集会が開かれた。この集会では、主催者の人びとがパレードの意義を話し、さらに被災者や支援者たちがそれぞれメッセージを語っていた。その中で、最も印象に残ったのは、被災地に10回ぐらい足を運んでいる女子高校生の発言だった。彼女は石巻市の大川小学校(記憶ではそうだったと思う)の小学生が被災した話をして、「自分と同じぐらいの年の子どもが、なぜ死んだのか、友達を失ったのか」などと涙ながらに語っていた。彼女は、3.11時点で、まだ小学生だったのである。そのことに驚くとともに、また「言葉の可能性」について思いを巡らしていた。

    パレードが始まった。夜の渋谷をキャンドルをもってデモ行進するというものだったが、通常のデモのように、シュプレヒコールやドラム・サウンドでデモンストレーションするというものではなく、「イマージン」などのBGMにのって、前述の高校生などがメッセージを語るというものであった。途中から参加した人びともいて、最終的には130人が共に歩いた。

    主催者の人びとは、「私にとっての『3.11』」と題されたプラカードを用意していた。しかし、多くは、メッセージを書く欄が「白紙」になっていた。主催した人びとや私以外の参加者の問題ではないのだが、まるで私自身の心象風景のようだった。

    忘れない「3・11」キャンドルプロジェクトのパレード

    忘れない「3・11」キャンドルプロジェクトのパレード

    3.11をいわば短い言葉で「名づける」こと、そして、そのように「名づけた」もので、3・11を「厚く」記述すること、それは、このブログなどで、日常的に私自身が多少なりとも行ってきたことではあった。しかし、そのことは、被災によって亡くなった人びと、今なお苦しんでいる人びとに向けられたものだったのか。むしろ、自らと同じ年代の子どもたちの死を泣きながら悼んだ女子高校生の発話のほうが、人びとの情動を動かす「言葉」であったのではなかろうか。そんな思いにかられたのである。

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