さて、ここで、問題になっている、放射能汚染への恐怖の源流についてみてみよう。これは、かなり時代を遡り、中曽根康弘たちが原子力予算獲得に狂奔していた1954年3月に求められる。
これは、教科書的出来事なのだが、1954年3月1日、ビキニ環礁においてアメリカが水爆の核爆発事件を実施し、そのため、周辺海域で操業していた日本の漁船第五福竜丸が被災した。第五福竜丸は3月14日、焼津に帰港したが、船員に放射線被災者が出て、それが16日に読売新聞にスクープされた。これが、原水爆を禁止せよという世論を形成する契機になり、9月23日に船員の久保山愛吉が放射線障害で死去し、原水爆禁止運動へと展開していった…。
それは、そうなのだが、このような説明だけでは、この時代の人々が感じた、放射能への恐怖を実感することはできない。そして、この時代の人々が感じた恐怖は、現在のわれわれの恐怖でもある。今、日本社会における放射能汚染への恐怖の源流として、この事件を位置づけることが必要なのだ。
そのためには、まず、そもそもの発端である、1954年3月16日の読売新聞朝刊のスクープ記事からみていかねばならない。この記事は全体の見出しが「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」となっている。いろいろあるが、最も目を引くのは「焼けただれた顔、グローブのような手 ひん死の床で増田さん語る」と題して、重症の船員が語る次の話だろう。
『一日の朝四時半ごろ、ちょうどナワを入れている時だった。遠い沖の方の水平線から真赤なタマがすごい速さで空へぐんぐん上がっていったと思うと見たこともないような色んな色のまじった白い煙がもくもく立ち上がったのでみんな“何だろう”と話し合った。ところが、一時間半ぐらいした時に甲板にいると空からパラパラと何かが降って来たので”小雨のようだ“と言いあった。そのままふだん通り働いていたが三日ぐらいたった時、顔と手がふくれ、火傷のようになって来た。みんな南洋で陽に焼けていたし鏡をみることもないので自分でも気づかなかったが仲間が”おかしいぞ“というので気がついてみると頭が真黒に焼けていた。毛糸のジャケットとズボンをはいていたので体はなんともなかったが、出ていた頭と手がだんだんひどくなり、かゆくてたまらないので船でじっと寝ていた。”原爆でやられたんだろ“とみんながいうので船に降って来た灰も一緒にもって来て先生に渡した。』
放射性降下物いわゆる死の灰で被曝した状況がここでは語られている。ここでは、まず、①放射能が「灰」のイメージで語られ、②その場では被災は見えない、③時間の経過につれて放射線障害として発症する、とされていたことに着目したい。例えば、火傷などでは、被害は即座にわかるのだが、放射能汚染の被害は違う。被災は「灰」のようなものが付着しておこるのだが、すぐはわからず、時間が経過すると発症が判明するということになる。
逆にいえば、「灰」が付着する可能性があれば、その場ではなんともなくても、時間の経過によって、どこでも発症することになる。それは、現実的には「灰」が付着する可能性がなくても、神経症的にというか、仮想的というか、「灰」が付着する可能性があると認識すれば、だれでも、どこでも、放射線障害が発症しかねないと考えさせるようになってしまうのだ。
これが、いわゆる、直接的接触がない人・物を忌避する風評被害のもとになっている。「灰」といったが、「死の灰」をみたことがある人は少ない。それに、そもそも「灰」のどこに放射能が含まれているかはわからない。また、どれほどの放射能が人体に影響があるかもわからない。報道を読んでいると「半減期」という言葉はなく、放射能は時間につれて減衰することは言及されていない。目に見えない放射線ならなおさら恐怖をあおることになろう。ちょっとでも、「死の灰」に連想させる事物にあうと、すぐさま発症することがない放射能への恐怖がよびさまされるのである。
そして、読売新聞の報道も、「死の灰」への恐怖を呼び起こすようなものであった。この記事によると、「“死の灰”をつけ遊び回る」と題して、放射線障害を発症した2名以外の「他二十一名は灰のついた服のまま自宅に帰ったり、遊びに出たりしており、また船は灰のついたまま焼津港内に停泊している」とされている。「死の灰」が、焼津市内でまきちらされているという、恐怖のイメージが呼び起こされている。
そして、事態は、より、放射能への恐怖を強めていく。次で語る予定の「水爆マグロ」の出現は、消費者である国民全体に放射能への恐怖を植え付けることになった。
第五福竜丸事件もビキニ環礁での水爆実験も知ってるけど、”事実”について知らなかったことがこんなにあったとは。