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2011年12月10日、専修大学で開催された「同時代史学会」2011年度大会において行われた、政治学者加藤哲郎氏の報告「日本マルクス主義はなぜ『原子力』にあこがれたのか」を聞いた。ここで、その内容を簡単に紹介しておこう。なお、報告の論点は、日本政府の原子力開発政策の特質や、受け入れた日本民衆のあり方など多岐にわたっており、すべてを提示することはできない。ここでは、主要な内容と思われるものを、自分の能力の限りでアレンジしていることをことわっておかねばならない。

加藤哲郎氏は、なぜ、日本のマルクス主義者から高木仁三郎・小出裕章のような脱原発論者が生まれてこなかったと問いかけた。加藤氏は、とりあえず日本マルクス主義について、もっとも狭義に日本共産党に限定しつつ、日本共産党が社会主義における核開発を肯定していたと述べた。特に、日本共産党が社会主義における核開発を肯定する上でキーマンー「伝道師」とすら表現されているーとなったのが武谷三男であると加藤氏は主張した。終戦直後の武谷は、例えば「原子爆弾は、原子力を利用したものであるが、それが平和のきっかけをつくってくれた」と、反ファッショ技術として原爆開発を肯定するとともに、「原子力を利用すれば、シベリアのひろい野原や砂漠のまんなか、大洋のなかの島々のように、動力源がふべんなためにいままでひらけなかった地方もひらいてゆける」(武谷「原子力のはなし」 『子供の広場』1948.11)と原子力の平和利用を鼓吹していたと加藤氏は指摘した。そして、1950年代の日本共産党の原子力政策に、武谷の考え方が生かされていったと、加藤氏はいった。いろいろ例が出されているが、ここでは、次の資料をあげておこう。

ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展をしめすとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺したこと。原子力を動力源として適用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはやおかすことのできない革命の要さいであり、物質的基礎となった(「日本共産党第18回拡大中央委員会報告」 1950.1.18)。

そして、このような方針は、1954年の第五福竜丸事件を契機に展開した初期の原水爆禁止運動において、アメリカの原水爆実験に反対しつつ、原子力の平和利用を肯定していたことにも影響を及ぼしたとされている。

ただ、1950年代中葉以後、武谷と日本共産党本体は分岐していくと加藤氏は述べた。武谷は、次第に原子力開発の将来性に疑問をいだくようになり、さらには1956年のスターリン批判以降はソ連の核実験を批判するようになり、反原発住民運動に傾斜していくと加藤氏は指摘した。他方、日本共産党は、硬直的に、社会主義における原子力開発の可能性を主張した。その例として、例えば次の資料をあげている。

原子力についての敵の宣伝は、原子力がもつ人類の福祉のための無限の可能性が、帝国主義と独占体の支配する資本主義社会においてそのまま実現できるかのように主張している。しかし、帝国主義と独占体の支配のもとでは、軍事的利用が中心におかれ、それへの努力が陰に陽に追求され、平和的利用は大きく制限される。したがって軍事的利用を阻止し、平和利用、安全性をかちとる道は、帝国主義と独占体の支配の政策に反対する統一戦線の発展と勝利に結びついている。原子力のもつ人類のあらゆる技術的可能性を十分に福祉に奉仕させることは、人民が主権をもつ新しい民主主義の社会、さらには社会主義、共産主義の社会においてのみ可能である。ソ連における原子力の平和利用はこのことを示している(「原子力問題にかんする決議」 1961.7)

このような、社会主義における原子力開発の可能性を維持してきたことが、日本共産党系の人びとによる、「反原発」を指向するようになった社会党系の原水禁との対抗や、広瀬隆への批判活動の前提にあったと加藤氏は指摘している。このような方針は、チェルノブイリ事故やソ連邦解体などで現実には維持できなくなってきたが、今でも、例えば共産党委員長志位和男が「2,3世紀先の平和的利用可能性」に言及している(2011年8月の、志位・福島「老舗」対談)ように、原理的には放棄されていないと加藤氏は主張した。

質問に答えた形であると記憶しているが、加藤氏は、このような日本共産党が原子力開発の可能性に固執したことの要因について、彼らは社会主義政権になった場合、原子力の力を保持したかったのではないかと述べた。そして、1960年代末から1970年代にかけて、全世界的に環境問題がクローズアップされ、マルクス主義にかわって大きな影響力をもつようになり、西ドイツなどでは緑の党などの新しい政治勢力が出現したが、その可能性は日本ではなかったと述べた。

コメンテーターは思想史研究者の安田常雄氏であったが、戦後マルクス主義においてその思想様式を問題にしなくてはならないとし、理論信仰、エリート主義、人びとのくらしとの接点、どこでマルクス主義とふれあったのなどの論点をあげた。なお、加藤氏の報告は「マルクス主義と戦後日本の知的状況」という全体テーマの中で行われ、本来崎山政毅氏も報告するはずであったが、病気で欠席されたことをここで付記しておく。

加藤氏の報告は、日本共産党の人びとが、核兵器・原発にどのような姿勢をもっていたか、そして今どのような姿勢を有しているのかということを、豊富な資料をつかって示してくれた点で大きな意義をもつ。このことは、今まで部分的には知られていた。私なりに多少知っていたこともある。しかし、日本共産党に即して、これほど詳細に検討したことはないと思われる。そして、戦後日本社会における日本共産党の知的影響力の大きさからみて、このことを検討することは緊要な課題であった。そして、それは、なぜ日本で「脱原発」の運動が相対的に弱かったことを解明することにつながっていこう。

加藤氏に対する質問において、日本共産党だけで日本のマルクス主義総体を代表できるのか、日本社会党や社青同などはどのように対応していたのか、民衆全体の動向はどうかなどの疑問が出された。私自身もそう思う。福島県の原発誘致過程について、日本共産党自体がどれほど影響力があったといえば、かなり疑問だ。また、1960年代末から1970年代初めにかけて、福島県議会において社会党の県議たちが一斉に原発建設を批判するようになるが、その過程もまた分析していく必要があろう。ただ、これは、加藤氏にのみ答えを求める課題ではないだろう。私の、ひいては私たちの課題なのだと思う。

付記:報告者の氏名を渡辺治氏と勘違いしていた。皆様にお詫びしたい。削除も考えたが、とりあえず、自戒のために前の版は削除し、報告者氏名を訂正した上で、再度掲載しておく。内容については修正していない。

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