1、はじめにー問題の所在
福島第一原発事故を考えた時、いつも頭から離れないことの一つに、地元福島県に電力が供給しない東京電力が設置したということがある。もちろん、福島県の地元に供給していたとしても、事故の悲惨さは変わらないとはいえるのだが。しかし、やはり、不条理である。
といっても、基本的に、原発の生産した電力は、地元ではなく、遠隔の都市部で使われることがほとんどである。そもそも、原発は人口の少ない過疎地に多くは建設される。東海村のような例外は別として、原発自体はそれほど関連企業を吸引する存在ではない。例え、個々の電力会社の営業範囲に原発が立地していたとしても、原発の生産した電力は、大都市部のような電力消費地に送電され、そこで多くが消費される。
しかし、それで、原発が立地している地域が納得したかということは別である。何よりも問題であることは、原発の安全性である。さらに、原発が立地することによって、地域開発にどのような貢献があるのか。そのことは福島県議会でも重大な問題であった。
本ブログでは、これまで、1950~1960年代中葉までの福島県議会において、原発誘致について、日本社会党所属議員も含めて、ほとんど批判がなく、佐藤善一郎や木村守江などの歴代知事たちの、双葉地域を中心とする地域開発―地域工業化の核としての原発建設という論理にのった形で、誘致をおおむね評価する姿勢でいたことを述べてきた。
しかし、1960年末から1970年代初めにおいて福島県議会では、原発建設の問題性が追求されるようになった。ここから、しばらく、この時期の福島県議会における原発問題の論議をみていくことにする。
2、木村守江福島県知事による福島第二原発、浪江・小高原発建設計画の表明
福島県議会における原発問題の論戦の発火点となったのは、1968年1月4日に、木村守江が発表した福島第二原発、浪江・小高原発の誘致計画であった。
福島第二原発の建設反対運動については、本ブログでも、鎌田慧『日本の原発地帯』(1988年)などに依拠しながら、「福島第二原発建設に部落総会で反対した富岡町毛萱の人々ー東日本大震災の歴史的位置」(2011年6月2日)などでみてきた。また、いまだ計画中の浪江・小高原発の反対運動については、恩田勝亘『原発に子孫の命は売れないー舛倉隆と棚塩原発反対同盟23年の闘い』(1991年)が詳細に叙述している。福島第一原発誘致時とかなり違う点の一つとしては、地元に明確な反対運動があるかないかということが、これらの原発についてはあげられよう。そのことを念頭におきつつ、福島県議会の状況をみておくことにする。
1968年1月4日に発表された原発誘致方針は、同年2月14日に行われた福島県議会における木村守江の施政方針演説にもとりいれられた。木村は、1968年度の施策の中心として「南東北工業地帯の造成」「あしたの道路の建設」「住みよい都市の建設」「明るい農村の建設」「教育の振興」の五点をあげた。ある意味で、1960年代を象徴する、「開発」志向がそこにあらわれているといえる。
原発建設について、木村守江は「南東北工業地帯の造成」のなかでふれている。少々長いが、会議録の中から、その部分を引用しておこう。
まずその第一は、南東北工業地帯の造成であります。最近における企業の立地状況を見まするときに、常磐・郡山地区、あるいは県北地区のみならず、会津、県南、相双の各地区にも多数の企業が誘致されており、これらを拠点といたしまして、県内各地区相互の有機的関連をはかりつつ工業化を促進するとともに、公害防止などについて企業の社会的責任を高め、もって一体として南東北における理想的な工業地帯を造成しようとするものであります。そのため、一つには化学コンビナートをはじめとする近代的企業の誘致促進をはかり、二つには最近における企業立地の状況にかんがみ、県内各地区において積極的な工業用地造成を行ない、三つには小名浜港について、新港湾整備五カ年計画に基づき四号埠頭の建設などその画期的な整備を行ない、四つには現在建設中の東京電力原子力発電所に加えまして、今後二大原子力発電施設をはじめ、重油専焼火力発電所、石炭専焼火力発電所の建設によりまして、あわせて将来におきましては二千万キロワットに及ぶエネルギー供給基地を造成することであります。特に本年は原子力発電所、石炭専焼火力発電所の建設に意欲的に取り組む考え方であります。さらには、水資源総合開発基本計画を策定するとともに、猪苗代湖の総合開発をはじめ、特定地域の利水対策の推進をはかろうとするものであります。また、労働力の確保のため、新規学卒者の県内就職を促進し、職業訓練施設の整備を行なうなど、これらによりまして南東北工業地帯の造成に資せんとするものであります。(『福島県議会会議録』 国立国会図書館所蔵)
とにかく、野心的な計画である。常磐や郡山などの既存の工業地帯だけでなく、ある意味で、福島全県を「南東北工業地帯」として開発をすすめることとし、県内各地で工業団地造成をすすめていくというものなのである。その中で、原発を中心とした発電所建設は、重点目標なのであった。福島民報などには、1月4日に木村知事が福島第二原発、浪江・小高原発の誘致計画発表の記事が掲載されているが、そこでも「南東北工業地帯」造成が主張されている。木村は、この年知事選を迎えるが、そのための選挙公約としての意味もあるといえる。
しかし、それまでの原発において目標とされた双葉地域の開発とはイメージが違っていることに注目しておきたい。地域開発は、全県におよぶものとされるとともに、発電所建設は「エネルギー供給基地」造成のためのものとされたのである。元々、建前では、原発の電力を使って立地地域それ自体の工業化をはかることが目的とされていた。ここでは、原発立地地域は、ただの「エネルギー供給基地」になるのである。福島全県が「南東北工業地帯」となるのだが、その中で、原発が立地している双葉地域は、特別な便宜をはかるべき対象ではなくなるのである。
3、原発誘致に懸念を示す自由民主党議員鈴木正一
さて、このような木村の方針は、どのように福島県議会では受け取られたのであろうか。実は、かなり微妙な対応が、木村の与党である自由民主党の議員からもみられたのである。2月21日、自民党の鈴木正一(信夫郡選出)が県議会で代表質問を行った。鈴木は、木村の功績の一つとして「原子力発電所の建設」をあげている。さらに、鈴木は、このように木村県政を評価した。
県土を開発して産業基盤の整備と近代化をはかり、県民の富を増大して県民生活の向上を期するための基本方針として、今回南東北工業地帯の造成、あるいは住みよい都市の建設、あるいは明るい農村の建設を打ち出されましたことは、まことに力強い施策であります(『福島県議会会議録』 国立国会図書館所蔵)。
加えて、鈴木は、京浜・京阪神に比肩する一大工業地帯の形成をめざすものとして、「南東北工業地帯」造成をたたえたのであった。そして、質問の最後のほうで、木村知事に知事選出馬を促している。
だが、鈴木は、「南東北工業地帯」について、部分的には懸念も表明している。
しかしながら、南東北工業地帯造成の推進に当たり、ややもすれば常磐・郡山地区を中心とする新産業都市建設に重点が注がれ、県内各地域の均衡ある工業開発がおくれをとるような事態が生じないよう十分な配慮がなされるべきであると考えられるのでありますが、これが方策をお聞きしたいのであります。
また工業開発に伴いまして、とかく発生しがちな公害の問題につきましては、快適な県民生活を守るという立場でこれを完全に防止する必要があると思うのでありますが、従来のような後手後手に回りがちな公害防止対策ではなく、これを未然に防止するような具体的な方策を立てるべきだと思うのであります。
また電力供給基地の中核となる原子力発電所の建設につきましては、その安全性について一部に危惧の念があるようでありますが、これらの不安を解消するためにもこの本会議場において確信のほどを明確にされることを望むものであります。
なお原子力発電所につきましては、これに関連する企業が少ないのではないかと聞いているのでありますが、この発電所が真に本県の開発に役立つものであるかどうか。この点についてもあわせて明確にされたいと思うのであります(『福島県議会会議録』 国立国会図書館所蔵)。
つまりは、まず、「南東北工業地帯」造成ということで、逆に新産業都市の常磐・郡山だけの開発にならないようにと指摘している。そして、公害についても、未然に防止することが必要であるとしている。
さらに、原発については、安全性に不安があることが指摘されている。加えて、原発は関連企業誘致の波及効果がないことが論じられている。自民党の鈴木にとっても「原発は安全か」「この発電所が真に本県の開発に役立つものであるかどうか」は、疑問になってきたのである。
もちろん、鈴木が、木村知事のいう「南東北工業地帯」造成に賛成であることは確認しておかねばならない。その意味で、究極的には原発建設を容認していたといえる。しかし、それでも、原発がかかえている問題にふれざるをえなかったのである
これまで、自民党議員はおろか社会党議員も含めて、原発建設に懸念を示すということはなかった。原発は安全か。原発建設は立地する地域社会の開発に貢献するのか。公害や、県内における地域開発の落差も含めて、原発がかかえている問題を、自民党議員すら気づくようになったのである。これは、まさしく、1950~1960年代中葉までの福島県議会の認識とは大きく異なっているのである。
4、今後の展望
自民党議員すら原発に懸念を表明するようになったことをここでは述べた。もう少したつと日本社会党の議員たちが、原発建設を批判するようになってくる。特に、このブログではなんども触れたが、1971年に福島県議会に初当選する岩本忠夫(双葉郡選出)は、その急先鋒であった。
しかし、自民党議員たちも、実は1960年末から1970年代初めにかけて、原発建設には賛成しつつも、原発の安全性などを議会における質問項目に加えていたのである。ある意味で、原発が建設されている地域社会において反対運動がおきていたことと照応するのであろう。もちろん、自民党議員は反対運動を代表するわけではなく、むしろそれを抑圧し、原発を推進する側にいた。しかし、反対運動が提起した原発の問題性を考えようとする意識は、自民党の県議すら共有することになったといえる。ここに、原発問題への意識における転換の始まりを読み取れよう。原発の安全性、さらに原発は地域社会の開発に貢献するのか。それは、推進側の自民党議員すら目をそらすことができなくなった問いなのであった。
そして、社会党議員が中心に指摘し、自民党議員すら感じていた原発の問題性について、次回以降より詳しくみていくことにする。
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