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さて、東日本大震災と福島第一原発事故に対して、科学者は何ができるのだろうか。もちろん、義援金を送る、ボランティアに行くなどの直接的支援も個人としては可能である。また、例えば、脱原発デモに行くなど市民としての政治的意思表示もできるだろう。しかし、科学者の職能を生かしたこととして、どのようなことができるのか。

これは、広い意味で、「研究」(自然科学・社会科学・人文科学)に携わっている者すべての問題である。しかし、ここでは、自然科学者である児玉龍彦氏が『内部被曝の真実』(幻冬舎新書 2011年)で提示した考え方に即して検討していくことにする。

児玉龍彦氏は、東京大学医学部出身で、現在、東京大学先端科学技術研究センター教授・東京大学アイソトープ総合センター長である。福島第一原発事故後、児玉氏の言によれば法律違反を犯してまで南相馬市の放射線の測定と除染を行ってきた。そして、7月27日に衆議院の厚生労働委員会に参考人として出席し、放射線の測定や除染についての国の無策を「私は満身の怒りを表明します」と批判し、国策として、福島第一原発周辺における放射線の測定と除染を行うことを提唱した。

ここでは、児玉氏の行動の背後にある思想に注目してみたい。児玉氏は、1986年のチェルノブイリ事故の際多くみられた小児甲状腺がんについて、このように指摘する。

 

性質が特徴的である小児の甲状腺がんといっても、ウシとヒトの2段階の生物学的濃縮と、2段階の遺伝子変化を経て発症までには長い時間がかかっている。こうした場合に数万人集めて検診を行なっても、なかなか因果関係を証明できない。エビデンスが得られるのは20年経って全経過を観測できてからである。これでは患者の役には立たない(本書p83)。

今や周知である、チェルノブイリ事故による小児甲状腺がんの増加について、統計的に因果関係を証明するというエビデンスを得るのに20年もかかったというのである。そして「これでは患者の役には立たない」と児玉氏は主張するのである。

エビデンスがないということは問題がないということではない。本書の中で、児玉氏は、長崎大学名誉教授長瀧重信氏の次のような主張を引用している。

国際機関で“因果関係があると結論するにはデータが不十分である”という表現は、科学的には放射線に起因するとは認められないということである。ただし、科学的に認められないということは、あくまで認められないということで、起因しないと結論しているわけではない。(長瀧重信「私の視点 被爆者援護法 科学の限界ふまえ改正せよ」 朝日新聞2009年8月2日号 本書p84より引用)

その上で、児玉氏は、このような形で問題を把握することを主張した。

それでは、病気が実際に起こっている段階で、医療従事者はどのように健康被害を発見したらいいのか。ここで、普通で起こりえない、「肺転移を伴った甲状腺がんが小児に次から次へとみられた」という極端な、いわば終末型の変化を実感することが極めて重要になってくる。軽微な変化を多数みるのではなく、極端な現象に注意するということが警報として最も大事であろう(本書p83~84)

ここでは、上から俯瞰的に見るのではなく、現場にたち、そこでの重要な問題を考えていくことが「警報として最も大事」としている。ある意味で、場に即した「臨床」の知といえるだろう。

児玉氏は、津波被災予測問題をとりあげ「専門家とは、歴史と世界を知り、本当の危機が顕在化する前にそれを防ぐ知恵を教える人でなければならない」(本書p114~115)という。他方で、「福島にとどまって住まざるをえない人々がいる以上、その人たちのためにどのような対応を急ぐべきかが重要だ。危険だ、危険だとばかり言っていてもしかたがないのではないか。」(本書p59)という質問に対して、このように答えている。

 

危険なことがあったら、これは本当に危険だから、苦労があっても何でもやっていこうと国民に伝えるのが専門家です。みんなが専門家に聞きたいのは、何も政治家みたいに折り合いをつけることじゃない。危険を危険だとはっきり言うのが専門家なのです。
 今までの原子力学会や原子力政策のすべての失敗は、専門家が専門家の矜持を捨てたことにあります。国民に本当のことを言う前に政治家になってしまった。経済人になってしまった。これの反省なくしては、われわれ東京大学も再生はありえないし、日本の科学者の再生もありえないと思っています。(本書p61)

危険を最大限防ぐために警告するーそれこそが専門家に求められていることと児玉氏はいう。そして、そのような専門家の矜持を捨てたことが、原子力学会・原子力政策の失敗の原因であると児玉氏は指摘するのである。

そして、児玉氏は、政治・行政については、国会でこのように要望している。

 

私が一番申し上げたいのはですね、住民が戻る気になるのは、行政なり何なりが一生懸命測定して、除染している地域です。測定も除染もなければ、「安全だ」「不安だ」と言われても、信頼できるところがありません。ですから、「この数値が安全」「この数値がどう」ということではなしに、行政が仕組みを作って一生懸命測定をして、その測定に最新鋭の機械を投じて、除染に最新鋭の技術をもって、全力でやっている自治体が、一番戻るのに安心だと思います(本書p35)。

といいつつも、児玉氏にもためらいがないわけではない。7月27日に国会で話す前に、児玉氏はこのように感じていたという。

 

だが、放射線被害と、その予防について、1週間でまとめて、国会で話せる自信はなかった。間違ったことを言ってご迷惑をかけるかもしれない。専門家としての自分の評価に傷がつくかもしれない。
 ためらいがあった。(本書p115)

児玉氏は、実はかなりの葛藤を抱いていたと考えることができる。科学者としては、「間違ったこと」はいいたくない。それは「専門家としての自分の評価」ということにもかかわるのだ。例えば、チェルノブイリ事故の際の小児甲状腺がんの発生については、「エビデンス」にこだわって、放射線起源であることを科学者としてもなかなか認めなかったのは、単に、IAEAやソ連の当局者に影響されたとばかりみることはできない。実証性を重んずる科学者の特性でもある。

しかし、それは、それこそ、IAEAなどが原発事故の影響を過小評価することにも結び付いてしまうといえよう。それこそ、20年もかかって小児甲状腺がんと事故との因果関係が立証されるしかないならば、それまでの期間は原発事故の人体の影響は考慮されない。そして、それは、対策の遅れにもつながっていく。今苦しんでいる人たちにはどのような医療を施したらよいのか。このことにはだれが責任をもち、費用負担はどうするのか。因果関係が立証されるまで何もしないということは、今、目の前で苦しんでいる人たちを救わず、責任者たちの責任回避を助けることになる。

その意味で、児玉氏は、「専門家とは、歴史と世界を知り、本当の危機が顕在化する前にそれを防ぐ知恵を教える人でなければならない」というのである。とにかく、今、起ころうとする危機を直視し、それが顕在化するまでに、対処できる知識を手渡していなねばならない。それこそが「専門家」だということになる。

もちろん、例え20年かかっても、学術的に因果関係を実証することを児玉氏は忘れているわけではない。本書では、何年かかっても実証してきた人びとに対する敬意の念があふれている。臨床の場で状況を把握し対処しつつ、やはりエビデンスを求めていくということ、そのような往復関係として、児玉氏の「科学」はとらえるべきなのではなかろうか。

このような児玉氏の姿勢は、自然科学だけでなく、社会科学・人文科学においても尊重すべきものと思う。

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