さて、原発立地自体は、地域社会にとって多大な利益を与えるのか。以前、本ブログで『富岡町史』を紹介し、福島第二原発によって獲得したものとして、固定資産税、電源交付金、雇用の場(といっても多くは原発定期点検中の臨時かつ被曝する恐れのある労働力のようだが)、明るい商店街などをあげているのをみた。
その問いは、実は福島第一原発の用地交渉を統括した、福島県企画開発部開発課長横須賀正雄からも発せられていた。横須賀は、日本ダム協会編『用地補償実務例(Ⅰ)』(1968年)に、「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」という文章を寄稿している(なお、この資料の存在はウィキペディアにより知った)。横須賀は最後の「7.今後の原子力発電所建設の見通しと問題点」で、まずこのようにいっている。
昭和41年に着工された1号機40万kwは、45年10月に営業運転が開始される予定であり、2号機75万kwは、現在、通産省等に対し許可申請中である。この敷地の中に、3号、4号という計画をもっているが、福島県としては、用地の広さからみて、4号のみではなく、8号程度まで建設できるのではないかと考えている。
さらに、太平洋海岸線に沿って、このほかにも原子力発電所建設基地があるという判断のもとに、幾つかの原子力発電所建設誘致したいと考えている。
このように、福島県を代表して、横須賀は福島第一原発を8号機まで増設する(実際には6号機まで)ことを期待し、さらに他にも太平洋岸に原発を誘致する意向を表明していた。それが、東電の福島第二原発建設、東北電力の浪江・小高原発計画につながっていくのである。
にもかかわらず、横須賀は、発電所建設単体では多くのメリットが地域社会に下りると思っていなかった。次のように、横須賀は語っている。なお、ここであげている固定資産税は、減価償却によって毎年減じていく性格をもっている。まして廃炉になれば、税収減は著しい。
しかし、ここで問題になることは、かっての只見川電源開発の過程では、何万人もの労働者が集まり、長期間にわたり工事が行われたが、工事完了とともに田子倉、滝発電所50万kwのための運転要員がわずか残った程度で、電力は東京なり、仙台に送られるということにより、地元に対するメリットとしては、固定資産税程度しか残らなかったということである。横須賀によれば、工事中は多くの労働者が集まったが、工事終了後は運転要員しか残らず、電力もすべて大都市に送られてしまい、地域社会には固定資産税しか残らなかったというのである。
そして、横須賀は、次のように、地域開発への期待を物語るのである。
そこで県としても、単に原子力発電所建設のみでなく、地域全体の産業全般につき再検討を加え、生産業を主体とした工場の誘致をはかり、地域的開発を促進していきたいと考え、今後の方向等について調査を行なっているところである。
『福島県史』第五巻(1971年)は、1970年に発表された「福島県勢長期展望」を引用し、原子力発電所建設を契機とした地域開発を提示している。それによると、大規模重化学工業の展開、動力炉・原子力船の開発、原子核エネルギー利用開発のための研究機関の設置、冷却水を熱源とした温室栽培や養殖漁業の展開などを予想される地域開発の成果としている。福島県としては、原子力発電所建設単体では大きなメリットはなく、このような地域開発の契機となってはじめて原子力発電所建設は恩恵になるとしていたのである。
しかし、現実には、このような地域開発は難しかった。また、建設された原発はたびたび事故をおこし、元来からあった原発への不安を増幅させた。そのため、中曽根康弘が通産相であった1974年に成立した電源三法による電源交付金が必要になったといえる。
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