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Posts Tagged ‘反原発運動’

さて、山本太郎の行動に対する閣僚や議員たちの反応は前回のブログでみてきた。しかし、いわゆる「識者」という人びとの対応では、二様の評価に分かれている。まずは、朝日新聞がネット配信した記事をみてみよう。

山本太郎議員の行動、識者の見方は 園遊会で陛下に手紙
2013年11月2日08時01分

 10月31日の園遊会で、天皇陛下に手紙を渡した山本太郎議員の行動について、明治時代に天皇に直訴した田中正造になぞらえる向きもある。元衆院議員の田中は1901年、足尾銅山(栃木県)の鉱毒に苦しむ農民を救おうと明治天皇の馬車に走り寄り、その場でとらえられた。

陛下に手紙「政治利用」か?
 「田中正造における憲法と天皇」の論文がある熊本大の小松裕教授(日本近代思想史)は、(1)田中は直前に辞職し個人で直訴したが、山本氏は議員の立場を利用した(2)明治天皇には政治権力があったが、今の天皇は象徴で何かできる立場ではない、という点で「同一視できない」とみる。

 山本氏には「公人の立場を考えるべきだった」と指摘しつつ、政府内の批判にも違和感があるという。天皇陛下が出席した4月の主権回復式典を踏まえ、「政府の方こそ利用しようとしており、あれこれ言う資格はない」。

 一方、栃木県の市民大学「田中正造大学」の坂原辰男代表(61)には、環境や住民を顧みず開発を続けた当時の政府と、福島で大きな被害を出しながら原発再稼働を進める現政権が重なる。「善悪の判断は難しいが、正造が生きていたら同じ行動をしたと思う」

     ◇

■批判、公平でない

 山口二郎・北海道大教授(政治学)の話 今の天皇、皇后のお二人は戦後民主主義、平和憲法の守り手と言っていい。しかし主張したいことは市民社会の中で言い合うべきで、天皇の権威に依拠して思いを託そうと政治的な場面に引っ張り出すのは大変危うく、山本議員の行動は軽率だ。一方で、主権回復式典の天皇出席や五輪招致への皇族派遣など、安倍政権自体が皇室を大規模に政治利用してきた中、山本氏だけをたたくのは公平ではない。山本氏も国民が選んだ国会議員であり、「不敬」だから辞めろと言うのは、民主主義の否定だ。

■政治利用と言うには違和感

 明治学院大の原武史教授(政治思想史)は、「今回の行為を政治利用と言ってしまうことには違和感がある。警備の見直しについても議論されるなど大げさになっており、戦前の感覚がまだ残っていると感じる。政治利用というならば、主権回復の日の式典に天皇陛下を出席させたり、IOC総会で皇族に話をさせたりした方がよほど大きな問題だと感じる」と話した。

 原教授は自身のツイッターで、「山本太郎議員の『直訴』に対する反発の大きさを見ていると、江戸時代以来一貫する、直訴という行為そのものを極端に忌避してきたこの国の政治風土について改めて考えさせられる」ともつぶやいた。
http://www.asahi.com/articles/TKY201311010580.html

この朝日新聞の記事は、①先行者とされる田中正造との関連における評価、②現代の社会状況における評価を二組の識者に聞いたものである。①については、小松裕が田中正造と同一視できないと答えているが、坂原辰男は現政権と足尾鉱毒事件時の明治政府の対応は重なっており、田中正造が生きていたら同じ行動しただろうとしている。

②については、どちらも現政権の政治利用のほうが問題は大きいとしながらも、山口二郎が天皇の権威を利用して主張すべきではなく山本の行動は軽率だと批判しているのに対し、原武史は政治利用というには違和感がある、前近代以来直訴というものを忌避してきた日本の政治風土の問題であるとした。

この朝日新聞の記事では、歴史的にも、現状との関連においても、山本の行動への評価は大きく二つに分かれている。これは、私が個人的に使っているフェイスブックを通じて表明される「友達」の反応もそうなのだ。ある人たちは反原発運動を進めるためや、政府による「天皇の政治利用」の問題性をあぶり出す効果があるなどとして山本の行動を評価する。しかし別の人たちは、現行憲法では天皇は国政に関与できないのであり、あえて反原発運動に同意を求めることは、戦前の体制への回帰につながるなどとして、山本の行動を批判的にみているのである。

実は、1901年12月10日の田中正造の直訴においても、このように二つに分かれた評価が同時代の社会主義者たちでみられた。現在、田中正造の直訴は、彼の単独行動ではなく、毎日新聞記者(現在の毎日新聞とは無関係)で同紙において鉱毒反対のキャンペーンをはっていた石川半山(安次郎)、社会主義者で万朝報(新聞)記者であった幸徳秋水(伝次郎)と、田中正造が共同で計画したことであったことが判明している。幸徳は、直訴状の原案を書くなど、この直訴に多大な協力をした。田中正造の直訴後の12月12日、幸徳秋水は田中正造に手紙を書き送っているが、その中で直訴について次のように述べている。

兎に角今回の事件は仮令天聴ニ達せずとも大ニ国民の志気を鼓舞致候て、将来鉱毒問題解決の為に十分の功力有之事と相信じ候。(『田中正造全集』別巻p42)

幸徳は、直訴が天皇に達しなくても、国民の世論を大いに刺激することで、鉱毒問題の解決に効果があるとここでは述べている。社会主義者の幸徳が「天聴」という言葉を使っていることは興味深い。とりあえず、幸徳は直訴を評価しているといえる。

一方、キリスト教系社会主義者で、毎日新聞記者でもあった木下尚江は、鉱毒反対運動にも関わっていたが、直訴には批判的であった。次の資料をみてほしい。

(田中正造の直訴は)立憲政治の為めに恐るべき一大非事なることを明書せざるべからず、何となれば帝王に向て直訴するは、是れ一面に於て帝王の直接干渉を誘導する所以にして、是れ立憲国共通の原則に違反し、又た最も危険の事態とする所なればなり(木下尚江「社会悔悟の色」、『六合雑誌』第253号、1902年1月15日)

木下尚江の直訴批判は、まるで山口二郎の山本批判のようである。明治期においても、天皇の政治への直接干渉をさけることを目的として天皇への直訴を批判するという論理が存在していたのである。

このように、天皇に対する「直訴」は、1901年の田中正造の場合でも評価がわかれていたのである。運動のために有利なことを評価するか、天皇の政治への直接介入をさけることを目的として批判するか。このような二分する評価は、100年以上たった山本太郎の行動をめぐっても現れているのである。

なお、田中正造と山本太郎の「直訴」行動自体の比較は、後に行いたいと考えている。

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さて、前回のブログで、1969年に東京都立大学助教授に赴任した高木仁三郎が、「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」(宮沢賢治)をめざして、大学をやめようと考えるにいたったことを述べた。高木は、西ドイツのマックス・プランク核物理学研究所に留学し、東大原子核研究所時代以来抱いていた研究テーマをまとめた。そして、1973年に、慰留をうけながらも東京都立大学をやめた。高木は、その時の思いを、『市民科学者として生きる』(岩波新書、1999年)で、次のように回想している。

大学や企業のシステムのひきずる利害性を離れ、市民の中に入りこんで、エスタブリッシュメントから独立した一市民として「自前(市民)の科学」をする、というのが私の意向だった(同書134頁)

もちろん、生活を維持することには苦労していたと高木は回想している。雑誌『科学』(岩波書店)の科学時事欄執筆を匿名で担当する、他の雑誌に原稿を書く、翻訳に従事するなどで、ようやく生計を立てていた。ただ、『科学』については、後に「市民の科学」のための基礎知識を得たり、世界全体の科学技術を鳥瞰することに役立ったと高木は述べている。

しかし、アウトサイダーになった高木は、次のような苦労もしたのである。

 

今のようにインターネットなどなかった時代のことで、文献資料を得るのには苦労した。都立大学の図書館を利用させてもらおうと思い、知り合いの教授を紹介者として立て、図書館利用を正式に申しこんだが、「部外者には認めていない」とあっさり断られた。今だったら大学も市民に対してこんなに閉鎖的ではやっていけないと思うが、いったんアウトサイダーの刻印を押された人間には、大学・諸研究機関は、なべてこんな調子で、歯ぎしりさせられることが多かった。それにしても、私の心の中には、未だにこの都立大学の態度には一種の屈辱感が残っていて、その後、自分のことを「元都立大学助教授」と書かれる度に恥しい思いがした。(同書p138)

ただ、高木は「しかし、一方的に孤独感に悩まされる、という感じではなかった。そこには、内側にいたのでは見えなかった世界のひろがりがあった」(同書p138)と書き留めている。三里塚通いも続き、平和や環境問題に関する市民運動との交流も広がった。三里塚では、有機農法によって1反あまりの田づくりを行った。このことは、放射能の実験ではなく米づくりをしながら考えるという意味で新鮮な経験になり、後年エコロジストに傾斜する原点にもなったと高木は述べている。

そんな中、当時大阪大学に勤務しており、四国電力伊方原発差し止め行政訴訟の住民側特別補佐人になっていた久米三四郎より、1974年、高木仁三郎に、プルトニウム問題に取り組んでくれないかという要請がなされた。高木は、プルトニウム問題については前から思い入れをもっていたが、久米は、そのことは知らなかっただろうと、高木は推察している。久米の意図については、1970年代前半、原発建設がさかんになり、そのことで原発反対運動もさかんになっていたとして、次のように述べている。

人々は、電力会社や政府の宣伝とは別の、独立した情報を求めていたが、その助けになるような研究者・専門家が決定的に不足していた。そういう状況下で、一人でも仲間を増やしたい。そういう気持ちで久米さんは私の所にやって来たのだと思う。(同書p141)

この時の高木の対応は、複雑なものであった。次のように回想されている。

 

その場では、私は返事を留保した。私はそれまでの間、専門性と市民性という問題に悩んでいた。先述のように、連れ合いのハリ(中田久仁子、後、高木久仁子…引用者注)とも常に議論があり、市民側・住民側の立場から運動に参加するにしても、できたら原子力分野の専門家として再登場するという形でなく、一市民として参加できたらよいなと思っていた。いずれ原子力問題は避けて通れない思っていたが、その参加の仕方、私の志向する”市民の科学”へのアプローチが見えて来なかったためだ。
 だが、結局、私は久米さんの要請にある程度応える形で、限定的ながら、プルトニウム問題に取り組むことにした。なんといってもプルトニウムは、私のスタートとなった特別な物質であったし、シーボーグ(プルトニウムの発見者…引用者注)に魅せられたとともに、一抹の違和感を彼の本に抱いたことは、第3章で触れた。その違和感を、もっと踏みこんで解明してみようと思った。(同書p142)

高木自身は、この時点で、専門家というよりも、一市民として、運動に参加したいと考えており、それが上記のような複雑な対応をとらせたといえよう。科学者ー専門家としてふるまうこと、一市民運動家としてふるまうこと、この二つの志向は、高木の後半生を支配したモティーフだったといえる。

そして、高木は、プルトニウムの毒性(発がん性)の研究をはじめ、すでにプルトニウムの毒性の大きさを指摘していたタンプリンとコクランの説を高木なりに評価した「プルトニウム毒性の考察」を『科学』1975年5月号に掲載した。高木はプルトニウム論争に巻き込まれ、テレビの論争にも”批判派”として登場するようになった。

さらに、高木は、プルトニウムに関する多面的な問題(安全面、社会面、経済性、高速増殖炉計画など)を議論する「プルトニウム研究会」を組織した。この時の検討をもとにして、原子力に関する初めての本である『プルートーンの火』(現代教養文庫、1976年)を書いた。

すでに、1974年末には、高木は反原発の東京の市民運動の集まりにも顔を出すようになったと回想している。高木によると、当時の日本の反原発運動は原発立地予定地の住民運動を中心としていたが、「ようやくにして東京のような都会でも、原発問題を自分たちの問題としてとらえようとする市民運動がスタートしつつあった時で、運よくほとんどその初期から参加することができた」(同書p147)と述べている。

この当時、原発立地予定地の住民運動に協力して活発に活動していた専門家として、久米の他、武谷三男、小野周、水戸巌、市川定夫や、藤本陽一などの原子力安全問題研究会、全国原子力科学技術問題研究会を高木はあげている。高木は「それらの人々に比べたら、私はずい分、”遅れてやって来た反原発派”だった。」(同書p147)と述べている。

1975年8月24〜26日には、京都で日本初めての反原発全国集会が開かれた。この集会は、女川、柏崎、熊野、浜坂、伊方、川内など、原発計画に反対する住民運動団体が中心的に準備していたと高木は述べている。この全国集会に呼応して、前記の専門家の間にも、共通の資料室的な場をもとうという動きが起こってきた。この動きを強く押し進めたのは、反原発運動に取り組んでいた原水禁国民会議であり、その事務局の一部を提供してくれることになった。ここで、原子力情報資料室が誕生したのである。このことについて、高木は、次のように述べている。

…1975年の夏までに何回か話し合いがあり、結局武谷三男氏を代表とし、浪人的存在であった私が専従(ただし無給!)的役割(一応世話人という名称で)を担うことを了承して、その司町のビル(原水禁国民会議事務局が所在した神田司町のビル…引用者注)の五階で、原子力資料情報室は9月にスタートすることになった。…とりあえずの合意としては、「全国センター」的なものとして気張るのではなく、文字通りの資料室=資料の置き場とそこに集まってくる研究者たちの討論や交流の場(ある種サロン的なもの)とするということでスタートした。(同書p148〜149)

この原子力情報資料室創設時、基本的には高木が一人で運営していた。高木は、無給で電話の応対、資料の収集・整理、自身の学習に従事していた。当時の資料室は財政困難であり、彼自身の生活のためだけでなく、資料室のためにも稼がなくてはならなかったと語っている。高木は、創設時の原子力情報資料室は会費(会員40人程度)と原水禁からの若干の支援によって財政的に支えられていたが、原水禁から一定の独立性を保ちたいという会員の意向もあって原水禁からの支援は限定的なものであったと述べている。

しかし、高木は、この原子力情報資料室に「全人生」をかけていた。

 

ところが、私はなにしろ、資料室にかかわることを決めた時点で、そこに全精力、おおげさでなく全人生をかけ、そこをわが「羅須地人協会」にするという気持になっていたから、設立の趣旨を越えて走り出し、それがフライング気味だったことは、否定すべくもないだろう。(同書p150)

高木にとって、原子力情報資料室は、いうなれば宮沢賢治の「羅須地人協会」を継承するものーいや「羅須地人協会」そのものであったのである。そのような高木の思いと行動が、原子力情報資料室自体のあり方を決定づけていくことになったのである。

 

 

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いわき市立美術館前のヘンリー・ムーアの彫刻

いわき市立美術館前のヘンリー・ムーアの彫刻

<緑濃きいわきにおける反原発集会>

さて、5月15日、いわき市の海岸部の久之浜、四倉、豊間を車で巡った後、いわき市中心部の平地区に向かった。

こんなに美しい街だったのか…まず、そんな思いにかられた。ほぼ10年前、ここにきた時は、雨にぬれ、なんか淋しい街だった。今日は晴天で、まさに新緑の頃、街路樹や公園の木々は青々としていた。街路も広々としていた。いわき市立美術館の前には、ヘンリー・ムーアの「横たわる人体・手」(1979年)という彫刻があった。

私は、いわき市平地区の中心部にある「平中央公園」に向かった。あまり大きな公園ではないが、真ん中に芝生の広場があり、そのまわりには大きな木が植えられていた。東京などと違って、芝生も木々も傷みがなく、青々としていた。

しかし、公園の前にある、「いわき芸術文化交流館」は被災し、ところどころ壊れ、その前の地面には、亀裂が走っていた。

この公園に来たのは理由がある。その日、この公園を出発点として「NO NUKES! PEACE DEMO in Iwaki, FUKUSHIMA☆ さよなら原発 放射能汚染のない平和な未来を求めるパレード」が開催されるということになっていた。前々から、福島県の被災地をみてみたいという希望があったのだが、こういうことがあるのならば、参加してみたいと思った。そこで、この日に福島県浜通りにくることにしたのだ。

それ以前、5月3日に東京新宿で行われたデモにも出ていたのだが…。こういうデモやパレードへの参加は、私が個人的にできる、本当にささやかな意思表示かと思ったので。

なお、この集会の趣旨は、このようなものだ。一言でいえば、福島第一原発における放射能汚染から、「子供たち」を守ろうということが目的となっているといえる。

〜子供たちを守りましょう!〜
2011年3月11日に発生した東日本大震災により引き起こされた、東京電力福島第一原子力発電所の大事故をきっかけに、私たちの生活や環境が大きく変化してしまいました。地震や津波の被害、余震への心配の上に、「放射能汚染」という更なる被害が私たちに覆いかぶさってきています。
日本全国、福島県全域はもとよりいわき市でも、行政の放射線量に関しての「安全キャンペーン」により正確な情報が市民に行き届いていない、または遅れ遅れの対応での被害拡大など、特に最近の小中学校に対する行政からの指示などは、子供を持つ多くの父母に甚大な不安を与えています。また、このままのやり方を行政に許していくことで、更なる環境汚染と健康被害を市民、とりわけ未来を担う子供たちへもたらすことは一目瞭然です。子供たちを守ることは、私たち大人の「責任範囲」です。
開催地いわき市の人々だけではなく、福島県全域または全国からの脱原発を望む人々、不安を抱えながらどうすることもできないと思っている人々、避難所でこの不条理な状況に憤っている人々、すべての人々が集い、元気を与え合い「私たちは無力ではない、私たちにも変えられる」という意識を持って帰れる、そんな場を一緒につくりましょう!(http://nonukesmorehearts.org/?page_id=462)

集会の中央にそびえるメタセコイア

集会の中央にそびえるメタセコイア

パレードに先立って、緑の濃い平中央公園で集会が開催された。通常演説壇が置かれることになる集会の中心は、一本のメタセコイアの木の根元であった。なんというか「自由の木」を思わせる。そして、その前の芝生広場に人が集まっていた。数百人ほどであろうか。警察の規制もあまり厳しくない。東京のギスギスした感じとは大違いであり、まるで、テレビでみる欧米の集会のようであった。趣旨が趣旨だけに母子づれが目立った。

このパレードは、「いわきアクション!ママの会」といういわき市の団体と、「No Nukes More Hearts」という東京に事務局のある団体の共催で行われ、「脱原発福島ネットワーク」という福島県の団体が協賛する形で行われていた。地元の団体と全国ネットワークがある東京の団体という共催の形である。司会者は「いわきアクション!ママの会」から出し、主催者挨拶は「No Nukes More Hearts」が行っていた。なお、どちらも、「母親」ということであり、その意味で趣旨通りであるといえる。「No Nukes More Hearts」の主催者挨拶は、福島県の人々にかなり気を遣っており、日本いや世界のために、福島県の人々こそ反原発で頑張ってほしい、その応援にきたのだという論調であった。

演説する福島県議会議員

演説する福島県議会議員

まず、福島県議会議員が挨拶を行った。その他にも、いわき市会議員も挨拶しており、自治体議員の参加が多かったようだ。

<福島ー東京の間における亀裂の露呈>

ただ、東京への微妙な思いが交錯していた。先に、パレードが地元の団体と全国ネットワークがある東京の団体という共催の形であると述べたが、東京などの他県の人々の協力は大きかったようある。集会スピーチも、他県の人が多かった。しかし、東京の電力供給のために福島が犠牲になったことへの憤りは強く、最初に挨拶した福島県議会議員は、「地産地消、東京の電力は東京でまかなってほしい」といって、拍手されていた。

さらに、次のようなことがあった(なお、この一件についてはメモをとっていなかったので、ニュアンスを違って記憶しているかもしれないことを付記しておく)。東京出身で、放射線への恐怖のため子どもとともに関西地方に転居した一人の母親が、涙ながらに「福島の原発の電力を、今まで享受してきたことを反省する」旨のスピーチをしていた。放射線の脅威から子どもを守るというのが集会・パレードの趣旨であるので、それにそっている発言といえる。

しかし、会場から、「川崎市民が福島県の瓦礫を受け入れないということをどう考えるのか」という発言があった。その発言をした人は、まあ初老の老人といえる人で、後でよくみたら、背中に「南相馬市」という文字を付けている衣服を着用していた。津波で大きな被害を受けた上に、多くの部分が「警戒区域」「計画的避難区域」「緊急時避難準備区域」に指定され、復興事業が遅れている南相馬市の人だったらしい。

スピーチをしている女性は「福島県の放射性物質に汚染されたものは、20km圏以内から動かさないようにしてほしい」などと答えたのだが、そこで論争になってしまった。ああいう場で論争する光景は、はじめてみた。

しばらくして、「東京の方からわざわざ来ていていただいて、感謝します」などという発言が会場からあって、とりあえず、収拾された。しかし、そのスピーチをしていた人と、会場で疑問をなげかけた人は、その後も檀上をおりて議論していた。

いわき市久之浜地区の瓦礫

いわき市久之浜地区の瓦礫

川崎市の話については、説明を必要としよう。川崎市長が福島出身で、好意で福島県の瓦礫(別に放射性廃棄物というわけではない)を引き受けて処理しようとしたら、市民より反対のメールが殺到したということだ。いわば、まさに「風評被害」なのだ。その結果はわからない。切ないなと思わなくもないが、今や、郡山市の校庭の土でも市内すら引き受け手がない状態になっていると聞いている。

16日付けの朝日新聞朝刊には、「警戒区域」「計画的避難区域」を除く福島県中通り・浜通りの瓦礫は、県内に焼却処分場を新設し、放射性物質を除去する装置をつけて、処理する方針を環境省が固めたという報道がなされている。技術的には可能ではあろうが、建設するだけでも日時がかかる。それに、このような施設の立地には時間がかかるのが通常である。

南相馬市鹿島地区の津波被災(4月9日撮影)

南相馬市鹿島地区の津波被災(4月9日撮影)

南相馬市では、福島第一原発事故のため、津波被災における瓦礫の片付けはすすんでいない。南相馬市においては、単に放射線への恐怖だけでなく、津波被災からの生活再建が進んでいないということもあるのだ。そして、それもまた、福島第一原発事故のためなのである。

南相馬市の人の発言の意味を考えると、その苦しみを、福島県で生産された電力を享受してきた関東圏の人々に少しでも分かち合ってほしいということであろう。

しかし、そのような真意と全く逆に、「福島県の放射性物質に汚染されたものは、20km圏以内から動かさないようにしてほしい」とスピーチ者の女性は応答してしまった。福島県内より低い放射線量の東京からでも、子どものために関西へ避難した彼女の応答は、素朴に考えるならば、理解できる。「放射能汚染から子どもを守る」というのが、今回の集会・パレードの目的でもあり、東京圏内の多数の子どもたちを守りたいということが、彼女の心情であろう。

だが、これは、東京などへの放射線汚染を防ぐために福島県内に放射性物質を封じ込めておくということであり、それは、そもそも福島県内に原発を建設した東電の意図に重なっていくことになろう。警戒区域などの福島県内は、どうするのか。論争になるのも当然である。

ここで、そのように答えたこの女性を批判するつもりはない。ここで考えなくてはならないことは、福島の地に原発が建設された時に前提とされた中央―地方からなる社会構造は、反原発運動の中における言説のあり方も規定しているということなのだ。本ブログの中で、どのように福島に原発が建設されたかということを問題にしてきたが、それは、それぞれの人の主体的意思をこえて、私たちを拘束しているのである。これは、全くのアポリアである。そして、これは、このブログを書いている私の問題でもある。

<和解の契機としての「共苦」>

このように露呈されてしまった亀裂はどのように解決されるのであろうか。「たぶん主催者側の人だと思うが、『東京の方からわざわざ来ていていただいて、感謝します』などという発言が会場からあって、とりあえず、収拾された。」と私は書いたが、そのことの意味を考えなくてはならない。子どもも連れて関西に避難したというならば、かなり放射線について恐怖しているであろうとこの女性については考えられる。それにもかかわらず、東京より放射線量が高いいわき市にきていたただいてありがとうといっていると解釈すべきなのだろう。

この発言を行った人の属性は、中年の男性ということしかわからなかった。内容からみて、会場進行の責任を担う発言であり、主催者側の人であろうと推測される。さらにいえば、この発言は、当事者の福島県の人でなければ意味をなさないといえる。こういうようにいえるのではないか。私たちもあなたも、放射線の脅威を感じている。あなたは、わざわざ放射線の脅威をおして、わざわざいわき市にきて運動に参加してくれた。そのことにわれわれ福島県民は感謝すると。

「放射線の脅威」にさらされながら共に在るということ、それが、社会構造に起因する亀裂を乗り越え、お互いの連帯を可能にさせているといえる。つまりは「共苦」の意識が人々をつなげているのである。それが、私にとっての、この集会で得られた意義であった。

<パレードに出て>

平中央公園を出発するパレード

平中央公園を出発するパレード

さて、ここで、もう一度、集会・パレードの光景にもどろう。パレードつまりデモなのだが、かなり牧歌的で、子どもも参加していた。東京のデモでは、車線はみ出し規制など警察が暴力的に行っていたが、ここでは主催者が行っていた。もちろん、警察も規制しないわけではないが、信号待ちのようなことに終始し、早く歩けなんていわない。

パレードの参加者たち

パレードの参加者たち

デモ文化もかなり変わりつつあるようだ。最初、年長の人が「シュプレヒコール」なんていっていたが、いまいちのりが悪い。一方「素人の乱」も参加しており、リズミカルな音楽をベースとして「原発やめろ」「原発いらない」「子どもを守れ」というコールをしていたが、最終的にはそちらの方が主流となった。どうやら、いわき市でデモが行われたのはひさしぶりらしい。猫が窓から顔を出して、デモ見物をしていた。

デモの際の市民向けのコールで、「今、私たちの体には放射線が貫いています」というのがあった。それはそうで…。感じ入った。いわき市のその日の放射線量は、0.25マイクロシーベルト。福島や郡山は1.3マイクロシーベルトを超えているので、それよりは低いのだが、東京の0.06マイクロシーベルトよりは高いのだ。

人のいい人が多かった。ある方から「どこから来たのですか」と聞かれ、「東京です」と答えたら、いわき市のいろんなことを教えてくれた。いわき市では今までデモなんてなかったそうである。主催者発表によると500名くらいが参加していたようだ。

また、途中で、平市体育館の前を通ったら、中から手を振ってくれた。避難所らしい。後日聞くと、福島第二原発のある楢葉町からの避難民であった。

デモ解散地点がいわき駅で、そこに近づくと、別の方が、「いわき駅から東京に帰るのですか」と心配してくれた。解散地点で「遠くから応援にきてくれた方々に感謝します」と主催者側がコールしていた。

まさに、優しい、美しい光景であった。「共苦」している人々への感謝。しかし、ずっと放射線量の高い地域で生活するということと、たまたま、短期間来訪したということは、レベルの違う話なのだ。そのことを、私は心に刻んでおかねばならない。そう思いつつ、車にて、東京への帰途についた。

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