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ひとつぶの砂にも世界を
いちりんの野の花にも天国を見
きみのたなごころに無限を
そしてひとときのうちに永遠をとらえる
(ウィリアム・ブレイク「無心のまえぶれ」〈寿岳文章訳〉 http://pb-music.sakura.ne.jp/PoetBlake.htm〈2020年5月12日閲覧)より引用)

 

新型コロナウィルス肺炎のパンデミック後の世界はどうなっていくのだろうか。2019年末以降、世界各地ー中国・イタリア・スペイン・イラン・フランス・アメリカ・ドイツ・ブラジルなどの諸国で多く数多くの感染者・死者が出ている。これらの諸国の多くでは、感染対策として都市封鎖・ロックダウンなどと称される、人々の外出・旅行の制限措置がなされた。この措置は、経済活動・教育活動・文化活動を含む社会的活動の多くの部分が抑制することにつながっている。いまや、感染対策として、世界の多くの人々は、密集をさけ、社会的距離をとることが求められている。そして、これらのことは、世界全体の経済活動をおしどめることになった。

日本は、比較するならば、爆発的感染という状況にはいたっていないが、2〜3月以降、国内でも感染は拡大し、2月には大規模なイベントの「自粛」が要請され、3月には全国の学校が休校となり(4月以降、部分的には再開)、4月には緊急事態宣言が出された。そして、順次、テレワークや在宅勤務が奨励され、デパート・飲食店などは休業や営業時間短縮などが要請された。図書館・博物館・美術館・資料館・水族園・動物園・テーマパークなど、人々が集まる可能性があるとされた施設の多くが閉鎖された。また、旅行や都心部に出ていくことも「自粛」が要請された。とはいえ、これらの措置は、世界各国のロックダウンや都市封鎖などのように法的な強制力をもったものではなく、その点では不十分な措置といえる。それでも、日本の多くの市民は、スーパーなどの買い出しや、運動・散歩以外は、自宅から出ないことを公権力から要請されたのである。そして、多くの市民たちは、失業・営業停止・給料減額などの経済的困難への不安にさらされることになった。

というわけで、東京都練馬区にすんでいる私も、結果的に、その要請に従うことになった。4月以降、勤務先は在宅勤務となり、自治体史編集のために会議や打ち合わせに行くこともままならない。関係する研究会の会議はすべてネット経由となった。情報・文献・資料などの収集のために、図書館などに行くこともできない。大型書店も多くが休業し、開いているところに行けば混雑する。国際交流やフィールドワークなどもできない。結局、自宅周辺にいるしかない。とはいえ、それではあまりにも運動不足となるので、朝のうちに近くの東京都立石神井公園で散歩し、帰りがけにスーパーやホームセンターによって買い出しをするというのが日課となった。

東京都立石神井公園はそれほど大きな公園ではない。この公園は、東京西部の武蔵野台地を流れる小河川石神井川の水源地の一つであり、湧水池である三宝寺池、そしてその下流にある元々は水田であったところをボート池に改修した石神井池からなっている。三宝寺池の中の島(浮島)には、1935年に国の天然記念物に指定されている三宝寺池沼沢植物群落があり、ミツガシワ・カキツバタ・コウホネなどの寒冷地植物が自生している。この二つの池の周辺は雑木林に囲まれている。池のほうにはカワセミ・カイツブリ・バン・アオサギ・ゴイサギ・カワウ・カルガモなどが住んでおり、林のほうには、シジュウカラ・キジバト・エナガなどがいる。そして、渡り鳥としてオナガガモ・コガモ・マガモ・オオバン・キンクロハジロが飛来している。もともと緑の濃い公園であり前から時々行っていた。

しかし、今、公園に行ってみると、前とはなんとなく違う。これほど、緑が鮮明だったのだろうか。まるで、高原の尾瀬ヶ原を歩いているようではないか。こんなに空は澄んでいたのだろうか。まるで、毎日、雨上がりを歩いているようではないか。木々の緑、空の青、公園に咲く花々、池や林でくつろぐ野鳥たち、それらのすべてが、日常のくもりがなく、まるで、突き刺さるかのように、目にうつるのである。

石神井公園(2020年5月7日)

石神井公園(2020年5月7日)

石神井公園(2020年5月10日、青い花はカキツバタ)

石神井公園(2020年5月10日、青い花はカキツバタ)

これは、石神井公園だけではない。自宅の庭も、近所の街路樹も、ふだんよりも生き生きしてみえる。春という季節は、春霞といわれ、黄砂もあり、どちらかといえば埃がかった印象があったが、今年の春は例外である。花の色、木々の緑はくっきりとし、空は真っ青というイメージがある。

これは、私の個人的印象というだけではない。日本気象情報会社ウェザーニューズ社は、「4月22日は地球の日(アースデイ) 新型コロナで地球環境は改善か」(4月22日配信)という記事の中で、新型コロナパンデミック後、世界各地で環境が改善しているということを述べて後、このように主張している。

日本の大気汚染物質も減少
黄砂やPM2.5などの大気汚染物質の監視や予測を行っている、ウェザーニュース予報センターの解析によると、日本でも3月の大気がきれいになっていることが分かりました。
大気汚染物質の少なさを表す指数(CII:Clear aIr Index〈※〉)をみると、2019年3月の全国平均は0.78だったのに対し、2020年3月は0.81前後と、0.03ポイント高い結果に。中国大陸で大気汚染物質が減少し、越境汚染が低下したことなどが原因として考えられます。
(中略)

※CIIは、オゾンやPM2.5などの大気汚染物質の少なさを表す指数で、NICT-情報通信研究機構による計算式をもとにウェザーニュースが独自で算出しています。値が高いほど空気がきれいなことを表しています。
https://weathernews.jp/s/topics/202004/210055(2020年5月11日閲覧)/

この記事の前のほうで、新型コロナウィルス肺炎対策として、中国・イタリア・アメリカなどの感染諸地域で、それぞれの諸地域で人々の経済活動を含む社会活動が抑制された結果として、地球環境が一時的にかなり改善したことが伝えられている。この記事は2020年3月までの状況をもとにしたものであり、2020年4月以降は、日本でも緊急事態宣言が出されて人々の社会的活動がそれまで以上に抑制され、大気汚染物質減少の傾向は続いているといえないだろうか。

世界全体、いや日本列島全体からみて、ひとつぶの砂ともいうべき非常に狭い地域に押し込められ、世界全体を直接的に知るすべを失った現在、自分の生活圏である石神井の森から、再度、世界全体を見てみたのである。

さて、あまり長い記事はブログにはむかない。今回はここまでとしておく。次回以降は、ウェザーニューズ社配信の記事にもあった、新型コロナウィルス肺炎感染対策が世界各地の環境にもたらした影響と、その意味について考えてみたい。

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毎日新聞の2014年06月25日付け東京夕刊に、「特集ワイド:集団的自衛権、どこか人ごと!? なぜ議論が盛り上がらないのか」という記事が掲載された。まず、その一部をここで紹介したい。

(前略)
別の日、今度は慶応大湘南藤沢キャンパスへ。3人の総合政策学部生に話を聞いた。行使容認にも解釈改憲にも賛成。「護憲派の上の世代の理想主義って既得権を守ろうとする人と同じにおいがする」という。

 3年生(20)は「このままじゃ自衛隊の人に申し訳ない。法整備のないまま手足を縛られて」と嘆く。少子化の日本ではいずれ徴兵制が必要になるかも、と話を向けると「こういう大学に通う僕が戦場に駆り出される可能性はないと思う。この国で徴兵制は無理。若者は竹やりより弱い。専門性の高い軍隊に国を守ってほしいから、戦闘員が足りないなら移民を。そのために相当のカネを投入し、法整備も必要」。

 それって雇い兵ってこと? 何だろう、この「誰かに守ってもらいたい」的な当事者ではない感じ……。

 思わず「身内の戦争体験を聞いたことは?」と尋ねると、「全然ないですね」。

 別れ際、彼らは言った。「正直、僕らの世代で行使容認に反対の人、ほとんどいないと思いますよ。W杯の時期で愛国心、すごいですから」。本当にそうなんだろうか。
(後略)

つまり、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスで総合政策学部の学生たちに解釈改憲による集団的自衛権行使容認についてインタビューしたら、「賛成」するという答えがかえってきたというのである(なお、この記事では、このキャンパスの別の学生に質問して「反対」という答えがかえってきたことも書かれている)。

この答えで気になったことがある。この学生たちは、集団的自衛権行使を認めた場合でも、自分たちのような「学生」は戦地に行くことはないと考えていることである。それゆえ、これを認めて、自衛隊(たぶん「国防軍」という名称に変わるだろうが)が世界各地の戦闘に介入しても、自分たちには影響しないと意識しているようなのだ。

この話を聞いて、私の両親のことを思い出した。私の両親は、それぞれ違った意味であるが、先の大戦で人生が狂わされたと語っていた。両方とも、戦地には行っていないにもかかわらず、なのだが。

私の父の家は、戦前は東京の郊外で、手広く借家業を営んでいた。それなりの有産者であったらしく、私の父は、慶應義塾の中等部に入学した。ボート部にいたようであるが、肺結核を患い、慶應義塾大学は中途退学し、上智大学を卒業することになった。しかし、その後も結核は完治せず、戦中戦後を通じて働くことはできなかった。もちろん、徴兵もされていない。もともと大学生には徴兵が免除されるという特権があったが、戦争末期には「学徒出陣」といって、大学生も徴兵された。しかし、病人であった父が戦地に行くことはなかった。

このように戦地に行くことはなかった父だが、戦争は父の人生に多大な影響を与えた。働くことのできなかった父がたよるものは、家が保有していた借家からの家賃収入であった。しかし、戦争遂行を目的として成立した国家総動員法に基づいて1939年に発令された地代家賃統制令によって、賃料額は凍結された。戦中戦後を通じて激しいインフレーションになったが、家賃収入は1938年のままだったのである。そのため、実質的に収入減となった。

さらに、いわゆる建物疎開によって、自分の家がとり壊され、それも打撃となった。戦時期、空襲被害の拡大を懸念して防火地帯が指定され、そこにあった家屋が「疎開」させられたのである。空襲も受けないで、自分の家がなくなってしまったのだ。

このことは、病人であった父には大きなショックとなったようである。戦後、建物疎開にも空襲にもあわず、戦前の建物がそのまま残っていた地区が近所にあったのだが、父は悔しくてそこに足を向けようとしなかったという。

他方、母は、福井県の小さな港町で生れた。そこは空襲もうけなかった。母自身は高等女学校に通学しており、そこでピアノや読書・映画などの文化に接することになったという。しかし、今はあまり話したがらないが、「軍国少女」でもあったようだ。修学旅行などで舞鶴の軍港に行き、そこで艦船を見学したり、カレーを振る舞われたりしたことを楽しそうに語っていた。母は「病院船」という映画をみた影響で「従軍看護婦」になりたいと思ったこともあったという。本当に「従軍看護婦」になっていれば、「戦地」にもいったであろう。

結局、「従軍看護婦」になって戦地に行くこともなく、福井県で戦時期に小学校の代用教員となるのだが、その時、試験もしくは面接で、「必勝の信念を持っていますか」と聞かれたという。それに対して、どのように答えたかは語っていない。しかし、たぶん「イエス」と答えたに違いない。そうでなければ教員にはなれなかったであろう。

少なくとも、戦時期には「軍隊」に対して母は憧れをもっていたと思うが、その「憧れ」が打ち砕かれたのが戦争直後であった。戦争直後、アメリカを中心とした連合国軍が日本全国を占領することになるが、その際、母などの若い女性は、アメリカ軍が進駐する前に避難することが勧められた。「なぜ」と母が尋ねると、そこにいた軍隊経験者たちが、日本軍が戦地・占領地で行った婦人暴行などの残虐行為を話したという。それ以来、母は軍隊について否定的な思いをもつことになったようだ。

そして、戦時期に男子たちが多く戦死したため、結婚するのに苦労した母は語っていた。結局、福井県を出て東京にいき、父と結婚することになったのだが、父は病気であり、そのことには不満をもっていた。「戦争があったから、病気の人としか結婚できなかった」とよく語っていた。

それぞれ、全く意味が違うのだが、戦地に行ったわけでもなく、空襲にあったわけでもなかった私の両親はともに戦争によって人生が狂わされたと感じていたのである。

さて、これは、第二次世界大戦時の特有の出来事だといえるのだろうか。ここで「学徒出陣」のことにもふれたが、兵員不足になれば、戦争に行くはずがなかった大学生も戦争にいかされることになるのである。そして、実際に戦地に行かなくても、大規模な戦争になれば、私の両親のように、多大な影響をうけることになるのである。

現代について考えてみよう。例えば2001年9月11日のアメリカ同時多発テロは、それまでのアメリカが行ってきた軍事介入の結果として引き起こされたといえる。戦争に直接関わらない場合でも、戦争によって個人が影響を受けないとはいえないのである。

いわば、これは「戦地に行かなかった人たちの戦争体験」とでもいえるのかもしれない。戦地へ従軍したり、空襲や艦砲射撃を受けたり、沖縄などで陸上戦闘に巻き込まれた人たちは数多くいるが、それらの人たちだけが戦争で人生を狂わされたわけではない。戦地に行かない(それ自身が不確かなことだが)としても、戦争で傷つかないとはいえないのである。そのことを想起していてほしいと思う。

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東京都練馬区大泉町1-6に清水山憩いの森というところがある。ここは、白子川という小さな川に面した傾斜地であり、クヌギ・コナラ・イヌシデ・エゴノキなどの落葉樹の雑木林が保存されている。その林床には多くの野草が自生し、特にカタクリが約30万株も群生している。このカタクリ群生地の環境が歴史的にどのような経過をたどって保護されてきたのかということをみていくことで、私たちは歴史を通じて未来を展望していくことにしたい。

清水山憩いの森の景況

まず、3月下旬の同地の景況を紹介しておこう。まず、全体は、下記の写真のようなところである。傾斜地上に雑木林が生えている。

清水山憩いの森の雑木林(2014年3月31日撮影)

清水山憩いの森の雑木林(2014年3月31日撮影)

この雑木林の中には湧水がある。この湧水は、東京の名湧水57選にも選ばれた。また、地名の「清水山」も、この湧水から名付けられたのであろう。

清水山憩いの森の湧水(2014年3月31日撮影)

清水山憩いの森の湧水(2014年3月31日撮影)

そして、雑木林は白子川に面している。訪れた日は、川岸のサクラが満開であった。

白子川(2014年3月31日撮影)

白子川(2014年3月31日撮影)

前述したように、この林床にカタクリが群生している。この写真ではたまたま、白い花のキクザキイチゲも写っている。この雑木林のすべての部分というわけではないが、かなり広い範囲でカタクリが咲いている。これでも五分咲きということである。

林床のカタクリとキクザキイチゲ(2014年3月31日撮影)

林床のカタクリとキクザキイチゲ(2014年3月31日撮影)

カタクリの花のアップの写真をあげておこう。カタクリは暖かな晴天の朝に開花し、夕方には閉じてしまう。曇天や雨天には開花しない。花びらの中の模様は、ハチなどに蜜の在処を知らせているそうである。

カタクリ(2014年3月31日撮影)

カタクリ(2014年3月31日撮影)

革新都政によるカタクリ群生地保護の開始

続いて、カタクリ群生地がなぜ保護されるにいたったかをみていこう。練馬区発行のパンフレット『清水山憩いの森 カタクリ』では、この地について次のように説明している。

 

憩いの森は、武蔵野の面影をとどめる樹木を残そうと、練馬区が土地所有者から樹林を借り受け、区民に開放しているものです。清水山憩いの森は昭和51年3月に憩いの森の第1号として指定されました。そのきっかけとなったのがカタクリの自生地が確認されたことでした。
 昭和49年6月、区民の方から、白子川流域の斜面林にカタクリが自生しているという情報が練馬区に寄せられ、翌年3月にカタクリがたくさん残っていることが確認されました。この貴重な自然を永く保存するため、この樹林は昭和51年に「清水山憩いの森」として整備され、その後練馬区で管理しています。
 また、その後、区内各地の雑木林・屋敷林などが「憩いの森」として整備され保全されています。

要約すれば、1974年(昭和49)に区民からカタクリが自生しているという情報が寄せられ、翌年確認し、1976年(昭和51)に憩いの森として指定したということである。私有地を区が借り上げて管理しているということになっている。

まず、このカタクリ群生地が保護されることが決定した時期に着目したい。この時期は、美濃部亮吉が東京都知事に就任していた時期である(1967〜1979年)。1950〜1960年代の高度経済成長期、公害や乱開発などの社会問題は激化していた。東京などの大都市周辺では、田畑や山林はスプロール的に住宅地や工場に乱開発され、河川や空気は著しく汚染されていた。このような状況を前提にして誕生した美濃部革新都政は、同時期に多く出現したその他の革新自治体と同様に、環境問題にも積極的に取り組んだ。また、この当時の練馬区長田畑健介は、もともと東京都職員であり、1973年に美濃部知事によって練馬区長に選任された人で、1974年に区長公選制となって翌1975年に区長選が行われた際には、社会党、共産党、民社党、公明党の4党の推薦、支持を受け、自民党推薦の無所属候補を破って公選区長となり、1986年まで勤めた。この時期においては、広い意味で革新陣営の側にいた人といえよう。このような、革新自治体の気運を前提として、カタクリ群生地の環境保護がなされるようになったといえよう。

*田畑健介については、Wikipediaの記述とともに、次のサイトにある、井田正道「1987年練馬区長選挙」(『明治大学大学院紀要 政治経済学篇』 25、1988年)の抄録を参考にした。
http://altmetrics.ceek.jp/article/jtitle/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%B4%80%E8%A6%81%20%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E7%AF%87

その後の保護状況については、たまたま毎日新聞朝刊1986年8月24日付の連載記事「がんばれ生きもの36」に植物写真家安原修次が「練馬に自生 ”女王”カタクリ」という文章を寄せ、次のように伝えている。

 

しかし、住宅地に囲まれた都内で毎年カタクリの花が見られるのは、保存するために努力する人がいるからだ。ここは民有地だが、昭和五十年に無償で借り上げた練馬区が管理しており、二月から五月まで常時二人の臨時職員が現地に派遣されている。そのひとり七十五歳の郷土史家、森田和好さん(七五)はもう十一年間もカタクリを守っている。参観者がサクから入って写真を撮ったり掘り採ろうとすると、
「そこに入ってはだめ」と、だれかれかまわず大声でどなりつける。でも見に来た人へは親切に接し、カタクリについて丁寧に説明してくれる。また周りの住民によって「カタクリを保存する会」(沢開茂宣会長)という団体も作られ、花の時期は夜中も交代で巡視しているそうである。

現在は、「清水山憩いの森を管理する区民ボランティアを中心に、カタクリ群生を守り育てるなどさらに見事なものにつくりあげていく」(練馬区サイト)と、ボランティアが中心として管理しているようである。私が行った時は、管理するための小屋が設置され、「カタクリガイド」といわれる人が二、三人いて、参観者に説明などを行っていた。すでにあげた写真をみればわかるように、林床では笹などの背の高い下草は除去され、カタクリなどの低い野草に日の光りがあたるようになっている。また、説明パネルによると、定期的に高木類を交代して伐採し、雑木林の更新がはかられているということである。革新都政の時代に始まったカタクリ群生地の環境保護が、今の時代にも受け継がれているのである。

「即身入仏」が行われた「聖なる土地」としての清水山

清水山憩いの森には、もう一つの顔がある。伝説によれば、禅海法師という僧侶がこの地で即身入仏したとされている。次の2つの写真は、禅海法師の入定塚とその説明パネルである。

禅海法師の入定塚(2014年3月31日撮影)

禅海法師の入定塚(2014年3月31日撮影)

禅海法師の入定塚説明パネル(2014年3月31日撮影)

禅海法師の入定塚説明パネル(2014年3月31日撮影)

説明パネルの内容を紹介しておこう。

   

禅海法師の入定塚
 別荘橋の南側、清水山憩いの森一帯は旧小榑村の飛び地で、東の稲荷山までの北斜面はカタクリの群生地と湧水地帯であった。
 毎年3月下旬から四月上旬を中心にたくさんの可憐なカタクリの花が咲き乱れ、区内外から訪れる見学者も多い。
 この一隅に小さな祠がある。明暦三年(一六五七)八月、禅海という一人の僧が洞窟の中で、念仏の鐘の音が消えた時が今生の別れであると言い残して入定したという伝説の行人塚である。供養の碑が一基建っている。
                      (「練馬の伝説)所収」)。

  禅海法師と入定塚
 明暦年間、村の樋沼家に旅装を解いた禅海法師は、背負仏の薬師如来像を開帳して村人の信仰を集めた。約一年を過ぎた後、即身入仏という一大悲願を達成の為、清水ほとりの洞窟で入定、成仏された禅海法師を村人は、ねんごろに葬りその冥福を祈った。自らが用意した墓石と後に淀橋柏木施主 栗原ぎん(昭和七年十二月八日と刻された)花立石が据えられている。因みに禅海法師の過去帳は大泉の教学院に保存されているという。

 禅海法師が見守ってくれていたお陰で今年も又、たくさんの早春の妖精たちの美しい花が見られると感謝しています。カタクリ はかな草たちよ。
                            合掌

即身入仏とは、仏教の修行の一環として、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命しミイラ化することをさしている。この説明パネルでは、ここで即身入仏した禅海法師が見守っているからカタクリなどが見られると述べているのである。

これは、あまりにも、文学的もしくは宗教的すぎる表現と思われるかもしれない。私も最初、そう考えた。しかし、ある意味では一理あるとも思うようになった。

なぜならば、ここが禅海法師の即身入仏した地として伝承される(そのことの真偽は問わない)ことで、この地の「聖性」が強められ、結果的に開発を抑止する一因になったのではないかと考えられるからである。

まず、たぶん、この清水山は、東京57選にも数えられる湧水があることで、もともと「聖なる土地」だったのではなかろうか。柳田国男監修・民俗学研究所編『民俗学辞典』(東京堂、1951年)の「泉」の項目においては、次のようにいわれている。

清い泉のかたわらには例外なしに、神の社または仏堂が建っている。水の恩徳を仰ぐことの深かった素朴な住民は、泉の出現を神仏の御利益に結びつけて考えようとした。霊泉発見の功績を弘法台紙に帰する伝説は国の隅々に行き渡っている〔弘法清水〕。

つまり、民俗では、そもそも泉ー湧水の出現自体が神仏に関連したものとして認識されているのである。特に、弘法大師=空海に結び付けられていることが多々みられる。そして、ここの引用にある「弘法清水」について、『民俗学辞典』は、次のように指摘している。

旅の高僧に対して親切にもてなした結果、望ましいところに湧泉を得、逆に不親切にしたもののところの泉がとめられてしまったという類型の伝説をいう。ほとんど全国的にみられ、その旅僧は大体弘法大師というように伝えられている。

『民俗学辞典』では、「弘法清水」伝説の類型を紹介しながら、「弘法清水」の泉は神聖なもので日常の使用を忌むこと、とめられてしまった場合は掘り返すと罰があたると伝えてその地がタブー視されることも付記している。つまり、「弘法清水」の地は、タブー視される「聖なる土地」になるということになる。

さて、今度は、即身入仏についてみておこう。弘法大師ー空海は、死去の際、即身仏になったと伝承されている。そうなると、禅海法師の即身入仏は、弘法大師のそれを模倣し、その生き方を再現しようとした行為としても認識されていたと考えられる。この清水山の地は、もともと「泉」として「聖なる土地」であったと考えられる(もしかすると、すでに「弘法清水」の伝説もあったかもしれない)。この地で禅海法師が即身入仏したと伝承されることは、ある意味で弘法大師の修行をこの地で再現したことになるだろう。そして、この地にも「弘法大師」の聖性が付加されていくことになったと思われる。

弘法大師の聖性をもった「弘法清水」の地は、日常的使用が避けられたり、掘り返すこともできないタブーの地であったりするような「聖なる土地」なのである。この地が、近世から現代にかけて、どのような変遷をたどったか、今は不明である。ただ、仮説的にいえば、「泉」があること、そして弘法大師の修行を再現した「即身入仏」がなされたと伝承されることによって、この地は「聖なる土地」となり、開発がタブー視され、その結果、開発されずにカタクリが群生する雑木林が残されたとみることができるのではなかろうか。その意味で、この地で即身入仏したとされている禅海法師が見守ることで、カタクリなどの花が咲いているということは一ついえると思うのである。

おわりに
さて、ここでまとめておこう。カタクリが群生する環境が保護される前提には、前近代において「泉」であり「即身入仏」が行われた「聖なる土地」として地域住民に認識されることが必要であったといえる。そのように「聖なる土地」として認識されることで、タブー視され、開発が抑止されたといえるのではなかろうか。
そして、環境保護が強く意識された革新都政の時代になって、この地は、公共的に保護されるようになった。いわば、前近代の「聖なる土地」が、現代の環境保護の前提となっているのである。そのことの意味を私たちは問わなくてはならない。前近代と現代、この二つの時代の論理はもちろん違う。しかし、いわば人間を越えたものを尊重しなくてはならないと考えたところに両者の共通点があるのではなかろうか。そして、前近代からの課題を現代において再検討するという営為によって、私たちは多少なりともオルタナティブな未来を展望できるのだと思う。

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前回は、2013年9月9日付朝日新聞夕刊から、その紙面中において、2020年東京オリンピック開催決定を心から喜んでいる人は誰なのかをみてみた。基本的には、経済効果を期待する経済界、自分たちの活動の場が広がるアスリート、五輪関連施設が所在もしくは建設予定の地域の人びとなど、何らかの関係者が多く、加えて、1964年東京オリンピックを経験した年代の人びとが紙面で喜びを表明していたといえる。いわば、何らかの意味で(幻想的なものも含めて)利益を感じる人びとと、1964年東京オリンピックへの回顧趣味を感じている人びとによって「喜び」の声が表明され、それらが新聞紙面を埋め尽くすことによって、「祝祭」感が醸成されているのである。

そういう状況は、9月10日付朝日新聞朝刊東京版にもみることができる。ここでは、28〜29面にわたって「五輪へ夢の始まり 7年後待ってるよ」という見出しのもとで巨大な記事が掲載されている。この記事は、基本的には三つに大別できる。

第一に、アスリートや東京都庁など招致委員会側の動向や発言を伝えている。その部分では、招致アンバサダーを勤めたパラリンピック代表(女子陸上車いす)土田和歌子が喜びの声を発言しており、最終プレゼンを勤めた猪瀬都知事や太田・佐藤選手などによる報告会が都庁都民広場で開かれる予定であることが伝えられている。さらに、板橋区役所で、聖火ランナー写真などの展示が行われること、招致ポスターの撤去や手直しが始まったことが報道されている。

第二に、IOC総会のパブリックビューイングや五輪開催決定祝勝会に参加した人びとの喜びの声が多数収録されている。ここでは、一部紹介しておこう。

 「TOKYO」と読み上げられた瞬間、かたずをのんで見守っていた人たちから歓喜があふれた。8日の五輪開催都市決定は、早朝にもかかわらず、多くの人たちが「その時」を共にした。

 ●選手村予定地・晴海
 「やったー」「すげえ」8日午前5時19分。中央区晴海にあるホテルの宴会場では、この瞬間を待ちわびた子どもたち約20人の歓声が飛び交った。
 44ヘクタールの都所有地がある晴海地区では、選手村の建設が決まっている。「地域の子どもも参加できるイベントを」とパブリックビューイングを企画した新井正勝さん(52)は、地元小学校のPTA会長を4年間務めた。「7年後、選手村や街をつくっているのは子どもたち。『晴海っ子』たちには、どうしたら素晴らしい街にできるか考えてもらいたい」と新井さん。
 晴海にある小学校に通っていた古旗笑佳さん(13)は、「7年後はきっと大学生。今からたくさんの国の言葉を勉強して、通訳ボランティアに携わりたい」と希望に胸をふくらませた。
(後略)

その後、墨田(墨田区立総合体育館)、競技会場予定地・江東(豊洲)、品川、都庁前での景況とそこに集まった参加者の声が報じられている。今回のオリンピックは臨海部を中心とすることが報じられているが、この記事でとりあげている多くの場所がそのエリアであることに注目してほしい。品川も羽田空港に近く、町おこしが期待されている。引用部分にあるように、大人たちが町おこしへの期待を語り、子どもたちはより純粋に何らかの意味での参加を表明するという形で記事は書かれている。つまり、まず、東京オリンピックで町おこしが期待できる地域が「心から」喜びを表明し、パブリックビューイング開催などの形でそれを形に示したといえよう。

さて、この東京地方版では、招致委員会側でもなく、開催により直接の受益もない一般の人びとの意見も収録している。まず、「2020年、東京でオリンピックとパラリンピックの開催が決まった。7年後の夏、世界最大のスポーツの祭典を迎える東京はどうなっているだろう。半世紀前の記憶に重ねる人、冷静に見つめる若者…。9日、都内各地で聞いた。」と述べている。その上で、浅草・巣鴨で老人に、秋葉原で若者にインタビューした記事を載せている。

浅草・巣鴨における老人の意見を一部紹介しておこう。

 

浅草・巣鴨のお年寄りは

 世界各地の観光客を相手にする浅草の仲見世通り。世代交代が進み、1964年の東京五輪の記憶が残る人は多くない。
 カメラ店を営む青木じゅんこさん(65)は当時高校1年生。「バレー部に入っていた頃、テレビにかじりついて、『東洋の魔女』のプレーを必死に追ったわ」と笑う。秋田県から上京し、夫の恒久さん(66)と店に立って約40年。「建物も食べ物も町並みもがらっと変わった。次はどんな五輪になるんだろう。今から楽しみです」
(後略)

この後、浅草の1名、巣鴨の2名のインタビューが掲載されているが、基本的には同じである。高度経済成長期の自らの生きざまに重ね合わせて1964年東京五輪を懐古し、2020年東京五輪への期待を語るということになっている。ここまでは、前日の夕刊の状況とそれほどかわらない。招致関係者、五輪開催の受益者たち、過去を懐古する老人たちによって、新聞の多くの部分が埋め尽くされ、「祝勝ムード」が醸成されているのである。やはり、新聞というものは、結局、一部の人びとのイントレストを、「国民」多数のものに転化させる装置であるといえる。

しかし、朝日新聞の紙面でも、秋葉原の若者たちは全く違った反応を示している。その部分を次に掲載する。

 

アキバの若者たちは

 「クールジャパン」と呼ばれる日本のアニメ文化の発信地・秋葉原。アキバの人たちにとって、同人誌即売会「コミックマーケット(コミケ)」の開催地として定着している「東京ビックサイト」(江東区有明)がレスリングなどの会場になるため、「五輪開催時はコミケがビックサイトでできない」とネットで話題になっていた。
 これまで3度コミケに行ったという、さいたま市の男子大学生は「別の場所、できれば関東でやってくれればいいと思う。スポーツ観戦も好きなので東京五輪は楽しみ」と話す。一方、埼玉県八潮市の女子高校生(17)は「五輪はいいけど、コミケはビックサイト、とインプットされてるので残念」と話す。「7年後はいい年だし、想像つかないけど、景気が良くなっていればいいな」
 中には、五輪の開催自体に疑問の声も。「都合のいいときだけ東北を使うなーと」。ピンク色のメード服で着飾ったフリーターのれいさん(21)。「距離が離れているから(東京の放射能レベルは)大丈夫と言いつつ、『東北のため』というのは矛盾しているんじゃないかな」と話す。「お金を使うなら直接、被災地に使って欲しい。東京五輪が決まったと聞いても、うれしい気持ちはない」と冷めていた。

まず、全体的に、秋葉原の若者は、五輪開催自体ではなく、そのためにコミケが開催できなくなるかどうかに一番の関心をもっている。前二者は、たぶん世論調査では「五輪開催支持」に分類されるのだと思うが、関心の中心はコミケ開催にある。現在の自分の関心事が最優先しており、五輪開催自体は副次的問題になっているといえよう。その点、浅草・巣鴨の老人たちの感想と対照をなしている。

そのような心情の中から、ようやく、明示的な五輪開催への批判がうまれてくるのである。最後の一人は、東北から距離が離れているから東京開催は大丈夫だというにもかかわらず「東北のため」を標榜するのは矛盾だとし、お金を使うなら直接被災地に使ってほしいと述べ、東京五輪が決まってもうれしい気持ちはないとしている。このような批判的意見が、秋葉原の若者の多数意見かどうかはわからない。しかし、自分自身の一番望むものがあるからこそ、五輪開催を相対的にみる雰囲気があり、それが、批判的意見が表明される下地になっていたと考えられるのである。

全体でいえば、9月10日付朝日新聞朝刊東京地方版で報道されている2020年東京オリンピック開催決定に対する東京の人びとの反応は、おおむね三つに大別される。

第一は、五輪関連施設建設予定地の地域住民である。彼らは、街おこしへの期待から、五輪開催決定を喜んでおり、地域でパブリックビューイング開催するなど、期待を積極的に形として示したといえる。

第二は、1964年東京オリンピック開催を経験した老人たちである。彼らは、高度経済成長期を生きた自身の生きざまから先のオリンピックを懐古し、その点から、オリンピック開催を期待している。

第三は秋葉原の若者たちである。彼らにとっては、五輪開催自体よりもそれによりコミケ開催がどうなるかということが第一の関心事であり、五輪開催に賛成しているとしても、それは副次的な問題にすぎない。このような、五輪開催に対する相対的な見方を下地にして、五輪開催についての批判的意見が述べられているといえよう。

もちろん、これは朝日新聞の取材であり、世論調査でもないので、この報道が統計的に有意なものとはいえない。取材にしても、サラリーマンが多く通る新橋とか、消費者を主な取材対象とする銀座での街頭取材については報道していない。それでも、なんとなく、この三つの対応は、東京オリンピック開催についての東京の人びとの反応の類型を示しているように思われる。

もともと、私の疑問は、誰が心から東京オリンピック開催決定を喜んでいるのかということであった。前のブログをあわせて考えると、まずは、経済界、アスリート、五輪関連施設所在地・予定地の地域住民など、東京オリンピックによる受益を期待(幻想的であっても)できる人びとであった。さらに、直接的受益は期待できなくても、1964年東京オリンピックを経験した老人たちは、高度経済成長期を生き抜いた自分たちの生きざまを懐古しながら、東京オリンピック開催に期待をよせている。この人びとが、五輪に「夢」を投影し、その開催決定を喜ぶのは当然だ。しかし、私個人は、こういう人びとを直接知らないし、そういう「夢」自体が理解できないのである。

他方、秋葉原の若者たちは、「コミケ」開催に自分の「夢」を感じている。コミケ開催が五輪開催によって支障をうけるかもしれないこと、それが一番問題なのである。例え、五輪開催に賛意を示していたとしても、それは副次的な問題なのである。その中で、やっと批判的意見が出されるようになる。五輪開催自体に批判的かどうかはおくことにしよう。五輪開催という上から与えられた「夢」に共感するよりも、自分たち自身がなしたいことがあるというのが、彼らの考えといえる。もちろん、私は彼らにあったことはない。秋葉原もコミケも日常的には縁がない。といっても、彼らのメンタリティのほうが理解できる。そして、このようなメンテリティは、秋葉原だけでなく、より一般的に広まっているのではなかろうか。ほとんどの人は、「五輪」のみで生きているわけではない。「五輪」以外にも多くの「夢」があるのである。

こうやってみると、新聞をよく読んでみると、それでも、「国民多数」の中に走っているいくつかのひびをみつけることもできるのではなかろうか。それは、今回はとりあげないが、東京五輪開催決定に対する被災地での対応にも現れているのではないかと思う。

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さてはて、是非はともかく、9月7日に2020年東京オリンピック開催が決定された。しかし、驚いたのは、マスコミなどで流される「祝勝」気分と、自分たちの周辺との反応の落差である。私はオリンピックが開催される予定の東京に住んでいるが、直接に接触しても、フェイスブックで間接的に意見交換しても、東京オリンピック開催を喜ぶ人はほとんどいない。私が資料収集をしていた9日の武蔵野市立中央図書館で、全く知らない図書館利用者が「決まってよかったですね。うれしくて」と別の利用者に話しかけていたが、いわゆる「喜びの声」を「生」で聞いたのは、それだけである。

福島などの被災者が「別の国」のようだと言っていたが、東京に住んでいる私も、まるで別の国に住んでいるようにしか思えなかった。その第一の理由は、もちろん、安倍首相その他の福島第一原発事故についての虚偽とすら思える発言があったことである。しかし、それだけではない。東京に住んでいたとしても、2020年東京オリンピック開催によって、私個人の「生」にどのようなメリットがあるか、わからないからでもある。

本当に心から東京オリンピック開催を喜んでいる人たちはどういう人なんだろう。そういった目で、祝祭気分あふれる(とみえる)朝日新聞を読み直してみた。

新聞休刊日があったため、号外をのぞいて朝日新聞本体では第一報となった2013年9月9日付夕刊には、まず度肝をぬかれた。普通の新聞本体をカバーして、全面色刷の東京の俯瞰写真が掲載され、「お帰り五輪。夢の炎、熱く熱く」と見出しがうたれている(なお、下の一部と裏面は、なぜかBMWの広告である)。その中では、第一に1964年東京オリンピックが開催されたことが回顧され、東日本大震災の復興がはたされたとはまだいえないと指摘した後、

 

が、五輪は間違いなく人々の体に勇気を吹き込む。猫背気味に視線を下に落としていた人たちが上を向くのだ。そこには64年に見た「希望」が形を変えて新たに表れるに違いない。お帰り、五輪。僕たちは元気をもらうよ。

と、東京オリンピック開催決定を祝勝している。そこには、64年五輪を回顧し、五輪が「勇気」を吹き込むという言説があることに注目しておきたい。「勇気」というものを「主体性」という言葉で代置するならば、五輪は人びとの「主体性」を構築するものとして把握されているのである。

そして、2面では、「経済界、高い期待 早速セールも」という見出しのもとに、経済界がオリンピック開催に期待を高めている様子を報道している。これは、まあ当たり前のことである。それでも、オリンピック開催を第一に喜んでいるのは、経済効果を期待する経済界であることは記憶にとどめるべきことであろう。

さらに、スポーツを扱う12面で、「アスリート走り出す」という見出しのもとに、柔道女子57キロ級金の松本薫、ゴールボール金の浦田理恵(パラリンピック)、女子マラソンアテネ五輪金メダルの野口みずき、体操男子ロンドン五輪個人総合金メダルの内村航平、競泳男子平泳ぎ金メダリストの北島康介、車いすテニスの国枝慎吾(パラリンピック)の「喜びの声」を伝えている。一例として、松本薫のそれを紹介しておこう。

夢持つ子が増えれば、柔道女子57キロ級金松本薫

 ロンドン五輪柔道女子57キロ級金メダルの松本薫(フォーリーフジャパン)は2020年の東京五輪に「夢」を感じている。
 「今、夢を持てない子どもたちが多くなっていると聞きます。東京に五輪がくることで、夢を持つ子どもが1人でも増えればいい」
 ロンドンで日本選手第1号の金メダルを獲得。1年の充電期間を経て、ロンドンの記憶は薄れてきている。脳裏に残っているのは、選手村の雰囲気。「緊張感と、ついにここまで来たんだ、という喜びが混じっていた。独特の空気感でした」
 激しい戦いぶりとつかみどころのない素顔とのギャップで人気を集めた彼女も小さい時は明確な夢を持てず、悩んでいたという。「ケーキ屋になりたいとかそういうのはあったけど。いつか路頭に迷うんじゃないか、って思ったときもありました」
 そんなモヤモヤを振り払ったのが、中学生のころに抱いた五輪への憧れだった。ロンドンで「やりつくした」との思いも抱いたが、再び「夢の舞台」に立ちたいという欲求を抑えることは出来なかった。
 25歳。「柔道が天職」という彼女が、2020年まで現役でいられるかは分からない。それでも、「東京五輪で、アスリートの夢を日本のみんなと共有で出来れば、本当にすごいと思います」。(野村周平)

経済界の五輪開催への「期待」が経済効果であり、いってしまえば営利獲得の機会拡大であることと比べてみれば、松本の「夢」は、自分以外のものにも向けられており、純粋な気持ちであるといえよう。その点、「感動的な」記事である。しかし、それが、「アスリートの夢」であり、「非アスリートの夢」ではないことに注目しておかねばならない。それをみんなー都民・国民に「共有」させること、これが松本の東京オリンピック開催なのである。松本個人が出る出ないは別にして、彼女が属しているアスリートの世界全体は、東京オリンピック開催によって利益を享受するとはいえる。いわば、アスリートは総体として「受益者」であり、関係当事者なのだ。その他のアスリートたちも、立場は同じである。彼らが2020年オリンピック開催を喜ぶのは当然だが、一般の人びととは立場が違うと指摘しておかねばならない。

さて、社会面である14・15面は二面見開きで「情熱のち聖火 夢舞台再び」という見出しのついた大きな記事が掲載されている。その中で、第一に「半世紀あせぬ思い 聖火台・ブレザー 磨いた技」として、64年東京オリンピックにおいて聖火台製作に関わった鈴木昭重と、バレーボール日本代表(男女)の公式ブレザーを仕立てた藤崎徳男の発言が紹介されている。第二に、「一枚かみたい64年出場組」という見出しのもとに、64年東京オリンピックにおいて日本選手団主将をつとめた元体操選手の小野喬と、64年の東京オリンピックで議論に初出場し、ロンドンオリンピックにも出場した馬術選手の法華津寛の談話を紹介している。この四人は、まずは64年東京オリンピックの関係者であるということが共通している。彼らは、オリンピック関係者であるという点で、現代のアスリートたちの立場と共通している側面をもつ。他方で、1964年の東京オリンピックを回顧するという点で、独自の面をもっているといえる。

この記事ではさらに、『「東京で勝負」 若手決意』という見出しのもとに、10代のアスリートたちの声として、陸上選手桐生祥秀(17歳)と、卓球選手平野義宇(14歳)の談話が掲載されている。ここでは、桐生の分のみあげておこう。

「東京で勝負」 若手決意

 母国での五輪を担う10代の若者は夢を膨らませる。
 「東京にくるのはうれしいけど、五輪に出たことがないので……」。陸上男子100メートルで9秒台をめざす17歳の桐生祥秀選手(京都・洛南高)は少し戸惑いながら話した。
 陸上を始めて1年目の2008年、北京五輪の陸上男子400メートルリレーで日本が銅メダルを獲得するのをテレビで見た。「その時は、ただ日本が速いな、ジャマイカがすごいなっていう程度。まさか自分が世界で戦う選手になるとは」。今年の世界選手権では400メートルリレーで6位に入賞した。
 20年は24歳。「勝負するのは東京。世界で戦える強さを持って、その舞台に立っていると思う」
(後略)

桐生の発言は純真だ。しかし、彼も、ここでは省略した平野も、広い意味でアスリートに属している。いや、2020年東京オリンピックでは、主力選手になっているかもしれない。その意味で、彼らもまた、東京オリンピック開催による受益者であり、利害関係者であることは留意しなくてはいけない事実である。

そして、やっと、14面の片隅において、一般の人とおぼしき人びとの「喜びの声」があげられている。ただ、東京都内の招致イベント会場で取材した記事なので、一般の人というよりも東京オリンピック招致活動参加者の声とするのが適切かもしれない。それでも、今まであげてきた人びとよりは一般の人に近いといえよう。短い記事であるので、ここで紹介しておこう。

「希望見つけた」

「バンザーイ」「やったー」。半世紀ぶりの五輪開催が決まった8日未明、東京都内の招致イベント会場は喜びに沸いた。
 1964年大会の会場となった世田谷区の駒沢オリンピック公園総合運動場の体育館。大画面に映ったIOCのロゲ会長が「トーキョー」と告げると、大歓声が上がり、金色の紙吹雪が舞った。
 東日本大震災の被災地・福島県南相馬市から来た江本節子さん(66)の目には涙。「ようやく夢や希望が見つかった。復興と五輪が両輪で進んでいくのではないか」と喜んだ。
 五輪代表選手らの練習拠点となる味の素ナショナルトレーニングセンター(北区)に近い「板橋イナリ通り商店街」(板橋区)。8日朝、子どもたちが巨大なくす玉を割り、「祝 東京オリンピック」と書かれた幕が現れた。近くの工場経営、下平信彦さん(30)は長男の和彦ちゃん(1)を連れ、くす玉を割れる様子をビデオ撮影した。7年後、小学生になる息子に感動を伝えるためだ。下平さんは「五輪には夢がある。選手が頑張る姿を見て、何かを目指すきっかけにしてほしい」。
 8日朝、東京・新宿の都庁前では、「THANK YOU ありがとう」と感謝の気持ちを人文字で表すイベントも。杉並区の自営業池田輝夫さん(65)は「64年大会は高校を早退してマラソンのアベベを見に行った」と懐かしみ、「今度は8人の孫に見せられる」と喜んだ。

さて、ここでは3人の人が「喜びの声」を語っている。江本と池田は大体同じくらい(65〜66歳)で、1964年オリンピック経験者であることに着目したい。池田は、明確に、1964年オリンピックと重ね合わせて、今回のオリンピックへの期待を述べている。江本は、産經新聞にも同様なことを語っており、なぜ、被災地でこういうことをいうのかと考えていたが、年齢をみて納得した。彼女は、自分でも体験した1964年オリンピックの残像の上に、復興に寄与するオリンピックというイメージを構築しているのだと考えられる。

年齢的にみて、下平は1964年オリンピックを直に体験したことはないだろう。しかし、彼も、オリンピックに完全に無関係かといえば、そうではない。オリンピック関連施設と考えられる味の素ナショナルトレーニングセンターの近くに住んでいるのである。彼自身は、たぶんオリンピック開催から直接的利益を受けることはないだろうが、地縁はあり、広い意味でオリンピックに関わり合いをもつものといえよう。

さて、全体でいえば、2013年9月9日付朝日新聞夕刊で「喜びの声」を表明している人たちの多くは、オリンピック開催に何らかの関わり合いをもつ人たちといえる。「経済効果」を期待する経済界、よりチャンスを広げたいと考えているアスリートたち、1964年のオリンピックに関与した人びと、オリンピック関連施設と「地縁」を有するものなど、それぞれ多様であるが、全く関連のない人たちはあまりいないといえる。

そして、オリンピックに関わらないで「喜びの声」を挙げている二人は、年齢的にみて1964年オリンピックの体験者であると考えられる。同じようなことは、1964年のオリンピック関係者の四人にも共通している。聖火台製作に関与した鈴木昭重は「64年当時と違い、今の日本は成長が止まっている状態。五輪で気持ちが新たになればいい」と述べている。彼らは、1964年を回顧しつつ、2020年のオリンピックに期待をかけるのだ。

このように、本新聞の紙面で2020年東京オリンピック開催への期待を語っている人びとは、受益者を中心とした広い意味での関係者か、1964年東京オリンピックへのノスタルジーを感じている人たちであることが理解されよう。

ただ、昨年、東京オリンピック開催をかかげた猪瀬直樹がかなりの得票率で都知事選に勝利したこと、IOCの調査では東京開催を支持する意見は70%程度はあったと報じられていることをみると、東京開催を「支持」するという人たちはかなり多いのではないかと推測される。しかし、それは、一般的には漠然とした支持であり、明確に言語化して「心から支持する」と主張する人は一般には少ないのではないかと思われる。広い意味での関係者と、1964年の東京オリンピック体験者しか、自分の言葉で東京オリンピックについて語れなかったのではなかろうか。そもそも、オリンピックとはーそのために増税したり、経済危機になったりすることは別としてー、大多数の日本の人びとの「生」には関わらない存在である。ゆえに、普段からオリンピックについて考えている受益者を中心とした広い意味での関係者か、1964年東京オリンピックへのノスタルジーを感じている人たちのみが、ここで発話できたのではなかろうか。

そして、結局のところ、広い意味での関係者の利害と、特定の世代の特殊な意識を、紙面に大きく掲載することによって、「国民意識」を形成し、「主体性」を創出していくことになる。これこそ、国民国家の装置としての新聞の機能なのである。

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猪瀬直樹東京都知事が今月東京へのオリンピック招致活動でニューヨークを訪問し、その歳ニューヨークタイムズのインタビューを受けた。その内容が4月27日のニューヨークタイムズに掲載され、その中での五輪開催候補地イスタンブールなどへの猪瀬の批判があきらかになり、波紋を呼んでいる。

この記事は、ニューヨークタイムズから全文がネット配信されているが、英文である。部分的にはかなり紹介されているが、全体がどのようなものかは報道されていない。ツイッターにおいて全文翻訳を試みられている。その訳を参考にして、日本語として意味が通らないところなどを自分なりに訳してみた。

なお、私は、英語は苦手である。この翻訳も十分なものではない。ニューヨークタイムズの原文を掲げて、対訳の形で示すことにした。記事全体がどんなことを述べているのか、参考にしてほしい。

まず、次のような形で、この記事ははじまっている。

In Promoting His City for 2020 Games, Tokyo’s Bid Chairman Tweaks Others
By KEN BELSON
Published: April 26, 2013

2020年オリンピック誘致活動において他候補の鼻をひっぱる東京の会長
ケン・ベルソン
2013年4月26日発行

 With less than five months to go before the International Olympic Committee chooses a city to host the 2020 Summer Games, the three remaining bidders — Istanbul, Madrid and Tokyo — are increasing their efforts to win over delegates and the public.
 The Olympic committee’s rules prohibit bid committee members from directly criticizing other bids. Instead, the bidders often highlight the perceived strengths of their bids to note delicately what they believe to be their rivals’ shortcomings, something known in the communications industry as counter-positioning.

2020年夏季オリンピック開催都市選考まで5カ月を切った、現在残っている候補都市―イスラマバード・マドリッド・東京‐は委員や公衆の説得に一層力を注いでいる。
オリンピック委のルールはメンバーの他候補への直接的な批判を禁じている。代わりに、候補者はライバルの弱点と思われるところを注意深く示すために自ら認めている自分の強みを強調する、つまり広告業界で言うところのカウンターポジショニングである。

ここでは、まず、他候補都市への直接的な批判をさけ、自らの都市の強みを示すことにより他候補都市の弱点を暗示するにとどめなくてはならないとする五輪招致の原則を示している。

 

 Naoki Inose, the governor of the Tokyo Metropolitan Government and chairman of the Tokyo 2020 bid, has often done that, highlighting his city’s extensive and efficient transportation system, as well as the financial and technical wherewithal to build first-class sports sites and housing for the athletes. He has also noted that, like Paris and London, Tokyo has hosted the Summer Games before, a claim that Istanbul and Madrid cannot make.
 But Inose has also pushed the boundaries of rhetorical gamesmanship with occasionally blunt and candid statements about how his city compares with the competition, particularly Istanbul, which he has suggested is less developed and less equipped to host the Games.
 “For the athletes, where will be the best place to be?” Inose said through an interpreter in a recent interview in New York. “Well, compare the two countries where they have yet to build infrastructure, very sophisticated facilities. So, from time to time, like Brazil, I think it’s good to have a venue for the first time. But Islamic countries, the only thing they share in common is Allah and they are fighting with each other, and they have classes.”
 Asked later to elaborate on his characterization of Istanbul, a spokesman said Inose meant that simply being the first Islamic country to hold the Olympics was not a good enough reason to be chosen, just as being the first Buddhist country or the first Christian country would not be, either.
 The spokesman said Inose did not mean to refer to “class.”

猪瀬東京都知事・五輪招致委員会会長はそれをしばしばやっているが、彼の都市の広範で効率的な交通システム、それと同様に第一級のスポーツ施設や選手村建設のための財政・技術的手法を強調する。彼は、パリやロンドンの様に東京も嘗て夏季五輪開催経験があることを強調し、イスタンブールやマドリッドはできないと主張する。
しかし猪瀬は、反則すれすれの修辞的な技の境界を押し広げ、粗野かつ露骨に競争相手との比較を主張し、特にイスタンブールは低開発で主宰するのに準備不足だと示唆した。
「競技者にとって、最もいい場所はどこか?」。NYTとの通訳を通しての最近のインタビューで猪瀬は言った。「まだインフラ建設も洗練された施設も建設してない2国と比べてくれ。時々、ブラジルみたいな初開催地があるのはいいと思う。だが、イスラム諸国が唯一共有するのはアラーだけで、互いに戦っており、そこには諸階級がある」 
その後、彼のイスラムの描写について詳しく話すよう聞かれ、スポークスマンは、猪瀬は単にイスラム国初のオリンピックというのは選ぶ十分な理由ではない、ちょうど初の仏教国や初のキリスト教国であることがそうでないように、という意味だと言った。
スポークスマンは、猪瀬は「階級」について言及する意図はなかったと言った。

この部分で、猪瀬の招致活動における発言の不適切さが提示されている。猪瀬は、日本は、交通システム・スポーツ施設・選手村などのインフラ整備にすぐれており、また、パリやロンドンと同様にオリンピック開催の経験をもっていると主張する。もちろん、それだけでは不適切ではない。しかし、さらに猪瀬は、マドリッドやイスタンブールは開催できないと指摘している。そして、特にイスタンブールは低開発で準備不足であるとし、問題となった「イスラム諸国が唯一共有するのはアラーだけで、互いに戦っており、そこには諸階級がある」という主張を行っているのである。

これは、もちろん、ライバルへの直接的批判をさけるべきとするオリンピック招致活動上の規範に抵触することはもちろんである。しかし、それ以上に、東京をパリやロンドンなどの「先進国」の中におき、アジアのイスタンブールを蔑視し、さらには、イスラム圏総体を蔑視するという、レイシズム的な発言でもあることに注目せざるをえないのである。
ただ、あまりのレイシズム的発言のため、猪瀬のスポークスマンが修正をはかっていることがわかる。猪瀬自身はどう考えたかはわからないのだが。

 Istanbul is an Olympic finalist because it is an international city in one of the fastest-developing countries in the region. A member of NATO, Turkey straddles Europe and Asia and is a bridge between Christianity and Islam. With its emerging middle class, Turkey has become a political and economic powerhouse in the region.
 This is Istanbul’s fifth bid to host the Olympic Games. In a statement, the city’s bid committee declined to address comments made by rival bidders.
 “Istanbul 2020 completely respects the I.O.C. guidelines on bidding and therefore it is not appropriate to comment further on this matter,” the statement said.

イスタンブールは地域で最も急成長する途上国の一つの中の都市であり、そのためオリンピック開催国最終候補になった。NATO加盟国のトルコは欧州とアジアにまたがり、キリスト教とイスラムのかけ橋になっている。成長する中間層によりトルコは政治的経済的な地域のエネルギー源になっている。 
今回はイスタンブールの5回目のオリンピック開催立候補だ。声明で、ライバル候補都市のコメントについて招致委員会はコメントを拒否した。
「イスタンブール2020は招致に関するIOC指針を完全に尊重し、従ってこの件についてさらにコメントするのは適切でない」と声明は述べた。

ここでは、トルコのことにふれられている。まず、急成長し、ヨーロッパとアジアのかけはしになるトルコでオリンピックが開催されることの意義について、ニューヨークタイムズの記者自身が解説している。そして、イスタンブール招致委員会が、他都市を批判しないという原則を遵守して、この猪瀬発言に対するコメントを拒否したことが述べられている。

 

The International Olympic Committee does not look kindly on overtly harsh attacks by bidders, and occasionally it sends letters of reprimand to those who break with protocol, former bidders said.
 According to Article 14 of the Rules of Conduct for bidders: “Cities shall refrain from any act or comment likely to tarnish the image of a rival city or be prejudicial to it. Any comparison with other cities is strictly forbidden.”
 Though untoward comments rarely disqualify a bid, they could raise doubts in the minds of I.O.C. delegates about the trustworthiness of a bidder.
 “The reason the rule is there is that if someone deviates from it, it triggers a chain reaction,” said Mike Moran, chief spokesman for the United States Olympic Committee from 1978 to 2002 and a senior communications counselor for New York’s bid for the 2012 Summer Games. “The I.O.C. is very serious about their protocols.”
 Moran added that negative comments by bidders would probably not hurt a bid, although “you never know how a comment might influence those I.O.C. members.”

 
IOCは候補者によるあまりにひどい攻撃について大目に見ない、そして時に規則を破ったものに叱責の手紙を送ると、以前の候補者は言う。
候補都市への行為規則14条によると「都市はライバル都市のイメージを汚したり偏見を与えたりするようないかなる行為・発言をつつしむべきである。他都市とのいかなる比較も堅く禁じる。」
しかし、不適当なコメントが稀に候補を失格にすることがあり、それらは候補者の信頼に関するIOC委員の心証に疑念を起こさせた。
「ルールの理由は誰かがそれからそれると、反応の連鎖を引き起こすことにある」と、78-02年米五輪委主任スポークスマンで前回12年NY五輪招致広報顧問Mike Moranは言う。「IOCはこの規則に大変厳しい。」
Moranは候補者によるネガティブコメントは恐らく候補都市を害することはないだろうが、しかしながら「コメントがいかにIOCメンバーに影響するかは分からない」と加えた。

ここでは、まず、他候補との比較や批判を許さない招致上の規範が再び述べられ、過去のアメリカの招致関係者の取材に基づきながら、少なくとも、IOC自身は、そのような他都市への批判を許さないとした。そして、このようなネガティブコメントがどのような影響を及ぼすかということについてはわからないとした。

 

At several points in the interview, Inose said that Japanese culture was unique and by implication superior, a widely held view in Japan. He noted that the political scientist Samuel P. Huntington wrote in his book “The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order” that Japan was unlike any other culture.
 Inose also pointed to polls that showed 70 percent of Tokyoites in favor of hosting the Summer Games, up from 47 percent last year. The well-received London Games, he said, have helped generate enthusiasm and confidence that Tokyo can host a similarly successful event.
 Tokyo, he added, is exceptional because the Imperial Palace, which is largely off-limits to residents and visitors, forms the city’s core while bustling activity surrounds it. “The central part of Tokyo has nothingness,” he said. “This is a unique way that society achieved modernization.”

インタビューのいくつかの点で、猪瀬は、広く日本で抱かれている観点である優越感を含意しながら、日本文化は独特だと言った。彼は、政治学者ハンチントンは『文明の衝突』で日本は他の文化と違うと書いたと述べた。
猪瀬はまた世論調査で夏季五輪開催の東京都民支持が昨年47%から上昇し70%になったと示した。彼は、大変支持されていたロンドン五輪が、東京が同様の成功するイベントを開催できるように、一般の熱狂や信頼を手助けしていると言った。
東京は広く居住・訪問できない広大な場所、皇居があり、せわしない活動が周囲を取り巻く中心を形作っているから例外的だとも猪瀬は付け加えた。「東京の中心は空だ」と彼は言った。「これは近代化を達成した都市ではユニークだ」

この部分で、猪瀬は日本の優位性をかたっている。日本の文化の特異性、そしてその日本が近代化を達成したことをここでは述べている。彼によれば、東京の中心には「空」である皇居が所在しているが、その周囲でせわしない活動が行われていると説明している。「これは近代化を達成した都市ではユニークだ」としている。確かに、ロラン・バルドなど、このような形で日本の特異性を説明することはある。しかし、このようなことが、オリンピック開催にどのように寄与するのか、不明である。

 

Inose brushed aside the notion that Olympic delegates may favor Istanbul’s bid because Turkey has a far younger population than Japan and thus is fertile ground for developing the next generation of Olympic enthusiasts. While population growth has stalled in Japan, the population of Tokyo has grown because of an influx of younger people, he said. He added that although Japan’s population is aging, its elderly are reasonably healthy.
 “We used to say that if you are poor, you have lots of kids, but we have to build infrastructure to accommodate a growing population,” Inose said. “What’s important is that seniors need to be athletic. If you’re healthy, even if you get older, health care costs will go down. The average age is 85 for women and 80 for men, so that demonstrates how stress-free” Japan’s society is.
 “I’m sure people in Turkey want to live long,” he added. “And if they want to live long, they should create a culture like what we have in Japan. There might be a lot of young people, but if they die young, it doesn’t mean much.”

 
猪瀬は、トルコは日本よりはるかに若い人口を持ち五輪に熱狂する次世代を多く生みだす地となるからイスタンブールをオリンピック委員たちが候補として賛成するかもしれないという意見を払いのけた。日本では人口増加は停滞している一方、東京の人口は若い人々の流入で成長していると彼は言った。彼は日本の人口は高齢化しているが、高齢者は適度に健康だともつけ加えた。
「私達は貧乏人の子だくさんと言いならわしている、しかし、私達は成長する人口を収容するインフラを建設しなくてはならない」。猪瀬は言う。「大切なことは年長者達が運動的であることを必要としているということだ。もし健康なら、年をとっても、健康維持コストは下がる。女性で平均年齢85歳、男性で80歳、これはいかに日本社会がストレスフリーかを証明している。」
「私はトルコの人々が長生きしたいと思っていると確信している」と彼はつけ加えた。「そしてもし長生きしたいなら、私達が日本で持つような文化を創るべきだ。たくさん若い人々がいるだろうが、もし彼らが若死にしたら意味はあまりない」

この部分でまた猪瀬は、招致規範が禁止している他候補との比較を行っている。トルコのほうが若年人口が多く、次世代のオリンピック愛好者を増やす上に有利だという主張をはねのけている。猪瀬は、まず、日本全体では人口増加は停滞しているが、東京は若い人口の流入で成長しているといっている。そして、日本の人口の高齢化により、日本人はスポーツを必要とするようになっており、それによりストレスフリーの社会が作られ、平均寿命が伸びているとしている。しかし、いくら外国への宣伝でも、これは問題であろう。そもそも、東京への一極集中が日本社会の問題なのであり、東京オリンピック開催の正当性の中に取り入れられている東日本大震災からの復興でも、この問題は強く影響している。そしてまた、高齢者だからよりスポーツを必要とするというのも、どうみても強弁であろう。そのうえ、東京でストレスフリーの社会が形成され、平均寿命が伸びているというのも片腹痛い。「幻想」でしかないだろう。そもそも、都知事は、東京の地域社会がかかえている問題を把握し、その是正をはかるというのが職務であるはずである。いくら、対外宣伝でも、これでは、都知事としてどのように東京の地域社会の現実に向き合っているのかと思わざるをえないのである。

しかし、単に、日本や東京についての「幻想」を提示するだけならば、国際問題にはならないだろう。猪瀬は、この「幻想」をもとに、トルコ社会について、上からの視線で訓諭する。トルコの若年者が長生きしたければ、日本のような文化をつくれと。このような意見はまったくオリンピックの招致とも関係ないだろう。なぜ、こんなに傲慢なのだろうか。

Inose has drawn distinctions between Japan and other cultures in other settings, too. When he visited London in January to promote Tokyo’s bid, he said Tokyo and London were sophisticated and implied that Istanbul was not.
“I don’t mean to flatter, but London is in a developed country whose sense of hospitality is excellent,” Inose told reporters. “Tokyo’s is also excellent. But other cities, not so much.”

Hiroko Tabuchi contributed reporting.

猪瀬は、また、日本と他の環境における他の文化についても違いを描写した。ロンドンに東京開催を宣伝しにいった時、彼は東京とロンドンは洗練されており、イスタンブールは違うと暗に示した。
「お世辞を言うつもりはないが、ロンドンはもてなしのセンスが素晴らしい先進国だ」と猪瀬は言った「東京も素晴らしい。他はそれほどじゃない」。
ヒロコ・タブチ レポートに寄与

そして、この記事の最後は、猪瀬の考える日本ー東京の立ち位置が示されている。この文章の前の方でも、ロンドンやパリなどの先進国の都市こそオリンピック開催の資格があるものとし、東京もその一員であるとしていた。ここでは、まったく先進国都市ロンドンにおもねりながら、東京もまた同列であるとし、そのことでイスタンブールを排除しようとしているのである。

さて、猪瀬が30日にした謝罪会見によると、このインタビューではほとんど東京開催のことを話したのだが、最後の雑談で、イスラム圏で戦いが行われていることなどを話したという。発言は訂正するとしたが、このようなことを話したことは認めざるを得なかったといえよう。もちろん、ニュアンスや重点は実際に話したインタビューと違うのかもしれない。しかし、とりあえず、このような発言はあったと現時点ではいえるだろう。

そして、この記事をもとに、猪瀬発言の問題を考えてみよう。他都市の直接的批判や比較はしないという招致規範に抵触することはもちろんである。しかし、それ以上の問題があるだろう。まず、猪瀬は、日本ー東京をロンドンやパリなどと比肩する「先進国」とし、その立ち位置から上から目線で話しているといえる。猪瀬は、高齢化が進んでいる日本社会の現実に向き合わず、東京への一極集中という日本社会の重大な問題をむしろ利用しながら、高齢者がスポーツにいそしんでストレスフリーの社会がつくられているという「幻想」をふりまいている。そこには、まず、現状の日本社会の問題をどのように彼自身がとらえているのかという問いが惹起されよう。そして、さらに、先進国ー「欧米」へのすり寄りがあるといえる。

その上で、トルコーイスタンブールを後進国として猪瀬は蔑視する。それは、さらにイスラム教への偏見にも基づいているといえる。ここまでいけば、レイシズムといえるだろう。そして、「日本のような社会を形成しろ」と上から目線で訓示を行っているのである。

この記事を一読したとき、私は、福沢諭吉の「脱亜論」を想起せざるをえなかった。欧米ー先進国にすりより、アジアー後進国(なお、後進国としているのは猪瀬の認識であり、私の認識ではない)として蔑視する脱亜論的発想は、いまだに日本社会の基層に定着している。このような認識は猪瀬個人の資質だけの問題ではないのである。まさに、現代の脱亜論として、猪瀬の発言は位置づけられるのである。

翻訳参照
http://togetter.com/li/494941

原文

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最近、東京圏ではあまり議論されなくなってきたが、福島第一原発事故により放出された放射性物質をいかに除染していくかということが、東北・関東圏では大きな問題となった。もちろん、福島県では、今でも大きな問題である。

たまたま、自分が仕事をしている東京都小金井市の昨年度の新聞記事をみて、もう一度、除染という問題を想起した。小金井市の場合、昨年はこんな形で、除染を行った。

プレスリリース)市立小・中学校の空間放射線量の測定と除染作業について(平成23年12月15日報道発表)

【 2011年12月15日 更新】

小金井市教育委員会では、平成23年7月から市内小中学校校庭等の空間放射線量の定点測定を行ってきましたが、現在まで問題のある線量は測定されていません。
 今般、保護者の皆さんからご心配の声がある小・中学校の雨どいやU字溝、雨水桝についても順次測定し、安全基準を超える0.25マイクロシーベルト毎時以上の放射線量が測定された場所については除染を行うこととしました。
12月13日に南小学校を測定した結果、敷地内で市の基準とする0.25マイクロシーベルト毎時を超える数値が測定されたので、下記により14日に一部の場所の除染作業を実施し、基準値を下回ることを確認しています。今後、残った場所の除染作業を実施します。その間、当該区域への一定の立ち入り制限などを行います。
今後も引き続き測定を実施し、安心できる教育環境の確保に努めてまいります。

1 測定結果(南小学校)

 南小測定結果
場   所        除染作業前測定値  除染作業後測定値  備   考
外トイレ(校庭南東)  0.26        0.11        土の除去
体育館南面(西側雨樋下) 0.37        0.15        堆積物除去・清掃
体育館南面(東側雨樋下) 0.36        0.12        堆積物除去・清掃
給食ごみ置き場(校舎西面)0.29                15日に作業実施
東校舎東面(雨樋下)  0.38                15日に作業実施
東校舎東面(雨樋下)  0.48                15日に作業実施
測定機:日立アロカメディカル社製 TCS-172B
測定値:いずれも地表から5cmの高さで測定した数値(単位:マイクロシーベルト毎時)

2 汚染物質の取扱い  
汚染物質は、土嚢袋又はビニール袋に収容し、学校敷地内(児童の立ち入らない場所)に埋設し、周辺の空間放射線量を測定することにより安全を確認します。

3 除染に係る市の基準等(参考)
(1) 地表5cm付近の高さの空間放射線量が0.25マイクロシーベルト毎時以上1マイクロシーベルト毎時未満の場合は、除染作業等を実施します。
(2) 地表100cm付近の高さの空間放射線量が1マイクロシーベルト毎時以上の場合は、文部科学省及び東京都に報告し、除染作業の実施について検討することとします。
(3) (2)の状況が確認された場合は、当該区域への人の立ち入りを制限するなど、必要な措置を執ることとします。
http://www.city.koganei.lg.jp/kakuka/kikakuzaiseibu/kouhoukouchouka/pressrelease/shochu_sokutei_josen.html

単純化すれば、市施設(市立学校など)で0.25μSv/h以上1μSv/h未満の場所が発見された場合は、市独自で除染を行うとし、1μSv/h以上の場所があった場合は、文科省及び東京都に報告し検討するとしている。後者の場合は、市独自では除染は行わず、上級官庁の指示をまつというのである。

0.25μSv/h以上が、小金井市においては除染対象となるといえる。ただ、この除染基準は、2012年に改定され、0.23μSv/h以上となった。これは、後述する環境省の「除染関係ガイドライン」にそって、一般の人の被曝許容値として定められている年間1mSvにあわせたものである。

2 目標とする線量
国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告を受け、原子力安全委員会が定めた「環境放射線モニタリング指針」に基づき、年間の追加被曝量を1mSv以下にすることを目指し、下記にあげる式により、0.23μSv/h以下を目標とする数値とする。
追加被曝線量=(空間放射線量-自然放射線量)×(16/24×0.4+8/24×1)×24 時間×365 日
※自然放射線量は、全国の平均的な値の 0.04μSv/h を採用。
※1日の生活パターンを屋外に8時間、木造家屋内に16時間いると仮定した場合。
※木造家屋内での空間放射線量は、屋外の40%に低減するものと考える。
(小金井市除染実施ガイドライン )
http://www.city.koganei.lg.jp/kakuka/kankyoubu/kankyouseisakuka/info/sokuteikekka.files/zyosennzissigaidorainn.pdf#search=’%E9%99%A4%E6%9F%93

さて、私の住んでいる練馬区ではどうか。一応、昨年では、0.24μSv/h以上が区施設の除染対象となったようである。

遊び場における空間放射線量の測定結果と対応について
更新日:2011年11月11日

 練馬区内の民間遊び場、民有地一時開放遊び場、公有地一時開放遊び場の全遊び場(39か所)について、11月4日(金)~11月10日(木)で、区職員による簡易測定を実施しました。
 測定方法は1か所3ポイント、各ポイント高さ5cmで測定。30秒測定を5回実施し、平均値を得ました。
 簡易測定の結果、区の対応基準値(0.24μsv/h)を超えた1か所の遊び場については、下記のとおり対応しました。

谷原ひばり遊園地における測定と対応について

谷原ひばり遊園地において、0.36μsv/hと対応基準値を超えた地点があったため、下記のとおり対応いたしました。
除染方法
区職員が、対応基準値を超えた箇所の土を掘削し、袋に封入したうえ、地中に埋め、覆土し、除染しました。除染後、放射線測定(TSC-172B)により再測定を実施しました。
測定記録

谷原ひばり遊園地       除染前 除染後
(3059.26 平方メートル)   0.36   0.15
http://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/koho/oshirase/hoshasen/asobibahousyanou.html

小金井市も練馬区も、東京の西部にあって、比較的放射性物質の汚染度が低い地域である。東京圏の東部には、相対的に放射性物質の汚染度が濃い地域が広がっている。その一つである柏市の除染基準はどうか。2012年3月に策定した柏市除染実施計画は、次のように、年間1mSv以下、具体的には0.23μSv/h以下に下げることを目的としている。ただ、面的に放射性物質により汚染された柏市で、この基準で除染作業を行うことには困難が予想される(ほとんど報道されないが、どうなっているのだろうか)。

2.除染の最終目標
特別措置法の方針も踏まえ、次の目標をもって除染を実施します。
除染の最終的な目標として、柏市における追加被ばく線量 (内部被ばく 5)によるものと外部被ばくによるものとを合わせたもの)が年間で 1 ミリシーベルト未満の環境にすることを目指します。
ただし、当面(平成 26 年 3 月末日まで)は、特別措置法の方針に従い、毎時の空間放射線量率 10)が 0.23 マイクロシーベルト 1(追加被ばく線量が年間で 1 ミリシーベルトとなる環境の空間放射線量率の目安)以上となる場所をできる限り少なくすることを目指すこととします。
ここでいう空間放射線量率は、国が示した「除染関係ガイドライン」(平成 23 年 12 月 14 日公表 環境省)に準拠した地表高さ 1 メートルおよび 50 センチメートル(小学生以下の子どもの生活環境を考慮)としますが )、市では地表高さ 5 センチメートルについても測定したうえで、特に子どもの生活環境となる小学校・保育園・幼稚園等については、地表高さ 5 センチメートルにおける空間放射線量率についても毎時 0.23 マイクロシーベルト未満を目標に除染を実施していきます。
これは国際放射線防護委員会 )が放射線による被ばくに対処する際の原則の一つとして提唱している「合理的に達成可能な限り被ばくを低減する(防護の最適化の原則)」を踏まえた市の独自の措置ですが、放射線による被ばくの影響を受けやすい子どものことを考慮すれば、追加被ばく線量が年間で 1 ミリシーベルト未満となることが推測される区域であっても、被ばく線量をできるだけ低減させることは合理的であると市は判断します。
http://www.city.kashiwa.lg.jp/soshiki/080800/p011077_d/fil/jissikeikaku03115.pdf

多少、数値にばらつきがあるが、年間1mSv以下、具体的には0.23〜0.25μSv/h以下に抑えることを目標としている。これは、環境省ー国が定めた除染基準におおむねそっている。環境省が2011年12月に出した『除染関係ガイドライン』には、次のように記載されている。

放射性物質汚染対処特措法に基づき、追加被ばく線量が年間 1~20 ミリシーベルトの地域で汚染された土壌等の除染等の措置等を進めるにあたっては、まず放射線量が一時間あたり 0.23 マイクロシーベルト以上の地域を、市町村単位で「汚染状況重点調査地域」として環境大臣が指定することになります。指定を受けた市町村は、環境省令(注)で定める方法により、汚染状況重点調査地域内の事故由来放射性物質による環境の汚染の状況について調査測定をすることができるとされており、この調査測定の結果等によって一時間あたり 0.23 マイクロシーベルト以上と認められた区域が、除染実施計画を定めて除染を実施する区域となります。
http://www.env.go.jp/jishin/rmp/attach/josen-gl01_ver1.pdf

もちろん、年間1mSvや毎時0.23μSvという基準自体がどうかという話がある。しかし、東京圏ではおおむね、これが除染の基準となっている。江戸川区のように、除染に消極的な自治体もあり、この基準が全体として守られているかどうかはわからない。ただ、東京圏では、国の基準に合致するような形で除染事業が行われようとはしているといえよう。

しかし、福島県内は、このほぼ4〜5倍が除染基準となっている。長くなったので、詳しくは次回以降に後述するが、福島市・郡山市・伊達市・飯館村の除染基準は年間5mSv、1時間では1μSv(ばらつきはあるが)である。そして、警戒区域などから再編された避難指示解除準備区域は、居住は禁止されているものの、年間20mSv以下、1時間では3.8μSv以下がその基準となっている。このように、東京圏と福島県では、放射性物質の除染基準からみても、明白な格差が存在しているのである。

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さて、東日本大震災は、どのように歴史的に捉えたらよいのであろうか。もちろん、東日本大震災の復興は緒に就いたばかりであり、福島第一原子力発電所の事故については、終息の途もみえない。ここで、評価することは、適当でないかもしれない。しかし、この段階で、ある程度の展望をすることは、実践的な活動を構想する一つの前提になるだろう。もし、事態の展開がかわれば、修正していけばよいのだ。

本ブログで「東日本大震災の歴史的位置」をとりあげた際、最初に①通常の地震・津波災害の面、②原発事故の面、③電力・水道などのインフラ災害の面という、三つの側面があるとした。現時点でみると、②・③は関連しあった問題であるといえる。しかし、①の側面とは相違した様相をみせているといえる。ゆえに、現在では、(1)地震・津波災害の側面、(2)原発事故の側面、という二面があると考察している。

この二つの側面は、共通した要素を有している。(1)地震・津波災害の側面は、天災の要素が強いのであるが、人災の要素もなくはない。宮城県平野部沿岸はともかく、岩手県・宮城県北部の三陸地方沿岸は、近代になり、明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年)、チリ津波(1960年)におそわれている。津波対策はまったくなされていないわけではないが、規模の比較的小さい昭和三陸津波をもとになされており、実施されていた場合も今回の津波被害にそなえるには不十分であった。しかし、言うまでもないことであるが、天災の側面がはるかに大きいのである。

他方、(2)の原発事故の側面は、地震・津波という天災が契機になっているともいえる。現在、原発事故発生の契機について、地震による配管破断なのか、津波による全電源喪失なのかという論争がなされているようにみえる。ここでは即断しないが、いずれにせよ、天災が契機とされている。しかし、はるかに人災の側面が強いだろう。そもそも、東京電力管轄外の福島県に原発を立地し、「安全神話」によりかかって安全対策を怠り、このような事故に対してのシミュレーションや訓練を怠ってきた政府・東電の責任は大きい。さらに、事故対応についても、そもそも状況把握すらあやしい状態で、責任回避のための情報統制に終始し、まともに必要な情報を公開しないーいや公開できないー状態であり、いまだ、責任主体すら不明である。

(1)の地震・津波災害では、青森から千葉という広汎な地域において、多くの生命・財産を失った。前述したように、多少は人災の面もあるのだが、天災の側面がはるかに大きい。その中では、だれかに責任をとらすということではなく、生き残った人々によって、生活を再建し、地域社会の復興を営々と行うことがめざされていく。そして、政府は、責任追及される対象ではなく、復興支援を求めていく対象となるであろう。もちろん、政府による支援の遅れ、不十分さは批判されていくであろうが、それも支援を求めるというスタンスが前提となっている。震災直後、「ニッポンは一つのチームなんです。ニッポン・ニッポン」という公共広告機構のCMが流れたが、先のような心性の立ち上りを期待してのことであろう。

(2)の原発事故の側面は、人災であり、加害者である政府・東電の責任を追及し、補償を求めていくことがまずなされていく。特に、放射線の問題は、単に原発が立地している福島だけでなく、東京を含めた東日本圏全体の脅威となった。さらに、関東圏においては、放射線の問題だけではなく、原発事故に起因する計画停電のため、ある種のパニックが引き起こされた。私も覚えているが、計画停電が実施される直前の3月12・13日は、スーパーでの商品不足はなく、鉄道も正常に動いていた。計画停電が開始された3月14日以後、しばらくはパニック状態であった。買い占めのため米・水・肉などの商品はなく、鉄道もどこまで行くかわからず、きても乗れない状態であった。テレビ・新聞では、刻々と原発の事故の深刻さが報じられていた。後で聞くと、かなり多くの人が西日本や外国に東京から避難したとのことである。政府・東電発の大パニックといってよい。もちろん、被災地に比べれば、なんということはないのだが、東京がパニックとなっても別に被災地がよくなるわけでもない。その中で、東京を中心とする関東圏内における政府・東電への批判意識は強くなったといえる。政府には支援ではなく、責任の所在をあきらかにし、直接被害を蒙った人々に補償し、つじつま合わせではない放射線対策を求めるということである。

そして、原発事故の側面は、放射線の問題として、直接東日本大震災の影響を蒙らなかった西日本の人々や外国でも共有可能な恐怖を引き起こした。国内外での反原発デモの発生は、まさに、そのことに起因している。原発が立地しているのは、何も福島ばかりではない。日本中いや世界中に存在している。ある意味で「恐怖を共有している人々の共同体」が、グローバルに出現してきたのである。

そして、実は(1)と(2)の側面には微妙な相克が生まれてきている。宮城のほうでは、停電によるテレビ報道を共有していないことも手伝って、福島原発が中心となる東京発の報道のありかたに対して、微妙な違和感があるといわれている。生活再建のために必死な宮城県などの被災地では、福島原発に対する責任追及などより、むしろ被災地復興を支援するような報道をしてほしいということなのかもしれない。

一方、東京のほうでは、まず放射線への恐怖が先に立っている。それが、政府・東電への批判につながり、反原発運動の契機となっている。それ自身は評価すべきだろう。しかし、一方で、福島県・茨城県産のものを忌避するという風評被害につながっていくことも否定できない。

福島や茨城では、より微妙な問題がある。福島第一原発にほど近いこの地域では、東京などよりも放射線量は高く、より強い恐怖感があると思われる。一方で、地域社会に根付いた生活を捨てることができないということもある。そして、宮城県以北のように、とにかく地域社会の復興にむけて努力したいという気持ちも強いといえる。しかしながら、放射線により、原発近接地には立ち入ることすら禁じられた。そして、周囲の地域でも、農産物・海産物はおろか工業生産物はては瓦礫まで風評被害にあい、生活再建をより困難にしている。

東日本大震災には、(1)地震・津波被害という面と、(2)原発事故という側面があり、両者は相克していると述べた。この相克がぶつかりあっている地が福島であり、東日本大震災のかかえている問題点をある種単独で体現しているといえるのではないか。

復興にいそしむ宮城県以北の人々は、放射線のため復興に十分着手できない福島県の人々をみて愕然とするであろう。一方、東京をはじめとした「放射線の恐怖を共有している人々の共同体」は、高放射線と地域社会の復興に悩む福島県の人々に接することで、ようやく被災地における「復興」への意欲を実感できるのではないか。今、私は、そう感じている。

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歴史研究者の会である東京歴史科学研究会の大会が下記のように5月28日(土)・29日(日)に開かれる。私も、29日に「自由民権期の都市東京における貧困者救済問題―貧困者の差別と排除をめぐって―」というテーマで大会報告を行うことになっている。

この大会は、本来4月に開催されることになっていたが、震災と計画停電のために、一か月開催が延期された。

私のテーマは、三新法で生まれた地方議会が、減税や民業圧迫さらには惰民論などを主張して、当時の貧困者救済機関であった東京府病院や養育院の地方税支弁を中止させ、民間に事業を委託していったということである。これは、日本において初めて自由主義が主張された時代を対象としているが、現代において新自由主義が主張される歴史的前提となったと考えている。

しかし、震災・原発事故・計画停電にゆれた3月頃、このような報告をしていいのかと真剣に思い悩んだ。ある意味、ブログで「東日本大震災の歴史的位置」という記事を書き出したのは、そういう思いもあった。

今は、逆に、今だからこそ、深く考えるべきことだと思っている。東日本大震災は、大量の失業者を生んだ。その意味で、一時的でも、雇用保険や生活保護にたより、地域の復興にしたがって、だんだんと雇用を回復していくべきだと思う。そうしないと、被災地域から、どんどん人が流失してしまうだろう。にもかかわらず、マスコミは、「雇用不安」をあおるだけで、生活保護などには言及しない。そして、新聞記事などをみていると、厚生労働省などは、生活保護をより制限することを検討しているようだ。

復興についても、声高に増税反対が叫ばれている。財源があればいいのかもしれないが、聞いている限り、まともな財源ではない。このままだと、関東大震災の復興の際、後藤新平のたてた計画案を大幅に帝国議会が削減したことが再現されてしまうのかもしれない。

もちろん、このようなことは直接報告できない。しかし、今の現状も踏まえつつ、議論できたらよいかと思っている。

とりあえず、ブログでも通知させてもらうことにした。

【第45回大会・総会】開催のお知らせ〔5月28日(土)・29日(日)〕
【東京歴史科学研究会 第45回大会・総会】

●第1日目 2011年5月28日(土)
《個別報告》 13:00~(開場12:30)
•佐藤雄基「日本中世における本所裁判権の形成―高野山領荘園を中心にして―」
•望月良親「町役人の系譜―近世前期甲府町年寄坂田家の場合―(仮)」
•加藤圭木「植民地期朝鮮における港湾「開発」と漁村―一九三〇年代の咸北羅津―」
個別報告レジュメ(報告要旨)
準備報告会日程

●第2日目 2011年5月29日(日)
《総会》 10:00~(開場9:30)
《委員会企画》 13:00~(開場12:30)
■「自己責任」・「差別と排除」、そして「共同性」―歴史学から考える―
•中嶋久人「自由民権期の都市東京における貧困者救済問題―貧困者の差別と排除をめぐって―」
•及川英二郎「戦後初期の生活協同組合と文化運動―貧困と部品化に抗して―」
•コメント 佐々木啓
委員会企画レジュメ(報告要旨)
準備報告会日程
【会場】立教大学池袋キャンパス マキム館M301号室
(池袋駅西口より徒歩7分/地下鉄C3出口から徒歩2分)
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/direction/

【参加費】600円

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