ここで、1970年代に目を移しておこう。1970年代初めは、全国的に高度経済成長の負の面が露呈し、反公害闘争が闘われ、さらに都市部においては革新自治体が数多く成立する時代であった。高度経済成長最優先という姿勢からの脱却が求められた時代であったといえる。
そのような中、高度経済成長を支えた池田内閣、佐藤内閣で保守政治家として成長を続けてきたのが、田中角栄であった。田中は、自民党総裁選直前の1972年6月に出版した著書『日本列島改造論』において、成長のみを過去の政治家は追求してきたとしつつ、経済成長を前提におきながら、過密ー過疎の格差是正や福祉向上を提唱した。田中は『日本列島改造論』出版時には通産相であったが、翌月の自民党総裁選で勝利し、首相に就任した。いわば、田中のマニュフェストといえるであろう。この『日本列島改造論』について、財政・地域開発を専攻した宮本憲一氏は、次のように指摘している。
列島改造論は、過密になやむ住民には、経済の集中にかえて分散をうたい、過疎になやむ住民には、悪名たかいコンビナート都市にかえて内陸工業基地=25万都市構想をしめし、一見、従来の地域開発とちがう新鮮な感じをあたえている。だが、開発の思想は全く従来の地域開発の思想にもとづいている。すなわち、「新全総」(1969年策定の新全国総合開発計画。二全総ともよばれる)にもとづく巨大開発をすてるのではなく、そのプロジェクトは一層規模を大きくして実現する。そして、そのプロジェクトと結びつけて地域格差是正の拠点として工場再配置によって中小規模の産業基地をつくり、そこに25万都市を建設しようというのである。このあとの考え方は旧全総(1962年策定の全国総合開発計画。一全総ともよばれる)の拠点開発方式である。(宮本憲一『地域開発はこれでよいか』、1973年、p208)
『日本列島改造論』については、別の機会に、より詳細に検討したい。ただ、ここでは、『日本列島改造論』に明記された開発計画が地価高騰を招いたこと、しかしながら、高速道路・新幹線など、その後の国土開発の原型をなしたことを指摘しておく。
さて、今まであまり指摘されてこなかったが、『日本列島改造論』では、原発についても言及している。田中は、すでに「一寸先はやみ、停電のピンチ」(『日本列島改造論』p38)と述べ、電力需給が楽観を許さないとしている。田中によれば、1971年には工場などの電力の大口需要家に対して休日振替を実施させたが、不満が続出し、長期にわたって実施できる対策ではないとしている。そして、「電力需要をまかなうためには、電力会社が希望する電源開発が計画どおりに推進できることが前提になる。」(同上p39)と指摘している。しかし、電源開発は計画通り実現できていないとし、その理由を次のように説明している。
こうした計画の実施がおくれているのは、火力発電所の立地の場合は、重油の使用による硫黄酸化物の発生で大気が汚染したり、温排水で漁民の生活が脅かされるなど地域住民の反対によるものである。原子力発電所の場合も、放射能の安全性にたいする疑問や自然環境が壊されるという心配、さらに温排水で魚でとれなくなるという漁民の反対などから立地が困難になっている。このような問題を解決しない限り、電力需給のひっ迫を解消することは困難である。(同上p40)
つまりは、火発や原発の公害や安全性への危惧から発生する住民の反対が、電源開発が進まない原因であることを、田中は認めているのである。
このような反対をおさえて、火発や原発の建設を如何に進めていくか。まず、田中は次のように主張している。
これからの電源立地の方向としては、大規模工業基地などに大容量発電所を集中的につくり、大規模エネルギー基地の性格を合わせて持たせるようにしたい。電源開発株式会社を中心にいくつかの電力会社が参加し、火力発電所や原子力発電所を共同で建設し、そこで生みだされる電力を大規模工業基地で使う。同時に、基幹的な超高圧送電網をつくって消費地に広く配分し、融通する方向も考えたい。(『日本列島改造論』p101)
いわば、『日本列島改造論』の電力版である。地域開発においては、火発や原発をあわせて建設し、発生する電力を工業基地で使うとともに、送電網を通じて消費地へ送られることになっているのである。
と、いいつつも、田中は「こうした大規模エネルギー基地を含めて、地元の抵抗がなく電源立地を円滑にすすめるにはどうしたらいいだろうか」(『日本列島改造論』p102)と疑問を発する。田中は、次のように指摘している。
新しい火力発電所や原子力発電所の建設に地元の反対が強いのは、まず、大気汚染や放射能の危険を心配するからである。…もともと発電所は従業員がすくなくてもすむので、地元の雇用をふやすにはあまり役に立たない。そのうえ発電した電力は、ほとんど大都市へ送電される。結局、地元はうるものがすくなくて、公害だけが残るというのが地域住民のいい分である。(同上p102)
つまり、田中角栄という、当時次期首相になる人物も、原発を含んだ発電所全体が、公害や安全性が危惧されるだけでなく、雇用もあまり生みださず、電力も地元に還元されないなど、地元にメリットが少ないという意見があることを認めているのである。
このような反対について、田中は「ここで、まず、第一に考えたいのは、公害の徹底的な除去と安全の確保である」(同上p102)としている。公害除去については、集塵装置・脱硫装置の開発・利用や冷却水規制など、具体的にあげている。ただ、原発の放射能問題については、「海外の実例や安全審査委員会の審査結果にもとづいて危険がないことを住民に理解し、なっとくしてもらう努力をしなくてはならない」(同上p102)として、原発の安全性を向上させるというよりも、安全性を住民に納得させることをあげていることには注目しなくてはならない。田中の考える原発の「安全対策」とは、結局のところ、「安全神話」の普及だったようである。
田中はさらに、次のように主張している。
しかし、公害をなくすというだけでは消極的である。
地域社会の福祉に貢献し、地域住民から喜んで受け入れられるような福祉型発電所づくりを考えなければならない。たとえば、温排水を逆に利用して地域の集中冷暖房に使ったり、農作物や草花の温室栽培、または養殖漁業に役立てる。豪雪地帯では道路につもった雪をとかすのに活用する。
さらに発電所をつくる場合は、住民も利用できる道路や港、集会所などを整備する。地域社会の所得の機会をふやすために発電所と工場団地をセットにして立地するなどの方法もあろう。次項で述べるインダストリアル・パークと同様の立地手法でエネルギー・パークづくりも考えたい。急がばまわれである。
実際に、このようなことは実現していっている。養殖業で原発の温排水は実際に使われている。特に、田中内閣期の1974年に成立した電源交付金制度は、電力料金に付随して電源開発促進税を徴収し、原発周辺自治体の施設整備を中心に支出するものである。この電源交付金制度の原型は、すでに1972年の田中角栄『日本列島改造論』に表明されているのである。原発のリスクを交付金というリターンとバーターで糊塗するという発想を田中角栄がすでにもっていたことを、ここでは確認しておきたい。