少しでも福島県浜通りをみておこうと思って、昨日5月15日、常磐自動車道を経由して、いわき市周辺にいった。常磐自動車道は、前よく自治体史編さんで通った道である。茨城県東海村あたりまでは関東平野を行き、日立市周辺で山地に登って、たくさんのトンネル群を抜ける。このトンネル群を通過すると、いわゆる高原状の土地を常磐自動車道は通っている。
トンネル群をぬけて驚いた。こんなに緑の濃い土地であったとは、記憶していなかったのである。西側が山地で、東側は海だが、あまり海はみえない。まさに緑の大地である。
常磐自動車道には、震災の爪痕はそれほどみえない。必死に修復したのであろう。時々、路面が凸凹になっており、高速で走行するとかなりゆれるが、それくらいである。このような道が、浜通りの南側のいわき市周辺まで続いている。
途中、湯ノ岳パーキングエリアで休憩をとった。無人のパーキングエリアで、トイレと飲料の自動販売機しかなく、ここで食料を買い足そうと思ったので、多少困った。ただ、トイレが「電気の要らない自動ドア」であったことは笑えた。
それにしても、周囲の美しさは筆舌に尽くしがたい。写真をここで掲載するが、とても、あの緑の美しさは再現できなかった。藤や山吹が花盛りであった。
何も、湯ノ岳パーキングエリアだけではない。日立市以北の常磐自動車道は、ずっとこうなのである。まさか走行中に写真をとるわけにいかないので、湯ノ岳パーキングエリアで紹介しているだけだ。そう、福島県浜通りは、美しい土地なのだ。しかし、いまや、その多くの土地に立ち入ることはできない。
追憶によれば、この常磐自動車道を抜けると、国道六号線か平行する県道三五号線を使って、北に向かう。丘陵地には緑の濃い山林が広がり、その間の小河川沿いには水田が広がる。富岡町・浪江町といった小さな町をいくつか通過する。国道六号線を使えば、その道沿いに、東電広野火力発電所、福島第二原子力発電所、福島第一原子力発電所の入口が並んでいる。
一方、より山側の県道三五号線をいくと、「双葉ばら園」というばら園があった。ばらが好きだったので、十年ほど前に二度ほどいったことがあるが、いつも花盛りの頃は外れていていた。同園のホームページをみると、あれからかなり整備されたらしい。しかし、しばらくは、このばら園のばらをみることはできないだろう。
そして、国道にせよ、県道にせよ、北上すると、当時の原町市、現在の南相馬市に達する。そこは、相馬野馬追祭場が所在する台地であった。
十年前は、いつも先をせいていて、途中の場所によることはほとんど考えなかった。それこそ「双葉ばら園」くらいである。火発も、原発もわざわざおりて見学しようともしなかった。また、富岡町には「夜の森公園」という名所があるが、そこもみていない。そのことへの悔いは、私の中にある。
ブログで、福島第一原発、福島第二原発のことを書いているのだが、私自身が覚えていることは雰囲気だけである。それすらもあやふやで、あれほど緑の美しい土地であったことすら、今回いって再認識したくらいである。
いわき市あたりで、ちょっと浜通りをのぞき、その美しさを再認識しただけであるが…。避難を余儀なくされた人々は心苦しいであろう。あれほどの美しい土地から強制的に出ざるを得なかった人々がそこにはいるのだ。それは、今までの生活の場をすべて失ってしまうということでもある。もちろん、生活の場をすべて失ってしまうことのほうが、重大である。しかし、「美しい土地」への哀惜の念もそこにはあろう。
そればかりではない。東京に電源を供給していた福島第一原発の事故によって、東京ではなく福島浜通りの人々が生活を根こぎにされてしまった。そのことが胸に痛い。
今の所、しばらくは、圏外に残されている資料を通じてしか、浜通り中心部はアクセスできない土地である。そのような営為は、現状を認識しつつ、資料を使って事態を再現するトレーニングを受けた歴史研究者の責務であろうとも思う。そして、それは…それ自体残念なことだが、現地での資料収集(浜通りだけでなく福島市でもということであるが)が難しい。文献へのアクセスが比較的容易な、東京だから今できることでもあろう。
さて、次は、この美しい土地浜通りに襲った地震・津波・放射線の爪痕について、現状をみていこう。
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