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Posts Tagged ‘正力松太郎’

さて、このブログで述べてきたように、関西圏では、1957〜1960年にかけて関西研究用原子炉設置反対運動が惹起され、原子炉の立地問題が浮上していた。並行して、関東においては、商用原子力発電所第一号として建設されることになった東海発電所設置につれ、その安全性が問われる事態となっていた。政府・産業界が進めようとした原子力発電所建設計画は、湯川秀樹などの反対を押し切った形で1957年に承認され、その受け皿としての日本原子力発電株式会社(日本原電)が同年11月に発足した。そして、イギリス型のコールダー・ホール型発電所(電気出力約16万kw)が導入されることとなり、1958年6月にイギリス側と調印した。なお、イギリスのコールダー・ホール型発電所が導入される大きな要因として、この発電所に使われる原子炉が、元来天然ウランを燃焼してプルトニウムを生産する軍用プルトニウム生産炉であり、この発電所によって、電力だけではなくプルトニウムを得ようとした原子力担当大臣兼原子力委員長である正力松太郎らの意向が働いていたことが、有馬哲夫「日本最初の原子力発電所の導入過程」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)で紹介されている。この東海発電所が、日本最初の商用原発である東海第一発電所(東海第一原発と略称。現在は廃炉作業中)となっていく。
 
この東海第一原発の設置については、1959年3月より設置許可申請が出され、安全審査が開始された。しかし、それ以前からさまざまなかたちで安全性がとわれた。その背景になったことは、コールダー・ホール型原子力発電所原子炉の原型となった軍用プルトニウム生産炉であったウィンズケール原子炉が1957年10月10日に火災によりメルトダウン事故を引き起こしたということであった。このメルトダウン事故は、原子炉構内だけでなく、周辺にも放射能汚染を引きおこした。周囲の500㎢内で生産された牛乳は約1ヵ月間廃棄された。その意味で、原子炉—原発事故が、周辺にも放射能汚染を惹起することを明瞭に示した事例となった。

このコールダー・ホール型原子力発電所の安全性については、すでに1958年2月に、日本学術会議・日本原子力研究所・原子力燃料公社ほか主催で開かれた第二回日本原子力シンポジウムで議題となった。このシンポジウムの最終日2月9日に行われた「原子力施設の安全性をめぐる討論」において、電源開発株式会社の大塚益比古は、次のような指摘を行っている。

むすびに東海村のある茨城県の地図に、アメリカ・アイダホ州にある国立原子炉試験場の広大な敷地を重ねた図と、先日事故を起したウィンズケール周辺の地図をならべて示し、発展途上の原子力の現在の段階では、敷地の広さも一つの安全装置であり、一旦事故が起れば、公衆への災害を皆無にすることは不可能であることを考えれば、そのように広い面積を得ることは不可能なわが国では、たとえ原型にコンテーナーのないイギリス型の炉にも必ずコンテーナーを設けるなど、可能な限りの努力を安全性にそそがない限り、従来の技術では可能だった試行錯誤のできない原子力では、その発展を逆に大きくひき戻す結果にさえなりかねないことを強調した。(椎名素夫「原子力施設の安全性をめぐる討論」 『科学朝日』1958年4月号 36頁)

この図を、下記にかかげておく。アメリカの国立原子炉試験場にせよ、ウィンズケール原発による牛乳使用禁止区域にせよ、かなり広大であり、東海村にあてはめれば、人口密集地域である水戸市や日立市も含まれてしまうことに注目しておきたい。

『科学朝日』1958年4月号

『科学朝日』1958年4月号

特に、東海第一原発の安全性については、コールダー・ホール型原子力発電所の原子炉が黒鉛炉であって黒鉛ブロックを積み上げただけで、格納容器(コンテナー)をもたない構造であり、日本において耐震性は十分であるのかなどが中心的に問われた。この安全性問題の総体については、中島篤之助・服部学の「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅰ・Ⅱ」(『科学』44巻6〜7号、1974年)を参照されたい。ここでは、この研究を中心に、立地問題に限定して議論していきたい。

日本第一号の商用原発の立地について、当時審査基準がなかったため、敷地選択で紛議になることをおそれ、安全性を新たに検討することなく、すでに既成事実となっていた日本原子力研究所構内に建設することになっていた。そして、原発事故の際、最大規模で放射性ヨウ素が1万キュリー(約370兆ベクレル)もしくは60万キュリー(約2京2200兆ベクレル)流出すると想定し、アメリカ原子力委員会が公衆に対する許容線量としていた2000ラド(2000レム、シーベルトに換算すると約20シーベルト)を採用し、最大規模の事故の際でも立退きする必要がないとした。

しかし、ウィンズケール原子炉事故以後、イギリスの原子力公社原子炉安全課長ファーマーは、1959年6月にイギリスの新しい立地基準についての論文を発表した。中島・服部は、その骨子を次のようにまとめている。

同論文は立退きを要する放射線被曝量として25レムをとり、また敷地基準として次のようにのべていた。
(イ) 原子炉から450m(500ヤード)以内にほとんど居住者がないこと。
(ロ) 角度10°、長さ2.4km(1.5マイル)の扇型地域をどの方向にとっても、その中に500人以上の人が住んでいないこと。同じく子どもの大きな集団がいないこと。
(ハ) 8km(5マイル)以内に人口1万以上の都市がないこと。(同上Ⅰ、377頁)

このファーマー論文によって示された立退基準25レム(シーベルトに換算すると約250ミリシーベルト)は、設置者側にとっては大きな問題となった。もし原電のいう事故時の放射性ヨウ素の放出量1万キュリーを前提として、立退基準を8レム(約80ミリシーベルト)と規定した場合、風向きによっては100kmの範囲まで事故の際に立ち退く必要が出てくると、1959年7月31日に開催された原子力委員会主催の公聴会で藤本陽一が指摘した。他方、同じ公聴会で、設置に賛成する公述をした西脇安大阪大学助教授(関西研究用原子炉建設を推進した一人)は、立退基準25レムを認めた上で、放射性ヨウ素放出量についてはファーマー論文にしたがって250キュリー(約9兆2500億ベクレル)に引き下げて安全性を主張した(『科学朝日』1959年10月号参照)。

さらに、8月22日に学術会議の要請で開かれた討論会において、原電の豊田正敏技術課長(東京電力からの出向者であり、後に東電にもどって福島第一・第二原発の建設を推進、東電副社長となる)は、「申請書の内容あるいはそれまでの原電の言明を全く無視して、想定放射能量を25キュリー(約9250億ベクレル)とし、地震その他のどんな想定事故でもこれ以上の放射能がでることはありえない」(中島・服部前掲論文378頁)と述べた。いわば、安全基準は25レムとして、想定された事故時の放射能汚染を最終的には大幅に引き下げて帳尻をあわせたのである。

一方、ファーマー論文の基準によれば、東海第一原発は敷地基準の(ロ)と(ハ)を満足させていなかった。原子炉から1.3kmの所に小学校(子どもの集団)があり、さらに角度の取り方によれば、当時人口389人であった東海村居住区の大部分が入るが、その中に急増しつつあった原研職員は含まれていなかった。また、北方3.7kmの地点には人口11000人の日立市久慈町が所在していた。

まず、設置側の日本原電は、小学校は移転予定であると述べた。また、ファーマーは扇型は角度30°、長さ1.6kmとしてもよい、8km以内に1万人以上の都市がないということは直接危険を意味するものではなく、必ずしも守らなくてよいと述べ、自説を崩した。結局、この場合は、基準のほうを緩和したのである。

加えて、黒鉛炉のため格納容器がないので格納容器をつけるべきである、隣接して米軍の爆撃演習場があるなど、さまざまな安全上の問題が提起されていた。しかし、東海第一原発の安全審査にあたった原子力委員会の原子炉安全審査専門部会は、11月9日に安全と認める旨の答申を出した。そして、12月14日、内閣は正式に東海第一原発の設置を許可したのである。1960年に東海第一原発は着工し、1965年に臨界に達し、1966年より営業運転を開始した。しかし、この東海第一原発の建設はトラブル続出で、予定よりかなり遅延したのである。

このように、日本最初の商用原発である東海第一原発の安全審査については、原発事故時における放射線量の許容量が厳格になるにしたがって、原発周辺の居住を制限するなどとという当たり前の形ではなく、原発事故の規模を小さく見積もることによって、原発事故時の放射線量を許容量以下に抑えたのである。つまり、この原発の「安全性」とは、原発事故のリスクを小さく仮想することによって保たれていた。まさしく、仮想の上の「安全性」であったのである。

そして、この時期、通産省は、より実情に即した原発事故の想定を秘密裏に行っていた。それによると、東海村近傍の水戸市などはおろか、場合によっては東京にすら被害が及ぶ試算結果となったのである。このことについては、次回以降、みてみたい。

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大飯原発再稼働の一つの理由が「夏場の電力不足」とされていたことー今や、それも根拠薄弱なのだがーは、周知のことといえる。

しかし、原子力利用が開始された草創期である1956年にも、電力会社の連合体である電気事業連合会は、将来の電力不足を名目とした原発建設を、原子力委員会に陳情した。『科学朝日』1956年7月号には次のような記事が掲載されている。

   

電気事業連合会のお願い
 4月12日電気事業連合会の松根理事と関西電力の一本松常務とは原子力委員会を訪れて、正力、石川、藤岡の3委員に「原子力発電計画に関するお願い」をした。
 それにはまず昭和40年度に数十万kw(後に再び資料が出されて45万kwと発表された)の原子力発電を必要と予想されることをのべ、「われわれは以上を考慮して、これに対処すべき万全の態勢をととのえ、営業用原子力発電の開発と運営に当る所存でありますが、貴委員会において原子力開発利用基本計画の策定ならびにその実施計画の策定に当っては左記の事項を考慮されることを切望致します」として、次のような要望事項をあげている。
A 原子力発電の年次計画として、昭和32年10月までに動力用試験炉を発注。昭和35年10月までに動力用試験炉を完成。昭和36年までに営業用動力炉を発注。昭和38年から40年末までに順次営業用動力炉を完成するものとし、この仕事は電気事業者が行う。
B 動力用試験炉は2台以上。炉の型は適当な型を2種以上、場所は東京、大阪など。容量は電力10000kw以上とする。これらの原子炉は「早期実現のため」輸入すべきである。
C 営業用動力炉は電力10万kw級とし、これは電気事業者が直接やる。初期は輸入する。国産化は原子力委員会で考える。
D 以上の対策の確立を助けるため先進国から適当な技術顧問団を招いてもらいたい。

1965年(昭和40)には電力が不足するので、原発建設を急いでほしいということなのである。

このことをテーマとして推進派の物理学者である伏見康治らによって「座談会 日本の原子力コース」が行われ、その記事が『科学朝日』に掲載されている。伏見は「お伺いしたいのは足りなくなるという推定が妥当なものか相当狂う可能性のあるものなのか…。」と問いかけた。この問いに答えたのが、科学技術庁科学審議官・東京大学教授であり、河川学・土木学を専攻していた安芸皎一である。安芸は、電気需要が年に7〜4%づつ伸びるなどと述べながらも「実をいうとわからない」とした。安芸は「いままではいかにたくさんのエネルギーを早く供給しうるかだったが、いまは安いエネルギーがほしいということなんです」と主張している。具体的には、当時の電力の源の一つであった石炭火力発電所において、今後石炭価格の高騰が見込まれるということが指摘されている。結局は、安価な電力を得たいということだったのである。

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

電気事業連合会による発電設備予測(1956年)

後に、中島篤之助と服部学が「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅱ」(『科学』44巻7号、1974年)で上記のように実績と比較している。1965年の電力は、電事連の予測では水力1435万kw、火力776万8千kw、原子力45万4千kw、総計で2257万2千kwであったが、実績は水力1527万kw、火力2116万2千kw、原子力0kw、総計で3643万2千kwであった。結局、火力発電が予想以上に伸び、原子力発電に依存する必要は、まだなかったのである。

この座談会に出席していた科学者たちは、早期の原発建設には否定的であった。北大教授で物理学者の宮原将平が「俗論」といい、東大教授で化学者であった矢木栄は「原子力がなかったらどうするつもりか」とこの座談会で述べている。伏見は「研究者を無視した恐ろしい高い目標がかかげられて、正直な研究者がその階段を上ろうとして落っこちてしまうという結果になるんです」と懸念していているのである。この座談会に出席していないが、原子力委員であった湯川秀樹も早期の原発建設には否定的であった。この時期は、世界でもソ連のオブニンスク発電所(1954年)くらいしか原子力発電所はなかった(なお、1954年よりアメリカは原子炉を電源とした原子力潜水艦を使用していた)。また、ようやく原子力委員会や日本原子力研究所が創設されたが、まだ、ようやく日本原子力研究所の敷地が決まったばかりで、日本では全く原子炉などはなかったのである。

しかし、原子力委員長であった正力松太郎は、早期の原発建設に積極的であった。そして、コールダーホール型原発を開発していたイギリス側の売り込みを受けた。結局、1965年までに原発を建設することを1956年12月に原子力委員会は決定してしまう。1957年には湯川秀樹が原子力委員を辞任し、1958年にはコールダーホール型原発の導入が決定されたのである。このように、科学者たちの懸念をよそに、電事連の「電力不足」を理由とした原発建設が結果的に実現していくのであった。これが、日本で初めての原発である、東海発電所になっていくのである。

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昨年、4月、福島第一原発事故で、放射能汚染水を海に流すということが行われた。例えば、韓国の中央日報日本語版は次のように伝えている。

福島第一原発、放射能汚染水1万トンを海に放流
2011年04月05日09時56分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] comment0mixihatena0
東京電力が放射性物質の濃度が法定許容値の100倍に達する汚染水1万1500トンを海に放流することにした。これは放流汚染水より高濃度の汚染水を保存する場所を確保するための措置だ。

東京電力は4日、「福島第一原子力発電所の集中廃棄物処理施設にたまっている汚染水1万トンと5・6号機の地下水保管施設にある1500トンを早ければ5日から放流する計画だ」と明らかにした。同社は「汚染水を放流しても人体には特に問題はない。原発周辺の魚類と海草などを毎日食べても年間放射線量許容値の1ミリシーベルトを下回る0.6ミリシーベルトにしかならない」と説明した。

東京電力はまた、2号機から放出される汚染水を防ぐために水中フェンスを設置することも検討している。2号機取水口付近の電力ケーブル保管施設にたまった汚染水が海に流れ急速に広がることを防ぐためだ。

東京電力は3日、汚染水流出を防ぐためにセメントコンクリートを投じ、吸水性樹脂と新聞紙・おがくずまで動員したが特別な成果を得ることができなかった。これに汚染水が海に流れ込む所周辺の水深5~6メートルの海底にカーテン式のフェンスを設置する場合、ひとまず汚染水の拡散を阻止する効果があると期待している。

東京電力はまず汚染水が流出する通路を確認するために白い粉末を汚染水がたまっている施設に投じた。

一方、文部科学省はこの日、福島第一原発から北西に30キロメートル離れた浪江村でこの11日間に年間許容値の10倍を超える10.34ミリシーベルトが検出されたと発表した。
http://japanese.joins.com/article/830/138830.html

この放流は、韓国その他の周辺諸国に無断で行われ、これら諸国から批判されている。

しかし、このような放射能汚染水の放流は、そもそも沿岸部に原発が立地している日本においては想定されていたことであった。1956年、日本初の研究炉・動力試験炉が設置されることが予定されていた日本原子力研究所の立地について、『原子力委員会月報』第1巻第1号(1956年5月発刊)によると、次のように協議されていた。

原子力研究所の敷地選定について

 昨年11月に発足した財団法人原子力研究所では、原子力研究所の建設をする敷地即ち原子炉の設置場所について土地の選定をするために、土地選定委員会を設けて昨年暮から6回に亘って会合を重ねて本年2月8日に結論を得た。この土地選定委員会の委員は次の諸氏であった。
 委員長 駒形 作次(原子力研究所副理事長)
 委 員 久布白兼致(原子力研究所常任理事)
     内田 俊一(原子力研究所理事、東京工大学長)
     岡野保次郎(原子力研究所理事、三菱重工業代表清算人)
     茅  誠司(原子力研究所理事、東京大学教授)
     木村健二郎(原子力研究所理事、東京大学教授)
     菅 礼之助(原子力研究所理事、電気事業連合会会長)
     田代 茂樹(原子力研究所理事、東洋レーヨン会長)
     中泉 正徳(原子力研究所理事、東京大学教授)
     堀田 正三(原子力研究所理事、住友銀行頭取)
 理 事 和達 清夫(中央気象台長)
     兼子  勝(地質調査所長)
     那須 信治(地震研究所長)
     広瀬孝六郎(東京大学教授)
     竹山謙三郎(建築研究所長)
     松村 孫冶(土木試験所長)
 会合を行った日時は、第1回は昭和30年12月27日、第2回は31年1月6日、第3回は1月13日、第4回は1月21日、第5回は2月4日、第6回は2月8日であった。候補地としては22地区があったが、これらについて土地選定のための要件として次の事項を考慮して選定を行った。すなわち
1.なるべく東京に近いこと。
 研究者が喜んで研究に入り得るということと、研究センターとして東京及びその附近の大学、各研究所との施設の共同使用という点から、東京より2時間以内で到達できるという点を重視する。
2.広さの充分なこと。
 動力試験炉まで含め一応50万坪ていどを目安にする。アメリカなどと異なり、人口稠密な日本ではいわゆるexclusion areaの公式では考えず、狭くとも施設を強化して、これを補備すべきであると考える。
3.国有地、国有林、公有地などが望ましい。
4.用水の十分なること。
 水量、水質が問題となるが、水質の点は技術的に克服できるので、水量の点を重視する。すなわち1万kWていどの炉の冷却水は温度によって多少の相違はあるが、夏期最悪の場合0.3トン/秒を必要とする。ただし、循環使用するので、冷却池を設けれぼ取水量は更に減少することができる。なを化学処理する場合も同ていどの用水が必要である。
5.風向及び風速(地表及び上空)
6.空気中の塵埃
7.雨 量
8.地質及び地勢
 地盤、地質並びに地震の経歴及び土工の難易等が考慮の対象となる。地震の被害は構造物の研究によりこれを防護することが可能である。従って整地の難易及び新しく整地した箇所に重量構造物を建設する場合の沈下等の問題を重視する。
9.断層、地震、洪水の経歴
10.地下水の状況
11.受電の容易、安定な電源が得られること。
12.排水の支障のすくないこと。
13.道路、整地等の附帯工事のすくないこと。
14.周囲の民家、工場等との相関位置
15.農地、森林等との相関位置
 これらのうち、5,6,12,14及び15は汚染に対する考慮であって、最も重視すべき事項であり、化学処理をしたあとこれ監稀釈放流するには大量の水を要し、関東地区ではそうした水量の河川は数えるほどしかなく、その点では外海に面した処が好ましい。たとえば1万kWの原子炉について燃料を100日間使用し、100日間冷却し、これを100日で処理するとし、汚染除去度を105ていどに仮定し、河川の汚染度を10-7μc/ccにするには5トン/秒の河川流量を要するのである。
 その結果、書類上、実地調査上候補地としてあげられたのは神奈川県横須賀の武山地区、茨城県那珂郡東海村の水戸地区、群馬県群馬居郡岩鼻村の岩鼻地区及び群馬県高崎市の高崎地区の4地区に絞られ次のような結論をだした。

 イ案 武山に動力試験用炉までを集中的に設置
 ロ案 水戸に動力試験用炉までを集中的に設置
 ハ案 武山の一部に国産炉までを設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ニ案 岩鼻に国産炉までを設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ホ案 高崎に国産炉まで設置し、水戸に動力試験用炉を分離して設置
 ただし、武山については米軍が使用中でこれが返還の見込みのない場合は不可であり、一部分使用可能の場合でも少なくとも半分ていど使用可能な事が必要である。
 岩鼻については、火薬工場が隣接していることが問題であるから将来この火薬工場の大きな発展は中止せしむることを条件とする。
 高崎については旧射撃場に建物の中心をおくことを想定しているので、その地帯(民有地)の入手が可能であることを要し、かつ附近の民家約20戸及び亜炭鉱山の立退きが必要である。
 水戸は東京からの距離がやや遠いが、大規模の動力炉及び化学処理工場としては好適であるので、今日より確保しておくことが望ましい。
 原子力研究所は以上の緒論を原子力委員会に報告したので、原子力委員会は2月15日臨時委員会を開催して原子炉敷地につき討議した結果、土地選定委員会の意見を尊重して、武山を実験用原子炉敷地の第1候補地と決定し、動力試験用炉は水戸に置くことも同時に決定した。しかし、武山地区は米軍が接収中であるので、その解除が行われなければ実際には敷地にはできないので、調達庁を通じて米軍の意向を打診した。3月5日には米極東軍司令部から「米軍としても極めて重要な基地であるが日本政府から強い要求があるならば2分の1までの返還を考慮することが可能である。ただし、そのかわりとして代替施設を提供することが必要である。」との非公式の口頭による回答があった。代替施設が土地を含むものか建物その他の施設だけであるかを確めるために9日に調速庁と原子力局からハーバート少将を訪問して質問したところ、
1.日本側から正式な具体的要請を正規の手続で行わなければ代替施設の詳細は判明しない。
2.もしも正式に要請を提出すればアメリカ軍は好意的に考慮する。
3.代替地は1エーカー対1エーカーの意味ではない。
という回答に接した。この回答は9日午後の原子力委員会に報告され、討議の結果、ただちに正式の要請をなすべきであり、そのために総理大臣に、「武山を原子炉敷地として原子力委員会で決定した。」旨報告することとなった。この報告を受けた政府は13日の閣議にこの件を諮ったが、船田防衛庁長官から武山は海上自衛隊の要地として3年前から米軍に折衝しており、現在も強い希望がある旨の異議があったので改めてはかることとなり、30日の閣議にはかったが決定せず、4月3日の閣議でも決定されず、4月6日の閣議で、「原子力委員会に再考を求める」との態度を決めた。原子力要員会は同日午後2時から定例委員会を開き、武山を断念して、これに代る候補地として水戸地区を選ぶことを決定したのである。この際の原子力委員会の発表は次のとおりである。
 日本原子力研究所の敷地については、かねて横須賀市武山を候補地として選んできた。しかるに政府としては種々の事情により、候補地選定について本委員会の再考を促された。原子力研究の開始は至急を要し、したがって敷地の決定は遷延を許さないので本委員会は慎重に審議して改めて、茨城県東海村を候補地として選ぶことにした。
 元来原子力研究所は1ヵ所にまとめて設置するのが理想的である。2ヵ所以上に分かれることは研究者の分散、施設の重復、総合研究の困難等の種々の不便がある。しかしながら-方において研究者の便宜ということも忘れてはならない点である。研究開始の初期の段階では、日本原子力研究所員以外の学者の協力を要することも多いので、この点は特に注意を要する。この研究者の便宜の点や、また既存施設の利用可能等の事情に重きをおき、まず実験炉の段階は武山で行うことが適当であると決定したわけである。
 きよう(6日)改めて東海村を選んだが、ここは地域が広く、実験炉から動力試験炉の段階までを1ヵ所で研究し得る利点がある。半面この地は交通が不便で、研究者の立場からは多少の欠点が認められ、また施設の完備にやや日時を要するであろう。これらの欠点を克服するために、できるだけの設備を至急施して研究の促進をはかるよう努力したいと考える。

 なおこのたびの件については、政府が原子力委員会の決定を十分換討の上、改めて本委員会の再考を促されたので、本委員会もこれを了とした次第である。政府は今後も委員会の決定を尊重されることを希望する。
http://www.aec.go.jp/jicst/NC/about/ugoki/geppou/V01/N01/19560518V01N01.HTML

要するに、このような経過をへて、日本原子力研究所は現在所在している茨城県東海村に設置が決まり、そして、研究炉第一号と動力試験炉第一号も東海村に設置されることになった。1957年には原子力研究所によって作られた研究炉第一号が臨界に達した。動力試験炉は1963年に臨界に達した。なお、その後、同地で建設された商用炉第一号は、官民合同の日本原子力発電株式会社によって東海発電所として建設され、1966年に営業運転が開始された。商用炉第一号が東海発電所である。

この立地をめぐる協議について、重要な論点となったのは、「汚染に対する考慮」であった。「5.風向及び風速(地表及び上空)」、「6.空気中の塵埃」、「12.排水の支障のすくないこと」、「14.周囲の民家、工場等との相関位置」、「15.農地、森林等との相関位置」の項目がそれにあたる。つまり、まずは、民家・工場・農地・森林など相関関係が重要であった。つまり、周りに住民が居住し生産活動が行われていることが少ないことーつまりは過疎地域であることが条件とされたといえるのだ。しかも、このようにいわれているのである。

これらのうち、5,6,12,14及び15は汚染に対する考慮であって、最も重視すべき事項であり、処理をしたあとこれ監稀釈放流するには大量の水を要し、関東地区ではそうした水量の河川は数えるほどしかなく、その点では外海に面した処が好ましい。たとえば1万kWの原子炉について燃料を100日間使用し、100日間冷却し、これを100日で処理するとし、汚染除去度を105ていどに仮定し、河川の汚染度を10-7μc/ccにするには5トン/秒の河川流量を要するのである。

つまりは、放射能汚染水は、河川水で希釈して、外海に放流されることが想定されていたのである。日本の商用原子炉ー原子力発電所は沿海部に建設されているが、その要因として、このことがあるといえる。

このことは、原子力担当大臣であった正力松太郎も認めていた。正力は、1956年4月24日の参議院商工委員会において、なぜ、武山ではなく東海村に設置されたのかという参議院議員白川一雄の質問に答えて、このように答弁している。

○国務大臣(正力松太郎君) 武山問題についてだいぶん世上を騒がせましてはなはだ相済みませんが、武山についても私ども一番遺憾に思いましたのは、あそこでは実験炉と動力炉とやれないのであります。ですから、従ってあそこでは実験炉だけでやらなくちゃならない。そのあとで動力炉を作るという悪条件があるのでありますが、そういうことでありますからして、最初研究所を作るには政府におきましては専門家の選定を見まして、そうして実験炉と動力炉の両方を置くことをやらしたのであります。ところがなかなか両方置くところは見当らなかった。そのうちに、いやそれよりも一つ動力炉はあとにしてまず研究炉だけを作ろう、それについてはなるたけ学者の研究の便利なところ、そうしますると、立地条件について便利という点は武山にありますけれども、他の点においては水戸の方が、つまり東海がまさっておるのでありますが、ただ学者の便利という点もあったから、それではこれを分離して、そしてこれを武山に持っていこうということになったので、決して初めから武山を最適地としたのじゃありません。最適地というのは学者の交通上便利という点だけであります。これを設けるについてはあそこではどうしても動力炉を設けられないのであります。従って動力炉をあとで設けるとしたら二重の設備が要る。要るけれども学者の人も皆希望するし、それからまたすぐ既存設備でも使えるところがあるからまあまあということになったのであります。ところがそのうちに政府としては閣議に諮りましたところ、武山については防衛上の計画も考えておるがまだ立っていないのだ、一つ委員会の方でもう一ぺん考慮をしてくれぬかということでありました。そこで委員会の方で考慮した結果、もともと武山が最適地ということじゃなかったのです。先ほど申し上げた通り動力炉を別にしなければならぬ、動力炉を別にすれば非常に費用がかかるのです。けれども一時的便利を考えたことですから、そういう事情も参照して、もともと二つの研究炉と動力炉を置くのがほんとうであるからして、それじゃ一つ水戸にしようじゃないかということにしたのであります。もっともこの水戸にする声のおくれた理由は、初めに水戸に指定した場所は進駐軍にとられておったところであります。ところが最近になって、二月ごろになって大蔵省の所有地にいいところがあるということになって、水戸の東海村の声が上ったのはずっとあとなんであります。あとだが、そのときに武山の問題も進んでおるし、距離的に近いことは事実であるから一時的に武山ということにしたのでありますが、幸い政府の方の注意もありまして、原子力委員会全会一致をもって東海村にきめたようなわけでありますので、ところが私どももきまってから現地へ行きまして、私は専門家じゃありませんけれども、われわれども説明を聞いてしろうとながらもなるほどという感じを得たのでありまして、これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。それからなおまた御承知の通り、原子力には水が非常に要るのです。そうしますと、武山であると水道よりほかに、それに海水を使うとしても、水道をおもに使わなければならぬ。東海村は幸いにして今敷地のすぐわきに阿漕浦という大きな湖水があります。直径一町、長さが四、五町あります。これが非常に天然のわき水だそうです。これが使っていない。魔の池といってだれも泳ぎもしない。そういうのが近くにあるのです。さらに一面久慈川という川があります。さらに少し離れたところに那珂川という川がありまして、水利の便にあれほどいいところはなかったのでありまして、われわれどもも初めから、初めからというか、中途からしてこれは水戸の方がいいなという議論が起ったのです。そういうような事情であるから、先ほど申し上げました通り、政府の注意と同時に委員会全会一致をもって東海村と決定したのでありまして、世上いろいろな揣摩憶測、流言流説が広がっておりますが、真相はこうでありますから、どうぞ御了承を願います。
http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdoc.cgi?SESSION=21222&SAVED_RID=1&PAGE=0&POS=0&TOTAL=0&SRV_ID=2&DOC_ID=22057&DPAGE=1&DTOTAL=3&DPOS=3&SORT_DIR=1&SORT_TYPE=0&MODE=1&DMY=21571

正力は「これは私しろうとの説明であるけれども、実は武山につきましてもずいぶん反対論があったのです。それはどういう点かというと、あそこで廃棄物を出す、あの出した廃棄物が逗子方面に流れて、鎌倉沿岸に流れて行きはせぬかと杞憂した人があったのであります。ところが東海村に至っては海岸の汚物が全部沖へ行ってしまうんです。全然その心配がない。そういう非常な有利な点がこれは東海村にあるのであります。」といっている。廃棄物は海に流すこと。それは、原子力担当大臣である正力松太郎も認めていたことであった。

高度経済成長期、水俣病などでわかるように、有害な産業廃棄物はほとんど規制されず、海中・大気中に放出されていた。それは、当然のことであり、原発も例外ではなかった。原発が過疎地域の沿海部に立地されていくということについては、そのような含意があったのである。

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前回のブログでは、ディズニーが原子力プロパガンダ番組「わが友原子力」を制作したこと、そして、そのことが、アナハイムのディズニーランド遊園地にも影響を及ぼしたことを、主に有馬哲夫『原発・正力・CIA』(新潮新書 2008年)に依拠して述べてきた。

ここでは、同じく有馬前掲書によりながら、この「わが友原子力」が、日本でどのように受容されたか、そして、その結果としてどのようなことがおきたのかをみていこう。

このブログでは、読売新聞・日本テレビを傘下にもっていた正力松太郎が、CIAの慫慂により、1955年初めにアメリカの原子力平和利用使節団を招くなど、原子力推進キャンペーンに乗り出したことを述べた。このキャンペーンは、1955年に「保守合同」と「原子力推進」を二大公約として衆議院選挙に出馬した正力の選挙運動でもあった。

正力は、1955年11月より、CIAなどの援助により「原子力平和利用博覧会」を全国にわたって開催するなど、原子力の平和利用推進のキャンペーンに従事した。他方、正力自身は、1955年11月に国務大臣として入閣し、彼自身としては原子力担当大臣(1956年1月1日に原子力委員長に就任)として活躍した。その後も、正力は入閣するたびに科学技術庁長官など原子力を担当する部署を担った。総理大臣の地位をねらう正力にとって、原子力推進で実績をあげることは、その夢を実現する手段であった。そして、それは、正力の傘下にある読売新聞や日本テレビにとっても同じであった。

そんな中、ウオルト・ディズニーの実兄であるロイが日本テレビを訪問し、「わが友原子力」を「ぜひNTVで放送し、日本の人々にも原子力の実態を理解して欲しい」(有馬前掲書p206)と申し入れた。このことがいつか、有馬は明言していないが、1957年1月23日にアメリカで「わが友原子力」は放映され、1958年1月1日には日本テレビでも放映されているところから、1957年のことだったと思われる。有馬は、ロイ・ディズニーの申し入れについて、合衆国情報局、合衆国大使館、ゼネラル・ダイナミックス社(原潜ノーチラス号の製造会社)の支援を受けたものと推測している。

そして、1957年12月3日、日本テレビ本社で日本テレビとディズニーの間で「わが友原子力」の放映契約が締結された。12月31日には高松宮を招いて試写会を開いた。この試写会の様子を読売新聞が伝えており、翌1958年1月1日の放送と予告した。いわば、メディア・ミックスの企画だったのである。

有馬は、このように伝えている。

皇族も利用したこの宣伝の効果が大きかったためか、元旦という一年で最高の時間枠だったためか、『わが友原子力』の放映は大成功を収めた。…原子力委員長としての正力もこの成功を利用した。一九五八年に発行された科学技術庁原子力局の『原子力委員会月報』には原子力教育に役立った映画として『わが友原子力』が挙げられている。(有馬前掲書p218)

このように、日本テレビも正力松太郎もディズニー制作の「わが友原子力」の放映により利益を得たのである。

ただ、私としては、後日談のほうが興味深い。有馬は、次のように伝えている。

この大成功は連鎖反応を起こした。『わが友原子力』の放映契約は『ディズニーランド』の放映契約につながっていった。同年八月二九日、日本テレビは、金曜日の三菱アワーで、ディズニー・プロダクションズ製作(ABC放送)の『ディズニーランド』の放送を開始した。といっても隔週放送でプロレス中継と交互に放送された。これは戦後テレビの一時代を作り、長く記憶される番組枠になっていった。(有馬前掲書p218〜219)

「わが友原子力」が番組「ディズニーランド」の一コンテンツであったことは前述した。日本では、「わが友原子力」の放映が、番組「ディズニーランド」の放映につながったのである。

といっても、そのすべてが原子力推進プロパガンダ番組というわけではない。ウィキペディアの「ディズニーランド(テレビ番組)」の項から、日本テレビで放映された1958〜1959年の分をみておこう。アニメと啓蒙的ドキュメンタリーが多いと思われる。むしろ、遊園地なども含めてディズニーのコンテンツを紹介する番組であったといえよう。

1958年 [編集]
1. 8月29日:未来の国 「宇宙への挑戦」
2. 9月12日:おとぎの国 「グーフィーの万能選手」
3. 9月26日:冒険の国 「大自然に生きる」
4. 10月10日:おとぎの国 「ミッキーマウスの冒険」
5. 10月24日:冒険の国 「第一部 カメラの探検旅行 / 第二部 深山のおじか」
6. 11月7日:おとぎの国 「ただいま休憩中」
7. 11月14日:冒険の国 「南極の過去と現在」
8. 12月5日:おとぎの国 「プルートの一日」
9. 12月12日:冒険の国 「大自然に生きる」(第3回の再放送)
10. 12月19日:冒険の国 「大自然のファンタジー」
1959年 [編集]
11. 1月2日:未来の国 「大空への夢」
12. 1月16日:おとぎの国 「グーフィーの冒険物語」
13. 1月30日:冒険の国 「南極便り」
14. 2月13日:おとぎの国 「動画の歴史」
15. 2月27日:おとぎの国 「シリー・シンフォニー・アルバム」
16. 3月13日:冒険の国 「素晴らしい犬達」
17. 3月27日:冒険の国 「カメラのアフリカ探検とビーバーの谷」
18. 4月24日:冒険の国 「おっとせいの島」
19. 5月8日:おとぎの国 「ドナルド・ダックの一日」
20. 5月22日:未来の国 「宇宙への挑戦」(第1回の再放送)
21. 6月5日:おとぎの国 「グーフィーの出世物語」
22. 6月19日:未来の国 「大空への夢」(第11回の再放送)
23. 7月3日:おとぎの国 「魔法のすべて」
24. 7月17日:冒険の国 「カメラのアフリカ探検とビーバーの谷」
25. 7月31日:冒険の国 「ラプランドの旅とアラスカのエスキモー」
26. 8月14日:おとぎの国 「グーフィーの万能選手」(第2回の再放送)
27. 8月28日:未来の国 「月世界探検」
28. 9月11日:冒険の国 「カメラの探検旅行と深山のおじか」(第5回の再放送)
29. 9月25日:おとぎの国 「ドナルドのディズニーランド」
30. 10月9日:冒険の国 「大自然の神秘を訪ねて」
31. 10月23日:おとぎの国 「物語の誕生」
32. 11月6日:冒険の国 「南極便り(冷凍作戦)」
33. 11月20日:冒険の国 「サラブレッドあらし号(あるサラブレッドの生涯)」
34. 12月4日:おとぎの国 「ミッキーマウスの冒険」(第4回の再放送)
35. 12月18日:冒険の国 「冒険の国一周と水鳥の生活」

そして、正力は、東京ディズニーランドの創設にもかかわった。有馬はこのように指摘している。

 

ディズニーと読売グループとの関係はこの後も続く。一九六一年、京成電鉄の川崎千春は浦安沖の埋立地にディズニーランドを建設する構想を抱き、ディズニー・プロダクションズと交渉するためアメリカに渡った。『「夢の王国」の光と影ー東京ディズニーランドを創った男たち』によれば、このとき彼とディズニーの間の仲介の労をとったのは正力だったという。(p219)

ディズニー制作のアニメや映画をみたり、東京ディズニーランドで遊んでいたりした際、原子力のことなど普通考えない。しかし、起源まで遡及すると、原子力推進プロパガンダ番組「わが友原子力」の存在が大きいといえるのである。「原子力ムラ」「原子力文化」という際、信じられない範囲まで及んでいるのだ。

2011年12月31日、NHKは紅白歌合戦で、ディズニーの「星に願いを」を歌わせていた。そして、この曲は、前述したように、「わが友原子力」のオープニングでも使われていた。「わが友原子力」で「星に願いを」を聞き、もう一度紅白歌合戦を想起した際に感じた違和感、これをどう考えるべきなのだろうか。

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東海村の松林と原研施設(2011年4月24日撮影)

東海村の松林と原研施設(2011年4月24日撮影)

前のブログでは、中曽根康弘や正力松太郎などによって原子力開発が本格的に始まるとともに、ビキニ環礁での水爆実験を契機に原水爆禁止運動が盛り上がってきた1954~1955年において、原子力開発を推進した側も原水爆禁止運動の側も、原子力の危険性をあまり意識せず、双方とも「原子力の平和利用」に楽観的な希望を抱いていたことを述べた。

しかし、実際に原発を建設する時点においては、原発の危険性も意識されるようになってきた。前のブログに述べたように、1956年において、実験用・動力実験用の原子炉建設も含めて、原子力研究所の立地選考が行われ、神奈川県横須賀市武山、茨城県東海村、群馬県高崎市、群馬県岩鼻村の四か所が候補に上がった。

『東海村史』通史編(1992年)によると、原子力研究所敷地選定委員会では、1956年2月8日に、原子力研究所敷地候補地として次の五案を決定した。①横須賀市武山に実験用から動力試験炉まで集中的に設置する、②東海村に実験用から動力試験炉まで集中的に設置する、③武山の一部に実験用原子炉、東海に動力試験炉を分離して設置する、④群馬県岩鼻に実験用原子炉、東海に動力試験炉を分離して設置する、⑤高崎市観音山に実験用原子炉、東海に動力試験炉を分離して設置する。

この五案が作られる際、この四つの候補地は次のように評価されている。

[武山]東京から通勤可能な地であり、面積は142万㎡、用水には米軍施設が利用でき、地勢や地質も良好である。汚染した水は相模湾に放流できるので、東海についで条件はよい。風は海側に吹くので安全性は高い。
[東海]東京からの距離は候補地中一番遠いが、面積は330万㎡をこえ、用水も久慈川、阿漕ケ浦を利用できるので心配ない。地質的にもほとんど問題はなく、汚染した水を太平洋に流すことができるのでこの点では問題は少ない。風も海側に吹くことが多い。
[岩鼻]東京から約2時間、面積は76万㎡、用水、地質に大した問題はない。汚染した水は利根川水域に流すので問題があり、渇水時には流量が不足する。
[高崎]東京から約2時間、面積は330万㎡あり、用水のため動力ポンプが必要である。汚染水は岩鼻と同じく利根川水系に流すので影響が大きく、放水のため2kmのパイプを引く必要がある。

この評価をみて、今日の人は驚くであろう。「汚染した水を太平洋に流す」ことが当たり前のように記されている。利根川水系ならば問題だが、太平洋や相模湾ならば問題は少ないとされているのである。

このような議論をされているのは、水俣病の公害としての発覚以前であったことも留意しなくてはならない。1956年5月に水俣病発生は公式に確認されたが、原因は不明であり、ようやく1959年に熊本大学から有機水銀が原因であると公表したが、水銀を排出していた新日本窒素肥料も、それに政府も工場排水が原因であると認めず、1968年まで、水銀排出は続けられた。汚染した水は、海に流せばよい、そのような時代であったのだ。

風についても、「海側に吹く」ことが安全性の高い基準になっている。つまりは、放射能で大気を汚染することも想定されていたといえるのだ。

高崎や岩鼻は、中曽根康弘の選挙区であって、政治的に誘致は有利であった。しかし、内陸で、汚染水を利根川水系に流せねばならないということで、海に面している横須賀市武山や東海村が有利になったのである。

このことは、原子力平和利用の楽観的な期待とは裏腹に、原発による放射線汚染はそれなりに考慮されていたことを示しているといえよう。そして、最終的には、海か大気に汚染物質を放出することも想定されていたのである。その後、実際に建設される原発の多くは、海に面した人口の少ない過疎地に建設されているが、言外には、放射能汚染が想定されているといえる。

翻って、現在の福島第一原発事故について想起してみよう。4月2日、高濃度の汚染水が海に漏出していることが発見され、4月4日、高濃度の汚染水の保管を優先するため低濃度の汚染水を太平洋に放出した。本記事を執筆している6月20日現在、東電は汚染水の処理に苦慮している。結局は、汚染水の(意図的か非意図的かは別として)排出に追い込まれるのではなかろうか。原発を海の側に建設した言外の意図が実現してしまうことを今は恐れている。

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1954年は、日本の原子力にとってある種運命の年である。1954年、中曽根康弘らの手により、原子力開発予算がつけられ、原子力開発が開始された。他方で、この年は、アメリカによるビキニ環礁で実施された水爆実験が実施され、そのため日本のマグロ漁船が被曝した第五福竜丸事件があった年でもあった。そして、この第五福竜丸事件を契機として、原水爆禁止運動が展開したのであった。もちろん、1945年の広島・長崎への原爆投下もあったのだが、そのことについては日本政府・GHQ双方の情報統制があり、同時代で運動が強く展開されたわけではなかった。しかし、第五福竜丸事件は、マグロ漁船が被曝し(なお、被曝した漁船は第五福竜丸だけではない)、被曝したマグロ(水爆マグロ・原爆マグロとよばれた)が市場に流通し、さらに水爆実験により多くの放射性物質がまきちらされたため、より身近に放射線への恐怖をうむことになった。そして、今日と同様、水産物(被曝とは無関係なものも含めて)は買い控えられた。また、広島・長崎の原爆投下も思い起こされ、原爆・水爆などの核兵器を禁止しようとする原水爆禁止運動が展開した。

この原水爆禁止運動は、保守層も含めた多様な人々に当初賛成されていた。例えば、1954年4月1日には、衆議院本会議で、当時の自由党幹事長であった佐藤栄作によって「原子力の国際管理に関する決議」が提案され、全会一致で可決された。「全会一致」といえば、あの中曽根康弘も賛成したことになる。決議は下記のようなものである。

本院は、原子力の国際管理とその平和利用並びに原子兵器の使用禁止の実現を促進し、さらに原子兵器の実験による被害防止を確保するため国際連合がただちに有効適切な措置をとることを要請する(丸浜江里子『原水禁署名運動の誕生―東京・杉並の住民パワーと水脈』、2011年より引用)。

参議院でも4月5日に「原子力国際管理並びに原子兵器禁止に関する決議」が提案され、全会一致で可決された。

衆議院の決議案を、もう一度よく読んでみよう。原子兵器の使用禁止と原子兵器の実験による被害防止を国連に求めたことは首肯できる。しかし、「原子力の国際管理とその平和利用」というならば、1953年のアイゼンハワー大統領の「アトムズ フォア ピース」演説と趣旨は全く同じであり、結局は、原発開発を進めるということになるだろう。

これは、国会だからそうなのだろうか。中曽根康弘のような強硬な原発推進派がいるからそうなのか。そう信じたくもなるだろう。しかし、そうではない。

5月28日に中野区議会において「原子兵器放棄並びに実験禁止その他要請の決議」が提案され、これも全会一致で可決した。提案者近藤正二は、決議の趣旨について、次のように語っている。

(前略)
 今般のビキニにおきますところの伝えまするところの実況と申しますものは、そのビキニ環礁におきますところの爆発点におきましては、地下百七十五フィート半径一マイルの大きな穴を起しまして、そこの噴火口から爆発いたしました所の珊瑚礁の飛沫というものが富士山の三倍の高さまで到達し、それが今日見ますような空から灰が降る、あるいはもらい水であるところの雨水にまでもその放射能によるところの被害というものが感ぜられるわけでございます。
 翻って考えまするに、原子力の破壊力というものは、七年前に比べますると、その力は一千倍の惨害を呈するところにまで至っておりまして、今日の日進月歩の科学の力をもっていたしまするならば今後その猛烈な破壊力の到達するところは、これを戦争目的あるいは破壊的な形において実験するならば、人類は真に破滅に瀕するということは、もはや明瞭な事実でございます。しかるに人類は現在この原子力を持ちましたことによりまして、かつて人類の歴史に見なかったところの光栄ある未来を築き、精神的にもまた物質的にも偉大な繁栄が、この原子力の平和的な利用ということにかかって存在し得るのでありまして、逆な形で今申したごとく、これを破壊目的に使用するならば、人類は破滅に瀕するという、まことに人類の歴史にとって、かつてない重大な危機に立っておると言っていいのであります。
(後略 『中野区史』昭和資料編二 1973年)

前段の、放射性物質の降下を恐れる心情は、今と共通しているといえよう。しかし、後段の、原子力の平和利用を主張する部分は、今では理解しづらくなっているであろう。原子力の平和利用に対する楽観的な希望があるとしかいえない。

なお、近藤正二は、当時無所属であったが、後に社会党に入っている。その意味で、彼は保守層ということもできないのだ。

そして、このような認識は、区会議員だけではない。当時『中野新報』というローカル紙が、アンケートを実施した。アンケートに答えて大和住宅共同組合理事長渡辺潜は、次のように語っている。

一、水爆実験に対する非難の声、今後実験中止を要求する声は世界的に起こって来た。日本は被害体験者だけに憤りや恐怖心の入り交じった混乱した気持は一番激しいのは当然である。
一、水爆実験の結果は原子力の前には戦争は不可能になったという事を実証したと思ふそこで
(一)原子力の超国家機関による管理、(二)原子力の平和利用(既に各国によって進められつつある。例えば発電所の建設、医学的な応用等無限にその分野は開拓されつつある。新しい産業革命は原子力によってもたらされるであろう)について世界的な運動が必要である。広島や長崎又ビキニなどで被害を受けた最初のそして最大の犠牲者を出した日本こそは堂々と世界の与論を喚起しなければならないと思う。原子力の国外に立っている、まことにあわれな政治の姿ではあるが又それならばこそすぐれた政治家の奮起を待望してやまないのである。

このように、原子力で産業革命がおこるとまでいっている。この時期、具体的な原発建設計画はなく、原発の実情がまだ理解されてはいなかった。結局、原子力については、兵器としての利用を問題にしているだけなのである。むしろ、原子力開発に対する楽観的な希望が語られている。あれほど放射性物質に対する恐怖を感じていたのにと、今日の目からすると思ってしまう。たぶんに「科学信仰」なのであろう。このような心情を背景に、中曽根康弘や正力松太郎の戦略は有効性を有したといえる。

広瀬隆は、このように言っている。

核戦争の愚かさだけを訴える反核運動は、欧米にはない。英語で核兵器はnuclear weapon,原子力発電はnuclear power、したがってanti-nukeをただ反核運動と報じているのは、わが国のジャーナリストに特有な誤訳としか思えないのである。
日本では考えられないほど、一般の人びとが原子力に関心を持っているのだ。これに対して日本では地元の人が反対しているだけで、都会人は完全に原子力を肯定している。(『東京に原発を!』1986年)

もちろん、原水禁運動も時代につれてかわっていくのであり、ずっと原発を肯定していたとはいえないだろう。ただ、やはり、初発にはらんでいた問題性はあるだろう。私自身、核兵器反対のデモに出たことはあるが、脱原発のデモに出たことはなかった。

そして、このようなことに気づくようになったということは、東日本大震災による認識の変容の一つの現れであると思う。

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以前、本ブログで述べたように、日本の原子力開発は、1953年のアイゼンハワー大統領による「アトムズ・フォア・ピース」演説を契機とした、原子力の平和利用を国際的に進めることでソ連に対する優位を保とうとするアメリカの戦略によって開始されたことは今日よく知られている。特に、日本においては、1954年3月のビキニ環礁における水爆事件で被曝した第五福竜丸事件を契機とした原水爆禁止運動を、原子力の平和利用をアピールすることで抑制することも目的していた。

具体的には、1954年3月に当時改進党所属の代議士であった中曽根康弘らによる原子力開発予算案が提案され、修正可決した。中曽根は、翌年社会党議員なども巻き込みながら原子力基本法などの議員立法を行った。

他方、読売新聞社主の正力松太郎は、CIAと協力しながら原子力平和利用キャンペーンを行いつつ、1955年に総選挙で「保守合同」と「原子力平和利用」を公約としてその年の総選挙に立候補し、代議士となった。そして、保守合同後の1955年末の鳩山内閣の内閣改造により「原子力担当大臣」に正力は就任し、原子力開発を強力に推し進めた。

原子力開発を推進した中曽根や正力らは、原発の危険性を当初考慮していなかったと思われる。正力は1955年11月に「原子力平和利用博覧会」を開催したが、その際、協力したCIA文書によると、「展示してある小型の原子炉を購入したいので、今すぐ手配しろとほとんど命令を下すかのように正力がいったとする記述さえ出てくる。何に使うのかとたずねると、自宅に持って帰って家庭用の発電に使うと答えた」(有馬哲夫『原発・正力・CIA』 2008年 新潮社 124頁)ということがあったらしい。

中曽根も大同小異であった。1956年における原子力研究所の敷地選定の際、神奈川県横須賀市武山、茨城県東海村、群馬県高崎市、群馬県岩鼻村の四か所が候補に上がった。佐野真一『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』(1994年 文芸春秋)には、

このうち高崎は、原子力予算を最初に提案した中曽根康弘の地元ということもあって、すさまじい誘致運動が繰り返された。高崎市の町なかには「歓迎原子力研究所」の横断幕がいくつも垂れさがり、誘致促進陳情団が、連日のように、バスを連ねて上京した。原子炉から出るアイソトープを県内の公衆浴場などに無料で提供すれば、群馬は“原子力温泉”のメッカとして一躍観光化される、というのが、この運動の音頭をとった中曽根の持論だった。(佐野前掲書p550)

と、書かれている。まるで、「ラジウム鉱泉」ののりである。近年、「低放射線ならば人体に有益だ」と提唱した学者がおり、それにのってわざわざ福島まで出向いて「放射線」を浴びて体が良くなった感じがすると述べた代議士がいたが、その歴史的前提なのかもしれない。

ただ、中曽根や正力の「浅慮」をただ笑うことはできない。彼らを批判する立場にいた初期の原水禁運動の側も「原子力の平和利用」には賛成していた。次回以降、機会をみて、みていきたい。

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『現代思想』2011年6月号

『現代思想』2011年6月号

本ブログで福島原発問題をとりあげたことを期に、『現代思想』2011年6月号に寄稿することになった。

表題は「福島県に原発が到来した日ー福島第一原子力発電所立地過程と地域社会」である。

本ブログの福島第一原発関係の記事をもとにしながら、大幅に加筆・修正した。ご関心がある方は、お読みいただきたい。

本ブログをみなさんが読んでくれたことが、このような形でまとめることにつながったと思う。感謝したい。

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さて、原子力開発のもう一人の立役者であった、正力松太郎についてみておこう。このことについては、知人から教えられた、次の「原発導入のシナリオ ~冷戦下の対日原子力戦略~」(NHK現代史スクープドキュメント 1994年放送)をみるのが、一番わかりやすいだろう。下記のサイトより検索してほしい。

http://scrapjapan.wordpress.com/

このドキュメントを要約しておこう。アメリカは、対ソ競争を前提にして、西側諸国に平和目的での原子力開発を促し、そのことによって、今まで以上にこれら諸国をアメリカの核戦略にとりこむことを政策課題としていたが、日本においては1954年3月の第五福竜丸事件を契機に、それまで以上に核兵器への反対運動が高揚し、アメリカへの反発が強まっていた。この状況下で、アメリカ政府の代理人D・ワトソンは、日本テレビの重役であった柴田秀利に接触し、核兵器開発への対日心理戦略への協力をもちかけた。柴田は、読売新聞・日本テレビという二大マスコミを傘下にもつ読売グループの総帥である正力松太郎に説き、両マスコミを通じて平和目的の原子力開発のキャンペーンを大々的に展開させた。一方、正力松太郎は、1955年2月の総選挙に、保守合同と原子力開発を公約に掲げて立候補して当選し、保守合同後の11月の鳩山内閣の内閣改造で原子力担当大臣として入閣し、初代原子力委員長に就任するなど、原子力開発を強力に推し進めていった。このような形で、日本において、平和目的の原子力開発を促進され、アメリカの核戦略により深くとりこまれていった。

このプロットは、佐野真一氏の『巨怪伝―正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文芸春秋 1994年)とほぼ一致している。ただ佐野氏が、典拠をあげずに論を進めていることと対照的に、このドキュメントは、アメリカの公文書、柴田秀利の資料、ワトソン自身のインタビュー、当時の新聞など、基本的には典拠をあげて映像化しており、より信頼がおけるといえる。ただ、佐野氏もとりあげている中曽根康弘の原子力開発への関与には言及されていない。

この当時の戦略は、柴田の手記による本人のこの発言に概括されるであろう。

日本には昔から“毒は毒をもって制する”という諺がある。原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日に希望を与える他はない。(同様の趣旨はドキュメントでも発言しているが、ここでは佐野前掲書より引用)

反米の意味を有する原爆反対運動を潰す、そのために、原子力の平和利用を謳いあげ、産業革命を希望させるということ、そのために、読売新聞と日本テレビは、社をあげて世論操作を実施し、総帥の正力松太郎自身が原子力を行政的に推進していったといえる。

このドキュメントの中では、日本学術会議のメンバーを柴田が警察庁などを使って調査させ、反対派には印をつけていたことなどが紹介されている。現在、原発反対派の研究者に尾行がつけられていたことが議論されているが、実は、原子力開発の最初からそのようなことはあったといえるのだ。

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そろそろ、大震災の他の局面にテーマを移そうと考えていたが、最近は連日200ビューをこえる閲覧で、原発の歴史的背景を知りたいという需要の大きさを実感した。知人らのすすめやご教示もあるので、より深く原発の歴史をみておこう。なお、私は、近代都市史が専門であり、科学史や現代史は、本来の専門ではない。典拠はあげておくので、より深く知りたい方は、それらをみてほしい。

これまで、東電と東電が福島に建設した二つの原発についてみてきた。より広く、日本全体の原子力開発の歴史をみてみよう。日本における原子力開発の歴史にいては、二人の政治家の存在が起爆剤となっている。その二人とはだれか。中曽根康弘と正力松太郎である。ここでは、中曽根を中心に考えておこう。

まず、戦後の原子力開発をめぐる状況についてみておこう。戦中、日本は原子力開発を行っていたが、占領軍は日本の原子力開発を禁止し、1947年に国産のサイクロトンが廃棄された。

しかし、1951年のサンフランシスコ講和条約には、日本の原子力開発を禁ずる項目はなかった。ここで、原子力開発は「解禁」されたのである。戦中に原子力研究に携わってきた伏見康治大阪大学教授(余談だが、SF仕立てで相対性理論を説明したガモフの『不思議の国のトムキンス』の訳者)や、日本学術会議会長の茅誠司東京大学教授(後の東大総長)は、原子力の研究を行う「原子力委員会」の設置を1952年に提案した。しかし、日本学術会議内部での批判論・尚早論があり、「原子力問題委員会」なるものを設置したのみで、原子力研究自体に踏み切ることはできなかった。

一方、世界情勢も動いていた。1950年代初めは、米ソの間で水爆開発競争が行われてきたが、1953年、ソ連が水爆実験に成功するとアメリカは、競争の対象を転じた。日本原子力文化振興財団編『二五年の歩み 原子力文化をめざして』(1994年)で「原子力時代の幕開け」を執筆した元日本経済新聞編集委員佐々木孝二は、

ソ連が水爆実験をした年の一二月八日、第八回国連総会でアメリカのアイゼンハワー大統領は「アトムズ・フォア・ピース」の声明をおこない、原子力の平和利用の道へハンドルを切った。アメリカの方向転換の背景には、アメリカの原水爆の独占体制が崩れたことがあったといわれている。こんどは、平和利用の面で世界の主導権を握ることをねらっての画期的な提案だった。

と述べている。なお、日本原子力文化振興財団は、推進側がつくった組織であり、これが一般的な評価であろう。具体的には、今の国際原子力機関(IAEA)の源流にあたる機関にウランなどを主要国が供出し、それを平和目的に役立てるように各国にわりあてるというものであった。その後、アメリカでは原子力産業会議などが経済界を中心に結成され、さかんに活動していた。

このように、アメリカを中心に平和目的の原子力開発が提唱される一方、国内では、開発の中心たるべき日本学術会議の科学者が原子力研究に踏み切れない状況であった。

そこを打破したのが、1954年の中曽根康夫の行動であったと、本人が述べている。本人の回顧録(中曽根康夫『政治と人生―中曽根康弘回想録』1992年)を少しみてみよう。

このとき私は、原子力の平和利用については、国家的事業として政治家が決断しなければならないという意を強くした。左翼系の学者に牛耳られた学術会議(なお、念のためにいっておくと、これは中曽根自体の表現)に任せていたのでは、小田原評定を繰り返すだけで、二、三年の空費は必至である。予算と法律をもって、政治の責任で打開すべき時が来ていると確信した。
しかし、当時、私の属していた改進党は少数野党で、予算や法律を単独で通す力がなかった。じりじりしていたところ、いわゆる“バカヤロー解散”(吉田茂首相在任時)によって、自由党の過半数が崩れ、予算も法律も改進党の協力がなければ成立しないはめになった。私は天の与えた機会とばかりに、予算修正で原子力平和利用研究への突破口を開こうと考え、同志に相談した。みな、賛成してくれたが、このことが事前に漏れれば、学界やジャーナリズムの反対で、こっぱみじんに吹き飛んでしまう。したがってことは秘密裡に進められ、突如、予算修正案の形で飛び出した。

予算や法律を通す力のない少数与党と取引して、中曽根は自分の政策を実行できる予算修正をのませたのである(今のことではない)。具体的には、1954年3月3日の衆議院予算委員会で、自由党・改進党・日本自由党の予算共同修正案が提案され、原子力平和利用研究費補助金二億三千五百万円とウラニウム資源調査費一千五百万円、合計二億五千万円の“原子力予算”が盛り込まれたのである。

この背後には、保守合同への動きがあった。1954年11月には、改進党・日本自由党・自由党の一部分派により日本民主党が成立し、総裁に鳩山一郎がなる。12月には吉田茂が退陣し、鳩山一郎が首相となった。そして、翌年11月には自由党と民主党が合同し(保守合同)となる。この保守合同により、正力松太郎が入閣し、「原子力担当大臣」として、原子力行政を強力に推し進めていくが、それは、後述していく予定である。ただ、保守合同とは、原子力開発を推進する体制でもあったともいえるのではないか。

他方、この予算は、1954年3月4日の『朝日新聞』の社説「原子炉予算を削減せよ」で酷評しているように、はなはだ奇妙な予算であった。同社説では「原子炉製造補助費というが、いったい、どこの、だれが、日本で原子炉製造計画を、具体的に持っているか」というように、具体的な計画も事業主体も想定していないものであった。前述したように日本学術会議は原子力開発計画をもっていなかった。また、修正した自由党・改進党・日本自由党の間で、本予算の使途について統一見解をもっていなかった。中曽根は「なぜ補助金が二億三千五百万と細かいのかという質問に、『濃縮ウランはウラン235ですよ』と答えて爆笑を誘ったりもしながら」と述べている。

ただ、中曽根とその同志たちの意志は堅かった。中曽根は、次のように回想している。

われわれは確信犯であったから、いかなる攻撃にも屈しなかった。特に稲葉氏(稲葉修。ロッキード事件時の法相)は信念居士であり、法学博士でかつ中央大学の憲法教授であったから、学術会議に対抗するには打ってつけであった。当時、反対の申し入れに来た学者に、「学者が居眠りをして怠けているから、札束でほっぺたを打って目を覚まさせるのだ」と私(中曽根)が言ったと伝えられたが、これも実は稲葉氏の発言であった。

「学者が居眠りをして怠けているから、札束でほっぺたを打って目を覚まさせるのだ」とは至言である。とにかく金を出すから、原子力開発せよ。それが、中曽根たちの戦略であった。

この原子力予算は、衆議院を通過してしまった。参議院では、社会党・共産党から質問を受けたが、1954年4月3日に自然成立した。ちなみに、これが初めてのの自然成立であった。

この後も、日本学術会議などを相手とした中曽根の苦闘は続き、さらに正力松太郎が参入してくる。他方、1954年3月、アメリカのビキニ環礁における水爆実験により、第五福竜丸事件が起き、船員が被曝して1名死亡し、さらに放射能汚染されたマグロ(原爆マグロ)が多数日本に水揚げされて、今日の風評被害の原型ともいうべきパニックがおき、日本国民における放射能への恐怖が強まった時期でもあった。これらのことを、今後記述しておこう。

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