さて、このブログで述べてきたように、関西圏では、1957〜1960年にかけて関西研究用原子炉設置反対運動が惹起され、原子炉の立地問題が浮上していた。並行して、関東においては、商用原子力発電所第一号として建設されることになった東海発電所設置につれ、その安全性が問われる事態となっていた。政府・産業界が進めようとした原子力発電所建設計画は、湯川秀樹などの反対を押し切った形で1957年に承認され、その受け皿としての日本原子力発電株式会社(日本原電)が同年11月に発足した。そして、イギリス型のコールダー・ホール型発電所(電気出力約16万kw)が導入されることとなり、1958年6月にイギリス側と調印した。なお、イギリスのコールダー・ホール型発電所が導入される大きな要因として、この発電所に使われる原子炉が、元来天然ウランを燃焼してプルトニウムを生産する軍用プルトニウム生産炉であり、この発電所によって、電力だけではなくプルトニウムを得ようとした原子力担当大臣兼原子力委員長である正力松太郎らの意向が働いていたことが、有馬哲夫「日本最初の原子力発電所の導入過程」(歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』、青木書店、2012年)で紹介されている。この東海発電所が、日本最初の商用原発である東海第一発電所(東海第一原発と略称。現在は廃炉作業中)となっていく。
この東海第一原発の設置については、1959年3月より設置許可申請が出され、安全審査が開始された。しかし、それ以前からさまざまなかたちで安全性がとわれた。その背景になったことは、コールダー・ホール型原子力発電所原子炉の原型となった軍用プルトニウム生産炉であったウィンズケール原子炉が1957年10月10日に火災によりメルトダウン事故を引き起こしたということであった。このメルトダウン事故は、原子炉構内だけでなく、周辺にも放射能汚染を引きおこした。周囲の500㎢内で生産された牛乳は約1ヵ月間廃棄された。その意味で、原子炉—原発事故が、周辺にも放射能汚染を惹起することを明瞭に示した事例となった。
このコールダー・ホール型原子力発電所の安全性については、すでに1958年2月に、日本学術会議・日本原子力研究所・原子力燃料公社ほか主催で開かれた第二回日本原子力シンポジウムで議題となった。このシンポジウムの最終日2月9日に行われた「原子力施設の安全性をめぐる討論」において、電源開発株式会社の大塚益比古は、次のような指摘を行っている。
むすびに東海村のある茨城県の地図に、アメリカ・アイダホ州にある国立原子炉試験場の広大な敷地を重ねた図と、先日事故を起したウィンズケール周辺の地図をならべて示し、発展途上の原子力の現在の段階では、敷地の広さも一つの安全装置であり、一旦事故が起れば、公衆への災害を皆無にすることは不可能であることを考えれば、そのように広い面積を得ることは不可能なわが国では、たとえ原型にコンテーナーのないイギリス型の炉にも必ずコンテーナーを設けるなど、可能な限りの努力を安全性にそそがない限り、従来の技術では可能だった試行錯誤のできない原子力では、その発展を逆に大きくひき戻す結果にさえなりかねないことを強調した。(椎名素夫「原子力施設の安全性をめぐる討論」 『科学朝日』1958年4月号 36頁)
この図を、下記にかかげておく。アメリカの国立原子炉試験場にせよ、ウィンズケール原発による牛乳使用禁止区域にせよ、かなり広大であり、東海村にあてはめれば、人口密集地域である水戸市や日立市も含まれてしまうことに注目しておきたい。
特に、東海第一原発の安全性については、コールダー・ホール型原子力発電所の原子炉が黒鉛炉であって黒鉛ブロックを積み上げただけで、格納容器(コンテナー)をもたない構造であり、日本において耐震性は十分であるのかなどが中心的に問われた。この安全性問題の総体については、中島篤之助・服部学の「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅰ・Ⅱ」(『科学』44巻6〜7号、1974年)を参照されたい。ここでは、この研究を中心に、立地問題に限定して議論していきたい。
日本第一号の商用原発の立地について、当時審査基準がなかったため、敷地選択で紛議になることをおそれ、安全性を新たに検討することなく、すでに既成事実となっていた日本原子力研究所構内に建設することになっていた。そして、原発事故の際、最大規模で放射性ヨウ素が1万キュリー(約370兆ベクレル)もしくは60万キュリー(約2京2200兆ベクレル)流出すると想定し、アメリカ原子力委員会が公衆に対する許容線量としていた2000ラド(2000レム、シーベルトに換算すると約20シーベルト)を採用し、最大規模の事故の際でも立退きする必要がないとした。
しかし、ウィンズケール原子炉事故以後、イギリスの原子力公社原子炉安全課長ファーマーは、1959年6月にイギリスの新しい立地基準についての論文を発表した。中島・服部は、その骨子を次のようにまとめている。
同論文は立退きを要する放射線被曝量として25レムをとり、また敷地基準として次のようにのべていた。
(イ) 原子炉から450m(500ヤード)以内にほとんど居住者がないこと。
(ロ) 角度10°、長さ2.4km(1.5マイル)の扇型地域をどの方向にとっても、その中に500人以上の人が住んでいないこと。同じく子どもの大きな集団がいないこと。
(ハ) 8km(5マイル)以内に人口1万以上の都市がないこと。(同上Ⅰ、377頁)
このファーマー論文によって示された立退基準25レム(シーベルトに換算すると約250ミリシーベルト)は、設置者側にとっては大きな問題となった。もし原電のいう事故時の放射性ヨウ素の放出量1万キュリーを前提として、立退基準を8レム(約80ミリシーベルト)と規定した場合、風向きによっては100kmの範囲まで事故の際に立ち退く必要が出てくると、1959年7月31日に開催された原子力委員会主催の公聴会で藤本陽一が指摘した。他方、同じ公聴会で、設置に賛成する公述をした西脇安大阪大学助教授(関西研究用原子炉建設を推進した一人)は、立退基準25レムを認めた上で、放射性ヨウ素放出量についてはファーマー論文にしたがって250キュリー(約9兆2500億ベクレル)に引き下げて安全性を主張した(『科学朝日』1959年10月号参照)。
さらに、8月22日に学術会議の要請で開かれた討論会において、原電の豊田正敏技術課長(東京電力からの出向者であり、後に東電にもどって福島第一・第二原発の建設を推進、東電副社長となる)は、「申請書の内容あるいはそれまでの原電の言明を全く無視して、想定放射能量を25キュリー(約9250億ベクレル)とし、地震その他のどんな想定事故でもこれ以上の放射能がでることはありえない」(中島・服部前掲論文378頁)と述べた。いわば、安全基準は25レムとして、想定された事故時の放射能汚染を最終的には大幅に引き下げて帳尻をあわせたのである。
一方、ファーマー論文の基準によれば、東海第一原発は敷地基準の(ロ)と(ハ)を満足させていなかった。原子炉から1.3kmの所に小学校(子どもの集団)があり、さらに角度の取り方によれば、当時人口389人であった東海村居住区の大部分が入るが、その中に急増しつつあった原研職員は含まれていなかった。また、北方3.7kmの地点には人口11000人の日立市久慈町が所在していた。
まず、設置側の日本原電は、小学校は移転予定であると述べた。また、ファーマーは扇型は角度30°、長さ1.6kmとしてもよい、8km以内に1万人以上の都市がないということは直接危険を意味するものではなく、必ずしも守らなくてよいと述べ、自説を崩した。結局、この場合は、基準のほうを緩和したのである。
加えて、黒鉛炉のため格納容器がないので格納容器をつけるべきである、隣接して米軍の爆撃演習場があるなど、さまざまな安全上の問題が提起されていた。しかし、東海第一原発の安全審査にあたった原子力委員会の原子炉安全審査専門部会は、11月9日に安全と認める旨の答申を出した。そして、12月14日、内閣は正式に東海第一原発の設置を許可したのである。1960年に東海第一原発は着工し、1965年に臨界に達し、1966年より営業運転を開始した。しかし、この東海第一原発の建設はトラブル続出で、予定よりかなり遅延したのである。
このように、日本最初の商用原発である東海第一原発の安全審査については、原発事故時における放射線量の許容量が厳格になるにしたがって、原発周辺の居住を制限するなどとという当たり前の形ではなく、原発事故の規模を小さく見積もることによって、原発事故時の放射線量を許容量以下に抑えたのである。つまり、この原発の「安全性」とは、原発事故のリスクを小さく仮想することによって保たれていた。まさしく、仮想の上の「安全性」であったのである。
そして、この時期、通産省は、より実情に即した原発事故の想定を秘密裏に行っていた。それによると、東海村近傍の水戸市などはおろか、場合によっては東京にすら被害が及ぶ試算結果となったのである。このことについては、次回以降、みてみたい。