ここで、実際にみた「シュレディンガーの猫」と「彼女の旋律」について語っていこう。「シュレディンガーの猫」と「彼女の旋律」、この二つが取扱っているテーマは、双方とも、「会津地方」の「高校生」の日常生活と、震災・原発の被災者との、「ディスコミュニケーション」をめぐる葛藤といってよいといえる。
まず、はじめにみた「彼女の旋律」(サベリオ学園高校演劇部)からみておこう。このテーマをもっとも単純にいえば、高校の演劇部が避難所にいる被災者の慰問を頼まれた話といえる。しかし、象徴的なことは「避難所」という言葉も「被災者」という言葉も、ほとんど明示的には発話されていないのである。つまり、もともと、「慰問」においても、「被災者」に向き合うという構えがないことが表現されているのである。
この「慰問」において、高校の演劇部としては、「シンデレラ」を「寺の小僧が盆踊りに出たい」という形にアレンジしたものを出すことにした。元々「シンデレラ」なのだが、部員の個性(どじょう踊りが踊りたいなど)や能力にあわせて、そういう形にしたのである。つまりは、「内部事情」から、そういうナンセンスなものが演じられることになったといえる。ナンセンスさでは、シェクスピアの「夏の夜の夢」の劇中劇として素人が「ピラマスとシスベー」という悲恋物語を結婚式の余興として演じていることに匹敵する。
ところが、この慰問を主催しているボランティアの思いつきで、被災者の女の子をギター演奏で出演させることになった。ボランティアとしては、ただ与えるだけでは被災者は満足しないという思いがあったようだ。しかし、もともと、内部事情からナンセンス劇しか構想していない高校生たちは困ってしまった。被災者の女の子も出演したいわけではなく、さらに、こんな内容では「慰問」にもならないとして、ほとんど話をせず、ギターの奏でる旋律で自分の感情を表現する始末である。そして、逆に高校生たちからは、反発をみせるもの、逆に風評被害に苦しむ親たちのことを想起してこれでは慰問にならないと思い直すものが出るなど、混乱をみせていく。
結局、高校生の一人が、自分の過去の「いじめ」体験を引き合いにしてこの被災者の境遇に「共感」することで、ようやく信頼を得て、とにかく協力して「慰問」をすることはできた。しかし…それは、単に被災者側が「共感」することによって得られたもので、それが真に「楽しい」ことかどうかはわからないままで終っている。
この題名が「彼女の旋律」となっている通り、この劇では、被災者はほとんど会話せず、ギターを中心に自らの感情を語る。徹底的に外部にいる存在なのである。他方、高校生の側も「内部事情」に起因するナンセンス劇しか演じられないのである。
私の感想をいえば、ここでは、日常生活の「内部事情」で「ナンセンス劇」を演じている高校生のほうがおかしいのだ。それは、日常生活の外部にいるしかない被災者には通じないのである。そして、たぶん、被災者にとっては、「ナンセンス劇」自体ではなく、それを演じる高校生の心情をおもんばかって、ようやく、「相手にしてくれる」。しかし、それは、日常生活への過剰適応を被災者に強いることでもあるといえよう。
さて、「シュレディンガーの猫」(大沼高校演劇部)についてみておこう。「シュレディンガーの猫」は、原発事故や震災にあって福島県浜通りから避難し、会津地方の高校に避難してきた転校生(女子)二人と会津地方の高校生たちとの葛藤を描いた作品である。題名となった「シュレディンガーの猫」は、物理学者シュレディンガーの量子の不確定性を示す思考実験であるが、ここでは、より単純に「シュレーディンガーの猫は物理学の思考実験の呼称だ。箱に入れられた猫が放射性物質に生殺与奪権を握られ、外からは生きているのか死んでいるのか分からない状態を指す。劇では「生きている状態と死んでいる状態が50%ずつの確率で同時に存在している猫」と説明する。」(『河北新報』)として理解しておこう。この「シュレディンガーの猫」は、被災してきた転校生の一人にとって、自分たちの心情を示すものとして表現されている。
そして、この演劇では、「シュレディンガーの猫」と同じように、放射性物質に運命を握られながらも、対照的な態度を示す二人の転校生が存在している。一人は、震災と原発事故で家族すべてを失い、常に「死にたい」と考え、同級生たちから孤立していた。
もう一人は、やはり震災と原発事故で避難せざるをえず、さらに、「生き残ったこと」を罪とすら感じながらも、そのことを「悔しい」と思い、一生懸命生き直そうとしている。彼女は、活躍できる部活があるところと思って、郡山のサテライトではなく、会津の高校に転校してきた。そこで、彼女はダンス部に入った。被災者の転校生が活躍しているということで、かっこうのネタとなり、マスコミが報道することで、ダンス部の知名度もあがっていったのである。
つまり、ここに「シュレディンガーの猫」の意味があるだろう。放射性物質に運命を握られながらも「生」と「死」が同じ確率で存在している。「彼女の旋律」においては、この二つの傾向が、一人の人格の中にあった。「シュレディンガーの猫」では、この側面が二つの人格に分け持たれているのである。
しかし、「生」を選んだといっても、それは軋轢なく、高校の日常生活に受け入れられることを意味しなかった。被災者である彼女の活躍は、彼女の友達でもあった元々のダンス部員の怒りをかってしまった。そして、高校の中で、孤立していくことになる。
そして、彼女は決断した。父親の九州移住についていって、卒業式前に、この高校を離れることを。
彼女のクラスでは、放課後にお別れ会をしようとするが、みんな帰ってしまって、10人弱しか残らない。残った生徒も、多くは早く帰りたがっている。そして、その余興で行われたのは「仲間はずれゲーム」である。
最初は、本当に、ただのゲームで「広島県・島根県・福島県の中でどれが仲間でないか」ということをあてるものだったのだが、しだいに、自分の属性をあげて多数派であるか少数派であるかで勝ち負けを競う、いわば少数派を排除するゲームになってしまうのである。実際の演劇は、全編このお別れ会における「仲間はずれゲーム」がほとんどをしめていて、前述した背景は、「仲間はずれゲーム」の中の会話や、挿入される回想シーンからおぼろげに提示されている。ある意味では、この「仲間はずれゲーム」が、お別れ会にもかかわらず、より孤立感を深めていくのである。
しかし、この「仲間はずれゲーム」が、逆に、もう一度連帯を確認させていく契機になっている。最後のほうで、転校生の一人が、「同情はいらない」、「それでも、他人にはやさしくしたい」、「絶対に忘れない」などと叫びはじめる。最初は、もう一人の転校生だけが応じているのだが、だんだん、他の高校生も応じていくようになる。少数派を排除するゲームが、多数派を獲得するゲームになったのである。そして、最後は「どんなことがあっても負けない」という叫びに、ためらいながら、死のみを考えていた転校生が応ずることで、この劇は終わるのである。
このように、「シュレディンガーの猫」のテーマも「彼女の旋律」と同様、被災者と一般的な高校生との「ディスコミュニケーション」であるといえよう。ただ、「シュレディンガーの猫」では、被災者は同じ学校の転校生であり、より内部で接している存在として描かれている。しかし、それでも、彼女たちの心情は、一般高校生には伝わらない。それは、必死にまわりに受け入れてもらおうと努力しても、その努力自体が、孤立感を深める結果に終ってしまうのである。
ただ、それでも、救いになったのは「仲間はずれゲーム」なのだといえる、少数派を排除するゲームを、自分の心情を主張して、多数派を形成し、合意を獲得する手段としたこと、これは、たぶんに演劇だからこそできることなのだと思う。しかし、それは、実生活でも必要なことなのだ。
まず、ディスコミュケーションを認めること、そして、それから「共感」を得ることを必死に考えていくこと、これは、この二つの演劇だけでなく、だれにとっても必須なことであるといえよう。