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Posts Tagged ‘新自由主義’

繰り返すあやまちの そのたび ひとは

ただ青い空の 青さを知る

(中略)

生きている不思議 死んでいく不思議

花も風も街も みんなおなじ

(中略)

海の彼方には もう探さない

輝くものは いつもここに

わたしのなかに 見つけられたから

(覚和歌子・木村弓「いつも何度でも」)

 

さて、これまで、新型コロナウィルス肺炎感染対策としての都市封鎖ーロックダウンが、皮肉なことに地球環境の改善の一時的ではあれ寄与してきた現象をみてきた。ここでは、それが世界史的にみてどういう意義を有しているかを、経済地理学者で、現代の新自由主義を批判しているディビッド・ハーヴェイが2020年3月に発表し、『世界』(岩波書店)の2020年6月号に訳出された「COVID-19時代の反キャピタリズム運動」を手がかりにしてみていこう。

ハーヴェイは、自身がさまざまなニュースを解釈し分析する資本主義の枠組みとして2つのモデルを用いているという。一つは資本の流通・蓄積の内的矛盾を描くことである。もう一つは、ハーヴェイの言葉によれば「世帯や共同体での社会的再生産というより広範な文脈、自然(ここには都市化と建造環境という「第二の自然」も含まれている)との物質的代謝関係のーつねに進化を付随させたー進行、そして時間と空間を超えて人間諸集団がきまって創造するような実にさまざまな文化的、科学(知識基盤)的、宗教的、状況依存的社会構成体」である。ハーヴェイは、「自然」を文化・経済・日常生活から切り離す通常の見方を拒否し、「自然との物質代謝関係という、より弁証法的な関係的見地」をとっているとする。彼は、「資本は、それ自体の再生産のための環境的諸条件を部分的に変容させるが、そうするさいには意図せざる結果(気候変動など)と絡み合うことになり、しかもその裏では、自律的で独立した進化の諸力が環境的諸条件を永続的に作り変えている」と述べている。

では、ハーヴェイは、今回の新型コロナウィルス肺炎のパンデミックをどうみているのだろうか。ハ―ヴェイは、ウィルスの突然変異が生命に脅かす条件として、①生息環境の急速な変容や多湿の亜熱帯地域(長江以南の中国や東南アジアなど)での自然依存型もしくは小農型の食料調達システムというウィルスの突然変異の確立を高める環境、②人口集中、密接な人々の相互交流や移動、衛生習慣の違いなど、急速な宿主間感染を高める環境が存在したことをあげ、それらのことから、中国武漢が新型コロナウィルス肺炎感染症の最初の発見地になったことに驚きはないと述べている。そして、武漢が重要な生産拠点であるがために世界規模での経済的影響を与えることになった。大きな問題として、ハ―ヴェイは「グローバリゼーションの昂進の否定的側面の一つは、新しい感染症の急速な国際的拡散を止められないこと」をあげている。拡大したグローバリゼーションの流れにのって、武漢地方で発見された新型コロナウィルス肺炎は世界的に拡大したのである。

とはいっても、イタリア・アメリカなどの欧米諸国での感染は爆発的であった(ハ―ヴェイ執筆時は3月。現時点ー5月ーではブラジルやロシアでの感染も拡大している)。その要因として、中国などの感染拡大を「対岸の火事」として認識したがゆえに初期対応が遅れたこともあげながら、、新自由主義下で「公衆衛生対策に適用されたビジネスモデルによって削減されたのは、非常時に必要な対処のための余力であった」ことを中心的にあげている。ハ―ヴェイは、ある場合には権威主義的な人権侵害の域に達しているとしつつも、「おそらく象徴的なのは、新自由主義化の程度の小さい国々ー中国、韓国、台湾、シンガポールーが、これまでのところイタリアよりも良好なかたちで世界的大流行を切り抜けたことである」と述べている。

そして、ハーヴェイは次のように指摘している。

擬人的な隠喩を用いるとするなら、新型コロナウィルスとは、規制なき暴力的な新自由主義的略奪採取様式の手で40年にわたり徹底的に虐待されてきた自然からの復讐だと結論づけられるであろう。

このパンデミックは、どのような経済的影響を与えるのだろうか。ハーヴェイは、まずはサプライチェーンの途絶や人工知能型生産システムへの傾斜により、労働者の失業をうみ、それが最終需要を減退させることで軽微な景気後退をもたらす可能性を指摘している。しかし、もっとも大きな影響として、「2007〜08年以後に急拡大した消費様式が崩壊し、壊滅的な結果がもたらされた」ことをあげている。これらの消費様式は「消費の回転期間を可能な限りゼロに近づけることに」もとづいており、その象徴として「国際観光業」をあげている。ハーヴェイは「このような瞬間的な「体験型」消費形態にともなって、空港、航空会社、ホテル、レストラン、テーマパーク、そして文化イベントなどへの大規模なインフラ投資が必要とされた。資本蓄積のこうした現場は今では暗礁に乗り上げている」と指摘している。ハーヴェイは、「現代の資本主義経済の七割あるいは八割方でさえも牽引しているのは消費である」にもかかわらず、「現代資本主義の最先端モデルの消費様式は、その多くが現状では機能できない」という。その結果が、これだ。

 

新型コロナウィルス感染症を根底にして、大波乱どころか、大崩壊が、最富裕国において優勢な消費形態の核心で起きている。終わりなき資本蓄積という螺旋形態は内に向かって倒壊し、しかもそれは世界の一部地域から他のあらゆる地域へと広がっている。

 

この新型コロナウィルス肺炎のパンデミックは、「新しい労働者階級」を顕在化させる。ハーヴェイを含めた「有給職員(サラリーマン)は在宅で勤務し、以前と同じ給与を得る」。そして「CEO(最高経営責任者)たちは自家用ジェット機やヘリコプターで飛びまわっている」。しかし、確実に、「供給上の主要機能(食料品店など)の継続や介護の名において感染を被るか、何の手当(たとえば適切な医療)もなく失業するか、そのいずれか」を迫られる「新しい労働者階級」ー特に民族・性別で差別されている人々ーが顕在化したと、ハーヴェイはいうのである。

ハーヴェイは「現代型消費様式は過剰なものに転化していたが、それによってこの消費様式は、マルクスの述べた「過剰消費、狂乱消費」に近づいていたのであり、「これは奇矯・奇怪なものになり果てることで」体制全体の「没落を示」していた」という。その大きな現れが「環境劣化」なのである。このブログと同様に、ハーヴェイもまた、都市封鎖ーロックダウンによって大気汚染などが改善したことを評価し、「見境なく無意味な過剰消費嗜好が抑え込まれることによって、長期的な恩恵ももたらされうる」としている。

他方で、ハーヴェイは、現状の経済危機を克服するためには「経済的にも政治的にも有効になりうる政策は、バーニー・サンダースの提案以上にはるかに社会主義的であり、しかもこれらの救済計画がドナルド・トランプの庇護のもとでーおそらく「アメリカを再び偉大にする」との仮面のもとでー着手されなければならない」と主張している。これは、ポストコロナ世界の危機と可能性をともに示しているといえる。ハーヴェイは「実行しうる唯一の政策が社会主義的であるとするなら、支配的寡頭制は間違いなくこの政策を、民衆のための社会主義ではなく、国家社会主義に変えようと行動を起こす。反資本本主義運動の任務は、その行動を阻むことにある」と結論づけている。

新型ウィルス肺炎のパンデミックへのハ―ヴェイの見方は、新自由主義的に編成された世界資本主義への「自然」からの「復讐」としてとらえているといえる。それゆえ、この危機からの脱却は、単に、それまでのー2020年以前のー世界に復帰することとして考えてはいない。むしろ、この新型ウィルス肺炎のパンデミックがそれまでの新自由主義的な世界資本主義をなんらかの意味で変えていくことを想定している。環境悪化に結果する消費様式の見直しや、社会主義的な政策の必要性などがそれに該当しよう。

このような見方は、同じ雑誌(『世界』6月号)に掲載された哲学者スラヴォイ・ジジェクの「人間の顔をした野蛮がわたしたちの宿命なのかーコロナ下の世界」でも共有されている。ジジェクは、都市封鎖ーロックダウンに反対するジョルジョ・アガンベンに抗して、都市封鎖ーロックダウンをある程度評価したが、その際、環境改善や社会主義など「ラディカルな社会変化」が必要であることも論拠にあげていた。

次回以降は、都市封鎖ーロックダウンの是非をめぐって行われた、アガンベンとジジェクを中心とする論争をみていこう。

 

 

 

 

 

 

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さて、つい最近、福島第一原発事故で避難指示が出されていた川内村でも、10月1日に解除する方針が政府から示された。その方針を説明した8月17日の説明会の景況について、まず、毎日新聞のネット配信記事でみておこう。

避難指示解除へ:福島・川内村の住民は猛反発
毎日新聞 2014年08月17日 23時05分

 「帰還が決まっても子供は戻れない」「通院や買い物はどうするのか」。東京電力福島第1原発事故で避難区域が設定された福島県内11市町村のうち、2例目の避難指示解除が決まった川内村東部。政府の方針が伝えられた17日の住民懇談会では、放射線への不安を抱えていたり、精神的賠償の打ち切りを懸念したりする住民から、反発の声が相次いだ。

東日本大震災:福島第1原発事故 処分場撤回求め環境省に意見書 18日、塩谷町長ら /栃木
 懇談会の冒頭、政府の原子力災害現地対策本部長の赤羽一嘉・副経済産業相は「避難指示は極めて強い制限。解除の要件が整えば、憲法で保障される居住や財産の権利を侵害し続けることができない」と強調し、集まった住民約75人に理解を求めた。

 これに対し、賛同する意見はゼロ。約1時間半に及ぶ質疑応答で住民から「食品の安全にも不安がある」「住民の被ばく線量をきちんと管理できるのか」などの質問が次々と出て、政府側は「国際的に一番厳しい基準を設けている」などと答弁に追われた。行政区長の草野貴光さん(61)は政府に「原発事故で地域や家族がバラバラになった。避難区域全体が元に戻らなければ、帰還できないという人も多い」と訴えた。

 住民からは政府の解除決定の賛否について、住民の採決を求める声も上がったが、政府側は住民間の亀裂が深まることなどを理由に応じなかった。栃木県に避難中の女性(59)は懇談会終了後、「帰りたいのに帰れない子どもを持つ世代がいることにも理解を示してほしい」と話した。

 川内村は2012年1月、避難区域で初の「帰村宣言」をし、7社の企業誘致など先駆的な復興事業に取り組んできたことで知られる。【深津誠】
http://mainichi.jp/select/news/20140818k0000m040108000c.html

この記事を読んで、非常に奇異な思いにかられた。この説明に集まった人たちは、もちろん、対象地域住民全員ではないだろう。しかし、それでも、賛同者は「ゼロ」だったということで、その場にいた当事者たる住民たちは、現状において帰還を促進されることを一人も望んでいないのである。

しかし、政府側の担当者である赤羽一嘉・副経済産業相は「避難指示は極めて強い制限。解除の要件が整えば、憲法で保障される居住や財産の権利を侵害し続けることができない」と述べて、避難指示解除の必要性を説いたのである。当事者たちの望まない決定の正当性を、その当事者たちの権利保障に求めたのである。

前述したように、この場には出ていないが、避難指示を解除して早期に帰還することを望んでいる住民はいるだろう。そういうこともあるので、住民からは「採決」をすることを提案した。しかし、それすら認められなかったというのである。

結局、この説明会場では、当事者たる住民が一人も賛成せず、採決もしないまま、その人びとの「権利保護」を名目にして、避難指示の解除が政府によって「宣言」されたのである。

このような転倒した状況は、たぶん、福島県川内村だけでなく、たぶん原発問題にすら限定されたものではないだろう。例えば、「新自由主義」のもと、さまざまな労働規制の「自由化」がなされ、それは労働者自身のよりよき「雇用」につながるとされている。資本側に有利になるような措置が、労働者側の「幸福」になるということが「自由」の名の下で正当化されている。共通した構図がみてとれよう。

福島第一原発事故は、単に「原発問題」というだけにとどまるものではない。この事故によって、日本社会全体がかかえている問題が照射されているのである。

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    STAP細胞問題の社会的バックグラウンド

現在、理化学研究所所属の研究員で早稲田大学で博士号を取得した小保方晴子を中心として発表したSTAP細胞ー刺激惹起性多能性獲得細胞問題が大きな議論を巻き起こしている。1月29日、小保方らは、イギリスの科学誌『Nature』に、STAP細胞についての論文掲載が決定したことを記者会見で発表した。再生医療などへの利用が見込まれる多能性獲得細胞としては、すでにiPS細胞ー人工多能性幹細胞があり、その開発者である山中伸弥京都大学教授はノーベル賞を受賞している。そのような期待とともに、中心的な研究者である小保方晴子がまだ若い30歳の女性であることとあいまって、発表当時は、大きな好意的反響をよんだ。

しかし、その後、他機関でのSTAP細胞再現実験が成功しない中で、小保方個人の研究者としての資質、さらに小保方らの研究成果自体への疑惑がインターネットなどで深まっていった。

大きくいえば、2つのことが指摘されている。まず、小保方晴子は2011年3月に早稲田大学で博士(工学)号を取得したが、その博士論文「三胚葉由来組織に共通した万能性体性幹細胞の探索」において、既存の文章を引用と明記せず、そのまま載せているということである。具体的にいえば、冒頭部分の約20ページ分の文章が、アメリカ国立衛生研究所のサイト「Stem Cell Basics」からの文章をそのままコピーアンドペーストしているとされ、参考文献紹介も他者のそれを使い回しているという。また、その中で使われている画像も別の企業が出したものをそのまま使っているのではないかという疑惑がもたれている。早稲田大学は、小保方晴子の博士号取得について検証をすすめる意向を示した。

他方で、今回の小保方などが発表した『Nature』掲載論文自体にも疑問符がつけられている。この論文の中でも、実験の手順を記した部分の一部が過去の研究のコピーアンドペーストであるのではないかと疑われている。また、実験の成果として出されている画像の一部が切り貼りなどで加工されており、さらには、別のテーマを扱っている博士論文の画像が使い回されていることも指摘されている。画像の加工については、小保方自身が「やってはいけないことという認識がなかった」と話しているそうである。そして、現在(3月27日)、共同研究者若山照彦山梨大学教授がSTAP細胞作成のためマウスの細胞を提供したが、そこから発生させたのではない細胞をSTAP細胞として提供した疑惑も浮上している。理化学研究所は論文の不備を認め、3月14日に小保方を含む論文執筆者全員に論文撤回をよびかけた。

この問題は、小保方晴子個人や、それに直接関わった研究者や教育研究機関(早稲田大学・理化学研究所・ハーバート大学など)固有の問題と考えられがちである。もちろん、直接に関わった個人や機関が直接の責任を負わなくてはならないのは当然である。そして、対処療法としては、個別の問題への対応が中心になるだろう。しかし、この問題について、個別の議論を離れてみてみると、現時点での日本の学術研究政策の失敗が、如実に現れていると思われる。

    研究者養成の博士号取得者倍増政策の失敗

まず、研究者小保方晴子の養成について、近年の博士号取得者倍増政策の観点からみておこう。現在、ハーバード大学にて食事や遺伝子と病気に関する基礎研究に従事している医学博士の大西睦子は、3月17日、国際情報サイト「フォーサイト」において、STAP細胞問題について一通り紹介したうえで、次のように述べている。

■博士号を“乱発”してきた日本

 そもそも、米国と日本では、博士号の品質が大きく異なります。2011年4月20日付 の『Nature』誌に、日本を始め中国、シンガポール、米国、ドイツ、インド、など世界各国の博士号の問題点が論じられています。

【The PhD factory,Nature,April.20.2011】

 その中で、日本の博士号のシステムは危機に陥っていて、すべての国の中で、日本は間違いなく最悪の国のひとつだと書かれています。1990年代に、日本政府が、ポスドク(博士号を取得した後、常勤研究職になる前の研究者のポジション)の数を3倍の1万人に増やすという政策を設定しました。その目標を達成するために、博士課程の募集を強化したのです。なぜなら、日本の科学のレベルを一刻も早く 欧米と対等にしたかったからです。その政策で確かに 人数だけ は増えましたが、大学などのアカデミアでは、地位につける人数に制限がありますし、企業の就職には年齢の制限があるため、逆に、 ポスドクの最終的な職場がみつからないという状況に陥りました。さらに、博士号を取得する研究者 の質も低下しました。

 日本の場合、ほとんどの学生が、修士号取得後のわずか 3、4年で博士号を取得して卒業します。いわば、博士号の“安売り”とも言える状況です。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140317-00010000-fsight-soci

このように、1990年代以降、日本は政策的に博士を3倍にする政策に乗り出したのである。しかし、博士の就職先は確保しなかった。博士課程在籍者は増えたのであるが、大学教員の増員など研究指導体制の強化ははかられなかったのである。そのため、一般的に、それぞれの博士課程在籍者への研究指導は弱体化し、博士号取得者の研究者としての質が低下することになった。他方、数としては増えた博士号取得者の就職難は、それ以前より競争によって激化することになったのである。

もちろん、この問題については、小保方個人やそれに関わった教育者、さらには、在籍した早稲田大学や留学先のハーバート大学の固有の問題も大きく影響しているだろう。また、理系と文系との違いもあるだろう。しかし、いくらなんでも、公開論文において、引用を明記せずに記載すれば、「盗用」の指摘は免れえない。そして、研究指導というものは、学部段階、修士段階、博士段階を通じて、そのような論文の作法を学んでいくものでもあるのだ。このことは、教育研究の失敗である。そして、その背景として、博士課程入学者を倍増したにもかかわらず、大学教員などの教育研究スタッフを増員しなかった政策自体を問題にしなくてはならないのである。

    大学・研究機関における「競争主義」の高唱と学術研究体制の弱体化

他方で、幸運にも大学や研究機関に入ることができた研究者たちには、「成果」を競争しあうことが強制されている。鈴鹿医療科学大学学長であり、前国立大学財務・経営センター理事長、元三重大学学長であった豊田長康は、自身のブログの中で、主に国立大学を対象としながら、次のように述べている。

2004年から実施された国立大学法人化は、わが国における第二次世界大戦後の大学改革以来の大きな制度改革であるとされている。各大学には文部科学大臣が定めた中期目標を達成するための中期計画・年度計画の策定が求められ、その達成度が評価されることになった。予算面については中期目標期間(6年間)内については年度を超えた繰り越しが認められ、運営費交付金の学内配分が各大学の裁量で可能となった。また、ガバナンスの面では、学長と役員会の権限が強化されるとともに、経営協議会が設けられて外部委員が参画することとなり、監事制度も導入された。会計面では、民間の会計制度を参考にした国立大学法人会計制度が導入された。

ただし、運営費交付金については効率化係数がかけられ、総体としては年約1%程度の率で削減されることとなった。なお、法人化と交付金の削減は、制度上は必ずしも連動するものではないと説明されているが、現在までのところ国立大学法人の運営費交付金は削減され続けている。また、附属病院建設に伴う債務償還の補てんという意味合いを持つ“附属病院運営費交付金”については、法人化第1期において経営改善係数により急速に削減された。なお、法人化第2期には“附属病院運営費交付金”という区分は無くなった。

また、運営費交付金の種別については、主として職員の人件費や経常的な運営費等に使われる基盤的な運営費交付金が削減される一方で、国の定めるプロジェクトを競争的に獲得する運営費交付金が確保され、また、高等教育予算の中に国公私立大学が競争的に獲得する教育研究資金が確保された。

法人化によって、目標設定と評価によるマネジメント、競争原理の導入、ある程度の現場への裁量権の付与と民間的経営手法の導入、学長の権限強化と監視機構の導入等といった制度改革がなされ、それに伴い、各大学において様々な教学および経営面での改善・改革がなされ、今日に至っている。

法人化の大きな目的の一つは、国立大学の機能強化を図ることであると考えられるが、一方、経営の効率化も同時に求められている。基盤的な運営費交付金の削減は、この効率化に対応する政策であると考えられる。

しかし、運営費交付金の削減が、各大学の経営効率化の努力によってカバーできる範囲であれば大学の機能は低下しないが、その範囲を超えると機能が低下する。現在、少なくとも国立大学の研究機能については、運営費交付金の削減が、法人化によって期待される効率化を超えて“機能低下”を招いている状況であると推測される。

国立大学は、わが国の学術論文数の生産において大きな割合を占めているセグメントであり、その機能低下がわが国全体の学術論文数の停滞~低下を招き、その結果、世界の主要国が学術論文数を増やしている中で、わが国の研究面での国際競争力の急速な低下を招いているものと推測される。http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/2be2f339579a29b5f6bff219c24c45f5

豊田の主張は、国立大学法人化の中で、運営費交付金が減額されていくことで、学術研究体制が弱体化していっているということである。そして、その中で、競争的に獲得される教育研究資金が導入されていくことになるが、結局、そのように競争を強いても、学術研究体制の弱体化は免れないのである。結果として豊田は次のように指摘している。

また、主要15か国の比較では、日本以外の先進国が軒並み増加を示し、また、中国を初めとする新興国が急速に学術論文数を増加させているのとは対照的に、唯一日本だけが停滞~減少を示している。論文数については2001~04年にかけて、日本はアメリカ合衆国に次いで2番目の多さであったが、それ以後、イギリス、ドイツ、中国に追い抜かれ現在5番目となっている。
(中略)
これらのデータは、日本の学術論文数減少が、政治状況に大きな問題のある国以外には見られない、日本だけに起こった世界的に見て極めて特異な現象であることを示すものと考えられる。
(後略)
http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/3941ddc676f2625ee80c977d6740b448

以上より、日本は論文の数ばかりではなく、注目度(質)についても国際競争力が低下しており、特にイノベーションの潜在力を反映すると考えられる高注目度論文数(質×量)の国際順位が下がっていることは、今後の日本経済の国際競争力にも暗雲を投げかけるものと考える。
http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/f74e2e58c6531dc71ee8c19e772f4821

このような観点から、科学技術指標2013のデータにもとづき人口当りのTop10%補正論文数を計算し、その国際比較を示した。日本は科学技術指標2013にあげられている主要国の中では台湾、韓国に次いで21番目となっている。欧米諸国は日本の約2~10倍産生しており、台湾は日本の1.9倍、韓国は日本の1.4倍産生している。現在、日本の論文産生が停滞~減少していることから、この格差は今後さらに拡大すると想定される。
(中略)
このように、日本は先進国として、人口あるいはGDPに見合った論文数を産生しておらず、新興国と同じレベルになっている。今後、学術論文産生の停滞~減少状況が続けば、日本の順位はさらに低下し、イノベーションの「質×量」で他国を上回らなければ資源を購入できない国家としては、10~20年先の将来が危ぶまれる状況であると思われる。
http://blog.goo.ne.jp/toyodang/e/fd1b54eb1b8c903b2ff01b38a229ee77

数字や立論の検証については、上記ブログをみてほしい。豊田は、現時点において、日本の学術論文が数的にも停滞もしくは減少しており、注目度も下がっていると主張しているのである。「競争主義」が高唱される中で、日本の学術研究体制自体が、世界に比較して弱体化していることは、単に、国立大学だけでなく、日本全体に通底する問題であるといえよう。

    競争を強いられた理化学研究所とSTAP細胞問題

このような競争主義は、独立行政法人である理化学研究所も同じである。例えば、毎日新聞は、次のような報道をしている。

特集ワイド:巨額研究費、理研が落ちた「わな」 予算の9割が税金 iPS細胞に対抗、再生医療ムラの覇権争い
毎日新聞 2014年03月19日 東京夕刊

 「科学者の楽園」と呼ばれる理化学研究所(理研)は税金で運営される独立行政法人だ。新たな万能細胞「STAP細胞(刺激惹起(じゃっき)性多能性獲得細胞)」の研究不正疑惑が理研を激しく揺さぶっている。カネの使われ方から問題の背景を読み解く。【浦松丈二】

 寺田寅彦、湯川秀樹、朝永振一郎……。日本を代表する科学者が在籍した理研は日本唯一の自然科学の総合研究所だ。全国に8主要拠点を持ち職員約3400人。2013年度の当初予算844億円は人口20万人程度の都市の財政規模に匹敵、その90%以上が税金で賄われている。

 予算の3分の2を占めるのが、理研の裁量で比較的自由に使える「運営費交付金」。STAP細胞の研究拠点である神戸市の理研発生・再生科学総合研究センター(CDB)には年間30億円が配分される。研究不正の疑いがもたれている小保方(おぼかた)晴子・研究ユニットリーダーは5年契約で、給与とは別に総額1億円の研究予算が与えられている。

 英科学誌「ネイチャー」に掲載されたSTAP細胞論文の共著者、笹井芳樹CDB副センター長は、疑惑が大きく報じられる前の毎日新聞のインタビューで「日本の独自性を示すには、才能を見抜く目利きと、若手が勝負できる自由度の高い研究環境が必要」と語り、この10年で半減されたものの運営費交付金がSTAP細胞研究に「役立った」としている。理研関係者によると、小保方さんに「自由度の高い」研究室を持たせ、大がかりな成果発表を主導したのは笹井さんだった。

 「万能細胞を使った再生医療分野には巨額の政府予算が投下されている。そのカネを牛耳る“再生医療ムラ”内には激しい予算獲得競争、覇権争いがある」と指摘するのは近畿大学講師の榎木英介医師だ。学閥など医療界の裏を暴いた「医者ムラの真実」の著書がある。失われた人間の器官や組織を再生することでドナー不足や合併症などの解消が期待される再生医療分野に対し、政府は13年度から10年間で1100億円を支援することを決めている。

 榎木さんは言う。「現在、政府予算の大半がiPS細胞(人工多能性幹細胞)の研究に回されています。顕微鏡1台が数百万円、マウス1匹でも数千円から特殊なものでは万単位になる。予算が獲得できなければ研究でも後れを取ってしまう。追いかける側の理研の発表では、山中伸弥京都大教授が生み出したiPS細胞に対するSTAP細胞の優位性が強調され、ピンク色に壁を塗った小保方さんのユニークな研究室内をメディアに公開するなど、主導権を取り戻そうとする理研の並々ならぬ意欲を感じた」

 笹井さんはマウスのES細胞(胚性幹細胞)から網膜全体を作ることに成功した再生医療分野の著名な研究者。榎木さんは「山中教授がiPS細胞を開発するまでは、笹井氏が間違いなくスター研究者だった」と言う。だが、iPS細胞が実用化に近づいたことで、笹井さんら“非iPS系”研究者の間では「埋没してしまうのでは」との危機感が高まっていたといわれる。

 「こうした競争意識が理研の“勇み足”を招いたのではないか」(榎木さん)

 霞が関でも研究予算を巡ってのせめぎ合いが繰り広げられている。「民主党政権時代がそうだったが、本来の『国立研究所』は不必要だ、第1級(の研究レベル)でなくても2級3級でいいというのであればそれまでだ。しかし、必要だというなら現在の独立行政法人制度では全く不十分だ。手をこまねいていては欧米の一流研究所を超えることはなく、躍進する中国の国営研究所に一挙に追い抜かれるだろう」。昨年10月23日、中央合同庁舎4号館の会議室でノーベル化学賞受賞者の野依良治・理研理事長が熱弁をふるった。世界に肩を並べる研究開発法人創設についての有識者懇談会で意見を求められたのだ。トップレベルの研究者に高額の報酬を支払えるようにしたい、それには法律で給与などを細かく定められた独立行政法人の枠組みから出なければ−−との訴えだ。

 実際、米ハーバード大学など一流大学の教授年収は約2000万円。世界トップレベルの研究者で5000万円を超えることは珍しくない。一方、理研の常勤研究者の平均年収は約940万円。これでは優秀な頭脳が海外に流出したとしても責められまい。

 「科学者に科学者の管理ができるのか」。財務省関係者からはそう不安視する声が聞かれたが、理研関連の来年度予算編成が大詰めを迎えた1月末、理研はSTAP細胞論文を発表。政府は早速、理研を「特定国立研究開発法人」の指定候補にすることを発表し、野依理事長の訴えは実りかけた。ところが、論文に画像の使い回しや他論文からの無断転載が相次いで見つかり、政府は閣議決定するまでの間、理研の対応を見極める方針だ。指定の「追い風」として期待されたSTAP細胞は逆に足かせになってしまったのだ。

 有識者懇談会委員の角南(すなみ)篤・政策研究大学院大学准教授は「チェック体制は制度改革の論点の一つで、そこがクリアできないなら理研の新法人指定は簡単ではない」と言う。「研究不正疑惑はいつでもどこでも起き得る問題だが、この時期に新制度の旗振り役である理研で起きてしまったことが、科学技術振興を成長戦略の柱と位置付ける政権の推進力に悪影響を及ぼさないことを願いたい」
 (後略) 
http://mainichi.jp/shimen/news/20140319dde012040002000c.html

まず、理化学研究所も、一般の国立大学同様、運営費交付金が減額されていることに注目しておきたい。理化学研究所のサイトに掲載されている年度計画の各年度予算によると、2005年度に運営費交付金が711億200万円であったが、それ以降次第に減額されて、2013年度は553億3000万円となっている。しかし、予算総額は2005年度が867億6900万円から2013年度には905億3900万円となっている。このように、一般的経費にあてられる運営費交付金が減額される中で、それまでの研究費を確保するためには、競争的資金を導入せざるをえなくなっているのである。そして、再生医療の分野において、理化学研究所側は、京都大学教授山中伸弥のiPS細胞開発に遅れをとっていた。そこで、注目されたのが、小保方晴子の提唱していたSTAP細胞だったといえるのだ。理化学研究所は、小保方晴子を採用し、多額の研究費を与えたのは、そのような意図であったと思われる。

しかし、結局のところ、小保方の研究においては、研究成果の「証拠」である画像そのものに疑惑がもたれることになった。これが意図的であるかどうかははっきりしない。そもそも「画像の加工」自体に「やっていけないことという認識がなかった」という小保方に、どれほどの責任意識があるのかとも思う。だが、小保方は、いうなれば理化学研究所の期待に応えようとしていたともいえるのだ。競争主義にさらされ、「成果」をあげることが一般的に強制されており、その中で、「成果」をデコレーションしようという誘惑にかられることは研究者個人としてあり得るだろう。短期間に「成果」をあげないと研究者自身が職を失うことになるのである。

他方で、「成果」をあげたとする研究について、競争状態に置かれている理化学研究所側も、短期に発表し、特許などの優先権を確保し、予算を獲得したいという意識がはたらき、研究をチェックしようという意識が減退していくことも容易に想像できる。少々問題があっても、追試に成功すればよいということになるのだ。これは、理化学研究所の問題であるが、競争を強いられている日本全体の大学・研究機関のどこでも起こりうることなのである。競争主義の高唱がもたらす日本の学術研究体制の弱体化の象徴といえるだろう。

    安倍政権の新成長戦略に打撃を与えたSTAP細胞問題

さて、前述の毎日新聞の記事は、政府の新成長戦略の一環としての科学技術振興政策に、今回の問題が打撃を与える可能性を指摘している。より、直接的に産経新聞が下記のように報道している。

STAP論文 中間報告 出はなくじかれた新成長戦略
産経新聞 3月15日(土)7時55分配信

 政府は、「STAP細胞」の論文を発表した小保方晴子・研究ユニットリーダーが所属する理化学研究所の改革を、安倍晋三政権が重視する6月の新成長戦略の一環と位置付けていた。だが、今回の事態を受けて、理研を軸に描いていた技術立国構想は出はなをくじかれる形となり、第3の矢の成長戦略にも影を落としそうだ。

 政府の総合科学技術会議(議長・安倍首相)は12日、世界最高水準の研究を目指す新設の「特定国立研究開発法人」(仮称)の対象候補を、理研と産業技術総合研究所に決めた。だが、正式な決定は見送られた。政府関係者によると、論文の疑惑が浮上する前は、同日の会議で正式決定の運びだったという。

 小保方氏がSTAP細胞の存在を発表すると、政府は世界的なニュースとして歓喜した。首相は1月31日の衆院予算委員会で「若き研究者の小保方さんが柔軟な発想で世界を驚かせる万能細胞を作り出した」と称賛。下村博文文部科学相は同日の記者会見で「将来的に革新的な再生医療の実現につながりうる」と述べ、理研をはじめ基礎研究分野への予算配分強化の方針を打ち出した。

 14日、菅義偉(すが・よしひで)官房長官は記者会見で「理研は国民に一日も早く結果を示す必要がある」と述べるにとどめ、理研の対応を見守る方針だ。山本一太科学技術担当相は記者会見で「関心を払わずにはいられない。しっかり意見も言っていかなければいけない」と指摘した。

 政府としては、新成長戦略の当てが外れることになりかねないばかりか、論文に故意の不正があったと判断されれば、組織体制をただすなど理研に厳しい対応を取らざるを得ない場面も想定される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140315-00000093-san-soci

いうなれば、安倍政権は、新成長戦略の柱の一つに科学技術の振興をあげ、そのため、「特定国立研究開発法人」に理化学研究所を指定しようとしていた。つまりは、「競争主義」において「成果」を出したものたちを、これまで以上に優遇しようとしていたのである。しかし、その「成果」とは何だったのだろうか。STAP細胞問題は、安倍政権の新成長戦略の柱も揺るがすことになったのである。

だが、結局、それは必然的であったのだと思う。博士号取得者の倍増、競争的資金の導入、「成果」至上主義は、競争こそが進歩であるという新自由主義的な思い込みから出発したといえる。もちろん、ある程度、成果を出す競争にさらされるほうが効率的な研究分野もあるだろう。しかし、学術研究とは、単に「有効性」を早期に成果として出すだけのものではない。そもそも、文系・理系を問わず、学術研究とは、自らの主体を含めた「世界」とはどのようなものであり、どのような仕組みで成り立っているのかを問うでもあるのだ。そして、学術研究の「有効性」も、上記のような問いに支えられているのである。近視眼に「成果」を求めて競争させることを至上にした、近年の学術研究政策の失敗を象徴するものがSTAP細胞問題であったと考えられるのである。このように失敗した学術研究政策に立脚したのが、安倍政権の新成長戦略の一環としての科学技術振興であったといえよう。

追記:小保方晴子個人やSTAP細胞の概略については、Wikipediaの当該記事を参考とした。

 

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前回、東京大学法学部教授長谷部恭男が、どのような理由で特定秘密保護法案に賛成しているかを紹介した。ここでは、長谷部の『憲法とは何か』(岩波新書、2006年)を手がかりにして、そのようなさん賛成論の背景にある憲法観をみていきたい。

まず、この本を一読すると、多くの人は自民党などの改憲論を批判したものとして受け取ることと思われる。実際、確かに明示的に憲法を改正することについてこの本では批判している。そのため、なぜ、改憲を志向すると考えられる安倍政権によって推進されていた特定秘密保護法案に長谷部が賛成したのかと疑問を持った方もおられると思われる。ただ、今回では、長谷部の改憲論批判は別の機会にまわすこととし、とりあえず、この本で長谷部が展開している憲法論を私なりに理解していきたい。

長谷部にとって、立憲主義とは、互いに相違し矛盾しあう多様な価値観を信奉しあう人たち同士の対立をおさえ、多様な価値観を認めて共存する社会を作り上げる仕組みとして、まず認識されている。そのためには、まず、社会を私的領域と公的領域に分離しなくてはならないのである。その上で、私的領域においては、人びとがそれぞれの価値観に基づいて、自由に生きることが保障されるべきだと考えている。

さて、問題は公的領域である。公的領域においては、特定の価値観・世界観が独占して、対立する価値観を駆逐するようなことをさけなくてならない。そのことについて、長谷部は、ハーバーマスの「公共性」概念を批判しながら、このように言っている。

筆者は討議が公共の利益について適切な解決を示すには、論議の幅自体が限定されることが必要であるとの立場をとっている。逆にいうと、社会全体の利益に関わる討議と決定が行われるべき場(国・地方の議会や上級裁判所の審理の場が典型であろう)以外の社会生活上の表現活動では、そうした内容上の制約なく、表現の自由が確保されるべきである。(本書p77)

長谷部によれば、マス・メディアの報道の自由、批判の自由は、一般の表現の自由と違って「生まれながらにして」保障されるものではない。政治的プロセスがよりよく果されるために保障されているとしている。その意味で、報道の自由というものは、長谷部によれば、公的領域に属しているといえる。それゆえ「論議の幅自体が限定される」ことも、長谷部の発想からいえばありうることであろう。

もちろん、長谷部の考えから離れていうならば、公的領域も、本来、国民主権を前提とするならば、その決定プロセスに対する関与が保障されるべきであり、その意味で情報も最大限保障されるべきということもいえるだろう。しかし、そういう考えは、長谷部のものではない。長谷部にとって、現状の議会制民主主義が前述の立憲主義を成立させる上で最善のものである。そして、この議会制民主主義の対抗物として、ファシズムと共産主義をあげている。この二つは、両者とも、議会における討議を通じて公益をはかることを否定し、「反論の余地を許さない公開の場における大衆の喝采を通じた治者と被治者の自同性を目指す」(本書p46)とし、さらに、そのことを通じて国民の同一性・均質性が達成されるとしている。そして、この二つの体制について「直接的な民主主義を実現しうる体制」とするシュミットの見解を紹介している。しかし、長谷部にとって、「直接的な民主主義」によって国民の同一性・均質性が強制され、国民の多様性が破壊されることが、立憲主義の破産を意味するといえる。その意味で、「直接的な民主主義」は、長谷部にとって、制限されなくてはならないものといえる。

このような憲法論が、特定秘密保護法案への長谷部の賛成意見の背景にあったといえる。彼にとって、公的領域における論議の幅は制限すべきものであった。それには、議会制民主主義が最適であり、ファシズムにせよ、共産主義にせよ、これらの「直接的な民主主義」は、立憲主義の原則から排除されるべきものであった。特定秘密保護法案反対論の背景には、情報を最大限公開して、主権者である国民についても、政治的プロセスに参加させるべきという考えがあるといえるが、長谷部は、全く、そう考えないのである。報道の自由、批判の自由は、表現の自由などとは別の次元に属すものであり、公的領域での政治プロセスをよりよく機能させるものなのである。長谷部が特定秘密保護法案に賛成した背景として、以上のようなことが指摘できよう。

長谷部の議論を読みながら思ったことだが、長谷部の中には、「民衆」への恐れと蔑視があるといえる。彼にとって、「直接的な民主主義」とは、ファシズムか共産主義という「全体主義」をめざすものでしかない。長谷部にとって、「多様な価値観」で共生することを保障するものは「議会制民主主義」でしかない。民衆の政治参加は、結局「喝采」にとどまってしまうのである。特定秘密保護法案については、法の内容も、制定経過も、民意無視としかいえないのであるが、そのような民意による政治への介入は抑制しなくてはならないとする長谷部にとっては、あれでも「正常」なのであろう。

他方、公的領域と私的領域を分けるという長谷部の議論についても、問題をはらんでいる。私的領域における自由の獲得も、公的領域での議論と当然ながら関連していたといえる。現状の私的領域での自由も、公的領域における戦い(イギリス革命、アメリカ革命、フランス革命、自由民権運動など)によって得られたものである。例えば、表現の自由は、別に私的領域の中でのみ問題にされていたわけではない。公的領域における報道・批判の中でむしろ成長していったものといえる。そして、現状でも、報道の自由と表現の自由は相関連しているのである。

そして、私的個人の問題も、公的領域に無関係ではない。例えば、生活保護にしても、年金にしても、介護保険にしても、その当事者個人にとっては死活問題である。ブルジョワ民主主義の黎明期のイデオロギーである「公私」の問題は、もちろん、現状においても重大な問題であるが、単純に公私分離を固定して考えるべきことではないといえる。

ただ、逆にいえば、新自由主義の時代に適合的な議論ともいえる。長谷部は、フィリップ・ハビットの見解を紹介して、このように述べている。

 

国家の置かれた状況の変化は、国家目標にも影響すると考えるのが自然であろう。ハビットは、国民総動員の必要性から解放された冷戦後の国家は、すべての国民の福祉の平等な向上を目指す福祉国家であることを止め、国民に可能な限り多くの機会と選択肢を保障しようとする市場国家(market state)へと変貌すると予測している。そうした国家は、社会活動の規制からも、福祉政策の場からも撤退をはじめ、個人への広範な機会と選択肢の保障と引換えに、結果に対する責任をも個人に引き渡すことになる。(本書p56)

福祉国家の時代では、私的個人の生存も公的領域ではかるべきとされていたといえる。まさに、新自由主義における福祉政策や社会活動への規制の撤廃は、私的個人の生存を公的領域ではかろうとする営為を否定するもので、公的領域と私的領域をより切り離すことになろう。こうなってみると、立憲主義の前提として長谷部が考えている「公私分離」は、新自由主義によって達成すべき目標ともいえるだろう。このように、長谷部の「特定秘密保護法案」への賛成意見の背景には、多くの重大な問題があるのである。

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2012年11月17日、来る総選挙をにらんで、太陽の党の石原慎太郎と日本維新の会の橋下徹が合併で合意し、次のような合意文書を発表した。

維新・太陽、TPP・原発・尖閣など8項目で合意文書

 石原慎太郎、橋下徹両氏が17日署名した合意文書の内容は次の通り。
     ◇
 「強くてしたたかな日本をつくる」

 【1】 中央集権体制の打破

 地方交付税廃止=地財制度廃止、地方共有税制度(新たな財政調整制度)の創設、消費税の地方税化、消費税11%を目安(5%固定財源、6%地方共有税《財政調整分》)

 【2】 道州制実現に向けて協議を始める

 【3】 中小・零細企業対策を中心に経済を活性化する

 【4】 社会保障財源は、地方交付税の廃止分+保険料の適正化と給付水準の見直し+所得税捕捉+資産課税で立て直し

 【5】 自由貿易圏に賛同しTPP交渉に参加するが、協議の結果国益に沿わなければ反対。なお農業の競争力強化策を実行する

 【6】 新しいエネルギー需給体制の構築

 原発(1)ルールの構築(ア)安全基準(イ)安全確認体制(規制委員・規制庁、事業主)(ウ)使用済み核燃料(エ)責任の所在(2)電力市場の自由化

 【7】 外交 尖閣は、中国に国際司法裁判所への提訴を促す。提訴されれば応訴する

 【8】 政党も議員も企業・団体献金の禁止

 個人献金制度を拡充

 企業・団体献金の経過措置として党として上限を設ける
http://www.asahi.com/politics/update/1117/OSK201211170054.html

両党の合併について、新聞などのマスコミや民主党・自民党などは、実質的な政策合意の野合と批判している。全体ではそういう印象がある。 TPPについて、原発について、石原・橋下の隔たりは大きい。

しかし、それほど、単純に「野合」のみと決めつけてよいのだろうか。その点で、もう少し、この「合意文書」を内在的に検討してみたい。

この「合意文書」の第一項は「中央集権体制の打破」とされている。しかしながら、中央の官僚機構の改革ではなく、実際にあげていることは「地方交付税廃止=地財制度廃止、地方共有税制度(新たな財政調整制度)の創設、消費税の地方税化、消費税11%を目安(5%固定財源、6%地方共有税《財政調整分》)」である。つまり、地方自治体の財政基盤の一つである地方交付税制度を廃止し、その代わりに消費税を11%として、消費税全体を地方税とし、5%を「固有財源」(消費税課税地の自治体の財源になるということだと思われる)とし、6%を「地方共有税」分として、自治体間の財政調整に使うということである。

そして、このような地方財政制度の「改革」を前提にして第二項の「道州制」を展望しているのである。

他方で、廃止された地方交付税分の収入は、社会保障支出にあてるとされている。もちろん、「保険料の適正化と給付水準の見直し」「所得税捕捉」「資産課税」という、給付水準の減額と負担増も伴うこととされている。

そのことを、現在の国家財政からみておこう。

平成23年度一般会計予算(2次補正後)の概要

平成23年度一般会計予算(2次補正後)の概要


http://www.zaisei.mof.go.jp/num/detail/cd/2/

現状の財政からいえば、地方交付税は一般会計歳出の約18.4%(17兆4300億円)を占めている。この地方交付税を社会保障費(27.9%)にまわす。そして、消費税を11%にあげ、それで得られた税収(現状が10兆1000億円なので、約20~22兆円程度になるだろう)を「地方税」とする。一見帳尻はあうだろう。

しかし、問題は、この合意のように消費税11%を、固有財源5%、調整財源6%とすると、大都市圏と地方の間で、大きな格差が生じてしまうということである。

まず、現状の地方交付税の状況をみてみよう。地方交付税は、全国どこの自治体に居住していても国民として同一の行政サービスを受けることができることを目的として創設された制度であり、その行政サービス総体を税収などの固有財源で賄えない場合、その不足分を財政調整するということになっている。もちろん、財政状態が豊かな自治体の場合は、地方交付税が不交付になることがあるが、そのような自治体の数は少なく、都道府県では東京都だけであり、市町村では、原発立地自治体などや東京・神奈川・愛知などの大都市圏の自治体が中心となっている。

都道府県別地方交付税交付額(平成21年度)

都道府県別地方交付税交付額(平成21年度)


http://www.stat.go.jp/data/nihon/zuhyou/n0502000.xlsより作図

小さくて読みにくく、恐縮だが、2009年度(平成21年)の都道府県別地方交付税交付額をあげておいた。この年度の地方交付税交付総額は15兆8200億円だが、もっとも多く交付されているのは北海道であり、道・市町村あわせて1兆5000億円と、交付総額の一割近くを交付されている。過疎などにより税収が少ないところが多くの交付金を得るということは、地方交付税のあり方に適合しているといえよう。このように税収が少なく、独自財源で一般的な行政サービスをまかないえないがゆえに、地方交付税が必要とされたのである。

一方で、東京都は360億円、神奈川県は790億円、愛知県は1004億円と、大都市圏では地方交付税交付額は非常に少ない。ただ、大都市圏といっても、大阪府(5100億円)、兵庫県(6170億円)、福岡県(6250億円)にはかなり多額な地方交付税が交付されている。行政サービスの需要総額算定には人口数ももちろん換算されるが、これらの大都市圏は、人口の割には税収が少ないということになるわけで、相対的に衰退しているといえよう。

もし、地方交付税を廃止し、11%の消費税を地方税として、5%を固有財源、6%を地方共有税としたらどうなるのだろうか。つぎに、しんぶん赤旗が2012年2月15日にネット配信した消費税10%にした場合の都道府県別の消費税負担額の推計をみてみよう。しんぶん赤旗では、次のように説明している。

政府・民主党が狙う「社会保障・税一体改革」で消費税が10%まで引き上げられた場合の47都道府県の負担増額を本紙が試算し、地方ごとの影響が明らかになりました。試算によると、最も負担増となるのは東京で1兆6050億円、2番目となる大阪では8720億円です。

 現行消費税率5%のうち1%は地方消費税として各地方自治体に納められます。試算は、各都道府県に納められた地方消費税額を5倍にして増税額を算出しました。地方消費税は、事業者や本社所在地の都道府県に払い込まれます。実際に消費が行われた都道府県の納税となるように、各都道府県の「消費相当の占有率」に応じて計算します。この占有率は、「小売年間販売(商業統計)」「サービス業対個人事業収入額(サービス業基本統計)」「人口(国勢調査)」「従業員数(事業所・企業統計)」の4統計から算出します。

 ただ、全消費税収を各都道府県に割り振った金額なので、当該地域に在住する個人が負担した額に限りません。観光客や地方自治体が負担した消費税額も含まれることになります。

 日本経済に深刻な影響を与える消費税増税は、人々の暮らしを支える地方経済の疲弊を加速させます。

消費税率を10%に引き上げた際の都道府県別の消費税負担額の推計

消費税率を10%に引き上げた際の都道府県別の消費税負担額の推計


http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-02-15/2012021501_02_1.html

これは消費税を10%にした場合の負担増額(5%増額分)であり、11%とするとやや多くなることになるが、大体の傾向は理解できるだろう。日本維新の会のいう消費税5%分の「固有財源」は、おおまかにいえばこの消費税負担増額分と考えればよいのである。

そうすると、まず、固有財源となるのは全体12兆円程度ということになる。現在最も多く地方交付税を得ている北海道は、5400億円程度しか消費税を固有財源にできないことになり、地方交付税の約三分の一しか得られないことになる。そのほか、多くの府県が現状の地方交付税よりも少ない「固有財源」しか得られないということになるのである。

それにかわって、東京都が約1兆6000億円、神奈川県が約7500億円、愛知県が約7400億円と、もともと富裕で地方交付税交付金が少なかったところが、消費税の地方税化の恩恵を受けることになるのである。

日本維新の会の基盤である大阪府は、消費税の地方税化によって東京府についで二番目に多額の8720億円を得ることになる。地方交付税交付金が5100億円なので、その恩恵を得るということになる。しかし、それは大阪府だけである。兵庫県は6170億円が4820億円に、京都府は3140億円が2640億円に、奈良県は2470億円が1070億円になってしまうのである。その他、福岡県が6250億円が4800億円に、広島県が3840億円が2710億円になってしまうのである。もちろん、北海道などとくらべれば減額は小さいのであるが、これらの都市圏も地方交付税から地方消費税への転換の中で財政に打撃を蒙るのである。今まで多くの地方交付税を得られてこなかった東京都・神奈川県・愛知県がかなり多額の消費税を税収に加えることをかんがみると、大阪維新の会を源流とした日本維新の会は、東京などの大阪のライバル都市に塩を送っていることになる。

これは、基本的に消費税の税収は経済活動の活発さに比例するものであり、それをそのままの形で配分すれば、現在「勝ち組」の地域がより有利になるだけということなのである。この「勝ち組」の代表が東京であり、いわば、地方交付税を廃止し消費税を地方税化する日本維新の会の政策は、「地方」の犠牲によって東京などの大都市への集中を促進したものと評価できるだろう。そして、この「勝ち組」の中に大阪をいれようとしているのである。

もちろん、これではすまないので、地方共有税という形で自治体間の財政調整がはかられることになっている。しかし、11%に増税した消費税の半額程度というと、消費税総額が20〜22兆円程度と考えられるので、10〜14兆円程度であろうと思われる。現在の地方交付税交付金が約17兆円なので、それより多いとは考えられない。どのような形で分配されるのか不明だが、やはり官僚的な統制が行われるであろう。そもそも原資が少なくなるので、各自治体への交付額もより少なくなるだろう。それに、もし、「調整」というのであれば、今まで多額の地方交付税が入ってこなかった東京などの大都市圏も多くの財政資金を得ることになり、それらと競争するということになろう。「地方分権」といっても、消費税の税収が多い東京などの大都市圏だけが財政上のフリーハンドを得るだけで、それ以外の多くの自治体ー都市を含むーでは、「地方共有税」というかたちで官僚統制を受けることになる。そして「地方」の自治体は財源不足にこれまで以上に直面する。しだいに、より広域の自治体ー道州制の方向に導かれて行くことになる。しかし、すでの東日本大震災で白日のもとにさらされたが、広域自治体化は、基本的な行政サービスを低下させるものなのである。

ある意味では、資本蓄積が集中的に行われている大都市圏であるがゆえの政策であるといえる。橋下のスタンスは大都市における巨額な税収を背景に大都市の「納税者」たちが自らのために租税を使うことを主張し、それを「代表」しているとして、それまでの都市ー地方間の財政調整を否定するものであるといえる。このスタンスは、いわゆる「生活保護者」攻撃とそれほど変わらないといえよう。しかも、納税者は、とりあえず富裕者だけには限らない。生活保護ギリギリでも、ある程度の納税は行い、それを負担に思う人びとはいるのである。

しかし、これで、地方において日本維新の会は支持基盤を作れるのかとも思ってしまう。もちろん、地方においても、資本蓄積の増大をめざした新自由主義的地方行政が展開されているが、これほど露骨に地方を犠牲にして大都市圏への集中をはかる政策を支持する人びとが多いとは思えない。特に、保守系とはいえども、地方交付税制度のもとで行財政を展開していた首長や地方議員たちはどれほど支持基盤になるのだろうか。

他方、この政策でもっとも利益を得るのは東京都であるということに注目したい。よく、日本維新の会の橋下徹が太陽の党の石原慎太郎を政策面で屈服させたように報道されているが、今、みてみると逆である。結局、橋下徹は、地方を犠牲にしつつ、資本蓄積の観点から東京などの大都市への集中を促進させ、大阪もその一環にいれようとすることで自らの正当性を獲得しようとしているのである。その意味で、橋下は石原を必要としているのであるといえよう。

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国際経済学、開発政治学を専攻する原民樹さんが「反原発運動のエートスーエジプト革命から受け継いだもの」という論文を『日本の科学者』2012年9月号(日本科学者会議発行)で発表している。非常に面白く読んだ。

原さんが、彼自身も参加した反原発運動を対象とした「反原発運動のエートス」においてキーワードとしていることは、「予示的政治」である。原さんは、このように説明している。

 

革命後の世界を先取りする。近年のアナーキズム思想の文脈では、これを「予示的政治( pre-figurative politics)」と呼ぶ。いつやってくるのかわからない理想社会を待つことを拒否し、いつかすべてが一挙に変革されるという物語を放棄し、小さく不完全でも今ここで解放された社会を立ちあげること、それによって現体制を相対化し、支配の正当性に対して不断に亀裂を走らせること、そうして、漸進的に社会の色を塗り替えていくこと。タハリール広場が世界に示したのは、こうした「予示的政治」の魅力と有効性だったのである(原前掲論文)

つまり、運動の中で、革命後の世界を「予め」「示す」ことーこれを「予示的政治」と原さんは定義しているのである。そして、この「予示的政治」を具体的に示したのは、2011年のエジプト革命において誕生した象徴的空間としてのタハリール広場だと原さんはいう。タハリール広場について、このように述べている。

タハリール広場の運動は、ムバーラク政権を打倒するための単なる「手段」ではなかった。それは同時に、彼/彼女らの自律的な生のあり方を具現した「目的」でもあった。
 換言すれば、タハリール広場という空間にみなぎっていたのは、「解放のためのたたかいは、必ずそれ自体として解放でなければならない」(原文は真木悠介『気流の鳴る音ー交響するコミューン』)という精神なのである。

原さんは、このタハリール広場の経験は、2011年の日本の反原発デモやアメリカの「オキュパイ・ウォールストリート」運動などにも継承されていったと論じている。特に、日本の反原発運動については、2011年4月10日、1万5千人も参加し、大規模な反原発デモの初めとなった、「高円寺・原発やめろデモ!!」を呼びかけた「素人の乱」のメンバーの一人である松本哉の回想を特に引用してこのことを示している。

(松本)「(アラブ革命について)結局、誰が中心かよくわからないという感じになっているんですね。…それが成功したというのに、ぼくらは衝撃を受けていました。『素人の乱』は、実は世の中を率先して変えてやろうとは全然変えていない。そんな面倒くさい権力者の連中のことは放っておいて、勝手に謎の人が集まっている空間を作っていって、既成事実として革命後の世界を作ってしまったほうが手っ取り早い。…エジプトのタハリール広場がそれの完成形みたいに見えたんですよ」(原前掲論文。原文は松本哉、樋口拓朗。木下ちがや、池上善彦「高円寺『素人の乱』とウォール街を結ぶ討論」、『Quadrante』14(3)、2012年)

具体的にどのような状態が現出されたのか。原さんは2011年6月11日、「素人の乱」のよびかけで新宿アルタ前にあつまった2万人の人びとについて、このように記述している。

…新宿アルタ前広場はタハリール広場の再現となった。左派政党の街宣車の上では、学者から一般市民までが自由に自分の意見を述べ、それを真面目に聞いている人もいれば、DJの流す音楽に踊り狂う人たちもいる。その隣では、ドラム隊が心地よいリズムを刻み、またある人たちは、ビールを飲みながらデモで知り合った友人たちと談笑している。老人、若者、子ども、ビジネスマン、主婦、ニート、外国人、障碍者など、多様な人びとが多様な振る舞いをしながらも、不思議な一体感が醸成されていた。
 普段でさえ人通りの多い新宿駅前の多い新宿駅前に2万人が集まっていても、参加者の自律的な配慮によって広場は整然としていた。指導者はいなかった。解放された人間性による連帯だけで十分だった。(原前掲論文)

つまりは、「予示的政治」とは、運動の中で、人間性を「解放」していくことといえよう。それを、原さんは、2011年6月11日の新宿アルタ前の空間にみたのであった。

そして、ある意味では目的と手段が合致する「予示的政治」こそが新自由主義と最も根源的に批判するものであると原さんは論じている。

 

「予示的政治」の内的論理としての手段と目的の合致という発想が近年の社会運動のなかで顕在化してきたことは、当然ながら時代状況と無縁ではない。現代において、もっとも先鋭的に手段と目的を切り離そうとしてきたのは、新自由主義という実践に他ならない。
 新自由主義的社会では、無限の資本蓄積という唯一の明瞭な目的に沿って合理性と効率性が徹底的に追及され、計測可能な価値に従属するかたちで、人間も街も自然も、ありとあらゆるものが手段とされてしまう。人びとは高い流動性と順応性をひたすら求められ、そこで意味や充実感を享受することはきわめて困難である。単なる手段に貶められた人間の苦悩や悲鳴を、私たちはすでに嫌というほど聞いてきた。
 この文脈からすれば、「予示的政治」は、新自由主義に対する根源的な批判であると言える。労働であれ娯楽であれ、人びとは目的から疎外される苦しみを知りすぎてしまっている。手段と目的を合致させる運動は、新自由主義の矛盾に直面した民衆から生み出された対抗的実践なのである。(原前掲論文)

私自身が、本ブログでときおりデモや官邸前抗議行動を拙いながらも取り上げてきたのは、まさに、原さんのいう「予示的政治」といえるものが、そこに現れていると感じたからである。ただ、「予示的政治」という概念を、原さんのように、タハリール広場の実践や近年のアナーキズム思想を検討する中で明示するということはできなかった。反原発運動の実践の中で生まれてきたエートスをこのような形で表現することは、この論文の大きな功績だと思う。

他方、この論文の執筆時期は、2012年6月上旬である。この時期は、いまだ、6月29日の官邸前車道解放や、7月29日の国会前車道解放が行われていないー予見すらされていないのであった。それこそ、これらの出来事を「予示」していたとすらいえるのである。

そして、ここで、強調しておかねばならないだろう。反原発を求める運動は、それ自体が人びとを解放し、新たな世界を創出していく試みといえるのである。

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2011年は、人びとの「生存」が、三つの面で日本社会において問われたといえる。一つは東日本大震災における地震・津波の側面である。もちろん、人は何人であっても死は免れ得ない。しかし、近代化の過程において、ある程度、人為によって自然を制御し、地域社会の多くの人びとの生存を保障しようと努力を続けてきた。例えば、古代・中世においては、東北の海辺において恒久的な都城は作り得ず、古代の多賀城や中世の石巻城のように高地が選択されていた。近世・近代においては、自然をある程度制御し、より海辺の地域を干拓し、防潮堤や排水路などを作りながら、可住域を拡大していった。日常的には、確かに自然は制御され、それらの地域社会の人びとの生存は保障され、生活は発展していった。しかし、東日本大震災による地震・津波は、人為によって自然を制御し、人びとの生存を保障することの限界をまざまざとみせつけた。過去の津波データから予想された以上の津波が、海辺の集落、港湾、農地を遅い、古代・中世の都城である多賀城・石巻城などの麓を洗った。むしろ、日常的に、自然を制御することによって、リスクのある地域を開発してきたことが、震災被害をましたということがいえよう。
東日本大震災による原発災害は、ある意味では、一般の津波・地震災害と重なりつつも、別の側面を有している。原発災害は、人の手で作り出したものだ。そして、すでに1950〜1960年代の原子力開発の初期から、原発被害が立地する地域社会の人びとの生存を脅かすものであることが想定されていた。1986年のチェルノブイリ事故は、地域社会どころか世界全体の人びとの生存を脅かすものであった。人の手で作り出した災害は、人びと総体の生存を脅かすことになったのだ。しかし、チェルノブイリ事故の契機は、ヒューマンエラーとされてきた。その意味で、人の努力によって抑止できるものと認識されたといえる。チェルノブイリ事故が起きたソ連自体がかかえていた体制の問題もあって、より安全運転を心がけていると称しているー歴年の事故隠しをみているとそれ自体が怪しいがー日本では起こりえないものとされてきた。しかしながら、今回の原発災害の直接の契機は、ヒューマンエラーではなく、地震動もしくは津波による施設水没とされている。いくら努力しても、原発災害は避け得ないのだ。もちろん、これは火力発電所やその他の工場でも同様である。ただ、原発については、一度大規模事故が起きてしまえば、局所的に影響を封じ込めるという意味ですら、人為によって制御することが不可能という側面を有している。そもそも、人びとの生存に脅威を与えるものが原発であったが、事故を防止することも、事故後の事態を制御することも、不可能であることが露呈してしまった。事故後の備えはいくらあっても不十分であり、もっとも効果的なことは、東海村で構想されたように、無人地帯を設けることぐらいである。そのために、原発は低人口地帯に設置されてきた。人の手で作り出したものが、制御もできず、人自体の生存を脅かしているのである。
もう一つ、震災とは別に、2011年の日本社会において、「生存」が問われてきた。利潤を極大化しようという目的のもとに、労働者は正規雇用と非正規雇用に分断された。また、グローバリズムの名の下に、いわゆる先進国と後進国の「格差」が作り上げられ、さらに「格差」を前提として、資本輸出を通じて、労働者への所得分配が切り捨てられている。さらに、TPPなどの自由化交渉によって、大資本の生産物が押し付けられ、農民や中小企業の経営は破滅に追いやられている。そして、この過程を正当化する哲学として、「自力救済」を旨とし、このことをレッセフォールによる「自然的過程」とする新自由主義が唱えられている。資本主義的利潤の極大を人為によって社会におしつける仕組みとして、これらの枠組みは洗練されているといえる。しかし、これらの枠組みは、人びとの「生存」を保障するものでは全くなく、むしろ、人びとの生存を脅かすことによって作動しているものといえる。そのことがまた、新自由主義的な意味での社会への介入の限界をなしているといえる。生存を脅かされた人びとは、そもそも生産物への需要を喚起しない。そして、労働力の直接の再生産すら難しい所得においては、家族を構成できず、人口が減少していく。個々人の生存が危険に脅かされていることが、まわりまわって社会全体の生存の脅威となる。その中では、経済成長どころか経済衰退が生じ、資本主義的な利潤をまっとうに確保することすら難しくなる。数年おきに、ほとんど詐欺のようなバブル投機が生じるのはそのためだ。安定した投資先すら確保できないのである。
これら三つの面は、それぞれ違った位相をもつであろう。ただ、一ついえるのは、たぶんにこれまでの人為による自然・社会の制御が限界を有しているということだ。地震や津波の脅威は、人びとの生存を保障する自然の制御自体がいかに困難であるかを示しているといえる。他方、新自由主義的な社会への介入は、資本主義的利潤の極大化を目的とし生存を保障しない人為がいかにそれ自体の基盤を掘りくずしているかを示していると考えられる。その二つの交点として、原発災害がとらえられるであろう。
もちろん、自然にせよ社会自体にせよ、限界はありながらも今後ともなんらかの「人為」による制御は必要であると考えられる。しかし、それは人びとの生存それ自体を目的したものでなくてはならないといえる。そのことを、今後、より精緻な形で考えていこうと思う。

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東日本大震災によって顕著なことの一つとして、さまざまな地域、レベルにおいて、いろいろな形での「棄民」が顕在化してきたことがあげられる。

すでに、21世紀に入る頃から開始された、新自由主義的「改革」は、さまざまなレベルでの「棄民」の出現を促進してきたといえる。農業自由化や財政改革における補助金削減は、地方経済ーすでに大阪などの大都市圏にも及んでいるがーの弱体化を促進させてきた。私が福島県浜通り地域に通っていたのは2000年頃であったが、すでに当時の原町市(現在の南相馬市)では常時シャッターが閉鎖された店舗が目立つ商店街ーいわゆる「シャッター」街を頻繁に目撃するようになった。そして、それは、いわゆる「地方都市」で頻繁にみかけるようになった。

他方、東京などの大都市では、一見大規模な都市再開発やベンチャー企業の叢生によって、経済活動が活性化したようにみえた。しかし、それは、それこそ「1%」の繁栄に過ぎなかった。他方で、同じく新自由主義改革が推し進めた相次ぐ労働者派遣法の改正など、正規雇用から非正規雇用への切り替えが進んだ。非正規雇用といえば、まだ聞こえがよい。そのほとんどが「生活保護」水準ーそれ以下の場合も多いーの賃金しか得られていないのである。そして、それは、正規雇用自体の労働条件悪化にも及んでいる。「非正規雇用」との潜在的な競争により、賃金は引き下げられ、サービス残業や休日出勤が今まで以上に強いられるようになった。

しかし、これらの「棄民」の拡大は、東日本大震災以前においては、「局所化」されていた。まずは、一般的に「自由」「小さな政府」「自己責任」などの新自由主義のイデオロギーが、それぞれの場面における「自由競争」の極大を正当化していたことが大きな要因としてあげられるであろう。特に「自己責任」は、まさしく、近代初頭の小経営者=「個人」の自立志向に起因するもので、日本では「通俗道徳」にあたるといえよう。もはや、経営どころか「家族」ですら、より公共的に支えられないと存立不可能であるのだが、新自由主義は、そのような「公共性拡大の必要性」を逆手にとって、それを恐怖の対象とする。その上で、公共性の介在しない、市場中心で維持する「社会」を夢想する。このような社会は「自己責任」をもつ個人によってささえられるのであり、社会保障の必要な弱者ー今や99%なのだーは事実上排除する。弊害が目に見えているのに労働者派遣法は「改悪」され、生活保護は「窓口規制」され、年金支給年齢は引き上げられた。一方、地方では、自主性尊重の掛け声のもとに、補助金は引き下げられ、能率性重視を目的として、大規模な自治体合併が強制された。

東日本大震災の被害は、まず、地方における「棄民」のあり方を顕在化させたといえるであろう。もちろん、地震による津波被災は「新自由主義」に起因するものではない。しかし、現状においても、本質的には公的な意味では放置されているといえる津波被災地のあり方は「棄民」そのものといえるであろう。都市部を中心として被災した関東大震災や阪神淡路大震災と、東北太平洋側の沿岸部を襲った津波被災が中心とする東日本大震災は、様相をことにしている。地方空洞化のただ中でおきた東日本大震災においては、そもそも、区画整理などを実施することで「再開発」し、その利益によって地域社会を再建するというそれまでの「復興」のパターンを十分機能させることができない。新自由主義のもとに地方の経済活動が弱体されてきたという「棄民」状況が、ここで明るみに出たといえるのである。

そして、このような「棄民」状況にたいして、新自由主義を体現してきた政府は、十分対処する能力をもたない。結局は、財政出動の「圧縮」と財政負担の将来へのつけまわしを議論するしか能がないのである。さらに、村井宮城県知事などは、阪神淡路大震災的な都市再開発をもくろんで市街地建築制限を導入し、被災地の「復旧」のさまたげとなっている。さらに、彼は、沿岸漁業への一般企業の参入を促す水産特区構想を持ち出し、津波被災地に混乱をまきおこした。村井の発想は、まさに新自由主義的復興構想といえるのであるが、逆に、被災地の自主的な復旧を阻害しているのである。

一方、福島の状況であるが……。この状況を「棄民」という範囲すらこえているといえる。そもそも、福島県浜通りという人口の少ない地域に原発が建設されたということ自体、「棄民」状況が潜在していたといえる。そして、福島第一原発事故後、周辺の町村からは、地域社会全体が根扱ぎにされた。民だけではなく、地全体が、現状では「棄てられている」のである。それぞれの町村という、生活の場すべてが奪われた「民」がそこにはいるのだ。

他方で、とりあえず、避難指示はされていないその他の地域でも、「棄民」状況は続いている。比較的高い放射線量ーチェルノブイリ事故では自主避難が認められた線量をこえる地域もあるーにおいても、「日常生活」を続けられている。部分的な除染と、あまりにも高い土壌放射線量での農産物の作付の制限はなされているが、それ以外は十分進んでいるとはいいがたい。そして、自主的に避難する人々がいる一方、避難をしない人々との間の意識の断絶がうまれている。特に、乳幼児をかかえる女性たちの避難が目立っている。これもまた「棄民」なのである。このことは、すでに、福島県だけの問題ではない。福島県なみの汚染状況を示している地域は、北関東の地域さらに、千葉県の柏市地域や東京の奥多摩地域にも及んでいるのだ。

汚染地域などでの「日常生活」の維持のため、そこから産出される「農水産物」も「正常化」されなくてはならない。そして、それは、農地除染や、農水産物の検査体制の強化という形ではなく、放射性物質の許容限界を平常時の5倍に引き上げるという「暫定基準」の設定で行われた。そして、問題を表面化しないように穴だらけの検査体制がそのまま維持される。政府の「直ちに健康に影響がない」というのは、短期的にはその通りかもしれない。しかし、長期間に維持すべきものではなく、その意味で「暫定」なのだ。しかし、その暫定基準は、そのまま「安全」という言説が福島県知事などより言明される。これは、いわゆる、象徴的な意味での「棄民」といえるであろう。そして、そのことの意味をもっとも強く考えるのが、現状では女性たちであるということも指摘しておかねばならない。

そして、他方、都市内外に存在する「非正規雇用」の労働者ー「非正規労働者の予備軍」としての大学生たちも含めてーもまた、「棄民」といえる。すべてを、還元してはいけないと思うが、労働組合などと離れた形で「脱原発」デモが行われてきた背景としては、彼らの存在があるといえる。全体的な「棄民」状況からの「解放」が、そこには希求されているのではなかろうか。このことついては、もっと深めて考えていかなくてはならない。

東日本大震災以前では、「棄民」の存在は「局所化」されていた。東日本大震災により、このような多様な「棄民」が顕在化した。その一方で、「棄民」を作り出し、隠蔽してきた、新自由主義的資本主義システムへの「無意識的な信頼感」は大きく揺らいだのである。

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歴史研究者の会である東京歴史科学研究会の大会が下記のように5月28日(土)・29日(日)に開かれる。私も、29日に「自由民権期の都市東京における貧困者救済問題―貧困者の差別と排除をめぐって―」というテーマで大会報告を行うことになっている。

この大会は、本来4月に開催されることになっていたが、震災と計画停電のために、一か月開催が延期された。

私のテーマは、三新法で生まれた地方議会が、減税や民業圧迫さらには惰民論などを主張して、当時の貧困者救済機関であった東京府病院や養育院の地方税支弁を中止させ、民間に事業を委託していったということである。これは、日本において初めて自由主義が主張された時代を対象としているが、現代において新自由主義が主張される歴史的前提となったと考えている。

しかし、震災・原発事故・計画停電にゆれた3月頃、このような報告をしていいのかと真剣に思い悩んだ。ある意味、ブログで「東日本大震災の歴史的位置」という記事を書き出したのは、そういう思いもあった。

今は、逆に、今だからこそ、深く考えるべきことだと思っている。東日本大震災は、大量の失業者を生んだ。その意味で、一時的でも、雇用保険や生活保護にたより、地域の復興にしたがって、だんだんと雇用を回復していくべきだと思う。そうしないと、被災地域から、どんどん人が流失してしまうだろう。にもかかわらず、マスコミは、「雇用不安」をあおるだけで、生活保護などには言及しない。そして、新聞記事などをみていると、厚生労働省などは、生活保護をより制限することを検討しているようだ。

復興についても、声高に増税反対が叫ばれている。財源があればいいのかもしれないが、聞いている限り、まともな財源ではない。このままだと、関東大震災の復興の際、後藤新平のたてた計画案を大幅に帝国議会が削減したことが再現されてしまうのかもしれない。

もちろん、このようなことは直接報告できない。しかし、今の現状も踏まえつつ、議論できたらよいかと思っている。

とりあえず、ブログでも通知させてもらうことにした。

【第45回大会・総会】開催のお知らせ〔5月28日(土)・29日(日)〕
【東京歴史科学研究会 第45回大会・総会】

●第1日目 2011年5月28日(土)
《個別報告》 13:00~(開場12:30)
•佐藤雄基「日本中世における本所裁判権の形成―高野山領荘園を中心にして―」
•望月良親「町役人の系譜―近世前期甲府町年寄坂田家の場合―(仮)」
•加藤圭木「植民地期朝鮮における港湾「開発」と漁村―一九三〇年代の咸北羅津―」
個別報告レジュメ(報告要旨)
準備報告会日程

●第2日目 2011年5月29日(日)
《総会》 10:00~(開場9:30)
《委員会企画》 13:00~(開場12:30)
■「自己責任」・「差別と排除」、そして「共同性」―歴史学から考える―
•中嶋久人「自由民権期の都市東京における貧困者救済問題―貧困者の差別と排除をめぐって―」
•及川英二郎「戦後初期の生活協同組合と文化運動―貧困と部品化に抗して―」
•コメント 佐々木啓
委員会企画レジュメ(報告要旨)
準備報告会日程
【会場】立教大学池袋キャンパス マキム館M301号室
(池袋駅西口より徒歩7分/地下鉄C3出口から徒歩2分)
http://www.rikkyo.ac.jp/access/ikebukuro/direction/

【参加費】600円

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愛宕MORIタワー(2011年1月4日撮影)

愛宕MORIタワー(2011年1月4日撮影)

愛宕グリーンヒルズのような、寺社地を利用する大規模開発についての、森ビル側の戦略目標は何か。著名な六本木ヒルズなどとちがって、愛宕グリーンヒルズについてはあまり文献がない。その一つに2002年10月の第8回物学研究会で行われた森ビル社長森稔の「新東京:都市の形」(http://www.k-system.net/butsugaku/pdf/056_report.pdf)がある。その中で、森は、長距離通勤をまねく容積率制限などの都心集中抑制政策と耐久性の少ない住宅を増設した郊外における一戸建て住宅建設推進政策を批判している。その上で、

そこで私たちはちょっとしたシミュレーションを行ってみました。
ひとつは、3ヘクタールの土地の上に100平方メートル平均の一戸建て住宅を300戸作った場合を模型にしてみました。するとちょうど世田谷や杉並などの典型的な住宅密集地に似た街並みになりました。これらの住宅を仮に40階建てのマンションに集約してみると、わずか4パーセントの土地の上に収まってしまいます。この高層の建物の地下にはパーキングや倉庫といった日光を必要としない施設を作り、低層部分はショッピングモールを作ることができます。空いた土地には低層の高品質な建物を作って、学校やコミュニティのためのスペースを設けることもできます。さらに空いている土地はテニスコートや公園に転用できます。要は建物を集約して高層化することによって、同じ広さの土地をこれだけ魅力的に有効に使うことができるのです。この状態でも容積率は700パーセント程度です。

と、森ビルが考える理想の住宅建設を語っている。要するに300戸の一戸建て住宅を40階の超高層住宅にまとめれば、敷地の4%しか使わず、地下にはパーキングや倉庫、低層部分にはショッピングモールが設置できるとしている。そして、空いたスペース(森の試算では96%になるのだが)には、学校・コミュニティ施設・公園・テニスコートなどが立地できるというのである。
しかし、この計画を、例えば、杉並や世田谷などの住宅地域で実施することについては、「容積率」上問題を生じる。第一種住居専用地域の上限容積率は200%、第二種住居専用地域の上限容積率は300%、住居地域の上限容積率は400%であり、森の試算による容積率700%には遠く及ばない。40階の超高層住宅は、かなりの容積率を要するというわけであり、低容積率の住居地域では建設できない。それゆえに、森ビルなどは容積率の緩和を主張しているのであるが。

そして、森は、愛宕グリーンヒルズについて、このように語っている。

「愛宕グリーンヒルズ」は、事務所、住宅の超高層ツインタワーを中心とする容積率600パーセントほどの再開発です。高層化を実現することによって、NHK放送博物館につながる緑道、愛宕山に登るエレベーターなどを設置し、同時に愛宕山周辺の景観の再整備ができました。このために愛宕神社や青松寺への参詣人が増えたと聞いております。

愛宕グリーンヒルズの容積率を600%としていることに注目されたい。ここは商業地域であり、容積率は400-1000%であるはずである。もちろん、容積率はそれぞれの地域で異なっている。また、総合設計制度などを利用すれば、もともとの容積率から緩和できる。ゆえに、もともとの容積率がどの程度であったかはわからないのであるが、商業地域であるがゆえに、容積率600%の建設が可能となったといえる。
さらに、容積率を600%にとどめることを可能にしたのは、青松寺境内などを低層建築物もしくはオープンスペースとして確保し、この低容積率部分を全体の建築計画に含めることによって、超高層建築部分の容積率を押し下げるということであったといえる。現在、愛宕グリーンヒルズには42階建ての超高層ビルが2棟建っているが、それは、青松寺などがはじめて達成されたといえるのである。現在、寺社などの低容積率の建物をめぐって、使用していない容積率を譲渡する空中権売買が行われていると聞いている。この愛宕グリーンヒルズの場合、法的に空中権の売買にあたるかどうかは不明であるが、考え方としては共通しているといえる。

このように、①容積率が大きい都心の商業地域であり、②青松寺などの寺社地が存在したということで、ようやく、森の念願である超高層住宅の夢が実現したといえる。しかし、単に超高層住宅を建てることだけが森ビルの戦略目標ではなかったと考える。それは、次に議論していきたい。

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