美しき土地福島県浜通りを襲ったのが地震・津波・放射線であった。5月15日、山側の常磐自動車道から下りて、海岸線にそっている国道六号線を車で走ってみると、まず目に付くのは、津波の被害である。
いわき市久之浜というところで、海岸線に出た。ここは、厳密にいえば福島第一原発から30km以内であり、一時期は屋内退避圏であったが、4月12日に外された。なお、いわき市の北側の広野町は「緊急時避難準備区域」である。
車から降りて、海岸まで歩いてみた。そこは砂浜で、震災前は海水浴場であったらしい。防潮堤もあったようだが、それを乗り越えて、津波が襲来し、多くの家が被災していた。
ここで、写真撮影してきたら、くわえ煙草の老人が話しかけてきた。「ここは、まだ大したことはないよ」と言うのだ。「向こうの方に、海のそばに山がみえるだろう。あの山の麓に津波が襲来し、さらに火事になったんだ。津波が襲来して、家にいたままで流された人もいたと聞いている」と話してくれた。
「ここにも堤防があったんだが、こんなに低いじゃねえ、福島第一原発で15mというでしょう、この辺だって10m以上の津波だった」というのである。
老人は、運送業か漁師かわからないが、昔いろいろなところに仕事で行ったことがあるらしく、夏になったら、三陸のほうに行ってみるつもりだと言っていた。そこで、私も、4月に行った相馬市松川浦周辺では、国道六号線ぞいまで津波が襲来し、松川浦と水田が見分けがつかなくなっていたと述べた。老人は、「国道六号線まで津波が来たのか」と目を丸くしていた。
ここで、私は尋ねた。「ご近所の方ですか」。老人は答えた。「そうだよ。隣の四倉。ここは30km圏内、四倉は32km。今は避難所で暮らしている。家は海沿いにあって、津波で全壊した」とこともなげに話すのである。
どうも、いろいろと東日本大震災のことを目に焼き付けておきたいらしい。いわき市で他に多大な被災にあった場所として、塩屋崎灯台の近くの豊間という集落をあげていた。今はようやく通れるようになったとのことである。いろいろと親切に道順を教えてくれたが、「豊間」という集落自体を知らないので、よくわからなかった(最終的に行き着くことはできたのだが)。
最後に老人は、このように言った。「今朝のラジオで、(いわきの)放射線量が0.25マイクロシーベルトと聞いた。確かに、福島や郡山よりは低い。しかし、長く浴びていたらどうなるか、だれにもわからない」。私は、「そうですね」と言うより他はなかった。
老人と別れを告げて、その勧めにより、久之浜の中心部にいってみた。小さな町場となっていて、沿道の人家は、津波や地震によって壊れていた。ボランティアか業者か自衛隊かはわからないが、白い防護服をきた集団が、復旧作業にあたっていた。よく覚えていないが、ガスマスクもつけていたのではないかな。そのそばで、地元の人たちが、ランニングシャツ姿で、やはり復旧事業にあたっていた。地元と、それ以外の意識の落差が垣間見えていた。
さらに行くと、焼けただれた家屋が目立つようになった。焼けた郵便ポストが目に痛い。、建築物を中心とした瓦礫の山がそこにはある。はるか遠くに見える防潮堤が空しい。
ここ久之浜は、津波だけでなく、火災にも襲われたのだ。町場の津波被災地をこの目で見るのは初めてだ。相馬市周辺のように、広大な面積が津波で一掃されたというのではないが、生活の場を一瞬で破壊されたということは、久之浜のほうが強く感じられる。
ここは、30km圏内で、一時期は屋内退避圏であったことも忘れてはならない。二か月以上たった5月15日時点においても、いまだ瓦礫の撤去が進んでいないのは、そのためだ。前述のように、現在でも人によっては防護服着用で作業している有様である。それ[に、福島県内で、放射線を浴びたと想定される瓦礫をどう扱うかは問題になっている。環境省は、県内に放射性物質を回収できるような装置を設置した焼却処分場をつくるという。しかし、そもそも焼却処分場を一から作るのにもそれなりの時間がかかる。それに、どの自治体が立地を許容するのだろうか。
老人の住んでいる、南隣の四倉にもいってみた。確かに、大きな火災にはあっていないようだが、久之浜と同じくらい津波で被災していたと思った。漁港の周囲にはいまだ漁船が置かれている。ただ、瓦礫がまとめておかれていたり、被災した漁船を運び出す船が入港していたり、屋内退避圏ではなかったため、久之浜よりは復旧作業が進んでいた。
老人のいっていた豊間にもいってみた。多少迷ってしまい、次の用事があるので、通り過ぎただけだ。ただ、それでも、町場に瓦礫がまだ散乱していた。
最後に、たぶん「夏井川」だと思うが、いわき市の川べりの写真を掲載する。このように、福島県浜通りは非常に美しい土地なのである。ここに地震、津波(いや火災も)さらに放射線が襲ったのであった。
いわき市災害対策本部によると、5月16日現在で、いわき市内の死者は302名、住家被害は17844棟、火災発生件数11件で、不明者は調査中とのことである。4月11日の余震の際にも、死者3名が出ているそうである。(中嶋久人付記)
16歳まで久ノ浜で育ちこの写真の場所全部走り回った場所….まだ行けていません...ホトンド30キロ圏と一緒の久ノ浜…しかしテレビなどではほとんどふれてくれない....ニュース見るたびに胸が苦しい....津波は天災...乗り越えるしかないのでしょう..しかし原発問題..久ノ浜の人たちにたいしてもしっかり...対応してほしい......町で一番のケーキやさん。。。同級生の酒屋...昨年同窓会でいった旅館..子どものころよく行った駄菓子や...郵便局...スーパー...私の4年生のときの担任の先生は…どこにいらっしゃるでしょうか...久ノ浜も放射能は…….?それが大丈夫なら町の人たちは元気に頑張れるはず…….
お読み下さり、ありがとうございます。
久ノ浜については、言葉もありません。私自身、震災前は車で通過したことしかないのですが、激甚な津波被災の跡を目撃しました。それに、あきらかに、30km圏外の四倉などより瓦礫の片付けは遅れているようでした。もう二か月くらい前になるでしょうか。その時よりは片付いていると思いますが。
ただ、5月の時点で自動車ならば常磐道広野インターまで、電車ならば久ノ浜駅までは行けるようです。ただ、放射線については、軽々にはいえませんね。5月時点では、たぶん外部から来た人たちは、白い防護服にマスクをつけて作業しており、地元の人達と思える方々は特に防護せずにいました。いわき市の放射線量は、0.25で、福島市や郡山市よりかなり低いとはいえるのですが。
なお、避難所は、久ノ浜の近く(四倉かもしれませんが)にあるようです。ただ、いわき市の中心部に避難してる場合もあるかもしれません。
こういう思いをしなくてはならないということが、このようなブログを書いている、私の原点でもあります。とりあえず、原発事故で影響を蒙った土地はどういうところか、そして復興自体が、このようなことでさまたげられているということはどのような意味をもつのかということを知ってほしいと考えています。
今後ともよろしくお願いします。
久之浜は実姉が住み代々家業で製材所を営む姉とその家族が住んでいます。あの瞬間は私は実家の福島市におり久之浜の状況はすぐにはつかめなかったのですが、姉の家族で子供たちは全て独立しており1人を残して関東、北関東方面に在住で無事でした。また、製材所を営む一族も時間的に製材所にいた時間で大久の山手の方へ行っていたため辛うじて義兄、姉、長男とその嫁、義兄の実の弟妹全員が無事でした。また、商店街につながる道路の西側にあった家屋も河口と海から押し寄せてきた津波にかぶったものの誰もおらず戸締りをしていたため1階が水に浸かっただけで幸い破損の被害などは少なくおよそ1年余りの後に全て改修し再び住めるまでになりました。
私もこのHPに掲載の写真の頃、一度様子を伺いに久之浜に行っており同じような写真を撮影してまいりました。とにかく酷い有様で言葉もありませんでした。またその1年後にも再び訪れがれきが片付いたあとの様子も撮影してまいりました。しかし、亡くなった方々、まだ行方不明のままの方々たくさんおられるわけでとても訪れて気持ちが晴れるものではなく、また地盤のかさ上げの計画があるために無事に残った家屋も住んではいるものの次の新築を考えなければならない事で戸惑っているようでした。
悲しいことに同じ被災地でありながら久之浜の現状を取り上げられ報じられる事が少ないのもなにか釈然としない思いでおります。
2年目の「3.11」にコメントをいただき、ありがとうございます。いわき市久之浜をはじめとして、津波によって多くの人びとがなくなり、それにまた、「高台移転」や「防潮堤建設」によって、津波被災地の人びとが、構想にせよペースにせよ、望まない形で「復興」が進められている現状を考えると、いつも、心がしめつけられる思いでおります。テレビ報道に接しても、とてつもない違和感を感じ、直視できないでおります。機会をみて、そういうことも述べてみたいと思っております。