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Archive for 2011年5月

湯の岳PAからみた常磐自動車道

湯の岳PAからみた常磐自動車道

湯の岳と湯の岳PA

湯の岳と湯の岳PA

「電気の要らない自動ドア」のある無人トイレ

「電気の要らない自動ドア」のある無人トイレ

湯の岳PAで咲く藤

湯の岳PAで咲く藤

湯の岳PAに咲く山吹

湯の岳PAに咲く山吹

少しでも福島県浜通りをみておこうと思って、昨日5月15日、常磐自動車道を経由して、いわき市周辺にいった。常磐自動車道は、前よく自治体史編さんで通った道である。茨城県東海村あたりまでは関東平野を行き、日立市周辺で山地に登って、たくさんのトンネル群を抜ける。このトンネル群を通過すると、いわゆる高原状の土地を常磐自動車道は通っている。

トンネル群をぬけて驚いた。こんなに緑の濃い土地であったとは、記憶していなかったのである。西側が山地で、東側は海だが、あまり海はみえない。まさに緑の大地である。

常磐自動車道には、震災の爪痕はそれほどみえない。必死に修復したのであろう。時々、路面が凸凹になっており、高速で走行するとかなりゆれるが、それくらいである。このような道が、浜通りの南側のいわき市周辺まで続いている。

途中、湯ノ岳パーキングエリアで休憩をとった。無人のパーキングエリアで、トイレと飲料の自動販売機しかなく、ここで食料を買い足そうと思ったので、多少困った。ただ、トイレが「電気の要らない自動ドア」であったことは笑えた。

それにしても、周囲の美しさは筆舌に尽くしがたい。写真をここで掲載するが、とても、あの緑の美しさは再現できなかった。藤や山吹が花盛りであった。

何も、湯ノ岳パーキングエリアだけではない。日立市以北の常磐自動車道は、ずっとこうなのである。まさか走行中に写真をとるわけにいかないので、湯ノ岳パーキングエリアで紹介しているだけだ。そう、福島県浜通りは、美しい土地なのだ。しかし、いまや、その多くの土地に立ち入ることはできない。

追憶によれば、この常磐自動車道を抜けると、国道六号線か平行する県道三五号線を使って、北に向かう。丘陵地には緑の濃い山林が広がり、その間の小河川沿いには水田が広がる。富岡町・浪江町といった小さな町をいくつか通過する。国道六号線を使えば、その道沿いに、東電広野火力発電所、福島第二原子力発電所、福島第一原子力発電所の入口が並んでいる。

2007年の双葉ばら園(ホームページより)

2007年の双葉ばら園(ホームページより)

一方、より山側の県道三五号線をいくと、「双葉ばら園」というばら園があった。ばらが好きだったので、十年ほど前に二度ほどいったことがあるが、いつも花盛りの頃は外れていていた。同園のホームページをみると、あれからかなり整備されたらしい。しかし、しばらくは、このばら園のばらをみることはできないだろう。

そして、国道にせよ、県道にせよ、北上すると、当時の原町市、現在の南相馬市に達する。そこは、相馬野馬追祭場が所在する台地であった。

富岡町夜の森公園(富岡町ホームページより)

富岡町夜の森公園(富岡町ホームページより)

十年前は、いつも先をせいていて、途中の場所によることはほとんど考えなかった。それこそ「双葉ばら園」くらいである。火発も、原発もわざわざおりて見学しようともしなかった。また、富岡町には「夜の森公園」という名所があるが、そこもみていない。そのことへの悔いは、私の中にある。

ブログで、福島第一原発、福島第二原発のことを書いているのだが、私自身が覚えていることは雰囲気だけである。それすらもあやふやで、あれほど緑の美しい土地であったことすら、今回いって再認識したくらいである。

いわき市あたりで、ちょっと浜通りをのぞき、その美しさを再認識しただけであるが…。避難を余儀なくされた人々は心苦しいであろう。あれほどの美しい土地から強制的に出ざるを得なかった人々がそこにはいるのだ。それは、今までの生活の場をすべて失ってしまうということでもある。もちろん、生活の場をすべて失ってしまうことのほうが、重大である。しかし、「美しい土地」への哀惜の念もそこにはあろう。

そればかりではない。東京に電源を供給していた福島第一原発の事故によって、東京ではなく福島浜通りの人々が生活を根こぎにされてしまった。そのことが胸に痛い。

今の所、しばらくは、圏外に残されている資料を通じてしか、浜通り中心部はアクセスできない土地である。そのような営為は、現状を認識しつつ、資料を使って事態を再現するトレーニングを受けた歴史研究者の責務であろうとも思う。そして、それは…それ自体残念なことだが、現地での資料収集(浜通りだけでなく福島市でもということであるが)が難しい。文献へのアクセスが比較的容易な、東京だから今できることでもあろう。

さて、次は、この美しい土地浜通りに襲った地震・津波・放射線の爪痕について、現状をみていこう。

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さて、原発立地自体は、地域社会にとって多大な利益を与えるのか。以前、本ブログで『富岡町史』を紹介し、福島第二原発によって獲得したものとして、固定資産税、電源交付金、雇用の場(といっても多くは原発定期点検中の臨時かつ被曝する恐れのある労働力のようだが)、明るい商店街などをあげているのをみた。

その問いは、実は福島第一原発の用地交渉を統括した、福島県企画開発部開発課長横須賀正雄からも発せられていた。横須賀は、日本ダム協会編『用地補償実務例(Ⅰ)』(1968年)に、「東電・福島原子力発電所の用地交渉報告」という文章を寄稿している(なお、この資料の存在はウィキペディアにより知った)。横須賀は最後の「7.今後の原子力発電所建設の見通しと問題点」で、まずこのようにいっている。

 

昭和41年に着工された1号機40万kwは、45年10月に営業運転が開始される予定であり、2号機75万kwは、現在、通産省等に対し許可申請中である。この敷地の中に、3号、4号という計画をもっているが、福島県としては、用地の広さからみて、4号のみではなく、8号程度まで建設できるのではないかと考えている。
 さらに、太平洋海岸線に沿って、このほかにも原子力発電所建設基地があるという判断のもとに、幾つかの原子力発電所建設誘致したいと考えている。

このように、福島県を代表して、横須賀は福島第一原発を8号機まで増設する(実際には6号機まで)ことを期待し、さらに他にも太平洋岸に原発を誘致する意向を表明していた。それが、東電の福島第二原発建設、東北電力の浪江・小高原発計画につながっていくのである。

にもかかわらず、横須賀は、発電所建設単体では多くのメリットが地域社会に下りると思っていなかった。次のように、横須賀は語っている。なお、ここであげている固定資産税は、減価償却によって毎年減じていく性格をもっている。まして廃炉になれば、税収減は著しい。

 

しかし、ここで問題になることは、かっての只見川電源開発の過程では、何万人もの労働者が集まり、長期間にわたり工事が行われたが、工事完了とともに田子倉、滝発電所50万kwのための運転要員がわずか残った程度で、電力は東京なり、仙台に送られるということにより、地元に対するメリットとしては、固定資産税程度しか残らなかったということである。横須賀によれば、工事中は多くの労働者が集まったが、工事終了後は運転要員しか残らず、電力もすべて大都市に送られてしまい、地域社会には固定資産税しか残らなかったというのである。

そして、横須賀は、次のように、地域開発への期待を物語るのである。

 

そこで県としても、単に原子力発電所建設のみでなく、地域全体の産業全般につき再検討を加え、生産業を主体とした工場の誘致をはかり、地域的開発を促進していきたいと考え、今後の方向等について調査を行なっているところである。

『福島県史』第五巻(1971年)は、1970年に発表された「福島県勢長期展望」を引用し、原子力発電所建設を契機とした地域開発を提示している。それによると、大規模重化学工業の展開、動力炉・原子力船の開発、原子核エネルギー利用開発のための研究機関の設置、冷却水を熱源とした温室栽培や養殖漁業の展開などを予想される地域開発の成果としている。福島県としては、原子力発電所建設単体では大きなメリットはなく、このような地域開発の契機となってはじめて原子力発電所建設は恩恵になるとしていたのである。

しかし、現実には、このような地域開発は難しかった。また、建設された原発はたびたび事故をおこし、元来からあった原発への不安を増幅させた。そのため、中曽根康弘が通産相であった1974年に成立した電源三法による電源交付金が必要になったといえる。

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 豊田正敏の回想でみたが、とにかく福島第一原発一号機は、トラブルの多い原発であったようだ。そして、このトラブルは、放射線漏れに結びつくおそれがあるもので、環境に流出しないまでも、作業員が被ばくすることになった。

池亀亮は、「初号機の誕生」(樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』、2002年所収)で、福島第一原発一号機のトラブルについて語っている。池亀は、GE社との契約担当者で、一号機の運転開始の責任者として、1969年に発電準備事務所次長として赴任している。その彼が、とにかく福島第一原発一号機のトラブル続出について語っているのである。

読んでいると、私が読んでいても信じられないものがあった。配管などの資材の運搬・保管方法が不備で、据付け後大量の錆が流出し、その錆が放射化されたうえ、再循環により管壁に付着し、作業場の放射線バックグランドを上昇させたというのである。さらに、池亀は「加えてこの一号機には運転当初から燃料の破損があり、これも補修作業時の放射線被ばくを増加させる要因となった」と述べている。

また、そもそもスペインの仕様でつくったため、原設計では耐震設計基準を満たせず、結局支持構造物の補強が必要となって、結果として内部空間が狭隘になり、作業員が構造物の間をすり抜けていくため、無駄な時間・被ばくが増大するということもあったとしている。

池亀は、このようなトラブル続出の要因として、本来、先行するスペインの同型炉の建設が遅れ、1号機が同型1号炉となってしまったこと、GE社とターン・キイ契約をしたことにより、かえって、同社と意思疎通ができなかったことをあげている。

池亀は、回想の最後に、次のようなエピソードを語っている。

-営業運転開始

 初期トラブルに悩まされながら、なんとか試運転の試験項目をこなし、一号機は昭和46年3月26日営業運転に入った。
 しかし、試運転責任者である私から見れば、プラントは青息吐息。いつダウンしてもおかしくない状態にあった。本店に運開の報告に行った時には、プラントの状態を正確に認識して貰う必要があると思っていた。
 ところが、本店ではどこへ行っても「よくやった」と言われた。とくに財布の紐を預かる、今は亡き長島副社長からは「100%出力をキープしているのはまことに立派」とお褒めの言葉を頂いた。
 一号機の建設は予算超過の連続で、長島副社長からは常々「原子力は金喰い虫」と叱られていたからこのお言葉は嬉しかった。一方、実は何時ダウンするか分からない状態ですと言い出すきっかけを失ってしまった。
 その後も発電所は何とか全出力で運転継続でき、そのうちに初期故障も次第に少なくなって、プラントの運転状態も安定に向かった。こうして初期故障はなんとか収まりかけてきた頃、次の問題、応力腐食、SCCが起こった。このSCC問題はBWRにとって死活の問題だったが、これはまた別に語られるべき主題である。

もちろん、何事も初めというものはあり、初期トラブルもあろう。しかし、「安全神話」の原発は、「いつダウンするかわからない」という状態で営業運転するものではなかろう。それに、結局トラブルはへったわけでもなく、また「応力腐食」という問題に直面したのである。

原発とはそもそもそういうものであったようだ。

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豊田正敏は、東電の原子力技術者の先駆者の一人で、福島第二原発建設事務所長をつとめ、その後東電副社長・日本原燃サービス社長(六ヶ所村再処理施設経営)までなった人である。その彼が、樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』(2002年3月)の中で、福島第一原発1号機について述べている。

豊田だけではないが、総じて東電の技術者たちは、福島第一原発1号機の運転にはてこずっていたことを述べている。豊田は、アメリカでの経験を活かして改善が計られ、商業プラントの域に達している筈であると考えていたが、「予想外に次から次にトラブルが発生したのは驚きであった」と述べている。

豊田が、基本設計にかかわり、対処に長期間を要するものとして「燃料チャンネル・ボックスの損傷、原子炉給水ノズルの熱疲労割れ、制御棒駆動戻り水ノズルのひび割れ、燃料破損及び1次冷却配管の応力腐食割れなど」をあげている。専門外なので、よくわからないが、次のように、私が読んでも重大なトラブルがあったようだ。

この中、燃料破損は、放射能の高い核分裂生成物が、原子炉水中に漏れ出て原子炉まわりの保守点検作業時に被曝が大きく、作業が困難となり、短時間で作業員の交替が必要となった。また、原子炉水に放出される放射性希ガスが原子炉1次系及びタービン系の弁などから漏れ出し、建屋内の放射性レベルが突如として高くなる現象が見られ、その漏れの場所を調べるため、ビニール・カーテンで間仕切りしたり、テープで密封するなどして、順次測定箇所を絞り込む方法を採るなど大変な苦労があった。

引用していて、背筋が寒くなるような記述である。

最も問題だったのは、1次冷却配管の「応力腐食割れ」であった。「応力腐食割れ」については、「引張応力が作用する状態で腐食性の環境に金属材料が曝される時に生じる割れ現象である」(http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=02-07-02-15)と定義されている。一次冷却配管の応力腐食割れは高温高圧の水があることで引き起こされたとされている。冷却水の溶存酸素濃度が高い沸騰水型軽水炉(BWR)でより多く起こり、福島第一原発だけでなく、多くのBWRで頻発した。福島第一原発の状況を、豊田は次のように回想している。

…原子力発電所の停止期間が大幅に長期化し、一時は福島1号機から3号機まですべて停止するという最悪の事態となり、稼働率は最低19%という事態に立ち至った。
 社内のトップ層からは、「一体何時になったら原子力発電は信頼できるものになるのか。ダメならダメといってくれ。石油燃料を余分に手当てするなど対策を講ずるから。」といわれ、社内外から四面楚歌の状態で肩身の狭い思いをさせられ、また、現場の士気も著しく低下した。

原子力発電所の経済性をよくいわれるが、トラブル続きで稼働率が下がるならば、石油火力のほうがましと社内ではいわれていたのである。

この「応力腐食割れ」を、豊田は、10インチ以下の配管を全部とりかえる、10インチ以上の配管は高周波加熱によって配管内面に圧縮応力を発生させるなどの対策をたてた。これは数百億円かかり、社内・GE社・役所筋も懸念を示したが、豊田は経営トップ層を説得して、実施し、成功を収めたとしている。

このような経験を踏まえて、豊田は、原子力発電の未来に警鐘をならしている。

信頼性についてもう一つ重要なことは、一般国民特に、地元民の信頼の確保である。このためには、わかりやすくかつ、都合の悪い点も包み隠さず正直に説明することが必要である。いやしくも、虚偽の説明、改竄、捏造などはもっての外である。地元民との親密な接触を行い信頼を得ることが是非必要であるが、最近トラブルも減ってきており、地元民との接触が薄らいで来ているのではないかと懸念される。
 次に経済性については、安全性を大前提に、設計の贅肉を落とし、系統の単純化及びプラントのコンパクト化により、経済性の向上を図ってきた。特にA-BWRでは、従来のプラントに比べて建設費を二割削減することができた。さらに、設備利用率の向上、燃料燃焼度の向上、廃棄物発生量の軽減及び減容化が図られた。近年、コンパインド・サイクル火力発電の登場により、原子力発電の経済性をさらに高めることが急務になっているので、関係者の更なる努力を期待したい。いくら二酸化炭素の排出量がなく、環境に優しいと主張しても、安全性について国民の信頼が得られず、火力発電に比べ割高であれば、原子力発電の将来は暗いといわざるを得ない。

豊田は、次代の技術者の奮起を促しているのであろうが、この文章では、原子力発電は、火力発電より割高であり、安全性への国民の信頼もなく、ゆえにいくらエコといっても、その将来は暗いとしているのである。パイオニアすら、すでに原子力技術については楽観視していなかったのである。

「豊田正敏」をネットで検索してみると、彼は「高速増殖炉」や「六ヶ所村再処理施設」についての批判的言動をしているようである。ある意味で、原子力技術のありかたがその内部からも問われる時代にすでになっていたのではなかろうか。

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雨に煙る浜岡原発

雨に煙る浜岡原発

100年後の地球温度を体感するコーナー

100年後の地球温度を体感するコーナー

浜岡原子力館で遊ぶ子どもたち

浜岡原子力館で遊ぶ子どもたち

実寸大原子炉模型(パイプオルガンのようだが、実際の大きさもパイプオルガンくらいである)

実寸大原子炉模型(パイプオルガンのようだが、実際の大きさもパイプオルガンくらいである)

御前崎風力発電所(一部)

御前崎風力発電所(一部)

5月1日、浜岡原発を見学した。浜岡原発は、国が予知や対策を講じている東海地震において、まっさきに被害を受けるとされている原発で、今、一番早期に止めなくてはならないとされている。東日本大震災による福島第一原発事故後、この原発はかわったのか。それを確かめにいった。

その日は雨だった。駐車場はいっぱいで、広報施設「浜岡原子力館」には親子連れやカップルであふれていた。確かに雨で、無料で、しかも映画まで出してくるから、プレイスポットとして、いきたくなるのかわかる気がする。しかし、日本一危険な原発とされているのに、これは「ぬる過ぎ」はしないか。福島第一原発について、まるで他人事のようにみている。福島も、東海村も、東京も、原発について、いろいろ意見はあるだろうが、それぞれが考えている。東海村の広報施設は閑散としているが、子どもも含めて、それなりに真面目にみていると感じた。しかし、ここは、まるで別天地だ。

ここでは、1・2号機が運転終了、4・5号機が運転中、そして、問題なのは定期点検で運転休止となっている3号機であり、中部電力は再開する予定であるとしている。モニタリングポストの値は、平常値といわれる70-80ナノレム/アワーを下回り、50ナノレム/アワー以下。騒がないことも理解できないわけではない。

島根原発においては、この際原発について考えようということで、見学者が増えたとのことである。たぶん、そういう人間もいるだろう。しかし、多くは、全くの遊び場気分なのだ。

もちろん、行った人間をせめることはできない。今時、映画館でも1500円以上はする。雨の日、安く行けるところ、それが原発の広報施設なのだ。ある意味では、「貧困」のせいともいえる。

つまりは、「広報施設」として成功していると評価すべきなのだろう。しかし、本来は浜岡原発は「メリット」「デメリット」を客観的に考えるべきなのだと思うが、これでは、プレイスポットとして使ったことがあり、その時は「安全」であったという刷り込みになっているのではないか。文字通りの「子供騙し」だ。中部電力が自信満々に「浜岡原発」の運転再開を主張しているのは、このような広報活動の成功があるといえるのではないか。

まるで、別の国にきたような気がする。さほど浜岡は、東京から遠くない。それでもこのありさまでは、より遠い地域で東日本大震災や福島第一原発事故がどのようにとらえられているか、おぼろげながらわかるような気がする。

なお、浜岡原発には、御前崎風力発電所が併設されている。どちらも「エコ」なのだと、中部電力は主張したいのかもしれない。もし、震災が起きて、浜岡原発が全電源喪失になった際、この風力発電所が最後の砦かもしれない。しかし、風頼みな話ではある。

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さてはて、東海村の原子力科学館について、もう少し説明を加えておこう。この館は、原子力に関する総合博物館を標榜しており、前述のように社団法人茨城原子力協議会が運営している。間接的にいえば茨城県側が関与している組織といえる。料金は無料である。なお、4月24日時点では、それほど人は入っていなかった。ただ、入ってくる人たちは、子どもも含めて、かなり興味津々で展示を見入っていた。

原子力科学館

原子力科学館

原子力科学館の被災

原子力科学館の被災

この館の外観は、このようなものである。一見、震災の影響がないようにみえる。しかし、二階部分は震災に被災し、4月24日時点では入れないようになっていた。順路では、①ドリームシリンダー(「科学者にはどんな夢があったのか?」)と、②アトミック・パノラマスコープ(「巨大スクリーンで宇宙の誕生を見よう」)が先にあるのだが、それは見られなかった。結局、一階部分の、③アインシュタイン・スクエア、④アトミックLABO、⑤アトミック・ロードマップしか行けず、それも順路とはさかさまに歩くしかできなかった。

鉄道模型による放射線量変化のアトラクション

鉄道模型による放射線量変化のアトラクション

事故などの放射線の人体への影響

事故などの放射線の人体への影響

霧箱

霧箱

印象からいえば、非常に理詰めの展示であるといえる。特に目についたのは、自然界には放射線が満ち溢れており、少ない放射線ならば害はないと強調していることである。例えば、この中には鉄道模型があるが、その設置した理由は、地下や花崗岩質地盤など、自然界には放射線を多く発していることをみせるということであった。「霧箱」もあり、そこでは、宇宙線などさまざまな放射線が白い輝線となってみえるようになっている。そして、放射線や原子力の利用方法を説明し、最後のコーナーで茨城県の放射線・原子力施設などを紹介するという形をとっている。「レム」「シーベルト」「ベクレル」などの単位をわかりやすく説明するコーナーもあり、それなりに有益である。

しかし、自然放射線の程度をこえた、福島第一原発由来の人工放射線が満ち溢れている現在、このような説明は、前述したモニタリング・ポストのところで述べたように、かえって逆効果であるようにみえる。

東海村JCO臨界事故再現展示

東海村JCO臨界事故再現展示

一方、別館にて、1999年の東海村JCO臨界事故の展示がされていた。存外小さい。
この写真をとる際、小学校1年生かそれ以下と思われる子どもを三人つれてきていた親子連れがいた。子どもたちは、興味津々で、説明ビデオは二度もみているし、風評被害を訴えるオーディオも聞いていた。漢字読めるだろうかと思うような子たちだった。

福島第一原発事故の恐怖が、12年前の東海村JCO臨界事故の恐怖を再度呼び起こしているといえる。現在の恐怖が、過去の恐怖を想起させているのだ。

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原子力科学館モニタリングポスト

原子力科学館モニタリングポスト

原子力科学館モニタリングポストの計測値

原子力科学館モニタリングポストの計測値

周辺モニタリングポストの放射線量

周辺モニタリングポストの放射線量

この東海村には、閉館していた東海テラパーク以外にも、広報施設がある。その一つに、茨城原子力協議会が設置している原子力科学館がある。このなかには、放射線量をはかるモニタリングポストが設置されている。。説明パネルでは、40-80ナノグレイ/アワーならば自然放射線量と説明している。確かに室内は、私が訪問した4月24日で68.1である。しかし、東海村の他の地点は、ほとんどの地点で80をこえ、だいたい150程度であり、中には200以上になっているところもある。この数値は、5月2日現在でもあまりかわっていない。「安全神話」を前提として「安心」をアピールしようとした言説が、事態の急変により「不安」をかきたてる言説となっている。まさに、危機だ。

なお、5月2日の福島市役所の放射線量は、約1.5マイクログレイ/アワーであり、ナノ換算であると1500ナノグレイ/アワーとなる。これでは、少なめにみつもって自然放射線量の約20倍となる。3月18日には、福島市役所は12.34マイクログレイ/アワーになっており、ナノ換算では12340ナノグレイ/アワーで、自然放射線量の約150倍以上となってしまう。自然放射線量を引き合いにだすことなど、ほとんど意味がない。これほど大きな被害を福島第一原発事故は与えたのだ。

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