豊田正敏の回想でみたが、とにかく福島第一原発一号機は、トラブルの多い原発であったようだ。そして、このトラブルは、放射線漏れに結びつくおそれがあるもので、環境に流出しないまでも、作業員が被ばくすることになった。
池亀亮は、「初号機の誕生」(樅の木会・東電原子力会編『福島第一原子力発電所1号機運転開始30周年記念文集』、2002年所収)で、福島第一原発一号機のトラブルについて語っている。池亀は、GE社との契約担当者で、一号機の運転開始の責任者として、1969年に発電準備事務所次長として赴任している。その彼が、とにかく福島第一原発一号機のトラブル続出について語っているのである。
読んでいると、私が読んでいても信じられないものがあった。配管などの資材の運搬・保管方法が不備で、据付け後大量の錆が流出し、その錆が放射化されたうえ、再循環により管壁に付着し、作業場の放射線バックグランドを上昇させたというのである。さらに、池亀は「加えてこの一号機には運転当初から燃料の破損があり、これも補修作業時の放射線被ばくを増加させる要因となった」と述べている。
また、そもそもスペインの仕様でつくったため、原設計では耐震設計基準を満たせず、結局支持構造物の補強が必要となって、結果として内部空間が狭隘になり、作業員が構造物の間をすり抜けていくため、無駄な時間・被ばくが増大するということもあったとしている。
池亀は、このようなトラブル続出の要因として、本来、先行するスペインの同型炉の建設が遅れ、1号機が同型1号炉となってしまったこと、GE社とターン・キイ契約をしたことにより、かえって、同社と意思疎通ができなかったことをあげている。
池亀は、回想の最後に、次のようなエピソードを語っている。
-営業運転開始
初期トラブルに悩まされながら、なんとか試運転の試験項目をこなし、一号機は昭和46年3月26日営業運転に入った。
しかし、試運転責任者である私から見れば、プラントは青息吐息。いつダウンしてもおかしくない状態にあった。本店に運開の報告に行った時には、プラントの状態を正確に認識して貰う必要があると思っていた。
ところが、本店ではどこへ行っても「よくやった」と言われた。とくに財布の紐を預かる、今は亡き長島副社長からは「100%出力をキープしているのはまことに立派」とお褒めの言葉を頂いた。
一号機の建設は予算超過の連続で、長島副社長からは常々「原子力は金喰い虫」と叱られていたからこのお言葉は嬉しかった。一方、実は何時ダウンするか分からない状態ですと言い出すきっかけを失ってしまった。
その後も発電所は何とか全出力で運転継続でき、そのうちに初期故障も次第に少なくなって、プラントの運転状態も安定に向かった。こうして初期故障はなんとか収まりかけてきた頃、次の問題、応力腐食、SCCが起こった。このSCC問題はBWRにとって死活の問題だったが、これはまた別に語られるべき主題である。
もちろん、何事も初めというものはあり、初期トラブルもあろう。しかし、「安全神話」の原発は、「いつダウンするかわからない」という状態で営業運転するものではなかろう。それに、結局トラブルはへったわけでもなく、また「応力腐食」という問題に直面したのである。
原発とはそもそもそういうものであったようだ。
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