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Posts Tagged ‘広瀬隆’

3.11以前、仕事などで福島第一・第二原発を間近に見ながらも、私は原発に対する危機意識を十分もつことはなかった。このことは、私にとって重い問題である。しかし、たぶん、一般的にもそうだったであろう。

3.11以前、「反核」といえば、「反核兵器」のことを意識するほうが多かったのではないかと思う。チェルノブイリ事故(1986年)後の1987年、広瀬隆はチェルノブイリ事故の危険性を警告した『危険な話』(八月書院)の中で、次のように指摘している。

多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している。奇妙ですね。核兵器のボタンを押すか押さないか、これについては今後、人類に選択の希望が残されている。ところが原子炉のなかでは、すでに数十年前にボタンを押していたことに、私たちは気づかなかったわけです。原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。いまやその容れ物が地球の全土でこわれはじめ、爆発の時代に突入しました。爆発して出てくるものが深刻です。(p54~55)

そして、広瀬隆自身が「核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる」として批判されてもいた。共産党系の雑誌『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に掲載された「座談会・自民党政府の原発政策批判」において、「赤旗」科学部長であった松橋隆司は、チェルノブイリ事故後に原発を含めた「核絶対反対」という方針を打ち出した総評ー原水禁を批判しつつ、明示的ではないが広瀬隆の言説について次のように指摘した。

また「原発の危険性」という重大な問題を取り上げながら、原子力の平和利用をいっさい否定する立場から、「核兵器より原発が危険」とか、「すでに原発のなかで核戦争が始まっている」といった誇張した議論で、核兵器廃絶闘争の重大性から目をそむけさせる傾向もみられます。(p80)

直接的には私個人は関係してはいなかったが、このような志向が私においても無意識の中で存在していたと考えられる。1980年代の「反核運動」については参加した記憶はあるが、「反原発運動」については、存在は知りながらも、参加した記憶がない。このことについては、社会党ー原水禁が原発反対、共産党ー原水協が原発容認(既存の原発の危険性は認めているが)という路線対立があったことなど、さまざまな要因が作用している。しかし、翻って考えてみると、「将来の危機」としての戦争/ 平和などの対抗基軸で世界を認識していた戦後の認識枠組みにそった形で原子力開発一般が把握されていたと考えられる。もちろん、これは当時の文脈が何であったを指摘するもので、現在の立場から一面的に批判するという意図を持っていないことを付記しておく。

さて、3.11は、このような原子力開発への認識を大きく変えた。核戦争という「将来の危機」ではなく、原発事故と放射性物質による汚染という「いまここにある危機」が意識されるようになった。「反核」とは、まずは「反原発」を意味するようになったのである。

このことは反原発運動におけるシュプレヒコールにおいても表現されている。下記は、小田原淋によって書き留められた2013年3月15日の金曜官邸前抗議におけるシュプレヒコールの一部である。

原発いらない 原発やめろ 
大飯を止めろ 伊方はやめろ 
再稼働反対 大間はやめろ 
上関やめろ 再処理やめろ 
子どもを守れ 
大飯を止めろ さっさと止めろ 
原発反対 命を守れ 
原発やめろ 今すぐやめろ 
伊方はやめろ 刈羽もやめろ 
大飯原発今すぐ止めろ 
ふるさと守れ 海を汚すな 
すべてを廃炉 
もんじゅもいらない 大間建てるな 
原発いらない 日本にいらない 
世界にいらない どこにもいらない 
今すぐ廃炉 命を守れ 農業守れ 
漁業も守れ だから原発いらない
(小田原琳「闘うことの豊穣」、『歴史評論』2013年7月号、p66)

小田原は、この中に大飯原発再稼働や建設中もしくは再稼働間近と予想される原発への抗議、原発を止めない理由の一つとされた再処理政策への批判、放射性物質による環境汚染や健康被害への不安、原発輸出に対する異議申し立てがあると要約し、「きわめて短いフレーズのなかにひとびとが原発事故後に学んだ知識が凝縮されている」(同上)と評価している。このようなシュプレヒコールは、金曜官邸前抗議に足を運んだ人にとっては目新しいものではない。しかし、もう一度テクストの形で読んでみると、このシュプレヒコールの主題は、「反核兵器」ではなく、「反原発」であることがわかる。つまり「反核」の中心は、平和時に存在している原発への反対になったのである。

ただ、それは、それまでの「反核兵器」という意識が薄れたということを意味してはいない。金曜官邸前抗議においては、もちろん、広島・長崎への原爆投下については議論されており、使用済み核燃料再処理問題についても原爆の材料となるプルトニウム生産能力を確保しようとする意向があることもスピーチにおいて指摘されている。「反原発」という課題の中に「反核兵器」という課題が包含されたといえるだろう。

いずれにせよ、このような反核意識における「反核兵器」から「反原発」への重点の移動は、あまりにも日常的でふだん意識しないものではあるが、3.11によって引き起こされた大きな変化の一つであったといえる。それまでの「反核」は、戦争/平和という認識枠組みの中で把握されていた。すでに、原発立地地域における反原発運動において、「原子力の平和利用」の名目で行われてきた原発建設のはらむ問題性は指摘されていたが、反核全体においては「従」の立場に置かれていたといえる。結局、自らの日常が存在していた「平和」の中に存在していた諸問題は「反核」の中ではあまり意識されてこなかったのである。

しかし、「原子力の平和利用」とされてきた原発が反核意識の中心におかれるということは、反核意識が「平和」「日常」そのものを問い直さなくてはならないものとなったということを意味しているといえる。翻って考えてみれば、福島第一原発事故とそれによる放射性物質の汚染という問題が、今まで「平和な日常」とみなしてきた自分自身の眼前に及んできたということを意味してもいるだろう。そして、そのような「日常的」な次元での意識変化が、反核意識の中での「反核兵器」から「反原発」への重点の変化につながっていったと考えられるのである。

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さて、これまで、1956年以降、最初の原発が放射性物質による被ばくリスクを考慮して「低人口地帯」である東海村に立地したことをみてきた。また、1957年のウィンズケール原発メルトダウン事故を前提として、1964年に原子炉立地審査指針が定められ、隣接地区は非居住区域であること、その外側は低人口地帯とすること、原子炉敷地は人口密集地帯から離れていることが条件とされた。同時期に原子力委員会が東海村周辺を対象とした原子力施設地帯整備の方針案においては、

(1) 施設地帯の住民の安全の確保と福祉の増進を前提として、人口や各種施設の配置とその規模の適正化を期しつつ、この地帯の健全な発展を図ることを目標とする。
(2) 具体的には、施設地帯を3段階に分け、原子力施設隣接地区(施設からおおむね2km未満)にはつとめて人口の増加を生じないよう、原子力施設近傍地区(おおむね2km以上6km未満)には、規模の大きい人口集中地区が存在しないようにし、また、その他の周辺地区(おおむね6km以上)には、人口の増加が正常に行われるよう留意する。
(3) したがって、原子力施設地帯の理想像は、白亜の施設を、公園、緑地などのグリーンベルト地帯がとりまき、その周囲には工場その他居住用以外の諸施設は配置され、さらに、その外側には住宅が整備され、また、これらを結ぶ道路、衛生施設などが整備されている。(後略)
(『原子力開発十年史』p.p333-334)

と、されていることをみてきた。原発周辺2km未満の範囲は居住制限を行うグリーンベルト地帯に、その外側の6kmまでの範囲は人口の集中を抑制する地帯とすることが構想されていたのである。

このような原発立地の方針は、原発事故を前提に、放射性物質の被ばくが多くの人びとにふりかかるリスクをさけるために、低人口地帯に立地させようということに基づいている。もちろん、福島第一原発事故の経験は、周辺6kmの人口増を抑制するという措置では、緩衝地帯を設けるという目的を十分はたせないことを示した。福島第一原発事故の警戒区域は原発周辺20km以内の区域であり、その外側にも飯館村のように計画的避難区域が存在している。より外側にも、放射線管理区域以上の汚染を示す地域が広がっている。

しかし、問題なのは、原発事故によって被ばくがあると想定されている地域においても、「低人口地帯」であるが人びとが住み続けているということなのだ。例えば、東海村の場合をみておこう。下図のグーグルマップにおいて、県道284号と県道62号線の交差点付近までが2km圏内であるが、その内部にも人びとが住み続けている。そこには、豊受大神宮という神社もある。

原発周辺6km圏内ではどうか。より大きな航空写真でみていこう。「運動公園陸上競技場」というあたりが原発より6kmの距離にあるようだが、その範囲であると、東海村役場、常磐線東海駅、常磐道、日立港、常陸那珂湊港などが入ってしまう。もちろん、ここには、人びとが住んでいるのである。1957年のウィンズケール原発事故によって作られた、今日からみれば不十分である1964年の基準からみても、被ばくのリスクをおう人びとが住み、生産活動に従事しているのである。

さて、もし、「福島第一原発事故の知見」をいかして、原発より20kmの範囲を被ばくのリスクがあるとしてみたらどうか。グーグルマップでみると、東海村はもちろん、近隣の日立市・常陸太田市・那珂市・水戸市・ひたちなか市が入ってしまうのである。

現在、再稼働が問題となっている福井県の大飯原発ではどうか。確かに大飯原発は、若狭湾に突き出した大島半島の突端にある。しかし、そこに人が住んでいないわけではない。一番近くの人家は、「宮川興業」とあるあたりのようだが、そこまでの距離は1km程度である。被ばくのおそれがあると原子力委員会が認定している範囲でも、少数ながら人たちは住んでいるのだ。

事故によるリスクを考えるならば、原発の近くに人は住むべきではないと原子力委員会すら認めている。しかし、そこに居住し、さらなる地域開発を求める地域住民は、そのようなことは受け入れないであろう。言葉だけの「安全」を叫びつつ、人口増加ーある意味では地域開発ーを抑制する。そして原発が立地する「低人口地帯」を「低人口」として維持しつつ、そこに住む人たちの「安全」は事実上切り捨てられ、多くの人びとが住む東京などの大都市の「安全」をはかる。これが、原子炉立地審査指針などに示される原発立地方針の論理なのだ。

ここで、広瀬隆の『東京に原発を!』の中の一節を思い出した。

いかなる人間も、他人の生活を侵害することは許されない。これが人間の生存原理である。現在、わが国で原子力発電所が運転されている土地では、ほとんどの住民が不安を抱き、しばしば恐怖心に襲われながら、それを口にすることによって地場産業が殺されることを怖れ、自分ひとりの胸に包んでおくという、という日々が続いている。
建設されるまでは激しい反対運動がありながら、一度建設されてしまうと死んだように黙りこくるのは、そのためである。だが、これら現地の人が知っておかなければならないことがある。東京の人間は次のように語っているのだ。
「五十人殺すより、一人殺したほうがいいではないか」(日本テレビ・ドキュメント’81”東京に原発がやってくる”、1981年10月25日放映)
おそろしい言葉である。現地の人びとが殺されることを前提に、いまの原子力発電所が運転されている。これは原発問題に源があるのではない。わが国のジャーナリズムの大きな流れが、すべて東京を中心に発想し、行動し、それぞれの町や村の人びとを一顧だにしない狂気のうねりとなって、静寂の生活を許さない空気をつくり出してしまった結末である。東京に住む者だけが、人間として認められるのだ。(広瀬隆『東京に原発を!』 集英社 1986年。なお、広瀬隆は1981年に同書をJICC出版局から出版しているが、チェルノブイリ事故直後に改版して出版した。本引用は集英社版からである)

放射性物質による汚染、被ばくのリスクがあるから「低人口地帯」に原発を立地するということは、「五十人殺すより、一人殺したほうがいいではないか」という論理を内在させているということなのである。原発労働者の問題とともに、このことを忘れてはならないだろう。

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以前、本ブログで、チェルノブイリ事故(1986年)に直面した共産党の人びとが、政府の進める原発建設政策に個別の問題では反対しつつ、原発自体は認める姿勢をもっていたこと、そして、反原発の立場をとっていた日本社会党系の原水禁の人びとの対抗から、原発批判を強めていた広瀬隆に批判的になっていったことを述べた。

日本共産党の影響力の強かった科学者の団体である日本科学者会議も、共産党同様微妙な位置にあった。日本科学者会議の会員たちの一部は、日本各地の反原発運動を担っており、その機関誌である『日本の科学者』には、反原発運動への参加が語られている。他方で、日本科学者会議もまた、広瀬隆批判を行うようになった。

1988年5月22日、日本科学者会議は、東京の学士会分館で、「原子力をめぐる最近の諸問題」というシンポジウムを開催した。このシンポジウムでは、①広瀬隆『危険な話』は危険な本、②「非核」と「反原発」の違いは……、③新日米原子力協定をめぐる諸問題という三つがテーマとなった。①については、原沢進(立教大学)と野口邦和(日本大学)が報告した。このシンポジウムで、原沢は、広瀬隆の『東京に原発を』『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』などを分析し、「きわめて恣意的な引用などに基づく推定や結論でちりばめられており、科学的な検討に値するものは一つもない」(「科学者つうしん」、『日本の科学者』第23号第8号、1988年8月、p57)と結論づけた。また、野口は、「原発推進者を事実上免罪する『危険な話』の危険な結論、自然科学的な間違い、広瀬隆氏の用いている手法の矛盾点などを詳細に分析し、きわめてデタラメかつ危険な書物であると指摘」(同上)した。

このシンポジウムの野口報告は、『文化評論』1988年7月号(新日本出版社)に「広瀬隆『危険な話』の危険なウソ」と題されて掲載された。『文化評論』の本号には、本ブログで前述した、共産党の人びとによる「座談会・自民党政府の原発政策批判」もまた掲載されている。この座談会とあいまって、野口のこの報告は、共産党系の人びとによる広瀬隆への批判的な姿勢を強く印象づけるものとなったといえよう。

他方、野口の報告は、反共産党系な論調をもつ『文藝春秋』1988年8月号にも「デタラメだらけの広瀬隆『危険な話』」と題して掲載されている。『文化評論』掲載ヴァージョンと『文藝春秋』ヴァージョンは全く同じものではない。多くの文章が使い回されているが、構成は異なる。『文藝春秋』ヴァージョンのほうは、省略された部分が多い。そして、どの部分が省略されたのかということが問題なのだが、それは後述しよう。

ここでは『文化評論』ヴァージョン(文化評論版と略述する)をまずみていこう。ここで、野口邦和が日本大学の助手であったこと、専門が放射化学であったことがわかる。つまりは、専門家なのである。野口は、広瀬隆の「真の問題は、愚かな原子力関係者にあるのではなく、その先兵をつとめるジャーナリズムと知識人にあるのです」(広瀬隆『危険な話』p284)と述べているところをひいて、「つまり、ここには無謀な原発の大規模開発計画を推進する原発推進者を事実上免罪し、国民の批判の目をジャーナリズムと知識人に集中させることに躍起になっている広瀬隆氏の姿が見えるのではないか。これを危険と呼ばないで何と呼ぼうか」(文化評論版p115)と批判している。たぶん、広瀬の真意とかみ合っていないのであるが、それはそれとしておくとして、野口の広瀬に対する批判の眼目は、たぶんに「ジャーナリズムと知識人」を広瀬が攻撃していることにあるといえる。

ある意味で、野口が、共産党の人びとと同じ立場にたっていたといえる。野口は、自分自身の原発に対する姿勢について、原子力の平和利用に反対しないが、現状の原発の安全性には問題があるので、原発増設はやめるべきであり、既存の原発の運転も最低限にすべきと思っていると述べている。大きくいえば、「座談会・自民党政府の原発政策批判」で表明された、共産党の原発政策の枠内にあるといえる。そして、また、「多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している」(『危険な話』p137)という部分を引用して、「私の周囲にいる決して多くはないが、『反核運動に情熱を燃やし』ている人々は、『大部分が原子力発電を放任してい』ない。核兵器の廃絶と原発反対の課題とを対立させることはなく、非常に熱心に活動している」(文化評論版p138)と述べ、広瀬の先の主張は全然間違っていると断言した。この論理も、先の「座談会・自民党政府の原発政策批判」に出てきたものである。

しかし、野口の批判は、共産党の人びとの「座談会・自民党政府の原発政策批判」における批判よりも過激なものになっている。座談会では、広瀬への名指しの批判はさけている。また「座談会」での広瀬らへの批判の中心は、核兵器廃絶よりも原発撤廃を優先させているようにみえることにあり、広瀬の主張の妥当性については、端々で批判的な言辞がちらつくものの、正面から批判していたわけではない。野口の批判は、広瀬隆の主張を「ウソ」と判定することが中心であり、ある意味では政策的な違いに還元できる共産党の人びとの批判より辛辣なものであるといえる。

『文化評論』に掲載された野口の論考は、最初から最後まで、広瀬隆の『危険な話』の各部分を「ウソ」と断じることから成り立っている。正直いって、よくあきもせず批判できるものだなと思う。その中で、特に、重要なことは、チェルノブイリ事故後に出されたソ連の事故報告書を信頼して、チェルノブイリ事故を語ることができるかどうかということである。広瀬は、徹頭徹尾、ソ連の報告書は全世界的に原発を推進しているIAEAによって書かされたものであり、それに依拠して事故を論じることこそIAEAの思うつぼであるとして、断片的に伝えられた新聞報道から、事故の実態を推測するという手法をとっている。しかし、野口は、その問いには答えようとせず、「私が『ソ連の報告書』によって基づいてお教えしよう」(文化評論版p121)と、ソ連の報告書に全面的に依拠して広瀬に反駁している。あまつさえ、「もう少し『ソ連の報告書』をちゃんと読みなさい、広瀬さん」(同上p122)と説教までするのだ。

本ブログで、広瀬隆について述べたが、その際「科学史家の吉岡斉は『新版 原子力の社会史』(2011年)の中で、広瀬の指摘を先見の明のあふれるものとし、現在まで基本的に反証されていないものとしている。」と指摘した。吉岡は、さらに、野口邦和の批判について、次のように述べている。

そこには広瀬の文章のなかに少なからず含まれる単純化のための不正確な記述に対する執拗な攻撃がくり返されている。しかし野口の最も基本的な主張は、ソ連報告書をフィクションと断定する広瀬の主張は、広瀬自身がソ連報告書を反証するだけの解析結果を示さない限り、説得力がないという主張であった。つまり野口は事実上、ソ連報告書の内容の全面的な擁護をおこなったのである。ソ連政府による事故情報独占体制のもとで、広瀬がソ連政府の公式見解を反証する解析結果を示すことが不可能であることを承知のうえで、野口はソ連政府を全面的に擁護したのである。(『新版 原子力の社会史』p227〜228)

吉岡の主張は、野口への批判として、極めて要を得たものといえる。今の時点で付け加えさせてもらえば、今回の福島第一原発事故に関して、いかに政府の「公式見解」は、事態の隠蔽に奔走するものであることが了解できた。その意味で、吉岡の発言はより重く感じさせられたのである。

野口の批判は多岐にわたるが、ここでは、放射性ヨウ素と甲状腺障害との因果関係についての広瀬の文章を、野口が批判している部分をここではみておこう。野口は「 」において広瀬の文章を引用した上で、その何倍にもわたる量の批判を書いている。

③「㋐南太平洋のビキニ海域で核実験がおこなわれ、その一帯に住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている。㋑この住民を追跡してきた写真家の豊崎博光さんと先日会って話を聞いたのですが、この人たちがヨード剤を飲んでいたというのです。㋒危険な(放射性)ヨウ素を体内に取りこむ前に、ヨード剤を飲んで体のなかをヨウ素で一杯にしておけば、危険なものは入りこみにくい、という原理ですね。㋓ところが、それが効かなかった。㋔つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生す(ママ)。㋕もうすでに、兆候は出はじめているでしょう」(六〇~六一頁、㋐~㋕に記号と括弧内の挿入は私)
先ず、㋐の文章であるが、ウソである。甲状腺被曝により発生し得る疾病は甲状腺ガンおよび甲状腺結節である。一九七七年国連科学委員会報告書『放射線の線源と影響』(アイ・エス・ユー社)によると、被曝したマーシャル諸島の住民(ビキニ海域一帯の島の住民のこと)二百四十三人のうち七人から甲状腺ガンが発生している。甲状腺結節のデータはここには掲載されていないが、この数倍はあると思う。つまり大雑把に見積って、合計すると二百四十三人中三十~四十人から甲状腺ガンまたは甲状腺結節が発生していることになる。被曝したマーシャル諸島の住民の何と八分の一~六分の一が甲状腺ガンまたは甲状腺結節を患っているのである。これだけでも実は大変な状況なのである。しかし、一九七七年以降の甲状腺ガンまたは甲状腺結節の発生数について私は知らないが、それらを加えても「住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている」と言えないことは確かである。広瀬隆さん、それなのになぜあなたは「住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている」などと、すぐに分かるウソをつくのか。あなたのようなウソなど全然つかなくとも、被曝したマーシャル諸島の住民が大変深刻な状況にあることは容易に想像できることなのである。すぐに分かるウソではなく、被曝したマーシャル諸島の住民の状況をあるがままに伝えることのほうがずっとずっと大切なことであると思う。
(中略)
 ㋔の文章、「つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生する」中の「甲状腺ガンがすさまじい勢いで発生する」は、文学的表現であろうか。文学的表現であるならば、私としてはノーコメントである。何も言うことはない。しかし「稀にみる真実」であると主張するのであれば、このように情緒的な表現だけを用いるのは間違いの元で、避けるべきであると思う。チェルノブイリやヨーロッパの子どもたちの甲状腺の推定被曝線量はどのくらいか、将来発生し得る甲状腺ガン患者数(または死亡者数)はどの程度かを明記すべきである。さらに、自然発生甲状腺ガンの発生者数(または死亡者数)が分かるのであれば、それも付け加えるとなお一層よい。その上で、「甲状腺ガンがすさまじい勢いで発生する」と言いたければ、そう言えばよいと思う。私は常にそうするようにしている。
 ㋕の「もうすでに、兆候が出はじめているでしょう」も間違いである。ロザリー・バーテル女史の「放射能毒性事典」(技術と人間社)によると、甲状腺ガンおよび甲状腺結節の潜伏期はともに十年である。ただしバーテル女史によると、良性の腫瘍の場合には十年の潜伏期を経ずに発生することもあり得るという。いずれにしても、『危険な話』の第一刷が発行されたのはチェルノブイリ原発事故から一年しか経過していない一九八七年四月のことであり、それ以前から広瀬さんは「(甲状腺ガン)の兆候は出はじめている」(括弧内の挿入は私)とあっちこっちで講演して回っているわけだから、完全なウソ、作り話である。なお、先程の㋐のところに触れたことに関係するが、甲状腺結節は甲状腺ガンより三倍発生率が高いとバーテル女史は評価していることを、参考までに指摘しておく(文化評論』版、p142~144)

最初のほうは、大気中核実験が行われたマーシャル諸島の住民における甲状腺障害の問題である。広瀬はビキニ海域の住民に限定して「住民のほとんどが甲状腺障害をもっている」と語り、野口はより広範囲のマーシャル諸島全体を対象にした報告書から引用している。まずは、たぶん両者は同一のデータからみていないのではないかと推測される。その上、野口も、マーシャル諸島全体の統計でも甲状腺障害が平常よりかなり多いことは認めている。確かに、広瀬が「住民のほとんどに甲状腺障害がある」と主張しているのは誇張といえるかもしれない。ただ、広瀬としては、たぶんに核実験の死の灰による影響をアピールするためのレトリックだったとも思える。核実験の死の灰に起因する甲状腺障害の深刻さは決して「ウソ」とはいえないのだ。野口の批判では、広瀬の主張全体が「ウソ」となる。そして、それは、核実験の死の灰におけるマーシャル諸島の住民の苦しみを見過ごしていくことにつながってしまいかねないのだ。

後段のほうは、チェルノブイリ事故後、ヨーロッパやソ連で甲状腺ガンが子どもたちの間で多く発生するだろうと広瀬が予測している部分についてである。野口は、そのような推定データを広瀬はつけていないし、甲状腺ガンが発生するのは時間がかかるから、広瀬がそのように主張していることは「ウソ」であると断じている。

確かに、広瀬の主張に根拠があるのかといえば、形式的には野口のいう通りともいえる。しかし、現在、私たちは、チェルノブイリ事故後、実際にチェルノブイリ周辺の子どもたちに甲状腺ガンが発生したことを知っている。その意味では、専門家である野口よりも、野口によれば科学的とはいえない広瀬のほうが現実の事態を予見していたともいえる。いずれにしても「ウソ」とはいえないであろう。そして、このことを主張する広瀬を「ウソツキ」と断ずる以前に、とりあえず広瀬の主張を「仮説」としてとらえ、その真偽を自ら実証してみるべきではなかったかと思えるのである。

野口の批判は、これ以外も枚挙の暇がないほど続くのであるが、このあたりでやめておく。野口の広瀬隆批判は、確かに共産党の人びとの広瀬批判に触発されたものであろうと思えるのだが、実は、それとは別個の問題が提起されていると思う。野口の批判は、広瀬隆のジャーナリズムと知識人批判に対して、広瀬の主張総体を「ウソ」と断ずることによってなされる、「学知」の側からの反撃ともいえるのである。『文藝春秋』に掲載された版では、共産党や原水協などの原発政策に関わる部分は削除されているのだが、全体の印象は文化評論版とそれほど変わらない。そのことは、この野口の広瀬批判の眼目が「学知」の側からの反撃というところにあったからだと思われる。

この野口の広瀬批判をどうとらえるか。重要な問題なので、項をあらためて検討することにしたい。

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ここで、チェルノブイリ事故(1986年)の衝撃を日本社会はどのようにうけとめたのかをみておこう。チェルノブイリ事故においては、原発所在地周辺は住民の居住を許さないほど高濃度の放射性物質による汚染がみられ、その後、周辺住民の中で放射性物質に起因するとみられるガン・白血病が発生したことは、周知の通りである。他方、これは、あまり意識されていないことであるが、チェルノブイリ事故による放射性物質の汚染は、ソ連だけでなく、ヨーロッパを中心に広範囲にみられ(部分的には日本にも及んだ)、放射性物質による汚染に対する恐怖は、ヨーロッパ各国においてもまきおこった。このことについては、以前、本ブログの中でも、田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年)に依拠して紹介した。

日本においても、チェルノブイリ事故を契機として、原発の危険性を警戒する声が高まった。このような動きの中心にいたのが、ジャーナリストであった広瀬隆であった。広瀬隆は、チェルノブイリ事故以前から原発や核実験の危険性を警告していた。『東京に原発!』(1981年)においては、過疎地に建設されていた原発を過密地である東京に建設するという想定をしつつ、原発の危険性を訴えた。『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(1982年)では、アメリカ・ネバタ州の原水爆実験場周辺において、ロケにきたハリウッドの俳優や住民においてガンが多発したことをとりあげ、単に核戦争だけではなく、原水爆実験自体も危険性を有していることを主張した。

チェルノブイリ事故直後、広瀬は日本各地で、チェルノブイリ事故にみられる原発の危険性を訴えた講演会活動を精力的に展開した。当時、広瀬隆の講演は広範囲に聞かれており、そのさまは「ヒロセ・タカシ現象」とよばれたとのことである。そして、この講演会活動で話した内容を『危険な話―チェルノブイリと日本の運命』(1987年4月26日、八月書院)という形でまとめた。

ここでは、本書の内容を紹介しながら、本書のもつ原発の危険性への「警告」の意義と、その「警告」を「実証」することの難しさをみていきたい。

本書の最初は、このような形ではじまっている。

御紹介いただきました広瀬です。司会者の方にお言葉を返すようですが、私は作家でも先生でもありません。これは、チェルノブイリの事故についての報道に関係することでもありますので、最初にお断りしておかねばなりません。
私はただ、自分の身を守る、と言うよりむしろ正直に申しあげれば二人の娘の命を守りたいという、父親としての生物本能から、このような所に立っています。ですから、おそらく今日ここに来られた皆さんは、この世ではかなり意識の高い人が集まり、ある人はジャーナリズムに係わり、ある人は環境問題や消費者問題を心配し、ある人は政治的な活動に関係するなど、さまざまな活動をしているのではないかと想像しますが、そのようなことは一切忘れて、今日はすべて過去の知識をいったん白紙に戻して話を聞いてください。
大切なことは運動ではありません。事実を知ることです。たった一人の自分個人に立ち返っていただきたいのです。日本人はすぐに運動をはじめますが、今は、もう運動だとかジャーナリズムだとか、そのような次元を超えた時代、つまり生きるか死ぬかの断崖に人類が立たされているのです。(p8)

ここで、広瀬は、自分を作家でも先生でもなく、二人の娘の命を守りたい父親の立場にたって、この講演を行っているといっているのである。いわば、作家・学者として、聴衆に啓蒙を行うのではなく、放射性物質による汚染を自分の娘のために防がなくてはならないという「当事者」の立場にたっていると宣言しているといえる。そして、聴衆にも、運動の立場なのではなく、「たった一人の自分個人」にたちかえれとよびかけているのである。つまりは、他者のための「運動」ではなく、当事者としての自分個人を自覚せよというのである。

 まず、チェルノブイリ事故について、いろんな意味で情報隠蔽がされていると、広瀬は述べている。それは、日本において、もっともはなはだしいと指摘している。

…いったいソ連でどのような事故が起こったのかということについて、テレビや新聞ではほとんど報道されていない部分があります。実は、重大な事実が秘密にされています。実は、私たちが今食べている食べ物の中に、チェルノブイリからまきちらされました大量の死の灰が現実に入ってきて、それを私たちが食べなければならないという状況が起きております。そのために食べ物を作っている人たちが全世界的に大打撃を受けております。
 それで、この事故をなんとか小さく見せようということで、ジャーナリズムもほとんどそれを報道しないできました。しかし、現実にはもっと怖いことが進行しています。特にこの日本ではジャーナリズムが原発問題ではひじょうに遅れていまして、…ですから日本人ほどほとんど何も知らされていない国民は世界でも珍しい、完全に世界から取り残されている、という状況に置かれているわけです。(p9)

 特に、広瀬は、1986年にソ連が発表したチェルノブイリ事故の報告書の信憑性に疑問を呈している。例えば、この通りだ。

ソ連はいまだに「炉心溶融は起こらなかった」と言っているが、さきほどのソ連のレポートには、「燃料の一部が下の部屋に溶け落ちている」と自分で書いている。ものは言いようですね。(p25)

この本を、福島第一原発事件以前に読んだことはなかった。しかし、今は…。そう、今にいたってもおこっていることなのである。

ソ連の報告書自体を信用しない広瀬は、むしろ、新聞に出ている情報を、彼なりの分析を行うことで、「事実」を把握しようとする。例えば、北欧で非揮発性のルテニウムなどが検出されたという新聞記事を根拠に、金属であるルテニウムの蒸発温度などを手がかりにして、広瀬は、チェルノブイリ事故で、炉心溶融―メルトダウンが起こっていたと結論づける。

わずかひとつの記事、「北欧でルテニウムなどが大量に検出された」という事実から、これだけの壮大な現実が透視できることを、知っておいてください。(p25)

その上で、彼は、チェルノブイリ事故におけるソ連やIAEAの情報操作について、このように指摘している。

ソ連が八月にIAEAに提出したレポートは、どこから解析しても嘘また嘘ですね。なぜこれほど嘘をつかねばならないか。ここで私の意見をひとこと述べさせていただきますが、報告書を書いたのはソ連でなく、IAEAが書かせたに違いありません。
(中略)
すべて嘘なのです。実はそれまで正常だった原子炉がいきなり異常になると、わずか四秒で爆発してしまった。一、二、三、四、ドカン。これでは全世界のいかなる緊急安全装置も爆発を防ぐことができない。アメリカだろうと日本だろうと、再びチェルノブイリと同じ大爆発を起こすという現実が暴露されてしまった。これは全世界の原子力産業にとってきわめて具合が悪い。そこでとんでもない“実験のシナリオ”を作り、「お前はこう言え」とソ連にレポートを書かせた。(p37~41)

そして、その情報操作の結果について、広瀬隆は、このように主張している。

学者の多くが、このレポートを中心に論争をたたかわせています。IAEAの思う壺ではないですか。(p43)

科学史家の吉岡斉は『新版 原子力の社会史』(2011年)の中で、広瀬の指摘を先見の明のあふれるものとし、現在まで基本的に反証されていないものとしている。ここでは、あまりふれないが、広瀬隆の指摘について、ある意味では「学術的な」ソ連の報告書に依拠しない非科学的なものであり「嘘」なのだという批判がなされたことがある。たぶん、私自身ならば、ソ連による「情報操作」それ自体を「実証」する史料が提示されていないと批判するかもしれない。

しかし、広瀬の主張は、少なくとも、合理的な推論もしくは仮説であり、「嘘」とはいえない。そして、すべての史料がその時点で手に入らないならば、その時点で入手可能な史料に基づいて結論をだし、その結論によって行動するということが必要であろう。そして、彼の推論もしくは仮説をふまえつつ、いわゆる専門的研究者は事後的に分析すればよいのではないだろうか。

たぶんに「学術的な」体裁をもつ報告書に依拠して議論するしかない、いわゆる科学者たちの「存在根拠」を、広瀬は厳しく追及しているともいえるのである。

さて、広瀬は、原発の放射性物質による汚染の深刻さをこのように指摘している。

 

チェルノブイリの事故は終った、もうソ連やヨーロッパでは正常な生活に戻っている、と皆さんは思っているでしょう。とんでもない。たった今、ヨーロッパ全土で莫大な数の人たちが、この被害に巻きこまれはじめたところです。食べ物のなかに、たとえば牛肉などにぞくぞくと危険なセシウムが入りはじめ、いよいよ逃げられない所まで大汚染が広がってきたのです。さあ、これから何が起こるでしょう。これについて、過去の悲しい人類の体験から、おそろしい未来を推理することができます。(p10)

 彼にとっては、核戦争という「将来の危機」だけでなく、「原発」による放射性物質の汚染という現実的危機に対応しなくてはならないということを「原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。」という卓抜なレトリックでこのように表現している。

多くの人が反核運動に情熱を燃やし、しかもこの人たちは大部分が原子力発電を放任している。奇妙ですね。核兵器のボタンを押すか押さないか、これについては今後、人類に選択の希望が残されている。ところが原子炉のなかでは、すでに数十年前にボタンを押していたことに、私たちは気づかなかったわけです。原子炉のなかで静かに核戦争が行われてきた。いまやその容れ物が地球の全土でこわれはじめ、爆発の時代に突入しました。爆発して出てくるものが深刻です。(p54~55)

特に、彼は、放射性ヨウ素による甲状腺障害について、ビキニ環礁の事例をあげて説明し、チェルノブイリ事故においても甲状腺がんが多発することを「警告」した。

南太平洋のビキニ海域で核実験がおこなわれ、その一帯に住んでいた人のほとんどが甲状腺に障害を持っている。この住民を追跡してきた写真家の豊崎博光さんと先日会って話を聞いたのですが、この人たちがヨード剤を飲んでいたというのです。危険なヨウ素を体内に取りこむ前に、ヨード剤を飲んで体のなかをヨウ素で一杯にしておけば、危険なものは入りこみにくい、という原理ですね。ところが、それが効かなかった。つまりチェルノブイリやヨーロッパの子どもたちには、間違いなく甲状腺のガンがすさまじい勢いで発生する。もうすでに、兆候は出はじめているでしょう。(p60~61)

これは、いやなことだが、広瀬の「警告」通りとなった。ヨーロッパ全土ではないにせよ、チェルノブイリ周辺で甲状腺ガンが多発したこと、これは、現在は周知のことである。しかし、以前、本ブログで、児玉龍彦『内部被曝の真実』(2011年)において、そのことを実証するのに20年かかり、それから対処していたのでは患者の役に立てないと指摘していたことを紹介した。このように、広瀬のいう「警告」を「実証」するのは、そう簡単なことではないのである。

特に、彼が強調していたことは、放射性物質の摂取による内部被曝の危険性である。

プルトニウムの出す放射線は遠くまで飛びません。ということは逆にいいますと、近くにある細胞だけに全エネルギーを集中し、完全破壊してここに完全なガン細胞をつくる。これがプルトニウムのおそろしさです。そのガン細胞が幾つかできると、それが知らないうちにだんだん増殖してゆき、もちろんすぐに明日にも肺ガンになるわけではありません。何年かたってこのガン細胞が増殖します。そしてある日気がついたときには肺ガンに襲われて息もできない。しかもその因果関係はとうてい実証できないというような形で苦悶するわけです。まさに当局にとっては、何人殺そうが“安全”な基準ではありませんか。(p64~65)

この内部被曝は、現在、日本にいる多くの人たちが懸念していることである。しかし、ここで、広瀬がいっているように、その多くは「実証」されていない。ある意味では、かなり明確にみえた放射性ヨウ素と甲状腺がんの因果関係ですらも、「実証」するのに20年かかったのである。そして「実証」のないことは、それそのものが存在しないことになってしまうのである。結局、「実証」の欠如は対策の欠如を「正当化」する根拠になっていく。

その上で、広瀬隆は、日本の原発の危険性を強く主張する。「メルトダウンが起こってから、すべての事実に気づき、泣き叫ぶでしょう。」-私たちがいま経験していることである。

日本の技術は世界一、という話が通り相場になっていますが、これは壮大なトリックです。…メルトダウンが起こってから、すべての事実に気づき、泣き叫ぶでしょう。最初に申し上げておきます。日本の原発は、この数年以内に大惨事を起こします。いま最高の技術によって運転されているのではなく、いよいよ部品が寿命に近づき、危険な時代に突入しているのです。私たちが、たまたま生きているにすぎないことを、具体的に証明してみます。(p10~11)

 

彼は、茨城県にある東海原発が爆発したことを想定して、このように書いている。

 

レポートに書かれている“最も平均的な風速―毎秒七メートル”で計算すると、この絵で示したように放射能の雲はわずか五時間で都心の上空に姿を現わし、ガンマ線がすべての物を射抜いて私たちに襲いかかります。
 こうなると、四百万人どころではない。首都圏だけで三千万人。この人たちが全滅です。全滅と言ってもすぐコロリと死ぬわけではありませんよ。(p182)

その時の死の状況も、想像力豊かな筆致で、このように描き出している。

 

こうして私たちは、大事故のときにはどこへも逃げられず、政府の出してくれる安全宣言を耳にし、それを内心で疑いながら、食料は全滅と知りながらそれを口に入れます。腹が減れば、人間は何でも食べます。子どもを飢え死にさせるわけにゆかない。目の前には食べ物がある。危険と知りつつ食卓に並べる。ひと口食べてみる。すると意外なことに、体には何の異状も起こらない。大丈夫ではないか。なんだ、危ないという話は嘘だったのではないか。こうして食べ、やがて壮絶な未来が待ち受け、病室のなかでもがき苦しみながらバタバタと倒れてゆく。
 皆さんは今、これを空想の物語として聞いていらしゃいます。違うのです。これこそ今、ソ連とヨーロッパで実際に起こりつつある出来事なのです。(p184~185)

本書の最後の部分では、原子力開発をすすめた、世界や日本の財閥について分析している。

最後に、そう、これだけ大変な事実がなぜ隠され、誰がマスコミの口封じをしているのか、その裏の世界を暴露します。これがエネルギー問題や平和利用でないことは、人間と金の流れを追えばすぐに分ります。おそるべき無知な人間が、しかも旧軍閥に直結する人間たちが、われわれを地獄に招こうとしている、そのために欺かれてきた現実が見えてくるでしょう。(p11)

広瀬隆の『危険な話』をどのように評価すべきであろうか。私は、いわば自分自身の問題ではない専門家―非当事者たちの言説ではなく、自身も原発の危険性にさらされているという聴衆―いわば民衆一般と同じ運命をもつ当事者の立場に意識的にたつことを前提にした言説として本書を位置づけておきたい。そして、その観点から、合理的な推論によってソ連の報告書などの欺瞞をあばき、被曝の危険性を「警告」したものといえるだろう。

3.11以降、マスコミの論調でも脱原発の集会・デモにおいても個人的な会話でも、かなり広瀬隆と共通した主張がなされたといえる。政府・東電の情報隠蔽、内部被曝の危険性など、これはすでに広瀬が主張していたものだ。

しかしながら、広瀬の「警告」は、合理的ではあっても、推論・仮説であるといえるのである。ソ連・IAEAの情報隠蔽についても、内部被曝についても、現象的には承知できるのであるが、それを資料的に本書で「実証」しているかといえば、まだ、そうとはいえないように思われる。放射性ヨウ素と甲状腺がんの因果関係についても「実証」するのには20年かかった。広瀬に批判的な人びとからは、単なる不安感の醸成というかもしれない。

しかし、それでは、現実の課題には対処しえないともいえるのである。その意味で、直近の課題に対処するための推論・仮説の重要性を自覚しなくてはならない。現実の民衆がかかえている課題―不安を含めてーを聞き取り、そして、今入手できる資料で推論・仮説をたてながら、とりあえず対処方法を考えていくことの重要性を理解すべきなのだ。その点において、広瀬隆の『危険な話』を評価していかねばならないと思う。

そして、これは、広瀬隆だけの問題ではなく、現に、私たちがかかえている課題なのであることを痛切に自覚していかねばならないだろう。

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前回、歴史研究者鹿野政直氏が、1988年に出版した『「鳥島」は入っているかー歴史意識の現在と歴史学』(岩波書店、現在は『鹿野政直思想史論集』第7巻に収録)において、批判的な意味における「戦後」像の消失に直面しつつ、それを擁護しながら、「戦後」を超えるものとして弱者としての「される側」から強者としての「する側」をうつという認識枠組みを打出したことを述べた。そして、この「される側」の大きな主題として「公害」と「戦争」をあげ、この二つの結束点として「核時代」をみようと鹿野氏は提起した。この枠組みの中で、1986年のチェルノブイリ事故は把握されているということができる。

さて、具体的には、鹿野氏は、彼自身があげている「核時代」の著作からは、どのようなことを読み取ったのであろうか。

まず、挙げているのは、広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(1982年、文芸春秋)である。1982年出版であるが、鹿野氏は1986年出版の文春文庫本で読んでいるので、たぶんにチェルノブイリ事件の衝撃によって、本書を手にとったと想像される。本書は、アメリカのネバタ州で行われていた核実験により、ユタ州の住民やロケに来ていた俳優たちが癌に罹患し、死亡していったことを掘り起こしたものである。鹿野氏は、本書について、このように評価した。

そうしてハリウッドの俳優たちや近在の住民のうちに、いかに癌による死亡者がふえたかを調べあげて、死の灰と癌とのおどろくべき関係を明らかにした。広瀬はいう。「死の灰には、発癌性のほかに、二つの特徴がある。ひとつは、長期性であり、もうひとつは濃縮性である」、われわれの身体は、たとえば「プルトニウムを肺か卵巣に濃縮させ」、「癌細胞の爆発的増殖を生み出」す。しかもわれわれは、「自分が当事者となって渦中にある時には、その深刻さに気づかない」。こう指摘しつつこの本は、「苦悶しつつこの世を去った人びとの霊と/現在・未来を通じてこの問題の渦中に置かれているすべての人びとの貴い生命に」捧げている。

今、この引用文を再読していると、これは、現在の問題であったことに気づかされる。これは、今さかんに議論されていることなのだ。それは、単に専門家―いや、今や信頼にたる専門家はどれほどいるのだろうかーの世界で議論されていることではなく、普通に社会で生きている人びとが日常的に恐怖をまじえて話し合ってことなのだ。このことを、すでに20年以上前から、広瀬隆は警告し、鹿野氏は着目していたのである。

前も言ったのだが、鹿野氏は本書の内容を早稲田大学大学院文学研究科で講義し、私個人も大学院生として聴講していた。今、本書を読んでいると、広瀬隆についてこの時期から着目した鹿野氏の炯眼に今更ながら驚嘆するとともに、自らの盲目さに恥じ入りざるをえない。

個人的な感慨を除いて考えてみても、歴史意識の問題として、広瀬隆を取り上げた最も初期の例ではなかろうか。

次に、「核時代」の著作として鹿野氏がとりあげているのが、田代ヤネス和温の『チェルノブイリの雲の下で』(1987年、技術と人間)である。本書は、直接チェルノブイリ事故の衝撃が、西ドイツ(ベルリン)を襲い、エコロジストと思われる著者が、どのような恐怖と不安にさいなまれ、思索と行動をくりかえしながら、しかしどんな結果しか得られなかったを記した本である。鹿野氏は、まず「放射能の雲が著者の住むベルリンの上空に達したとき、田代は『未来の世代』への責任を、行動の原点として自覚する。すると、いろいろなことがみえてくる」と述べている。

そして、本書から、あまり見解を交えずに、鹿野氏は抜き書きをしている。あまりに、現在の状況と酷似しているので、鹿野氏の抜き書きを、私もそのまま引用しておくことにする。

政治家たちは恐れているのは放射能の害ではなくて、私たち普通の人たちが放射能に恐怖心をもち、原発のような破壊的な科学技術に反対するようになることを恐れているのだ。

五月の雨は子どもを大きくするからと
母はわたしを外で遊ばせた
五月の雨は子どもを病気にするからと
私は娘を外に出さない
果物と野菜は健康だからと
母はわたしにサラダとイチゴをあたえた
果物と野菜は毒だからと
わたしは娘に冷凍食品と缶詰をあたえる

チェルノブイリの雲はいくつも国境を越えてやってきた。不安感に人種や国籍のちがいなどもちろん関係はない。不安と恐怖で結ばれた新しい国際共同体は、伝統的ないわゆる「連帯」と呼ばれるものとはちがう。人類の滅亡のヴィジョンを前にして、私たちひとりびとりの相互類似性、生きようとする裸の人間としての感性を基盤とした共同体が生まれた(中略)。人間の種としての共同体を遠望する日々であったともいえる。

ナチズムの過去をもつドイツで、若者はその時代を生きた親たちに、なぜあなた方は抵抗しなかったのかと問い質した(中略)。チェルノブイリの雲の下でミルクを飲んでいた幼児たち、また母親の胎内にいた者たちが、将来もし放射能による後遺症に苦しめられるとき、かれらは私たちに同じように問い質すことだろう。「私たちの体がこうなるのを防ぐために、あなたたちは何をしてくれたのですか」と。

チェルノブイリの放射能が私たちの日常にある日突然入りこんできたことは、私たちにとっていわば新しい時代の体験であった。私たちが現に生存しているこの世界が、もはや「純潔」ではあり得ないこと、世界は最終的破局を目前にしているのではなくて、すでに破局のただ中にあることがはっきりと示されたのだ。

これらは、2011年7月17日現在の福島や東京で書かれたものではない、ほぼ25年前、しかもチェルノブイリからかなり離れているはずのベルリンで書かれたのだ。しかし、これらの言葉は、全く、今のことを書かれているようにみえる。この既視感は、今私を打ちのめす。

2011年7月17日現在、放射性物質が付着したわらを食べさせた牛が放射能に汚染されたことがさかんに報じられている。もはや、どこにも、「純潔」なところなんてないのだ。

チェルノブイリ事故はさかんに報じられた。しかし、どれほど自分の身に起きるかもしれないことと考えた人がいたであろうか。鹿野氏は、まさに想像力の眼で、本書をみて、今日を予見するかのような文章を抜き書きしたのだ。

さらに、鹿野氏は、田代の思考が「ヒロシマ」にむかっていくことに着目している。以下の抜き書きがそれを示している。

ヒロシマ、それは生命の深部への切りこみであり、仮借のない攻撃であった。ヒロシマに始まった時代の意味、死者たちを含む被爆者たちからのメッセージは、いまになって思えば、ほんの少数の人たちにしか理解されていなかった。

至難のことであろうが、はてしなくシンドイことであるかもしれないが、ヒロシマの体験を共有化することがカギになる。それを避けて通ろうとする限り、私たちはあの強力な生物的本能、つまり「何ごともなかったかのような日常世界への復帰」の欲求から自由になることはできない。

また、多くの文章を費やしてしまった。次回以降、鹿野氏が、最終的にはどのような形で、チェルノブイリの問題を展望したのかということを記しておきたい。

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この前、歴史研究者の会合に出席した際、歴史研究者は同時代の災害や原発事故をどのようにみてきたのかということが話題になった。その時、確か、近代史研究者である鹿野政直氏の『「鳥島」は入っているかー歴史意識の現在と歴史学』(1988年、岩波書店。現在は『鹿野政直思想史論集』第7巻、2008年、岩波書店に所収)に広瀬隆などに言及していたことを思い出した。

帰宅して、『「鳥島」は入っているか』をひもといてみた。本書は、戦後歴史学における歴史認識と、本書の同時代である1970-1980年代の一般社会における歴史認識を対比して論じたものである。本書において、チェルノブイリ事故など契機とした広瀬隆などへの言及があるのは、四章構成の第二章「Ⅱ、『戦後』意識の現在」の第四節「4『戦後』意識のかなたに」である。下記に、第二章の章立てを示しておく。

Ⅱ「戦後」意識の現在
1批判としての「戦後」的日本史像の提示
2自己肯定としての「戦後」的日本史像へ
3「戦後」意識の終焉
4「戦後」意識のかなたに

今回のブログでは、この著作において、1986年におきたチェルノブイリ事故をどのように歴史研究者鹿野政直氏が受け止めたのかという点にしぼって検討してみることにする。もはや、これも歴史であり…いや歴史研究者が参照すべき歴史だと思う。そして、同時代にこの事故を受け止めたのかということは、特に歴史研究者でない人たちにとっても重要なことだと思う。

まず、どのような認識枠組みの上で、鹿野氏がチェルノブイリ事故を受け止めたのかを考えてみよう。この第二章では、第一節で、戦後歴史学が戦前への批判を基調とした戦後的日本史像を提示してきたことを述べた。しかし、高度経済成長以降、例えば司馬遼太郎のような戦後日本を自己肯定するような歴史認識がうまれ(第二節)、戦前への批判を基調とするような戦後像が消滅していった(第三節)と論じた。

このような中で、現実との緊張関係を有する歴史認識が成立する可能性はあるのかーこれが、第四節「4『戦後意識』のかなた」のテーマといえる。

鹿野氏は、まず第四節の冒頭で、このように1970-1980年代の歴史意識を概括した。

1970年代から1980年代をつうじて、こうして日本は“強者”としての自己を確立してゆき、それにともなって日本人は、ガリヴァ―的感覚にしだいに馴らされていった。物神崇拝と国家崇拝の精神は、かなりの程度にまでわたくしたちを浸している。

しかし、鹿野氏は、逆に、強者としての「日本」の対極にあるものもまた顕在化してきたというのである。

けれども日本のこうした“達成”は、その“達成”の対極にあるものを顕在化させずにおかなかった。それまで日本人の基本矛盾の意識は、文明の達成をめざすがゆえの歪み是正の感覚に根ざしていたといってよい。70年代になってからのそれは、文明をひとまず実現したゆえの、あらたな局面の解決をめざす方向で立ちあらわれてきた。少数の“異端”者の場合をのぞいて、ひたすらに価値でありつづけた「近代」が、「反近代」の旗幟によって衝撃的に反価値とされ、そのことをつうじて相対化されていったのは、そうした状況を典型的に示していた。

鹿野氏の場合、文明を問い直そうという姿勢は、ヴェトナム戦争を通じて現れてきたという。文明の残酷さと、文明の論理が万能ではないことを共に示したものがヴェトナム戦争であったとした。そして、本多勝一の『殺される側の論理』(1971年、朝日新聞社)を援用しつつ、日本がまきこまれようとしていた強者つまり「する側」の対極に、弱者としての「される側」を発見したのであった。ここで「される側」という認識枠組みを、鹿野氏は提示したということができる。

「される側」の論理について、鹿野氏は、このように述べている。

それを(ヴェトナム戦争)を契機として日本人は、「される側」という視点を獲得し、70年代をつうじてこの用語は、しだいに日常生活のなかに定着していった。それはいうところの“弱者”への視野の拡大であるとともに、彼らが“弱者”であるゆえに獲得している“強者”=文明をこえる立場の発見を意味した。
そこには、歴史を視る眼というもののひそやかな移動が、たしかにあった。そうしてそのような眼で日本をみるとき、繁栄する像の反面に増大する格差が浮上してきて、いずれがポジでいずれがネガか、また、いずれが実像でいずれが虚像かが、避けがたく問われはじめることにもなった。それは「戦後」ゆえに出現してきて、「戦前」とは異なるという意味での「戦後」の擁護にこだわり抜きつつ、しかも「戦後」を超えようとの志向に支えられていた歴史意識ということができよう。

鹿野氏は、「される側」の造形は、とりわけ「公害」という主題と「戦争」という主題に即して行われたと述べた。「公害」については「高度経済成長という『戦後』の達成ゆえに、その反面として浮上せざるをえなかった主題であり」、「戦争」については「大国化ゆえに忘却のかなたへと押しやられつつある『戦後』の初心を再構築しようと意識されてきた主題であった」と鹿野氏は論じたのである。

これ以降、「公害」の問題について、「戦争」の問題について、この時代の論調を紹介しつつ、思索が深められていくが、ここでは、残念ながら、割愛せざるをえない。

そして、「公害」と「戦争」の問題を論じた上で、鹿野氏は次のように提起した。

…その意味で前者(公害)は、自然的存在としての生命への加害であり、後者(戦争)は、社会的存在としての生命への加害であった…そうした点で両者は別個のものではなく、相互浸透的な関係において捉えられる。そのように「公害」×「戦争」の視野がひらかれるとき、それにもっともふさわしい主題「核時代にどう向かいあうか」、「核時代をどう生きるか」が、否応なく立ちあらわれてくる。しかもその場合、加害行為は加害者自身にも降りかかるうえ、加害の程度は、破壊の域を超えて抹殺にいたる。

このように、「される側」の主要な二つの主題である「公害」と「戦争」を結束点として、鹿野氏は「核時代」をあげているのである。その意味で、最重要な意義を「核時代」に与えているといえよう。

「核時代」について、鹿野氏は、まず最初に、広島・長崎の被爆体験の普遍化と核兵器の廃絶運動をとりあげている。しかし、そればかりではない。鹿野氏は、それに続いて、このように述べた。

けれどもこのような運動のひろがり・多彩化や認識の深まりは、原水爆時代の危機の深刻化の、盾の反面でしかなかった。核保有国ことに米ソ両国における核兵器開発競争は、世界世論の非難を浴びつつも持続し、また原子力は、兵器としてだけでなく、一つのエネルギーとして日常性に深く入りこむにいたった。そうした状況は、いまや人類が、火薬庫の上でも舞踏にもひとしい境域におかれているとの意識を生じさせた。そんな意識にもとづく著作として、わたくしには、広瀬隆『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(文芸春秋、1982年、ここでは86年刊の「文春文庫」本による)、田代ヤネス和温『チェルノブイリの雲の下で』(技術と人間、1987年)、芝田進午『核時代』Ⅰ「思想と展望」、同Ⅱ「文化と芸術」(青木書店、1987年)が印象深かった。

このように、鹿野氏にとって、前述したように「核時代」は、戦後の初心を擁護しつつ戦後をこえようとする「される側」の「公害」と「戦争」という二つの主題を統合するものであった。逆にいえば、「される側」という認識枠組みがあればこそ、チェルノブイリ事故の問題を、歴史学の問題として言語化できたともいえるのではなかろうか。

 やや、長くなってしまったので、次回以降のブログにおいて、鹿野氏が、ここであげた著作から何を読み取り、どのような結論に達したのかをみていきたい。

付記:鹿野政直氏は、大学院時代の恩師である。その上、この本の内容については、大学院時代に授業として講義を受けている。ただ、ここでは懐旧談をするつもりがないので、失礼ながら、敬称を「氏」とした。また、ここで記している内容も、大学院時代の授業の内容ではなく、2011年7月時点においての私の感想を述べている。

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